竜ヶ崎竜之介のスマホ閲覧で通勤通学を有意義にするプログ

アクアリウムを中心として、他にもホラーやパソコンなどの趣味や仕事、他に日常の出来事について好き放題書いていこうと思います。虎ノ門虎之助でメダカのプログを書いていますが、他のことも書きたくなりましたので新しいプログを立ち上げました。

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2023年04月


熊野古道で米国人女性が遭難、手がかりなく…家族が来日して捜索「情報寄せてほしい」(2023年4月29日)

 奈良県十津川村の熊野古道で10日に行方不明となった米コネティカット州のウームラッド・パトリシア・ピーツェンさん(60)の夫・カークさん(60)ら家族が来日し、村で捜索活動に加わっている。カークさんは27日に取材に応じ、「多くの人に状況を知ってもらい、少しでも情報を提供してほしい」と話した。(山田珠琳)

捜索には警察や消防など延べ300人以上が参加。ウームラッドさんが訪れた付近で活動を続けるが、手がかりがないという。

ウームラッドさんは3月に来日して友人らと過ごした後、四国遍路に挑戦。その途中で「熊野古道というよく似ている場所がある」と薦められ、4月9日、村を訪ねた。

同日夜は十津川村五百瀬の民宿に宿泊。翌10日午前7時頃、民宿の従業員と熊野古道入り口で別れた。カークさんは14日、遭難の知らせを受け、「信じられなかったが、必ず見つけると決断した」と言う。

次女、長男とともに18日までに現地入りして、捜索ボランティアや警察と情報を共有したり、熊野古道を歩いたりしてウームラッドさんを捜している。

ウームラッドさんは2020年にエンジニアを退職。「世界中をハイキングしたい」と、スペインのサンティアゴ巡礼路やペルー、エジプトなどを巡っていた。長距離に慣れるため、毎日15~30キロを歩く訓練もしていたという。

カークさんは「彼女は方向感覚も優れていて万全な準備をする人。今回は日本と聞いて心配していなかったが……」と表情を曇らせる。ただ、熊野古道を実際に歩いてみて、「急斜面が多く、落ちたらとても危険だと思った」と語る。

2人は5月11日、結婚33年を迎える。6月には再びスペインを旅する計画もある。カークさんは「彼女なしの生き方は考えられない。早く見つけるため、どんな小さな情報でも寄せてほしい」と呼びかけている。

家族らは「helpfindpattie」のハッシュタグ、アカウント名で、ツイッターなどのSNSで情報提供や捜索ボランティアを求めている。問い合わせは次女マーフィーさんのメール(murphymurad@gmail.com)へ。
熊野古道

アメリカ人女性のウームラッド・パトリシア・ピーツェンさん(当時60歳)が奈良県の熊野古道で遭難して行方不明になり約20日が経過しました。

熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)へ向かう参詣道のことを「熊野古道」と呼びます。
平安時代の上皇や貴族も訪れ、やがて庶民にも広まり、旅人の行列は「蟻の熊野詣」と言われたほどでした。
熊野古道全体マップ2
日本の国は治安はいいのですが、日本の山の地形は海外に比べて急峻なので、危険はやや高いのかもしれません。

熊野古道の遭難が多いかどうかは知りませんが、日本の中では山林域が広大な方なので捜索は大変だろうと思われます。

四国遍路をやっている途中で、熊野古道を勧められて存在を知ったのか。誰が余計なことを教えたのかだが、知識がないまま現地に入ったのでしょうか。

行方不明になってから時間も経過していますので滑落する危険がある場所、その崖下を重点的に捜索するしかありません。

熊野古道で人気の中辺路ルートでも、歩く人は外国の方も多いそうです。

熊野古道の山は人を寄せ付けないほどの厳しい環境です。少しでも迷ってしまうと誰かに気が付いてもらえる場所ではなく、スマホの電波も届かないエリアもあります。

熊野古道中辺路ルートの一帯では「ツキノワグマ」が生息しています。熊野古道では「ツキノワグマ」に人が襲われた事件は発生しておりませんが、岩手県や長野県では襲われる事件が発生しております。

不測の事態が起きても一人で何とかできる覚悟と本気の装備が必要であることを周知しないといけないのかもしれません。



※最後に
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❖迷惑なメダカ飼育(2023年4月10日)

主人がメダカ、海老を水槽で飼っていますが、水槽のそうじをするために風呂場でかぞくが使う洗面器を使って洗おうとします。咎めると逆ギレします。

人が体にかかるお湯を掬ったり、顔を洗うためのお湯を入れるのに味噌もOOも一緒だと思う言っても理解してもらえません。コロナの事もあるので人と川の生物などの汚れを一緒にするのは気持ち悪いのです。主人にどのように説明したら理解してもらえるでしょうか。

メダカは、とてもコストが安くて、用意する設備や備品も犬や猫に比べますと少ないですし、手軽に飼い始めることができる生き物です。そして品種改良がおこなわれているので現在は500匹を超えると言われており、とても変わった形のメダカや綺麗なメダカなど、自分の好みのメダカを飼うことができます。

今や金魚や熱帯魚を凌ぐ人気となっており、老若男女が手軽に飼える生き物として、人気は定着しているのではないでしょうか。

しかしながら、いくら飼育者である自分が生き物が好きだからといって、周囲の人間、例えば家族まで生き物が好きとは限りません。好き嫌いどちらでもなくても飼育者の行為によって、家の中に匂いが充満したり、部屋を汚したり、部屋を飼育容器や設備、備品などで占領したり、家族の事がないがしろにしたりするのはよくありません。

上記のご相談事は、メダカ、エビが住んでいる水を溜めたりするので、実際には綺麗で、飲もうと思えば飲めるかもしれません。しかしながら微生物が水道水よりは沢山いるでしょうし、その水を溜めたた洗面器を、水槽掃除後に綺麗に洗ったとしても、メダカやエビが好きでもない人にとっては、なんだか気持ち悪いのかもしれません。個人個人の衛生観念も違いますので。

『便器に溜まった水で洗顔できるのか?』という訳のわからない論争に発展してしまうのかもしれません。

家に一緒に住んでいるのですから、双方の立場を尊重して話し合うのが得策ではないでしょうか。

実際には『メダカ、エビ用の洗面器』と『家族用の洗面器』を物理的に2つ用意したほうが一番の解決策かもしれません。

ご主人を咎めないで、逆に『シャンプーや石鹼の入った洗面器を使用すると、メダカやエビが死んでしまうかも知れないよ。』というもの効果的なのかもしれません。















※最後に
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◆はじめに

東京ハンドメイド祭というハンドメイド専門の都市型フェスに出展することになりました。

「なりました。」というのは、私ではなく家族が申し込みましたので、お手伝いといったところなのですが、家族も者も初めての出展ですし、1人じゃとても準備が間に合わないといいますか、準備不足の抜け漏れをなくす意味でも、しっかりサポートすべきと思いまして、出展に向けて着々と準備が進めております。

初めての出展どころか、対面販売は初めてとなりますのでノウハウは一切ありません。それは想像をめぐらしたり、有識者のサイトを確認しながら、商品の準備はもちろんのこと、主催者への申請手続きや注意事項、連絡事項に目を通して、出展のおいてのルール違反はしていないか?抜け漏れはないか?、お店としてのどのようなレイアウトで出展すべきか?、ただ単に商品を置いてもセンスがありませんので、お客様が購入したくなるような魅力的な飾りつけをどのようにするのか?、もし商品が売れた場合は、どのような包装を行い渡すのか?などなど準備すべきことは沢山あります。

その中でも商品が売れた場合の決済手段としては、初心者は基本的に現金となりますので、お釣りを用意しないといけません。これは商品の価格帯によって、どの小銭を多くするのか?の配分を決めなくてはいけません。

家族の者とお金の話をしていたときに、以前にそのようなフェスをお客として回っていた時にたまたま「PayPayで払いたい。」という要望をお店で出展者の方とお客様の話をききました。出展者の方は、申し訳なさそうに「現金だけなんですよ。」という回答をしまして、結局、お客様は購入を諦められたという場面を見た話になりました。

「PayPay」の登録ユーザーが5,500万人を突破(2023年2月6日時点)ということで、2人に1人が、この決済手段をもっていますし、若年層リサーチ結果を発信する「TesTee Lab」にて、10代・20代の男女1,386名(10代男女705名、20代男女681名)を対象にキャッシュレス決済に関する調査(2023年1月31日時点)では、約6割がPayPayの決済手段を使用していたので、PayPayでの決済はあなどれません。

そこで、(商品が全く売れない可能性は理解しつつも)PayPayを導入できないものか?と申請してみることにしたのです。

紆余曲折あったが承認される!
開業届や店舗の写真など、PayPay導入の手続きでは紆余曲折ありました。結局、東京ハンドメイド祭に出展したのは2023年3月11日(土)でしたが、PayPayのキッドが届いたのが2023年3月14日(火)でしたので間に合いませんでした。

審査が通ったのは2023年3月8日(水)でしたので、流石にPayPayへの申し込みが直前過ぎました。ただ、こうした結果は予想できましたので仕方ないと思います。

審査承認はメールで届きますが、そこからPayPayのキッドが届くのには1週間弱かかるということです(メールには記載されていましたが、本当にその通りに届きました)。

それにしても、開業実績のない店舗でもPayPayの承認が下りることがわかりました。チャレンジしてよかったと思います。

PayPayのキッドが届いたら、初期登録をしてPayPay決済ができるかのテストをしなくてはいけません。期日があるわけではないのですが「なるはや」で行わないといけません。東京ハンドメイド祭に間に合いませんでしたので、しばらく放っておきましたが、そうしたらPayPay加入サポートセンターから状況確認の電話がかかってきてしまいました。PayPayのキッドは届きましたら、すぐに初期登録ををして決済のテストを行いましょう。

東京ハンドメイド祭ではPayPay決済を行っている店がありましたが、幕張で行われた「マクハリハンドメイドフェスタ」より採用されている店が少ない印象ですし、周りの店舗を見ても現金決済で行っている店ばかりでした。結果的には特にPayPayがなくても売り上げには関係ないと思いました。

初めてのハンドメイドの出展ですが商品が売れると嬉しいものですね。商売なんてそう簡単じゃないとわかっておりますし、1個も売れないんじゃないかとも思っていましたが、予想に反して売れてくれましたので「感激ひとしお」でした。

まだ大分先になりますが、次のハンドメイド祭ではPayPayを使用してみます。



※最後に
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定期券うりば、から、券売機へ「定期券Web予約サービス」
定期券Web予約サービス


子供は高校入学しました(中高一貫校なので入学式の感動なし!)。学校へは電車で通学していますので、通学定期券を購入しに行きました。新学期での通学定期券購入は今年で4度目になりましたが、新学年での定期券は継続で購入できません。そこで新規で通学定期券を購入することになりますが、通学証明書を提出する必要があります。

必然的に”定期券うりば(窓口)”での購入となるのですが、これが入学、新学期のシーズンとなりますと、長蛇の列となっております。

会社に通勤する通勤定期券では自販機で購入できますし、”モバイルSUICA”や”モバイルPASMO定期”はスマートフォンで購入できますので、窓口一本だった時代から比べますと、とても便利にはなっています。

しかしながら、新学年における通学定期券は”定期券うりば”で購入しないといけませんので、何とかならないものなのでしょうか。

実は”定期券うりば”以外で購入する方法があるのです。

一部の鉄道会社は、数年前からWebで予約して駅で引き取る「定期券Web予約サービス」を導入しているのですが、あまり活用されていないようなのです。私もまったく知らなかったですし、鉄道会社のサイトを見ても宣伝に力を入れていない感じなのか?どうも浸透していないようです。

例えば『東京メトロ』の定期券購入のサイトでは「新規の通学定期券は購入不可」となっていますが、その下に「定期券Web予約サービス」があり、そこからリンクを辿らないとわからないのです。

関東であれば、代表的な鉄道では「JR東日本」「東京メトロ」が実施しています。




関西であれば、代表的な鉄道では「JR西日本」は実施してないみたいで「Osaka Metro」が実施しています。


今年も、私が見かけた「定期券うりば」では、長蛇の列でしたので、すべての人が定期券購入ではないにせよ、浸透していない感じがします。

❖定期券Web予約サービスの流れ(大体、各社こんな感じ)

・スマートフォンやPCから購入情報を事前に入力して予約番号を発行。
※通学定期券の場合は各駅の改札口または駅事務室で通学証明書等を提示して(予約番号で購入できる)手続きが終了次第、駅の券売機で購入開始。
・駅の券売機で予約番号を入力して完了(券売機で現金かカードで支払)。

❖よくある質問

・手数料は無料
・予約番号を忘れたら再予約
・個人情報(氏名・性別・生年月日・電話番号)は券売機で変更不可(再予約)

❖購入できる券種(詳しくは各鉄道会社へ)
 基本的に大人(中学生以上)の定期券に限ります。

・大人通勤定期券(新規)
・大人通学定期券(新規)

詳しい予約方法から券売機での購入、そして予約可能時期や受取可能時期、クレジットカードの種類などの詳細情報は、各鉄道会社での情報に変更があると思いますので、この記事では書きません。詳細は各鉄道会社でご確認ください。

とにかく、あの長蛇の列で並ぶだけで疲れる事態を回避できる方が増えることを願います。



※最後に
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奈良山中で行方不明のアメリカ人女性 警察の捜索続く 熊野古道通り十津川村平谷へ向かったか 10日夜に宿泊予定先に到着せず(2023年4月21日)

 4月10日に奈良県十津川村の民宿を出た後、行方不明になっている米国人女性の捜索を警察が続けています。

行方がわからなくなっているのは、米国籍のウームラッド・パトリシア・ピーツェンさん(60)です。
米国籍のウームラッド・パトリシア・ピーツェンさん(60歳)
警察によりますと、ウームラッドさんは10日午前7時ごろに、1人で泊まっていた奈良県十津川村の民宿を出発し、熊野古道を通って十津川村平谷に向かったとみられています。

夜になってもウームラッドさんは宿泊予定だった施設に到着しなかったため、従業員が通報しました。

警察や消防は21日も30人態勢で行方を捜し、防犯カメラも調べていますが発見には至っていません。

ウームラッドさんは身長157センチで、ピンク色の服に黄色いリュックを身につけていたということです。


コロナ禍も落ち着いてきて、インバウンドの観光客が戻ってきました。ただし、またまだだそうで訪日の外国からの観光客は2019年に比べて6割程度です。それでも活気が戻ってきたのはいいことですが、心配なニュースが出てしまいました。

アメリカからきた女性観光客の1日が奈良県十津川村で行方不明になってしまったものです。奈良県十津川村の民宿を出発して熊野古道(飲料水で有名)を通って十津川村平谷に向かったそうですが、予定時間を過ぎても宿泊施設に到着しなかったそうです。

熊野古道から外れて間違った道に入ってしまったのでしょうか。
熊野古道
行方不明から10日という、かなり日が経っているので心配です。

深い森ですので、山中で迷ったか滑り落ちてしまったか、川に近づいて落ちてしまったか、あるいは野生動物に遭遇したか、といろいろな想像ができます。

スマートフォンの電波から追えないのかなとも思いますが、10日経っていますので電源はないでしょうし、そもそも電波が届いていたところがわかりません。土地勘もないと推測すると厳しい状況になっています。

奈良の山では道迷い遭難した方が数日後に無事に救出された例が過去に複数あったと記憶しています。この方も無事に見つかることを祈っています。

比較的安全な日本も以前とは異なる犯罪が次々と起きています。以前、山の中の天然露天風呂に女性1人で行って襲われた人がいました。いくら日本とはいえ、女性1人で奥深い山道を歩くのは危険な気がします。

日光でもフランス人の方が行方不明になられたままだった気がします。折角楽しく日本観光をされているのに不幸な目に遭う様なことのない様に、用心して観光を楽しんで頂けたらと思います。

4年前に日光で不明のフランス人女性家族が情報提供呼びかけ(2022年12月19日)

