※2023.09.11改題(旧題:【サッカー日本代表のレベルが変わった試合の歴史】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.09.12改題(旧題:【サッカー日本代表が新たな次元に突入した試合を振り返る】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.10.22改題(旧題:【まだ途上:サッカー日本代表が史上最強になるまで】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)

【日本代表】ドイツに4-1快勝!伊東、上田、浅野、田中がゴール!初のW杯優勝経験国に2連勝(2023年9月10日(日) 5:36)

<国際親善試合:ドイツ1-4日本>◇9日(日本時間10日)◇フォルクスワーゲン・アレーナ
日本代表(2023.09.10)その2
 サッカー日本代表(FIFAランキング20位)がドイツ代表(同15位)と対戦し、FIFAワールドカップ(W杯)優勝経験国に対しては日本史上初となる2連勝を成し遂げた。

昨年11月のW杯カタール大会1次リーグ初戦に続く4-1で返り討ちにした。伊東純也、上田綺世、浅野拓磨、田中碧が決めた。途中出場の久保建英も2アシストした。

森保一監督(55)は「選手もスタッフも厳しい試合になると覚悟した上で準備を日々やってこられて良かった。高い目標を持ちながらチームを積み上げていること、準備期間の中でやれたこと、勝利は別としてチャレンジできたことがすごく良かったかなと思います」と納得した。

先発はGKに大迫敬介、DFラインは左から伊藤洋輝、板倉滉、冨安健洋、菅原由勢。2ボランチはリバプール遠藤航と守田英正が組んだ。2列目は右に伊東純也が入り、トップ下に鎌田大地、左に三笘薫。1トップに上田綺世を置く4-2-3-1の陣形でスタートした。

開始から出足鋭いプレスとコンパクトな守備で、ドイツの攻め上がりを許さない。完全敵地でペースを握ると、前半11分に伊東がいきなり先制した。菅原の右からの高速クロスにニアサイドへ走り込み、レアル・マドリードDFリュディガーの鼻先で合わせ、右足ワンタッチで流し込んだ。

その8分後にドイツFWサネに同点弾を許したが、わずか3分後の22分に上田のゴールで勝ち越した。

再び菅原の右クロスに伊東が右足で合わせる。これはミートできず、こぼれたが、そのボールを上田が左足ダイレクトで合わせた。急にボールが来ても決める嗅覚にSNSも興奮となった。

ドイツは自国で、まだサポーターが格下と見ているだろう日本を相手に、連敗など許されない。その中で反対に森保ジャパンが、リードだけでなく複数回の決定機を決め切る展開となった。センターバックでは初の先発コンビ結成となった冨安と板倉も奮戦。前半終了時には、スタジアム内にドイツ代表に対する猛烈なブーイングが響く異様な空気に包まれた。

後半に入ると、さらにチャレンジした。守備時に三笘がウイングバックに下がる3バックに布陣を変更。前半、右サイドから攻め込んできたサネを抑えにかかった。13分には上田に代えてFW浅野拓磨、鎌田に代えてDF谷口彰悟を投入。昨冬W杯で決勝点を挙げたジャガーも登場した。20分には、その浅野がロングパスに抜け出して1対1の決定機。GKテアステーゲンの好セーブに防がれたものの、ゴールに迫り続けた。

28分には、ドイツで現役最多122試合目の出場となったFWミュラーが送り込まれたが、日本が追加点を許さず。後半終了間際には浅野、田中碧が追加点。久保建英の2アシストだった。W杯で「ドーハの歓喜」と呼ばれた歴史的金星を挙げた日本が、今度は敵地でW杯優勝4度の強豪に真っ向勝負を挑み、勝ち切った。W杯制覇国からの連勝は日本サッカー史上初の快挙となった。

森保監督「3バックだけでなく可変で、難しい戦術変更の中でも選手たちがこなしてくれたと思います。いい守備からいい攻撃を忘れることなく、守備の強度を高くやってくれました。日本で応援してくださった皆さん、早朝からの応援が力になりました。スタジアムの日本の皆さんとも喜びを共有できてうれしいです」

伊東「(菅原)由勢からニアにボール来るかなと思って、うまく触ってゴールになって良かったと思います。うまく連携の中から裏に抜け出してクロスに行く場面が多かった」

上田「はね返りを詰めた形でしたけど、常に準備していたので取れたゴールだと思います。もう2つ自分なりに決めなければいけない場面があったので課題はありましたけど、初めて日本代表に貢献できたんじゃないかなと思います、多少」

冨安「まずはしっかりと勝てたことは大きいですし、ゲームをうまく進める。追加点は取りに行くよ、という指示は森保さんから出ていたので、後半3点目、4点目も取れて、狙い通りの戦いはできたんじゃないかなと思います。W杯とは違った勝利。次につながる。もっともっと期待してほしいですし、次の3年後のW杯でベスト8の壁を破っていきたい」


【セルジオ越後】ブラボーだね! 日本はW杯より成長していた ドイツ監督は解雇されるだろうな(2023年9月10日(日) 6:50配信)

日本代表(2023.09.10)その1
 情報戦の勝利だね。相手左サイドバックはボロボロだった。その情報が事前に入ったから、日本は右MF伊東、DF菅原が集中的に攻めて、前半2得点。後半もMF久保がそのサイドから2アシストと、4点すべてが日本の右サイドから生まれた。それを修正できなかった相手監督は解雇されるだろうな。

