◆ドキュメント
作成日付:2023/08/06
更新日付:2023/10/25
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート4))
更新日付:2023/10/25
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート4))
<目次>
品川医師射殺事件(野本正巳)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1994年10月25日午前8時頃、東京都・品川区の京浜急行電鉄京急本線青物横丁駅の二階改札口近くで、病院医長 岡崎武二郎さん(当時47歳)が後ろから元会社員の男に拳銃で撃たれた。被害者は病院に運ばれるも死亡し、撃った男はスクーターで逃亡した。10月29日に野本正巳(当時37歳)が逮捕された。
野本は1993年6月に、被害者執刀の手術で体調の不調を訴え、岡崎さんの勤務先の病院に出向いて抗議をするなどしており、診療をめぐるいざこざが動機であった。野本は1994年9月中旬頃にたまたま通りかかった暴力団事務所に入り初対面の国粋会系暴力団 根岸組組員(当時29歳)に拳銃購入を持ちかけ、10月に暴力団組員を通じてトカレフ型拳銃と実弾7発を計140万円で購入した。暴力団組員は11月1日に逮捕された。
野本は精神科に通院していたが、東京地検は責任能力はあるとして起訴した。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
1997年8月12日、東京地裁は野本に対し、「入手した拳銃の試射や逃走用スクーターの用意等から被告は犯行時に沈着冷静に行動していた」として心神耗弱を認定して懲役12年(求刑、懲役15年)を言い渡した。1998年8月6日に被告の控訴を棄却した。
一方で拳銃を譲り渡した暴力団組員の刑事裁判では1995年2月2日に東京地裁で懲役6年罰金80万円(求刑、懲役7年罰金100万円)の有罪判決を言い渡された。
❖出所予定(年齢)
2009年8月頃、52歳(出所)
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品川同性愛者殺害事件(前田優香)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2005年に東京都品川区で発生した殺人事件である。
前田優香(当時41歳)が同性愛者だった鈴木友幸(ゆうこ)さん(当時39歳・女性)を東京都品川区のマンションで殺害した。新聞配達を止めさせるなどの偽装工作を施した上でMは逃亡し、鈴木さんの遺体は2005年4月19日に腐乱した状態で発見された。状況などから警察はMを指名手配した。Mは逃亡中、11の偽名を使い、4人の男性と交際して生計を立てたといわれる。このため、マスコミなどから「第2の福田和子」とまでいわれた。
◆偽名一覧
前田 優香(ゆか)
前田 由子(ゆうこ)
鈴木 友幸(ゆうこ)
鈴木 友子(ゆうこ)
鈴木 由子
鈴木 由香
谷川 優香
植田 友子
前田 由香
大原 志麻
(通称)しまちゃん
前田 優香(ゆか)
前田 由子(ゆうこ)
鈴木 友幸(ゆうこ)
鈴木 友子(ゆうこ)
鈴木 由子
鈴木 由香
谷川 優香
植田 友子
前田 由香
大原 志麻
(通称)しまちゃん
被害者の鈴木さんとは同性愛の関係にあった。ところがそのために鈴木さんは前田から性病をうつされてしまい、さらに前田が別の愛人と付き合いをしていたことから、激怒して品川のマンションに監禁。これを機に前田と鈴木さんは不仲になって衝突しあうようになり、殺害に至ったという。
2007年3月、東京都北区の健康ランドに前田がいたところを知り合いに発見され、警察に通報されて逮捕された。そのときの所持金は950円で、警察の質問には素直に答えたという。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2007年10月22日、懲役15年の判決が下される。
❖出所予定(年齢)
2022年10月頃、56歳(出所)❖出所予定(年齢)
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新発田市女性連続殺人事件(喜納尚吾)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2013年(平成25年)8月から翌2014年1月にかけて新潟県・新発田市で5人の女性がわいせつ目的で襲われ、うち2人が殺害された事件。
2013年8月2日・3日、新発田市の女性B(当時30代)と女性C(当時10代)が強姦の被害に遭う事件が発生した。その3か月後の11月22日、同市の女性E(当時22歳)が行方不明になった(2014年4月7日に遺体で発見)。翌月の12月6日、同市の女性F(当時20代)が男に連れ去られそうになる事案が発生した。年が明けた2014年1月15日、同市の女性A(当時20歳)が行方不明になった。
女性Aの遺体は2014年4月3日に竹藪の下にある小川で発見された。発見された当時、着ていた服はめくりあがり、ブラジャーはなく乳房が露出していた。女性Aは成人式を終えた直後で、車の中から「ずっと女手ひとつでここまで育ててくれてありがとう。今日、無事に成人式を迎え、人生に一度きりの行事に参加することができました」などと書かれた母親への手紙も見つかった。
一連の事件の共通点として、ほとんどの被害者が車の運転席に座っていた女性だったことが挙げられる。犯人の喜納尚吾(当時39歳)は車に近づいて運転席ドアを開け、刃物を見せて脅したうえで女性を助手席に移動させ、自身が運転席に乗り込んだ。刃物を見せたり首を絞めたりしながら、「服を脱げ」「言うこと聞かねえと、殺すっけなあ」「港連れてけや」などと脅したという。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
1回目の裁判は、2013年の4件(女性B,C,E,F)と2014年の逃亡未遂に関して行われた。2015年12月に新潟地裁で無期懲役(求刑:同)の判決が下され、2018年3月に最高裁で無期懲役が確定した。
2回目の裁判は、2014年の1件(女性A)に関して行われた。本件についても「同種事案と比較した際に犯行の悪質性が突出しているとは言えない」と結論づけられ、2022年11月に新潟地裁で無期懲役(求刑:死刑)の判決が下された。新潟地検と被告人Kの双方が一審判決を不服として同月中に東京高裁に控訴した。
これらの事件は半年間に連続して起きた事件であるが、事件によって逮捕・起訴のタイミングが異なった。そのため裁判も2回に分かれて行われた。2回目の裁判では、1回目の裁判の結果が影響するかどうかが注目された。検察は「刑の重さを判断する際に事情として考慮することは許される」として死刑を求刑したが、「二重処罰の禁止」を踏まえて2回目の裁判でも無期懲役の判決が下された。
❖出所予定(年齢)
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渋谷区短大生切断遺体事件(武藤勇貴)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2007年(平成19年)1月3日に東京都渋谷区で発生した殺人・死体損壊事件。取り調べにより兄が妹を殺害したことが判明した。
2006年12月30日午後、歯科医師の両親と大学生の長男が帰省中となり東京都渋谷区の自宅の中で予備校生の次男 武藤勇貴(当時21歳)と短大生の長女 武藤亜澄さん(当時20歳)が二人きりとなっていた。二人は家族や生活態度などについて1時間に渡り話し続けたが、亜澄さんの「兄さんには夢がないね」という言葉で逆上し、勇貴は木刀で被害者の頭を殴りつけた後にタオルで首を絞め殺害。さらにのこぎりで亜澄さんの体を首や腕、脚の各関節部分を中心に15カ所でバラバラに切断した。
翌日12月31日に次男 武藤勇貴は予備校合宿に参加していたが、出発前に帰省していた父親 武藤衛(当時62歳)に「友人からもらった観賞魚のサメが死んだので、においがしても部屋を開けないで」と話すなど事件の隠蔽工作をしていた。2007年1月3日午後9時ごろ、母親(当時57歳)が自宅3階の部屋で袋詰めのの亜澄さん遺体を発見。午後10時半ごろ、父親が警視庁代々木署に届け出た。1月4日になり、勇貴が死体損壊の容疑で逮捕された。1月15日に殺人の容疑で再逮捕された。


❖判決内容(判決内容・判決時期)
2009年5月9日、2審判決を不服として、弁護側が最高裁判所に上告、2009年9月16日、最高裁判所で2審判決を支持、上告を棄却、懲役12年が確定した。
❖出所予定(年齢)
2021年5月頃、33歳(出所)❖出所予定(年齢)
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島根女子大生死体遺棄事件(矢野富栄)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2009年(平成21年)11月6日に発覚した死体遺棄事件。
浜田事件、浜田学生遺棄事件、島根女子大生殺害事件、島根女子大生バラバラ殺人事件と記載されることもある。
2012年10月26日の死体遺棄罪単体での公訴時効成立後も容疑を殺人罪に切り替えて捜査が行われていた。長らく未解決であったが事件から7年が経った2016年12月、捜査機関は事件直後に事故死していた矢野富栄(やのよしはる)(当時33歳)が被疑者であると特定した。
2009年11月6日、広島県と島根県の県境に近い広島県山県郡北広島町の臥龍山(がりゅうざん)山頂付近で、女性の頭部が発見された。DNA鑑定の結果、島根県浜田市で10月26日から行方不明になっていた広島県の山中で島根県立大1年、平岡都さん(当時19歳)と確認された。
死亡時期は約1週間前から2週間前。広島県警・島根県警は合同捜査本部を設置して残りの遺体発見、被疑者特定などの捜査を開始。11月7日に左大腿骨の一部、11月8日に両手足の無い胴体部分、11月9日に左足首、11月19日に爪が発見された。
死亡時期は約1週間前から2週間前。広島県警・島根県警は合同捜査本部を設置して残りの遺体発見、被疑者特定などの捜査を開始。11月7日に左大腿骨の一部、11月8日に両手足の無い胴体部分、11月9日に左足首、11月19日に爪が発見された。

◆犯行の状況
・死亡推定時期は2009年10月26日から31日。
・遺体状況から連れ去りに近い時間に死亡。
・頭部に殴打された跡。
・首を絞められた可能性が高い。
・遺体損壊に鋭利な小型の刃物を使用。
・死亡推定時期は2009年10月26日から31日。
・遺体状況から連れ去りに近い時間に死亡。
・頭部に殴打された跡。
・首を絞められた可能性が高い。
・遺体損壊に鋭利な小型の刃物を使用。
捜査は難航していたが、2016年の頭から過去に性犯罪歴のある人物を捜査し直していた所で事件当時益田市に在住していた矢野富栄(やのよしはる)(当時33歳)が浮上。矢野は事件から5年前の2004年に通りかかった女性にわいせつな行為をしようとしてけがをさせるなど3つの事件を起こし、懲役3年6ヶ月の判決を受けていた。
矢野と平岡都さん(当時19歳)との間に接点は無かった。矢野は遺体が見つかった2日後の2009年11月8日に山口県内の高速道路で事故死したが、遺品であるデジタルカメラとUSBメモリから死亡直前に削除されていた画像を復元し、行方不明後の被害者の遺体や包丁など57枚の画像が確認された。
矢野と平岡都さん(当時19歳)との間に接点は無かった。矢野は遺体が見つかった2日後の2009年11月8日に山口県内の高速道路で事故死したが、遺品であるデジタルカメラとUSBメモリから死亡直前に削除されていた画像を復元し、行方不明後の被害者の遺体や包丁など57枚の画像が確認された。
被疑者の特定に至った決定打とされる画像は複数枚あるが、中でも被疑者宅の壁や風呂場を背景に被害者が撮影されていた画像データが揺るがぬ証拠となった。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2016年12月20日、島根県警察・広島県警察合同捜査本部は、被疑者を殺人・死体損壊・死体遺棄罪で、松江地方検察庁に事件を送致。
2017年1月、松江地検が被疑者死亡で不起訴処分。
❖出所予定(年齢)
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下郷町連続殺人・死体遺棄事件(星久宏(兄)、星賢二(弟)))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2017年に福島県福島県南会津郡下郷町湯野上で発覚した連続殺人死体遺棄事件。
2007年8月頃に発生した男性失踪事件を発端に、暴行や監禁などの虐待で死亡した2名の被害者が確認されている。
加害者である無職の星久宏(兄、当時39歳)が、2007年8月頃に半沢拓也さん(当時37歳)を福島市北中央のアパートで胸部を拳で複数回強打し死亡させ、2016年6月7日には監禁時状態同然の松田昭浩さん(当時42歳)を宇都宮市下岡本町の自宅アパートで喉を右拳で5回殴り殺害した事件。
死亡した被害者は、加害者の出身地である福島県南会津郡下郷町湯野上に運ばれ、半沢さんは山林に松田さんは阿賀川河原の近くに遺棄された。その際に両件とも加害者は弟である大工の星賢二(弟、当時35歳)に協力を要請している(後に賢二(弟)は死体遺棄容疑で逮捕)。
久宏(兄)は2017年10月15日に松田さんに対する恐喝未遂容疑で福島県警察福島北警察署に逮捕され、翌月6日には傷害容疑で再逮捕、9日に半沢さんとCに対する死体遺棄容疑で再逮捕(供述通りの場所から松田さんの遺体が同日13時50分ごろに発見され同20日に半沢さんが発見される)された。
更に2018年1月17日に半沢さんに対する殺人容疑で再逮捕され、2月9日に松田さんの家族に対する詐欺容疑で再逮捕、同19日に公文書毀棄でも再逮捕されている。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2018年12月14日、福島地方裁判所は星久宏(兄、判決時40歳)に対し懲役30年(求刑無期懲役)を言い渡した。
その後、検察・弁護側共に控訴せず2019年1月4日までに判決は確定した。
