◆ドキュメント
作成日付:2023/01/31
更新日付:2023/07/08
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.05改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート2))
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(目次お~こ))
更新日付:2023/07/08
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.05改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート2))
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(目次お~こ))
<目次>
岡山金属バット母親殺害事件(少年17歳)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
少年が母親を金属バットで撲殺した事件。殺人の動機としては、高等学校の部活動で後輩部員からいじめを受けていたのが背景にあるといわれている。
2000年(平成12年)6月21日、岡山県内の公立邑久高校の野球部員の少年(当時17歳・高校3年生)(以下、少年A)が練習中にそばにいた後輩部員4人を突然バットで殴り逃走。少年Aは自宅に戻った後、居間でテレビを見ていた母親(当時42歳)をバットで殴打し逃亡。母親はほぼ即死状態だった。
少年Aは去年の秋から日常的に後輩集団に自身の動作のまねをされたり、所属の野球部でからかわれるなどのいじめを受けていた。事件当日は雨天のため高校の武道場で部活を行っていた。少年Aは、普段から自身をからかうなどしていた後輩ら四人をバットで殴打し、重軽傷を負わせた。
その後、自宅において別のバットで母親を殴打し殺害した。また母親を殴打・殺害したのは、自分が野球部員の少年を殺して殺人者になったと早合点し、そのまま母親が生きていれば不憫であると思ったためであるという。
その後、自宅において別のバットで母親を殴打し殺害した。また母親を殴打・殺害したのは、自分が野球部員の少年を殺して殺人者になったと早合点し、そのまま母親が生きていれば不憫であると思ったためであるという。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
岡山家裁(新井慶有裁判官)は8月31日、少年Aを特別少年院へ送致する保護処分を決定した。
新井裁判官は「(男子生徒は)円滑な対人関係を築く能力に乏しく、長期の専門教育を受けるべきだ」とし、「2年ないし2年半の専門教育が必要」との処遇勧告をつけた。
❖保護観察処分「詳細」
決定によると、新井裁判官は「重大犯罪であり、社会に与えた影響は大きい」としながらも、男子生徒が昨年秋ごろから、複数の後輩にからかいや嫌がらせを受け、事件前日の6月20日、後輩の1人から受けた(丸刈りにしないことで責め、殴るなどの)言動が限度を超えたため、抑えてきた感情が爆発したと認定。母親殺害については「自分が殺人犯になると、母がつらい思いをする。それが自分には耐えられないという自己中心的な思考によるもの」とした。
さらに「被害者(後輩)側は厳罰を求める姿勢を示していない」「男子生徒の父親は今後も被害弁償や慰謝の措置をできる限りすることを誓っている」と述べた。
その上で、「男子生徒は生活態度もまじめで、これまで非行歴もない。知的能力は高いが情緒性が未発達で、円滑な対人関係を築く能力に乏しい。感情の表し方が不得手で、人格に問題性がある」とし、「長期の専門的教育が必要」とした。。
決定によると、新井裁判官は「重大犯罪であり、社会に与えた影響は大きい」としながらも、男子生徒が昨年秋ごろから、複数の後輩にからかいや嫌がらせを受け、事件前日の6月20日、後輩の1人から受けた(丸刈りにしないことで責め、殴るなどの)言動が限度を超えたため、抑えてきた感情が爆発したと認定。母親殺害については「自分が殺人犯になると、母がつらい思いをする。それが自分には耐えられないという自己中心的な思考によるもの」とした。
さらに「被害者(後輩)側は厳罰を求める姿勢を示していない」「男子生徒の父親は今後も被害弁償や慰謝の措置をできる限りすることを誓っている」と述べた。
その上で、「男子生徒は生活態度もまじめで、これまで非行歴もない。知的能力は高いが情緒性が未発達で、円滑な対人関係を築く能力に乏しい。感情の表し方が不得手で、人格に問題性がある」とし、「長期の専門的教育が必要」とした。。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
岡山元同僚女性バラバラ殺人事件(住田紘一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2011年(平成23年)9月30日に岡山県岡山市北区で発生した強盗強姦・強盗殺人などの事件。
住田紘一(事件当時29歳)は2009年11月にある女性と交際を始めたが、翌年6月頃に破局した。その後、住田は女性が別の男性と交際したことを知り、その男性の殺害を計画したが実行することはできなかった。
交際相手に関係を絶たれたことでフラストレーションが溜まっていたSは、それを解消する手段として誰かを強姦した上で殺害することを企てた。住田は自身が居住していたマンションの隣人女性を襲うことを計画したが、それも失敗に終わった。その後、住田は勤務先であるシンフォームの同僚の中から自身の好みである女性3人を候補に選び、その中から1人を襲うことを決意した。
住田は2011年9月20日付でシンフォームを退社し、2011年9月30日に岡山市内の自宅アパートを引き払った。住田は同日夜に社員証の返却という名目で岡山市北区の同社を訪れた際に、3人の中で最初に同社から出てきた被害者・同社派遣社員の派遣社員の加藤みささん(当時27歳)に「見てもらいたいものがある」と話しかけ、加藤さんを社内の倉庫に呼び出すことに成功した。
住田は倉庫の鍵を掛けるなり加藤さんを殴り倒した。そして所持していた手錠で手を縛った上で、加藤さんを強姦した。その際住田は、住田さんから現金24,000円・バッグを奪い取った。加藤さんは「誰にも言わないから助けて」と命乞いをしたが、住田はそのような懇願を無視し、バタフライナイフでAの胸を10回以上刺した。しかしなかなか絶命しなかったため、頸動脈をかき切って加藤さんを殺害した。
その後、住田は、加藤さんの遺体を自身の車に積んで「実家のある大阪で頑張りたい」と両親と妹がいる大阪市住吉区の実家に帰宅した。住田は証拠隠滅を図るため、加藤さんから奪った現金で実家近くにガレージを借り、毎日遺体を解体した。骨を細かく手で折り、肉片は大和川や近所のゴミ捨て場などに遺棄した。
事件翌日の2011年10月1日、被害者加藤さんの家族が「娘が帰宅しない」と岡山県警赤磐警察署に捜索願を届け出した。同6日、会社の防犯カメラに一緒に歩く加藤さんと住田が映っていたことから、住田を割り出し、大阪府警住吉署に任意同行して取り調べたところ、住田が殺害を自供したため岡山県警は住田を逮捕した。
住田紘一(事件当時29歳)は2009年11月にある女性と交際を始めたが、翌年6月頃に破局した。その後、住田は女性が別の男性と交際したことを知り、その男性の殺害を計画したが実行することはできなかった。
交際相手に関係を絶たれたことでフラストレーションが溜まっていたSは、それを解消する手段として誰かを強姦した上で殺害することを企てた。住田は自身が居住していたマンションの隣人女性を襲うことを計画したが、それも失敗に終わった。その後、住田は勤務先であるシンフォームの同僚の中から自身の好みである女性3人を候補に選び、その中から1人を襲うことを決意した。
住田は2011年9月20日付でシンフォームを退社し、2011年9月30日に岡山市内の自宅アパートを引き払った。住田は同日夜に社員証の返却という名目で岡山市北区の同社を訪れた際に、3人の中で最初に同社から出てきた被害者・同社派遣社員の派遣社員の加藤みささん(当時27歳)に「見てもらいたいものがある」と話しかけ、加藤さんを社内の倉庫に呼び出すことに成功した。
住田は倉庫の鍵を掛けるなり加藤さんを殴り倒した。そして所持していた手錠で手を縛った上で、加藤さんを強姦した。その際住田は、住田さんから現金24,000円・バッグを奪い取った。加藤さんは「誰にも言わないから助けて」と命乞いをしたが、住田はそのような懇願を無視し、バタフライナイフでAの胸を10回以上刺した。しかしなかなか絶命しなかったため、頸動脈をかき切って加藤さんを殺害した。
その後、住田は、加藤さんの遺体を自身の車に積んで「実家のある大阪で頑張りたい」と両親と妹がいる大阪市住吉区の実家に帰宅した。住田は証拠隠滅を図るため、加藤さんから奪った現金で実家近くにガレージを借り、毎日遺体を解体した。骨を細かく手で折り、肉片は大和川や近所のゴミ捨て場などに遺棄した。
事件翌日の2011年10月1日、被害者加藤さんの家族が「娘が帰宅しない」と岡山県警赤磐警察署に捜索願を届け出した。同6日、会社の防犯カメラに一緒に歩く加藤さんと住田が映っていたことから、住田を割り出し、大阪府警住吉署に任意同行して取り調べたところ、住田が殺害を自供したため岡山県警は住田を逮捕した。
左が加害者の住田紘一、右が被害者の加藤あいさん。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2013年2月14日、岡山地裁(森岡孝介裁判長)は被告人住田に求刑通り死刑判決を言い渡した。裁判長は判決理由で「被害者が1人でも性的被害を伴っており、結果は重大だ」と指摘した。当時、裁判員裁判の死刑判決は16人目で、1人殺害のケースでは3人目だった。裁判員制度下で前科がなく、1人殺害の場合では初の死刑判決だった。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
沖縄うるま市強姦殺人事件(シンザト・ケネフ・フランクリン)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2016年(平成28年)4月に沖縄県のうるま市で発生した強姦致死、殺人および死体遺棄事件である。
うるま市に住む被害者の島袋里奈さん(当時20歳)は、2016年4月28日午後8時ごろにウォーキングに出発したが、翌日になっても帰宅しなかった。同居人が捜索願を出したものの消息はわからなかった。女性のスマートフォンの位置情報は、翌29日午前2時40分ごろ、自宅から1-2キロ離れたうるま市州崎で途絶えていた。記録が途絶えていた付近の防犯カメラにて、警察捜査員が周辺地域を通過した262台の車の所有者を特定し聞き取りを行った。そのうちの1人として米軍関係者が乗るシンザト・ケネフ・フランクリン(当時32歳)のナンバーの男の車が映っていた。
5月18日に在沖米軍のシンザト・ケネフ・フランクリンが被疑者として浮上。重要参考人として任意聴取し、その供述に基づく捜索により翌19日に遺体を発見、男は死体遺棄容疑で逮捕された。遺体の大部分は白骨化していた。
事件当日、シンサド・ケネス・フランクリン容疑者は自分の車(Yナンバー)で、2~3時間、米軍嘉手納基地近くを走られ、信じられないことに、強姦暴行できる女性を探していた。そこで目に入ったのが、島袋里奈さんだった。
後ろから、島袋里奈さんの頭を棒で殴り、近くの草むらで強姦(レイプ)した。激しく抵抗する島袋里奈さんを刺し首を絞め殴り殺害し、スーツケースに包み、恩納村の雑木林に島袋里奈さんの遺体を捨てた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
一審、二審で無期懲役判決を受けた被告が、最高裁判所へ上告しなかったため、2018年10月5日に無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
2048年10月頃、62歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
桶川ストーカー殺人事件(主犯:小松和人)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
桶川ストーカー殺人事件(おけがわストーカーさつじんじけん)は、女子大学生 猪野詩織さん(当時21歳)が元交際相手の男 小松和人(当時26歳)を中心とする犯人グループから嫌がらせ行為を受け続けた末、1999年(平成11年)10月26日に埼玉県桶川市の東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎線桶川駅前で殺害された事件。警察捜査上の名称はJR桶川駅西口女子大生路上殺人事件。桶川事件とも呼ばれる。本件の発生が契機となり、2000年に「ストーカー規制法」が制定された。
事件はどこにでもあるような男女の出会いから始まる。
平成11年1月6日、埼玉県内のゲームセンターで友人と一緒にいた被害者の猪野詩織さん(21歳)が、小松和人(当時26歳)に声をかけられたことがきっかけで交際がスタート。
当時「和人」は本名を隠して「誠」と名乗り、年齢も23歳と偽っていたほか、実際は東京池袋で実兄 小松武史(元消防庁職員 当時32歳)と共同経営で複数の風俗店を経営していることも隠し、自動車販売などを手がける青年実業家を騙っていた。
3月に入り和人の住むというマンションに遊びに行くが、室内にビデオカメラが隠されていたことに気づきこれ詩織さんが問いただすと、詩織さんの顔スレスレに壁を何度も殴りつけるなど激怒。
こういったことから徐々に和人の暴力的な恐ろしい面を知ることとなり、詩織は和人と別れることを決意するが、別れを告げる詩織に対し和人は「俺に逆らうな」「俺から逃げられると思うな」などと脅し、交際の継続を強要。
詩織さんはこの後も機会を見て何度も別れを切り出すが、和人はその度に脅迫して交際の継続を強要。
ついには和人と兄の武史、柳直之(当時29歳)の三人でしおりさんの自宅に押しかけ、でっち上げた話で金銭を要求。詩織の父親が毅然として追い返し事なきを得た。
この特の様子をこっそり録音していた詩織は翌日上尾署にテープを持参して相談に訪れるが、対応した署員は「民事ギリギリだね」「これは事件にはならない」と、事件として対応しなかった。
和人は兄の武史に詩織さんの殺害を相談。
10月26日、武史に詩織さん殺害を依頼された実行犯の久保田祥史を含む3人が桶川に向かった。
10月26日午前8時ごろ、殺害実行役の風俗店の店主・久保田祥史(当時34歳)、久保田の輸送役の伊藤嘉孝(当時32歳)、見張り役の川上聡(当時31歳)は池袋に集合したのち、2台の車に分乗して午前9時ごろに桶川市へ到着した。
そして午後0時53分ごろ、桶川駅西口前の商業施設「マイン」前の路上において、大学へ向かうため駅前に自転車を駐めた詩織さんは、右背部を久保田にナイフで突き刺され、更に振り返ったところを左前胸部を刺された。
そして午後0時53分ごろ、桶川駅西口前の商業施設「マイン」前の路上において、大学へ向かうため駅前に自転車を駐めた詩織さんは、右背部を久保田にナイフで突き刺され、更に振り返ったところを左前胸部を刺された。
被害者は悲鳴をあげて倒れ、久保田はその場から逃走した。その後詩織さんは上尾中央総合病院へ搬送されたが、午後1時30分に死亡が確認された。死因は肺損傷に基づく大量出血によるショック死で、死亡推定時刻は事件が発生した午後0時50分とされた。
犯行グループで最初に逮捕されたのは実行犯の久保田で、12月19日のことであった。さらに翌20日は兄 武史、伊藤、川上がいずれも殺人容疑で逮捕、4人は翌2000年1月6日に起訴された。同16日には新たに8人が名誉毀損容疑で逮捕され、先に逮捕されていた4人も同容疑で再逮捕された。和人は同日に名誉毀損容疑で全国に指名手配された。
兄 武史の弁護人によれば、逮捕された兄 武史は事情聴取において和人が北海道にいると供述し、さらに和人に「死に癖がある」ことや異常な人間性を繰り返し伝えていたが、捜査員は「死ぬ死ぬといって死んだためしはない。お前が弟を狂人にしているだけ」と取り合わなかったとされる。
そして2000年1月27日、和人は北海道の屈斜路湖において水死体となって発見され、警察により自殺と断定された。和人が残した2通の遺書(1通は実家へ郵送、1通は遺品のバッグから発見)には、いずれも被害者と家族、マスコミへの怨嗟の言葉が並べ立てられ、自身の冤罪を主張する一方で、自身の家族には事前に自らにかけていた生命保険金を老後資金として役立てて欲しい、との言葉が綴られていた。