 4年前、日光市を観光で訪れ、行方が分からなくなっているフランス人女性の家族が3年ぶりに来日し、情報提供を呼びかける活動を行いました。
フランス人のティフェヌ・ベロンさん(当時36)は、平成30年の7月29日、観光で訪れていた日光市内の宿泊先から徒歩で外出したあと、行方がわからなくなっています。
17日は、3年ぶりに来日した兄のダミアンさん(42)が、妹のシビルさん(37)や日本の支援者とともに、日光市内でチラシを配るなどして情報提供を呼びかけました。
先月下旬に来日したダミアンさんは東京都内で支援者らと集会を開いたほか、フランス大使館の領事らとともに日光警察署を訪れ、捜索の強化などを依頼していました。
警察は持病のあるティフェヌさんが外出中に倒れたか、遭難した可能性もあると見て、事件と事故の両面から捜索を行っていますが、これまでに有力な手がかりは得られていないということです。
ダミアンさんたち家族はおよそ3週間の滞在を終えて18日、日本を出国したということです。
兄のダミアンさんは、「ティフェヌは日本が大好きでした。ティフェヌがいなくなってもみんなが協力して彼女を探しているので見つからないことはないし絶対見つけます」と話していました。
仏国籍のティフェヌ・ベロンさん(40歳)



※最後に
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◆ドキュメント
作成日付:2023/04/17
更新日付:2023/08/03
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.05改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート1))
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(目次き(一部)、こ~し))

<目次>






京都日整学園女性理事長殺害事件(上野剛)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年に京都市の日整学園・日本整容専門学校の女性理事長が殺害された事件である。

1997年3月21日に京都市南区において美容専門学校を運営する学校法人日整学園・日本整容専門学校の学園理事長 永田綾子さん(当時66歳)が駐車場で刃物で刺されて殺害された事件である。この事件で逮捕した無職 上野剛(当時63歳)に対して検察は親族と取り組んでいた中国古美術品「兵馬俑」の転売を巡るトラブルに絡み、Aが関係者の依頼を受けて理事長を殺したとして起訴した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2005年12月7日、最高裁第3小法廷の上田豊三裁判長は、懲役12年とした高裁判決を支持して上告を棄却した。

❖出所予定(年齢)
 2017年12月頃、75歳(出所)

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京都伏見介護殺人事件(片桐康晴)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2006年(平成18年)2月1日、京都府・京都市伏見区の桂川の河川敷で、当時54歳の男Aが生活苦から親子心中を図って認知症患者の86歳の母親を殺害した介護殺人事件。

2006年(平成18年)2月1日、母親(当時86歳)の介護で生活苦に陥った片桐康晴(当時54歳)が、母親の首を絞めて殺害した。男自身も包丁で自殺を図ったが未遂となった。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年7月21日、京都地方裁判所での判決公判において、裁判官は「母親の同意を得たとは言え、尊い命を奪った刑事責任は軽視できない。」とした上で、それまでの経緯や献身的に介護をしていたことなどを酌量し、「母親は、恨みなどを抱かず、厳罰も望んでいないと推察される。

自力で更生し、母親の冥福を祈らせることが相当」と述べ、片桐に懲役2年6ヶ月、執行猶予3年を言い渡した。また、「自分を殺めることはしないようにして、お母さんのためにも幸せに生きてください。」と諭し、「裁かれているのは日本の介護制度や行政であり、とりわけ生活保護の相談窓口の対応が問われていると言っても過言ではない。」と指摘した。

片桐は裁判の後、滋賀県に転居し1人暮らしを始め、木材加工会社で働いていたが、2013年(平成25年)に会社をクビになったと親族に伝えたきり音信不通となった。

親族が警察に行方不明者届を出したが、2014年(平成26年)8月1日に遺体で見つかった。遺体付近には小さなポーチが残されており、ポーチの中にはお金が入っていたが、この時の所持金は”わずか数百円”だった。さらにメモが残されており、そこには「母と一緒に焼いて欲しい」というメモ書きと一緒に母親と自分の”へその緒”が、セットで見つかった。
京都伏見介護殺人事件(片桐康晴)
❖出所予定(年齢)
 2009年1月頃、57歳、執行猶予完了(その後、自殺)

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京都猟銃発砲事件(山本秀平)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年9月20日に京都市で発生した猟銃による殺人事件である。

2003年9月20日午後8時ごろ、京都市山科区大塚野溝町、自営業、岡本充弘さん(当時35歳)の
自宅前路上で、岡本さん宅の向かいに住む無職、山本秀平(当時63歳)。が岡本さんに向けて至近距離から散弾銃を数発発砲した。
岡本さんは頭を撃たれ即死。男は近くの自宅に戻り、同じ銃で胸を撃ち自殺した。
1年以上前から、道にはみ出すように駐車する岡本さんに不満を持っていたという。

この日も帰宅してガレージに車をとめた岡本さんに「またそこに入れるのか」と文句を付けて口論になり、自宅から散弾銃を持ち出して威嚇射撃した後、岡本さんを撃った。

山本容疑者は犯行後「人を殺した」と自分で110番し、直後に妻の目の前で自殺した。
京都府警は容疑者死亡のまま、殺人容疑などで山本容疑者を書類送検する方針。山本は京都府公安委員会から散弾銃2丁の所持許可を受け、犯行に使ったのはそのうちの1丁とみられる。
近所の人によると、山本容疑者は約20年前から住み、岡本さんは数年前に引っ越してきた。
京都猟銃発砲事件(猟銃の種類)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 京都府山科署は容疑者死亡のまま、殺人容疑などで山本容疑者を書類送検。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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筋弛緩剤点滴事件(守大助・無期懲役)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)に宮城県・仙台市泉区のクリニックで発生した患者殺傷事件。仙台筋弛緩剤事件などとも呼ばれる。

1999年から2000年までの間に、宮城県仙台市泉区のクリニックで不審死した事例が20人に上る事件が発生した。この事件の発生は、同クリニックに勤務していた准看護士の守大助(当時29歳)が勤務し始めた時期と符合した。

2000年10月31日に入院した11歳の女児に対して、抗生物質を点滴する処置を取ったが容態が急変。女児は病院を転送され一命は取りとめたが、大脳に障害が残り植物状態になった。女児の血液を採血し分析した結果、筋弛緩剤「ベクロニウム」の成分が検出された。なお、この女児は2018年に29歳となったが、意識は戻っていない。

クリニック側は、守が担当する患者に容態が急変し、重態したり死亡したりする事例が目立ったため不審を抱く。12月4日、私物を取りに病院へ行った守は、医療廃棄物を処理するために箱を廃棄小屋に捨てようとした際、私服警官に呼び止められた。赤い箱の中身を点検すると、筋弛緩剤ベクロニウムの空アンプルが見つかり、更に筋弛緩剤の在庫を確認したところ、守がベクロニウム20アンプルを発注する一方で、23アンプルが使途不明だったことが判明。1件の殺人と4件の殺人未遂の被疑事実で、守が宮城県警察に逮捕された。いずれも容疑は、点滴液へ筋弛緩剤を混入して窒息死させた被疑事実。筋弛緩剤は脳からの信号を遮断して、筋肉の動きを弱める薬で、人工呼吸器を着けずに投与し、呼吸不全を引き起こしたとした。 マスコミは守が担当する患者に容態の急変が頻発することになぞらえて急変の守と呼ぶ報道を繰り返したほか、患者に対して「先は長くない」等の発言を行ったと報じた。
筋弛緩剤点滴事件(守大助)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2008年2月25日、最高裁判所は守の上告を棄却。無期懲役が確定した。

守は現在、千葉刑務所に収監されている。2012年2月10日に仙台地裁に再審請求を行ったが、2014年に棄却。弁護側は仙台高裁に即時抗告したが、2018年2月28日、即時抗告は棄却された。弁護側は同年3月5日付けで決定を不服として最高裁に特別抗告を申し立てたが、2019年11月13日付で最高裁は特別抗告を棄却した。

❖出所予定(年齢)
 2038年2月頃、59歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)(少年A)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年(平成9年)2月 - 5月にかけて兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件(少年犯罪)。男子中学生(事件当時14歳:神戸市立友が丘中学校3年)が相次いで小学生5人を殺傷した。犯人の少年が酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗っていたことから、「酒鬼薔薇事件」「酒鬼薔薇聖斗事件」とも呼ばれる。
神戸長田区小1女児殺害事件(酒鬼薔薇聖斗)
本項では事件を起こした少年の仮名を、後述するのちに本人が出版した著書などの名義である「少年A」をもとにして表記する。

◆事件
 1997年の2月から5月にかけ、5人の小学生が被害を受け、2人が死亡し、2人が重軽傷を負った。犯人は事件当時、神戸市立友が丘中学校に在学していた中学3年生の少年A(当時14歳)で、殺人・殺人未遂などの容疑で神戸家裁へ送致され、同家裁(井垣康弘裁判官)の決定により関東医療少年院へ長期収容されたが、関東地方更生保護委員会から「約6年半の矯正教育により、事件の要因となった性的サディズムなどは改善され、再犯のおそれはなくなった」と判断されたため、逮捕から約6年9か月後の2004年(平成16年)3月10日に仮退院を認められ、社会復帰した。事件現場は以下のように、須磨ニュータウン(神戸市営地下鉄西神・山手線:名谷駅の南方)に集中していた。

第一事件 - 
1997年2月10日16時35分ごろ、須磨区中落合一丁目1番の「落合第3団地」402号棟南側路上(座標)で、市立南落合小学校6年生の女児2人(いずれも当時12歳)の後頭部をそれぞれ金槌で殴り、うち1人に全治1週間の怪我を負わせた(傷害罪・暴行罪)。

第二事件 - 
1997年3月16日12時25分ごろ、須磨区竜が台二丁目1番の神戸市住宅供給公社35号棟西側路上(座標)で、市立竜が台小学校4年生 山下彩花さん(当時10歳)の後頭部をハンマー (1.5 kg) で殴り、1週間後(3月23日)に脳損傷で死亡させた(第二-1事件:殺人罪)。またその10分後(12時35分ごろ)、須磨区竜が台五丁目20番の竜が丘公園(座標)北側路上で、同校3年生女児(当時9歳)の腹部をくり小刀(刃体の長さ約13 cm)で刺し、全治2週間の怪我を負わせた(第二-2事件:殺人未遂罪)。

第三事件 - 
1997年5月24日昼過ぎごろ、市立多井畑小学校付近の路上で、同校6年生 土師淳(はせじゅん)君(当時11歳)と偶然出会い、須磨区友が丘9丁目22番地の「タンク山」山頂にあったケーブルテレビ中継アンテナ基地付近(座標)まで誘い出した上で、14時ごろに自分の履いていた運動靴の紐で絞殺。翌25日13 - 15時ごろに基地内で遺体を頭部と胴体部とに切断、胴体部分を基地局舎の床下に、頭部は27日未明に友が丘中正門前(座標)にそれぞれ遺棄した(殺人罪、死体損壊・遺棄罪)。

通り魔的犯行や遺体の損壊が伴った点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与え、少年法改正(2000年)のきっかけとなった。

兵庫県警察は聞き込み捜査の結果、少年Aが動物虐待行為をたびたび行っていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、捜査は極めて慎重に進められた。

❖第三事件
 酒鬼薔薇事件の象徴である第三の事件をピックアップする。

●1997年5月24日
 少年Aは人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために昼過ぎに自転車に乗って家を出た。町内を約10分くらい自転車を走らせた後、多井畑小学校の北側の道路の歩道を東から西に自転車を走らせていたところ、Aとは反対に西から東に1人で歩いてくる土師淳(はせじゅん)君(当時11歳)を偶然見つけた。

土師淳(はせじゅん)君は同地区に住む放射線科医師の小学5年生の11歳の次男であった。土師君は祖父の家に行くといって午後1時40分頃自宅を出ていた。Aが男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、Aが5年生の頃小学校のなかに身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後男児がAの家に遊びに来るようになった。これはAが直接知り合ったわけではなく、Aの一番下の弟が同級であったためである。その際にAの家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。
神戸連続児童殺傷事件(土師淳さん)
咄嗟に「土師君なら、僕より小さいので殺せる」と思い男児の方へ近づいた。Aは土師君に対し「向こうの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」と「タンク山」と呼ばれている高台に誘い出し、山頂手前にあるケーブルテレビアンテナ施設の入り口付近まで連れて行きその場で絞殺して遺体を隠した。

殺害は絞殺であったが、これは当初から首を手で絞めて殺してみたいという願望があったためである。指紋が付くことを怖れ手袋をしたあと、土師君の真後ろからいきなり右腕を男児の首に巻き付け、力いっぱい男児の首を締め上げた。土師君は大きな声を出し、泣き叫び手をバタバタさせた。

Aはこのままでは到底土師君を殺せないのではないかと思い、土師君を倒して締め上げれば殺せるのではないかと考えた。土師君を前に倒しA自身も土師君に覆い被り首を絞め上げた。それでも土師君はなかなか死ななかったため、今度は土師君を仰向けにし男児の腹の上に馬乗りになって両手で男児の首を力任せに締め付けた。しかし、両腕の上腕部付近が張ってきて、筋肉痛のような感覚を覚える。Aはナイフで殺害しようと考えるがナイフを忘れたことに気付く。そこですぐ横に埋まっていた石で撲殺しようと思い、石を持とうとするが土に埋まっていたため動かなかった。

Aは自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、紐を首にかけうつ伏せになった土師君の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げた。しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。しかし、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスなどに結びつけ締め続けた。その後、土師君の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。

供述では、なかなか死なない土師君に腹を立てたりしているが、同時に土師君を殺しているという緊張感や怒りも含め、殺していること自体を楽しんでいたこと、また、最終的には土師君が死んだと分かった時に、Aは土師君を殺すことができ、土師君が自分だけのものになったという満足感でいっぱいになったと話した。

また、「その満足感はそれまで僕が人を殺した時のことを考えて、得られるであろうと思っていた満足感よりももっと素晴らしいものでした」と話した。

さらに「確かに僕は、3月16日に須磨区竜が台で、2人の女の子を殴ったりナイフで刺したりしたし、後日、僕がハンマーで殴った女の子は死んだということを知りましたが、この時は一瞬のことであり、大した満足感は感じませんでした。しかし、土師君の場合は、殺すのになかなか時間がかかったので、それだけ満足感が得られたのです。土師君を殺したことによって感じた満足感は、あまり長続きはせず、死体をどこに隠そうかなどと考え始めたときには、満足感は消えていました」と続けた。

土師君を殺害したAは、死体の処理をどうするか考えできるだけ発見を遅らせたいと思った。あたりを見回すとアンテナ施設の中の鉄の建物の床下に草が生えており、フェンス越しなら床下が見えにくいと思い、床下に死体を隠すことを考えたが、入り口には南京錠がかかっていたため、施設内には入ることができなかった。 しかしAは南京錠を壊そうと考え、南京錠を壊すための糸ノコギリと、南京錠を壊しただけでは不審に思われることから、壊した南京錠に代わる新たな南京錠を入手する必要を感じた。

土師君をそのままにしてAはコープリビングセンター北須磨店へ向かった。そこで糸ノコギリ(後に供述調書は金ノコに修正された)と南京錠を万引きした。南京錠と糸ノコギリを万引きした理由については、お金がなかったこと、お金を出して買えば店員に顔を覚えられる可能性があったためと供述している。

Aは再び土師君の元へ行き、入り口に掛けられている古い南京錠を金鋸で切り、両手を土師君の脇の下に入れ土師君を引きずって施設の中へ入れた。ところが、鉄の建物と施設の入り口との間にアンテナが置かれており、邪魔であったためアンテナを向って右にずらした。 Aは土師君の死体を引きずって建物の中へ入り、そこから床下に土師君の死体を蹴り込むようにして押し込んだ。その際、建物付近に土師君の運動靴が1個落ちていることに気付き、拾い上げ死体のそばに置いた。金鋸を落ち葉の下に隠し、入り口に新しい南京錠を掛け替えて山を下りた。