また、星賢二(弟、判決時36歳)に対しても2018年3月8日、福島地方裁判所(宮田祥次裁判官)は懲役2年6月・執行猶予5年(求刑懲役2年6月)を言い渡し、こちらも一審で判決は確定した。
❖出所予定(年齢)
星賢二(弟)・・・2014年3月頃、41歳、執行猶予完了
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下館事件(タイ人女性3人)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1991年(平成3年)9月に茨城県下館市(現:筑西市)でタイ人女性が殺害され現金約700万円の入ったバッグなどが持ち去られた強盗殺人事件である。
1991年(平成3年)9月29日朝、茨城県下館市のアパートの一室で、スナックを実質的に切り盛りするタイ人女性(当時28歳)が首などを刃物で刺されて殺害され、現金約700万円の入った被害者のバッグなどが奪われた。茨城県警察は、同居していたタイ人女性3名の行方を追い、同日午後に千葉県市原市のホテルに投宿していた3人に任意同行を求めて下館警察署(現:筑西警察署)に連行し、強盗殺人の容疑で逮捕した。
取り調べで3人は、「工場やレストランで働くと言われて来日したが、被害者から350万円の借金があると言われて、スナックの客を相手に売春を強要された。パスポートなどは取り上げられ、外出や母国の家族への国際電話も自由にさせてもらえず、日常的な暴言や暴力で被害者に従わせられた。こうした境遇から逃れるために被害者を殺害して逃走した」旨を供述した。3人は、同年10月21日に強盗殺人の罪で起訴された。
取り調べで3人は、「工場やレストランで働くと言われて来日したが、被害者から350万円の借金があると言われて、スナックの客を相手に売春を強要された。パスポートなどは取り上げられ、外出や母国の家族への国際電話も自由にさせてもらえず、日常的な暴言や暴力で被害者に従わせられた。こうした境遇から逃れるために被害者を殺害して逃走した」旨を供述した。3人は、同年10月21日に強盗殺人の罪で起訴された。
この事件では、犯人とされたタイ人女性3名はむしろ人身売買の被害者であるとして、逮捕直後から様々な団体や個人がネットワークを形成して3人を支援した。1992年(平成4年)12月には「下館事件タイ三女性を支える会」(支える会)が発足して組織化された。
支援活動は、差し入れや面会に始まり、拘置所内での処遇改善を求める申し立て、3人を日本に連れてくるのに関与したブローカーらに対する告発状提出、スナックの日本人経営者に対する未払い賃金請求訴訟の支援、さらには講演会やシンポジウムの開催、事件を描いた演劇の上演、3人の手記をもとにした書籍の出版などの啓蒙活動を広く行った。
裁判支援と啓蒙活動を両輪で進める支援活動は当時珍しく、支える会の活動は、下館事件の前後に、道後(愛媛県)、新小岩(東京都)、茂原(千葉県)、桑名(三重県)、市原(千葉県)、四日市(三重県)などで相次いだ同様の事件での支援活動のモデルとなった。
支援活動は、差し入れや面会に始まり、拘置所内での処遇改善を求める申し立て、3人を日本に連れてくるのに関与したブローカーらに対する告発状提出、スナックの日本人経営者に対する未払い賃金請求訴訟の支援、さらには講演会やシンポジウムの開催、事件を描いた演劇の上演、3人の手記をもとにした書籍の出版などの啓蒙活動を広く行った。
裁判支援と啓蒙活動を両輪で進める支援活動は当時珍しく、支える会の活動は、下館事件の前後に、道後(愛媛県)、新小岩(東京都)、茂原(千葉県)、桑名(三重県)、市原(千葉県)、四日市(三重県)などで相次いだ同様の事件での支援活動のモデルとなった。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
1996年(平成8年)7月16日、東京高裁で控訴審判決が言い渡された。松本時夫裁判長の言い渡した判決は、「原判決を破棄する。被告人3名をそれぞれ懲役8年に処する。被告人らに対し、原審における未決勾留日数中各八〇〇日をそれぞれの刑に算入する」であった。
控訴審判決後、3人は上告せず懲役8年とした控訴審判決が確定した。3人は服役し、刑期を終えて出所するとタイに帰国した。
控訴審判決後、3人は上告せず懲役8年とした控訴審判決が確定した。3人は服役し、刑期を終えて出所するとタイに帰国した。
支える会は控訴審判決を受けて3人に上告の意思がないことを確認すると活動を停止。事実上解散した。ただし、この時の支援者同士のつながりはその後も継続されている。
❖出所予定(年齢)
加害者B(事件当時25歳)・・・2004年8月頃、36歳(出所)
加害者C(事件当時30歳)・・・2004年8月頃、41歳(出所)
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下関通り魔殺人事件(上部康明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1999年(平成11年)9月29日に山口県下関市の西日本旅客鉄道(JR西日本)下関駅において発生した通り魔事件である。
1999年9月29日午後4時25分頃、加害者である運送業の男Uがレンタカーの乗用車に乗ったままJR下関駅東口駅舎のガラスのドアを突き破って駅構内の自由通路に車ごと侵入、そのまま売店や多数の利用客などの存在する駅構内を約60m暴走して7人をはねた。その後車から降り、包丁を振り回しながら改札を通過し、2階のプラットホームへと続く階段を上る途中で1人に切りつけ、プラットホームに上がってからさらに7人に無差別に切りつけた。Uは駅員に取り押さえられ山口県警察鉄道警察隊に現行犯逮捕された。
上部康明(当時35歳)のこれらの行為により、5人が死亡、10人が重軽傷を負った。
逮捕後、上部は「社会に不満があり、だれでもいいから殺してやろうと思った」「池袋事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」と供述している。
また、上部は逮捕後、「神の指示」などと意味不明の発言を繰り返し、時に奇声を上げて廷内で暴れるなど奇行が目立ち始める。こうした行動が罪逃れのための演技であるか確かめるため、上部の精神鑑定が行なわれた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
1999年12月より行われた山口地方裁判所下関支部での刑事裁判の中で、弁護側が上部の精神鑑定を請求。弁護側の申請した鑑定医による精神鑑定の結果、上部には妄想性パーソナリティ障害(パラノイア)があり、事件発生当時心神喪失に近い心神耗弱状態にあったとの鑑定を行った。
一方、検察側が証人として申請した鑑定医は、上部には完全責任能力があるとの判断を下した。このように精神鑑定の結果が分かれる中、2002年9月20日に山口地裁下関支部(並木正男裁判長)は上部の完全な責任能力を認め、求刑通り上部に死刑判決を言い渡した。
一方、検察側が証人として申請した鑑定医は、上部には完全責任能力があるとの判断を下した。このように精神鑑定の結果が分かれる中、2002年9月20日に山口地裁下関支部(並木正男裁判長)は上部の完全な責任能力を認め、求刑通り上部に死刑判決を言い渡した。
上部は控訴したが、控訴審の広島高等裁判所(大渕敏和裁判長)による2005年6月28日の判決も、死刑を支持し、控訴を棄却した。その後、上部は最高裁判所に上告したが、2008年7月11日に最高裁第2小法廷(今井功裁判長)も二審の死刑判決を支持し、上部の上告を棄却、これにより上部に対する死刑判決が確定した。
2012年3月27日、小川敏夫法務大臣が死刑執行命令書への署名を行い、翌々日の3月29日に広島拘置所で上部の死刑が執行された。
❖出所予定(年齢)
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首都圏連続不審死事件(木嶋佳苗)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて発生した連続不審死事件。
婚活(結婚活動)を利用した事件であることから、「婚活殺人事件」、「婚活大量殺人事件」、「婚活連続殺人事件」などとも呼ばれている。
2009年(平成21年)8月6日、埼玉県富士見市の月極駐車場内にあった車内において会社員 大出嘉之さん(当時41歳)の遺体が発見された。死因は練炭による一酸化炭素中毒であったが、自殺にしては不審点が多かったことから、埼玉県警察の捜査が始まった。
その結果、大出さんは被疑者の住所不定・無職の女、木嶋 佳苗(きじま かなえ、1974年〈昭和49年〉11月27日生まれ、逮捕当時34歳)と交際していたことがわかり、捜査していくにつれて、木嶋には他にも多数の愛人がおり、その愛人の何人かも不審死を遂げていることが分かった。埼玉県警は木嶋が結婚を装った詐欺をおこなっていたと断定し、9月25日に木嶋を詐欺の容疑で逮捕した。
❖不審死を遂げた被害者
・リサイクルショップ経営の男性(当時70歳)不審死事件
2007年8月、千葉県松戸市の自営業の男性(当時70歳)が自宅の風呂場で死亡。死因不明。木嶋に貢いだ金額は約7380万円。千葉県警が再捜査をしていたが、練炭や七輪なども発見されず、死因は病死、「木嶋の関与はなかった」と断定した。
・寺田隆夫さん(当時53歳)不審死事件(起訴事案)
2009年1月30日から1月31日に東京都青梅市の会社員 寺田隆夫さん(当時53歳)が死亡し、2月4日に発見。死因は寺田さんを眠らせたうえで複数個の練炭を燃焼させたことによる一酸化炭素中毒死。死亡直前に寺田さんの銀行口座から木嶋の銀行口座に計1700万円が振り込まれていた。
・安藤建三さん(当時80歳)不審死事件(起訴事案)
同年5月15日に千葉県野田市の男性B(当時80歳)が自宅で死亡。安藤さん宅から出火して全焼。木嶋は安藤さんに睡眠薬を飲ませて眠らせた。そして部屋で練炭複数個を燃焼させて、一酸化炭素中毒で殺害。
この時、練炭は火災を起こし家は全焼した。安藤さんの父は著名な画家であり、木嶋は安藤さんの家の絵を盗んで高価な値段で売っていたが、安藤さんは父の絵が無くなったことについて木嶋を疑わず、親族を疑っていた。死亡直後に、木嶋は安藤さんの銀行口座から約190万円を引き出した。
・大出嘉之さん(当時41歳)不審死事件(起訴事案)
2009年8月6日に東京都千代田区の会社員 大出さん(当時41歳)が埼玉県富士見市の駐車場にとめたレンタカー内で死亡。木嶋は大出さんに睡眠薬を服用させて眠らせ、埼玉県富士見市の月極駐車場内に停めた車の中で練炭を燃焼させた。大出さんは一酸化炭素中毒で死亡。木嶋は大出さんに対して結婚する気があると装って、約470万円を受け取っていた。
・リサイクルショップ経営の男性(当時70歳)不審死事件
2007年8月、千葉県松戸市の自営業の男性(当時70歳)が自宅の風呂場で死亡。死因不明。木嶋に貢いだ金額は約7380万円。千葉県警が再捜査をしていたが、練炭や七輪なども発見されず、死因は病死、「木嶋の関与はなかった」と断定した。
・寺田隆夫さん(当時53歳)不審死事件(起訴事案)
2009年1月30日から1月31日に東京都青梅市の会社員 寺田隆夫さん(当時53歳)が死亡し、2月4日に発見。死因は寺田さんを眠らせたうえで複数個の練炭を燃焼させたことによる一酸化炭素中毒死。死亡直前に寺田さんの銀行口座から木嶋の銀行口座に計1700万円が振り込まれていた。
・安藤建三さん(当時80歳)不審死事件(起訴事案)
同年5月15日に千葉県野田市の男性B(当時80歳)が自宅で死亡。安藤さん宅から出火して全焼。木嶋は安藤さんに睡眠薬を飲ませて眠らせた。そして部屋で練炭複数個を燃焼させて、一酸化炭素中毒で殺害。
この時、練炭は火災を起こし家は全焼した。安藤さんの父は著名な画家であり、木嶋は安藤さんの家の絵を盗んで高価な値段で売っていたが、安藤さんは父の絵が無くなったことについて木嶋を疑わず、親族を疑っていた。死亡直後に、木嶋は安藤さんの銀行口座から約190万円を引き出した。
・大出嘉之さん(当時41歳)不審死事件(起訴事案)
2009年8月6日に東京都千代田区の会社員 大出さん(当時41歳)が埼玉県富士見市の駐車場にとめたレンタカー内で死亡。木嶋は大出さんに睡眠薬を服用させて眠らせ、埼玉県富士見市の月極駐車場内に停めた車の中で練炭を燃焼させた。大出さんは一酸化炭素中毒で死亡。木嶋は大出さんに対して結婚する気があると装って、約470万円を受け取っていた。
2010年(平成22年)1月までに、木嶋は7度におよぶ詐欺などの容疑で再逮捕されている。警察は詐欺と不審死の関連について慎重に捜査を継続。2月22日に木嶋は大出さんに対する殺人罪で起訴された。窃盗罪や詐欺罪などですでに起訴されており、併せて6度目の起訴となる。10月29日には、東京都青梅市の寺田隆夫さん(当時53歳)を自殺に見せかけて殺害したとして、警視庁に再逮捕された。ただし、被害者男性の遺体は、当時は「自殺」と断定されて解剖されていない例もあり、死因に関する資料が乏しい中での、極めて異例の殺人罪の立件となった。
木嶋は「19歳で初めて愛人契約を男性と結び、一般の女性とは違うセックスでの異なった世界を男性に与えることができるとわかり、性の奥義を極めたいと思うに至り、受け取る額も付き合う男性もクラスが上がるようになった。男性に癒しや活力を与えることが自分では仕事と感じるようになり、一般の女性にできないことなら、受け取る報酬は正当で当然と思うようになった」など、自分には特別な性的魅力があり、そのために男性からお金を受け取るのが当然で金銭をだまし取ることに罪悪感はなかったと主張。木嶋はテクニックよりも本来持っている機能が高いなどと自分自身を評価している。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2017年(平成29年)4月14日、最高裁判所第2小法廷(小貫芳信裁判長)は「殺害は計画的で極めて悪質。被告人は不合理な弁解で、反省の態度を全く示しておらず、死刑はやむを得ない」として、木嶋の上告を棄却する判決を言い渡した。これにより、木嶋の死刑が確定することとなった。裁判員裁判で審理された被告人の死刑確定は15人目で、女性としては初めてであった。
2017年5月9日、最高裁は上告棄却の判決に対する木嶋の訂正申し立てを棄却し、死刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
❖木嶋佳苗は3回獄中結婚していた!