日本はW杯の時より間違いなく成長していた。前半は互角以上に戦ってリードして、後半5バックに変えたのは、何かを試す狙いではなく単純に勝ちたかったからだと思う。その戦術がはまってカウンターも決まった。一方で、ドイツの衰退時代はしばらく続くね。足元ばかりで、裏が取れない。選手層が薄いし、点が取れるFWもいなかった。

日本は、システマチックに戦う欧州チームには対抗できることが証明された。今後の課題は南米のチームだ。W杯でベスト8の壁を越えるには、南米勢にも勝たないといけない。欧州は戦術で得点を狙うが、南米は個人で突破してくる。

この日、唯一苦しんだのも、MFサネの個人突破だからね。サネのような選手は南米に何人もいる。日本が苦手とする相手をどう克服するか。今回はドイツに完全アウェーで勝ったが、南米勢との完全アウェー戦は過去3戦全敗、通算0得点8失点だ。次のステージに上がるためには、克服してほしい。

今回の欧州遠征で日本はドイツ、トルコと、普段はあまり組めない欧州勢と2試合を組んだ。今後、欧州遠征時には南米の強豪とのマッチメークを考える必要がある。ほとんどの選手が欧州でプレーしているので体調もいいはず。3月に日本へ呼んだウルグアイ、コロンビアはコンディションがあまり良くなかったが、それでも日本は勝てなかった。

アルゼンチンやブラジルと欧州で試合を組めば、何十億円もの金がかかるのだろう。だが、それこそ「新しい景色」への投資だ。3年後のW杯(FIFAワールドカップ北中米大会)で必ず返ってくる。日本サッカー協会(JFA)は今、経済的に苦しいかもしれない。それでも極端な言い方をすれば、その投資ができるか、できないかでW杯の成績が決まると思う。

とにかく今日はドイツに勝って、早起きしたかいがあったね。試合後、選手は誰も言わなかったけれど「ブラボー」だったよ。(日刊スポーツ評論家)


「本当に素晴らしい」 本田圭佑、ドイツに4発快勝の森保ジャパンを祝福「日本は次のレベルに達したと思う」(2023年9月10日(日) 8:00配信)

日本代表(2023.09.10)その3
 森保一監督率いる日本代表は、現地時間9月9日(日本時間10日未明)に敵地ヴォルフスブルクで行われた強豪ドイツ代表との国際親善試合で、4-1と完勝した。ワールドカップ(W杯)出場3回を誇るMF本田圭佑は、自身の公式X(旧ツイッター)で「日本は次のレベルに達したと思う」と綴った。

カタールW杯のグループリーグで対戦し、日本が2-1とドイツを撃破。それ以来の再戦となったなか、MF伊東純也とFW上田綺世のゴールで前半を2-1で折り返し、後半には途中出場のFW浅野拓磨とMF田中碧もゴールを奪い、日本が4-1と完勝した。

直近の対戦では2連勝、通算の対戦成績でも日本は2勝1分1敗と勝ち越した。試合後に本田は自身の公式Xで「日本は昨年のW杯からドイツ相手に連勝。本当に素晴らしい! 日本は次のレベルに達したと思う。おめでとう、日本」と祝福のメッセージを送っていた。

1993年5月15日に日本でのプロリーグ『Jリーグ』が開幕しました。その前身である日本サッカーリーグから長くサッカーを見てきました。

プロリーグが出来て、念願だったW杯に初めて出場、2002年には日本でW杯が開催されて、W杯に出るのが当たり前のようになって、今では強くなったことでW杯予選がつまらなくなってしまって、W杯でベスト16に進まないと失敗みたいな、ベスト8、そしてW杯優勝というのが目標になりました。

それでも・・・結局ドイツには負けるんだろうなって思っていました。

朝3時に起きました。そしてTVを点けましたが、ドイツが2点とったところで寝ようと思っていました。

相手チームの状況が悪い?監督の采配が悪くて解任論がでている?直前の2試合は負けている?・・・いやいや、そんなの関係ありません。だって、あのサッカー大国、W杯優勝4回のドイツですよ。

2022年W杯では相手が油断していたから奇跡的に勝てたものの(試合全体のボール支配率はドイツが65%、日本は24%。パス本数もドイツが820本のうち743本を通して日本ゴールに迫ったのに対し、日本は3分の1の261本)、本気で立ち向かってきたならば、こんな大国に勝てるわけが無い・・・。

でも、今の日本の若き代表選手は、きっとそんなこと誰も思って無かったのですね。

本当にサッカーは時代が変わりました。どんな大きな試合よりも、この親善試合では、それを衝撃と共に感じたのです。

朝3時でドイツに2点とられたら、すぐに寝ようと思っていたのですが、日本代表のプレーに魅了されて90分間見てしまいました。

本田圭祐さんの『日本は次のレベルに達したと思う』というのが、昔からの日本代表を見ているミーハーなサッカーファンの感じたことだと思います。

古くから見ているミーハーなサッカーファンでも、『次にレベルに達したと思う』というきっかけは肌で感じます。そんなきっかけとなった試合をご紹介します。

1985年FIFAメキシコW杯アジア最終予選(韓国戦)・・・プロ化に向けて
1985年10月26日、メキシコW杯アジア予選が、1993年『Jリーグ』のプロ化される前に最もW杯に近づいた予選でした。当時のW杯のアジア出場枠はわずか2ヶ国でして、1枚はイラクが出場権を勝ち取っており、残る1枚を日本と韓国のホーム&アウェイによる最終決戦だったのです。