その後Aは友達と遊び、午後6時過ぎに家に帰った。Aの母が「土師君がおらんようになったみたいよ」と言うと、Aは「ふうーん」と返事をした。Aは夕食を食べずに寝たが元々よく夜中に目覚めており、この夜も夜中に目覚め、1日のことを振り返った。南京錠の切断に使った糸ノコギリを施設内に隠していることを思い出した所、糸ノコギリで頭を胴体から切り離してみたい、その時に手に伝わってくる感覚や、切った後の切り口を見てみたいという衝動に駆られた。Aはそれまでに何十匹もの猫を殺し、首を切り落としていたが、猫だとナイフ1本で簡単に切れるため、人間を切ってみたいと思った。そこで、明日は再びタンク山に向かい、隠している糸ノコギリで土師君の首を切ろうと考え再び眠りについた。

午後8時50分に土師淳(はせじゅん)君の家族より兵庫県須磨警察署に捜索願が提出された。

●1997年5月25日
 Aはいつものように起床し、土師淳(はせじゅん)君の首を切るために自宅を出た。Aは人間の首を切る際には大量の血が出て、現場に血を残すと足が付きやすくなると考え黒色のビニール袋を2枚用意した。また金鋸を運び出すために、学校で使用している補助カバンや、くり小刀を1本持ち出した。

検事調書では、「ママチャリに乗って、直接「タンク山」へと向かいました」と言っているが、Aの父親によれば正午前後にコープ北須磨の自転車置き場で出会っており、ビブロスの方向に走って行ったという。タンク山はビブロスと反対方向にあるが、ビブロス方向に走って行ったことに関して、父親は「よく思い出せません」とも話している。

Aは遺体の元へ行き土師君の死体を床下から引っ張り出した。Aは「ただ、土師君の首を切りたい」とだけしか思っていなかったため、特にワクワクするといった気持ではなかった。土師君はあおむけの状態で、眼は見開いていた。このとき、取調官はAに「土師君の死体の目や顔を見ながら、その首を切るのに抵抗はなかったか」と尋ねたのに対しAは「別にありませんでした。僕が殺した死体であり、いわば僕の作品だったからです」と答えた。

黒いビニール袋の上に置いた土師君の遺体を、糸ノコギリで一気に左右に2回切ると切り口が見えた。Aは左手で土師君の額のあたりを押さえながら首を切った。この時、Aは「現実に人間の首を切っているんだなあと思うと、エキサイティングな気持ちになった」と供述している。その後、土師君の髪をつかんで首の皮を引っぱり、頭を胴体と引き離した。Aはしばらく頭部を地面に置き、正面から鑑賞しながら「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感に浸り射精した。

しかしAは死体にまだ魂が残っていると考え、魂を取り出すため、また眠たそうな土師君の目が気に入らなかったため、小刀で男児の両目を突き刺した。さらに、2、3回ずつ両方のまぶたを切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」を持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直のためできなかった。さらに、ビニール袋に溜まった土師君の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。血を飲んだ理由として、「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められると思ったからです。幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです」と供述している。

Aはその後入角ノ池へ行き、土師君の首を隠す場所はないかと見回しところ池の方に木が生えだしたところがあり、その木の近くにちょうど首が入るほどの穴があった。穴を見つけると、補助カバンから土師君の首を入れたビニール袋を取り出し、袋に入れた状態で首全体が見えるようにした。

至近距離から土師君の首を鑑賞し、新たに誰もいない場所で土師君の首を鑑賞すれば、何か新しい感動が得られるのではないかと期待したが、大した感動はなく「ああ、こんなものか」と思った程度だったため、2,3分眺めてから再びビニール袋にもどし、木の根元の穴の中に隠した。首の切断に使った金鋸は、友が丘西公園のとなりにある向畑ノ池に投げ捨てた。

取調官から、「君は当初、男児の首を切断したり、土師君の首を別のところへ移動したのは、土師君の首には指の跡などが付いており、それが分かれば、自分が犯人と疑われるからだと話していたが、その点はどうか」と聞かれ、「それは、単なる理屈付けを話したのです」と答えた。

その日の夜もAは目が覚め、物思いにふけった。その際、Aは人間の死体が時間とともにどう変化するのかに非常に興味を持ち始めた。Aは明日も土師君の首を見るために入角ノ池へ行こうと思った。取調官は、「胴体を置いているタンク山へは行こうと思わなかったのか」と尋ねたのに対し、Aは「考えませんでした。それは土師君の胴体部分は、服を着ていて、死体の変化を見るためには、服を脱がせたりしなければならないからです。それが面倒くさかったからです。それにタンク山だと、人が登ってくる可能性があったからです」と答えた。

●1997年5月26日
 土師淳(はせじゅん)君の行方不明事件として、午前11時40分に須磨警察署が公開捜査を開始。兵庫県警察、PTA、消防団合わせて150名が捜索にあたった。

Aはこの日もいつものように生活し、昼過ぎに「首をじっくり鑑賞したい」と自転車で入角ノ池へ向かい、穴から取り出して至近距離で5,6分見た。この時は鑑賞ではなく観察したと供述している。観察の結果、色が前日に増して青白くなっていたこと以外には取り立てて変化があるようには思えず、がっかりし興味を失ったため、土師君の頭部を家に持ち帰った。

遅かれ早かれ日本の警察ならどこに隠そうと胴体も頭部も発見されるだろうと考えたAは、自分から土師君の首をあえて晒すことで、警察の捜査から自分を遠ざけようと考えた。

土師君の頭部を放置する場所をどこにするか考えた結果、自分が通っている神戸市立友が丘中学校が警察にとっては一番盲点になるのではないかと考えた。Aは、まさか中学校に通う生徒が自分が通う学校に首を置くはずがないと思うだろうし、そうなれば捜査の対象がA自身から外れるだろうと考えた。さらにもう一つの理由として幼少期から親に「人に罪をなすりつけては駄目だ」と言われて育てられたことから、一方では男児を殺した自分自身に対して嫌悪感があったので、何とか責任逃れをしたいという気持ちもあった。

しかし、人に罪をなすりつける訳にはいかないので、自分自身を納得させるために、学校が土師君を殺したのであり、僕が殺したわけではないと思いたかった。それは単に、学校に責任をなすりつけるための理由であり、実際に学校に対する恨みや学校の教育によって、こんな僕ができてしまったと思っていたわけではないと供述している。

頭部の置き場は一番目立つ場所がいいと考え正門に置くことにした。Aは土師君の首をビニール袋に入れ、自転車の前カゴに入れて帰宅した。家には誰もいなかった。

帰宅途中、土師君の首を洗うことを思い付き、帰宅後土や木の葉で汚れた頭部を風呂場でタライに入れホースを使い15分ほどかけて丁寧に洗って、自分の部屋の天井裏に隠した。Aは首を洗った理由を「理由は二つ。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱなどを洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらう訳ですから、血で汚れていたので『せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれ。君の初舞台だよ』という意味で、顔を綺麗にしてやろうと思ったのです」と供述している。Aは首を洗った時も興奮して勃起し、髪の毛にクシを入れながら射精した。

Aは土師君の首を校門に置くだけでは、警察の目を自分から逸らすには物足りない。さらに捜査をかく乱する方法はないかと考えた。そこで、首に何かを添えるのであれば、土師君の口が開いているので男児の口に手紙を咥えさせようと考えた。「偽りの犯人像」を表現するには、手紙がいちばんだと思った。その日の夜、手紙の文章を考えた。

これまで読んだ本などから、覚えている言葉や自分で頭に浮かんだ文章などを思い浮かべたものの、さらにインパクトがある表現が必要だと感じた。そこで部屋にあった漫画に目が止まり、『瑪羅門の家族』第3巻の目次の「積年の大怨に灼熱の裁きを」を見て「積年の大怨」ということになれば、長年積もり積もった恨みを持った者の犯行だと読んだ人は思い、ある程度歳のいった人間が犯人だと思われるのではないかと考え引用することにした。また別の本で覚えていた言葉を組み合わせて手紙を書き上げた。原文の「灼熱の裁きを」という部分は、土師君の頭部を焼いたわけではないので「流血の裁きを」との表現に改変した。
神戸連続児童殺傷事件(手紙)
1997年5月27日早朝、神戸市須磨区の友が丘中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものと判明した。耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。

神戸連続児童殺傷事件(校門前)

❖神戸新聞社宛ての手紙
 6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。投函したのは6月3日の午後だったため、手紙を書いたのは6月2日の夜だったとAは供述している。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復するとしたものだった。また自身を「透明なボク」と表現し、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯したと記載している。

この声明文には発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は文章を一部修正した形で報道されたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文は修正前と同じ文章だった。具体的には文章の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。Aは声明文を書くにあたって、次のような犯人像をイメージして書いた。

高校時代に野球部に所属したことがある三十歳代の男。父親はおらず、母親からは厳しいスパルタ教育を受けながら、学校では相手にされず孤立している。学校関係の職場で働いていたが解雇され、今は病身の母親と二人暮らし。学校時代にいじめにあったので、自分を「透明な存在」と思うようになり、そんな自分を作り出した義務教育を怨んでいる。被害妄想と自己顕示欲が人一倍強く、社会を憎み、密かに復讐を考えている。

しかし、Aは「はっきり言って調子づいてしまった、新たに手紙を書けば、僕の筆跡が警察に分かってしまうと思ったが、僕自身、警察の筆跡鑑定を甘く見ていた。『あれで捕まるんやないか、失敗したなぁ』と思ったが、どうしようもなかった」と供述している。捜査関係者によると「もともと、数多く著作からの寄せ集めだから、原本は簡単に割り出せなかったが、Aが浮上して彼の作文などを調べたら、すぐに同一人物の筆致だと分かったよ。特に『懲役13年』という作文は大いに参考になった」という。

また、用紙の余白に「9」という数字を書いたことについては「僕が1番好きな数字が9であり、切のいい数字が10だと思っているので、その一つ前がいいからだ」と供述しているが、Aが浮上した段階で間接証拠の一つとして使われていた。なお、Aの作文と二つの犯行声明文の筆跡鑑定を行ったが、鑑定結果は「類似した筆跡が比較的多く含まれているが、同一人の筆跡か否か判断することは困難である」というものだったため逮捕状を請求出来なかったという。

Aの供述では、「本当は僕が男児を殺したり、男児の首を正門前に置いていたにも関わらず、あたかも僕の他に犯人がいるとして、その犯人像を僕がイメージして、その犯人像になり切って手紙を書くことにした」、従って「僕が書いた手紙の内容は、あくまでも僕がイメージした犯人像が持っている動機を書いたものであり、いわば僕の作文であって、僕が土師君を殺した理由とは全く異なっている」。神戸新聞社への手紙を書くにあたっては、あらかじめ下書きをしてから書き進めた。下書きを書いたノートは後に燃やしている。
神戸連続児童殺傷事件(神戸新聞社への声明文)
神戸新聞社へ(全文)

この前ボクが出ている時にたまたま、テレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた

人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも、謎かけでも当て字でもない。嘘偽りないボクの本名である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない

だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。

しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性さがとしか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

最後に一言

この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

———— ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている ————

1997年6月28日、現場近くに住むAに朝から任意同行を求め、事情を聞いていたところで犯行を自供。Aは当初犯行を否認していたが、取調官が第一の犯行声明文のカラーコピーを取り出して、「これが君の書いたものであるということは、はっきりしている。筆跡が一致したんや」と突きつけると、声を上げて泣き出し、自供を始めた(前述のように実際にはAの筆跡が一致したという証拠はなかった)。午後7時5分、殺人及び死体遺棄の容疑でAを逮捕。同時に、通り魔事件に関しても犯行を認めた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院、中等少年院、医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。

Aは小学5年生の時から動物に対する殺害を始め、最初はなめくじやかえるが対象だったが、その後は猫が対象になった。A自身が友人に、全部で20匹ぐらいの猫を殺したと語っている。標準的な人は性的な発育が始まる以前の段階で、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、Aは性的な発育が始まった時点で性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず(鑑定医はその状態を未分化な性衝動と攻撃性の結合と表現した)、動物に対する暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していた。

性的な発育過程にある標準的な感覚の男子は、自分の周囲の同年代の女子や少し年上の女性を、性欲を発散する対象として想像しながら自慰をして(または生身の女性と現実の性交をして)性欲を発散し、性的な経験を積み重ねながら肉体的・精神的な成長をして行くのだが、Aは動物を殺害して遺体を損壊することに性的な興奮を感じるようになり、猫を殺して遺体を損壊する時に性的な興奮や快楽を感じて性器が勃起し射精した。

Aはその性的な興奮や快楽の感覚や要求が、人を殺害して遺体を損壊することによって、猫の殺害と遺体損壊よりも大きな性的な興奮や快楽を得たいとの欲求へとエスカレートし、それが自分の運命と思い込むようになり、この事件を行ったのであり、殺人の動機の類型としては快楽殺人である。また、Aの言動を危惧した両親は、中学入学後の1995年11月に精神科の病院に通院させ、診断テストや脳の検査を受けさせた。その結果、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断を受けている。

Aは鑑定医から被害者を殺害したことについて問われると、自分以外は人間ではなく野菜と同じだから切断や破砕をしてもいい、誰も悲しまないと思うと供述した。被害者の遺族の悲しみについて問われると、あの時あの場所を通りかかった被害者が悪い、運が悪かったのだと供述した。女性に対する関心はあるかと問われて、全く無いと答えた。

精神鑑定結果は、Aに完全な責任能力はあるが、成人の反社会性パーソナリティ障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、Aの性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。事件前に診断し告知された「注意欠陥・多動性障害」についての言及は、審判や精神鑑定においては触れられていない。

1997年(平成9年)10月13日に神戸家庭裁判所はAを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移された。その後、治療が順調であるとの判断から、東北少年院(中等少年院)に移った。2004年(平成16年)3月10日 に成人したAは少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。そして2005年(平成17年)1月1日にAの本退院が認可された。

❖出所予定(年齢)
 2005年1月1日、22歳、すでに退院(医療少年院にて長期間の医療的処置)

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神戸長田区小1女児殺害事件(君野康弘)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年(平成26年)9月に兵庫県神戸市長田区の小学校1年生の生田美玲さん(当時6歳)が行方不明となり、殺害された事件。

2014年9月11日 に生田美玲さん(当時6歳)行方不明になり、母が長田署に捜索願を出した。兵庫県警が公開捜査。生田さんの持ち物と思われるリュックサックの写真も併せて公開した。生田さんの後ろを歩く容疑者が防犯カメラに映っていたことから、容疑者 君野康弘被告(当時49歳)宅を捜査員が訪問し、任意で君野宅を調べる。

9月23日夕方、捜索していた捜査員が女児の遺体の腐乱臭に気付き、雑木林に放置してあったビニール袋から腐敗が進んだ生田さんの遺体の肉片とたばこの吸い殻と君野名義の診察券を発見した。

9月24日に 兵庫県警捜査本部設置。酒に酔い雑木林の方へ向かう遺体遺棄現場から30メートルに住む君野を捜査員が発見し、任意同行をもとめ、前日発見されたビニール袋に中にあった吸い殻とDNAが一致したため逮捕。警察の家宅捜査で生田さんのリュックサックが君野宅から発見。

10月14日に君野を殺人容疑で再逮捕。10月21日に君野が殺害を自供した。
神戸長田区小1女児殺害事件(君野康弘)
神戸長田区小1女児殺害事件(生田美鈴さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年3月10日、大阪高等裁判所は神戸地裁の死刑判決を破棄し、無期懲役が言い渡した。樋口裕晃裁判長は、君野に計画性はなかったとし、「生命軽視の姿勢が強くうかがえるとは言えず、罪は軽減されるべき」と指摘。控訴審でも否認したわいせつ目的誘拐罪を認定したが「殺害はその発覚を恐れた自己保身のためで、一審は動機の身勝手さを過大に評価している」と述べた。

さらに「性的な目的で被害者1人が殺害された場合、同種前科のない被告には死刑が選択されない傾向がある」と説明し「公平の観点から死刑は許容されない」と減刑に踏み切った理由を述べた。検察側は判決を不服として最高裁に上告した。

2019年7月3日、最高裁第1小法廷(山口厚裁判長)は7月1日付で、検察側の上告を棄却する決定をした。

裁判員裁判で審理された一審神戸地裁の死刑判決を破棄し、無期懲役とした二審大阪高裁判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2049年7月頃、82歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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神戸大学院生リンチ殺人事件(佐藤高行)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年3月4日、日本の神戸市西区で発生した殺人事件。法廷で初めて警察の職務怠慢が認定された事件であった。