和人の名誉毀損容疑については、2月23日に被疑者死亡のまま起訴猶予処分となり、和人が責任を問われることはなくなった。
そして2000年1月27日、和人は北海道の屈斜路湖において水死体となって発見され、警察により自殺と断定された。和人が残した2通の遺書(1通は実家へ郵送、1通は遺品のバッグから発見)には、いずれも被害者と家族、マスコミへの怨嗟の言葉が並べ立てられ、自身の冤罪を主張する一方で、自身の家族には事前に自らにかけていた生命保険金を老後資金として役立てて欲しい、との言葉が綴られていた。
和人の名誉毀損容疑については、2月23日に被疑者死亡のまま起訴猶予処分となり、和人が責任を問われることはなくなった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2001年7月から2002年3月にかけて、殺人実行犯 久保田祥史(当時34歳)には懲役18年、輸送役の伊藤嘉孝(当時32歳)、見張り役の川上聡(当時31歳)にはそれぞれ懲役15年の判決が下された。
2005年12月20日、東京高裁は地裁判決を支持し控訴を棄却した。実兄 小松武史(元消防庁職員 当時32歳)は即日上告したが、2006年9月5日、最高裁第2小法廷は上告を棄却し、無期懲役が確定した。
❖警察の杜撰な捜査で殺人防げず
目を疑いたくなるような警察(埼玉県警)の不始末と改竄・隠蔽工作、杜撰な捜査でありました。
また、報道被害もすさまじく、事件発生からしばらくは犯人についての情報が乏しかったことから、マスコミの注目は被害者の私生活へと向けられた。そして週刊誌を中心として、被害者について「ブランド狂いだった」「風俗店に勤務していた」といった情報が次々と報道された。しかしこうした情報は正確性を欠いたものであった。
名言『捜査一課長代理ですから、厳しい質問がないようにお願いします。』はあまりにも有名。時折笑顔で会見するのは、もはや感覚が麻痺していんでしょうね。
目を疑いたくなるような警察(埼玉県警)の不始末と改竄・隠蔽工作、杜撰な捜査でありました。
また、報道被害もすさまじく、事件発生からしばらくは犯人についての情報が乏しかったことから、マスコミの注目は被害者の私生活へと向けられた。そして週刊誌を中心として、被害者について「ブランド狂いだった」「風俗店に勤務していた」といった情報が次々と報道された。しかしこうした情報は正確性を欠いたものであった。
名言『捜査一課長代理ですから、厳しい質問がないようにお願いします。』はあまりにも有名。時折笑顔で会見するのは、もはや感覚が麻痺していんでしょうね。
❖出所予定(年齢)
主犯 小松武史・・・2035年12月頃、62歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
実行犯 久保田祥史・・・2019年7月頃、52歳(出所)
輸送役 伊藤嘉孝・・・2016年7月頃、47歳(出所)
見張り役 川上聡・・・2016年7月頃、46歳(出所)
ページ上に戻る
お台場フィリピン人バラバラ殺人事件(野崎浩)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
お台場フィリピン人バラバラ殺人事件とは、2008年(平成20年)4月3日に東京都・港区台場一丁目のマンションで発覚した殺人・死体損壊・遺棄(バラバラ殺人)事件。
加害者 野崎浩(当時48歳)はマンションで同居していたフィリピン人女性 ラティリアさん(事件当時22歳)を絞殺して死体を切断・遺棄したほか、9年前の1999年(平成11年)4月22日にも当時住んでいた神奈川県横浜市神奈川区のマンションで別のフィリピン人女性 ヨネダ・ロンガキット・エルダさん(事件当時27歳)の首に布団を押し付けて窒息死させた。野口は被害者ラティリアさんの死体を損壊・遺棄したとして2000年(平成12年)に死体遺棄・損壊罪などで懲役3年6月の刑に処されたが、当時は被害者Aの死亡経緯が不明だったため殺人罪では立件されず、刑務所出所後に被害者B殺害事件で逮捕された際にヨネダ・ロンガキット・エルダさん殺害も認めたため、2人に対する殺人罪で起訴された。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2012年(平成24年)12月14日、最高裁判所第二小法廷(小貫芳信裁判長)は上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人 野崎の死刑が確定した。判決理由で同小法廷は「関係が悪化し、自分の思い通りにならないことに激怒して殺害し、遺体を解体しており、残忍で悪質極まりない」と事実認定した上で「以前にも同様の事件で服役し反省の機会があったにもかかわらず、再び犯行に及んだことなどから矯正可能性が認められず、死刑はやむを得ない」と述べた。
❖出所予定(年齢)
死亡(自殺)
ページ上に戻る香川・坂出3人殺害事件(川崎政則)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
香川県・坂出市で女性とその孫の幼児姉妹2人の計3人が2007年11月16日未明に殺害され、死体が遺棄された事件である。
幼児姉妹 姉の茜ちゃん(当時5歳)と妹の彩菜ちゃん(当時3歳)は11月15日の18時頃に隣の祖母 三浦啓子さん(58)の家に泊まりに行き、翌日の16日の朝に母親が迎えに行ったところ3人ともいなくなっていた。香川県坂出警察署捜査本部は11月16日未明から早朝までに何らかのトラブルがあったと見方を強め、捜査を行った。
父親によれば、寝室や玄関、浴室に血痕があり、さらに寝室のカーペットはL字形に切り取られ、血はカーペットの下の畳まで染みこんでいた。
捜査本部の任意取調べに対し、祖母の義弟(祖母の妹の夫。妹は事件当時既に故人)である義理の大叔父 川崎政則(当時61歳、三浦さんの妹の夫)が、27日までに「3人を殺害し、山中に遺体を捨てた」と犯行を認める供述をし、11月27日夜に死体遺棄容疑で逮捕された。11月28日には、当初の供述通りに山中に向かったところ、Kが「本当は港に捨てた」と一変し、捜査員らがその港に向かったところ、祖母と幼児姉妹の遺体が発見された。
祖母は借金の返済に追われており、その関係上、川崎の妻(自分の妹)から金を借りており、その怨恨と見られる。最終的に単独犯と断定される。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2012年7月12日に最高裁判所は上告を棄却し、川崎の死刑が確定した。
2014年6月26日、大阪拘置所で川崎の死刑が執行された。確定から1年11ヶ月と、比較的早い執行だった。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
架空請求詐欺仲間割れ殺人事件(主犯:清水大志)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2004年(平成16年)10月に東京都で発生した架空請求詐欺グループの仲間割れによる殺人事件である。
主犯の男 清水大志(当時26歳)は2004年5月頃から、友人の男 伊藤玲雄(れお)(当時31歳)らと共に広告関係の会社を設立した。しかし経営がうまくいかず、たちまち資金繰りが悪化した。このため、清水は伊藤らと共謀して融資保証金詐欺を始めた。
清水は詐欺が次第に大きくなると、新たなメンバーを加え出した。これは一説に万一摘発を受けた際、自らの罪を軽くするためだったともされているが、清水は詐欺で得た莫大な金の大部分を自らの会社の運営費やテレビ番組のスポンサーになるなど、実業家としての表の顔のために使い込んでいた。そのため、一部の詐欺グループ構成員が次第に自らの待遇などに不満を抱き出した。そして、そのひとり男 西村徳也(当時25歳)は詐欺グループ構成員の3人 飯村修一(当時31歳)、横山佳史(当時34歳)、山口泰崇(当時22歳)と共謀して清水を殺害して金を奪うという計画を立てる。
だが、事前に計画を察した清水は伊藤や元暴力団員の友人 渡辺純一(当時28歳)らの支持者らと共に2004年10月13日22時20分、JR船橋駅近くで西村ら4人を襲撃して拉致し、事務所で凄絶なリンチを行なって計画の全貌を吐かせた。そして清水をはじめ伊藤や渡辺など清水に近いメンバーの大半を殺害しようと計画していたことが発覚したため逆上し、西村らを徹底的にリンチにかけた後、事務所に監禁した。
清水らは都内の高級ホテルでルームサービスを囲みながら、渡辺の伝手を頼って暴力団員 阿多真也(当時27歳、無期懲役)も巻き込んでの西村ら4人の殺害を計画。そして10月16日未明から午後にかけて西村ら4人を殺害し、報酬を渡すことで暴力団員に死体の始末を依頼した。後に2005年6月18日に茨城県小美玉市で4人の遺体が見つかるが、その遺体は脛から下がちぎれているなど凄惨なものだったとされる。
2013年1月29日、清水の上告審で最高裁判所第3小法廷(岡部喜代子裁判長)は上告を棄却し死刑が確定した。同日、渡辺の上告も棄却され死刑が確定した。理由について裁判長は、「4人の命が失われた結果は重大。事件の中で重要な役割を果たしており、死刑はやむをえない」などと述べた。同年2月28日、伊藤の上告審でも最高裁判所第1小法廷(桜井龍子裁判長)により上告が棄却され、死刑が確定した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2013年1月29日、清水の上告審で最高裁判所第3小法廷(岡部喜代子裁判長)は上告を棄却し死刑が確定した。同日、渡辺の上告も棄却され死刑が確定した。理由について裁判長は、「4人の命が失われた結果は重大。事件の中で重要な役割を果たしており、死刑はやむをえない」などと述べた。同年2月28日、伊藤の上告審でも最高裁判所第1小法廷(桜井龍子裁判長)により上告が棄却され、死刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
主犯:清水大志・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)❖出所予定(年齢)
主犯:伊藤玲雄(れお)・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
主犯:渡辺純一・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
実行犯手伝い:阿多真也・・・2033年1月頃、57歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
ページ上に戻る
加古川7人殺害事件(藤城康孝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2004年(平成16年)8月2日に兵庫県加古川市西神吉町大国で発生した大量殺人事件。無職の男 藤城康孝(犯行当時47歳、加害者被害者ともに藤城姓である為、以後は康孝)が両隣に住む親類ら2家族の男女8人を刃物で刺して7人を殺害、1人に重傷を負わせた。
藤城康孝(当時47歳)は、まわりから邪魔者扱いされていると感じており、恨みを抱いていた。それは少年時代から続く根深いものであり、恨む対象は本家の人間やその周辺だった。
母親はこの土地に嫁いできた当初から、本家にいじめられていたという。しかし、それを考慮しても、藤城の恨みの深さは異常だった。
2004年8月2日午前3時頃、康考は予め用意していた刃渡り約15cmの大型牛刀2本と金槌のうち[7]、牛刀1本と金槌を持って自宅の東隣にある藤城とし子さん(当時80歳)宅母屋に、隣接する離れのトイレの屋根伝いに脚立を使って2階から侵入し、最初にとし子さんの次男 藤城義久さん(当時46歳)を牛刀で刺殺し、とし子さんを金槌で殴りつけた。
直後にいったん自宅に戻り、座布団の下に直前に使用した包丁と金槌を隠し、新しい包丁に持ち替えた後、とし子宅から自宅を挟んで西に60m離れた藤城利彦さん(64歳)宅に向かった。玄関の横の窓が開いていたため、そこから利彦さん宅に侵入して就寝中の利彦さん、妻 澄子さん(当時64歳)、長男 伸一さん(当時27歳)、長女 緑さん(当時26歳)の一家4人を次々と刺殺した。
その後、いったんは自宅に戻ったが、とし子が助けを求める声を聴いたため、再度とし子さん宅に侵入した。騒ぎを聞いてとし子さん宅に駆け付けたとし子さんの長男 勝則さん(当時55歳、とし子さん宅の東隣に夫婦で住んでいた)と、勝則さんの妻(当時50歳)夫婦を襲い勝則さんを殺害、勝則さんの妻にも一時意識不明の重体となる重傷を負わせ、逃げようとしたとし子さんを刺殺した。
最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)は2015年5月25日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人Fの上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑判決が確定することとなった。
被告人 藤城康孝(当時47歳)は上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)へ判決訂正申立書を提出したが2015年6月10日付で棄却決定がなされたことで正式に死刑判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
柏市連続通り魔殺傷事件(竹井聖寿)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2014年3月3日に千葉県・柏市で発生した通り魔による殺人・傷害・強盗事件。
2014年3月3日午後11時34分頃、千葉県柏市の市道で通り魔による連続事件が起こる。最初に襲われたのは帰宅途中の女性で「すいません、ちょっと」と竹井聖寿(当時24歳)に声をかけられる。女性は「気持ち悪い」と感じて駆け足で逃げた。次に同36分頃、自転車に乗っていた男性(当時25歳)がナイフのような刃物を突き付けられて脅された。男性は「何ですか?お金ですか?」と質問し、男性は左手で払いのけた際に切られて軽傷を負った。
続いて同時刻、事件現場の近くに住む会社員の男性 池間博也さん(当時31歳)が襲われ、ナイフのような刃物で刺された。次に同40分頃、近くに停車中の車に乗っていた男性D(当時44歳)に対して「金を出せ。もう人を殺している」と脅して財布を奪った。同44分頃、車を運転していた別の男性(当時47歳)が倒れていた池間さんを発見して車を降りた隙に男に車を奪われた。池間さんは首や背中の複数個所を刺されており、病院で死亡が確認された。
司法解剖の結果、池間さんの死因は出血性ショックで、抵抗した形跡は無くほぼ即死だったという。
3月5日午前7時25分頃、柏署は殺人容疑で池間さんと同じマンションに住む竹井聖寿(当時24歳)に任意同行を求める。その際、竹井は「チェックメイト」と呟いたという。同日午後5時50分頃、柏署捜査本部は竹井を立ち合わせて自宅を家宅捜査し、凶器とみられる刃物を押収した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2016年10月11日、最高裁判所第三小法廷は被告側の上告を棄却し、一審・二審での無期懲役の判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
❖出所予定(年齢)
2046年10月頃、56歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
ページ上に戻る
神奈川県警女性隊員殺害事件(岡部伸次)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2000年に神奈川県警察の女性隊員 貝塚しのぶさん(当時28歳)が刺殺された事件である。
2000年12月4日、女性の悲鳴が横浜市旭区のマンションに響いた。悲鳴に隣人が駆けつけると、女性の胸に刃渡り17cmものサバイバルナイフが突き刺さっていた。その後、救急隊が駆け付けるも死亡が確認された。被害者は神奈川県警察警察音楽隊の女性隊員であった。そして、被害者の部屋で同音楽隊のメンバーの岡部伸次警部補(当時42歳)が首をつって自殺していた。