この韓国戦に勝てば初の本大会出場でした。しかし、1985年10月26日の国立競技場での第1戦は、韓国に2点先行された前半43分に、FKのチャンスをゴール正面約25メートルでえます。FKの名手・10番 木村和司が右足でカーブをかけたボールはゴール左上隅に吸い込まれました。この時は歓喜に沸く国立競技場でした。だが、あと1点が遠かったのです。FKが直接決まって1点差に迫ったものの1ー2黒星でした。
メキシコW杯韓国戦FK決めた
1985年11月3日のアウェー第2戦も0ー1で敗れ、悲願を逃したのです。W杯出場の夢をかなえるために、日本はその後、12年の月日を費やしたのです。

それまで日本では「W杯は欧米のプロ選手が出場する大会。プロがない日本にW杯は夢舞台で五輪が現実的な目標」でした。W杯はフランスのプラティニ、ブラジルのジーコ、アルゼンチンのマラドーナなどのスーパースター含めてTVで見るものでしたが、あと一歩で手が届くところまで来たことは大きかったW杯予選でした。

この試合には、6万2000人の観衆が詰めかけました。当時はまだまだマイナーであったサッカーが、これほどまで大歓声を受けたのは初めてでした。日本サッカーの大一番に日本中が盛り上がったが、夢はかなわいませんでした。新聞の紙面には「W杯へ日本手痛い黒星」「62000観衆絶叫、タメ息」など厳しい見出しが躍りました。

そして敗れはしたものの、日本代表の強化を本気で考える機運が生まれたのです。韓国は一足早く1983年にプロリーグ(Kリーグ)をつくり選手を強化していました。プロとアマの差は大きく「日本でもプロを」の声が次第に大きくなったのです。

森孝慈監督は「これからが、我々の真価を発揮するときだ」と言っていたが、雪辱を期した第2戦も敗れましたし、石井義信監督が率いた2年後のソウル五輪もあと一歩で中国に敗れました。しかしながら、敗れたことが逆にプロ化の機運を一気に高めたのです。

1992年AFCアジアカップ広島大会・・・アジアで初めて頂点に!
まだ、1993年に『Jリーグ』がプロ化される前年の大会です。

AFCアジアカップ1992広島大会は、1992年10月29日から11月8日まで日本の広島県で開催された10回目のAFCアジアカップでした。この大会の開催国である日本は2大会連続2回目の出場にして初めてフル編成のA代表で参加し、初優勝に輝いたのです。

日本代表は翌年の1994年アメリカ・ワールドカップ(W杯)出場を目指し、1992年3月に史上初の外国人監督としてハンス・オフト氏が就任しました。

日本代表はタレント揃いで、三浦知良、中山雅史、高木拓也、北沢豪、福田正博、ラモス瑠偉、柱谷幸一、都並敏史などヴェルディ川崎(1993年のJリーグ開幕時のチーム名称、現東京ヴェルディ1969)中心のメンバーに2023年日本代表監督の森保一もおりました。

1992年8月には韓国、中国、北朝鮮と争ったダイナスティカップで初優勝を飾るなど、成果が表れつつありました。そんな中、1992年10月末から11月にかけて広島でアジアカップが開催されました。

日本の報道陣はこぞって好成績を期待したが、オフト監督は「私の仕事と、われわれの目標は、来年のW杯予選」と語り、この大会も「W杯予選へのプロセス」と言い続け、チーム強化の一環という姿勢を崩していませんでした。

決勝の相手は大会2連覇中で、当時アジア最強と目されていたサウジアラビアです。日本は中国戦で退場処分を受けた松永に加え、中盤の要だった森保一も警告累積で出場停止でした。

そうするうちに前半37分、左サイドで都並敏史からパスを受けたカズがセンタリング。これを高木琢也が胸トラップから、落ち際を左足ボレーで合わせて先制しました。

後半は追加点こそ奪えなかったものの、そのまま1-0でタイムアップを迎え、ついにアジアの頂点に立ちました。
1992年アジアカップ広島大会
試合後、柱谷は「気が付いたら決勝に来て、優勝していた」と、無心での戦いだったと振り返っていました。オフト監督が語った「W杯予選へのプロセス」という意識の影響もあったでしょうが、貴重な経験に加えて結果も出るという、収穫の多い大会となりました。

当初は広島県内でも、大会が行なわれていることを知らない人がいたほどでしたが、決勝は5万人の大観衆で埋まり、日本中の注目を集めました。翌年(1993年)5月の『Jリーグ』開幕を控えていた日本サッカー界が、現在まで続く新しい時代の扉を開いた初優勝でした。