2002年3月4日の午前3時過ぎ、神戸商船大学大学院に通っていた浦中邦彰さん(当時27歳)が友人を車で県営団地に送った際、山口組系の暴力団「西脇組」内「末原組」組長の佐藤高行(当時38歳)とスナック経営で組長情婦の谷京子(当時35歳)と駐車場のスペースを巡ってトラブルになった。

この県営住宅は200戸あるにもかかわらず駐車スペースが120しかなく、日頃から住民の間で問題視されていた。

最初は口論だったものの、佐藤が手を出し、格闘技経験のある浦中さんが応戦して殴り合いに発展。そこへ2人を止めようとして、浦中さんの友人が仲裁に入った。

浦中さんと佐藤を仲裁しようとした友人ともみ合いとなり、浦中さんが警察へ通報した。しかし浦中さんの携帯電話を谷が取り上げ、さらに谷が形成が振りであったため、末原組に連絡し組員を呼び寄せた。河原典之(当時30歳)、阿部盛靖(当時36歳)、冨谷利幸(当時37歳)の組員が駆けつけ、男性とその友人に殴る蹴るの暴行を加えた。意識がほとんど無くなった浦中さんとその友人を組員らは自分らの車の後部座席に押し込んだ。

警察への通報から16分後に神戸西警察署管轄の井吹台交番の47歳の巡査部長、31歳の巡査、神戸西警察署のパトカーから33歳の巡査部長、29歳の巡査の4名が駆けつけた。さらに通報から20分後に事件現場から一番近い有瀬交番から39歳の巡査部長、27歳の巡査が駆けつけた。浦中さんの友人は意識がもうろうとしたまま血だらけの状態で車から飛び出し、駆けつけた警官らに必死になって助けを求め、友人が車に乗せられているかもしれないと告げた。

しかし警官らは、浦中さんの友人が血だらけであり組長や組員らにも血が付着しているという状態にもかかわらず、組員らの車のナンバーを控えるのみで組長や組員らの身体検査や車を検めず、組長らが後日出頭すると言う言葉を信じ事件は解決したとその場を立ち去ってしまった。

なお警察への通報は他に2件あったものの、警官が仮眠していたという理由から通報から到着が16分、最寄りからは20分掛かったと説明している。また浦中さんは母親と同居であったため、警官が母親に男性が帰宅しているかの確認をし、浦中さんが帰宅していないことが判明したにもかかわらず確認を怠っていた。さらには浦中さんが押し込められた車の窓はスモークガラスでなかったため、目視で車内の確認をすれば浦中さんの姿が分かるにもかかわらずそれも怠っていた。

警官が立ち去った後、組長と組員と32歳組員など計6人が2km離れた空き地に浦中さんを連れ込み、浦中さんの体を縛った上に殴る蹴るの暴行を加えた。失神した浦中さんに水を掛けて意識を戻させさらに暴行を加えるなど拷問のような手口だった。

浦中さんは瀕死の状態で宝光芒川の浅瀬に放置され、翌日3月5日16時20分頃、遺体となって発見された。遺体の肋骨はほとんど折られ、右後頭部が割れクモ膜下出血で意識を失った形跡もあったが、死因は凍死だった。

浦中さんは組長らが立ち去ってから数時間生存していたと見られている。なお、リンチを行った後、37歳の組員が有瀬交番に出頭するも1時間ほどの事情聴取を行っただけで帰してしまった。

浦中さんの遺体発見から4日後の3月9日に組長らが逮捕、3月26日に事件に関与した9人目が逮捕された。
神戸大学院生リンチ殺人事件(佐藤高行)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年3月26日、神戸地検は組長 佐藤に無期懲役、他の組員ら6人に懲役21年を求刑、同年8月5日に組長 佐藤に懲役20年、河原、阿部、冨谷ら組員に10年から14年、谷に懲役3年、執行猶予4年を神戸地裁が言い渡した。

なお、兵庫県警は2002年4月4日に遺族に対し謝罪したが、警察内の処分が減給3ヶ月や訓戒など軽微な処分だったために苦情が殺到、2003年4月17日、遺族が管轄元の兵庫県や組長らを相手に1億4000万円の損害賠償訴訟を起こした。これを受けた兵庫県警は一転して、捜査は適切だったと主張するが、2004年12月22日、神戸地裁が「警察が適切に職務を果たせば男性は死なずに済んだ」と指摘、兵庫県や組長らに合わせて9736万円の賠償金支払いを命じた。兵庫県は不服として最高裁まで上告するが棄却された。

❖出所予定(年齢)
 佐藤高行・・・2034年3月頃、70歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 河原典之・・・2018年3月頃、46歳(出所(具体的懲役不明、最大14年と仮定))
 阿部盛靖・・・2018年3月頃、52歳(出所(具体的懲役不明、最大14年と仮定))
 冨谷利幸・・・2018年3月頃、51歳(出所(具体的懲役不明、最大14年と仮定))
 谷京子・・・無罪放免(懲役3年、執行猶予4年)

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国勢調査員殺害事件(犯人の男(当時25歳)・懲役18年)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1990年(平成2年)実施の第15回国勢調査において、非常勤の国家公務員として働いていた主婦が訪問先で殺害された事件である。

総務庁国勢統計課(当時)によると、1920年(大正9年)に国勢調査が始まって以来、国勢調査員が調査訪問先で殺害された事件は初めてのことであった。これに対して、国勢調査員に対する所管官庁の安全対策が不十分であるとの批判が起こり、その後の国勢調査では、国勢調査員に対してさらなる安全対策が講じられるようになった。

1990年10月8日に、広島県広島市安佐南区で国勢調査員として働いていた被害者(女性 当時36歳)が農道脇の竹やぶで死亡しているのが発見された。当初は外傷も無く滑落による事故死と思われていたが、司法解剖の結果、絞殺であることが判明した。翌日になり犯人の男(当時25歳)が出頭し逮捕された。供述によれば10月7日に男が家で一人でいるところに被害者が訪問したため衝動的に殺害したもので、深夜になり遺体を遺棄したというものであった。
国勢調査員殺害事件(国勢調査)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被告人になった男に対し、広島地裁は1991年4月26日に懲役18年を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2009年4月頃、43歳(出所)

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埼玉愛犬家連続殺人事件(関根元、風間博子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1993年(平成5年)に日本の埼玉県熊谷市周辺で発生した殺人事件。

●ペットショップの経営実態
一連の事件の首謀者は、犬猫販売業者の関根元(逮捕当時53歳)と、彼の元妻である風間博子(当時37歳)の2人である。2人は、埼玉県大里郡江南町(現:熊谷市)板井に在住し、風間がペットショップ「アフリカケンネル」の社長を務めていた。「アフリカケンネル」は、詐欺的な商売を繰り返しており、顧客らとの間でトラブルが絶えなかった。例として「子犬が産まれたら高値で引き取る」とうたい、犬のつがいを法外な価格で販売し、子犬が店に持ち込まれると、難癖を付けて値切るなどというものであった。

関根と風間は、アラスカン・マラミュートのブリーダーとして名が知られていた。しかし、バブル崩壊後の売り上げの減少に加え、豪華な新犬舎兼自宅の建設などにより、借金がかさみ、店の経営に行き詰まっていた。

●第一の事件
行田市に住む産業廃棄物処理会社役員 川崎昭男さん(当時39歳)は、犬を買うために「アフリカケンネル」を訪れたことからSと知り合い、親交を深めるようになっていった。当時、兄が経営する会社が傾いていたことから、新商売を模索していた川崎さんは、関根が勧める犬の繁殖ビジネスを手掛けることになり、「アフリカケンネル」からローデシアン・リッジバックのつがいを計1100万円で購入、うちメス犬を入手した。ところが、知人から犬の相場が数十万円であることや、高齢で繁殖に適さないことを知らされ、関根に騙されたことに気づいた。また、メス犬が逃げ出し、繁殖が不可能になったことから、残るオス犬のキャンセルと代金の返還を求め、トラブルとなった。当時、「アフリカケンネル」は金銭的に窮しており、関根と風間は川崎さんに金は返せないと判断し、謀議の上、川崎さん殺害を決意した。

1993年4月20日夕方、「金を返す」と言って熊谷市内のガレージに呼び出した川崎さんと、大型ワゴン車内で談笑中に、関根が硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽って飲ませ、殺害した。その後、ガレージに戻った同社役員 志麻永幸(当時38歳)に対し、関根は遺体を見せつけた上、「お前もこうなりたいか?」「子どもは元気か? 元気が何より」などと、志麻やその家族に危害を加えることを示唆して脅し、片品村の志麻方に遺体を運び込ませた。関根はそのまま遺体の解体作業に取り掛かる一方、志麻に対しては、ガレージに残された川崎さんの車を、都内に運ぶよう指示した。

志麻は熊谷に戻った後、関根と合流して2台の車で東京へ向かい、川崎さんの車を東京駅の八重洲地下駐車場に放置、川崎さんが自ら失踪したかのように偽装した。この偽装工作の最中、風間は志麻に対し「うまくいったの?」「あんたさえ黙っていれば大丈夫」などと言い、事情を全て知っているような素振りであった。

熊谷で風間と別れた後、再び志麻が片品に戻ると、既に川崎さんの遺体は解体されており、原型をとどめていなかった。21日早朝、関根の指示で骨や所持品をドラム缶で焼却。肉片などを川場村の薄根川に、焼いた骨灰や所持品を片品村の国有林に遺棄した。

一般に、一連の事件の動機は「犬の売買をめぐるトラブル」と言われるが、それが直接の動機になったのはこの川崎さんの事件だけである。

●第二の事件
江南町に住む稲川会系暴力団の組長代行 遠藤安亘(当時51歳)は、関根と親交を有し、「アフリカケンネル」で顧客とトラブルが発生した際に仲裁役を務めるなど、関根の用心棒的な存在であった。川崎さんの失踪後、関根に疑惑を向けた川崎さんの家族との会議に同席した際に、関根が川崎さんを殺害したのではないかと察知し、関根に多額の金銭などを要求するようになった。やがて、新犬舎の土地建物の登記済証を要求された関根と風間は、このままでは全財産を取られてしまうと危惧し、遠藤を殺害することを決意した。その際、遠藤と常に行動を共にしている運転手の和久井奨(当時21歳)も、口封じのために殺害しなければならないとの結論に達した。

1993年7月21日夜、関根と風間は志麻の運転する車で遠藤方を訪れた。関根と風間が遠藤方に上がり、志麻は遠藤方前に停めた車の中で待機していた。遠藤方内では、関根と風間が遠藤の要求に応じる振りをし、登記済証を遠藤に渡して油断させた上、硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽って遠藤と和久井に飲ませた。遠藤は間もなく倒れたが、和久井はしばらく薬効が現れなかったので、関根らは時間稼ぎのために「救急車を呼ぶ」と言って、和久井を誘導のために表通りに走らせた。その後、関根と風間はYの車に乗り込み、さらに表通りにいた和久井を乗せ、「遠藤が女を呼んでいる」と言って志麻に車を出させた。江南町内の荒川堤防沿いの人けのない道路を走行中、突然助手席の和久井が苦しみだし、フロントガラスにひびが入るほど激しく苦悶した後、絶命した。

遠藤方に戻って遠藤の遺体を車に積んだ後、3人は2台の車に分乗し、片品村の志麻方へ向かった。志麻方に運び込まれた遺体は、風呂場で遠藤、和久井の順に解体された。関根と風間が共同で解体し、志麻は包丁を研ぐなどして協力した。関根は志麻に解体作業を見せつけて脅し、また、風間は演歌を鼻歌交じりに歌いながら解体していたという。22日早朝、解体が終わると、風間は熊谷へ戻り、関根と志麻が骨や所持品の焼却に取り掛かった。肉片や骨灰などは、川場村の薄根川、片品村の塗川や片品川に遺棄した。
埼玉愛犬家連続殺人事件(人間の内面と筋肉, 筋肉組織の写真背景画像素材)

●第三の事件
行田市に住む主婦 関口光江さん(当時54歳)は、次男が「アフリカケンネル」で働くようになったことから関根と知り合い、親密な関係になった。しかし、新犬舎の建設や、稲川会系暴力団の組長代行 遠藤安亘(当時51歳)の強請などにより、「アフリカケンネル」が経営難に陥っていたことから、関根は自分に信頼を寄せる関口さんに「アフリカケンネル」の株主になるよう持ちかけ、出資金を詐取することを画策した。だが、いずれ株主話の嘘は露見し、そうなれば出資金ばかりでなく、過去に販売した犬の代金(アラスカン・マラミュート6匹、計900万円)の返還をも求められかねないことから、金を詐取した後で関口さんを殺害することを決意した。また、関口さんとの交際を煩わしく思うようになっていたことも、動機の一つとされる。

1993年8月26日午後、関根は行田市内で関口さんを車に乗せ、出資金の名目で、当時の関口家のほぼ全財産である270万円を詐取した後、硝酸ストリキニーネ入りカプセルを服用させ殺害した。関口さんは最後まで関根を信じていたという。関根から(川崎さん事件と同じ熊谷市の)ガレージに呼び出された志麻は、後から車で現れた関根にまたしても遺体を見せつけられ、迫られて遺体を片品村の自宅に運搬した。関根は川崎さんらと同様に関口さんを解体したが、志麻の著書によれば、その際、関根は屍姦を行ったという。解体後は骨や所持品を焼却。27日未明、全て同村の塗川に遺棄した。

この事件では、全面自供した志麻には関口さんと面識がなく、遺体となった際に関口さんと初めて対面した。そのため、志麻が被害者と面識があり、殺害の直前・直後に現場に居合わせた川崎さん事件、遠藤・関口さん事件と比較すると、立証が難しかった。また、風間が関与していた疑いは強いものの、志麻の目撃証言などからは立証できず、関根の単独犯行とされた。

●遺体なき殺人
一連の事件で特筆されるのは、関根が「ボディを透明にする」と呼んだ残虐な遺体の処理方法である。被害者4人の遺体は志麻方の風呂場で解体された。骨・皮・肉・内臓に分けられた上、肉などは数センチ四方に切断。骨はドラム缶で衣服や所持品と共に、灰になるまで焼却され、それらは全て山林や川に遺棄された。関根は、遺体を埋めても骨は残ることから、焼却してしまうことを考案。しかし、遺体をそのまま焼くと異臭が発生するため、解体して骨のみを焼却したという。燃え残りが出ないよう、1本ずつじっくり焼く念の入りようであった。

このことについて志麻は、関根が『面白い・楽しい』と語っていたと供述している。
埼玉愛犬家連続殺人事件(風呂場)
1994年1月、大阪愛犬家連続殺人事件の被疑者を逮捕。本事件とは無関係であるが、埼玉でも同様に愛犬家が失踪しているとの噂が流れ始めた。2月からはマスコミが取り上げるようになり、事件が表面化。関根が身の潔白を主張する一方、行方不明となった犠牲者の家族は事件性を訴え続けた。同年12月、志麻の証言を基に被害者の遺骨や遺留品を発見。1995年1月5日、関根と風間は逮捕された。
埼玉愛犬家連続殺人事件(関根元)
埼玉愛犬家連続殺人事件(風間博子2)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 物的証拠が極めて乏しい事件である上、関根・風間元夫婦が互いに罪をなすり付け合い、関根・風間・検察が三者三様の主張をした結果、公判は長期化した。また、捜査段階で全面自供し、事件解明に協力した志麻が、検察との密約を供述した上、関根・風間の公判で証言拒否の態度を示すなど、波瀾の展開となった。

1995年12月15日、志麻に懲役3年の実刑判決。Yが従属的な立場であったことは認められたものの、暴力や監視を受けていたわけではなく、口頭で脅されていたに過ぎず、警察に駆け込むなどの手段があり、期待可能性はあったとした。脅されたにせよ、自らの意思で犯行に及んだと認定。一連の事件での役割の重要性、結果の重大性を踏まえ、実刑判決となった。志麻は控訴したが、1996年6月7日、東京高裁が控訴を棄却。上告せず懲役3年が確定した。