2015年3月2日、支援者の1人である東京都内の不動産会社勤務の60代のサラリーマンと獄中結婚したが、2016年に離婚。その後、逮捕前から知り合いだった男性と再婚し、元夫とは養子縁組した。
2018年1月には週刊新潮の編集部員と3度目の獄中結婚をして、「井上」姓となった。彼はそれまでの妻と離婚して木嶋と結婚したという。「”取材対象者” として接しているうちに、思いが募っていった」とのこと。
2015年3月2日、支援者の1人である東京都内の不動産会社勤務の60代のサラリーマンと獄中結婚したが、2016年に離婚。その後、逮捕前から知り合いだった男性と再婚し、元夫とは養子縁組した。
2018年1月には週刊新潮の編集部員と3度目の獄中結婚をして、「井上」姓となった。彼はそれまでの妻と離婚して木嶋と結婚したという。「”取材対象者” として接しているうちに、思いが募っていった」とのこと。
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少女スーツケース詰め殺人事件(長谷部泰輔)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2005年5月2日、宮城県加美町一本杉の日焼けサロン店員の林瑞枝さん(当時19歳)が千葉県松戸市のフリーターの長谷部泰輔(当時23歳)に絞殺された。長谷部は、自称フリーターでパチンコなどから借金を重ねていた。事件の2年前にも埼玉県の女性をホテルに連れ込んでキャッシュカードを奪って現金7万円を引き出すという、今回と同じような事件を起こしていた。このときは女性との間に示談が成立して起訴猶予となる。
そして今回、長谷部はJR新宿駅東口で林さんと知り合い、被害者の女性を自宅に誘い込み、キャッシュカードを奪って暗証番号を聞き出そうとしたが、林さんに抵抗されたために殺害し、現金1万2000円の入った財布を奪った。警察は5月7日に長谷部を死体遺棄罪の容疑で逮捕。長谷部の自供から、柏市名戸ヶ谷の水田に遺棄されたスーツケースの内部から林さんの遺体が発見された。長谷部は強盗殺人罪の容疑でも再逮捕された。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
そして今回、長谷部はJR新宿駅東口で林さんと知り合い、被害者の女性を自宅に誘い込み、キャッシュカードを奪って暗証番号を聞き出そうとしたが、林さんに抵抗されたために殺害し、現金1万2000円の入った財布を奪った。警察は5月7日に長谷部を死体遺棄罪の容疑で逮捕。長谷部の自供から、柏市名戸ヶ谷の水田に遺棄されたスーツケースの内部から林さんの遺体が発見された。長谷部は強盗殺人罪の容疑でも再逮捕された。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
裁判で被告は起訴内容を全面的に認めた。裁判では無期懲役が求刑され、2005年11月10日、東京地裁で小川正持裁判長は、「パチスロで金に窮し、声をかけて親しくなった女性から金をせびろうと考えた。思い通りにならず殺害して金品を奪ったという動機はあまりに身勝手で愚かしい」とし、求刑通り無期懲役の判決を下した。
❖出所予定(年齢)
2035年11月頃、53歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
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新宿・渋谷エリートバラバラ殺人事件(三橋歌織)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2006年12月16日、東京都新宿区西新宿の路上で、ビニール袋に入った上半身だけの遺体が見つかる。当初、歌舞伎町に近い新宿という土地柄、被害者を外国人と断定し、暴力団関係者・中国系マフィアなどによる犯行(抗争事件)という見方が強かった。
同年12月28日、東京都渋谷区内の空民家の庭で下半身のみの切断遺体が発見される。この下半身遺体と、西新宿で見つかった上半身遺体のDNAが一致し、この遺体は会社員 三橋祐輔さん(当時30歳)と判明した。被害者の男性は外資系不動産投資会社に勤務し、かなりの収入を挙げていたため、「エリート殺人事件」と称されるようになった。
最初の遺体発見から約1か月経った2007年1月10日、死体遺棄容疑で女を逮捕。逮捕されたのは、被害者の2歳年上の妻である三橋歌織(当時32歳)あった。逮捕後、東京都町田市の芹ヶ谷公園で頭部を発見。「手首はゴミと一緒に捨てた」と供述している。
夫妻は2002年11月頃に知り合い同年12月より同棲を始め、翌年(2003年)3月に結婚する。裁判では、出会いから結婚までの期間を“いろいろあった末に結婚”と表現されているが、歌織は妊娠を期に結婚したが、当時は法律事務所のアルバイトで経済力のない祐輔さんと家庭を持つことに不安を感じ、同年3月上旬に堕胎している。
夫妻は結婚後数ヶ月で不仲になったとされ、歌織は祐輔さんからドメスティックバイオレンス(DV)を受け、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したと供述。歌織は一時期、祐輔さんの暴力から逃れるためシェルターと呼ばれる保護施設に避難した。また、互いに不倫相手がいたとも供述している。
2006年12月12日早朝、歌織は就寝中の祐輔さんをワインボトルで殴り殺害。自宅で遺体を切断し、事件の2日後にタクシーを使い上半身を東京都新宿区の路上へ遺棄。持ち運びに疲れ下半身を東京都渋谷区の民家に遺棄、バッグに頭部を入れ町田市の公園に遺棄するなど杜撰な面もあった一方、自宅をリフォームするなど計画性も伺えた犯行であった。


❖判決内容(判決内容・判決時期)
2008年4月28日、東京地方裁判所(河本雅也裁判長)は動機が明瞭で計画性もあり、また犯行後死体遺棄や隠蔽工作を行っており、精神状態は犯行の手助けにしかなっていないと完全責任能力を認め、歌織に懲役15年の判決を言い渡した。歌織側の弁護人はこの判決を不服とし同年5月9日に控訴した。
2010年5月、東京高等裁判所で控訴審公判最終弁論が開かれ弁護側は心神喪失による無罪を主張、検察側は精神鑑定の信用性の高さを主張し控訴棄却を求め結審した。同年6月22日に控訴審判決公判が開かれ出田孝一裁判長は東京地方裁判所判決(1審)を支持し被告側の控訴を棄却した。同年6月29日までに上訴権を放棄したため懲役刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
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新城市会社役員誘拐殺人事件(後藤浩之、久米克幸)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2003年(平成15年)4月に愛知県新城市で発生した身代金目的の誘拐殺人事件。
新城市の建設会社役員(当時39歳・元新城JC理事長)松井紀裕(としひろ)さんは、2003年4月17日、社団法人 新城青年会議所(新城JC)が主催した新城市長選挙公開討論会後に行方不明となる。
翌4月18日朝、建設会社役員の家に中年男の声で身代金誘拐の電話がかかり、家族に身代金1億円を要求。犯人は受け渡し場所を次々と変更。建設会社役員の妻はその都度タクシーで移動をした。最終的に東名高速道路から身代金を投下するよう犯人は指示したが、警察が現金投下をやめたため受け渡しに失敗。午後9時16分に「取引は停止だ」と通告し、連絡が途絶える。
4月20日午前6時半頃、愛知県額田郡額田町(現、岡崎市)の国道近くの山中で、被害者の死体が遺棄されているのが発見された。遺体には左目付近に打撲傷があり、暴行の上で殺害されたものと思われた。
事件発生当初から警察は、犯人が被害者の行動を知っている顔見知りと見て捜査。被害者と同じ新城JC会員で飲食会社役員 後藤浩之(当時38歳)が浮上。後藤は4月22日フィリピンへ逃亡を謀ったが入国拒否の上で強制送還され、帰国後逮捕された。
後藤は17日午後10時10分頃、討論会会場の駐車場で松井さんを殺害し、所持していた現金と携帯電話を奪取。その後に身代金を要求しており、4月19日には死体を遺棄していた。動機は「フィリピンパブで知り合ったホステスとの結婚資金などを得るため」というものであった。
また、後藤の逃亡を助けたとして飲食会社元従業員 久米克幸(当時37歳)も犯人隠避罪で逮捕された。後藤は自分も誘拐されたことにして逃亡しようと、久米に依頼して後藤の自宅へ虚偽の身代金要求の電話をかけさせていた。
後藤は17日午後10時10分頃、討論会会場の駐車場で松井さんを殺害し、所持していた現金と携帯電話を奪取。その後に身代金を要求しており、4月19日には死体を遺棄していた。動機は「フィリピンパブで知り合ったホステスとの結婚資金などを得るため」というものであった。
また、後藤の逃亡を助けたとして飲食会社元従業員 久米克幸(当時37歳)も犯人隠避罪で逮捕された。後藤は自分も誘拐されたことにして逃亡しようと、久米に依頼して後藤の自宅へ虚偽の身代金要求の電話をかけさせていた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
後藤は強盗殺人罪と恐喝未遂、死体遺棄の罪で起訴。2005年5月24日、名古屋地裁は後藤に無期懲役判決(求刑死刑)。双方が控訴したが2006年12月15日、名古屋高裁は地裁の判決を支持、双方控訴せず刑が確定した。久米も懲役2年執行猶予4年の判決を受けている。
❖出所予定(年齢)
後藤浩之・・・2035年5月頃、70歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
久米克幸・・・2009年5月頃、44歳、執行猶予完了
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新橋ストーカー殺人事件(林貢二)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2009年(平成21年)8月3日に東京都港区西新橋で発生したストーカー殺人事件。被害者の職業から「耳かき店員殺害事件」とも称されている。
2009年8月3日8時50分頃、東京都港区西新橋の民家で、耳かき専門店の女性従業員 江尻美保さん(当時21歳)とその祖母 鈴木芳江さん(当時78歳)が襲われる事件が発生。2人は顔や首などを刃物で刺され、鈴木芳江さんはその場で死亡、江尻美保さんは意識不明の状態で病院に搬送されたが1ヶ月後の9月7日に死亡した。事件発生当時に現場にいた会社員の林貢二(当時41歳)が逮捕された。
被害者の江尻美保さんは秋葉原(東京都千代田区)の耳かき専門店で働く、いわゆる耳かき嬢であった。勤務していた店舗でナンバー1の人気嬢であり、多い時は1ヶ月に65万円の収入を得ていた。一方、林は2008年2月からこの耳かき専門店に通い始め、この女性従業員を指名し続けて店に通う頻度が上がり、最終的に同店で少なくとも200万円以上を費やした。
2009年4月5日、林は女性従業員に店外で会うことを要求したとして店を出入禁止となり、その後、江尻さんにストーカー行為をするようになった。江尻さんが拒否を続けることで、林の江尻さんに対する愛情が憎悪に変わり、8月3日、林は、果物ナイフ・包丁・ハンマーを準備してAの自宅を訪れ、応対したBを1階の玄関先で刺した後、2階にいた江尻さんを刺した。
2009年4月5日、林は女性従業員に店外で会うことを要求したとして店を出入禁止となり、その後、江尻さんにストーカー行為をするようになった。江尻さんが拒否を続けることで、林の江尻さんに対する愛情が憎悪に変わり、8月3日、林は、果物ナイフ・包丁・ハンマーを準備してAの自宅を訪れ、応対したBを1階の玄関先で刺した後、2階にいた江尻さんを刺した。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
東京地方裁判所における公判前整理手続は、2010年(平成22年)1月8日から開始された。その後、同年5月6日の第5回公判前整理手続において、被告人 林の精神鑑定を実施することが決定された。鑑定の結果、林には完全責任能力があるとされた。
同年10月25日の第5回公判で、論告求刑公判が開かれ、検察官は「永山基準」を引用した上で、被告人 林に死刑を求刑した。その後、弁護人が最終弁論で死刑回避を訴え、林は被害者2人に対する謝罪の弁を述べた。
その後、26日から11月1日午前まで、裁判官と裁判員による評議が行われ、同年11月1日15時30分から判決公判が開かれた。開廷直後、若園裁判長は冒頭で「被告人を無期懲役に処する。押収してあるハンマー1本、果物ナイフ1本及びペティナイフ1本をいずれも没収する」という主文を読み上げた。
東京地検は同月12日、本件に関して控訴しない方針を発表。同月15日付で判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
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杉並親子殺害事件(志村裕史)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2007年1月に発生した殺人事件。
2007年1月25日、東京都杉並区の家で親子2人 無職 野元富恵さ ん(母親86歳)と建設設計会社社員 新一郎さん(長男61歳)が殺害され、現金約4万7千円やクレジットカードが奪われる事件が発生。3日後の1月28日に事件が発覚した。
1月25日に被害者のカードから現金を引き出そうとして暗証番号が違っていたため引き出せなかった大学生 志村裕史(当時22歳)を2月10日に逮捕。志村は被害者宅の裏手にある家に住んでいた。親子の殺害を認め、金が欲しかったと供述している。志村の供述からサバイバルナイフを購入し、黒い戦闘服に目出し帽、黒の登山靴で侵入し強盗殺人に及んだと判明。盗んだ金は遊興費に消えていた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
公判において精神鑑定が2度行われたが、その2回では責任能力の有無について、正反対の結果が出ている。検察は動機が明確で責任能力もあり、更生の余地も見られないとして、死刑を求刑したが、犯行の計画性が乏しいことや、犯人であるSの年齢が犯行当時21歳と若く、十分な更生の余地があるとみなしたことにより、2009年7月15日に東京地裁は志村に無期懲役判決を言い渡した。検察側・弁護側共に控訴したが、2審東京高裁も無期懲役判決を支持した。結局検察は上告を断念し、被告も自ら上告を取り下げて判決は確定した。
❖出所予定(年齢)
2039年7月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
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逗子ストーカー殺人事件(小堤英統)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2012年11月6日に神奈川県逗子市で、度重なるストーカー被害の末に女性が殺害された殺人事件。
ストーカー被害が把握されていたにもかかわらず事件を防止できなかったこと、行政や警察からの個人情報漏洩が問題視された。またストーカー行為等の規制等に関する法律の不備が指摘され、同法の改正につながった。
2012年11月6日、逗子市のアパート1階居間でフリーデザイナーの三好梨絵さん(当時33歳)が刃物で刺殺され、犯人の東京都在住の元交際相手の小堤英統(当時40歳)が、同じアパートの2階の出窓に紐を掛けて首吊り自殺した。
東京都内に住む2人は2004年頃から交際を始めたが、2006年に小堤の納得を得られないまま三好さんから別れた。それ以降、小堤から嫌がらせのメールが送られ始め、警察に相談した。
三好さんは2008年夏に別の男性と結婚し逗子市へ転居し、小堤には新しい名字や住所は隠していた。三好さんが新婚生活を度々SNSに投稿していたことから、2010年4月頃に三好さんの結婚を知った小堤から嫌がらせの電子メールが届くようになった。メールは次第にエスカレートし、2011年春には「刺し殺す」などと三好さんを脅すメールが1日に80通から100通送りつけられたため、三好さんは再び警察に相談し緊急通報装置を貸与され、翌々月の6月に脅迫容疑で小堤が逮捕された。同年7月にはストーカー規制法に基づく警告が出され、9月に懲役1年・執行猶予3年の有罪判決が確定。同年9月には被害女性の家に防犯カメラが設置された。
2012年3月下旬から4月上旬にかけて、三好さんは計1,089通に上る嫌がらせメールを小堤から送りつけられた。メールには「結婚を約束したのに別の男と結婚した。契約不履行で慰謝料を払え」などと書かれていた。三好さんは警察に相談するが、神奈川県警察は違法行為に該当しないとして立件せずに捜査を一旦終えた。4月上旬以降はメールが届かなくなり、三好さんから警察に「静観したい」との申し出を受けたが、自宅周辺で頻繁にパトロールを実施した。