1994年FIFAアメリカW杯アジア最終予選『ドーハの悲劇』
1993年に『Jリーグ』がプロ化されてから初めて臨んだW杯予選でした。

最終予選が独特で、進出した6チームが、カタール・ドーハでの集中開催方式で1順の総当たり戦を行う。上位2チームが本大会出場権を得るものでした。要は一発勝負だったんです。

1992年のアジアカップ広島大会の優勝や1993年に開幕したプロリーグ『Jリーグ』の開幕で、サッカーファンのみならず世間的にも『W杯に行ける(かも)』と注目度は高く、もうマイナーとは呼ばせないというところまできました。
ドーハの悲劇その1
そんな期待を抱いていた1993年10月15日の初戦のサウジアラビア戦は0-0引き分け、次の1993年10月18日のイラン戦は1-2で敗戦となり、いきなりW杯出場が崖っぷちのピンチとなります。

しかしながら、ここからが不屈の精神で、北朝鮮戦で3-0の勝利、そしてなんと韓国戦を1-0の勝利でW杯出場を手繰り寄せます。
1994年W杯第5戦前の第4戦までの勝ち点
最終第5戦前は日本とサウジアラビアが勝ち点5で、この2ヶ国が出場権内にいたのです。しかしながら、3位の韓国から5位のイランまで勝ち点4点ですので僅差となっており予断は許しません。

第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきましたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催されました。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送りました。

試合は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知良がヘディングで押し込み、日本が早々と先制します(1-0)。前半は1-0のまま終了しました。

他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』で、このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなります。

後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いつきました。他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となります。

イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず、逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドポジションぎりぎりから中山が右角にシュートを決めて、2-1と勝ち越しに成功した。

89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイド(バックスタンド側)からコーナーキックのチャンスを得ると、このキック前に90分を経過してロスタイムに突入します。

ここでキッカーのライス・フセイン=シハーブはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。

意表を突かれた日本は三浦知良が対応しますが、ハラフ・ムフシンに振り切られセンタリングを上げられます。これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となりました(90分17秒)。

イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込みました。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審の セルジュ・ムーメンターラー(スイス)の笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となりました。
ドーハの悲劇その2
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は下表の通りとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得し、得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃しました。
ドーハの悲劇第5戦後の勝ち点
「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれました(韓国では『ドーハの歓喜』)。

1993年10月28日は後に日本サッカー史上最大の悲劇として語り継がれてきた「ドーハの悲劇」が起きた日になりました。ただし、この失敗があるからこそ、日本はアジアサッカーのリーダーとしての地位を確立しています。

TVで次のフランスW杯アジア予選途中と本選の監督に就任した岡田武史監督が言っていた言葉を、今でも覚えています。

『今の日本のチームは、アジアで戦えば10回中、5回は勝っていけるチームです。ただ、今初めて5回勝てるチームになったんですよね。』

『今まで、僕らのときは3回しか勝てないチームが何とか出ようとしたんですけど、今ようやく同じレベルになって初めて同じレベルになっていきなり出ようとは甘いよと。』

『ワールドカップはそんな簡単なものではないよ。今はじめて同じレベルになったんだろ。その中で運があったりなかったり、いろんなことがあってでてくる。なんか言われている気がしましたけど。』

『ここまで5回勝てる力まできているのは間違いないです。今回出れなかったんですけど、ここまでオフトはじめ彼らが5回勝てるところまでもってきて、最後の最後で運がなかったというか、でも我々はこれから次に向かってやっていかないといけないと思うんですよね。また3回の世界におとしてはいけないんですよね。僕らだけでなく、カタールまで応援、日本で応援している方と一緒になって次のフランスに向けてしなくてはいけない。』

『きっとね、W杯は今日の日本のプレーヤーが力がなかったというわけではなかったんですよ。イラクが上ではないんですよ。同じ力だったんだけど、W杯に出た国と1回も出なかった国の差なんですよ。きっと。』

『ようやく同じレベルになれたんだから。次はきっと。きっと出れるように・・・。』

1998年FIFAフランスW杯アジア最終予選『ジョホールバルの歓喜』
FIFAワールドカップ・フランス大会の出場国数は前回アメリカ大会の24から32へと拡大され、アジア地区の出場枠も2から「最大3.5」に増やされました。

アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、A・B各組1位の2ヵ国は本大会出場権を獲得となりました。A・B各組2位の2ヵ国は第3代表決定戦(AFCプレーオフ)を行ない、この勝者が3番目の本大会出場権を獲得。決定戦の敗者はアジア4位(0.5枠)としてオセアニア地区1位(0.5枠)と大陸間プレーオフを行ない、その勝者が本大会出場という方式でありました。

フランスW杯を目指した日本代表にとっては「アジア予選突破」が至上命題でした。なぜなら、すでに2002年大会は日本開催(日韓共催)が決まっていましたが、W杯出場経験のない国が開催国となった例は(第1回、第2回大会を除いて)ひとつもなかったからです。
ジョホールバルの歓喜その1
苦しみ抜いて本大会切符を手にした過去の最終予選でした。とりわけ、初出場を果たした1998年フランス大会の最終予選は、ホーム・日韓戦の逆転負け、加茂周(解説者)監督の解任と岡田武史(FC今治)監督の電撃昇格、自力2位の消滅、イランとの第3代表決定戦(ジョホールバルの歓喜)・・・と、数々の紆余曲折の末に出場権をつかむという奇跡的なものでした。