志麻は懲役3年の実刑判決が確定し、服役。1998年8月28日に満期出所している。

2003年12月5日、東京高裁で控訴審初公判が開かれ、関根・風間の弁護側は一審判決の事実誤認を主張した。控訴審でも出所後の志麻が証人出廷したが、検察や弁護人への批判、裁判制度への疑問を呈したほかは、曖昧な証言に終始した。また、志麻は以前から風間の無罪を証言しているが、その具体的根拠は述べていない。2005年2月14日、控訴審第16回公判では、風間が遠藤・関根さん事件の死体損壊について、一部関与を初めて認めた。同年7月11日、東京高裁は元夫婦の控訴を棄却する判決を宣告した。両名とも上告したが、2009年6月5日、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は上告を棄却する判決を宣告。同月22日付で両被告人の判決訂正申立を棄却する決定がなされたことにより、2人とも死刑が確定した。

2016年11月、関根死刑囚が拘置所内で心臓発作を起こし、外部の病院に救急搬送された。その後、拘置所内で治療を受けていたが2017年3月27日、収容先の東京拘置所で死亡。享年75歳。

❖出所予定(年齢)
 関根元・・・死刑判決(死亡(病没))
 風間博子・・・死刑判決(未執行)
 志麻永幸・・・1998年8月、43歳(出所)

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埼玉県警察浦和警察署警察官による資産家強盗殺人事件(中野翔太)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2015年(平成27年)9月3日に埼玉県・朝霞市で発生した強盗殺人事件である。犯人が埼玉県警察の警察官 巡査部長 中野翔太(当時31歳)だったため、世間に大きな衝撃を与えた。

2015年(平成27年)9月4日、朝霞市根岸台の民家からの119番通報が入った。救急隊が到着したところ、1階居間で背もたれを倒した座椅子の上で、あおむけに横たわった寺尾俊治さん(当時58歳)を確認し死亡が判明した。第1発見者は、連絡がつかないことを不審に思い、訪問した寺尾さんの弟だった。

司法解剖の結果、死因は頸部圧迫による窒息死。体内からはエタノールが検出され、抵抗した形跡はなかった。また、1階の耐火金庫にあった筈の現金100万円も無くなっており、臨場した捜査員は「誰がどう見ても殺人事件」と思う現場だった。

殺人事件と断定した埼玉県警察は、朝霞警察署に捜査本部を設置。捜査本部は現場検証で、被疑者とみられる男の遺留物の採取に成功。また寺尾さん宅のインターホンには、留守かどうかを確認するためか、前日の3日にチャイムを複数回押す男の姿の画像が残されていた。その後「3日に寺尾さん方そばの月極駐車場に、1台の乗用車が止まっていた」という目撃情報が寄せられた。

インターホンの画像を調査したところ、浦和警察署地域課に勤務する中野巡査部長に酷似していた。また、目撃情報から割り出した乗用車の所有者は、中野の親族の自動車だった。捜査本部は、浦和署で勤務中だった中野を任意同行させ事情聴取を開始。最終的にDNAも任意で採取し、現場で遺留してたた物と一致したため、捜査本部は中野を殺人容疑で逮捕した。事件当日の9月3日、中野は宿直明けの非番で、4日以降は8月末に予め申請済みだった夏休みを取っていた。
埼玉県警察浦和警察署警察官による資産家強盗殺人事件(中野翔太)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2018年10月3日、埼玉県朝霞市の無職、寺尾俊治さん(当時58歳)が2015年(平成27年)9月、自宅で殺害された事件で、強盗殺人などの罪に問われた元県警浦和署巡査部長(懲戒免職)、中野翔太被告(34歳)について、最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)は、被告側の上告を棄却する決定をした。

❖出所予定(年齢)
 2048年10月頃、64歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(渡辺剛)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2013年1月28日に埼玉県久喜市で2012年12月末より行方不明であったスイス在住の51歳投資ファンドマネージャーの資産家の霜見誠さん(当時51歳)と妻の美重さん(当時48歳)の死体が見つかった事件。

この夫婦は2012年11月に日本へ帰国、会社の同僚に栃木県日光市で行われるパーティーに参加すると伝え、12月7日に東京都中央区銀座のマンションを出たのを最後に連絡が途絶えた。このパーティーには福山雅治も参加するとされていたが、実際にはパーティーすら実施されておらず、夫婦は嘘の話で誘い出された。

夫婦は、東京・銀座のマンションを出て主犯格の渡辺剛(当時43歳)の用意したワゴン車に乗り込んだ。そして車の中で用意されていた睡眠薬入りのシャンパンを飲み、眠ってしまう。渡辺は2人の首をロープで絞めて殺害。クレジットカード入りの財布など計8点、29万円相当を奪った。

埼玉県久喜市佐間の元農地に設置された囲いの中で、深さ約2mの穴に誠さんと美重さんの2人が埋められていた。誠さんにはビニールに入れられた粘土のようなもので殴られた痕があった。2人の遺体には首を絞められた痕があり、架空のパーティーに車で誘い出された後殺害され、同地に遺棄されたものと思われる。

死因は首を絞められたことによる窒息死であった。

渡辺は、誠さんと美重さんが遺棄された土地を犯行の前月に130~200万円で購入、重機を使用して男数人で穴を掘り、青いビニールシートで穴を覆っていた。渡辺は自己が所有する黒のワゴンタイプの外車(アメ車)で被害夫婦を連れ出し、犯行後遺棄現場に車を放置していた。

2014年1月29日に死体遺棄容疑で逮捕された無職・桑原隆明(当時41歳)とともに、沖縄県宮古島市に逃走していた渡辺剛(当時43歳)が潜伏先の宮古島で洗剤を飲んで自殺を図り、同市内の病院に搬送されたが生命に別条はなかった。
埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(霜見誠さんと美重さん)
埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(構図2)
埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(死体遺棄場所2)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2014年9月19日、東京地方裁判所の田辺三保子裁判長は、渡辺に対し、強盗殺人罪を適用して、死刑を言い渡した。2018年12月21日、最高裁判所第2小法廷の鬼丸かおる裁判長は、元会社役員の渡辺の上告を棄却、死刑が確定した。2023年現在、東京拘置所に収監されている。

元部下・桑原は、殺害に関与した事実はないとされ、詐欺未遂罪のみでの起訴となった。
詐欺未遂罪に問われた無職・桑原隆明(当時41歳)に東京地裁は2013年8月9日、懲役2年、執行猶予4年(求刑懲役2年)の判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 渡辺剛・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
 桑原隆明・・・無罪放免(懲役2年、執行猶予4年)

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堺市通り魔事件(北口誠)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1998年(平成10年)1月8日に大阪府堺市で起こった殺人事件である。

1998年(平成10年)1月8日8時50分ごろ、大阪府堺市宮下町および堺市津久野町3丁の路上で上半身裸になった無職 北口誠(当時19歳)が、登校中だった女子高校1年生 脚ノあいさん(当時15歳)の服をつかみ、背中など4か所を所持していた包丁で刺した。男は逃亡する女子高生を追いかけ、現場から約100m離れた路上で幼稚園の送迎バスを待っていた女児 大国加奈ちゃん(当時5歳)と母親の佳美さん(当時36歳)背中を刺した。女児は死亡、女子高生と母親は重傷を負った。大阪府西堺警察署は、現場近くの空き地にいた男を、殺人未遂容疑で緊急逮捕した。

男はシンナー中毒であり、事件当日も吸引して幻覚状態に陥っていた。1997年(平成9年)11月には、家の中で暴れて、家族の申し出で西堺署が保護したことがあった。
堺市通り魔事件(大国加奈)
堺市通り魔事件(北口誠)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 男はシンナーによる幻覚状態であったとして、刑事裁判では心神喪失を理由に無罪を主張したが、2000年(平成12年)2月24日、大阪地方裁判所堺支部は、犯行当時の精神状態を心神耗弱と判断し、懲役18年(求刑無期懲役)を言い渡した。加害少年は心神喪失を主張し、控訴・上告したが、いずれも棄却された。2002年(平成14年)2月14日、加害少年に懲役18年の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2020年2月頃、40歳(出所)

❖新潮社による実名報道
 1998年(平成10年)2月18日発売の、新潮社の月刊誌『新潮45』3月号は、ノンフィクション作家の高山文彦による全16頁に及ぶ「『幼稚園児』虐待犯人の起臥」のルポルタージュを掲載した。その中で、少年の生い立ちから犯行に至る経緯、家族関係に加え、中学校卒業時の顔写真並びに実名を掲載した。さらに記事の後には、実名報道と顔写真を掲載した、新潮45編集部の見解も記した。

少年の弁護団は「重大な人権侵害行為」であり、販売中止と回収を求める抗議声明を出した。東日本キヨスク、西日本キヨスク、一部書店では少年法に違反する、として販売を中止した。

4月30日、少年と弁護団は、少年法61条に抵触した記事で名誉を傷つけられたとして、新潮45の編集長と記事を書いた高山文彦を、名誉毀損の疑いで告訴状を大阪地方検察庁に提出した。また同日、2名と新潮社を相手取り、2,200万円の侵害賠償などを求めて大阪地方裁判所に提訴した。少年法61条違反をめぐる告訴・提訴は、日本で初めてとなった。

1999年(平成11年)6月9日、損害賠償訴訟について大阪地方裁判所は、実名を報道した新潮45の記事が少年法に違反し、記事に公益性がないと指摘。さらに新潮社の写真週刊誌『FOCUS』が神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年の顔写真を掲載するなど、過去に法務局から再発防止の勧告を受けていたケースを挙げて実名報道したのは悪質であると判断。慰謝料に200万円、弁護士費用に50万円を算定し、計250万円の支払いを命じた。謝罪広告掲載の請求は棄却した。

2000年(平成12年)2月29日、大阪高等裁判所は少年法61条について、罰則を規定していないことなどから、表現の自由に優先するものではなく、社会の自主規制に委ねたものであり、表現が社会の正当な関心事で不当でなければ、プライバシーの侵害に当たらない、と条件付きながら実名報道を容認する判断を示した。そして今回の記事について違法性はなく、少年の権利侵害には当たらない、そして男性の更生の妨げになることを男性側は立証していないとして、賠償を命じた一審・大阪地裁判決を破棄し、男側の訴えを棄却した。加害者が未成年であっても、場合によっては実名報道出来る初めての判決となった。

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堺市連続強盗殺人事件(西口宗宏)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年(平成23年)11月から翌12月にかけて大阪府堺市で発生した連続殺人事件。

2011年11月15日、大阪府堺市南区に住む歯科医師の妻・田村武子さん(当時67歳)が買い物帰りに失踪し、翌日ATMで主婦の口座から現金が引き出された。12月1日、同市北区の象印マホービン元副社長の尾崎宗秀さん(当時84歳)の自宅で尾崎さんが結束バンドで拘束され顔に食品用ラップが巻かれた状態で発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。自宅からは所有マンションから集金した家賃計74万円が無くなっていた。

12月6日、主婦の口座から現金を引き出した容疑で同市に住む西口宗宏(当時50歳)を窃盗罪で逮捕した。取り調べで西口は2人を殺害し、主婦の遺体を焼却して河内長野市の山中に遺棄し、それぞれ現金を奪ったことを認めたため、大阪府警察は翌2012年2月14日に西口を強盗殺人罪、死体遺棄・損壊罪で起訴した。3月15日には尾崎さんに対する強盗殺人罪でも起訴された。
堺市連続強盗殺人事件(西口宗宏)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2019年2月12日、最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人西口とその弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人西口の死刑が確定することとなった。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(大阪拘置所収監中、死刑未執行)

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佐賀入院患者射殺事件(今田文雄)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)11月8日に佐賀県武雄市で、整形外科病院に入院中の男性が暴力団組員に射殺された事件。一般市民が暴力団抗争に巻き込まれ、人違いで殺害された。武雄入院患者射殺事件、武雄事件とも呼ばれる。

2007年11月8日7時40分ごろ、佐賀県武雄市の整形外科病院の2階個室に入院していた板金業の宮元洋さん(当時34歳)が、指定暴力団道仁会(福岡県久留米市)系の組員の今田文雄(当時61歳)に拳銃で撃たれ、間もなく死亡した。その後、組員の男は白いセダンで逃走した。

宮本さんは、10月上旬にラグビーの試合でアキレス腱を断裂し、入院していた。その後は順調に回復し、退院を目前にしていた。

11月25日、今田が福岡県大野城市で回転式拳銃を所持していたとして銃刀法違反の疑いで佐賀県警察に逮捕された。事前に佐賀県警が犯行への関与を特定し、22日に逮捕状を取って行方を探している最中だった。車から降りた今田を自動車警ら隊員が職務質問をして揉み合い後、そこで回転式拳銃を取り出し上空に向けて1発撃った所で取り押さえられ逮捕された。今田は、女(当時44歳、後に共犯として逮捕)と共に事件を計画したが、誤情報により、被害者の病室に以前入院していた九州誠道会関係者と間違えて射殺したこと、同年8月には福岡県福岡市路上で起きた3代目道仁会会長殺害に対しての報復として実行したことを自供している。
佐賀入院患者射殺事件(今田文雄)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)も2010年(平成22年)3月8日付で上告を棄却する決定を出したため、無期懲役が確定した。2014年(平成26年)8月13日、今田文雄は大阪医療刑務所で病死した(享年67歳)。

❖出所予定(年齢)
 死亡(病没)

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相模原障害者施設殺傷事件(植松聖)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2016年(平成28年)7月26日未明に神奈川県相模原市緑区で発生した大量殺人事件。

神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員であった植松聖(うえまつ さとし、事件当時26歳)が、同施設に刃物を所持して侵入し入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。殺人などの罪で逮捕・起訴された加害者・植松は、2020年(令和2年)3月に横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を言い渡され、自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した。

殺害人数19人は、当事件が発生した時点で第二次世界大戦(太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としては最も多く、事件発生当時は戦後最悪の大量殺人事件として日本社会に衝撃を与えた。相模原殺傷事件、相模原障害者殺人事件、相模原障がい者施設殺傷事件 、津久井やまゆり園事件などとも呼ばれる。

2016年7月26日午前2時38分、相模原市緑区千木良の知的障害者施設「神奈川県立津久井やまゆり園」から神奈川県警察・相模原市消防局にそれぞれ「刃物を持った男が暴れている」との通報があった。事件に気づいた施設の当直職員が、非番の男性職員にLINEを使って「すぐ来て。やばい」と連絡を取り、連絡を受けた男性職員が電話で確認のうえ警察に通報した。現場に駆けつけた医師が19人の死亡を確認し、重傷の20人を含む負傷者26人が6か所の医療機関に搬送された。

死亡したのは、いずれも同施設の入所者の男性9人(年齢はいずれも当時41歳 - 67歳)、女性10人(同19歳 - 70歳)である。死因は19歳女性が腹部を刺されたことによる脾動脈損傷に基づく腹腔内出血、40歳女性が背中から両肺を刺されたことによる血気胸、残り17人が失血死とされ、遺体の多くは居室のベッドの上で見つかっていたことから、植松が寝ていた入所者の上半身を次々と刺したとみられる。

また、負傷したのは施設職員男女各1人を含む男性21人、女性5人で、うち13人は重傷を負った。入所者24人の負傷内容は全治約9日 - 約6か月間の胸への切り傷や両手の甲への打撲などとされる。被害者の名前について、神奈川県警は同26日、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしている。

これについて「日本では、すべての命はその存在だけで価値があるという考え方が当たり前ではなく、優生思想が根強いため」と説明する被害者家族、本人が生きた証として名を公表する遺族、匿名であるため安否が分からず自分なら公表してほしいとする入所者の友人、根底に障害者差別があるとするなど様々な意見がある。

午前3時すぎ、現場所轄の津久井警察署に加害者の男、植松聖(犯行当時26歳、元施設職員)が「私がやりました」と出頭し、午前4時半前、死亡した19歳の女性入所者に対する殺人未遂・建造物侵入の各容疑で緊急逮捕された。