県警監察室は事件の前、事情聴取をしていて、女性隊員は「交際を迫られ、困っている」と相談していたという。男はあらかじめ遺書を上司などに残していたことから最初から自殺するつもりだったと見られた。警部補が自殺しているため、2000年12月26日に横浜地方検察庁に書類送検した。神奈川県警は殺人を犯したとみられる警部補に対して退職金を支給したため、非難が殺到した。これに対して県警は地方公務員法に基づき被疑者死亡のため懲戒免職にできず支給せざるを得ないとした。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2001年3月5日に横浜地検は警部補を被疑者死亡で不起訴処分とした。
❖出所予定(年齢)
死亡(自殺)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
金沢市夫婦強盗殺人事件(少年(17歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2004年(平成16年)9月13日に石川県金沢市の民家で発生した強盗殺人事件(少年犯罪)。
2004年9月13日午前3時20分頃、石川県金沢市神野2丁目の民家に強盗目的で少年(当時17歳)が勝手口の窓ガラスを割って侵入したが、家主の男性神後武雄さん(当時66歳)と妻 信子さん(当時64歳)に気づかれ、抵抗されたためサバイバルナイフ(刃渡り約30cm)や鉄製の杭(刃渡り約10cm)で全身を刺して、夫婦を出血性ショックで死亡させた上、現金3700円とカードが入った財布を奪った。妻からの110番通報を受け、石川県警金沢西署の署員が現場に急行すると、ナイフを持って立ちつくす少年を発見し、少年が「人を刺した」と供述したため、同署員は少年を現行犯逮捕した。
❖判決内容(判決内容・判決時期) 2006年12月18日、金沢地裁(堀内満裁判長)は検察の求刑通り、元少年に無期懲役を言い渡した。判決理由で裁判長は、元少年が「凶器を複数用意していたこと、返り血が目立たない服に着替えたこと、通報を阻止するために電話線を切断したこと」を挙げ、完全責任能力があったと認定した。その上で「死刑を選択すべき事案であるが、少年法第51条の規定が適用される」と結論付けた。遺族は判決後の会見で「年齢に関係なく死刑が適用できるように少年法の見直しをお願いしたい」と発言した。
❖出所予定(年齢)
2036年12月頃、47歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
鹿沼市職員殺害事件(主犯:曽根正志)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2001年に廃棄物行政に絡み栃木県・鹿沼市役所の職員 小佐々守さん(当時57歳)が廃棄物処理業者社長 曽根正志(当時61歳)の不当要求に応じず逆恨みされ、帰宅途中に拉致されて殺害され、群馬県内の山中に遺棄された行政対象暴力事件。
鹿沼市と産業廃棄物処理業者との癒着を正そうとした職員が逆恨みされ、殺された。実行犯4人(高木誠(当時52歳)、田村好(当時62歳)、吉田義雄(当時61歳)、佐々木京一(当時48歳))は逮捕されたが、犯行を依頼した産業廃棄物業者は、逮捕される前に自殺した。また、癒着に深く関わっていたと思われる鹿沼市幹部職員も自殺した。被害者の遺体は発見されていない。
❖判決内容(判決内容・判決時期) 実行犯にはそれぞれ懲役14年から18年の判決が確定している。
❖出所予定(年齢)
主犯:曽根正志・・・死亡(自殺) 佐々木京一 懲役18年(2004年9月判決)
吉田義雄 懲役17年(2004年6月控訴棄却)
高木誠 懲役14年(2004年9月判決)
田村好 懲役18年(2004年5月編決)
❖出所予定(年齢)
実行犯:佐々木京一・・・2022年9月頃、66歳(出所)
実行犯:吉田義雄・・・2021月6月頃、78歳(出所)
実行犯:高木誠・・・2018年9月頃、66歳(出所)
実行犯:田村好・・・2022年5月頃、80歳(出所)
ページ上に戻る
川口強盗強姦殺人事件(清田龍也)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2007年10月30日に埼玉県・川口市で起こった強姦・強盗殺人事件。
2007年10月30日、川口市柳崎のアパート2階で、会社員女性 渡辺沙織さん(当時26歳)が川口市源左衛門新田の自称配管工 清田龍也(当時39歳)に強姦された上で殺され、現金8000円とキャッシュカード3枚、運転免許証を奪われた。
11月1日、女性の無断欠勤が続くことを心配した会社の同僚が訪ねてきたことから事件が発覚。警察は、女性が殺害される前後に女性のキャッシュカードから現金を引き出そうとしている男の姿(割と有名な姿)がカメラに映っていたことから捜査を進め、犯人の男は強盗殺人や住居不法侵入などの容疑で逮捕された。また当初は本事件の3か月前に本事件現場と同じアパートの別の部屋で起きた強盗事件での逮捕であった。
11月1日、女性の無断欠勤が続くことを心配した会社の同僚が訪ねてきたことから事件が発覚。警察は、女性が殺害される前後に女性のキャッシュカードから現金を引き出そうとしている男の姿(割と有名な姿)がカメラに映っていたことから捜査を進め、犯人の男は強盗殺人や住居不法侵入などの容疑で逮捕された。また当初は本事件の3か月前に本事件現場と同じアパートの別の部屋で起きた強盗事件での逮捕であった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
清田は強盗殺人や強姦罪などで起訴され、2008年11月12日に無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
2038年11月頃、69歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
川崎市中1男子生徒殺害事件(舟橋龍一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2015年(平成27年)2月20日に、神奈川県・川崎市川崎区港町の多摩川河川敷で13歳の中学1年生の上村遼太さんが殺害された上に遺体を遺棄され、事件から1週間後に少年3名(舟橋龍一(当時18歳、以下X)、Y、Z)が殺人の疑いで逮捕された少年犯罪。
2月20日午前2時頃に上村遼太さんが死亡したと推定される。
被害者の死因は首を刃物で傷つけられたことによる出血性ショック。上村遼太さんの遺体に着衣はなく、首の後ろから横には鋭利な刃物により切り傷が集中し31カ所に達していた。顔や腕にも切り傷があり、少年の全身に刻まれた作業用カッターによる切創は43カ所であった。数本の拘束バンドが殺害現場から発見されており、手足を縛られて激しい暴行を受けた可能性あり。
2月27日午前11時、捜査本部は母親と弁護士と共にタクシーで川崎署に出頭してきたリーダー格とされる当時18歳の無職の男Xを(この際、弁護士がXは死亡推定時刻当時に家にいたという旨を捜査本部に述べてから出頭させている)、午後0時30分に自宅で当時17歳の男Yを、午後1時30分に同じく当時17歳の男Zを署内でそれぞれ殺人容疑で逮捕した。
被害者の上村遼太さん。
主犯の舟橋龍一(当時18歳)。SNSで実名を暴かれる。
被害者の上村遼太さん。
主犯の舟橋龍一(当時18歳)。SNSで実名を暴かれる。
左から少年Y(当時17歳)、中央が舟橋龍一(当時18歳)、右が少年Z(当時17歳)。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2016年2月10日、横浜地裁は舟橋龍一(X)に懲役9年以上13年以下の不定期刑を言い渡し、検察側・弁護側共に控訴期限までに控訴せず、刑が確定した。
2016年3月14日、横浜地裁はYに懲役4年以上6年6ヶ月以下の不定期刑を言い渡し、検察側・弁護側共に控訴期限までに控訴せず、刑が確定した。
最高裁第2小法廷(山本庸幸裁判長)は2017年1月25日付で上告の棄却を決定し、Zを懲役6年以上10年以下の不定期刑とした一審・二審判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
少年Y・・・2022年9月頃、24歳、すでに出所(不定期刑で最も重い懲役の6年6ヶ月と仮定 )
少年Z・・・2027年1月頃、27歳(不定期刑で最も重い懲役の10年と仮定 )
ページ上に戻る
河瀬駅前交番警察官射殺事件(大西智博)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2018年(平成30年)4月11日夜に滋賀県彦根市南川瀬町の滋賀県彦根警察署河瀬駅前交番で発生した殺人事件。
勤務中の警察官(大西智博、犯行当時19歳巡査、逮捕後に懲戒免職)が貸与された拳銃で上司の警察官(井本光(あきら)当時41歳、事件当時41歳巡査部長、事件後に警部へ2階級特進)を射殺した。
警察庁によれば「警察官が貸与された拳銃で同僚を射殺した事件は初めて」であり、この「前代未聞の不祥事」は日本社会に大きな衝撃を与えた。
勤務中の警察官(大西智博、犯行当時19歳巡査、逮捕後に懲戒免職)が貸与された拳銃で上司の警察官(井本光(あきら)当時41歳、事件当時41歳巡査部長、事件後に警部へ2階級特進)を射殺した。
警察庁によれば「警察官が貸与された拳銃で同僚を射殺した事件は初めて」であり、この「前代未聞の不祥事」は日本社会に大きな衝撃を与えた。
❖密室のやり取り、果たして・・・。
井本巡査部長の厳しい指導の裏に隠された部下の成長を願う気持ちと、それを苦痛に感じていた元巡査の心のすれ違い?があったことも公判で明らかにされた。
それは大西智博巡査が警察学校を卒業し、初めて彦根署河瀬駅前交番に配属されてから約2週間たった2018年4月11日の夜のことでした。
「おまえがアホなんは親がアホやからちゃうんけ」
同僚であり厳しい指導役でもあった井本巡査部長が、夕食のお弁当を電子レンジで温めていた大西智博巡査に対して聞こえよがしに吐き捨てた言葉です。
この言葉は、やっとのことで保っていた、当時19歳だった大西智博巡査の心の中の一本の糸を断ち切りました。
大西智博巡査は、そのまま交番内の別の部屋へ移動し、上司に悟られぬよう拳銃の撃鉄を起こします。
そして、再び井本巡査部長がいる部屋に戻ると、パソコンの前で作業していた上司の背後に立ち、目をつむったまま引き金を引いたと言います。
至近距離から後頭部に1発。そして、机に突っ伏した井本巡査部長の背中めがけて、さらに1発。
その後、駆けつけた署員に発見された井本巡査部長は、同市内の病院に緊急搬送されるも、22時過ぎに死亡を確認。
その後の司法解剖の結果、井本巡査部長の死因は頭部を撃たれたことによる脳幹部損傷で、ほぼ即死の状態でした。
上司を撃った大西智博巡査。
部下に撃たれた井上光巡査部長。
井本巡査部長の厳しい指導の裏に隠された部下の成長を願う気持ちと、それを苦痛に感じていた元巡査の心のすれ違い?があったことも公判で明らかにされた。
それは大西智博巡査が警察学校を卒業し、初めて彦根署河瀬駅前交番に配属されてから約2週間たった2018年4月11日の夜のことでした。
「おまえがアホなんは親がアホやからちゃうんけ」
同僚であり厳しい指導役でもあった井本巡査部長が、夕食のお弁当を電子レンジで温めていた大西智博巡査に対して聞こえよがしに吐き捨てた言葉です。
この言葉は、やっとのことで保っていた、当時19歳だった大西智博巡査の心の中の一本の糸を断ち切りました。
大西智博巡査は、そのまま交番内の別の部屋へ移動し、上司に悟られぬよう拳銃の撃鉄を起こします。
そして、再び井本巡査部長がいる部屋に戻ると、パソコンの前で作業していた上司の背後に立ち、目をつむったまま引き金を引いたと言います。
至近距離から後頭部に1発。そして、机に突っ伏した井本巡査部長の背中めがけて、さらに1発。
その後、駆けつけた署員に発見された井本巡査部長は、同市内の病院に緊急搬送されるも、22時過ぎに死亡を確認。
その後の司法解剖の結果、井本巡査部長の死因は頭部を撃たれたことによる脳幹部損傷で、ほぼ即死の状態でした。
上司を撃った大西智博巡査。
部下に撃たれた井上光巡査部長。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
被告人・元巡査 大西の弁護人は控訴期限となる2019年2月22日までに大阪高等裁判所へ控訴するための控訴状を大津地裁に提出しなかったため、2019年2月23日付で懲役22年判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
2041年5月頃、41歳(懲役22年)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
河内長野市家族殺傷事件(少年(18歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2003年に大阪府河内長野市で発生した事件である。
2003年11月1日午前2時頃、大阪府河内長野市の会社員から 「息子がいきなり切りつけてきた」との119番通報があり救急隊が駆けつけると、1階で会社員の妻が首などを切られ倒れており(搬送先の病院で死亡)、2階で寝ていた次男や、長男を取り押さえようとした会社員も刺され重傷を負っていた。
大学生の長男(当時18歳)は会社員の車で逃走したが、午前3時過ぎ、緊急配備中のパトカーに発見され緊急逮捕された。凶器の包丁は、犯行2、3日前にホームセンターで購入したと供述。同日、車に同乗していた高校1年の少女(当時16歳)が、自分も家族を殺そうと思い包丁を買ったと供述したため、殺人予備容疑で逮捕された
調べでは、少年と少女は幼なじみで、9月ごろから交際を始めた。2人は10月初めごろから、お互いの家族を殺害する話を始め、頻繁に会って打ち合わせを重ねていたという。計画を実行に移す時期については事件当日前後に絞っていたという。2人が親密に話す姿は少年が通う大学構内や自宅近くの私鉄の駅、少女の自宅周辺で、たびたび目撃されていた。
大学生の長男(当時18歳)は会社員の車で逃走したが、午前3時過ぎ、緊急配備中のパトカーに発見され緊急逮捕された。凶器の包丁は、犯行2、3日前にホームセンターで購入したと供述。同日、車に同乗していた高校1年の少女(当時16歳)が、自分も家族を殺そうと思い包丁を買ったと供述したため、殺人予備容疑で逮捕された
調べでは、少年と少女は幼なじみで、9月ごろから交際を始めた。2人は10月初めごろから、お互いの家族を殺害する話を始め、頻繁に会って打ち合わせを重ねていたという。計画を実行に移す時期については事件当日前後に絞っていたという。2人が親密に話す姿は少年が通う大学構内や自宅近くの私鉄の駅、少女の自宅周辺で、たびたび目撃されていた。
これまでの供述によると、少女は「2人で暮らしたかった。それにはそれぞれの両親が邪魔だった」と話し、事件後は「住まいを確保して一緒に暮らしても、事件を起こした以上、長続きしないことはわかっていた。最後は2人で死のうと考えた」と明かしている。少年は事件直前に家族とトラブルを起こしていなかったという。「1人で自殺するのが怖かったので家族を道連れにしようと思った」などと供述している。
❖判決内容(判決内容・判決時期) 2004年3月18日、大阪家庭裁判所はいずれも医療少年院送致とする保護処分を決定。
❖出所予定(年齢)
保護観察処分(※)❖出所予定(年齢)
※保護観察とは、犯罪をした人または非行のある少年が、社会の中で更生するように、保護観察官及び保護司による指導と支援を行うものです。 刑務所等の矯正施設で行われる施設内での処遇に対し、施設外、つまり、社会の中で処遇を行うものであることから、「社会内処遇」と言われています。
ページ上に戻る
吉祥寺女性刺殺事件(飯塚浩輝(当時17歳)、今井アレックス(当時17歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2013年2月28日に発生した強盗殺人事件。
2013年2月28日午前1時50分頃、東京都・武蔵野市吉祥寺の路上で帰宅途中のアルバイト女性 山田亜理沙さん(当時22歳)が少年2人 飯塚浩輝(当時17歳)、今井アレックス(当時17歳)に襲われ、背後から刃物で刺されて財布などを奪われる事件が発生した。被害女性は病院に搬送されたが、背中の傷2か所のうち1か所は肺にまで達しており、ほぼ即死であった。