1997年9月7日に初戦・ウズベキスタン戦は三浦知良の4ゴールなどで6-3の勝利しました。守りの乱れこそ懸念されたものの、白星発進となり、加茂監督らスタッフも胸をなでおろしました。

1997年9月19日のアウェイ・UAE戦(アブダビ)は酷暑でのゲームです。それをスコアレスドローで乗り切ったのは日本にとって、ここまでは悪くない序盤でした。

歯車が狂い始めたのは、1997年9月28日の第3戦・韓国戦(東京・国立)です。汗ばむような陽気の中、後半22分に山口素弘(解説者)の芸術的ループシュートで先制点決まった場面は国立競技場は歓喜の渦でした。

しかしながら、韓国がFWの切り札・金大義を投入した直後、加茂監督は日本国籍を取得してこの試合で代表デビューしたFW呂比須ワグナー下げてDF秋田豊を投入。この守備的采配で日本の勢いが止まり、守りを混乱させる結果となり、そして徐正源と李敏成にゴールを奪われ、1ー2の逆転負けとなりました。

この敗戦を境に中田英寿と名波が報道陣に対して口を閉ざすようになるなど、チームにこれまでにない緊張感が漂いました。

1週間後の1997年10月4日のアウェイ・カザフスタン戦(アルマトイ)で秋田豊の先制点でリードしながらラスト1分のところで追いつかれ、1-1のドローに終わったことで、日本サッカー協会幹部は監督交代を決断し、岡田武史コーチを昇格させました。
ジョホールバルの歓喜その0
Jリーグはおろか、実業団でも指揮を執ったことのない指導者を抜擢するのは常軌を逸していました。それでも日本は新たな一歩を踏み出すしかないほど追い込まれていました。

岡田体制初陣となった1997年10月11日のアウェイ・ウズベキスタン戦(タシケント)は中田英寿や呂比須ワグナーらここまでの主力を外し、森島寛晃と城彰二を先発起用しましたがゴールが遠く、後半31分に失点してしまう苦境に陥りました。

しかし残り1分、後半から出場していた呂比須がロングボールをヘッド。これがDFのミスを誘って幸運な同点弾が生まれます。この1点がなければ、日本は敗退していた可能性もありました。

実際、この時点で日本は勝ち点6の3位。1位・韓国は同13、2位・UAEも7を稼いでいて、自力2位もなくなっており、日本の試合がなかった1997年10月18日にUAEがカザフスタンに勝っていれば、絶望的な状況になるはずでしたが、UAEはカザフスタンに0-3でまさかの敗戦で、1997年10月26日のUAEとの直接対決に勝てば2位再浮上というかすかな希望が見えてきました。

極めて重要となった東京・国立でのUAE戦は、開始3分には呂比須ワグナーが豪快なシュートで先制しましたが、前半のうちに同点に追いつかれます。

特にエースである三浦知良の不調は深刻だった。実は9月の韓国戦で崔英一に徹底マークを受け、尾てい骨骨折のアクシデントに見舞われていましたが、まだ情報が公になっておらず、彼は批判の矢面に立たされ続けていました。

結局、このUAE戦は1ー1のドロー。試合後、スタジアムから出てきた三浦知良が、正門前に陣取ったサポーターから「お前なんかやめちまえ、腹を切れ」と罵倒され、イスを投げつけられるという前代未聞の事件も起きました。

当時を知らない人にしてみれば、日本代表の戦いに人々がここまで一喜一憂したこと自体、信じられないかもしれません。当時の選手たちが凄まじい重圧を感じながら世界への扉をこじ開けようとした事実があります。

3位に沈んだままの日本とは対照的に、韓国はこの時点で1位通過が決定した1997年11月1日のアウェイ・韓国戦(ソウル・蚕室)は彼らにとっては消化試合でした。しかしながら、日本にとっては絶対に勝ち点3を手にしなければならない大一番でした。

試合はモチベーションの差が明白に出まして切迫感を前面に押し出す日本は開始3分、相馬直樹のクロスから名波が先制。後半37分には再び左の相馬の折り返しを呂比須がゴール。2-0とリードを広げました。

後半に入ると韓国ペースになり、金度勲に度重なる決定機を作られる。岡田監督は一歩も引かず、北澤豪に代えて平野孝を起用し「下がって守りたいのを我慢して前へ前へという意識を持たせるようにした」と加茂監督とは正反対の采配を見せました。これで日本は2ヶ月ぶりの勝利、またソウルで13年ぶりの白星を挙げ、やっと長く険しいトンネルを抜け出しました。

三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止となった11月8日のカザフスタン戦(東京・国立)では、代表復帰した中山雅史(沼津)と高木琢也(長崎監督)が爆発し、5-1で圧勝。最終的にUAEをかわして2位を奪回し、11月16日のイランとの第3代表決定戦に進みました。

ジョホールバルのラルキンスタジアムで1枚の切符を手にするためのイランとの第3代表決定戦。三浦知良と中山雅史が2トップが先発し前半40分に中田のスルーパスを受けた中山雅史が先制点を挙げました。

