◆ドキュメント
作成日付:2023/10/12
更新日付:2023/10/28

◆はじめに

未解決事件とは、容疑者が検挙、または判明・発覚などが一切できていない刑事事件のことです。

捜査または捜索等が行き詰まった場合、または公訴時効が成立して未解決となった事件は、完全犯罪が成立することを意味し、また「迷宮入り」とも言われます。なお英語では通称コールド・ケースとも言われています。

長期間に逃走した犯人が逮捕された後に身柄が判っているものも原則、「犯人がわかっている未解決事件」として表現される場合もあります。

警察庁はこの他、令和改元(2019年5月1日)以降にも、未解決の殺人・(児童の)失踪・窃盗などの事件が多く相次いで発生していることから、長期捜査中も含めた該当する未解決事件の謝礼金及び懸賞金または報奨金等を用意して、事件の解決、または解明に向けての有力な情報に提供を呼び掛けています。
 
未解決事件というと時効という言葉がセットで思い浮かびますが、現在では「死刑に当たる罪」については公訴時効が廃止されたため、時効が成立することはありません(これ以外は公訴時効の期間があります)。

<目次>






青ゲットの殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1906年(明治39年)に発生した殺人事件である。殺人罪としての時効を過ぎた為に未解決事件の一つとして扱われている。

午前5時頃、青いゲット(毛布)をかぶった35歳くらいの男が問屋を訪ね、番頭の加賀村吉(30歳)に「近所の叔母が病気になったので来てくれ」と言った(当時はもちろん防犯カメラも無かった為、容姿はよく分かっていない)。村吉はこの時大雪であったことなどから男を信用し、付いて行った。

その後、同様の手口で村吉の自宅から母・キク(59歳)を連れ出し、さらにその後、村吉の妻・ツオ(25歳)も連れ出した。男は村吉の次女(2歳)も連れ出そうとしたが、妻が連れ出される前に隣家の女性に留守番と子守りを頼んでおり、男との応対をした女性が次女の連行を拒否。そのため次女は助かった。長女は子守りとして他家に居たため、留守だった。

青ゲットの男に連れ出された3人は、その後いつまでたっても戻らず、調べると新保村の親戚には誰も病人など出ておらず、使いの者を頼んだ事実もないことが分かった。

三国警察署に置かれた捜査本部は、九頭竜川一帯の大掛かりな捜索を行い、村吉家裏手の竹田川に係留してあった小船の船べりに、血痕が付着しているのを発見した。

そして小船から少し下流の川底で妻ツオの遺体が沈んでいるのが見つかった。さらに翌日には母キクの遺体が九頭竜川の河口付近に沈んでいるのが発見され、引き上げられた。

しかし、村吉の遺体はその後の捜索でもついに発見することはできなかった。

捜査本部は男が一家を次々に連れ出して残忍に殺害していることから、村吉に強い恨みを抱いた者の犯行であると推理した。しかし村吉は真面目で酒も飲まず、良く働き、若くして番頭に取り立てられるなど大変評判は良かった。結局村吉を恨んでいる者は見つけることが出来ないまま、捜査は暗礁に乗り上げた。

そのまま捜査は進展することなく、1921年にはついに時効を迎え、迷宮入りとなってしまった。
1906年青ゲットの殺人事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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悪魔の詩訳者殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年7月11日に発生した殺人事件である。2006年7月11日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

1991年(平成3年)7月12日、筑波大学助教授の五十嵐一が同大学筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見された。司法解剖の結果、11日の午後10時頃から12日の午前2時頃までの間に殺害されたものと断定された]。遺体の首には、左に2カ所、右に1カ所の傷があり、いずれも頸動脈を切断するほどの深さで、「イスラム式の殺し方」とされる。また、右側の胸や腹など3カ所に及んだ刺し傷は、一部肝臓にまで達していた。また、現場からO型の血痕(五十嵐の血液型とは一致しないため、犯人のものとされた)や犯人が残したとみられるカンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。