少年2人 飯塚と今井は犯行直後に殺害現場近くのコンビニエンスストアで被害女性のキャッシュカードから現金を引き出そうとするも失敗したうえ、路上で警察官から職務質問を受けて逃走した。
当日朝になり、ルーマニア国籍の少年 今井アレックス(当時17歳)は他人名義の銀行通帳を所持していた占有離脱物横領容疑で逮捕され、翌3月1日には強盗殺人容疑で再逮捕された。
もう1人の日本国籍の少年 飯塚浩輝(当時18歳)は当日こそ身柄を拘束されなかったものの、防犯カメラを解析した結果、駅から電車を乗り継いで立川方面に向かっていたことが判明した。日本国籍の少年は3月2日夜に出頭し、翌3月3日に強盗殺人容疑で逮捕された。
飯塚浩輝(当時17歳)
当日朝になり、ルーマニア国籍の少年 今井アレックス(当時17歳)は他人名義の銀行通帳を所持していた占有離脱物横領容疑で逮捕され、翌3月1日には強盗殺人容疑で再逮捕された。
もう1人の日本国籍の少年 飯塚浩輝(当時18歳)は当日こそ身柄を拘束されなかったものの、防犯カメラを解析した結果、駅から電車を乗り継いで立川方面に向かっていたことが判明した。日本国籍の少年は3月2日夜に出頭し、翌3月3日に強盗殺人容疑で逮捕された。
飯塚浩輝(当時17歳)
今井アレックス(当時17歳)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2014年1月から3月にかけて東京地裁で裁判員裁判が開かれた。少年2人は殺意を否認したが、東京地裁は強盗殺人罪を認定し、求刑通り無期懲役判決を言い渡した。その後、少年2人は控訴したが棄却され、無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
2044年1月頃、47歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
旧清川村強盗殺人事件(伊東順一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2005年3月に大分県・大野郡清川村(現:豊後大野市)で起きた強盗殺人事件である。
大分県清川村(現豊後大野市)で2005年3月19日に山口範子さん(当時61歳)の顔が判別できない程殴打された状態の遺体が自宅裏庭で見つかった。乗用車が奪われていた。
大分県警は、2007年2月、被害者と顔見知りでこの事件とは別の窃盗罪により服役中だった伊東順一(当時61歳)を強盗殺人、窃盗、住居侵入の罪で逮捕した。
当初は容疑を否認していたが、数日後に容疑を認めた。検察はこれを受けて2005年3月8日に被害者宅に侵入して現金13万円を盗んだうえに、同14日に山口さん宅に侵入してコンクリートの塊で被害者を殴り倒してビニール紐で首を絞めるなどして殺害した後に乗用車や商品券を奪った容疑で逮捕していた伊東を起訴した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
大分県清川村(現豊後大野市)で2005年3月19日に山口範子さん(当時61歳)の顔が判別できない程殴打された状態の遺体が自宅裏庭で見つかった。乗用車が奪われていた。
大分県警は、2007年2月、被害者と顔見知りでこの事件とは別の窃盗罪により服役中だった伊東順一(当時61歳)を強盗殺人、窃盗、住居侵入の罪で逮捕した。
当初は容疑を否認していたが、数日後に容疑を認めた。検察はこれを受けて2005年3月8日に被害者宅に侵入して現金13万円を盗んだうえに、同14日に山口さん宅に侵入してコンクリートの塊で被害者を殴り倒してビニール紐で首を絞めるなどして殺害した後に乗用車や商品券を奪った容疑で逮捕していた伊東を起訴した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2015年10月6日、最高裁で無期懲役判決。確定した。
❖出所予定(年齢)
2045年10月頃、91歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
京田辺警察官殺害事件(少女(当時16歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2007年9月18日に京都府・京田辺市で、当時16歳の少女が警察官(京都府南警察署勤務)である父親を殺害した事件。
2007年9月18日午前4時頃、少女は自宅2階の寝室で寝ていた父親の首を手斧(刃渡り11cm、柄約30cm)で切りつけて失血死させた。午前4時40分頃、少女の母親が「父親が首を切って自殺した」と119番通報。消防からの連絡で田辺署員が駆け付けたところ、2階の寝室のベッドで血塗れで死亡していることが確認された。1階キッチンに手斧が落ちており、側にいた少女の服に返り血が付いていたため、署員が事情を聞いたところ犯行を認めたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2008年1月23日、京都家裁の決定で裁判長は動機について、厳しいしつけをしてきた父に女性関係があって、生理的な嫌悪感や不快感を抱いていたが、そんな父親に専門学校進学の許諾を得なければならなかったことに強い屈辱感を持ったためとし、6月頃には殺害を計画したとした。
そして、犯行が残忍で計画性が認められる重大事案として、原則検察官に送致すべき事件としつつも、少女の、こだわりが強いという特性や潔癖を願う気持ちが強い性格により、抑うつ症状が強まっていたとして、保護処分とする特段の事情があると結論。
謝罪する気持ちがあることや家族の処罰感情が強くないことも考慮し、長期間の矯正教育を施して更生を図るべきだとして、中等少年院送致の保護処分を決定した。異議はなく、そのまま確定した。
❖中等少年院
中等少年院とは、心身に著しい故障のない、おおむね16歳以上20歳未満の者を収容する少年院です。少年院送致を言い渡された少年は、ほとんどが中等少年院に送致されます。
少年院の処遇課程には、特修短期処遇(4か月以内での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、一般短期処遇(6か月以内程度での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、長期処遇(12か月以内程度での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、超長期処遇(12か月以上かけて矯正教育を授けるメニュー)があり、これらの処遇課程の振り分けは、短期処遇については、家庭裁判所の処遇勧告に従うのが原則とされ、長期処遇については、比較的長期(18か月程度)や相当長期(24か月以上)などの勧告を尊重することとされています。
中等少年院とは、心身に著しい故障のない、おおむね16歳以上20歳未満の者を収容する少年院です。少年院送致を言い渡された少年は、ほとんどが中等少年院に送致されます。
少年院の処遇課程には、特修短期処遇(4か月以内での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、一般短期処遇(6か月以内程度での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、長期処遇(12か月以内程度での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、超長期処遇(12か月以上かけて矯正教育を授けるメニュー)があり、これらの処遇課程の振り分けは、短期処遇については、家庭裁判所の処遇勧告に従うのが原則とされ、長期処遇については、比較的長期(18か月程度)や相当長期(24か月以上)などの勧告を尊重することとされています。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
京都・神奈川親族連続殺人事件(松村恭造)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2007年1月に京都府・神奈川県で発生した連続殺人事件。
2007年1月16日、犯人 松村恭造(当時25歳)は京都府・長岡京市在住の叔母 岩井順子さん(当時57歳)を襲って殺害し、現金およそ2万円とキャッシュカードを強奪して逃走した。京都府警察は1月20日、犯人を特定して全国に指名手配(非公開)する。
松村はその頃には東京都に逃走しており、奪った金で風俗店で遊びまわって使い果たしてしまっていた。金に困った松村は、1月22日に神奈川県・相模原市在住の大叔父を頼って金を無心したが断られた。宿泊を頼み込んで認められたが、1月23日の深夜、松村は大叔父 加藤順一さん(当時72歳)が就寝しているところを鈍器で滅多打ちにして殺害。遺体を押入れに隠し、現金およそ1万円と携帯電話を盗んで逃走した。大叔父の遺体は早朝に発見された。
松村はその頃には東京都に逃走しており、奪った金で風俗店で遊びまわって使い果たしてしまっていた。金に困った松村は、1月22日に神奈川県・相模原市在住の大叔父を頼って金を無心したが断られた。宿泊を頼み込んで認められたが、1月23日の深夜、松村は大叔父 加藤順一さん(当時72歳)が就寝しているところを鈍器で滅多打ちにして殺害。遺体を押入れに隠し、現金およそ1万円と携帯電話を盗んで逃走した。大叔父の遺体は早朝に発見された。
松村は1月23日の夕方、東京都・練馬区内を歩いていたところを京都府警の捜査員に発見され、叔母 岩井さんに対する強盗殺人で逮捕された。2月21日には大叔父 加藤さんに対する強盗殺人の容疑で再逮捕された。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
裁判でも松村は傍若無人な発言を繰り返した。初公判では「人殺しくらいやって当然」と述べた。さらに「2人の冥福を祈るつもりは全くない」などとも述べた。
2008年3月17日、京都地方裁判所で裁判長の「犯行を認めますか」という罪状認否に対して、「俺が2人を殺した。俺は人殺しという大仕事を冷静に成し遂げた。俺は自分をほめてやりたい」と発言した。動機に関しても、「人生がうまくいかない。どうせ死ぬのなら恨みがあるやつを殺してからにしようとした」と発言した。
また、自身を勘当した父親を憎んでか、父親に対して「事件はてめえの責任」と述べるなど、不規則発言を繰り返した。また、自分を馬鹿にしたとして同級生を3人目の殺害対象にしていたとも証言した。
これらの不規則発言から反省の意思がまったくないとして、3月28日に京都地裁は「事件の責任は重大。被告人の反省の態度が見られず、更生を期待するのは極めて困難」として松村に死刑判決を言い渡した。
弁護側は大阪高等裁判所に即日控訴したが、松村が自ら取り下げて4月8日に死刑が確定し、2012年8月3日に大阪拘置所で松村の死刑が執行された。奇しくも、この日は松村の誕生日であった(生没同日)。
弁護側は大阪高等裁判所に即日控訴したが、松村が自ら取り下げて4月8日に死刑が確定し、2012年8月3日に大阪拘置所で松村の死刑が執行された。奇しくも、この日は松村の誕生日であった(生没同日)。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
京都小学生殺害事件(岡村浩昌(てるくはのる))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1999年(平成11年)12月21日に、京都府京都市伏見区の京都市立日野小学校で起きた殺人事件。
校庭で遊んでいた2年生の中村俊希くん(当時7歳)が、岡村浩昌(当時21歳)に刺殺された。岡村は「私を識別する記号→てるくはのる」などと記した犯行声明を現場に残し逃走。翌2000年(平成12年)2月5日、警察がOを訪ね任意同行を求めたところ、岡村は捜査員の隙をついて逃走し、高層アパートの屋上へ逃げ込んで飛び降り自殺を遂げた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
校庭で遊んでいた2年生の中村俊希くん(当時7歳)が、岡村浩昌(当時21歳)に刺殺された。岡村は「私を識別する記号→てるくはのる」などと記した犯行声明を現場に残し逃走。翌2000年(平成12年)2月5日、警察がOを訪ね任意同行を求めたところ、岡村は捜査員の隙をついて逃走し、高層アパートの屋上へ逃げ込んで飛び降り自殺を遂げた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2000年4月22日、捜査本部は被疑者死亡のまま、Oを殺人罪、銃刀法違反など四つの容疑で、京都地検へ書類送検した。2000年4月28日、京都地検はOの犯行を認定した上で不起訴とし、これで捜査は全て終結した。
❖出所予定(年齢)
死亡(自殺)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
国立市主婦殺害事件(岡敏明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1992年(平成4年)10月20日に東京都国立市東三丁目で発生した強盗強姦・強盗殺人・窃盗事件。
岡敏明(当時43歳)は事件前に塗装工事で出入りしたことがある家に上がり込み、1人で留守番していた主婦(当時35歳)を強姦した上で金品を奪うことを計画。同宅に上がりこんで被害者の主婦を脅迫・強姦した上、予め用意していた千枚通し・牛刀で口封じのために被害者を刺殺し、現金約31,000円を奪った。
岡はA宅に赴くと、A以外に家人がいないことを確認し、在宅していたAに対し「近くまで仕事に来たので立ち寄った」などと口実を構えて上がり込んだ。
Aの口を右手で塞いだ上で、左手でAの左腕を抑え、「静かにしろ。騒ぐと殺すぞ。声を出すな」などと申し向けて脅迫した。Aが「人殺し」と叫ぶと、OはAの前頸部を右手で強く絞めつけ、その態度から「Aは泣き寝入りしない」と判断し、Aを強姦した上で殺害することを決断。
洋服タンスから取り出した紐などでAの両手首を首の後に回し、首と一緒に縛り上げた上で肉体関係を迫った。Aがこれを拒否すると、OはAのみぞおち付近を拳で力いっぱい3回ほど殴りつけ、押し入れから取り出した敷布団をAの上半身にかぶせた。そして目をつぶり動かなくなったAのジーパンをずり降ろし、台所にあった牛刀(刃体の長さ約15.8 cm)でパンティの両脇を切断して剥ぎ取り、執拗なわいせつ行為を加えた末にAを姦淫した。そして確定的殺意を有した上で、千枚通しで4回ほど(背中を3回ほど+側胸部を1回)、牛刀で2回(頸部および後頸部を各1回)、それぞれ突き刺し、Aを失血死させた。
岡は1995年(平成7年)に東京地方裁判所八王子支部で死刑判決を言い渡されたが、東京高等裁判所へ控訴したところ、1997年(平成9年)に無期懲役判決を言い渡された。同判決を不服とした東京高等検察庁は、「本事件は最高裁判所が1983年(昭和58年)7月に示した死刑適用基準(永山基準)に照らし、極刑がやむを得ない事案である」として、量刑不当および判例違反を理由に最高裁へ上告。死刑を求刑していた検察側が量刑不当を理由に最高裁へ上告した事例は当時4件目で、殺人前科のない被告人による被害者1人の殺人事件としては初めてだった。
❖判決内容(判決内容・判決時期) 1999年11月29日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(福田博裁判長)は原判決(無期懲役)を支持して検察官の上告を棄却する判決(以下「福田判決」)を言い渡した。「福田判決」は、検察官の上告趣意を「判例違反をいう点を含め、実質は量刑不当の主張であって、適法な上告理由に当たらない。」と退けた一方、被告人Oの量刑について職権により判断し[57]、死刑適用基準(永山基準)を示した最高裁第二小法廷の判決(1983年7月8日)を引用して「殺害された被害者が一名の事案においても、(『永山基準』にて、死刑を選択すべきか判断する際に考慮すべきものとして示された)諸般の情状を考慮して、極刑がやむを得ないと認められる場合があることはいうまでもない。」と指摘した。
❖出所予定(年齢)
2029年11月頃、73歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
熊谷男女4人殺傷事件(尾形英紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2003年(平成15年)8月18日に埼玉県・熊谷市で発生した男性殺害、女性拉致殺傷事件。