しかし、後半1分、茶番劇を見せたアジジに同点弾を決められ、ダエイにも逆転ゴールを奪わました。そこで岡田監督は2トップの2枚代えを決断。これまで代表戦で一度も途中交代したことのなかった三浦知良と中山雅史を下げ、城と呂比須を同時投入します。

その城が2点目を叩き出し、試合は延長へ。そしてご存知の通り、日本の飛び道具・岡野雅行がゴールデンゴールを挙げ、日本はアジアの壁をついにこじ開けたのです。
ジョホールバルの歓喜その2
ジョホールバルの歓喜その3

1998年フランスW杯本戦『第1戦:アルゼンチン戦』
1998年FIFAワールドカップ・フランス大会。本大会初出場を果たしたサッカー日本代表は初戦でアルゼンチン代表と激突し、世界を知ることとなりました。
フランスW杯本戦
記念すべきサッカー日本代表のワールドカップ(W杯)初戦の相手は1998年フランス大会のグループH組で南米の強豪であり、W杯過去2度の優勝を誇るアルゼンチンとの試合でした。破壊的な攻撃力をもつ強豪を相手にディフェンシブな姿勢で臨んだ日本のゴールを守るのは川口能活、3バックは主将の井原正巳を中心に秋田豊と中西永輔。中田英寿、名波浩らが中盤に入り、前線の2トップは城彰二、中山雅史という布陣でした。大会前に急遽調整した3バックのシステムで耐え凌ぎカウンターによる攻撃に活路を見出したのです。

日本は山口素弘がシュートを打つなど序盤から積極的に動きます。だが、前半28分に先制したのはアルゼンチンでした。日本にとっては不運な失点だった。オルテガが短いドリブルからシメオネに渡し、ゴール前に飛び込んでリターンパスを受けようとして、スルー。これが、マークしていた名波の足に当たり、ゴール前に詰めようとしていた身長1メートル85の大型FWバティストゥータへの絶好の“パス”になってしまいました。バティストゥータは冷静に浮き球でシュート、足元に飛び込んで来たGK川口能活の上を抜いて技ありのゴールを決めました。
フランスW杯本戦アルゼンチン戦
日本は後半、中山に代えて呂比須ワグナー、相馬直樹に代えて平野孝を投入、攻勢をかけました。しかし、終了間際の中西の折り返しをダイレクトで放った呂比須のシュートが、相手DFにブロックされるなど、アルゼンチンの厚い守りを破ることは出来ずに0-1の敗戦となりました。日本には重く、そして遠い1点でした。

初戦を落とした日本は、第2戦のクロアチア(0-1)、第3戦のジャマイカ(1-2)とグループリーグ3連敗で、初めてのW杯を終えました。
フランスW杯本戦中山雅史ゴール

世界との差がはっきりしたことになって、『Jリーグ』で活躍している選手たちが世界、特に欧州のリーグを目指す選手が増えるきっかけになった試合でした。

2002年FIFA日韓W杯本戦『第1戦:ベルギー戦』
W杯は4年に一度開催される世界で最も大きいスポーツの祭典であることは明白だが、2002年のW杯は、史上初めてアジアで日韓開催されるという点で世界から大きな注目を浴びていました。

日本は1998年のフランス大会で初出場を決めたばかりの新鋭でしたが、その大会では3戦3敗という結果で大会を去っており、当然2002年大会では、これを上回る成績が期待されていました。

大会規定により予選が免除されて本大会からの出場となった日本は、1998年9月にフランス人監督のフィリップ・トルシエ監督が就任して以降、W杯での初勝利とグループ予選突破を目標にチームを構築してきました。

日本はグループ分けでベルギー、チュニジア、そしてロシアと同組のグループHに振り分けられた。そして日本全体の視線は、開幕戦であるベルギー戦に集まることになります。

特にW杯開催国はグループステージ敗退なしという神話(その後、2010年の南アフリカ、2022年のカタールはグループステージ敗退)があり、開催国がグループステージで敗退するのは不名誉な記録であり、当時の弱小アジアの開催では、日本がグループステージ敗退の可能性があり、危ぶまれていました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその1
そんな中で2002年6月4日、超満員の埼玉スタジアム2002で、日本代表は2度目のワールドカップを迎えました。日本中がサッカー一色に染まった地元開催の大会であり、入場シーンだけでも鳥肌が立つほどの大歓声が起こるこのスタジアムで、日本は強豪ベルギー相手に、ファンの期待に応える試合を披露します。

序盤から臆することなく積極的な姿勢を見せる日本代表でした。屈強なフィジカルを誇るベルギーの選手相手に果敢にデュエルを挑み、前半をスコアレスで折り返します。

そして、数年経った今でも色褪せないゴールはいくつもありますが、これは日本サッカー史上、一生ファンの記憶と記録に残り続けるゴールの1つだろうと思われるシーンが何と2つも見ることができます。

0-0で迎えた後半、日本は次第にベルギーのプレッシャーに押し込まれていき、57分にベルギーのヴィルモッツにゴールを奪われ、1点のリードを許す展開になりました。それでも、諦めない日本を、埼玉スタジアムに駆けつけた5万人を超えるファンの応援が後押しします。