犯人の植松聖。
相模原障害者施設殺傷事件(植松聖)
事件のあった「神奈川県立津久井やまゆり園」。事件の後に新しく建て替えられた。
相模原障害者施設殺傷事件(旧・神奈川県立津久井やまゆり園)
亡くなられた19人の方々。ご冥福をお祈り申し上げます。
相模原障害者施設殺傷事件(亡くなった19人の方々)
新しく建て替えられた「神奈川県立津久井やまゆり園」。
相模原障害者施設殺傷事件(新・神奈川県立津久井やまゆり園)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 判決公判は2020年3月16日に開かれ、横浜地裁(青沼潔裁判長)は被告人(植松聖)の完全責任能力を認定した上で、求刑通り植松に死刑判決を言い渡した。植松は閉廷宣言直後に挙手して裁判長に発言機会を求めたが認められず、閉廷後に『神奈川新聞』記者との接見で「『世界平和のためにマリファナが必要』と伝えたかった」「重度障害者の家族は病んでいる。『幸せだった』という被害者遺族は不幸に慣れているだけだ」などと発言した。

また「死刑に値する罪とは思わないが控訴はしない。弁護人が控訴しても自分で取り下げる」と意思表明していたが、弁護人は2020年3月27日付で判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。しかし植松自身が控訴期限となる2020年3月30日付で東京高裁への控訴を取り下げる手続きを行い、横浜地検も控訴しなかったため、控訴期限を過ぎる2020年3月31日0時(日本標準時)をもって死刑が確定した。

一方、植松の弁護人は2020年4月2日付で控訴取り下げの無効を求める書面を横浜地裁に提出した。しかし、この異議申し立てについては東京高裁から2022年(令和4年)5月および9月に棄却決定(控訴取り下げは有効と判断する決定)が出され、同年12月12日付で最高裁第三小法廷(長嶺安政裁判長)が弁護側の特別抗告を棄却する決定を出したため、高裁決定が確定している。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)

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佐世保小6女児同級生殺害事件(辻菜摘)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)6月1日、長崎県佐世保市立大久保小学校で発生した殺人事件である。

2004年6月1日正午過ぎ、長崎県佐世保市立大久保小学校において小学6年生の御手洗怜美さん(当時12歳)が同級生の辻菜摘(当時11歳)にカッターナイフで切り付けられて死亡した。

事件を発見した担任は止血を試み、教頭は119番通報をした。駆けつけた救急隊員が教師に対し現場状況について尋ねたところ、教師が現場付近にいた辻を連れてきた。隊員が御手洗さんがなぜ怪我をしているのか尋ねると、「私がカッターで切りました」と答えたため、警察は辻を佐世保警察署に移動させ事情聴取を行った。
佐世保小6女児同級生殺害事件(御手洗怜美さん)
佐世保小6女児同級生殺害事件(辻菜摘)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年6月8日、長崎家庭裁判所佐世保支部が少年審判を開くことを決定。14日に精神鑑定留置を認め、8月14日までの61日間鑑定留置された。

9月15日、長崎家庭裁判所佐世保支部で最後の少年審判が開かれ、加害者を児童自立支援施設送致とし、2004年9月15日から向こう2年間の強制的措置を取れる保護処分を決定した。

❖出所予定(年齢)
 2006年9月頃、14歳、すでに退院(児童自立支援施設にて2年の保護処分)

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佐世保女子高生殺害事件(徳勝もなみ)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年(平成26年)7月26日、長崎県佐世保市で発生した殺人事件である。

2014年(平成26年)7月26日の夜、長崎県佐世保市島瀬町のマンションで友人の家に遊びに出かけた女子高校生  松尾愛和さん(当時15歳)が殺害された。

松尾さんは以前から徳勝もなみ(当時15歳)に「会いたい」と誘われており、26日午後3時頃、家族に友人と遊ぶと伝えて徳勝の家(マンション)へ遊びに出かけた。2人は佐世保市内の繁華街で買い物を楽しんだ後、徳勝のマンションに戻った。

午後6時40分頃、松尾さんの母親宛に「7時ごろに帰る」とメールが届いたがその後帰ってこなかった。そのため数日前に遊びに行くと聞いていた両親は徳勝に電話をした。これに対して徳勝は「午後6時半くらいに別れた」と答えている。その後両親は午後11時頃に捜索願を提出した。

午後8時ごろ、松尾さんの後頭部を工具で複数回殴り、リードで首を絞めるなどして殺害した(徳勝が供述)。被害者の死因は頸部圧迫による窒息死であった。

27日午前3時20分ごろ、行方を探していた警察官が徳勝のベッドで仰向けに寝かされて死亡している松尾さんを発見した。マンションの入口付近にいた徳勝は当初は松尾さんについて「知らない」と答えていたが、その後、殺害を自供したため緊急逮捕された。

遺体は、仰向けの状態で頭と左手首が切断されており、胴体部分に刃物で切ったとみられる複数の傷と腹部が大きく切り開かれていた。

徳勝は「体の中を見たかった」「人を殺して解体してみたかった」などと供述しているが、2人の間の具体的なトラブルなどは確認できなかったとしている。そのため長崎県警察は7月29日午前に「2人の間にトラブルがあったとみられる」と公表していたが、同日午後には「間違いだった」と訂正している。取り調べに「殴ってから首を絞めた。すべて私が1人でやりました。誰でも良かった。」と犯行を認めるものの、受け答えは淡々と様子で応じていた。

10月5日、徳勝の父親が自宅で首を吊った状態で死亡しているのが発見された。発見したのは父親の知人で、遺書はなく、自殺とみられる。
佐世保女子高生殺害事件(徳勝もなみと父親)
佐世保女子高生殺害事件(松尾愛和さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2015年(平成27年)7月13日、長崎家庭裁判所は徳勝に対し、医療少年院(第3種少年院)送致とする保護処分の決定を出した。平井健一郎裁判長は「ASD(自閉症スペクトラム障害)が見られるものの、それが非行に直結したわけではなく、環境的要因の影響もあった」との趣旨のことを述べた。

❖出所予定(年齢)
 不明(2024年説があるが真偽不明)(第3種少年院にて保護処分中)

◆第3種少年院とは
 保護処分の執行を受ける者であって、心身に著しい障害がある、おおむね12歳以上26歳未満の者が対象です。改正前の医療少年院に相当します。

◆小さい頃からサイコパスの片鱗を見せる

 小学6年生時の2010年頃には、同級生の給食に薄めた洗剤や漂白剤、ベンジンを混入するいたずらをくり返すなどの問題を起こしていた。中学生の頃から医学書を読んだり動物の解剖に熱中しており、その頃から猫を解体したりしていた。

2013年(平成25年)10月に実母がガンで亡くなっている。以降は、不登校が続いていた。

2014年(平成26年)3月に寝ていた父親を金属バットで殴打した事から、精神科に通院している。医師から「同じ家で寝ていると命の危険がある」と助言された父親は、事件現場となるマンションにて4月から加害者に一人暮らしをさせていた。高校でも不登校が続き、1学期のわずか3日のみ出席していた。

5月、父親が再婚する。幼馴染によると、加害者は「(父と継母とは)一緒に住みたくない」と言っていたという。

7月23日、加害者は継母との会話の中で、猫を殺して楽しいことや「人を殺したい」などとする願望を打ち明けていた。そのため診療で殺人願望を医師に伝えていだが「今日は時間がない」としてその日の診療を終わっている。後に書面上で父親が医師に切迫感がないと指摘している。(ただし、弁護士は「あくまで父親本人が書いていることだ」として病院側は確認していないとしている。)

事件前日の25日に両親が病院と入院の協議をしたが、病院からは「入院は施設の事情で即日の入院ができない」「個室はあるがその一つを独占することになる」と言われ実現しなかった。

事件の20日前には警察への相談を打診したが事件前日の話し合いで見送り、児童相談所に連絡を取ることで意見がまとまった。その日に児童相談窓口のある『佐世保こども・女性・障害者支援センター』に電話相談したものの、勤務時間外であり担当者が不在だったため、職員から「今日はサマータイムで終わった。月曜日(28日)にしてくれ」と断られていた。

その翌日26日に事件が起こる。
佐世保女子高生殺害事件(徳勝もなみ)

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札幌光星学園神父刺殺事件(中村勝彦修道士)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年3月7日、当時のカトリック教会マリア会の日本管区長であった神父 吉村新一郎さん(当時60歳)は、年度末巡礼で札幌光星学園を訪れていた。その時に札幌光星学園の修道院の前で、この訪れていた吉村神父が腹から血を流して倒れているところが発見される。修道院には部外者は入れないため、これは内部の者による犯行ではないかと思われ関係者を集めたところ、札幌光星学園の修道士 中村勝彦(当時63歳)の姿が無かった。この中村修道士は吉村神父を刺殺した後、修道院の自室で内側から鍵を掛けて、包丁で腹を刺して自殺していた。

犯行の2時間前に吉村神父と中村修道士が図書館で話しをしていた。この様子はかなり剣呑(けんのん、危険を感じている様子や不安を感じている様子)であった。自殺をした中村修道士の部屋にはメモが残されていた。これには人事異動に対する不満と、吉村神父を許せないことと、自身はしてはならないことをしてしまったことが書かれていた。自殺した中村修道士は元々は刺殺された吉村神父よりも上の立場にいる人間であった。だが1990年に刺殺された吉村神父は日本管区長に選出されたことから立場は逆転していた。刺殺された吉村神父は自殺した中村修道士に東京の修道院への異動を強く迫っていた。

自殺した中村修道士の救急車での最後の言葉は「札幌が好きだった」であった。

後日、中村修道士と吉村神父の救いを祈るレクイエムのミサが札幌光星学園の聖堂で催され、暁星学園卒業の教え子も参加した。
札幌光星学園神父刺殺事件(吉村新一郎神父と中村勝彦修道士)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 死亡(自殺)

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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札幌准看護婦殺人事件(50代男性患者)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年12月21日深夜に北海道札幌市の精神病院で、50代男性患者が病院を抜け出そうとして、シーツで破った帯状の布で准看護婦の両手足を縛り、口と鼻を布などでふさぎ、首を絞めて窒息死させる事件が発生した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 検察官は被疑者が犯行当時心神喪失状態だったとして不起訴処分とした。

不起訴処分に対し、被害者の遺族が審査申し立てを行った。札幌検察審査会は法律上は被害者の遺族に申立権はないとして申立は却下する一方で、職権により審査を開始した。被疑者の男性は1993年1月21日に、脱院時に詰所の電話線を切断したり、自分の布団にヤカン等を入れて寝ているように見せかけたり、脱院後に立ち寄ったコンビニで購入したビール等の代金を友人から借りて支払ったりしていた。このことから、心神喪失状態であったと断定するのは大いに疑問があるとして、1993年1月21日に不起訴不当の議決をした。

この議決を受け、検察官は再捜査の結果、被疑者の男性を起訴した。弁護士側は責任能力はなく殺意はなかったと主張したが、1995年3月22日に札幌地裁は「帯状の布を被害者の鼻に巻き付け、絞殺時にも手加減を加えていないこと等から殺意は推認できる」「著しい精神障害はなく、善悪を判断することができた」として被告人の殺意と責任能力を認めた上で、懲役10年の判決を言い渡した。被告人は控訴して殺意の有無が争点になるも、1995年10月26日に札幌高裁は殺意を認定して控訴を棄却して刑が確定した。

懲役10年は検察審査会が議決した後で検察官が起訴した事件の中で最も刑が重いものである。

❖出所予定(年齢)
 2005年10月頃、60代?(出所)

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札幌両親強盗殺人事件(安川奈智)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年11月22日に北海道札幌市北区で発生した強盗殺人事件。実の娘が男と共謀して両親を殺害した事件である。

犯人の男 安川奈智(当時24歳)と池田真弓(当時19歳)は、1991年の5月下旬頃に知り合った。イベントコンパニオンのオーディションに池田が応募したのだが、その時の面接を担当したのが安川だった。

池田は採用となったが、仕事が始まる前に札幌市中央区の安川の自宅(兼事務所)を訪れた。その際、睡眠薬を飲まされ、眠っている間に強姦される。本来ならこれは犯罪で大騒ぎとなるところだが、このことをきっかけに2人は交際を始めた。

当時の池田には高校時代からの恋人がいて、彼女はこの男性の子を妊娠していた。ところが安川との交際から2か月後の7月、真弓は堕胎している。

その後8月から安川の部屋で同棲を始める。安川はイベント会社社長、池田は大学1年生であった。ほどなくして安川の会社経営は行きづまり、当面の生活費にも困るようになる。安川はほとんど仕事をせず、池田のホステスとしての収入で生活していたという。

後に法廷で、「安川と知り合わなければ、このようなことにならなかった」と真弓は語った。結果から見ればまったくその通りだが、2人は惹かれ合っていった。

2人でいるときは、どこに出かけるでもなく、1日に5、6回も、安川は真弓の体を求めた。安川は、尋常でない性癖の持ち主だった。

真弓を縛り、ガムテープで口を塞ぎ、性器に、ナスビやキュウリ、カラオケのマイクさえも入れる。一晩中、SMの道具で吊して弄んだり、自分の尿を真弓に飲ませることもあった。

アザができるほど殴られることもしばしばあり、"なぜ離れなかったのか?"と疑問に思うが、真弓は当時の心境を法廷で語っている。

「私は両親がいくら心配していようと、奈智さんと生活できればよかった。別れることなんてできないし、あの人を手伝わなければならない。そう思うようになっていた」

その後、池田の父親 池田勝明さん(当時45歳)と母親 泰子さん(当時45歳)に二人の居所を突き止められたため、強盗目的に加え邪魔な存在を消すため、安川は池田真弓に両親の殺害を提案。池田もこれに同意し、11月22日未明 池田さん宅に侵入し、勝明さんと泰子さんを包丁で刺すなどし殺害。

1992年1月6日まで(裁判では1991年12月17日までと認定された)に保険金を解約したり、勝明さんと泰子さんの自宅にあったものを売り払う等で計680万円(裁判では458万円余と認定された)を得ている。また、12月1日にはAとB遺体を車ごと燃やし東区中沼町の湿地帯の地中に遺棄し、自殺に見せかけるため偽の遺書を作る等隠蔽工作を行ったが、1992年1月26日に勝明さんと泰子さんの遺体が発見されその日の夜に安川と池田は逮捕された。
札幌両親強盗殺人事件(安川奈智)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 札幌地方裁判所は池田側の無罪主張を退け、池田真弓に対し無期懲役(求刑・無期懲役)を言い渡した。

池田は判決を不服として札幌高等裁判所に控訴した(検察側は控訴しなかった)が、後に安川の無期懲役判決に対し検察側・安川側の双方が控訴した(後述)ことにより池田と安川が同一裁判体(統一公判)で審理されることになった、両親(勝明さんと泰子さん)に償いをしたい、などの理由から、池田が自ら控訴を取り下げ、1994年3月29日に無期懲役の一審判決が確定した。

そして最高裁判所は死刑を求めた検察側の上告を棄却。1999年(月不明)に安川奈智の無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 池田真弓・・・2024年3月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 安川奈智・・・2029年(月不明)頃、62歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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座間9人殺害事件(白石隆浩)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年(平成29年)10月30日に行方不明になっていた田村愛子さん(当時23歳)を捜査する過程で発覚し、翌31日までに9人の遺体が見つかった死体遺棄事件であり、その後、犯人の男 白石隆浩(逮捕当時27歳)の逮捕後尋問にて白石が単独実行したことが発覚した連続殺人事件である。

2017年10月31日にSは逮捕され、以降、S自身の供述および司法解剖の結果、さらに複数人の殺人・死体遺棄容疑で再逮捕された後、9人に対する強盗・強制性交等罪、強盗殺人罪、死体損壊・遺棄罪で起訴された。

白石隆浩(逮捕当時27歳)は2017年2月6日には職業安定法違反(有害業務の職業紹介)の疑いで茨城県警生活環境課と鹿嶋警察署に逮捕され、2月に起訴された。2017年3月に保釈された白石は、実家で父親と2人暮らししながら倉庫会社でアルバイトをするが、その際に「父親のもとを早く離れたい」「女性のヒモになりたい」と考え、スカウト業の経験から、自殺志願者は言いなりにしやすいと思いつく。2月15日、白石はTwitterアカウントを開設して「自殺したい」などと嘘のツイートをするようになり、Twitterを利用して自殺願望を持つ女性たちと交流することを開始している(後述)。この時期からSはインターネットで自殺に関する知識を得ており、自身の知識が増えると共に自身の(自殺に関する)話に興味を持つ相手が増えたことも供述している。