本事件は2003年(平成15年)8月18日、不倫相手の少女の「交際相手に姦淫されそうになった」という訴えを聞いた元稲川会系暴力団員の尾形英紀(当時26歳)が、少女の元交際相手鈴木秀明さん(当時28歳)を詰問して包丁で背中などを刺して殺害し、襲撃時に鈴木さんと同室にいたB、事件直後に鈴木さんの部屋を訪れたC、Cと同室に住んでいたDの3人を口封じのために拉致し、首を絞める・包丁で刺すなどしてCを殺害、BとDに重傷を負わせた事件である。B、C、Dの3人ともOとは初対面であった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2007年4月26日、さいたま地裁(飯田喜信裁判長)は、「1日のうちに4人を殺害の対象とし、2人を殺害したまれに見る重大な凶悪事件。犯行は非人間的と言わざるをえない。殺してでもメンツを守ろうとする暴力団関係者特有の思考で、あまりに短絡的な犯行。動機と経緯に酌量の余地はない」と指弾した。さらに刑事責任能力についても「指紋をふき取るように指示するなど合理的な行動をとっている。殺害経緯、殺害状況について具体的な記憶を保持していた」として完全責任能力を認め、弁護側の「善悪の判断能力と行動制御能力が著しく低下し、心神耗弱状態だった」という主張も退け、検察側の求刑どおりOに死刑判決を言い渡した。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(2010年7月28日、東京拘置所で絞首により死刑執行(当時33歳没))
死刑判決(2010年7月28日、東京拘置所で絞首により死刑執行(当時33歳没))
熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件(長井俊一、福島大三)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1989年(平成元年)4月5日に埼玉県・熊谷市で発生した、保険金の獲得を目的とした放火殺人(保険金殺人)事件。
1989年4月5日21時20分ごろ、熊谷市内の養鶏場のプレハブ平屋宿舎が放火され、住み込み従業員の高原晟(あきら)さん(当時53歳)が全治4か月の火傷を負ったほか、高原さんの妻であるヒロ子さんが死亡した(48歳没)。火元の宿舎約20平方メートルは全焼した。
従業員の福島大三(当時64歳)に犯行を依頼した経営者の長井俊一(当時49歳)に保険金2,773万円が入り、福島に報酬として300万円を支払った。福島は当時、埼玉県警察による事情聴取に対し、「出火した際はおじちゃん(福島大三)がおり、火を点けた」と証言するもその後「覚えていない。ガスの不始末かもしれない」と変遷した。
事件発生から13年が経過した2002年(平成14年)に「福島大三が室内に油を撒いているのを見た」と再び当初の証言に戻った。このため、埼玉県警は同年7月11日に福島大三(当時77歳)を、同月22日に長井俊一(当時63歳)をそれぞれ逮捕した。
従業員の福島大三(当時64歳)に犯行を依頼した経営者の長井俊一(当時49歳)に保険金2,773万円が入り、福島に報酬として300万円を支払った。福島は当時、埼玉県警察による事情聴取に対し、「出火した際はおじちゃん(福島大三)がおり、火を点けた」と証言するもその後「覚えていない。ガスの不始末かもしれない」と変遷した。
事件発生から13年が経過した2002年(平成14年)に「福島大三が室内に油を撒いているのを見た」と再び当初の証言に戻った。このため、埼玉県警は同年7月11日に福島大三(当時77歳)を、同月22日に長井俊一(当時63歳)をそれぞれ逮捕した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は2003年11月29日付で、被告人 長井俊一の上告を棄却する決定を出したため、被告人 長井俊一(当時65歳)は無期懲役が確定した。
2006年(平成18年)9月26日、東京高裁(池田修裁判長)は原判決(死刑を選択した第一審判決)を破棄自判し、被告人 福島大三に無期懲役を宣告した。東京高裁 (2006) は、首謀者であるWの無期懲役が確定していたことから、「Wの無期懲役とは歴然とした差異のある極刑は、共犯者間の刑の均衡を失する懸念をぬぐい難い」と指摘したほか、「被告人 福島大三は長井俊一に利用され、巻き込まれた面があるのは否定できない。
被告人 福島大三の年齢(当判決時82歳)などを考えると、極刑はいささか躊躇を覚えざるをえない」と述べた。被告人 福島大三は最高裁に上告したが、上告中の2007年(平成19年)5月28日に東京拘置所内で病死(82歳没)。これを受け、最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は同年6月12日付で公訴棄却の決定を出した。
被告人 福島大三の年齢(当判決時82歳)などを考えると、極刑はいささか躊躇を覚えざるをえない」と述べた。被告人 福島大三は最高裁に上告したが、上告中の2007年(平成19年)5月28日に東京拘置所内で病死(82歳没)。これを受け、最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は同年6月12日付で公訴棄却の決定を出した。
❖出所予定(年齢)
長井俊一 2033年4月頃、95歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
ページ上に戻る
熊谷連続殺人事件(ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン・)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2015年(平成27年)9月14日・9月16日の計2日にかけて、埼玉県熊谷市で所轄の埼玉県警察熊谷警察署から脱走したペルー人のナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン(当時30歳)が、小学生女児2人を含む住民の男女6名を相次いで殺害した連続殺人事件。
2015年9月14日夕方、熊谷市見晴町の住宅(上熊谷駅から南に約500m、荒川の河川敷のそば)で田崎稔さん(当時55歳)、田崎美佐枝さん(当時53歳)夫婦が殺害される(第1の事件)。この事件は18時5分ごろに妻の散歩仲間の女性が夫婦宅を訪ねたときに発覚したが、この女性が17時すぎに散歩に誘うメールを送った時は了承する旨の返信があったという。夫妻の部屋の壁にはアルファベットのような文字が血で書かれており、警察は犯人が書いた可能性があるとみて調べている。
16日、同市石原の自宅(石原駅から北に約400m、第1の事件の現場から北西に約1km)にいた白石和代さん(84歳)が殺害され(第2の事件。通報は16時23分、警察が発見したのは16時50分)、別の住宅(第2の事件の現場から西方に約80m)にいた加藤さん(当時48歳)の妻の加藤美和子さん(当時41歳)と小学5年の長女美咲さん(当時10歳)、同2年の次女春花さん(当時7歳)の3名が殺害された(第3の事件)。
17時14分ごろ、警察官が第3の事件が発生した住宅に第2の事件の聞き込み捜査のため訪問したところ、照明が点いているにもかかわらず応答がないことを不審に思い、周囲を覗いていると17時27分にこの家の2階から両手に包丁を持ったナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンが顔を出した。17時33分ごろ、警察の説得を無視して自殺(両腕を包丁で数回切った後窓から投身)を図り、頭部を強打・骨折し意識不明となったところで警察に身柄を確保され、所持していた包丁2本を押収され、深谷市内の病院へ運ばれた(第3の事件の被害者が発見されたのは、男の身柄が確保された後である)。身柄確保時、男は被害者宅にあった服を着ていた。
17時14分ごろ、警察官が第3の事件が発生した住宅に第2の事件の聞き込み捜査のため訪問したところ、照明が点いているにもかかわらず応答がないことを不審に思い、周囲を覗いていると17時27分にこの家の2階から両手に包丁を持ったナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンが顔を出した。17時33分ごろ、警察の説得を無視して自殺(両腕を包丁で数回切った後窓から投身)を図り、頭部を強打・骨折し意識不明となったところで警察に身柄を確保され、所持していた包丁2本を押収され、深谷市内の病院へ運ばれた(第3の事件の被害者が発見されたのは、男の身柄が確保された後である)。身柄確保時、男は被害者宅にあった服を着ていた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2019年12月5日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁(大熊一之裁判長)[注 1]は第一審・死刑判決を破棄して無期懲役判決を言い渡した。裁判員裁判で言い渡された死刑判決が破棄された事例は本件で6件目で、東京高裁は判決理由にて「被告人は妄想上の『追跡者』から身を隠すために被害者宅へ侵入し、被害者を『追跡者』と勘違いして殺害した可能性がある」「本来は死刑で臨むほかない重大な犯罪だが、統合失調症がもたらした強い妄想の影響で責任能力が十分ではなかった。心神喪失とまでは言えないが完全な責任能力を認めた第一審判決は適切ではない」として心神耗弱を認定した。
被告人の弁護人は心神喪失を認定しなかった控訴審判決を不服として2019年12月18日付で最高裁判所へ上告した一方、東京高検は控訴期限(2019年12月19日)までに上告を断念したため、上告審で被告人に無期懲役より重い刑(死刑)が科される可能性が消滅した。東京高検の久木元伸次席検事は上告断念の経緯について「事案の重要性や遺族の心情などを踏まえたうえで、さまざまな角度から判決内容を慎重に検討したが、適法な上告理由が見いだせず遺憾だが上告を断念せざるをえない」とするコメントを出した。
2020年(令和2年)9月9日付で最高裁第一小法廷(山口厚裁判長)が被告人の上告を棄却する決定を出したため、無期懲役が確定することとなった。被告人側は同決定に異議を申し立てたが、これも同月24日付の同小法廷決定で棄却されたため、無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
❖兄弟そろって最強シリアルキラー
ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン(事件当時30歳・ペルー人)は「ペルー史上最悪の連続殺人犯」ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャの実弟でした。兄ペドロの犯罪現場を目撃した犯人は精神を病んでしまったと語られています。
ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ(「ペルー史上最悪の連続殺人犯」)
ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ (旧名ペドロ・パブロ・マシアス・ルデニャ) は、1973年2月28日、ペルーの首都リマで生まれた。
父親は重度のアルコール依存症であった。そんな父親は酒に酔っては日常的に母親に暴力を振るった。
パブロは4歳の頃、兄弟で飼っていた雌犬が死んだのだが、それがパブロが殺した事になり、家族から性的虐待を受けるようになる。この性的虐待により、パブロは完全にゲイになってしまった。そんなパブロは5歳の頃には動物を虐待し、殺すようになる。パブロは犬や猫といった比較的小さめの動物ではなく、馬や牛といった大きい動物が苦しみながら死んでいく様子を見て興奮した。
9人兄弟だったパブロは、長女から女装するよう強要された。
1990年、パブロ17歳の時、畑でスイカを盗んだ所、作業していた農夫に見つかってしまい、注意された為、殺害した。これがパブロ初めての殺人であった。
その後、ペルー軍に入隊したが、わずか2ヶ月で除隊させられる。しかし、このペルー軍に入隊したというのは、後に嘘であると判明する。
2003年、パブロは日本に行こうと考え、約3万円を支払う事で、日本国籍を所有する人と養子縁組を行い、『ナカダ』の名字を取得する。尚、パブロの兄弟も『ナカダ』の名字を持っている。
2000年頃からパブロは殺人を始める。パブロが標的にしたのは、麻薬中毒者や売春婦、同性愛者などで、ゴムのスリッパを使って製作した自作のサイレンサー付9㎜銃で、上述した人間を次々と射殺した。
こうしてパブロは2000年から2006年までに、20人以上を殺害した。
2006年12月28日、警察は一連の犯行をパブロの仕業だと断定し、パブロの職場に向かった。すると、パブロが警官を見るなり発砲。パブロと警官による銃撃戦となるが、パブロの弾が尽き、逃走を図るが逮捕された。この銃撃戦で警官1人が負傷した。
逮捕されたパブロは、殺害動機について「世界を浄化する為に神の命令で麻薬中毒者、売春婦、同性愛者らを殺した」と語った。
取り調べにパブロは今まで25人殺害した事を自供したが、確認がとれたのは17人であった。ただし、警察は被害者は25人以上であると推測している。パブロの事件が公になると、ペルー全土が震撼し、パブロは『死の使徒』と呼ばれた。2008年、裁判でパブロには懲役35年が言い渡された(ペルーに死刑制度がないため)。
ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ (旧名ペドロ・パブロ・マシアス・ルデニャ) は、1973年2月28日、ペルーの首都リマで生まれた。
父親は重度のアルコール依存症であった。そんな父親は酒に酔っては日常的に母親に暴力を振るった。
パブロは4歳の頃、兄弟で飼っていた雌犬が死んだのだが、それがパブロが殺した事になり、家族から性的虐待を受けるようになる。この性的虐待により、パブロは完全にゲイになってしまった。そんなパブロは5歳の頃には動物を虐待し、殺すようになる。パブロは犬や猫といった比較的小さめの動物ではなく、馬や牛といった大きい動物が苦しみながら死んでいく様子を見て興奮した。
9人兄弟だったパブロは、長女から女装するよう強要された。
1990年、パブロ17歳の時、畑でスイカを盗んだ所、作業していた農夫に見つかってしまい、注意された為、殺害した。これがパブロ初めての殺人であった。
その後、ペルー軍に入隊したが、わずか2ヶ月で除隊させられる。しかし、このペルー軍に入隊したというのは、後に嘘であると判明する。
2003年、パブロは日本に行こうと考え、約3万円を支払う事で、日本国籍を所有する人と養子縁組を行い、『ナカダ』の名字を取得する。尚、パブロの兄弟も『ナカダ』の名字を持っている。
2000年頃からパブロは殺人を始める。パブロが標的にしたのは、麻薬中毒者や売春婦、同性愛者などで、ゴムのスリッパを使って製作した自作のサイレンサー付9㎜銃で、上述した人間を次々と射殺した。
こうしてパブロは2000年から2006年までに、20人以上を殺害した。
2006年12月28日、警察は一連の犯行をパブロの仕業だと断定し、パブロの職場に向かった。すると、パブロが警官を見るなり発砲。パブロと警官による銃撃戦となるが、パブロの弾が尽き、逃走を図るが逮捕された。この銃撃戦で警官1人が負傷した。
逮捕されたパブロは、殺害動機について「世界を浄化する為に神の命令で麻薬中毒者、売春婦、同性愛者らを殺した」と語った。
取り調べにパブロは今まで25人殺害した事を自供したが、確認がとれたのは17人であった。ただし、警察は被害者は25人以上であると推測している。パブロの事件が公になると、ペルー全土が震撼し、パブロは『死の使徒』と呼ばれた。2008年、裁判でパブロには懲役35年が言い渡された(ペルーに死刑制度がないため)。
ページ上に戻る
熊本3歳女児殺害事件(山口芳寛)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2011年3月3日に熊本県熊本市で清水心[ここ]ちゃん(当時3歳、女児)が行方不明になり、翌3月4日に遺体で発見された事件。
●2011年3月3日19時30分頃
熊本市北区のスーパーにて女児が父親に「トイレに行っていい」と聞き、父親はレジにいて手を離せなかったため一旦は止めたが、女児は「どうしても今行きたい」と話し、たった数十メートル先のトイレに1人で向かった。この時、父親は角を曲がる女児の姿を目で追っている。直後、犯人の大学生の山口芳寛(当時20歳)もトイレに入る。