そして直後の59分、小野伸二のロングフィードに抜け出した鈴木隆行がつま先でボールをネットに押し込み、同点ゴールを奪ってみせました。会場のボルテージは一気に最高潮になします。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその2鈴木隆行
そしてそこから10分もしない、67分、中盤のハイプレスからボール奪取に成功した日本は、そのボールを稲本潤一がドリブル突破で運び、相手フィフェンダーを強引にかわして強烈な左足シュートを叩き込んだ。日本はこのゴールで逆転に成功し、W杯で初めてリードを奪いました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその3稲本潤一
超満員の埼玉スタジアムに歓喜の渦が巻き起こった。自国開催のW杯初戦という歴史的価値も含め、大きな意味のあるゴールとなったことは間違いない。4年前はわずか1得点しかできなかった、数年前まで極東のサッカー後進国に過ぎなかった日本が、ヨーロッパの強豪国を土俵際まで追い詰めたのです。

日本にとって、残念ながらこの試合は、その後追いつかれ試合は2-2の引き分けで終わりました。

ベルギーに先制された瞬間、フランスW杯が頭をよぎりました。いくらアジアカップを制覇しても、コンフェデ杯で準優勝しても、やっぱり世界の舞台ではまた負けるのかと思ってしまったのです。しかしそのすぐ後、鈴木隆行のゴールが全部吹き飛ばしてくれました。とにかく入れるという強い執念、粘りが生んだ、華麗では無いけどめちゃくちゃかっこいいゴールでした。

本当に鈴木隆行のゴールは今見ても目頭が熱くなりますね。このゴールだけで『フランス』とは違う、日本はW杯で戦えると思ったゴールだったんです。

そして、このゲームから日本も完全に世界で戦えるという自信を監督、選手、日本国民全体で持てたと思うのです。

2006年FIFAドイツW杯本戦『第1戦:オーストラリア戦』
ジーコ監督率いる日本代表は、2004年のアジアカップを制し、ワールドカップ・アジア予選も順当に勝ち上がるなど、アジアにおいては抜きん出た強さを示していました。円熟期を迎えた中田英寿選手をはじめ、中村俊輔選手、稲本潤一選手、高原直泰選手ら海外でも活躍するタレントを多数擁し、前回日韓大会のベスト16以上の成績を目指して、このドイツ大会に臨みました。

グループステージの相手は、オーストラリア代表、クロアチア代表、ブラジル代表の3チーム。まずは初戦のオーストラリア代表に勝利し、幸先良いスタートを切りたいところでした。

日韓ワールドカップでのベスト16進出を経て、4年間で日本は多くの選手が欧州で実績を積み、「集大成になる」と期待を寄せられていた。代表23人の欧州組選手の数は、前回の4人から6人に増加していました。
2006年ドイツW杯その1
日本は3-5-2のフォーメーションで、オーストラリア戦に臨みました。GK川口能活選手を最後尾に、3バックには坪井慶介、宮本恒靖、中澤佑二が入ります。中盤の底では中田英寿と福西崇史がコンビを組み、両サイドには駒野友一と三都主アレサンドロを配置。そしてトップ下には初のワールドカップに臨む中村俊輔が入り、高原直泰と柳沢敦が2トップを形成しました。

日本は強靭なフィジカルを誇るオーストラリアのシンプルな攻撃に苦しめられましたが、コンパクトな守備陣形を保ち、まずは守りからリズムを掴んでいきました。

そして26分、右サイドから中村俊輔がクロスを入れると、これがそのままネットに吸い込まれて、日本が先制に成功します。幸運な形でゴールを奪った日本が、1点をリードして試合を折り返しました。

後半に入るとロングボールが増えてきた相手の攻撃にもしっかりと対応し、リズムを渡しません。しかし、オーストラリアを率いるフース・ヒディンク監督は、積極的な選手交代で日本に揺さぶりをかけてきます。53分にティム・ケーヒル選手、61分にジョシュア・ケネディ選手、さらに75分にはジョン・アロイージ選手と次々に攻撃の選手を送り込み、半ば強引に日本のゴールに襲い掛かってきました。

それでも何とか耐え凌いでいた日本でしたが、84分、ロングスローから最後はケーヒル選手に押し込まれると、89分に再びケーヒル選手に強烈なミドルを突きさされ逆転されてしまいます。さらにアディショナルタイムにも失点した日本は、わずか8分あまりの間に3点を奪われ、屈辱的な逆転負け。ノックアウトステージ進出に向け、いきなり苦しい状況に追い込まれました。
2006年ドイツW杯その2
どちらにもあった幸運。日本には「プラン」が欠けていた。勝負を嗅ぎわける感覚、戦術眼、精神力、体力、采配・・・。日本にとって、とてつもなく長く感じられた最後の8分間のなかに、微妙なズレから生じた敗因がそこかしこに散りばめられていました。

日本はこの敗戦を引きずって、第2戦でクロアチアにはスコアレスドロー、第3戦でブラジルには1-4で粉砕され、早々と敗れ去りました。大会後に中田が引退を発表し、ひとつの時代が終わりました。

浮かれていた日本サッカーは、頬を平手でひっぱたかれて、戦いの原点に立ち戻る必要がありました。果たして屈辱的な敗北から生まれ変われるか。そんな大会でした。
2006年ドイツW杯その3中田英寿