犯人はエレベーターの使用を避け、階段で3階まで降りて非常階段から逃走しており、その後の消息は杳として知れなかった。

五十嵐は、1990年(平成2年)にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語訳している。1989年2月にイランの最高指導者、ルーホッラー・ホメイニーは、同書が反イスラーム的であるとして、ラシュディや発行に関わった者などに対する死刑を宣告するファトワーを発令していたため、事件直後からイラン政府との関係が取り沙汰されていた。

15年後の2006年(平成18年)7月11日、真相が明らかにならないまま殺人罪の公訴時効が成立し、未解決事件となった。外国人犯人説が有力な当事件では、実行犯が国外逃亡したと仮定した場合、公訴時効は成立していないことになるが、茨城県警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を五十嵐の遺族に返還している。
悪魔の詩訳者殺人事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・2006年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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旭川日通事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1981年に北海道旭川市で起きた日通社員が殺害された事件である。

起訴された被告も違法捜査が発覚して求刑をしないまま無罪判決が確定するという異例の展開をたどり、未解決事件となった。

事件は1981年10月31日の朝に日通(日本通運株式会社)旭川支店近文営業所の当直室で被害者Aが殺害されているのが発見されて発覚した。

司法解剖の結果30日~31日にかけて頸動脈などが切断されて出血死したと判明。警察は怨恨と物取りの両面から捜査していたが、物的証拠がなく捜査は難航した。

事件があった年に北海油脂株式会社において、同社社員Bが被害者Aと組んで大豆を横流しして殺害されるまでの三年間の間に約二千八百万円を横領したと社長に報告した後、1981年11月6日に自首した。同社は事件を穏便に済ましたいということもあって司法警察員面前調書を作成して不問となったことがあった。

捜査が難航する中、警察は被害者AとBが大豆横領で仲違いがあったのではないかとみて1982年8月17日に一度は不問にした業務上横領の罪で逮捕した。再逮捕、勾留、勾留延長となりその後に、業務上横領の罪で起訴した。一か月近くの取り調べの末、9月14日に殺人事件を自白。二十四通の自白調書が取られた後、10月7日に殺人罪で起訴された。

裁判の中で自白調書は違法な勾留、逮捕の中で作成されたものだとして証拠能力はないと判断した。これに対して検察は殺人事件の事実関係について意見を述べず、求刑も行わないという異例の展開となった。

1985年3月20日、旭川地裁は、被告人と犯行を結び付ける物証は何一つないこと、アリバイが成立すること、自白調書は別件逮捕での長時間にわたる違法な取り調べによって得られたものだとして無罪判決を下した。検察は控訴せずに無罪判決が確定した。

❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1996年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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足利事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1990年(平成2年)5月12日、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から父親がパチンコをしていたところ当時4歳の女児が行方不明になり、翌13日朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件。

栃木県警察は当初は前述の目撃証言を元にした捜査を行っていたが、わずか数か月(1990年(平成2年)5月 - 12月ぐらいまで)でその方面の捜査を取りやめている。

その後、警察は「独身男性で子供が好き」というプロファイリングに則り、聞き込みなどの地取り捜査方針に切り替える。そして、そのプロファイリングに合致する人物として、菅家利和という人物が捜査線上に浮かび、彼の身辺捜査を開始する。ちなみに、その時点での菅家利和に前科・前歴はなかった。

この警察の採用した「プロファイリング」の捜査手法は、即、犯罪性のある人物像に繋がるわけでもなく、それに合致しただけの菅家利和の単なる生活習慣も、即、不審人物視、不審行動に繋がるわけではない。その上、その情報提供者である住民の証言が菅家利和を明確に不審視する旨の証言だったのかどうかも不明である。また、同じ時期、警察はより確実性の高い前科・前歴から数人の男の行動調査をしている。

1991年(平成3年)12月2日に栃木県警察本部は同市内に住む菅家 利和(すがや としかず、当時45歳)を、猥褻目的誘拐と殺人の容疑で逮捕する。
逮捕の決め手は「女児の下着に付着していた体液のDNA型と菅家のDNA型とが一致した」ことである。しかし、1991年(平成3年)の時点におけるDNA型鑑定の技術では、別人であっても、1000人に1.2人の確率でDNA型も血液型も一致する可能性があった。