この15分の間に女児は障害者用トイレに連れ込まれ、わいせつの末、口を塞がれもう片方の手で首を絞められて殺害された。
女児の父親は、トイレにすぐに向かい、まず女子トイレの方へ名前を呼んだ。返事が返ってこなかったため、障害者用トイレを叩き女児の名前を何度も叫んだが、返事はなく、中から「使用しています」と声が聞こえた。その声は犯行時の山口芳寛の声だった。
●19時45分頃
山口芳寛だけがトイレから出てくる。リュックサックはかなり膨らんでいた。この時女児の両親は、女児の遺体をリュックに入れて立ち去る男とすれ違っている。
●20時頃
スーパーが閉店しても、女児が見つからないため、母親が通報。
●20時10分頃
男が女児の遺体を坪井川の排水溝に遺棄。
●2011年3月4日
トイレ前の画像および近くのガソリンスタンドで、大きく膨らんだリュックサックを背負った、無我夢中で自転車を漕ぐ男の画像を公開した。すると、犯人の元担任が自分の元教え子ではないかと聞き込み捜査で伝え、市内の熊本学園大学に通う当時20歳の山口芳寛が浮上した。
警察の事情聴取で容疑を認め、供述通り女児の遺体が見つかったため午後死体遺棄容疑で逮捕された。熊本学園大学では緊急会見が行われ、岡本悳也学長や、男が通っていた社会福祉学部の部長らが謝罪を行った。
●22時00分
男の自宅の家宅捜索が行われた
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2013年6月26日最高裁第一小法廷にて被告の上告を棄却。無期懲役が確定。
❖出所予定(年齢)
2043年6月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
久留米看護師連続保険金殺人事件(吉田純子、堤美由紀、石井ヒト美、池上和子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1998年(平成10年)1月と1999年(平成11年)3月に福岡県・久留米市に住む看護師の女性4人組が生命保険金目的でグループ内の女性の夫を医学的知識を利用して殺害した保険金殺人事件である。
本事件は、散財により借金苦に陥っていた看護師 吉田純子(45歳=一審判決時、以下同)が、看護学校時代の友人 堤美由紀(当時44歳)、石井ヒト美(当時46歳)池上和子(死亡時43歳)や同僚看護師から金を騙し取り、さらに大金を得るために池田和子の夫・平田栄治さん(死亡時39歳)を堤美由紀、石井ヒト美と共謀して、石井ヒト美の夫・久門剛さん(死亡時44歳)を堤美由紀、石井ヒト美、池上和子と共謀して、それぞれ医学的知識を利用して殺害し、堤美由紀の母を石井ヒト美、池上和子と共謀して殺害しようとして未遂に終わった事件である。
吉田純子(45歳=一審判決時、以下同)は、堤美由紀(当時44歳)には不倫トラブルを解決し政界や警察にも顔が利くという「先生」を、石井ヒト美(当時46歳)にはかつて石井ヒト美がいじめていた元同僚の代理人で暴力団がバックについているという「井田佳寿恵」を、池上和子(死亡時43歳)には夫による詐欺被害者の代理人であるという「古林玉枝」の存在を、要所でちらつかせて服従させ金を騙し取った。「先生」も「井田佳寿恵」も「古林玉枝」もいずれもYが考えた実在しない架空の人物である。
特に堤美由紀とは関係が深く、吉田純子と堤美由紀は同じ病院に勤務する同僚でありながらプライベードでは肉体関係もあった。
2001年(平成13年)にはYは自身が購入した久留米市の高級マンションの同じ棟に堤美由紀、石井ヒト美、池上和子も住まわせ身の回りの世話をさせた他、「先生」からの指示があったとして自身のことを「吉田純子様」と呼ばせるようになった。
石井ヒト美と池上和子の夫の生命保険金はほぼ全額が「井田」や「古林」への返済のためと称して吉田純子の手に渡り、池上和子から得た1億1500万円、石井ヒト美から得た6900万円をはじめとして、一連の犯行で吉田純子が手にした現金は2億円にのぼった。
2002年(平成14年)4月17日、吉田純子と堤美由紀が元同僚に対する500万円の詐欺容疑で、池上和子が石井ヒト美に対する脅迫容疑で逮捕される。石井ヒト美は直前の4月13日に自殺未遂を起こしていたため、4月21日に殺人容疑で逮捕された。それぞれ後に同僚看護婦から500万円を騙し取った詐欺罪(吉田純子、堤美由紀)、池上和子の夫に対する殺害および保険金詐取(吉田純子、堤美由紀、池上和子)、石井ヒト美の夫に対する殺害および保険金詐取(4人)による詐欺罪と殺人罪、堤美由紀の実母に対する強盗殺人未遂および住居侵入罪(吉田純子、石井ヒト美、池上和子)、石井ヒト美を脅したことによる脅迫罪(吉田純子、池上和子)で起訴された。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2004年(平成16年)8月から9月にかけ、それぞれ福岡地裁で第一審判決が言い渡された。
8月2日 - 被告人 堤美由紀(求刑:死刑)に無期懲役
8月9日 - 被告人 石井ヒト美(求刑:無期懲役)に懲役17年
9月24日(谷敏行裁判長) - 被告人 吉田純子(求刑:死刑)に求刑通り死刑
なお、被告人 池上和子は死刑を求刑され、8月に判決言い渡しが予定されていたが、子宮がんにより同年9月1日に死亡し、公訴棄却された。
2006年(平成18年)5月16日、福岡高裁(浜崎裕裁判長)は被告人 吉田純子の控訴を棄却する判決を言い渡した。吉田純子は上告したが、2010年(平成22年)1月29日、最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)が被告人 吉田純子の上告を棄却する判決を言い渡したため、吉田純子は同年4月に死刑が確定した(女性死刑囚※)。
※女性死刑囚の死刑執行は、1950年(昭和25年)以降で5人目となった。
※女性死刑囚の死刑執行は、1950年(昭和25年)以降で5人目となった。
❖出所予定(年齢)
堤美由紀・・・2034年8月頃、74歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
石井ヒト美・・・2021年8月頃、63歳(出所)
池上和子・・・死亡(病没)
ページ上に戻る
群馬女子高生誘拐殺人事件(坂本正人)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2002年(平成14年)7月19日に群馬県勢多郡(現:前橋市)で発生した身代金誘拐殺人事件。
2002年7月19日13時ごろ、加害者 坂本正人(当時36歳)は強姦する女性を物色するために乗用車で走行していたところ、群馬県勢多郡大胡町(現:前橋市)内の路上で偶然帰宅途中の被害者・女子高生A(大胡町河原浜在住 / 16歳没・群馬県立前橋東商業高等学校1年生)が人気のないトウモロコシ畑の中を歩いているところを見かけた。坂本はAさんに道を尋ねるふりをして立ち止まらせると、Aさんを無理矢理自分の乗用車の後部座席に押し込んで拉致した(わいせつ略取罪など)。
そして被害者Aさんを「人気が無く、女性を強姦するためには都合がいい」とあらかじめ考えていた赤城山中の山林内へ連れて行き、同郡宮城村柏倉(現:前橋市柏倉町)の山林に至った。坂本は14時ごろ、(車内で)Aの腕をつかんでAさんを助手席に移動させ「言うことを聞かねえと帰さねえぞ」などと脅迫した上で強姦した強姦罪)。
しかし強姦後、坂本が煙草を吸うなどしていたところ、Aさんが車内から逃げ出そうとした。
坂本はAさんを逃がすまいと咄嗟にAさんを抑えつけ、Aさんが抵抗しなくなるまで右腕で首を締め上げた。やがて坂本は「Aは失神した」と思い込んで腕をほどいたが、Aさんは薄目を開けた状態で口元から泡を吹いており、胸部付近がけいれんしていたため、坂本はいったんは「Aさんを病院に連れて行かなければ」と思った。
しかし「そうすれば自己の強姦などの犯行が発覚してしまう」と思ったため、「いっそAさんを殺してしまおう」と決意し、助手席シートで仰向けに横たわっていたAさんの首を右手で掴み、シートの背もたれに押し付けるように体重をかけて絞めたところ、Aさんが「ゼーッ」という音を出したことから驚いて手を離した。坂本はこの時「もうAさんは死んだ」と思ったため、Aさんを山林内に放置しようとその頭部にビニール袋をかぶせたが、Aさんがまだ息をしていたため、両手で首を絞めた。
しかしその際にAさんの首から自分の手に脈の感触が伝わってきたため素手で絞めるのをやめ、Aさんを車から山中に降ろしてビニール袋を頭部に被せたままカーステレオのコードで首を縛り、Aさんを窒息死させた。
しかし「そうすれば自己の強姦などの犯行が発覚してしまう」と思ったため、「いっそAさんを殺してしまおう」と決意し、助手席シートで仰向けに横たわっていたAさんの首を右手で掴み、シートの背もたれに押し付けるように体重をかけて絞めたところ、Aさんが「ゼーッ」という音を出したことから驚いて手を離した。坂本はこの時「もうAさんは死んだ」と思ったため、Aさんを山林内に放置しようとその頭部にビニール袋をかぶせたが、Aさんがまだ息をしていたため、両手で首を絞めた。
しかしその際にAさんの首から自分の手に脈の感触が伝わってきたため素手で絞めるのをやめ、Aさんを車から山中に降ろしてビニール袋を頭部に被せたままカーステレオのコードで首を縛り、Aさんを窒息死させた。
殺害・遺棄を終えた坂本はゲームセンターなどで時間を潰したが、20-21時ごろに帰宅して「自分は殺人者になった。もう終わりだ」などと思い詰め「逮捕される前の前妻に会おう。そのために直接児童相談所に乗り込み、職員を人質にとって前妻を連れてこさせよう」などと考えた。
坂本は「そのための武器として拳銃を買うためには最低でも50万円必要だ」と考え、資金としてまとまった金を手に入れる方法に強盗などを思いついたが、良い場所が思いつかなかったため行き詰まった[3]。しかし、Aさんから奪った携帯電話の存在を思い出したため、その携帯電話を使って娘Aの安否を心配していた両親から身代金を得ることを企てた。
坂本は「そのための武器として拳銃を買うためには最低でも50万円必要だ」と考え、資金としてまとまった金を手に入れる方法に強盗などを思いついたが、良い場所が思いつかなかったため行き詰まった[3]。しかし、Aさんから奪った携帯電話の存在を思い出したため、その携帯電話を使って娘Aの安否を心配していた両親から身代金を得ることを企てた。
坂本は「大金を要求しなければAさんの両親は警察に届け出ないだろう」と考えて要求額を50万円に決め、同日23時15分ごろ - 翌20日12時ごろまでの間、数回にわたり前橋市内の複数個所からA宅に電話を掛け、応対した両親を「娘はどうなっても良いのか。50万円を用意しろ」「警察には届けるな」などと脅して身代金を要求した(拐取者身の代金取得)。しかしAさんの両親は群馬県警察に通報し、その指示通りSとの交渉を続けた。
12時14分ごろ、坂本は現金受け渡し場所として指定した佐波郡赤堀町(現:伊勢崎市)内の受け渡し場所で身代金として現金23万円を得た。坂本はすぐにその場から逃走したが、約800メートル走った交差点の赤信号で停車したところ、追跡していた覆面パトカー数台に行く手を塞がれて群馬県警の捜査員に取り囲まれ、恐喝容疑で逮捕された。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2004年10月29日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第11刑事部(白木勇裁判長)は第一審・無期懲役判決を破棄自判して被告人 坂本に死刑判決を言い渡した。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(2008年(平成20年)4月10日、東京拘置所で死刑執行(当時41歳没))
ページ上に戻る❖出所予定(年齢)
死刑判決(2008年(平成20年)4月10日、東京拘置所で死刑執行(当時41歳没))
群馬パチンコ店員連続殺人事件(高根沢智明、小野川光紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2003年(平成15年)2月 - 4月に群馬県の伊勢崎市と太田市で相次いで発生し、被害者の死体が埼玉県・行田市の福川に遺棄された2件の強盗殺人事件。
群馬県太田市東矢島町の元パチンコ店員の高根沢智明(事件当時36歳:無職)は、パチンコ仲間だった栃木県河内郡南河内町(現:下野市)薬師寺のコンビニエンスストア店員だった小野川光紀(当時25歳)と共謀。2003年2月23日未明1時ごろ、Tの元同僚である伊勢崎市のパチンコ店員 根本常久さん(当時47歳)を、勤務先兼住居の同市山王町「M」から向かいのコンビニエンスストアへ買い物に出かける際に呼び止め、小野川の乗用車に乗せて勢多郡宮城村(現:前橋市)の山林に連れ込み路上でロープで首を絞めて殺害した。
根本さんの遺体をトランクに積み、伊勢崎市に戻った高根沢と小野川は、3時ごろ、根本さんが持っていた鍵を使い警備システムを解除した上で店舗に侵入。売上金300万円を奪ったのち、埼玉県行田市北河原の福川水門まで根本さんの遺体を運び、4時ごろ福川に投げ込んで遺棄した。根本さんの遺体は、3月18日11時40分ごろに福川のさすなべ排水門付近で発見された。
根本さんの遺体をトランクに積み、伊勢崎市に戻った高根沢と小野川は、3時ごろ、根本さんが持っていた鍵を使い警備システムを解除した上で店舗に侵入。売上金300万円を奪ったのち、埼玉県行田市北河原の福川水門まで根本さんの遺体を運び、4時ごろ福川に投げ込んで遺棄した。根本さんの遺体は、3月18日11時40分ごろに福川のさすなべ排水門付近で発見された。
伊勢崎で強奪した金は全て500円硬貨と五千円札だった。その大量の500円硬貨を小野川が太田市内の複数の銀行で一万円札に両替して、150万円ずつ折半し、1ヶ月ほどのうちに遊興費などで使い果たした2人は、4月1日2時ごろ、お互いに通い詰めていた太田市浜町のパチンコ店「T」駐車場で、同店店員 石橋真さん(当時25歳)を襲いロープで首を絞めて殺害した。
石橋さんの財布に入っていた現金11万円と店の合鍵を盗み、店舗に侵入したが、金庫の解錠ができず売上金の窃盗には失敗した。石橋さんの遺体は、根本さん同様、行田市の福川水門から福川に遺棄した。3日後の4月4日10時30分ごろ、腐乱が著しく死因の特定されていなかった根本さんの遺留品を捜索していた埼玉県警行田警察署員によって、石橋さんの遺体は発見された。
石橋さんの財布に入っていた現金11万円と店の合鍵を盗み、店舗に侵入したが、金庫の解錠ができず売上金の窃盗には失敗した。石橋さんの遺体は、根本さん同様、行田市の福川水門から福川に遺棄した。3日後の4月4日10時30分ごろ、腐乱が著しく死因の特定されていなかった根本さんの遺留品を捜索していた埼玉県警行田警察署員によって、石橋さんの遺体は発見された。
※この事件は2人の逮捕直後に隣の埼玉県熊谷市で元暴力団員らによる熊谷男女4人殺傷事件が発生し、その事件のほうがセンセーショナルであったため、本事件は陰となる形であまりメディアに取り上げられることはなかったことで情報が少なく、珍しく殺人犯の写真がありません。埼玉県行田市北河原の福川水門(遺棄現場)の写真しかありませんでした。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2004年(平成16年)3月26日、さいたま地方裁判所(川上拓一裁判長)は、「Tは主導的役割を果たし、小野川も安易に加担したうえ、犯行を積極的に計画した」と認定した上で、「わずか2か月の間に2度も殺害を繰り返した極悪非道な犯行」として、被告人2人(高根沢および小野川)にいずれも求刑通り死刑判決を言い渡した。弁護側は特別抗告したが、最高裁判所第二小法廷(今井功裁判長)は2006年(平成18年)6月6日付で、弁護人の特別抗告を棄却する決定をした。これにより、高根沢の死刑判決が正式に確定した。
2009年(平成21年)3月31日に最高裁で開かれた弁論で、Oの弁護人は控訴審と同旨の主張をした。しかし、同年6月9日、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は、「被告人の罪責は誠に重大であり、被告人を死刑に処した一、二審判決の判断はやむを得ない」として、小野川の上告を棄却する判決を言い渡した。これにより、小野川も死刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