また事件直前の2012年11月には、探偵事務所に三好さんの居場所を調べてほしいと依頼し、探偵事務所から所在確認の連絡を受けたことも判明している。
嫌がらせが収まっていたこともあり、三好さんは借りていた防犯カメラを返却したが、その直後の2012年11月6日に殺人事件が起こった。
小堤は無施錠だった1階窓から侵入して犯行に及んだとみられる。


◆問題点
・市役所による個人情報漏洩
2014年1月24日、加害者の男が依頼した興信所から、さらに調査依頼を受けた興信所の実質的経営者が、調査に不正な手段を用いたとして有罪判決を受けている。この人物は被害女性の住所を聞き出すため、事件前日の2012年11月5日に被害女性の夫を装って逗子市役所に電話をかけ「家内の税金の支払いの請求が来ているが、住所が間違っていないか」などと質問し、応対した市役所職員に被害女性の住所情報を調べるための不要なコンピューター操作をさせた偽計業務妨害容疑で逮捕された。
同年2月13日に同罪で起訴。また、ガス会社の契約者情報2件を2013年6月に不正に入手した不正競争防止法違反(営業秘密侵害)罪でも起訴され、2015年1月20日に懲役2年6月執行猶予5年(求刑、懲役3年)の有罪判決が言い渡された。
・警察による個人情報漏洩
被害女性は結婚して名字が変わっており、また加害者の男から逃れるために住所を変更していた。しかし2011年6月に神奈川県警察が脅迫罪の逮捕状を執行する際、記載された被害女性の結婚後の名字や、転居先の市名などを加害者の前で読み上げていた[21]。
上述のとおり、加害者の男は逮捕前の2010年12月までの段階で、探偵事務所を使って被害女性が逗子市在住であることを把握していた可能性が高いことが判明している。さらに逮捕状執行の際に、警察が加害者に被害女性の結婚後の名字や正確な居住住所を知らせたことが殺人事件につながった可能性がある。
・市役所による個人情報漏洩
2014年1月24日、加害者の男が依頼した興信所から、さらに調査依頼を受けた興信所の実質的経営者が、調査に不正な手段を用いたとして有罪判決を受けている。この人物は被害女性の住所を聞き出すため、事件前日の2012年11月5日に被害女性の夫を装って逗子市役所に電話をかけ「家内の税金の支払いの請求が来ているが、住所が間違っていないか」などと質問し、応対した市役所職員に被害女性の住所情報を調べるための不要なコンピューター操作をさせた偽計業務妨害容疑で逮捕された。
同年2月13日に同罪で起訴。また、ガス会社の契約者情報2件を2013年6月に不正に入手した不正競争防止法違反(営業秘密侵害)罪でも起訴され、2015年1月20日に懲役2年6月執行猶予5年(求刑、懲役3年)の有罪判決が言い渡された。
・警察による個人情報漏洩
被害女性は結婚して名字が変わっており、また加害者の男から逃れるために住所を変更していた。しかし2011年6月に神奈川県警察が脅迫罪の逮捕状を執行する際、記載された被害女性の結婚後の名字や、転居先の市名などを加害者の前で読み上げていた[21]。
上述のとおり、加害者の男は逮捕前の2010年12月までの段階で、探偵事務所を使って被害女性が逗子市在住であることを把握していた可能性が高いことが判明している。さらに逮捕状執行の際に、警察が加害者に被害女性の結婚後の名字や正確な居住住所を知らせたことが殺人事件につながった可能性がある。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2012年12月28日に被疑者死亡として不起訴処分となった。
❖出所予定(年齢)
死亡(自殺)❖出所予定(年齢)
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スナックママ連続殺人事件(西川正勝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1991年(平成3年)12月に兵庫県・島根県・京都府で発生した連続殺人事件。
少年時代に殺人を犯し懲役刑に処された前科のある西川正勝(事件当時35歳)がスナック経営者の女性4人を相次いで殺害し、被害者の金品を奪った。
加害者の男Nは連続殺人4件(強盗殺人事件3件・殺人および窃盗事件1件)を起こした後、翌1992年(平成4年)1月に逃亡先の大阪府大阪市天王寺区内で逮捕されたが、その直前には強盗殺人未遂1件(被害者は女性落語家・桂花枝)を起こした。逮捕前から一連の連続殺人4件は警察庁により、広域重要指定119号事件に指定され、逃走中の強盗殺人未遂事件も広域事件として追加指定されている。
◆姫路事件(A事件)正木久美子さん
西川は1991年12月12日夜、兵庫県姫路市坂元町26番地のスナック「くみ」にて同店経営者女性 正木久美子さん(当時45歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / A事件)、現金6,000円などを盗んだ。事件直後(当日夜 - 翌日未明)にはJR山陰本線・城崎駅(現:城崎温泉駅)付近の線路脇で正木さんのクレジットカードなどが入ったポーチが発見され、後にポーチからは西川の指紋が検出された。
◆松江事件(B事件)高橋文子さん
1991年12月21日12時 - 13時ごろ、西川は松江市寺町204番地のスナック「鍵」にて同店経営者 高橋文子さん(当時55歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / B事件)、現金約20万円を奪った。B事件直後の13時ごろ、西川は松江駅前からタクシーに乗車して松江市を離れ、同日15時ごろには鳥取県米子市内でポーチを購入したほか、17時ごろには同県倉吉市内のスナックを訪れ、店の女性経営者に高橋さんの血液が多量に付着したジャンパーが入った袋を預けた。同日3時30分ごろ、西川は高橋さんの車で京都市へ向かったが、その後は店に1回電話をしたきりで戻らなかった。
◆京都事件(C事件・D事件)原田京さん、村上紀子さん
西川は1991年12月26日未明、「まき」にて同店経営者 原田京さん(当時55歳)の左首を刃物で刺して殺害し(死因:失血死 / C事件)、現金5,000円を奪った。遺体は12月27日13時に発見され、左首2か所・左胸1か所に傷があったほか、首を絞められた痕も確認され、京都府警察刑事部捜査第一課は殺人事件と断定して五条警察署(現:下京警察署)に捜査本部を設置していた。
同日(27日)夜、西川は「まき」周辺で捜査員が聞き込みをしている中で「まき」の上階にある先述のスナックを訪れ、C事件を話題にしながら閉店時(28日2時)まで店にいたが、飲食代3万円を請求されると「後で銀行に振り込む」と言い、売上金をもって帰宅する経営者がタクシーに乗車しようとすると「一緒に乗せてくれ」と強引に乗り込んだ。そしてタクシーが付近のホテル(八坂神社近く)前で「親父がこのホテルに泊まっている。金を払う」と下車したが、経営者は「銀行振り込みでいい」と誘いに乗らず、西川だけが下車した。
同日(27日)夜、西川は「まき」周辺で捜査員が聞き込みをしている中で「まき」の上階にある先述のスナックを訪れ、C事件を話題にしながら閉店時(28日2時)まで店にいたが、飲食代3万円を請求されると「後で銀行に振り込む」と言い、売上金をもって帰宅する経営者がタクシーに乗車しようとすると「一緒に乗せてくれ」と強引に乗り込んだ。そしてタクシーが付近のホテル(八坂神社近く)前で「親父がこのホテルに泊まっている。金を払う」と下車したが、経営者は「銀行振り込みでいい」と誘いに乗らず、西川だけが下車した。
西川は1991年12月28日朝、C事件現場から200m離れた京都市中京区河原町通三条下る二丁目東入「京都観光ビル」地下1階のスナック「なかま」にて同店経営者 村上紀子さん(当時51歳)の心臓を刃物で一突きにして殺害し(死因:失血死 / D事件)、金1万数千円を奪った。
その直後(6時40分ごろ)、西川は村上さんが血だらけで倒れた店内にてレジのそばで金を物色していたところを村上さんの長男E(事件当時25歳)に発見されたが、Eの顔をビール瓶で殴って軽傷を負わせた上で逃走し、同日から大阪・天王寺の旅館に2泊した。Dは同日8時ごろに搬送先の病院で死亡し、遺体の首には強く抑えた痕が確認された。同事件についても京都府警捜査一課は強盗殺人事件として五条署に捜査本部を設置して捜査したが、C事件と現場がほとんど離れていなかったことから2事件の関連性が指摘された。
その直後(6時40分ごろ)、西川は村上さんが血だらけで倒れた店内にてレジのそばで金を物色していたところを村上さんの長男E(事件当時25歳)に発見されたが、Eの顔をビール瓶で殴って軽傷を負わせた上で逃走し、同日から大阪・天王寺の旅館に2泊した。Dは同日8時ごろに搬送先の病院で死亡し、遺体の首には強く抑えた痕が確認された。同事件についても京都府警捜査一課は強盗殺人事件として五条署に捜査本部を設置して捜査したが、C事件と現場がほとんど離れていなかったことから2事件の関連性が指摘された。
1992年1月6日19時ごろ、西川は大阪市天王寺区大道二丁目のマンション5階の部屋を訪れ、住人の会社員女性X(当時31歳)に対し「(同じマンションの近くの部屋に住んでいる)母と義父の仲が険悪なので、しばらくいさせてほしい」と持ち掛け、これを信用したXは西川を部屋に入れた。
西川は逮捕まで16時間近くX宅で過ごし、Xと2人暮らししていた長男Y(当時7歳・大阪市立聖和小学校1年生)と2人でテレビを観たり、Xが注文した丼物を食べるなどしていたが、西川はXから何度も帰るように諭されても腰を上げようとせず、やがてXは西川をいぶかしく思うようになった。
西川は逮捕まで16時間近くX宅で過ごし、Xと2人暮らししていた長男Y(当時7歳・大阪市立聖和小学校1年生)と2人でテレビを観たり、Xが注文した丼物を食べるなどしていたが、西川はXから何度も帰るように諭されても腰を上げようとせず、やがてXは西川をいぶかしく思うようになった。
Yが寝入った翌日(1992年1月7日)1時過ぎ、西川は台所に水を汲みに行こうとしたXの首を突然両手で絞めた。しかしXが臆せずに「何をするの!」と大声を上げ、叫び声に反応して目覚めたYが泣き叫んだためにいったん手を放した。しばらくして西川は再びXの首を(1回目より強く)絞めたが、この時も長男の泣き声で思い留まった。
西川はXの首から手を放して自らの名を名乗り、「つまらないことをした。悪かった」と謝罪した上で身の上話をし、何度も「人を殺してきた。もう自殺するしかない」と言っていたが、Xから「自分が警察に付き合うから自首しなさい」と繰り返し説得されたことで朝になって「自首する」と言った。
西川はXの首から手を放して自らの名を名乗り、「つまらないことをした。悪かった」と謝罪した上で身の上話をし、何度も「人を殺してきた。もう自殺するしかない」と言っていたが、Xから「自分が警察に付き合うから自首しなさい」と繰り返し説得されたことで朝になって「自首する」と言った。
10時40分ごろ、XはYを近くの学童保育所に連れて行くため西川と一緒に家を出たが、西川は母子とは同行せず、約1時間後に逮捕されるまでマンション5階廊下に残っていた。その後、付近の天王寺大江学童保育所へYを送っていったXは同所指導員に対し「殺人犯のNが家に来ている」と訴え、指導員は近くの派出所へこのことを知らせた。警察官がXの居宅マンションへ駆けつけたところ、5階廊下に居残っていたNを発見して「西川だな」と声を掛けた。西川は抵抗せず、11時46分に逮捕された。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2005年(平成17年)6月7日に最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、被告人西川(当時金田姓)の弁護人は一連の事件のうち、強盗殺人3件(B・C・Dの各事件)について「被告人は犯人ではない」と無罪を主張して死刑回避を求めた一方、検察官は死刑の維持を求めた。2005年6月7日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人西川の上告を棄却する判決を言い渡したため、西川の死刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(2017年7月13日、大阪拘置所で死刑執行(当時61歳没))❖出所予定(年齢)
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仙台アーケード街トラック暴走事件(大友誠治)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2005年(平成17年)4月2日に宮城県仙台市青葉区の商店街「中央通り」(アーケード街)にトラックが侵入、暴走し、歩行者7人が死傷した無差別殺人事件。
2005年(平成17年)4月2日午前9時05分、歩行者専用となっている仙台市青葉区の商店街「クリスロード」と「ハピナ名掛丁」に、レンタカーのいすゞ・フォワードトラックが侵入し、時速40~50キロの速度で暴走した。
目撃証言によると、トラックは歩行者を追いかけるように蛇行運転しており、付近の歩行者7名を次々とはね、約550メートル進んだところで、別のトラックに衝突し停止した。被害者のうち3名が死亡、4名が負傷した。 運転者である大友誠治(当時38歳)は焼身自殺しようと、着用していた服に灯油を掛け発炎筒で点火し燃え上がらせ、服を車のダッシュボードに放置したのち近くの仙台駅前交番に出頭し、業務上過失致死傷及び道路交通法違反(救護義務違反、報告義務違反)容疑で緊急逮捕された。
【死亡】
仙台市青葉区米ケ袋2丁目、会社員 高橋和香子さん(当時44歳)
青葉区国見4丁目、会社員 関根健二さん(当時24歳)
宮城野区五輪1丁目、会社員 林淳子さん(当時42歳)
【重傷】
名取市高舘熊野堂岩口南、会社員桜井恵子さん(当時48歳)
宮城県亘理町逢隈、会社員 大友猛さん(当時42歳)
【軽傷】
仙台市青葉区桜ケ丘7丁目、予備校生島田英宇(ひでたか)さん(当時28歳)
大友は、逮捕後の取り調べで「死にたいと思い故郷の仙台に来た、自殺を図ったが、死に切れなかった」「天の声が聞こえた」「信号無視をし、最初にはねた2名を避けようとして、アーケード街に入ってしまった」などと供述した。 現場検証では、最初に歩行者と衝突した現場からはブレーキ痕が発見されているが、アーケード街内部にはブレーキ痕がみられなかった。
一審の仙台地裁では被告の責任能力を認めたが、未必の故意と長年にわたって幻聴に悩まされ統合失調症だった可能性とそれゆえに離婚や転職を繰り返していたという情状を酌み、2007年(平成19年)3月15日に懲役28年の有罪判決が言い渡された。双方、量刑不当を理由に控訴。
2007年(平成19年)11月20日の控訴審初公判で検察側は残虐性と身勝手さを主張し、再び無期懲役を求刑した。被告側は統合失調症により正常な判断が出来ず心神喪失か耗弱状態であったとして減刑を主張した。
2008年(平成20年)3月7日の判決公判で一審の未必の故意については確定的殺意があったと認定、統合失調症だった可能性はあるが正常な判断は出来たはずとして一審判決を支持、被告側の主張する事件当時の状態の主張を退けた。そして現地住民、地域社会に与えた影響は大きいとして一審判決を破棄し無期懲役判決を言い渡した。被告は上告せずに刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
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仙台高校教諭殺害事件(松本美代(妻)、松山哲士、梅原啓)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2010年4月に私立高校教諭が殺害された事件である。保険金詐欺を企てたとして妻と知人の男が起訴された。
2010年4月30日、宮城県仙台市泉区で退院したばかりの私立高校教諭 松本秀夫さん(当時56歳)が自宅で血を流して倒れていたところを長男によって発見された。頭や顔を鈍器のようなもので何度も殴られており、鑑定の結果、死因は頭蓋骨骨折などによる脳挫傷であった。近くに凶器と見られている金属バットが落ちていた。また、周りの道路に犯人のものと見られる血痕が付いた足跡が残されていたのが確認された。尚、被害者は事件の二か月前にも謎の大怪我を負い、入院していた。
宮城県警の捜査により、2010年8月8日に殺人容疑で被害者の知人の男 松山哲士(当時39歳)、梅原啓(当時28歳)を逮捕。そして8月12日に松山、梅原の「妻が犯行を知っていたはず」などの供述から被害者の妻 美代(当時45歳)が殺人事件に関与した疑いがあるとして逮捕した。その後、松山が梅原に指示して頭や顔を鈍器で何度も殴るなどしたとして起訴。2010年6月7日に他の被告らと保険金2810万円をだまし取ろうとしたとして、妻 美代も殺人と詐欺未遂罪で起訴された。


❖判決内容(判決内容・判決時期)