警察が任意同行を求めた理由とされる菅家利和のDNAサンプルは、先に菅家利和が指定ゴミ収集場に捨てたゴミ袋より収集した体液の付いたティッシュペーパーから検出したものであった。その時のゴミ収集が菅家利和や市町村役所の環境保全課などのゴミ回収を担当する管轄部署への令状発行、許可などの履行を行った上での活動だったのかは不明。

菅家利和の父親は息子の逮捕後まもなくショックで亡くなった。無実を信じていた母親も釈放の2年前(2007年(平成19年))に亡くなった。逮捕前々日の11月30日に栃木県足利市の実家で一緒に過ごしたのが最後となった。菅家利和は釈放後、「亡くなったと聞かされ、本当に胸が詰まった。事件が、家族も、自分の人生もばらばらにした」と語った。

菅家利和は、刑事裁判で有罪(無期懲役刑)が確定し、服役していたが、遺留物のDNA型が、2009年(平成21年)5月の再鑑定の結果、彼のものと一致しないことが判明し、彼は無実の冤罪被害者だったことが明らかとなった。

服役中だった菅家利和はただちに釈放され、その後の再審で無罪が確定した。菅家利和の無罪が確定するまでの間、長らく日本弁護士連合会が再審を支援していた。また、この事件は真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件でもある。当事件を含めて、足利市内を流れる渡良瀬川周辺で遺体が発見された3事件は足利連続幼女誘拐殺人事件とされている。
足利事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・2009年4月20日公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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厚真猟銃事件(あつまりょうじゅうじけん)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年2月4日に北海道勇払郡厚真町の山林内で、林業作業中の男性(当時45歳)がライフルで撃たれ死亡した事件。犯人と見られる二人組の男は事件後現場から逃走したとみられる。

2021年2月に業務上過失致死傷罪の公訴時効が成立したが、2023年現在は殺人事件として捜査は継続されている。

事件当日、この事件の被害者となった男性を含めた林業会社従業員は、午前7時頃から間伐作業等のため厚真町字桜丘の山林内に入った。

同日午前9時半頃、被害者男性の同僚の男性が銃声を聞いたため「危ない」と叫んだ。その直後、同僚の男性が約200メートル離れた町道上にオレンジ色の上着を着用したハンター風の二人組の男らを発見したが、男らはすぐさま青色のRV車に乗り込み、現場から立ち去った。

約30分後、同僚の男性が数十メートル離れた山の斜面で木材を引き上げるブルドーザー上で倒れている被害者男性を発見し、119番通報したが、被害者男性の左脇腹から右胸にかけてライフルの銃弾が貫通しており、即死だったと見られる。

苫小牧署は、被害者男性の死因をライフル銃の銃弾に当たったものと断定。ハンターの誤射による業務上過失致死事件とみて捜査を開始した。被害者男性の体を貫通したライフル銃の弾頭の捜索に延べ二千人を投入し、付近の土壌をスコップで掘り返しふるいに掛けるなどして捜索したものの見つからず、弾頭の捜索は事件から10ヶ月後の同年11月に打ち切られた。一方、道内外の猟銃所持者約6300人への聞き込みも行なったが、有力な情報は得られなかった。 事件発生から10年、苫小牧署はハンターの誤射の可能性が高いとみて捜査してきたが、業務上過失致死罪の公訴時効が2021年2月4日、成立した。
厚真猟銃事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもの(死刑に当たるものを除く)・2021年公訴時効(10年)・業務上過失
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・公訴時効なし・殺人

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綾瀬母子殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1988年(昭和63年)11月16日、東京都足立区綾瀬で発生した母子強盗殺人事件である。

誤認逮捕され家庭裁判所に送致された3人の被疑者は少年審判で不処分(刑事裁判の無罪に相当)の決定を受けた。

1988年11月16日に東京都足立区綾瀬で母(36歳)と子(7歳)が殺害され金品が強奪された。警視庁は翌年の1989年4月25日に、事件現場である被害者の自宅の近所に在住する(または事件当時に在住していた)A(当時16歳)・B(当時15歳)・C(当時15歳)の3人を被疑者として逮捕した。