小野川光紀・・・死刑判決(2021年(令和3年)12月21日、東京拘置所で死刑執行(当時44歳没))
ページ上に戻る
慶應義塾大学生父親刺殺事件(鳥屋智成)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2018年1月18日午後10時頃、慶應義塾大学経済学部に通う大学生の男 鳥屋智成(当時20歳)が東京都大田区の自宅リビングで父親 多可三(たかみ)さん(当時58歳)の腹部を果物ナイフで刺した。翌1月19日、警視庁田園調布警察署はAを殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。その後、父親が搬送先の病院で死亡したため容疑を殺人罪に切り替えた。
刺殺された父親はAに対して暴力を振るっており、Aには殴られてできたあざがあった。Aは自らの父親のことを昭和の父親のようであると語り、Aの他にも母親や弟にも暴力を振るっていた。事件が発生した1月18日、父親は酒に酔って帰宅し、Aの高校生の弟に説教を始めた。この時にAは説教をやめないならば刺すと発言して刺していた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
裁判中
❖出所予定(年齢)
裁判中❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
警察庁広域重要指定118号事件(岡﨑茂男・迫康裕・熊谷昭孝)
1991年に発覚した誘拐と監禁および強盗殺人事件で2人が殺害された。別名を千葉・福島・岩手誘拐殺人事件ともいう。
8人が逮捕され、3人が死刑判決を受けたが死刑が執行されないまま3人全員が病死した異例の結末となった。
●第一の事件
1986年7月に、元警察官 岡﨑茂男(逮捕時38歳)、塗装工 迫康裕(逮捕時50歳)、土建業者 熊谷昭孝(逮捕時48歳)、熊谷昭孝の弟で土木作業員の熊谷光輝(逮捕時38歳)、土木作業員の菅原勝治郎(逮捕時37歳)の5人は、共謀の上、岩手県盛岡市の金融業者 西村清詩さん(当時41歳)から、現金37万5000円を奪い、被害者を岩手郡岩手郡雫石町の山林に生き埋めにして殺害した。
●第二の事件
●第二の事件
1989年7月20日に、岡崎、迫、熊谷昭孝、熊谷光輝、菅原勝治郎、元自動車運転手Y、塗装工Zの7人は、共謀の上、福島県郡山市の塗装会社社長 真壁研一さん(当時48歳)を取引を装って呼び出して1700万円を強奪し、殺害して福島県耶麻郡猪苗代町の山林に埋めた。
●第三の事件
●第三の事件
1991年5月1日に、迫、塗装工Z、別の塗装工の男性は、共謀の上、千葉県市原市の塗装業者 高崎勇一さん(当時53歳)を誘拐し、身代金2000万円を強奪した。高崎さんは殺害されず栃木県宇都宮市で2日後に解放された。この事件の被疑者として3人が逮捕されたが、最終的には主犯格の元岩手県警察巡査のO岡﨑茂男(逮捕時38歳)ら犯人たちが逮捕され、事件の全貌が判明した。
左から、迫康裕・岡﨑茂男・熊谷昭孝(いずれも死刑判決であるが病死)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
1995年1月27日、第一審判決公判が開かれた。
福島地裁は、死刑を求刑された5被告のうち、岡﨑、迫、熊谷の3被告に死刑を言い渡した。あとの2被告(熊谷弟と菅原)には無期懲役を、元自動車運転手・Iは求刑通りの無期懲役判決となった。
検察側は、無期懲役となった2被告(熊谷弟、菅原)について量刑不当を理由に控訴。死刑となった岡﨑、迫、熊谷の3被告も控訴した。また、元自動車運転手Iも「他被告とのバランスを考えれば有期懲役とすべきだ」と訴えて控訴した。
2004年6月25日の判決公判で、最高裁は一審・二審判決を支持する判断をした。これにより、岡﨑・迫・熊谷の3被告は死刑確定、熊谷弟・菅原・元自動車運転手 Iの3被告には無期懲役が確定となった。
❖判決一覧
・岡﨑茂男、迫康裕、熊谷昭孝・・・死刑確定(3人全員が執行前に病死)
・熊谷光輝(弟)、菅原勝治郎、元自動車運転手 I・・・無期懲役確定
・塗装工 N・・・一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却
・塗装工の男(千葉事件のみ関与)・・・懲役6年
・岡﨑茂男、迫康裕、熊谷昭孝・・・死刑確定(3人全員が執行前に病死)
・熊谷光輝(弟)、菅原勝治郎、元自動車運転手 I・・・無期懲役確定
・塗装工 N・・・一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却
・塗装工の男(千葉事件のみ関与)・・・懲役6年
❖出所予定(年齢)
省略
❖因果応報
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。
●熊谷昭孝死刑囚
2011年1月29日午後、熊谷死刑囚が肺塞栓症で死亡した(67歳没)。
死刑確定後は、仙台拘置支所に収監されていた。それから約5年後2010年12月、熊谷死刑囚は総胆管ガンと診断され、翌2011年1月17日に外部の病院に入院。19日に手術を受けた。歩行訓練をしていた29日午後2時頃、胸の苦しみを訴えて意識を失い、まもなく死亡したという。
熊谷死刑囚が描いた絵。左から「カケス画」「観世音菩薩画」。
●迫康裕死刑囚
2013年8月15日には、迫死刑囚が病死したことが発表されている。
迫死刑囚は、宮城刑務所に収容されていた。死因は急性肺炎(73歳没)。以前から「じん肺」のため、運動などを制限していた。
迫死刑囚が書いた写経。「写経と孫」。
●岡﨑茂男死刑囚
2014年6月26日、最後のひとり、岡﨑死刑囚も収容先の東京拘置所内の病棟で死亡。
死因は急性呼吸不全だった(60歳没)。なお、岡﨑死刑囚は2007年に仙台拘置支所から東京拘置所に移監されている。岡﨑死刑囚は、6月20日頃から吐き気やめまいを訴え、検査の結果、23日に細菌が肺に入って生じる誤嚥性肺炎と診断されていた。
その後、拘置所内の病院に入院していたが、容体が悪化し、26日の午前1時39分死亡が確認された。
●おまけ 塗装工N
塗装工 Nは、一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却となった。
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。
●熊谷昭孝死刑囚
2011年1月29日午後、熊谷死刑囚が肺塞栓症で死亡した(67歳没)。
死刑確定後は、仙台拘置支所に収監されていた。それから約5年後2010年12月、熊谷死刑囚は総胆管ガンと診断され、翌2011年1月17日に外部の病院に入院。19日に手術を受けた。歩行訓練をしていた29日午後2時頃、胸の苦しみを訴えて意識を失い、まもなく死亡したという。
熊谷死刑囚が描いた絵。左から「カケス画」「観世音菩薩画」。
●迫康裕死刑囚
2013年8月15日には、迫死刑囚が病死したことが発表されている。
迫死刑囚は、宮城刑務所に収容されていた。死因は急性肺炎(73歳没)。以前から「じん肺」のため、運動などを制限していた。
迫死刑囚が書いた写経。「写経と孫」。
●岡﨑茂男死刑囚
2014年6月26日、最後のひとり、岡﨑死刑囚も収容先の東京拘置所内の病棟で死亡。
死因は急性呼吸不全だった(60歳没)。なお、岡﨑死刑囚は2007年に仙台拘置支所から東京拘置所に移監されている。岡﨑死刑囚は、6月20日頃から吐き気やめまいを訴え、検査の結果、23日に細菌が肺に入って生じる誤嚥性肺炎と診断されていた。
その後、拘置所内の病院に入院していたが、容体が悪化し、26日の午前1時39分死亡が確認された。
●おまけ 塗装工N
塗装工 Nは、一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却となった。
ページ上に戻る
警察庁広域重要指定121号事件(下山信一、黄奕善)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1993年に金融業者ら3人が殺害された強盗殺人事件である。別名を犯行グループの構成から日本・外国人集団連続強盗殺人事件ともいう。犯行グループは日本人とマレーシア人らによって構成されていた。
1994年に入って犯人らは逮捕され、一連の事件の概要が判明し警察庁広域重要指定事件に指定されたのは同年4月18日のことであった。一連の犯行は1993年10月から12月の間に行われ、静岡県・滋賀県・東京都・群馬県を舞台に金融業者ら3名を殺害し、他にも負傷者を出すなどして金品を強奪したものである。日本人の下山信一(犯行時33歳)他2名は、少年刑務所で知り合った仲であり強盗団を結成した。外国人の殺人実行犯として中国系マレーシア国籍の黄奕善(犯行時25歳)を仲間に入れた。黄奕善は1989年2月ごろに来日していた。
まず、1993年10月8日に静岡県内のパチンコ店から1050万円を強奪した、10月27日に7人組で滋賀県八日市市(現:東近江市)の金融業者の自宅を襲撃し殺害したうえ1400万円や貴金属などを強奪。そして下山と黄は12月10日に東京都足立区の金融業者に押し込んだが、従業員を負傷させたのみで犯行は未遂に終わった。12月12日に2人は群馬県高崎市のゲーム喫茶経営者を射殺し9万円などを奪った。12月20日には足立区の不動産賃貸業者を殺害し、120万円などを強奪した。一連の犯行で3人を殺害していた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
強盗団は全員逮捕されたが、一連の犯行に対し主犯 下山信一と殺害に直接関与した黄奕善の2人については死刑が確定している。2人の裁判は分離して審議されたが、下山は2005年9月16日に最高裁で上告を棄却され死刑が確定し、黄はそれより先の2004年4月19日に上告を棄却され死刑が確定している。黄は来日外国人死刑囚としては3人目である。
❖出所予定(年齢)
下山信一・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)事件は2つのグループにわけられて、八日市グループは大津地裁で、主犯・東京グループは東京地裁で審理され、次のような結果になっている。
●八日市グループ
Y・K・・・無期懲役
Y・T・・・懲役8年
M・T・・・不明
●東京グループ
S・F:無期懲役
M・K:懲役13年
●主犯グループ
下山信一・・・死刑判決
黄奕善・・・死刑判決
●八日市グループ
Y・K・・・無期懲役
Y・T・・・懲役8年
M・T・・・不明
●東京グループ
S・F:無期懲役
M・K:懲役13年
●主犯グループ
下山信一・・・死刑判決
黄奕善・・・死刑判決
❖出所予定(年齢)
黄奕善・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
ページ上に戻る
警視庁立川警察署警察官女性射殺事件(友野秀和)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2007年(平成19年)8月20日午後9時半〜10時の間に東京都・国分寺市で発生した殺人事件。
警視庁立川警察署(以後 立川署)地域課地域第2係に勤務する巡査長 友野秀和(当時40歳)は平成19年8月20日午後9時30分頃、パトロールを行う旨告げたのち、交番配備の巡回用バイク(黒バイ)で交番から出動した。しかし10分後の午後9時40分頃、友野から警察無線で現着したとの報告があったのち連絡が取れなくなり所在不明となった。交番の同僚は、友野が所持する公用、私用双方の携帯電話に対し連絡を行い「交番にもどれ」「現在地を報告せよ」と再三促したが応答がなかったため翌21日午前5時30分「警察官1名が所在不明」と立川署本署に報告。立川署は警視庁本部に対し報告した。
立川署は引き続き、警察無線で呼び掛け続けると同時に職員ロッカーを捜索。友野の私服ズボン内に入っていた定期入れの中にあった飲食店勤務の30代女性 佐藤陽子さん(当時32歳)の名刺を発見。隣接する警視庁小金井警察署管内、東京都国分寺市東元町2のアパート女性宅に捜査員が向かったところ、あおむけで倒れ死亡している友野、佐藤さんの遺体を発見した。
佐藤さん宅に来訪した捜査員は、佐藤さんの胸部及び腹部に銃創を確認。また友野の左側胸部にも銃創、傍らに警視庁から貸与された拳銃1丁(回転式5発)が落ちていたこと、さらに近隣住民が前日午後10時過ぎ「パン、パン」という花火のような音を聞いていたことから「友野が拳銃を使い女性を射殺したのち自殺したストーカー殺人事件」であると断定。連絡を受けた警視庁本部は刑事部長の命令により、立川署に刑事部捜査第1課を派遣。立川署に捜査本部を設置した。
捜査の過程で被害者である佐藤さんは友野から過剰な好意をもたれ付きまとい等のストーカー行為の被害に遭っていたことが判明した。もともと友野は佐藤さんの勤務していた飲食店に事件の3年前に同僚に連れられて来訪し佐藤さんが働き始めたころには同店の常連となっていた。しかし店側は「佐藤さんより以前に勤務していた別の女性に対しストーカー行為を行っていて従業員たちから嫌われていた」と証言した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
死亡(自殺)
❖出所予定(年齢)
死亡(自殺)❖出所予定(年齢)
◆警察の不手際
この事件では被疑者である巡査長Aだけではなく当時の警察、とりわけ被疑者の所属先である立川署の杜撰な体制が明るみとなった。
巡査長 友野が前述の苦情の申出を受け富士見台交番から出動しそのまま行方不明になったにもかかわらず、同僚は携帯にメールを打ったのみで立川署本署に「勤務者1名が所在不明」と報告したのは把握してから8時間以上も経過してからの事であった。
その間、立川署地域課の管理職が交番に数回巡視に来ていたにもかかわらず同僚は報告を怠りまた管理職も巡査長 友野がいないことに気付かなかった。
警察車両を使い管轄外までドライブを行う、管理職に無断で勤務シフトを変えるなど交番で数多くの内規違反が発覚した。
警視庁が勤務中の私用携帯所持を禁じていたにもかかわらず被疑者はこれを破り、被害者に勤務中も執拗に連絡を取っていた。
◆処分
一連の捜査が終了したのち、国家公安委員会および警視庁は本件に関係する幹部に10名に対し下記のように懲戒処分を発令した。
・矢代隆義警視総監:国家公安委員会より戒告の懲戒処分 → 引責辞任
・警視庁立川警察署長 (警視正):警視庁より減給10/100 3カ月の懲戒処分 → 引責辞任
・同署副署長(警視)ほか1名:警視総監より訓戒処分
・同署地域課長(警部) :警視庁より減給10/100 1カ月の懲戒処分
・同署地域課係長(警部補)(巡査長 矢部の直属上司)ほか5名:警視庁より減給20/100 3カ月の懲戒処分
矢代隆義警視総監
この事件では被疑者である巡査長Aだけではなく当時の警察、とりわけ被疑者の所属先である立川署の杜撰な体制が明るみとなった。
巡査長 友野が前述の苦情の申出を受け富士見台交番から出動しそのまま行方不明になったにもかかわらず、同僚は携帯にメールを打ったのみで立川署本署に「勤務者1名が所在不明」と報告したのは把握してから8時間以上も経過してからの事であった。
その間、立川署地域課の管理職が交番に数回巡視に来ていたにもかかわらず同僚は報告を怠りまた管理職も巡査長 友野がいないことに気付かなかった。
警察車両を使い管轄外までドライブを行う、管理職に無断で勤務シフトを変えるなど交番で数多くの内規違反が発覚した。
警視庁が勤務中の私用携帯所持を禁じていたにもかかわらず被疑者はこれを破り、被害者に勤務中も執拗に連絡を取っていた。
◆処分
一連の捜査が終了したのち、国家公安委員会および警視庁は本件に関係する幹部に10名に対し下記のように懲戒処分を発令した。
・矢代隆義警視総監:国家公安委員会より戒告の懲戒処分 → 引責辞任
・警視庁立川警察署長 (警視正):警視庁より減給10/100 3カ月の懲戒処分 → 引責辞任
・同署副署長(警視)ほか1名:警視総監より訓戒処分
・同署地域課長(警部) :警視庁より減給10/100 1カ月の懲戒処分
・同署地域課係長(警部補)(巡査長 矢部の直属上司)ほか5名:警視庁より減給20/100 3カ月の懲戒処分
矢代隆義警視総監
ページ上に戻る
江東マンション神隠し殺人事件(星島貴徳)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2008年(平成20年)4月18日に東京都江東区のマンションで女性が神隠しのように行方不明となり、後に殺人・死体損壊遺棄が発覚したバラバラ殺人事件。完全犯罪としても注目された。