妻 美代の弁護側は、妻 美代の殺害に多少は責任はあるが殺害計画を知らず実行役でもないとして、殺人ほう助罪の適用を主張。殺人罪を求める検察と対立した。2011年9月27日に仙台地裁は懲役11年(求刑懲役20年)の実刑判決。川本清巌裁判長は判決で松山が主導したとして積極的に殺害を企てたとまではいえないとしながらも「被告が嫌いな夫が亡くなることは妻にとって利益があり、妻は殺害に加担した行為は手助けにとどまらない」と認定した。検察、弁護側の双方が控訴せずに懲役11年の実刑判決が確定した。
妻の交際相手の松山には2011年10月20日に仙台地裁(川本清巌裁判長)で懲役23年(求刑懲役30年)の判決が言い渡された。判決では動機については保険金目的ではなく、怒りが爆発して殺害を決意したもので詐欺未遂はほう助にとどまるとした。弁護側はこの判決を不服として控訴した。2012年6月28日、仙台高裁(飯渕進裁判長)は一審判決を支持し、検察側の控訴を棄却した。判決では、保険金目的を動機の1つと認定した上で、「関係証拠を総合しても事実誤認とまでは認められない」とした。弁護側は判決を不服として上告した。
実行役の梅原に対しては、2011年11月24日に仙台地裁(鈴木信行裁判長)は懲役18年(求刑懲役20年)の判決を言い渡した。弁護側は男 松山にマインドコントロールを受けていたと主張していたが、判決では殺害をやめることは不可能でなかったとした。判決理由では、「強い殺意を持ち、金属バットで殴って殺害しており極めて悪質だ」とした。
❖出所予定(年齢)
松山哲士・・・2034年10月頃、62歳(懲役23年)
梅原啓・・・2029年11月頃、47歳(懲役18年)
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高崎小1女児殺害事件(野木巨之)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2004年(平成16年)3月11日に群馬県高崎市北久保町の北久保県営住宅で発生した殺人事件。
群馬県高崎市で、小学校1年の浜名愛ちゃん(当時7歳)が、県営住宅の同じ階に住む野木巨之(のりゆき)(当時26歳)に殺害された。
男は「いたずらしようとしたら騒がれそうになったので殺した」と供述。2005年12月9日に、前橋地方裁判所高崎支部にて男に対し無期懲役の判決が言い渡され、その後、検察側・弁護側双方とも控訴せず刑が確定した。
男はこの日、16時からの勤務で、仕事に行こうと家を出たところ、エレベーターを降りた女児を見つけた。
エレベーター内の防犯カメラには14時26分、女児が10階でエレベーターを降りる姿が映っていた。
エレベーターで同級生と別れた後、行方が分からなくなり、女児の母親 浜名祐子さん(当時36歳)が15時30分頃、「子供が帰ってこない」と110番通報した。
行方を捜していた捜査員が18時30分ごろ、女児と同じ階に住む男の部屋を訪れた際、男は不在で母親が対応した。
その後、母親が仕事先にいた男に電話で「女の子がいなくなったらしいが、何か知らないか」と尋ねたところ、「家に戻る」と言い、19時20分頃に男が帰宅。
捜査員が事情を聴いたところ「自分がやった」と自供。
女児は男の部屋で、布団に仰向けで横たわった状態で見つかった。
男は女児の遺体の前で泣き崩れた。
男の母親は部屋で女児が死亡していたことは知らなかった。

前橋地裁高崎支部は2005年12月9日、殺人罪などに問われていた元会社員の男に、求刑通り無期懲役を言い渡した。
公判中の被告人質問では、被告は殺害の動機を「性的な欲求はあったが、その欲求は職場でのストレスがたまって生じた」。
女児を強姦して殺害することを「犯行の2週間前から想定していた」と述べた。
続いて行われた検察側の質問で、検察官に「被告の作った『フィギュア』を被害者の遺族は取り上げたいと言っている。放棄しますか」と迫られると、「端から見れば汚い人形だが、自分を支えてくれた大切なもの」と言って泣き出し、「遺族の気持ちも分かるが、私が被害者を殺害してしまったように、相手から大切なものを奪ったら後悔するだろう。そんなことしてほしくない」などと頭を抱えて叫んだ。
このやり取りを傍聴していた女児の母親は、男の態度にいきどおった様子で、傍聴席から駆け足で退出した。
最終的に人形の放棄を承諾した男は「くそっ」と漏らしたままうつむき鳴咽した。
閉廷直前、裁判長は「人が命を落とすことの重大性が分かりますか。その人はもう帰ってこないということです」と男をさとした。
❖出所予定(年齢)
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竹田母親殺害事件(無罪につき不明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2010年に大分県竹田市の自宅で男が母親を殺害した事件である。
2010年1月27日、当時大分県竹田市竹田の自宅に引きこもり状態だった男(当時49歳)が同居していた母親(当時78歳)を首や胸などを金属製の缶切りや箸で何度も突き刺して殺害する事件が発生した。当時、男は慢性の統合失調症を患っていたが、検察は精神鑑定の結果責任能力があると判断。殺人罪で起訴した。

裁判では事実関係は争われず、当時の被告に責任能力があったのかどうかが争われた。引きこもり生活への葛藤や不満が蓄積したことが動機で心神耗弱状態ではあったが責任能力があったと検察側は主張したが、弁護側は事件当時は被告は心神喪失だったとして無罪を主張していた。2011年2月2日、大分地方裁判所(西崎健児裁判長)は懲役3年、保護観察付き執行猶予5年(求刑・懲役6年)の判決を言い渡した。判決では、急所を執拗に狙っていたとして行動を制御する能力は残っていたとした。弁護側はこの判決を不服として控訴した。
2011年10月18日、二審福岡高等裁判所(川口宰護裁判長)は、一転して逆転無罪判決を言い渡した。判決では事件当時の男は重症の統合失調症だったと認定し、凶器が缶切りや金属製の箸といった通常は殺人には使わない道具でありそれを使って約1時間も執拗に攻撃する行動は奇妙だと指摘。動機についても疑問を指摘して限定的に責任能力を認めた一審判決を破棄して責任能力がなかったとした。最高検によると裁判員裁判で一審の有罪判決を破棄して全面無罪判決とするのは初。検察側は上告を断念し、2011年11月2日に無罪が確定した。
❖出所予定(年齢)
無罪2011年10月18日、二審福岡高等裁判所(川口宰護裁判長)は、一転して逆転無罪判決を言い渡した。判決では事件当時の男は重症の統合失調症だったと認定し、凶器が缶切りや金属製の箸といった通常は殺人には使わない道具でありそれを使って約1時間も執拗に攻撃する行動は奇妙だと指摘。動機についても疑問を指摘して限定的に責任能力を認めた一審判決を破棄して責任能力がなかったとした。最高検によると裁判員裁判で一審の有罪判決を破棄して全面無罪判決とするのは初。検察側は上告を断念し、2011年11月2日に無罪が確定した。
❖出所予定(年齢)
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館林ストーカー殺人事件(永井隆央)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2014年2月に群馬県館林市で発生した殺人事件である。
トラック運転手 永井隆央(当時39歳)が元交際相手の鈴木千尋さん(当時26歳)にストーカー行為を繰り返したのち射殺した。鈴木さんは3歳の子供の母親であった。
2014年2月19日午後3時頃、群馬県館林市のディスカウントストアの駐車場に駐車されていた軽乗用車の運転席で鈴木さんの射殺体が発見された。車のドアには鍵がかかっておらず、鈴木さんの携帯電話や財布や買い物をした商品が車内で残されていた。司法解剖の結果、午後2時50分に鈴木さんは頭を撃ち抜かれて射殺されたものとみられたが、車内から銃は発見されなかった。
鈴木千尋さん(当時26歳)がストーカー被害を訴えていたことから、警察は怨恨による殺人の可能性を視野に元交際相手でトラック運転手の男 永井隆央(当時39歳)を対象に捜査をし、2月20日には殺人容疑で逮捕状を取った。しかし、2月21日に永井は栃木県鹿沼市の山中で停車されていた軽自動車の中で射殺体として発見された。車内には死亡した永井のすぐそばに鈴木さん射殺にも使われたと思われる回転式拳銃があり、自殺したものと判断された。
永井は鈴木さんの家族の車にGPSを取り付け、家族が鈴木さんと接触をしたことによって、2月19日の数日前に鈴木さんの居宅を突き止め、さらに鈴木さんの車にも別のGPSを取り付けた。永井はこのGPS情報を基に被害女性の居場所を掴んで、鈴木さん射殺という犯行に及んだものとみられた。


❖判決内容(判決内容・判決時期)
被疑者死亡のまま書類送検
❖出所予定(年齢)
死亡(自殺)❖出所予定(年齢)
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武富士弘前支店強盗殺人・放火事件(小林光弘)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2001年(平成13年)5月8日午前10時49分、青森県弘前市田町五丁目に所在していた消費者金融会社「武富士」弘前支店(事件後に閉店)で発生し、従業員5人が死亡・4人が負傷した強盗殺人・放火事件である。
2001年(平成13年)5月8日午前10時49分頃、男Kが武富士弘前支店に強盗目的で押し入った。店舗は3階建てのテナントビルの3階にあり、1階・2階にはレンタルビデオ店が入居していた。
小林光弘(当時43歳)はカウンター越しに混合油を撒き、「金を出さねば火をつける」と脅迫したが、支店長に拒否され青森県警察に110番通報されたため激怒して店内に放火し逃走した。火災は店内に一気に広がり、店延べ約96平方メートルをほぼ全焼した。支店は3階にあり、小さな窓しかないという建物の構造も災いし、同支店の社員 田沢伸治さん(当時36歳)、太田はるかさん(当時20歳)、葛西志保里さん(当時22歳)、笹森容子さん(当時46歳)、福井貴子さん(当時30歳)の5人が炎に囲まれて脱出不能となりそのまま死亡。偶然、近くの店舗のガラス清掃業者がはしごを持って駆けつけたため救出され、辛うじて脱出した4人も重傷を負う惨事となった。
弘前支店が県警弘前警察署に110番通報した際、住所を言い間違えたため警察官がそちらに出動した後に現場に到着したり、招集日であったため緊急配備までに時間を要したことなどから初動が遅れ、犯人の逃走を許した。作成されたモンタージュの似顔絵と現場から逃走した車両から重要参考人として小林が浮上していたものの、被疑者Kが逃走中にアリバイの偽装などを行っていたため捜査は難航した。その後放火に用いた新聞紙(後述)などが決め手となり、青森県警捜査本部(捜査一課・弘前署)は2002年(平成14年)3月4日に被疑者Kを強盗殺人・現住建造物等放火容疑で逮捕した。
小林は仲人の女性から頼まれて消費者金融から借金をし援助をしたが、それが借金地獄への転落の一因であった。女性一家4人が2000年(平成12年)4月に岩手県宮古市の宮古港で自殺したことを新聞報道で知り、精神的にますます追い詰められ、事件に至っている。直接の動機はギャンブルによる借金苦であった。
小林は事件現場店舗で借金はしていなかったが、「利用したことがない店だから顔が割れていない」という理由により同店舗で犯行に及んだ。
2007年3月27日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人 小林の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑判決が確定することとなった。
被告人 小林の国選弁護人・小川原優之は同年4月2日付で同小法廷に判決の訂正を申し立てたが、同小法廷が同月12日付で申し立てを棄却したために同日付で正式に死刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
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館山市一家4人放火殺人事件(高尾康司)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2003年(平成15年)12月18日未明に千葉県館山市八幡で発生した現住建造物等放火・殺人事件。民家が放火されて全焼し住民の一家4人が死亡した。
高尾康司(逮捕当時40歳・土木作業員)は本事件から6年前の1998年(平成10年)2月11日未明に千葉県館山市北条のキャバレーを放火して全焼させ、住み込みで働いていた従業員男性(事件当時65歳)を焼死させる放火事件を起こした。
高尾は本事件以前から市内で放火を繰り返しており、特に5年前の1998年(平成10年)2月11日には館山市内でキャバレーを全焼させる火災を起こして住み込みの従業員男性1人を死亡させていた。市内で繰り返された一連の連続放火事件では5人の人命が奪われ、数年にわたり市民を不安にさせたことから『千葉日報』の回顧記事では「地域社会に大きな衝撃を与えた事件だった」と報道された。
高尾は2003年12月18日3時15分ごろ、根津隆次郎さん(事件当時56歳・無職)一家が住んでいた千葉県館山市八幡822番地1号の住宅(木造亜鉛メッキ鋼板葺2階建て・延べ床面積約80㎡)を見つけると「屋内でその居住者らが就寝しており、放火すれば住人らが死亡する可能性がある」と認識しながらあえて玄関付近の板壁に接着して置かれていた新聞紙の束に持っていたライター(平成16年押第47号の1)で点火し、その火を住宅に燃え移らせて全焼させたほか、隣接していたほか5人の居宅など6棟(延べ床面積合計約386㎡)にも燃え移らせて全焼させた(現住建造物等放火罪)。
出火当時の館山市内は平均で風速4-6m、最大で10m超の強い西風が吹いていたため、火は強風にあおられて広範囲に燃え広がり、根津さん宅を含めた木造平屋・2階建て住宅計5棟に加え、千葉県宅地建物取引業協会南総支部の事務所1棟を含めた計6棟の民家467㎡が全焼し、当時根津さん宅内で就寝していた無職・根津隆次郎さん(56歳)、妻・初枝さん(52歳)、長男・英吾さん(27歳)、次男・昌吾さん(25歳)の親子計4人が焼死した(殺人罪)。。ほかにも同居する家族はいたのだが、三男(当時23歳)は仕事で不在、根津さんの母親(当時80歳)は入院中のため、難を逃れた。
出火当時の館山市内は平均で風速4-6m、最大で10m超の強い西風が吹いていたため、火は強風にあおられて広範囲に燃え広がり、根津さん宅を含めた木造平屋・2階建て住宅計5棟に加え、千葉県宅地建物取引業協会南総支部の事務所1棟を含めた計6棟の民家467㎡が全焼し、当時根津さん宅内で就寝していた無職・根津隆次郎さん(56歳)、妻・初枝さん(52歳)、長男・英吾さん(27歳)、次男・昌吾さん(25歳)の親子計4人が焼死した(殺人罪)。。ほかにも同居する家族はいたのだが、三男(当時23歳)は仕事で不在、根津さんの母親(当時80歳)は入院中のため、難を逃れた。
いずれの家も原形を留めないほどに焼け落ちたが、中でも最も焼け方が激しかった根津さん宅は柱まで焼け落ちて瓦礫のように変わり果て、焼け跡から発見された遺品は焼け落ちた硬貨数枚のみだった。
高尾康司(事件当時40歳)は12月18日6時ごろに館山市船形付近の市道でトラックを飲酒運転していたが、左右にふらつきながら走るなど飲酒運転を行うドライバーに特徴的な挙動だったため、船形地区を警戒していた館山警察署員により発見された。
署員がアルコール検査を実施したところ、呼気から酒気帯び相当量のアルコールが検出されたため、署員は道路交通法違反(酒気帯び運転)容疑で高尾を現行犯逮捕したが、高尾のセーター・ズボンに燃えた跡とみられる穴が開いているなど不審な点がみられたほか、高尾の体からも「火災現場特有の焦げ臭いにおい」が漂っていたため「放火していないか?」と確認したところ、高尾は「ダンボールなどに放火した」と供述したほか、(犯行に使用したとみられる)100円ライターを所持していた。現行犯逮捕現場は一家4人焼死火災現場から北に約2kmあまり離れた高尾宅近くの路上で、同現場に沿う市道と同じ市道だったほか、直後に発生した不審火4件の現場にも近かった。
署員がアルコール検査を実施したところ、呼気から酒気帯び相当量のアルコールが検出されたため、署員は道路交通法違反(酒気帯び運転)容疑で高尾を現行犯逮捕したが、高尾のセーター・ズボンに燃えた跡とみられる穴が開いているなど不審な点がみられたほか、高尾の体からも「火災現場特有の焦げ臭いにおい」が漂っていたため「放火していないか?」と確認したところ、高尾は「ダンボールなどに放火した」と供述したほか、(犯行に使用したとみられる)100円ライターを所持していた。現行犯逮捕現場は一家4人焼死火災現場から北に約2kmあまり離れた高尾宅近くの路上で、同現場に沿う市道と同じ市道だったほか、直後に発生した不審火4件の現場にも近かった。