白石は被害者を誘い出す口実にも「一緒に死のう」と呼びかけてはいたが、実際に自分も共に自殺するつもりはなかった。

解体に用いた道具としてのこぎりなどを準備しており、これをアパート入居前に遺体の解体準備として事前に購入していた。遺体の切断方法についてもスマートフォンを利用して検索し調べていた。

その後、白石は2017年8月22日に同アパートに入居して以降、Twitterでメッセージを送った女性らを自宅に招き入れ、睡眠薬・酒を飲ませた後に殺害した。殺害方法は、ロフトから垂らしたロープで首を吊って絞殺した。

最後の被害者となった八王子市内の田村愛子さん(事件当時23歳)は、10月21日に勤務先の福祉作業所の同僚が女性宅を訪れて面会したのを最後に行方不明となっていた。10月23日にJR八王子駅と、Sが賃貸したアパートに近い小田急小田原線相武台前駅の防犯カメラに2人が共に撮影されている。

10月24日に被害者の兄が警視庁高尾警察署に捜索届を提出し、これ以降同署は捜査を開始していた。この際に後述のTwitterで、逮捕時に囮役を行った女性が兄へ白石の情報を提供している。

10月30日になり、兄に情報提供した女性が警視庁のおとり捜査に協力。白石をJR町田駅に誘い出し、行けなくなりましたと連絡。移動を始めた白石を捜査員が尾行し、自宅アパートの特定に至った。異臭が漏れるアパートに捜査員が踏み込むと、室内で遺体の一部が入っていた多数のクーラーボックスを発見。警視庁捜査一課は翌日31日にSを死体遺棄容疑で逮捕し、事件発覚直後には高尾署に捜査本部を設置した。
座間9人殺害事件(白石隆浩)

◆被害者
 上段(何件目・発生日・被害者(年齢))
 中段(住所・職業)
 下段(経緯)

 1~2件目:強盗・強制性交等殺人、体損壊・死体遺棄罪
    3件目:強盗殺人死体損壊・死体遺棄罪
 4~9件目:強盗・強制性交等殺人、死体損壊・死体遺棄罪

・1件目 2017年8月23日ごろ 三浦瑞季(みうらみずき)さん(当時21歳)
 神奈川県厚木市・人材派遣会社
 「アパートの入居費に充てるため」に三浦さんから借りた現金36万円の返済を免れる目的で三浦さんの殺害を決意し、三浦さんに性的暴行を加えた上、自宅アパートにて女性をロープを使用して首を絞めて殺害し現金数万円を奪った。

・2件目 2017年8月28日ごろ 石原紅葉(いしはらくれは)さん(当時15歳)
 群馬県邑楽郡邑楽町・群馬県立西邑楽高校高校1年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・3件目 2017年8月30日ごろ 西中匠吾(にしなかしょうご)さん(当時20歳)
 神奈川県横須賀市・障害者支援施設に就職・バンドマン
 自宅アパートにてロープで首を絞めて殺害し、現金数千円を奪った。殺害動機は「男性と面識があった厚木市の女性が殺害されたことが男性に発覚するのを恐れたため」だった。

・4件目 2017年9月16日ごろ 更科日菜子(さらなしひなこ)さん(当時19歳)
 埼玉県所沢市・実践女子大学の大学2年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数百円を奪った。

・5件目 2017年9月24日ごろ 藤間仁美(ふじまひとみ)さん(当時26歳)
 埼玉県春日部市・職業不明
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・6件目 2017年9月28日ごろ 須田あかり(すだあかり)さん(当時17歳)
 福島県福島市・福島県立安達高校の高校3年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・7件目 2017年9月30日ごろ 久保夏海(くぼなつみ)さん(当時17歳)
 埼玉県さいたま市・上尾南高校の高校2年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・8件目 2017年10月18日ごろ 丸山一美(まるやまかずみ)さん(当時25歳)
 神奈川県横浜市・コンビニバイト
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数百円を奪った。

・9件目 2017年10月23日ごろ 田村愛子(たむらあいこ)さん(当時23歳)
 東京都八王子市・職業不明
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数百円を奪った。
座間9人殺害事件(被害者9人)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2020年12月15日に判決公判が開かれ、東京地裁立川支部(矢野直邦裁判長)は「被害者は殺害を承諾していなかった。また犯行時、被告人 白石隆浩(逮捕当時27歳)は刑事責任能力を有していた」と認定し、求刑通り被告人 白石に死刑判決を言い渡した。

被告人 白石は仮に死刑判決を受けても控訴しない意向を表明していたが、弁護人(主任弁護人:大森顕)は判決を不服として、12月18日に東京高等裁判所へ控訴する手続きを取った。しかし、被告人 白石が12月21日付で東京高裁への控訴を取り下げたため、控訴期限の翌2021年(令和3年)1月5日0時をもって、白石の死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)

◆事件現場のアパートは?

 事件現場となったのは「シーバスハイム205」です。住所の「座間市緑ヶ丘6丁目16-15」を検索すると、事件現場のアパートの画像や物件情報を今でも閲覧できます。

こちらには現在、千葉県から移住してきた男性が暮らしているそうです。

男性は家賃がなんと月に1万1,000円だと話しています。住宅街のアパートの家賃としては、かなり破格の値段です。
座間9人殺害事件(アパート)

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JT女性社員逆恨み殺人事件(持田孝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年(平成9年)4月18日夜に東京都江東区大島六丁目の団地で発生した殺人事件。

1989年(平成元年)12月に強姦致傷事件などを起こし、懲役7年の刑に処された持田孝(本事件当時54歳)が、同事件の被害者である鹿沼京子さん(本事件当時44歳:日本たばこ産業 (JT) の社員)が被害を警察に届け出たことを逆恨みし、出所後に鹿沼さんを刺殺した事件である。本事件はマスメディアにより「逆恨み殺人事件」「お礼参り殺人事件」などとして大きく報道され、近隣住民に恐怖感を与えるとともに、一般社会にも大きな不安感・衝撃を与えた。

持田孝(当時47歳)は1989年12月19日午前1時頃、江東区大島六丁目のバス停付近でタクシーを待っていたところ、タクシーから下車する女性を見かけた。女性は日本たばこ産業(JT)の社員・鹿沼京子さん(当時37歳)で、酒に酔っているようだった。

持田が鹿沼さんを飲みに誘ってみると、彼女は酔った勢いなのかこれに応じ、2人は大島六丁目団地から徒歩2、3分の距離にある飲食店で酒を飲んだ。

持田はこの時の会話から、鹿沼さんの仕事や大島六丁目団地でひとり暮らししていることを知った。

午前2時頃に店を出ると、持田は鹿沼さんをホテルに誘った。しかし彼女はこれを断りつつ、警戒して自宅とは別方向に歩いたが、持田はつきまといながらしつこく誘い続けた。そして、鹿沼さんが団地脇の暗がりに差し掛かったところで、突然抱きついてキスを迫った。

鹿沼さんは腕を振り払って逃げようとしたが、持田は首を両手で絞めつけて失神させた。さらに性的快感を高めるため、落ちていた電気コードで首を強く絞め、鹿沼さんを強姦した。この暴行で鹿沼さんは首に全治約2週間の怪我を負った。

鹿沼さんを襲ったあと、持田は彼女の財布などが入ったショルダーバッグを盗み、半裸で失神した状態の鹿沼さんをそのまま放置して逃走した。その後、鹿沼さんは現場で倒れているところを通行人に発見されたが、意識が回復してからも「自分が強姦されたかどうか」もわからない状態だった。

ショルダーバッグに入っていた手帳から鹿沼さんの電話番号を知った持田は、数日後、彼女に電話した。用件は、「強姦された」ことをネタに金を強請ることだった、「そっちの出方次第では、強姦されたことを会社の人にバラす」「警察に言えばどんな目に遭うかもしれないぞ」などと脅して10万円を要求、12月29日10時に大島駅(都営地下鉄新宿線)の改札口付近で現金を受け渡すよう指定した。

鹿沼さんは被害に遭ったことを家族にさえ打ち明けていなかったが、勇気を出して警視庁城東警察署に被害届を出した。持田は約束の日時に指定場所に現れたところを、張り込んでいた捜査員によって逮捕された。

この事件で強姦致傷・窃盗・恐喝未遂の罪に問われた持田は、1990年3月13日、東京地裁で懲役7年が言い渡され、同月28日付に確定。札幌刑務所に収容された。

持田は逮捕されて以降、表面上は反省の態度を見せていたが、実際には逮捕直後から、「(鹿沼さんが)警察に届けないという約束を破ったせいで捕まった」と逆恨みしていた。そして鹿沼さんに激しい憤りを覚えるとともに、「自分の言葉が脅しではないことを思い知らせなければならない」と考え、出所したら鹿沼さんを殺害して恨みを晴らす決意した。

7年間の服役中、持田は計13回の懲罰を受け、服役中の大半を独居房で過ごした。その辛さもあってか、”鹿沼さんを殺害する決意” は、出所まで一貫して持ち続けた。

1997年2月21日、持田は札幌刑務所を満期出所となった。

1997年4月18日21時過ぎごろ、Mは団地内の広場付近を1号棟に向かって歩いてくる鹿沼さんの姿を見つけたため、エレベーターに乗って1階まで下りた。1階に到着すると、開いたドアの先に鹿沼さんが立っていたため、持田は「殺害するのに良い機会だ」と考え、エレベーターに乗ったまま、鹿沼さんが乗り込んでくるのを待った。そして、エレベーターに乗った鹿沼さんに「何階ですか」と声を掛け、「4階をお願いします」という返答に応じて4階のボタンを押した。

エレベーターが上昇を始めると、持田は「鹿沼さんですか」と尋ね、彼女が鹿沼さん本人であることを確認した後、「俺のことを覚えているかい」と話し掛けた。鹿沼さんは思い出しかねる様子で、首を傾げながら持田の顔を見ていたが、持田は隠し持っていた包丁の柄を右手で掴み、鞘からゆっくり引き抜きつつ、「7年前の事件のことは覚えているか」と低い声で脅した。これに対し、鹿沼さんは悲鳴を上げながら、突然持田に飛び掛かり、持田の右手から包丁を奪い取った。エレベーターが4階に到着してドアが開くと、鹿沼さんは持田から奪い取った包丁を手にしたままエレベーターから降り、「助けて、殺される」などと大声で叫びながら、4階エレベーターホール北側の壁際まで後ずさりしていった。

このような鹿沼さんの思わぬ抵抗に動揺した持田だったが、「鹿沼さんを殺害する機会は今しかない。少しくらい怪我をしてでも殺害しよう」と考え、自分を近づけまいと小刻みに包丁を突き出すなどしていた鹿沼さんに飛びつき、エレベーターホール北側の壁に抑える蹴ると、その左手から包丁を奪い返した。そして、包丁で鹿沼さんの左下腹部・腹部中央部・右胸・左胸を続けざまに力いっぱい突き刺し、心臓に達する致命傷を負わせた。
JT女性社員逆恨み殺人事件(持田孝)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年10月13日の上告審判決公判で、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)はM側の上告を棄却する判決を言い渡した。持田は同判決を不服として、第二小法廷に判決訂正申立をなしたが、それも同年11月10日付の決定で棄却され、同日付、もしくは11日付で死刑が確定した。

死刑囚(死刑確定者)となった持田は2008年(平成20年)2月1日、鳩山邦夫法務大臣が発した死刑執行命令により、収監先の東京拘置所で死刑を執行された(当時65歳没)。死刑確定から執行までの期間は3年2か月だった。なお同日には、大阪・福岡の両拘置所でも、それぞれ死刑囚1人の刑が執行されている。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2008年(平成20年)2月1日、東京拘置所で死刑執行(当時65歳没))

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滋賀医科大学生母親殺害事件(桐生のぞみ)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年に発生した尊属殺事件である。30代の看護学生が母親を殺害後に遺体を解体して遺棄した。

2018年1月9日夜に、滋賀医科大学看護学科4年生で桐生のぞみ(当時31歳)が、母親である桐生しのぶ(当時58歳)を殺害した。母親にせがまれて身体をマッサージしていると入眠したため、包丁を取り出して首を切りつけて殺害した。

殺害後、Twitterに「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と投稿し、死体の傍らでテレビドラマ「BG〜身辺警護人〜」を視聴して眠り、解体して滋賀県内の河川敷へ遺棄する。

3月に遺体が発見され、滋賀県警察は6月に、滋賀県内の病院で看護師として勤務する女性を死体遺棄と死体損壊の容疑で逮捕し、9月に殺人容疑で再逮捕する。
滋賀医科大学生母親殺害事件(桐生のぞみ)

◆教育虐待(母親「桐生しのぶ」と娘「桐生のぞみ」)

 桐生のぞみ(以下、のぞみ)は、高校卒業後の2005年に国立大学の、医学部保健学科を受験しますが不合格となります。

ところが母親 桐生しのぶ(以下、しのぶ)は、その事実を認めずにあろうことか、親族には医学部に合格したという嘘をつき、娘ののぞみにもつじつまを合わせるよう命じます。

9年の浪人生活の中、のぞみは母親しのぶからの束縛から逃れるため就職も考えたのですが、未成年で同意を得られずに終わります。

母親しのぶは彼女を集中させるため、のぞみの携帯電話を取り上げたり、自由な時間を与えないため一緒に入浴しようとしたといいます。そうした母親しのぶからの強要生活に耐え切れず、のぞみは3回にわたる家出も試みますが、母親しのぶの方も諦める事なく探偵を雇うなど異常な執着心で、のぞみの自由や願いを聞き入れません。

何度か、のぞみの精神の限界状態は突発的な家出などの行動など態度にも表れるも、母親しのぶはその都度力で押さえつける。強引にも家に連れ戻されるなど、戦慄の束縛生活を不本意にも継続する生活が続きます。

そのようなやり取りや母親しのぶとの話し合いの合意点として、のぞみに将来助産師になることを条件に滋賀県医科大学医学部看護学科を受験させ、やっと2014年4月に入学を果たしました。

のぞみは、9年もの長きに渡る受験生活を経て、無残にもその夢が断たれて自分の限界も知り、現実的な就職先も医師でもなく助産師でもなく、看護婦でいいと言いますが、母親のしのぶは、のぞみの、そうした現実からの諦めや妥協を一切許しません。

強引に医師がダメなら最低でも助産師に、と望む母親しのぶの願いを受け入れ一旦はまたも大学に入学し、母親の望む助産師を目指しましたが、のぞみは、やがて「手術室看護師」になる夢を抱きます。手術看護師とは手術執刀医にメスを手渡したり、患者の体位変換や記録を付ける看護師を指します。

のぞみは大学4年生の2017年には滋賀医科大付属病院において、看護師の内定を得ますが母親の反対にあっており反感を持っていたようです。母親しのぶは医大の附属病院の就職を辞退して、助産師学校への進学を迫り、受験に失敗しても看護師にならず再受験をするという誓約書まで書かせていました。

こうした幾度の、のぞみの受験失敗や勉学への挫折、自らのレベルを思い知り絶望に落とされながらも強制的な勉強を強いられた、のぞみは、どれほど頑張っても母親しのぶの望む道は程遠い事、自分のレベルには看護師でも充分だと言う現実を理解します。

その事実の理解を母親しのぶに求めるも一向に、諦めてくれません。

常軌を期した娘のぞみへの期待と、人生を賭けた医学界への強要は、この辺りで娘のぞみの限界を超えた状態だったのでしょう。

自分の望む事と、それが叶う能力があるか否かは、自らが経験すれば通常誰もが分かる所です。

しかしながら、母親しのぶは、それ以上を常に諦める事を許さず、自らの高い理想を娘に強要しました。

もう、桐生のぞみの精神状態は限界だったのでしょう。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 桐生のぞみは犯行を否認するが検察は懲役20年を求刑し、2020年3月に大津地方裁判所は、懲役15年と判決する。被告は判決を不服に控訴するも、控訴審で一転して犯行を認める。2021年1月に大阪高等裁判所は原判決を破棄し、懲役10年と判決して確定する。