2008年4月18日夜、会社員の女性 東城瑠理香さん(当時23歳)が東京都江東区潮見二丁目の自宅マンションから忽然と消え、姉から捜索願いが出される。最上階の自室の玄関に少量の血痕が残った状態であったことに加え、マンションに設置された監視カメラの記録に、東城さんがマンション建物から外出した形跡がないことから、「神隠し事件」として、マスメディア各社がトップニュースで報じた。また、同マンションは当時3分の1近くが空室であり、東城さん宅の両隣は空室であった。
警視庁は、マンション住民全員から事情聴取、任意での指紋採取、家宅捜索を行った。事件発生から約1か月後の同年5月25日、被害者女性宅の二部屋隣に住む派遣社員の男 星島貴徳(当時33歳)を住居侵入容疑で逮捕した。その後の捜査により、星島は以下のように再逮捕・起訴された。
2008年6月13日 - 警視庁が死体損壊・遺棄容疑で再逮捕、東京地方検察庁が住居侵入罪で起訴
2008年6月25日 - 警視庁が殺人容疑で警視庁に再逮捕、東京地検が死体損壊・遺棄罪で追起訴
2008年7月18日 - 東京地検が殺人罪で追起訴
逮捕後、星島からの供述により事件の全貌が明らかとなった。
◆事件前日までの動き
現場の江東区のマンションにが引っ越してきたのは2008年2月9日。9階の一番南側の部屋である918号室に入居した。東城瑠理香さん(当時23歳)とその姉は2008年3月1日に、星島貴徳(当時33歳)が住む部屋の二部屋隣の916号室に引っ越しをした。該当マンションは監視カメラやオートロックなど防犯設備が多く設置されている物件で、東城さん姉妹がこの物件に決めた理由の一つでもあった。星島は、被害者女性に狙いを定めたのは事件のおよそ1週間前と供述している。
◆拉致・殺害
2008年4月18日19時30分ごろ、星島は性奴隷獲得目的で東城さんの帰宅を待ち伏せし、帰宅直後を狙い東城さん宅へ侵入。東城さんに騒がれたため頭部を殴打し拉致、自室へ連れ帰り、縛って部屋に寝かせておいた。まもなく、東城さんと同居していた姉が帰宅し、室内の異変に気付いて警察へ被害届を提出した。早くも警察の捜査が始まったことを知った星島は、事件の発覚を恐れ、東城さんの首に包丁を刺し殺害した。
◆解体・隠蔽
殺害後、星島は東城さんの遺体を包丁2本とのこぎりでバラバラに切断し、冷蔵庫やベッドの下、段ボール箱などに隠した。腕、足から包丁を使って肉をはぎとり、まな板で切り刻んで水洗トイレから下水管に流した。後の骨はノコギリで細かく切り、冷蔵庫に隠した。その後、胴体を解体し、腹や胸から肉をはぎ取り、臓器を取り出し、これをまな板の上で切り刻んだ上、水洗トイレから下水道管に流した。解体後に残った骨は冷蔵庫に隠した。その後、遺体の頭から髪の毛を切り、頭皮を耳や鼻、唇ごとはぎとり、眼球をえぐり出し、それらを切り刻んで水洗トイレに流した。さらに頭蓋骨をノコギリで切って、脳を取り出し、下水道に流した。頭蓋骨は数個に切って、冷蔵庫に隠した。
翌日、警察がマンション全室に行った任意の家宅捜索の際には、事件とは無関係な段ボール箱を捜査員に見せて中身を確認させた上、警察が中身を詳しく調べないだろうと考え、遺体の一部が入っていた段ボール箱をあえて自ら示し、中身確認を促すなど巧妙かつ大胆に振る舞った。結局、遺体が入った段ボール箱は見逃すこととなる。
星島は東城さんの遺体を細かく切断してトイレに流したり、出勤時にゴミ捨て場に捨てるなどして、同年5月1日までに遺体の全てを処理した。
◆指紋照合
東城さん宅に残っていた指紋を警察が調べた結果、星島が東城さん宅に侵入した際に、指紋をわずかに残していたことが判明。事件直後には星島を含むマンション住民全員から任意で指紋を採取していたが、その時は、星島は何らかの薬品を使って指先の皮膚を荒らしていたため、10指とも紋様が読み取れず、照合が不可能だった。事件から1か月後に再び警察が星島の指紋を採取した際には、皮膚は再生しており、東城さんの部屋で発見された指紋と一致したため、星島の逮捕へと至った。
◆DNAの一致
星島の逮捕後、警察が下水管などを調べた結果、わずかに残った遺体肉片と東城さんのDNAが一致した。また、星島の部屋の一室や浴槽から採取された血痕と東城さんのDNAが一致した。その他、東城さんが所有していた財布や免許証などの切断された一部を発見した。
報道各社のインタビューにこたえる星島貴徳
報道各社のインタビューにこたえる星島貴徳
マンションを捜索する捜査員と東城瑠理香さん
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2009年9月10日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁(山崎学裁判長)は第一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡した。東京高裁 (2009) は、「原判決(東京地裁)は、わいせつ目的が未遂に終わった点を有利な情状として挙げたが、有利には考慮できない。殺害方法は無慈悲かつ残虐で、原判決が『極めて残虐とまでは言えない』としたのは相当ではない」と指摘した上で、「殺害は身勝手極まりなく、死体損壊は人間の尊厳を無視する他に類を見ないおぞましい犯行だ」と判示した。
しかし、その一方で「検察官の『被害者を拉致した状態で殺害に着手せざるを得ない状況だった』という主張は早計で、殺害の計画性は認められない」「前科などもなく、自らの罪を悔いて謝罪の態度を示し、矯正の可能性がある」として、永山基準や、被害者が1人でも死刑となった過去の事案との違いを指摘し、「極刑がやむを得ないとまでは言えない」と結論づけた。
東京高検は「憲法違反や判例違反などの明確な上告理由がない」と上告を断念し、被告人側も上告期限内(同月24日まで)に上告しなかったため、同月25日付で無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
甲府信金OL誘拐殺人事件(宮川豊)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1993年(平成5年)8月10日に山梨県甲府市で発生した身代金目的誘拐殺人事件。
宮川豊(当時38歳)が身代金を得る目的で、甲府信用金庫の女性職員 内田友紀さん(当時19歳)を誘拐した上で殺害し、死体を富士川に遺棄した。
内田友紀さん(当時19歳)は、甲府市にある甲府信用金庫の支店に勤務する入社4ヶ月目の新人OLであった。事件当日の窓口業務が終了する時間になった時、本店を経由して地元マスメディアを名乗る男(犯人M)から被害者Aを指名して取材依頼がくる。これに対し、内田さんと彼女の上司は応諾し、内田さんは勤務時間終了後、電話の男が差し向けたタクシーで待ち合わせ場所の小瀬スポーツ公園に向かったが、それを最後に行方不明となる。
翌日、内田さんの父親が帰宅していないことを支店に問い合わせた時、身代金を要求する1本の電話が入ったことから誘拐が発覚。支店側はすぐさま山梨県警に通報、山梨県警は犯人を刺激しないよう非公開としつつ、その後もかかってくる犯人からの電話に逆探知で犯人の居場所を特定しようとする。
犯人は映画「天国と地獄」の手法で中央自動車道の104キロポストから身代金4,500万円を投下するよう指示するも身代金奪取に失敗。しかし、山梨県警は身代金受取場所に遅れるなどのミスを犯したほか、犯人も1 km離れた105キロポストで待機するミスを犯していた。その後、犯人からの連絡は途絶え、誘拐されてから1週間後の8月17日、静岡県富士宮市の富士川でAの遺体が発見された。後の捜査で、Aは誘拐された同日中に殺害され、富士川上流の笛吹川から流されていたことが判明している。
鈴木による鑑定の内容が連日報道され、また鈴木自身も作業場を公開したりテレビ出演する等協力の姿勢を見せた中、宮川豊(当時38歳)の知人である建設会社社長が鈴木による鑑定内容と音声を報道で聞いて間違いないと判断し、宮川を呼び出し自首するよう説得する。宮川は当初否認していたが説得に折れ、1993年(平成5年)8月24日の早朝、建設会社社長に連れられて山梨県警所轄の警察署に出頭し、逮捕された。
山梨県警は逆探知装置に残っていた声をもとに音声・音響分野の研究を行っている鈴木松美に声紋鑑定を依頼。
鈴木による鑑定の内容が連日報道され、また鈴木自身も作業場を公開したりテレビ出演する等協力の姿勢を見せた中、宮川豊(当時38歳)の知人である建設会社社長が鈴木による鑑定内容と音声を報道で聞いて間違いないと判断し、宮川を呼び出し自首するよう説得する。宮川は当初否認していたが説得に折れ、1993年(平成5年)8月24日の早朝、建設会社社長に連れられて山梨県警所轄の警察署に出頭し、逮捕された。
甲府地裁は自首の成立を否定したものの、無期懲役の判決を言い渡した。
死刑を求める甲府地検と、有期懲役刑を求める宮川の弁護人がそれぞれ、判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。しかし東京高裁(神田忠治裁判長)は、1996年(平成8年)4月16日、検察官と被告人 宮川側それぞれからなされた控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した。その後、東京高等検察庁・被告人側とも、上告期限となる同月30日までに最高裁判所へ上告しなかったため、同年5月1日付で宮川の無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
神戸弘陵学園高校生刺殺事件(当時17歳だった愛知県のパート従業員の男)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2010年に兵庫県神戸市北区で発生した刺殺事件。長らく未解決事件であった。
2010年10月4日、兵庫県神戸市北区の路上で、神戸弘陵学園高等学校に通う2年生の男子高校生 堤将太さん(当時16歳)が殺害される。上半身などを折りたたみナイフで複数回突き刺し、失血死をさせていた。
それから10年以上も容疑者が見つからない未解決事件であった。
容疑者が事件について「自分が殺した」と周囲に関与を示唆する発言をしていたことも判明。最近になってこの情報が兵庫県警に伝えられ、事件発生から10年以上の歳月を経て急展開する大きな決め手になった。
2021年8月4日、兵庫県警察神戸北警察署捜査本部は、被害者を殺害した疑いが強まったとして、愛知県豊山町在住の 当時17歳だった愛知県のパート従業員の男(逮捕時28歳)を逮捕。この男性は事件当時付近に住んでいた。
犯人は犯行の8日前に凶器となるナイフを購入していた。犯人は以前から被害者が交際している女性と一緒にいるところを見て腹を立て、殺すつもりであった。犯人と被害者は接点は無かったが、普段から姿を見かけていた。
捜査本部は、堤さんの着衣から元少年のものと一致するDNA型を検出。現場近くに残されていた凶器の調理用ナイフからは元少年の指紋は検出されなかったが、近くのスーパーでこのナイフを購入した男の特徴や、犯行時の目撃証言が元少年と整合することから、逮捕に踏み切った。
被害者の堤将太さん(当時16歳)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
検察側は事件当時は未成年だった事も考慮に入れて懲役20年を求刑し、弁護側は少年法と精神疾患を考慮にいれて懲役8年が相当と主張した。2023年6月23日、神戸地裁は、被告に精神障害はないとした精神鑑定の結果を信用できるとして、殺意と完全責任能力を認定。被告に懲役18年を言い渡した。
❖出所予定(年齢)
2043年6月頃、48歳(懲役20年)❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
神戸市北区5人殺傷事件(竹島叶実)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2017年(平成29年)7月16日の早朝に兵庫県神戸市北区有野町有野で発生した無差別殺傷事件である。
2017年7月16日早朝、神戸市北区有野町有野の住宅街で、竹島叶実(かなみ)(事件当時26歳)が祖父 南部達夫(当時83歳)を金属バットで殴打し、それを止めようとした母親(当時52歳)も殴打した。母親は、身の危険を感じたため屋外へ避難した。その後、南部達夫さんを包丁で何度も刺して殺害した後、祖母 南部観雪さん(当時83歳)も同様の手口で殺害した。南部達夫さん・南部観雪さんを殺害し終えた後は、近所に住む辻やゑ子さん(当時65歳)・竹島知子さんを襲い、辻さんを殺害、竹島さんに重傷を負わせた。
●2人の精神科医の診断
検察は、起訴を行う前に2人の精神科医に精神鑑定を依頼していた。1人目の医師は、竹島が「哲学的ゾンビ」を人ではないと思っていたため、「人を殺してはいけない」という規範に直面していなかったと分析。精神障害が動機に与えた影響は「圧倒的」だったとして、心神喪失状態だと判定した。
一方2人目の精神科医は、竹島には、妄想の内容を疑い、犯行をためらう気持ちがあり、「哲学的ゾンビ」が人の可能性もあると認識していたと説明。精神状態の悪化は「中等度」にとどまり、犯行に及ぼした影響は「圧倒的とは言えない」として、心神耗弱状態だと判定した。2人目の医師の鑑定の問題点は、竹島との面接が1回限りで5分程度しかなかったことである。
一方2人目の精神科医は、竹島には、妄想の内容を疑い、犯行をためらう気持ちがあり、「哲学的ゾンビ」が人の可能性もあると認識していたと説明。精神状態の悪化は「中等度」にとどまり、犯行に及ぼした影響は「圧倒的とは言えない」として、心神耗弱状態だと判定した。2人目の医師の鑑定の問題点は、竹島との面接が1回限りで5分程度しかなかったことである。
●無罪判決
2021年(令和3年)11月4日の判決公判で、神戸地裁(飯島健太郎裁判長)は、判決の主文を後回しにして、先に判決理由から言い渡した。同地裁は判決理由で、「自分と知人女性以外は哲学的ゾンビだとする妄想の圧倒的影響のもとで犯行に及んだ疑いが払拭できない」として、1人目の医師の鑑定を証拠採用し、刑法第39条の規定に基づき、被告人Tに無罪を言い渡した。検察は一審判決を不服として同月16日に大阪高裁に控訴した。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
神戸星城高校放火殺人事件(女子高生)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
1999年5月14日に北海道・札幌市南区で発生した放火殺人事件。
1999年5月9日より神戸星城高等学校の3年生は修学旅行で札幌を訪れ、市内のホテルに宿泊していた。修学旅行の最終日である5月14日未明に、女子生徒2人が宿泊していたホテルの一室から出火した。ホテルの3階と4階に生徒288人と高校教員ら15人が宿泊していた。
出火した部屋はオートロックであったため外側からは開けられなくなっており、マスターキーを使用して開けたところ宿泊していた女子生徒2人が重態で倒れていた。この女子生徒2人は病院に運ばれたが容疑者の女子高生1人は1時間後に死亡し、もう1人の本郷沙織さん(当時17歳)は1週間後に死亡した。死亡した生徒の他に学校職員、生徒の計28人が負傷。
出火した部屋には、入り口のドアを塞ぐようにソファが置かれていた。そしてソファの付近でマッチ箱が発見されたため、ソファに引火したことで火災になったと推測された。このマッチは生徒が持ち込んだものであり、室内に放火をほのめかすメモが残されていたことから宿泊していた女子生徒による放火と断定された。
このホテルはスプリンクラー設備の設置対象面積を超えていた。だが棟が多数あり防火区画という代替措置をとったことで対象外となり、スプリンクラー設備を設置していなかった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
1999年8月10日、死亡した女子生徒の1人を放火と殺人の疑いで札幌地方検察庁に書類送検。
また、ホテルと契約していた火災保険会社は生徒の両親と生徒の通っていた星城高校を運営する熊見学園を相手取り、合計1830万円の損害賠償を求める訴えを起こしました。
❖出所予定(年齢)
ページ上に戻る
※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。