誤認逮捕された少年3人は、事件後に好奇心から事件現場である被害者の自宅を見物に行き、聞き込み捜査中の刑事から被疑者に関する情報を知っているかと質問された時に、他人に注目されたいという動機で、事件現場である被害者の自宅で不審な人物を見たと虚偽の供述をした。

警察官は少年3人の不審人物に関する供述が不自然であったため、事件当時は不登校の状態で犯行現場での不在証明が無いという理由で母子強盗殺人犯人であるとして少年3人を被疑者と見なした。

警察官は被疑者と見なした少年3人に警察署への任意同行を求め、少年の保護者への連絡も無く、警察署内で深夜まで尋問した。警察官は被疑者の少年3人母子を殺害し強盗をしたとの供述を誘導・強要した結果、被疑者3人に母子強盗殺人をしたとの自白をさせ、警察官の意向に合致した供述調書を作成するとともに、被疑者の少年3人を逮捕した。

1989年5月16日、検察官は、Aは主導的立場の殺人実行犯と見なして逆送致による刑事処分、Bは従属的立場の殺人実行犯と見なして長期の少年院送致、Cは従属的立場の幇助犯と見なして短期の少年院送致が適切な処遇であるとの意見を付けて、3人を家庭裁判所に送致し、3人の身柄は警察の留置場から少年鑑別所に移管された。

1989年9月12日、東京家庭裁判所はA・B・Cの3人に対して、物証が不一致であることと、被疑者3人が事件当時に事件現場に不在だった証明により、検察官の主張は証拠能力が無く、供述の任意性も信用性も無く、真実ではないと判断し、A・B・Cと付添人の弁護人の主張のとおり、少年3人は無実であると判断して、刑事裁判の無罪に相当する不処分の決定をした。

逮捕と家裁送致により、警察はその後は捜査を行わなかった。結局、その後、捜査機関は再捜査を行われず、母子強盗殺害事件の真犯人を発見することなく、2003年11月16日に公訴時効が成立している。
綾瀬母子殺人事件(新聞)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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荒川区路上男性会社員刺殺事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年11月28日夜に東京都荒川区で発生した殺人事件。警視庁による正式な呼称は東日暮里三丁目先路上刃物使用殺人事件。

2012年11月から捜査特別報奨金(300万円)対象事件となっている。

2011年(平成23年)11月28日午後10時25分頃、荒川区東日暮里三丁目28番先路上でタクシー運転手がスーツ姿の若い男性が背中から出血しているのを発見し、110番通報した。男性はタクシーを呼び止め、「病院に連れて行ってほしい」と話し、運転手が「どうしたんですか」と尋ねると「刺された」と言い倒れたという[1]。

被害者の傷は心臓近くに達しており、病院に搬送された時には既に心肺停止の状態でそのままの形で亡くなった。手などで身を守る際にできる防御創は無く、背中をいきなり刃物で刺されたとみられている。

その後の警察の調べで、被害者は近所に住む当時24歳の会社員であることが判明した。現場は被害者の自宅まで僅か数十メートルのところであった。

その後最も事件解決の手掛かりとなりそうな物証が見つかった。現場付近の防犯カメラに、犯行時刻頃に現場に近づく男、及び事件後現場から全力で走り去る不審な男が映っていた(2名は服装から同一人物のようにも見受けられるが、警視庁は断定していない)。男は犯行現場から南の方角、JR鶯谷駅方面に向かったことがわかっている。

警視庁はこの男(ら)が事件に関して何らかの事情を知っているとみて情報を求めている。
荒川区路上男性会社員刺殺事件(動画)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 捜査中

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荒川連続自転車通り魔殺傷事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1959年(昭和34年)1月に発生した連続通り魔殺傷事件である。

1974年に犯人特定・逮捕には至らないまま公訴時効が成立し、未解決事件となった。

1959年1月27日の夕方、東京都荒川区内において、黒っぽい皮のジャンパーを着て自転車に乗った、15,6歳と見られる少年による連続通り魔事件が発生した。被害者は追い抜かれざまに刃物で胸を刺されていた。この日のおよそ1時間の間に、8歳の女児を含む10名の若い女性が被害にあい、そのうちの16歳の少女が死亡した。