館山署員が署内で高尾を追及したところ、高尾は「ストレスがありイライラしていた。帰宅途中に所持していた使い捨てライターで放火した」と供述し、同日に発生した5件の不審火(一家4人焼死火災・スーパーマーケット放火事件など)への関与を認めたため、千葉県警捜査一課・館山署はスーパーマーケットへ放火した非現住建造物等放火容疑で同日夜に被疑者Tを逮捕した。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2010年9月16日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人Tの上告を棄却したため、死刑判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)❖出所予定(年齢)
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多摩市パチンコ店強盗殺人事件(王剛勇・陳代偉・何力)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1992年(平成4年)に東京都多摩市の雑居ビルで発生した強盗殺人事件である。犯人の3人のうち、従犯2人は逮捕され死刑判決が確定したが、主犯が国外逃亡しており一部未解決である。
1992年(平成4年)5月30日、中華人民共和国福建省出身の男3人 (王剛勇(読み不明)・陳代偉(チェン・ダイウェイ)・何力(フー・リー)) が閉店後のパチンコ店Mから売上金を強奪する計画を実行した。事件は王剛勇(当時29歳)が「簡単に金がとれるパチンコ店がある」と陳代偉(当時31歳)、何力(当時28歳)に話を持ちかけ、事前にパチンコ店を下見したり、犯行の予行演習までしていた。王剛勇はハンティングナイフ、陳代偉はバタフライナイフ、何力は木の棒を持参し、店員が抵抗したら殺害してもかまわないと決意していた。
閉店後の午後11時20分ごろ、パチンコ店の従業員甲(当時39歳)と乙(当時43歳)の二人が、1階の店舗から4階の事務所に売上金の現金1500万円が入った袋を台車に載せて移動するためエレベーターに乗った。それを確認し王剛勇が1階から、陳代偉と何力が2階からエレベーターに乗り込んだ。従業員2人に対して王剛勇と陳代偉はナイフで何箇所も刺し、何力も棒で頭部を殴打して殺害した。エレベーター内部は血の海になっていた。
エレベーターが4階で止まると陳代偉は散乱した現金のなかから約234万円を鷲掴みにして逃げようとしたが、そこへ異変を察知した同店の店長兼常務の丙(当時36歳)がかけつけ、王剛勇らと鉢合わせした。王剛勇は丙を刺殺し、丙は3人目の犠牲者となった。
その後、陳代偉が1992年(平成4年)10月に東京都内のスナックに窃盗目的で侵入したところを警視庁巣鴨警察署に逮捕され、指紋から多摩市の強盗殺人事件の犯人と判明した。不法入国で渋谷警察署に逮捕されたCも関与が明らかになり再逮捕された。主犯格の王剛勇はすでに出国しており、国際手配されたが現在も逃亡中である。
右が陳代偉(チェン・ダイウェイ)、左が何力(フー・リー))
真ん中は王剛勇(読み不明)右が陳代偉(チェン・ダイウェイ)、左が何力(フー・リー))

❖判決内容(判決内容・判決時期)
裁判では王剛勇が主犯であり陳代偉と何力は従ったにすぎないと認定したが、犯行態度が悪質極まりないとして1審(東京地方裁判所八王子支部・1995年〈平成7年〉12月)、2審(東京高等裁判所・1998年〈平成10年〉1月)とも死刑が宣告され、最高裁判所も2002年(平成14年)6月に上告を棄却して死刑が確定した。2021年(令和3年)現在、2名とも東京拘置所に収監されている。
❖出所予定(年齢)
王剛勇(読み不明)・・・国際指名手配中❖出所予定(年齢)
陳代偉(チェン・ダイウェイ)・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
何力(フー・リー)・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
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筑後リサイクル店事件(中尾伸也・中尾知佐)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
福岡県筑後市のリサイクルショップの従業員らが2004年(平成16年)から2006年(平成18年)にかけて経営者の中尾伸也(逮捕時47歳)・中尾知佐(逮捕時45歳)夫婦の暴行により死亡した事件である。
2003年(平成15年)に福岡県筑後市にリサイクル店を開業した伸也・知佐の夫妻は従業員に対して体罰を含む厳しい管理をおこなっていた。中でも日高崇さん(事件当時22歳)とB(事件当時19歳)に対する伸也・知佐の指導は厳しく、同年12月には日高さんとBさんは 伸也・知佐夫妻のアパートに居住することになった。
日高さんとBさんはこれにより日常的に暴力を受けることとなり、時には食事を抜かれることもあったため日を追うごとに衰弱していった。2004年(平成16年)5月下旬から6月上旬の間に、Bさんが体罰により死亡する。そして6月下旬、伸也が自宅アパートで日高さんにいつもの体罰を加えたところ、倒れた日高さんはそのまま死亡。7月に日高さんの遺族は行方不明となっていた日高さんの捜索願いを出していた。
日高さんとBさんはこれにより日常的に暴力を受けることとなり、時には食事を抜かれることもあったため日を追うごとに衰弱していった。2004年(平成16年)5月下旬から6月上旬の間に、Bさんが体罰により死亡する。そして6月下旬、伸也が自宅アパートで日高さんにいつもの体罰を加えたところ、倒れた日高さんはそのまま死亡。7月に日高さんの遺族は行方不明となっていた日高さんの捜索願いを出していた。
2006年(平成18年)には知佐の妹 栄江(事件当時36歳)とその夫 冷水一也さん(事件当時33歳)も伸也・知佐夫妻のリサイクル店で働くようになったが、しばらくしてCは伸也・知佐夫妻により他の従業員と隔離され事務所の一室に住まわされた上で靴べらやゴルフクラブによる暴行を受けた。また、日高さんの時と同様、互いに暴力を振るうようにも指示されて、お互いに体罰を加えた。
8月に知佐の妹 栄江が生活の過酷さからひとりで九州から逃げ出し、知佐の元を離れると、伸也・知佐夫妻は冷水一也さん・栄江夫妻の息子の大斗ちゃんを自宅アパートに住ませるようになった。やがて中尾夫婦は、自分たちの意に沿わない態度をとる大斗ちゃんに食事も満足に与えず、さらに頭や顔を殴るなどの暴行をくり返したために、10月中旬頃、大斗ちゃんは死亡する。
冷水さんも2006年9月下旬から店内の倉庫に監禁されるようになっていた。冷水さんは約5平方メートルの倉庫にヒモでつながれ、十分な食事も与えられず、殴る蹴るの暴行を受け続けた。次第に衰弱していった冷水さんは、10月下旬頃に死亡した。
冷水さんも2006年9月下旬から店内の倉庫に監禁されるようになっていた。冷水さんは約5平方メートルの倉庫にヒモでつながれ、十分な食事も与えられず、殴る蹴るの暴行を受け続けた。次第に衰弱していった冷水さんは、10月下旬頃に死亡した。
冷水さん親子の死から7年半後の、2014年(平成26年)4月11日、知人名義の消費者金融カードで不正に現金を引き出したとして、伸也・知佐2人を窃盗容疑で逮捕。
6月16日、中尾伸也の「元従業員の遺体を実家の庭に埋め、白骨化した骨を砕いて川に捨てた」の供述に基づき捜索した結果、中尾伸也の実家の庭から発見された骨の一部のDNAが 日高崇さんと一致。日高崇さん殺人容疑で伸也と知佐は再逮捕された。
知佐の妹 栄江(事件当時36歳)も、夫の冷水さん殺害に関わった疑いがあるとして傷害致死容疑で逮捕された。栄江は冷水さんへの暴行罪を適用されたが、公訴時効(3年)が成立したとして不起訴処分となった。


❖判決内容(判決内容・判決時期)
2017年(平成29年)1月27日、福岡高等裁判所で中尾知佐の控訴審判決。検察・弁護側双方の控訴を棄却。検察が主張した日高崇さんに対する未必の殺意については「体罰を続けることによる日高崇さんの死亡の可能性については認識できたにしても、認識した可能性の程度が、未必の殺意を肯定できる程度まで高いものであったと言える証拠はなく、(中略)被告人が、日高崇さんの死亡の結果を受け入れてまで、日高崇さんに体罰を加え続けようとしていたとは言えないから、被告人に未必的なものであるにしても、日高崇さんに対する殺意を肯定することはできない」とした。検察、弁護側とも上告せず、中尾知佐の懲役30年の刑が確定した。
2017年(平成29年)3月27日、福岡高等裁判所で中尾伸也の控訴審判決。3人とも傷害致死に当たるとして懲役28年を言い渡した福岡地方裁判所での一審判決を支持し、検察・弁護側双方の控訴を棄却。高裁は日高崇さん事件について日高崇さんは逃げ出すことも可能だったとして中尾伸也の日高崇さんへの殺意は肯定できないとした。中尾伸也は上告せず4月11日に懲役28年が確定した。
❖出所予定(年齢)
中尾知佐・・・2047年3月頃、75歳(懲役30年)
冷水栄江・・・不起訴(無罪放免)知佐の妹
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❖出所予定(年齢) 2052年5月頃、79歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
❖出所予定(年齢) 2035年2月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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高窪統教授

❖判決内容(判決内容・判決時期)
❖出所予定(年齢) 2028年12月頃、47歳(懲役20年)
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
❖出所予定(年齢) 2027年1月頃、59歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
事件発生から5年となる直前の2013年(平成25年)2月21日、法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令により収監先・東京拘置所にて金川の死刑が執行された(当時29歳没)。
❖出所予定(年齢) 死刑判決(2013年(平成25年)2月21日、東京拘置所にて死刑執行(当時29歳没))
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❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
❖出所予定(年齢)
2053年9月頃、73歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
❖出所予定(年齢)
中井嘉代子・・・2040年8月頃、96歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
坂本明浩・・・2041年8月頃、77歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
佐野和幸・・・2043年7月頃、??歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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千葉小3女児殺害事件(渋谷恭正)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2017年(平成29年)3月24日に千葉県松戸市で小学3年生の女児が行方不明になり、翌々日に同県我孫子市で遺体で見つかった事件。
2017年3月24日、松戸市立六実第二小学校の3年生女子児童 レェ・ティ・ニャット・リンちゃん(当時9歳、ベトナム国籍)が、登校のため自宅を出たまま行方不明になり、同月26日の朝に我孫子市北新田の排水路脇の草むらにおいて絞殺体で発見された。また、遺体発見現場から約20km離れた茨城県坂東市の利根川河川敷で、リンちゃんのランドセル及びリンちゃんのものとみられる衣服が見つかった。
警察は殺人・死体遺棄事件として捜査し、同年4月14日にリンちゃんが通っていた同小学校の保護者会元会長の渋谷恭正(当時49歳)を死体遺棄容疑で逮捕した。現場の遺留品のDNAの型が渋谷のものと一致したことなどが逮捕理由とされた。
2018年6月4日、裁判員裁判による初公判が、千葉地方裁判所(野原俊郎裁判長)で開かれ、2018年7月6日、同地裁で判決公判が開かれ、同裁判長は無期懲役を言い渡した。
2021年3月23日、控訴審判決公判が開かれた。東京高裁は無期懲役とした一審判決を支持し、検察側とBの控訴をいずれも棄却した。
渋谷は東京高裁の有罪判決(無期懲役)を不服として、即日、最高裁判所へ上告した。
一方、リンちゃんの遺族は、東京高等検察庁に渋谷の死刑を求めて上告するように求めたものの、東京高等検察庁は「判例違反などの上告理由を見いだせない」として、最高裁判所への上告を断念した。これにより、渋谷に死刑判決が言い渡される可能性はなくなった。
上述の通り渋谷側のみが上告していたが、2022年5月11日付けで、最高裁判所第一小法廷が被告の上告を棄却する決定を下し、無期懲役とした二審までの判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
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千葉少女墓石撲殺事件(石橋広宣)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2003年(平成15年)10月1日に千葉市若葉区の墓地で発生した殺人事件である。
2003年10月1日の午前7時10分頃、千葉市若葉区の墓地駐車場で、ジョギングしていた男性が遺体を発見した。遺体は、若葉区千城台東の飲食店アルバイトだった千葉市若葉区千城台在住の石橋裕子さん(当時16歳)であった。遺体は頭を鈍器で強く殴られて殺害された後、焼かれていた。
千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である石橋広宣(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。
千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である石橋広宣(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。
少女はカラオケ店で働いたものの、給料面などから不満を持っており、水商売で働こうと考えていた。しかし18歳未満という年齢では働くことは不可能である。そこで男は自分との結婚を持ちかけた。結婚すれば成人として扱われるからである。ただし民法の上では成人扱いになるが、風俗営業法による規制から16歳で就職することは禁じられている。そして2人は2003年7月に婚姻届を提出し、少女はキャバクラで働き始めた。
ただし両者の間には恋愛感情は無く、2人の利害が一致したためでの偽装結婚に過ぎなかった。男は消費者金融に300万円に及ぶ多額の借金を抱えており、以前も別の女性と偽装結婚していた。女性の苗字を名乗って名前と戸籍を変更することで、消費者金融の借金を踏み倒そうとしていたのである。
しかし男は少女に結婚した見返りとして上納金を要求する。少女は初めこれに応じたが、次第に金銭トラブルを引き起こすようになり、遂に少女は偽装結婚を警察に通報すると言い出す。男は以前に起こした詐欺の事件で執行猶予中であった。
これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロ程度の墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。そして少女の遺体にオイルを10数本かけて火をつけて逃走した。後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。
これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロ程度の墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。そして少女の遺体にオイルを10数本かけて火をつけて逃走した。後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2005年2月23日、千葉地裁で判決公判が開かれ、「暴行は想像を絶する残虐さ」、「自己中心的で幼稚極まりなく、動機に酌むべき点は無い」、「確定的殺意に基づく極めて残虐な犯行で、矯正は不可能」として、求刑通り無期懲役となる。4月19日に控訴を取り下げて刑は確定した。