2018年ロシアW杯本戦『ラウンド16:ベルギー戦(ロストフの14秒)』
2018年に行なわれたロシアW杯、準々決勝進出をかけた一戦で、日本代表は世界ランキング3位(当時)の強豪・ベルギー代表を相手でした。後半立て続けに2ゴールを決めた日本は73分までリードを続け、初のベスト8進出という歴史的な瞬間への期待値はかつてなく高まります。

しかし、その思いは一気に失意へと変わり終戦となりました。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その1
初のベスト8進出を懸けて日本とベルギーが激突した一戦は、一進一退の攻防で0-0のまま前半を折り返すと、後半一気にゲームが動きます。後半3分、自陣でボールを奪ったMF乾貴士がMF柴崎岳につなぎ、右サイドを駆け上がったMF原口元気にスルーパス。原口は追いすがる相手DFを背負いながらも、シュートフェイクを入れて右足を振り抜き、ファーサイドに自身W杯初得点となる先制ゴールを突き刺しました。

さらに日本は後半7分、ゴール正面でセカンドボールを拾ったMF香川真司がタメを作ると乾にパス。フリーの乾は狙いすました右足ミドルをゴール右隅に突き刺し、リードを2点に広げました。

しかし、ベルギーも後半24分にDFヤン・フェルトンゲンの一撃で1点を返すと、途中出場のMFマルアン・フェライニのヘディング弾で同点に追いつきます。そして、後半アディショナルタイムにドラマが生まれました。

MF本田圭佑の左CKを難なくキャッチしたベルギーGKティボー・クルトワのスローイングから高速カウンターが発動。MFケビン・デ・ブライネがドリブルで持ち込み、右サイドを駆け上がったDFトーマス・ムニエが中央にグラウンダーのクロス。ゴール正面に飛び込んだFWロメル・ルカクがフィニッシュするかと思われたが意表をつくスルー、最後は飛び込んできたMFナセル・シャドリが値千金の逆転弾を決めました。直後にタイムアップの笛が鳴り、ベルギーが3-2と鮮やかな逆転勝利を収めたのです。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その2
クルトワがボールをキャッチしてから日本のネットを揺らすまで、わずか14秒。ベルギーの完璧な高速カウンターは世界中で話題となりました。

『もしかしたら、ベスト8に行かるかももしれない。』と試合をしていた選手たち、応援していたサッカーファンは、失意のどん底を味わうことになりました。

2022年カタールW杯『第3戦:スペイン戦』
ドイツとスペイン、優勝経験国2つが同居するグループEに入った日本。下馬評では突破は難しいとされていたが、2度のジャイアントキリングで世界を驚かせました。

初戦ではドイツと対戦しました。前半は防戦一方の展開となり、33分には先制を許しました。だが苦しい中でも前半を1失点で我慢すると、日本は後半に勝負をかけました。三笘薫、堂安律、浅野拓磨、南野拓実と攻撃的なカードを切ると、この交代が実ったのです。75分に堂安律が同点ゴールを奪うと、83分には浅野琢磨が逆転弾。見事初戦でドイツを撃破し、大番狂わせを起こしてみせました。

しかしながら連勝を期したコスタリカ戦に落とし穴が待っていました。このグループで最も力が劣るチーム相手に、低調なパフォーマンスに終始、終盤に決勝ゴールを許し、勝点を落とす結果となりました。
2022年カタールW杯スペイン戦その1
ここで、サッカーファンは日本の実力に疑心暗鬼になります。『強いのか?』『弱いのか?』よくわかりません。そして、第3戦の最終戦は優勝候補のスペインでしたので、グループステージ敗退もありえたのです。

最終戦である第3戦は優勝候補のスペインと激突しました。前半スペインに先制されるが1失点で抑えると、森保一監督は後半立ち上がりにかけていた。堂安律と三笘薫を投入し攻撃的に出ると、この2人が得点に絡み6分間で逆転しました。その後はスペインの猛攻を凌ぎきったまたも逆転での勝利(1-2)となりました。日本はグループステージでドイツとスペイン相手に白星を挙げ、見事に首位通過を果たしたのです。
2022年カタールW杯スペイン戦その2
2022年カタールW杯スペイン戦その3
初のベスト8へ4度目のラウンド16に臨む日本の相手は、前回準優勝のクロアチアでした。日本が前半43分にセットプレーから均衡を破りました。しかし後半に入るとクロアチアも反撃に出ます。すると55分、アーリークロスからイヴァン・ペリシッチが強烈なヘディングシュートでネットを揺らし同点となりました。

試合は息詰まる重い展開が続き、延長戦に突入しましたが120分でも決着はつきませんでした。ベスト8の行方はPK戦に委ねられます。先攻を取った日本だったが、1人目の南野拓実と続く三笘薫が失敗。さらに4人目の吉田麻也も決められず惜敗を喫した日本は、またしても準々決勝のピッチにたどり着くことはできませんでした。

W杯ベスト8は、指先には触れていた。だが近いようで遠い「まだ見ぬ新しい景色」は、今回も我々の前に広がることはありませんでした。それでも、世界と互角に戦った今大会の日本代表は、その重い扉を開く「未来」のための「新時代」を間違いなく見せてくれたのです。

「4年後こそ」。この言葉が、今回で最後になると信じましょう。



※最後に
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