そしてこの捜査の過程で、1月21日ごろから当日に至るまでに、同一の手口で襲われた被害者がさらに10名ほどいることが判明した。

警察による厳重な警戒の中、1月30日にも同種の事件が発生し、さらに、被害者宅に「あまり騒ぐな」と脅迫する手紙が送りつけられていたことが明らかになると、近隣の住民らは恐怖におびえ、個人行動を避けたり自警団を組織するなどの自衛策をとる者もいた。

犯行時間は、いずれも午後5時から8時前であった。また目撃者の証言から、犯人は黒っぽいジャンパーを着た16歳前後の就労している少年のようであったとの情報を得たため、同地区の有職者で非行歴のある少年に的を絞って聞き込み調査を開始。さらに近所にこのような手配書を配って情報提供を求めた。

その中で、自営業の三男(当時17歳)が捜査線上に浮上し、2月5日未明、重要容疑者として取り調べを受ける。しかし、その日の早朝にはシロと断定された。商店の人がただ配達をしているだけで、「あいつではないか」と噂したに過ぎない程度の情報も多かった。自営業の三男と同姓の少年が通り魔と疑われ、帰郷する汽車の中で自殺未遂を図っている[1]。

結局、犯人特定・逮捕には至らないまま、1974年に公訴時効を迎えた。
荒川連続自転車通り魔殺傷事件(新聞)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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池袋駅構内大学生殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1996年4月11日午後11時30分頃に東京都豊島区の東日本旅客鉄道(JR東日本)池袋駅構内で発生した殴打による殺人事件。

法の再改正を求めている両親の要望により、異例としては初めて長期捜査に至らなかった殺人事件でもある。

法により、捜査は継続していたが、警視庁池袋警察署捜査本部は、事件の犯人を捜しても出頭または現れなかったため、2012年4月16日に、警察庁での遺族の会見にて要望した上で長期捜査からは解消し、事件解決に繋がらなかった長期未解決事件でもあった。

また事件は大勢に目撃されており、現場となった池袋駅には目撃者の証言などを基に作成された容疑者とみられる似顔絵が貼られていた。

1996年4月11日午後11時30分頃、池袋駅の山手線外回り7・8番線ホームで当時立教大学の学生であった男性(当時21歳)が会社員風の男に絡まれ、顎を殴られ転倒した際に後頭部を強打し、5日後に入院先の病院で死亡した(のちに病院側の処置に落ち度があったとして損害賠償請求訴訟を起こし、病院側が約6500万円を支払うことで和解した)。男は事件直後、男性を介抱する別の乗客の背後に無言で立っていたが、現場に留まるよう求めた別の乗客を恫喝すると、23時37分発の山手線で日暮里駅方面に向かったという。男のその後の足取りは不明となっている(同駅までの乗車は目撃されているが、この駅で降車したのかどうかは不明)。

当初は傷害致死事件として扱われていたが、2002年7月に被害者の父親が3万5000人分の署名と公訴時効延長を求める嘆願書を法務省に提出した。その結果、傷害致死罪の公訴時効(当時7年)成立直前の2003年3月に容疑が殺人罪(当時15年)に切り替えられた。

2010年4月に殺人罪の時効が撤廃されると同時に警察庁の捜査特別報奨金制度対象事件となった(遺族の希望で2012年度より指定を辞退)。

遺族の両親が法の再改正、もしくは捜査打ち切りを求めており、警視庁は2020年12月11日に殺人容疑について容疑者不詳のまま書類送検した。一方で失踪事件など、他の長期未解決事件の捜査と同様に警視庁は引き続き事件の情報提供を呼び掛け、容疑者が特定されれば逮捕する方針。

容疑者のイメージ画
池袋駅構内大学生殺人事件(容疑者)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 遺族が法の再改正か、捜査打ち切りの意向により、警視庁は2020年12月11日に殺人容疑について容疑者不詳のまま書類送検。容疑者が特定されれば逮捕する方針。

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工事中



※最後に
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