また、未成年の少年らも、殺害と遺体損壊に加わった3人を5年から10年の不定期刑に、遺体損壊に加わらなかった1人を3年半から7年の不定期刑に処して確定した。こちらも「残虐な犯行」、「遺体損壊に対する悔悟の念が感じられない」とされた。
❖出所予定(年齢)
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中央大学教授刺殺事件(山本竜太)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2009年1月14日に中央大学で発生した殺人事件。
2009年1月14日午前10時15分頃、東京都文京区の中央大学後楽園キャンパス内の校舎1号館4階男子トイレで同大学理工学部の高窪統(たかくぼはじめ)教授(当時45歳)が刃物で胸や背中や腹などを刺されて倒れているのが発見された。高窪教授は同日午前11時30分に搬送先の病院で死亡した。
死因は背中、胸、腹の刺し傷による失血死。傷は体の上半身を中心に40ヶ所に上り、両腕には攻撃を防ぐ際についたとみられる傷もあった。
現場のトイレ近くで目撃された「30歳くらい、ニット帽、黒いコートの男性」が犯人像として浮上した。
同年5月21日、高窪の遺体の手の爪に残っていた微物のDNA型が一致したため、山本竜太(当時28歳)が殺人容疑で逮捕された。山本は中央大学理工学部のOBで、高窪教授の元教え子であった。凶器には、刈り込みばさみ(刃渡り約27cm)を分解したものを使用したという。
山本は理系科目が得意だったといわれ、現役で中央大学理工学部に進学。しかし周囲になじめず孤立がちだったという。そんなときに親しく接してくれたのが高窪教授であった。山本は高窪教授と別れたくなかったのか、高窪教授に大学院に進学する旨を相談したが、高窪教授は山本が人付き合いが苦手なことからむしろ社会に出てコミュニケーションスキルを上げることをすすめた。
高窪教授の助言を得て山本は大手食品会社に就職するが、わずか1ヶ月で退社。その半年後くらいに就職した電子機器会社でも試用期間中で打ち切られ、電子メーカーでも自ら自主退社した。2007年頃から山本は1人暮らしを始め、ホームセンターに就職した。だがそこでも客や同僚とのトラブルが絶えず、それが原因で高窪教授を逆恨みして凶行に至ったのではないかとされている。
なお、山本は動機に関しては黙秘を続けているが、「卒業前の忘年会で高窪教授に話しかけてもらえなかった」「翌日の記念写真の撮影会に食あたりで出席できず、疎外されていると感じた」など高窪教授に対する不満を述べている。
山本竜太
山本竜太

高窪統教授

❖判決内容(判決内容・判決時期)
東京地方検察庁は、2009年6月から3か月半かけて山本を鑑定した結果、責任能力ありと判断し、同年10月2日に殺人罪で山本を起訴。翌2010年11月24日の初公判で山本被告側は起訴内容を認めた。また、冒頭陳述では、検察側・弁護側双方が「被告は妄想性障害にかかり、心神耗弱だった」と主張した。
2010年12月2日、東京地方裁判所の今崎幸彦裁判長は山本に対して懲役18年(求刑懲役20年)を言い渡した。検察と弁護側の双方が期限である12月16日までに控訴しなかったため、判決が確定。
❖出所予定(年齢)
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つくば妻子殺害事件(野本岩男)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1994年(平成6年)10月29日に発生、翌11月に発覚した殺人・死体遺棄事件。茨城県つくば市に住む総合病院医師 野本岩男(当時29歳)が妻 映子(当時31歳)と長女 愛美ちゃん(同2歳)、長男(同1歳)の妻子3人を殺害し、3人の遺体を横浜港(京浜運河)に遺棄した事件である。
1994年11月3日、神奈川県横浜市鶴見区の横浜港(京浜運河)からビニール袋に入れられ重しがつけられた女性の遺体が発見され、続いて幼児の遺体が2体発見された。その後、遺体の身元は茨城県つくば市に住む31歳女性とその長女(当時2歳)、長男 優作ちゃん(当時1歳)と確認された。3人については、女性の夫であり子供2人の父親でもある総合病院医師の野本岩男(当時29歳)から捜索願が出されていた。
野本から事情を聞くにつれ、野本の右の手の甲に小さな傷があることを捜査員が見つけた。野本は飼い犬に噛まれた傷と主張したが、捜査を続けていくにつれて、夫婦間のトラブルがあったことが判明した。
11月25日、野本は殺人及び死体遺棄罪で逮捕された。遺体を遺棄した当日、高速道路に設置されていたNシステムの映像に野本の乗用車のナンバーが記録されており、車が横浜方面に向かっていたことも判明、これが事件解決の決め手になった。
野本の自供によると、10月29日午前5時、愛人問題等でかねてから夫婦仲が悪くなっていた妻と口論になった。妻は包丁とロープを持ち出し「いっそのこと私を殺せばいい」と口走り、自分の首にロープを巻きつけソファーから飛び降りて見せたり、病院長に愛人のことを訴えると言い出したためロープで首を絞め、両手で鼻と口を塞いで窒息死させた。子供2人も父が殺人者となり残されることを不憫に思い殺害した。



❖判決内容(判決内容・判決時期)
刑事裁判で、検察官は被告人野本に死刑を求刑したが、1996年(平成8年)2月22日に横浜地裁第3刑事部(松浦繁裁判長)は犯行は計画的なものではなく衝動的だったなどとして、野本を無期懲役とする判決を言い渡した。
検察官・野本ともに同判決を不服として控訴したが、1997年(平成9年)1月30日、東京高裁(佐藤文哉裁判長)は双方の控訴を棄却する判決を言い渡した。検察官・野本の弁護人とも量刑には不服の意を示していたが、量刑不当は適法な上告理由とならないため、上告を断念した。野本は上告期限となる同年2月14日付で上告したが、同月28日付でこれを取り下げたため、無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
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対馬市父娘殺害放火事件(須川泰伸)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2016年12月6日から7日にかけて長崎県対馬市で発生した、殺人・放火事件。
2016年12月6日から7日にかけて、須川泰伸(当時40歳)は、古川敬氏さん(当時65歳)から依頼された漁船の修理を巡って古川さんとトラブルになり、対馬市内の古川さん宅で、古川敬氏さん(当時65歳)を鈍器のようなもので殴り殺害。古川さんの次女である聖子さん(当時32歳)も同様に殺害し、ガソリンや灯油をまいて古川さん宅に火をつけ、全焼させたとされる。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
捜査段階から殺人と放火の容疑を否認。刑事裁判では無罪を主張するも、死刑を求刑され、一審で無期懲役の判決を受け、控訴するも棄却され、さらに最高裁に上告するも2019年12月19日に棄却されて無期懲役が確定。
❖出所予定(年齢)
2049年4月頃、70歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
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土浦連続殺傷事件(金川真大)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2008年(平成20年)3月19日と同23日に、茨城県土浦市で発生した通り魔事件。
金川真大(犯行当時24歳、2013年に死刑執行)が、持っていた刃物で相次いで人を刺し、2人が死亡、7人が重傷を負った。
金川は高校3年の時から「この世に生きていても仕方ない」という想いに捉われていたが、自殺は痛くて無理だから、人を殺して死刑になりたいと考えていた。
2008年(平成20年)3月19日、朝起きたがまたしても妹はいなかった。小学校襲撃を決めてマウンテンバイクで向かったが、丁度終業式で大人が多かったため、失敗を恐れて回避した。中学校や高校も同様であると想定して向かわず、ターゲットを探して住宅街を走らせた。住宅街のうちの一軒のインターホンを押し、出てきた三浦芳一さん(72歳)に自転車の空気入れを借りた。三浦さんから空気入れを受け取った金川真大(当時24歳)は、三浦さんが家の中に戻るために背中を向けたその隙に首筋に包丁を突き刺した。
服に返り血がついていたため一旦自宅へ戻り、自宅で着替えたあと荒川沖駅から常磐線で東京へ向かい、秋葉原の理髪店で丸坊主にし、ビジネスホテルにチェックインした。当日の夕方のニュースで被害者が死亡したのを知り、「死んで良かった」と思ったという。
当初はオズの魔法使いで気に入っていた「OZ」のマークを、連続殺人だとわかるように現場に残す予定であったが、動転して忘れてしまったため、自宅の部屋の壁に赤ペンで描いた。
一方、被害者の側では娘がすぐに通報し、現場のマウンテンバイクから金川が被疑者として浮上した。Kの自宅に踏み込んだ捜査員は、血染めの服、壁に描かれた「OZ」の模様、携帯電話の犯行声明などから犯人であると断定するに至る。
2008年(平成20年)3月20日、金川はスーツ姿で電気街へ行き、この日発売のゲームソフトを購入、ホテルの部屋で一日中ゲームをして過ごした。体力を消耗しており、すぐに次の殺人を起こす気にはならなかったためである。
2008年(平成20年)3月21日、安否を心配した母からのメールを確認し、警察を挑発する返信を送る。このメールが決定打となり、県警により指名手配された。金川はこの日も秋葉原で過ごし、自身が指名手配されたことをニュースで知る。
2008年(平成20年)3月22日、土地勘のある常磐線ひたち野うしく駅から荒川沖駅に向かって歩いたが、殺害できそうな通行人がいないため断念。
2008年(平成20年)3月23日、金川は「人が多すぎず、少なすぎない、知っている場所」として、荒川沖駅を襲撃することにした。黒い上着に黒いニット帽を被り、午前11時過ぎに下車、西口から東口にかけて手当たり次第に、その場にいた通行人の首をナイフで狙って襲撃した。丁度その場所で張り込んでいた警察官は襲撃されるまで金川に気付かず、自身も大量出血で取り押さえることが出来なかった。他の捜査員も確保に失敗し、金川はそのまま現場を離脱した。
第2の現場では警官を含めて8人が襲撃され(5人は駅改札近く、2人はさんぱる前、1人は通路を降りた所で刺された)、通路を降りた阿見町の山上高広さん(当時27歳)が死亡した。金川は自首して捕まるべく交番へ向かって歩き、途中複数の通行人とすれ違ったが、駅での凶行で体力を消耗したため手を出さなかった。駅からおよそ200m離れた荒川沖地区交番に到着したが不在だったため、備え付けてある呼び出し電話機から「私が犯人です」と自ら通報した。駆けつけた警察官には抵抗せずに現行犯逮捕されたが、その時点で金川は自分が死刑になる確証が得られていないことにイライラしていた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2009年12月18日に判決公判が開かれ、水戸地裁は検察側の求刑通り被告人 金川に死刑判決を言い渡した。
金川は判決直後のメディアとの面会において、「完全勝利といったところでしょうか」と満足そうに話した。一刻も早い死刑執行を望む主張は変わらなかったが、取材記者が今後、金川が更生する可能性に懸けて、確定死刑囚となった後も面会を続けることを求めると、金川は応じて面会希望者に記者の名前を書いた。弁護人は東京高等裁判所に即日控訴したが、金川は12月28日に控訴を取り下げる手続きをし、一週間後の2010年(平成22年)1月5日に死刑判決が確定した。
事件発生から5年となる直前の2013年(平成25年)2月21日、法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令により収監先・東京拘置所にて金川の死刑が執行された(当時29歳没)。
❖出所予定(年齢)
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津山小3女児殺害事件(勝田州彦)
2004年(平成16年)9月3日に岡山県津山市総社で発生した殺人事件。
事件発生後14年間の長期にわたり未解決であった。事件発生から約14年後の2018年(平成30年)5月に別の殺人未遂事件で服役していた勝田州彦(当時43歳)が被疑者として逮捕され、2023年(令和5年)9月に無期懲役が確定することとなった。
2004年9月3日、下校してきた被害者の姉が、小学3年生だった妹(当時9歳)の遺体を発見。岡山県警察の捜査により、犯行時間は帰宅直後の15時15分から約20分と見られている。しかし、第一目撃者の証言などから、犯行時間については不明な点がある(#事件当日の経過参照)。なお、自宅の鍵や窓は壊されていなかった。
遺体の傷は、すべて正面からの刺し傷で、抵抗の跡はなかった。手や腕、背後に傷はなかった。刺し傷は深いもので数センチあり、内臓に達しているものもあった。2004年9月4日の司法解剖で死因が「窒息・失血」の疑いであると判明。告別式は同月7日に営まれた。
2018年5月30日、津山警察署は別の殺人未遂事件で服役していた勝田を殺人などの罪で通常逮捕した。勝田は、「刃物で刺したというところ以外は、僕がやったことに間違いありません」と容疑を一部否認。女児とは面識はなく「偶然見かけて、かわいいと思った」と供述。勝田は「女の子の痛がる顔を見ると、性的に興奮する」という嗜好の持ち主であった。
しかし、同年8月6日に岡山簡易裁判所(小林正明裁判官)で開かれた勝田の勾留理由開示の法廷では、「(殺害行為は)ありません」と容疑を否認した。なぜ、警察の取り調べ段階で認めたのかの理由を問われると、「弁護士に死刑になる可能性を知らされて怖くなり、認めれば(情状酌量で)死刑にならないと考え、うその供述をした」と述べた。
しかし、同年8月6日に岡山簡易裁判所(小林正明裁判官)で開かれた勝田の勾留理由開示の法廷では、「(殺害行為は)ありません」と容疑を否認した。なぜ、警察の取り調べ段階で認めたのかの理由を問われると、「弁護士に死刑になる可能性を知らされて怖くなり、認めれば(情状酌量で)死刑にならないと考え、うその供述をした」と述べた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2022年1月6日に岡山地方裁判所(倉成章裁判長)で判決公判が開かれ、同地裁は勝田に無期懲役(求刑:同)の判決を言い渡した。
2023年(令和5年)9月7日付で最高裁第一小法廷(深山卓也裁判長)が上告棄却の決定を出した。勝田は同決定を不服として異議申し立てを行ったが、2023年(令和5年)9月20日付で棄却されたことで一、二審判決による無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
2053年9月頃、73歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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テレクラ放火殺人事件(中井嘉代子・坂本明浩)
2000年(平成12年)3月2日早朝、神戸市中央区の新宿ソフト系列のテレホンクラブ「リンリンハウス」の元町店と神戸店で発生した放火殺人事件。4人が死亡し、4人が重軽傷を負った。
3月2日午前5時頃、リンリンハウス神戸店内に自動車で乗り付けた男が侵入。一升瓶による火炎瓶を投げつけたが、幸いにも従業員が消し止め、負傷者1名に留まった。続いて10分後、男は近接する元町店に侵入、気がついた従業員が火炎瓶を男に投げ返すも炎上、4人が死亡、3人が重軽傷を負う被害を出した。
元町店の存在したビルにかつて同様のテレホンクラブを出店していたライバル店の経営者 中井嘉代子(当時66歳)は、ビル側とのトラブルにより撤退を余儀なくされた。ところが撤退後に開店した同業他社が盛況ぶりを見せたことから、不満を抱いた中井は、広島の麻薬密売グループ会長の坂本明浩(当時47歳)に対し1000万円の謝礼金を持って妨害工作を画策、坂本明浩(当時47歳)は実行犯である佐野和幸(当時44歳)・亀野普也(当時29歳)・堀健一(当時41歳)に対し放火を指示した。
犯行の際に、元町店の従業員が投げ返した火炎瓶で佐野が大火傷を負っており、熱傷の名医として知られている広島県広島市の長崎病院に入院したことが手がかりとなり、後に実行犯 佐野・亀野は逮捕された。指名手配を受けた堀は、8年間逃亡していたが、2008年(平成20年)7月28日未明に、愛媛県新居浜市で逮捕された。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2006年11月16日、最高裁はCとDの上告を棄却、無期懲役が確定した。
2010年8月4日、Eの控訴、Eに対する検察官の控訴をいずれもを棄却。その後Eも検察官も上告せず、懲役20年が確定した。
2010年8月25日、中井嘉代子(当時66歳)の上告を棄却、無期懲役が確定した。
2011年5月24日、一部の限度で検察官の控訴を認容し(死刑を求める検察側の主張は退け)、一審判決を破棄した上で改めて坂本明浩(当時47歳)に無期懲役判決。坂本は上告した。検察側は上告せず。
2013年7月8日、坂本の上告を棄却、無期懲役が確定した。
この他、中井と坂本を仲介した人物に懲役6年の判決が下されている。
客が死亡することを予見していたとして、いずれの被告人にも未必の故意が認定されたが、積極的殺意はなかったとして、中井・坂本・佐野・亀野には無期懲役、堀には関与の度合いの低さや反省なども考慮されて懲役20年の判決が言い渡された。
❖出所予定(年齢)
中井嘉代子・・・2040年8月頃、96歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
坂本明浩・・・2041年8月頃、77歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
佐野和幸・・・2043年7月頃、??歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
亀野普也・・・2043年7月頃、??歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
堀健一・・・2033年7月頃、??歳(懲役20年)
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戸井田和之選挙事務所襲撃事件(設楽啓一)
2010年12月12日の茨城県議会議員選挙投開票日当日に立候補者である戸井田和之さん(当時46歳)の選挙事務所にトラックが突入したテロ事件である。
2010年12月12日10時35分頃、2010年茨城県議会議員選挙に石岡市選挙区から無所属で出馬した元自民党茨城県議会議員の戸井田さんは投票を終え選挙事務所に集まっていた。すると事務所の北西方向から白い保冷車が近づいているのが見えたが、戸井田さんは「宅配便かな」と思ってしばらく眺めていた。
すると保冷車はバックで急加速、事務所に二度衝突し、フェンスや壁を破壊した。そのまま保冷車は逃走しようとしたため事務所にいた戸井田の叔父 利雄さん(当時62歳)が「何やってるんだ!! やめろっ!!」と保冷車のサイドミラーにしがみついたが保冷車は彼を振り落として左側の車輪で戸井田さんの叔父 利雄さんの腹部を轢き、さらに路地で別の乗用車と正面衝突しながらそのまま八郷方面へ逃走した。
戸井田さんはすぐに警察へ通報。叔父 利雄さんは救急車で石岡市内の病院に搬送、その後ドクターヘリで水戸市の病院に搬送されたが死亡が確認された。
2011年1月15日に実行犯として山口組系暴力団幹部 設楽啓一(当時43歳)を器物損壊罪と窃盗罪の容疑で逮捕。犯行に使用された保冷車からは容疑者の指紋が検出され、また設楽は戸井田さんと面識のある人物であった。設楽は犯行を否認したが、2月4日に起訴された。2月5日には殺人罪の容疑で再逮捕され、2月25日に殺人罪で追起訴された。このほか共謀したとされる暴力団組員3人が窃盗罪容疑で逮捕されたが、不起訴処分となった。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2011年12月22日、水戸地方裁判所は設楽に対し殺人などの罪で懲役20年の有罪判決を言い渡した。設楽は判決を不服として控訴したが、2012年7月11日、東京高等裁判所は一審判決を支持し棄却した。
❖出所予定(年齢)
2031年12月頃、63歳(懲役20年)
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東海大学安楽死事件(徳永医師)
病院に入院していた多発性骨髄腫という血液の末期がん症状の患者 藤原政次さん(当時58歳)に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手 徳永雅仁医師(当時34歳)が殺人罪に問われた、平成3年(1991年)の刑事事件。裁判で医師による安楽死の正当性が問われた。
藤原政次さんは多発性骨髄腫のため、東海大学医学部付属病院に入院していた。病名は家族にのみ告知されていた。1991年(平成3年)4月13日、昏睡状態が続く藤原さん患者について、妻と長男は治療の中止を強く希望し、助手の徳永医師は、患者の嫌がっているというフォーリーカテーテルや点滴を外し痰引などの治療を中止した。長男はなおも「早く楽にしてやってほしい」と強く主張。医師はこれに応じて、鎮痛剤、抗精神病薬を通常の二倍の投与量で注射した。
しかしなおも藤原さんは苦しそうな状態は止まらず、長男から「今日中に家につれて帰りたい」と求められた。そこで助手の徳永医師は殺意を持って、塩酸ベラパミル製剤を通常の二倍量を注射したが、脈拍などに変化がなかったため、続いて塩化カリウム製剤20mlを注射した。藤原さんは同日、急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡させられた。翌5月にこのことが発覚し、助手の徳永医師は塩化カリウムを注射したことを問われ、殺人罪により起訴された。なお、藤原さん自身の死を望む意思表示がなかったことから、罪名は刑法第202条の嘱託殺人罪ではなく、第199条の殺人罪とされた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
裁判において、徳永雅仁医師(当時34歳)は公訴権の乱用として、公訴棄却もしくは無罪の決定・判決を求めた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
❖出所予定(年齢)
無罪
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2018年東海道新幹線車内殺傷事件(小島一朗)
2018年(平成30年)6月9日に、神奈川県を走行中の東海道新幹線「のぞみ265号」車内で発生した殺人事件。
2018年(平成30年)6月9日21時42分、のぞみ265号は新横浜駅を定刻どおりに発車した。それから間もなく、12号車の後方の2列シートの左側に座っていた小島一朗(犯行当時22歳)が立ち上がり、右隣の席に座っていた旅客B(女性)を鉈で切りつけた。そののち、小島は止めに入ろうとした梅田耕太郎さん(当時38歳、男性、兵庫県尼崎市在住)ともみ合いになり、旅客Dが転倒したすきに通路を挟んで左隣にいた旅客C(女性)を切りつけた。梅田さんは切りつけられた2人を後方に避難させ、小島に立ち向かったが、小島に馬乗りになられて幾度も切りつけられた。
12号車での事件を聞いて駆けつけた車掌は、外したシートの座面やキャリーバッグを盾のようにして構えながら旅客Cに刃物を振り下ろしている小島に近づき、説得した。列車は非常用ボタンの作動により綾瀬市内で緊急停止した後、22時3分に小田原駅に緊急停車し、小島は駅で待機していた警察官に殺人未遂の現行犯で逮捕された。
また、負傷した旅客は小田原市内の病院に搬送された。
梅田さんは搬送時すでに心肺停止となっており、まもなく死亡した。旅客Bと旅客Cの2人は重傷を負った。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2019年12月18日、横浜地方裁判所小田原支部は求刑通り無期懲役を言い渡し、控訴せず翌2020年1月に確定した。
❖出所予定(年齢)
2049年12月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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東金市女児殺害事件(勝木諒)
2008年9月に千葉県東金市で発生した女児殺人事件。
2008年9月21日午後0時25分頃、千葉県東金市東上宿の東金南公園近くの路上で成田幸満(ゆきまろ)ちゃん(女児、当時5歳)が全裸で倒れているのを通行人が発見し、病院で死亡が確認された。司法解剖の結果、死因は鼻と口を圧迫したらしい窒息死であり、目立った外傷はなく、左腕に強くつかまれたあざと出血があった。死因は被告人が逮捕された後、溺死へと変更される。
現場から約100メートル離れたマンションの屋外駐車場では、車の下部から幸満(ゆきまろ)ちゃんが身に着けていたTシャツ、半ズボン、下着、靴が入ったレジ袋2つが発見された。レジ袋は地元スーパーの物であった。
正午直前に幸満(ゆきまろ)ちゃんは母親が勤務する病院にいたとする目撃証言があったことから、犯行時間は正午から午後0時25分までの「25分間」とされた。また午後0時10分頃は現場に異常がなかったとする2人の通行人の証言もあり、幸満(ゆきまろ)ちゃんが遺棄されたのは午後0時10分から午後0時25分までの「15分間」とされた。起訴状では、11時40分ごろ病院近くの路上で幸満(ゆきまろ)ちゃんを拉致し、抱えて330メートル離れた自宅に連れ帰ったとされた。
12月6日、現場近くのマンションに住む勝木諒(当時24歳)が死体遺棄容疑で逮捕された。証拠としては幸満(ゆきまろ)ちゃんの衣服が入れられていたレジ袋について、付着していた指紋が一致していたことや勝木の母親の髪の毛が入っていたことなどがあげられた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2011年9月27日、二審の東京高裁は、勝木は軽度の知的障害を抱えているため、「裁判官」や「黙秘権」の意味も理解できず訴訟能力がなく、責任能力は限定的であるとする弁護側の主張を退けて1審千葉地裁判決を支持し、勝木の控訴を棄却して懲役15年を言い渡した。弁護側はこの判決を不服として上告した。
2012年3月27日、最高裁は被告人の上告を棄却する決定を出した。懲役15年とした1、2審判決が確定。
❖出所予定(年齢)
2027年3月頃、39歳(懲役15年)
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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)
1988年(昭和63年)から翌1989年(平成元年)にかけて日本の関東地方(埼玉県・東京都)で相次いで発生した4件の誘拐殺人事件。警察庁により、広域重要事件117号に指定された。
1988年8月22日、埼玉県入間市春日町で女児A(当時4歳)が行方不明になり、両親が「娘が帰ってこない」と埼玉県警察に通報した。翌23日以降、所轄の狭山警察署や入間市消防本部などによる大規模な捜索が行われ、周辺の聞き込みから県警は誘拐事件も視野に捜査を進めたが、犯人からの連絡はなく、Aの生死・行方は不明のままだった。その後、同年10月3日に同県飯能市下赤工で市立原市場小学校1年生の女児B(当時7歳)が行方不明になり、12月9日には同県川越市古谷上で女児C(当時4歳)が相次いで行方不明になった。
3事件の現場はいずれも半径10キロメートル圏内の入間川沿いで、失踪した時間が夕方であることなど共通点が多かったため、埼玉県警は3件連続の幼女誘拐事件の可能性があるとみて捜査した。同月15日、同県入間郡名栗村上名栗新田1289-2の「県立名栗少年自然の家」に近い杉林でCの他殺体が発見された。同事件を捜査していた県警捜査一課と飯能・川越の両警察署は誘拐殺人・死体遺棄事件と断定、県警刑事部長・友川清中を本部長とする「Cちゃん誘拐・殺人事件合同捜査本部」を設置した。
3事件の現場はいずれも半径10キロメートル圏内の入間川沿いで、失踪した時間が夕方であることなど共通点が多かったため、埼玉県警は3件連続の幼女誘拐事件の可能性があるとみて捜査した。同月15日、同県入間郡名栗村上名栗新田1289-2の「県立名栗少年自然の家」に近い杉林でCの他殺体が発見された。同事件を捜査していた県警捜査一課と飯能・川越の両警察署は誘拐殺人・死体遺棄事件と断定、県警刑事部長・友川清中を本部長とする「Cちゃん誘拐・殺人事件合同捜査本部」を設置した。
1989年2月6日、女児Aの自宅玄関前に段ボール箱が置かれており、中には焼かれた人骨片と歯が入っていた。埼玉県警は箱に入っていた歯の鑑定を東京歯科大学に依頼し、一度は女児Aのものではないと発表したが、後に女児A本人のものと断定した。2月10日と11日に「今田勇子」の名で、朝日新聞東京本社と女児A宅に犯行声明と女児Aが写ったインスタント写真が郵送された。
犯人は犯行声明の中で女性であると称しており、内容は段ボール箱に入った骨は全て女児Aの骨である、と主張するものだった。朝日新聞社に添付された写真が女児A本人と確認され、当時女児Aが履いていたサンダルの絵柄など犯人しか知りえない事実が記載されていることから、同県警は声明文を犯人が書いたものと断定した。
犯人は犯行声明の中で女性であると称しており、内容は段ボール箱に入った骨は全て女児Aの骨である、と主張するものだった。朝日新聞社に添付された写真が女児A本人と確認され、当時女児Aが履いていたサンダルの絵柄など犯人しか知りえない事実が記載されていることから、同県警は声明文を犯人が書いたものと断定した。
1989年6月6日、東京都江東区東雲二丁目で保育園児の女児D(当時5歳)が行方不明になった。警視庁捜査一課と深川警察署が事件・事故の両面で捜査したが、6月11日、飯能市宮沢170-1にある宮沢湖霊園の駐車場北西側にあった簡易トイレ裏で、頭部と両手足首が切断された女児の遺体が発見され、同月12日に埼玉県警は発見された遺体が女児Dのものと断定した。
警察庁によればバラバラ殺人事件は1949年(昭和24年)以降、それまでに全国で77件が発生していたが、死体の持ち運びのために切断した事例が多く、被害者はほとんどが大人だったという特徴があるため、Dはバラバラ殺人の被害者としては最年少でもあった。また1984年(昭和59年)以降、12歳以下の児童が犠牲となった誘拐殺人事件はD事件が14件目だった。同日、警察庁は一連の誘拐事件を広域重要事件捜査要綱に基づき、警察庁広域重要指定事件広域重要指定事件に次ぐ重要事件として同庁が捜査の指導・調整に乗り出す「準指定第4号事件」に指定した。
警察庁によればバラバラ殺人事件は1949年(昭和24年)以降、それまでに全国で77件が発生していたが、死体の持ち運びのために切断した事例が多く、被害者はほとんどが大人だったという特徴があるため、Dはバラバラ殺人の被害者としては最年少でもあった。また1984年(昭和59年)以降、12歳以下の児童が犠牲となった誘拐殺人事件はD事件が14件目だった。同日、警察庁は一連の誘拐事件を広域重要事件捜査要綱に基づき、警察庁広域重要指定事件広域重要指定事件に次ぐ重要事件として同庁が捜査の指導・調整に乗り出す「準指定第4号事件」に指定した。
1989年7月23日、宮崎勤(犯行当時26歳)が、東京都八王子市美山町で、幼い姉妹を標的として妹の方の全裸写真を撮るというわいせつ事件を起こしているところを被害女児の父親に見つかり偶然近くをパトロールしていた警官に引き渡され(私人逮捕)、八王子警察署に現行犯逮捕された。
東京地検八王子支部は8月7日、宮崎をわいせつ誘拐、強制わいせつ罪で起訴し、同月9日に宮崎は女児Dの殺害を自供。翌10日、自供通り奥多摩町梅沢地区の山中で女児Dの頭蓋骨が発見され、11日に宮崎を未成年者誘拐、殺人、死体遺棄の容疑で再逮捕した。この後、唯一被害者の安否が不明だったB事件についても宮﨑は自身がBを誘拐・殺害したことを自供し、その自供通り9月6日、五日市町戸倉の小峰峠付近の山中(東京電力新多摩変電所の裏)でBの白骨化した遺体が発見された。
東京地検八王子支部は8月7日、宮崎をわいせつ誘拐、強制わいせつ罪で起訴し、同月9日に宮崎は女児Dの殺害を自供。翌10日、自供通り奥多摩町梅沢地区の山中で女児Dの頭蓋骨が発見され、11日に宮崎を未成年者誘拐、殺人、死体遺棄の容疑で再逮捕した。この後、唯一被害者の安否が不明だったB事件についても宮﨑は自身がBを誘拐・殺害したことを自供し、その自供通り9月6日、五日市町戸倉の小峰峠付近の山中(東京電力新多摩変電所の裏)でBの白骨化した遺体が発見された。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2006年1月17日、最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)が宮崎の上告を棄却する判決を宣告した。最初の事件(A事件)発生からこの判決までに17年5か月が経過していた。宮崎の弁護人は判決訂正申立を行ったが、同年2月1日付で同小法廷から申立を棄却する決定が出された。翌2日に決定書が宮﨑へ送達され、同日付で正式に死刑が確定した
❖出所予定(年齢)
死刑判決(2008年6月17日、東京拘置所で死刑執行(当時45歳没))
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※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。
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