❖出所予定(年齢)
 2031年1月頃、44歳(懲役10年)

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滋賀県長浜市園児殺害事件(谷口充恵)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2006年(平成18年)2月17日に滋賀県長浜市相撲町の田んぼの中にある市道の路上で幼稚園児2名が刃物でめった刺しにされ、殺害された事件。

2006年2月17日9時5分頃、長浜市の水田の中を通る市道上に、幼稚園児と思われる佐野迅ちゃん(当時5歳)と武友若奈ちゃん(当時5歳)が血だらけで倒れているのを通行人が発見し、119番通報した。武友若奈ちゃんはすぐに死亡が確認され、佐野迅ちゃん(当時5歳)は搬送先の長浜赤十字病院で亡くなった。

2人は近くの幼稚園に通う共に5歳の園児と判明。滋賀県警では、2人の体に十数カ所以上の刺し傷があったことから殺人事件と断定し県内全域に緊急配備を敷いた。

その後、11時頃現場から遠く離れた大津市内の湖西道路の真野インターチェンジで、大津北警察署が敷いた検問に不審な白い車がひっかかり、車内を捜索したところ車内は血の海となっており、血の付いた包丁が落ちていたことから、運転していた女に事情を聞いたところ、2人を殺したことを認めたため、殺人の疑いで緊急逮捕した。逮捕されたのは、死亡した2人の園児の同級生の母親である鄭永善(当時34歳、中国人、日本名・谷口充恵、以下、谷口充恵)だった。

谷口は取り調べに対し、自分の子が園内でいじめられていると思い犯行を決意したと動機を供述した。
滋賀県長浜市園児殺害事件(谷口充恵)
滋賀県長浜市園児殺害事件(佐野迅ちゃんと武友若奈ちゃん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年9月18日 検察側が死刑を求刑。
 2007年10月16日 死刑求刑に対し、統合失調症の影響による心神耗弱を認め無期懲役判決が言い渡された。弁護側は量刑不当として即日控訴。
 2009年2月20日 大阪高裁で二審の判決。一審の無期懲役判決を支持し、検察・被告双方の控訴を棄却。
 2009年3月9日 検察・被告とも上告せず、被告の無期懲役の判決が確定。

❖出所予定(年齢)
 2039年4月頃、67歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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自殺サイト殺人事件(前上博)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年(平成17年)8月2日に行方不明であった長元美智子さん(当時25歳)の遺体が大阪府河内長野市にある河川敷にて発見されたのを発端として発覚した殺人事件。8月5日に当時堺市に住んでいた前上博(当時36歳)が、大阪府警察に逮捕された。

当初、殺害容疑は長元さん1人だけだったが、容疑者の供述によりいじめ被害者とされる男子中学生や男子大学生の殺害も発覚。その後の捜査でこの2名の遺体が山中で発見された。

自殺系サイトに目をつけた前上は、多重債務やいじめなどを苦にした自殺志願者を「集団自殺しませんか」と言葉巧みに騙し、なぶり殺しにすることで自殺を「手伝い」、自らは死刑になる形で後を追う、という「無理心中目的の説得ずくの快楽殺人」という手口に及んだ。

前上の手口は巧妙で、自分へ警察の捜査が及ばないように被害者を騙して自殺サイトの使用履歴をパソコン上から削除させたり、「玄人(=自殺未遂経験者)からの助言」として遺族宛てに遺書を書かせたりし、殺害についても被害者を苦しめるために何度も被害者の口を塞いで失神させては蘇生させたり、ラップフィルムやゴム手袋を利用して証拠を残さないようにしていたりと悪質であると言われている。

失神と蘇生の繰り返しの間に何が起こるかというと被害者の命乞い、そして衰弱していき、脱糞し、体の痙攣が起き、動かなくなる。

その死にゆくまでの過程を前上は欲情していた。欲情を抑えられなくなった前上は死にゆく永元さんを強姦している。

前上は、人を窒息させて苦しめることと、白いスクールソックスに異常なほどの性的興奮を覚える人間だった。彼は小学校時代から数え切れないほどの犯行を重ね、ついには立て続けに3人の命を奪った。

更には被害者を殺害する様子を写したビデオテープや、被害者の苦しむ声が録音されたテープも自宅倉庫から押収された。
自殺サイト殺人事件(前上博)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年2月、大阪地方検察庁は死刑を求刑したが、その際に被害者遺族も求刑に参加できるようにする、という初の試みがなされており、また前上自身も最終弁論において死刑になることを望んでいる。同年3月28日、大阪地方裁判所で、前上は求刑通りの死刑判決を受けた。

弁護側は即日控訴したものの、前上が2007年7月5日付けで弁護人の控訴を取り下げたため、死刑が確定した。

2007年7月7日、控訴取り下げの無効を求める審理開始の弁護人の申し立てを大阪高等裁判所は受理した。

2009年7月28日、森英介法務大臣(当時)の執行命令書捺印により、前上の死刑が執行された。死刑確定から2年という早さでの執行であった。同日には大阪姉妹殺害事件の死刑囚他1名の死刑も執行されている。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2009年7月28日、大阪拘置所で絞首により死刑執行(当時40歳没))

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静岡2女性殺害事件(桑田一也)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年と2010年に女性が殺害された事件である。

2005年の終わりごろから日比野かおりさん(当時22歳)に家族が連絡が取れなくなり行方不明になった。家族は2006年に捜索願を静岡県警察本部御殿場警察署に提出。日比野さんと不倫していた桑田一也(当時43歳)は妻と別れて久松紘子さん(当時26歳)と再婚。しかし、2010年2月に紘子さんも行方不明となり、紘子さんの家族が静岡県警察本部大仁警察署に捜索届を提出。2010年3月5日に振り込め詐欺の手口で女性から100万円近くを騙し取ったとして詐欺容疑で桑田が逮捕された。その後、桑田は詐欺罪で起訴された。

桑田が起訴された後、静岡県御殿場市萩原にある物置小屋で青いビニールシートで包まれた紘子さんの遺体が発見された。そして、桑田を紘子さんの殺人、死体遺棄罪で追起訴した。その後、沼津市東原の空き地にあったドラム缶から、青いビニールシートにくるまれ一部が白骨化していた日比野さんの遺体が発見された。このため、地方検察庁は強盗殺人罪で桑田を追起訴した。
静岡2女性殺害事件(桑田一也)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2014年12月2日、最高裁判所第3小法廷(大谷剛彦裁判長)は上告棄却の判決を言い渡し、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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麻薬王のカバ、ハイウエーでひかれ死ぬ コロンビア(2023年4月13日)

南米コロンビア・アンティオキア(Antioquia)州のハイウエーで、カバが車にひかれて死んだ。現場近くには1993年に死亡した麻薬王パブロ・エスコバル(Pablo Escobar)の農園があり、飼われていたカバが繁殖しすぎて問題となっている。

同州北西部プエルトトリウンフォ(Puerto Triunfo)の消防はAFPに、11日夜に、首都ボゴタとメデリン(Medellin)を結ぶハイウエー上で、体重1トン以上のカバが横たわっているのが発見されたと話した。

事故ではピックアップトラックの前方が壊れたが、運転手は無事だった。

エスコバルは1980年代後半に少数のカバを飼い始めた。エスコバルの死後、カバは放し飼い状態になり、現在では150頭にまで増えた。

昨年12月にも同じ地域でカバと車が衝突する事故が発生しているが、カバは死ななかった。

以前に、カバに避妊処置を施す計画が実行されたが、うまくいかなかった。コロンビア環境省は昨年、カバを外来種に指定し、狩猟を許可した。

今年3月にはアンティオキア州の知事が、カバ70頭をインドやメキシコの保護区に移送する計画を発表した。

もう亡くなってしまった麻薬王が飼っていたペットの「カバ」が車と衝突して死んでしまったニュースです。コロンビアで麻薬王が用意した環境がよかったのか?爆発的に増えてしまい、脱走してしまい、ハイウェイで車と衝突して死んでしまいました。

遠方から「カバ」は飼う為に連れて来て、挙句に放置となり、避妊や去勢の頭数管理も無しで放牧?されたようです。麻薬王の死後、「カバ」を世話する人がいなくなり放置となりました。

「カバ」は生きる為にウロウロと食べ物探していたのでしょうか?そして今回の事故に遭い、今度は狩猟の許可が出てしまいました。

麻薬王のせいで「カバ」も、こんなに不幸な目に遭わせて、理不尽極まりないですね。
麻薬王から没収した資産で国立の自然公園のような保護区に移送してやって欲しいですね。

カバの繁殖って難しいのですが、こんなにも増えるものなのですね。

皮肉なもので

・専門家が最善を尽くして動物の繁殖に取り組む→成果が実らず個体数が減少
・面倒見きれなくなって放置→大繁殖して駆除しきれず

と、こういうパターンが結構多いような気がします。



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我が家の「宇宙人」は高校生になりました。この「宇宙人高校生」は数学がとても不得意です。普段の復讐(予習はしない)や宿題、中間考査や期末考査、ベネッセなどの外部機関のテストでは、数学以外の学習は、自ら自発的に勉強をするのですが、数学になりますと、なかなか自発的にやりたがらないです。

全くしないわけではなく、本人もこのままじゃまずいと思っているのか?何とか自ら勉強し始めるのですが、わからないので遅々として進みません。そして解けないことへの悔しさで「切れる」わけです。

我々は子供にガッツリ教えるような「頭」を持ち合わせていませんので、頑張れぐらいしか言えないのですが、わからない問題を教えてもらう、きくべき場所はありまして、それは遠方に住んでいる「じいじ」にオンラインで授業をしてもらっています。

しかしながら、何といってもオンラインでやれることは限界がありまして、子供の進み具合やノートに書いている解き方などが細かな部分が見えないので、行き違いがあったりと、子供の出来の悪さも手伝って遠方の「じいじ」がストレスを溜め込んでしまっている状態が続きました。

最初は「じいじ」の長生きの活力にでもなれば、と思っていたのですが、逆に「じいじ」の寿命を縮めているのでは?と、時々、「やめてくださっていいですよ、こちらで何とかしますから」とは言うものの、「このまま大人になったら大変なことになる」という「じいじ」の計らいでオンライン授業が続いておりました。

コロナ禍になって、田舎に帰っていなかったのですが、つい先日(子供が春休み中)に田舎に帰ったところ、「じいじ」と対面で数学を教わっていたら、何時間かけてもわからなかったところが、ものの1時間でわかるようになったのです。

もちろん、何でも理解したということではないし、「じいじ」の補助がないと解けない問題は多々あります。

「じいじ」からは「あいつは頭悪うないぞー。」というお褒めの言葉をいただき『家庭教師つけてみたら?』ということで、かなり前向きにといいますか?試しにつけてみることにしました。

さて、どうやって探そうか?

やはりここは文明の利器であるインターネット検索で探してみました。

失敗しない家庭教師の選び方は、さっぱりわからん!
インターネットで最初に気になったのは「失敗しない家庭教師の選び方」でした。サイト共通の説明はこうです。

❖家庭教師の選び方

・大手と呼ばれるところは、家庭教師の初心者からプロまで、多くの人材や人数がいるが、カリスマと言われる教師や、評判が高く人気のある教師は、独立して自分で生徒を募っているので、可もなく不可もない家庭教師が多い。家庭教師に子供に合わない場合や、指導方針を相談したいとき、辞めたい場合は、会社を通して要望することができる。

・マッチングサイトは、カリスマと言われる教師や評判の高く人気のある教師がいるが、中にはトンデモない家庭教師もいる。会社を経由していないので、家庭教師に子供に合わない場合や、指導方針を相談したいとき、辞めたい場合は、家庭教師本人直接言わないといけない。

・縁故や知り合いなどの紹介者による家庭教師は、実際に家庭教師をつけた感想をきくことができる。会社を経由していないので、家庭教師に子供に合わない場合や、指導方針を相談したいとき、辞めたい場合は、家庭教師本人直接言わないといけない。辞める場合などは紹介者に気を使わないといけない。

う~ん。何だかわかったような、わからないような、結局、初めて家庭教師をつける家庭はどうしたらいいんだろう?とモヤモヤしてしまいました。

家庭教師比較サイトで資料請求・・・すると!
結局、初めて家庭教師をつける家庭の頼りになるのは「家庭教師比較サイト」にいきつきます。マッチングサイトとか、縁故や知り合いなどの紹介者は手を出しにくいから、消去法でそうなります。

「家庭教師比較サイト」に必要な情報を入れていきます。住所も電話番号も入力します。

そして、資料請求のボタンを押すと・・・ものの10分もかからずに、各家庭教師の会社から営業攻勢を受けます。やはり電話してくるのが早いのが「大手」と呼ばれるところです。「見込み客」を瞬時に検知する仕組み(システム)を持っている体力があるところが早いと思われます。

かなりの数が電話してきますが、やはり、ここで見極めるのが、この営業マンの対応です。「言葉使いがしっかりしているか?」「顧客の要望や質問に的確に回答できるか?」はチェックしておきましょう。

特に気になるのが他社の悪口をいうところがあるということです。自社のセールスポイントを置いておいて他社の悪口や評価を下げるようなことをいうのです。私はこれが好きではありません。丁寧にお断りしました。

とにかく、電話口で話をしてみて違和感のあるところは、排除していったほうがいいです。

どこも面談を必要とします。高校生の子供が帰宅してからとなりますので、おのずと夜になりますし、2時間程度の面談となります。ちょっと面倒かもしれませんが、子供のためにと思えば大した事ではありません。

ただ「資料請求」なので、郵送かと思っていましたが、実態は面談をした後に資料がもらえるということです。何となく資料請求のボタンをポチっと押してはいけません。

各家庭教師会社との面談は、また後日に書かさせていただきます。



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ひそかに「月光浴」をするカメたち 国際チームが不思議な生態を解明(2023年4月9日)

世界のあちこちの川や池などの水辺で、カメたちが日光浴ならぬ「月光浴」にいそしんでいることを、米豪などの国際研究チームが突き止めた。

淡水でくらすカメの多くは、日中にひなたぼっこ(バスキング)をすることが知られている。主に体温調節に役立っているほか、寄生虫や菌を防ぐ効果などの説がある。

豪ラトローブ大のドナルド・マクナイト博士らは2020年、淡水ガメが夜にひなたぼっこをしていることを報告。この興味深い現象が世界中で見落とされてきたのではないかと考え、米国やドイツ、セネガルなど9カ国で大規模調査に乗り出した。

25カ所の水辺でひなたぼっこにつかう流木などにカメラを設置し、そこにすむ7科29種のカメの行動を観察。合計2万5273時間の撮影で得た87万3111枚の写真から、6科13種のカメが夜のひなたぼっこをしている様子が確認できた。

チームは「夜のひなたぼっこは普遍的な現象で、これまでは見落とされてきたのではないか」と考察している。

ミシシッピニオイガメを6年ほど飼育しておりますが、日が落ちて夜の暗い時に陸上に上がって体を乾かす行動を見かけますが、その事を言っているのでしょうか。

我が家は夏場だけ、屋外で飼育しているのですが、猛暑日中では陸上に上がってくることはありません。しかしながら、日が落ちて夜になりますと陸上に上がって、ゆっくりまどろんでいる姿を見ることがありました。

上記の記事では夜に陸上に上がってくるの事実が書かれておりますが、どんな理由があるのでしょうか。


例えば、夜の水中の危険が増すからかもしれません。ミシシッピニオイガメの棲んでいるミシシッピ川流域は、ミシシッピワニや、大型の魚でアリゲーターガーや、中国四大家魚のアオウオ、コクレン、ハクレン、ソウギョ、そしてワニガメなどの天敵が沢山おりますので、危険を避けるためかもしれません。

そうした夜行性の生き物は多いので夜間に水中から上がるのかもしれません。実はもっと単純で陸上は呼吸がしやすくて甲羅に苔も生えにくくするということかもしれません。甲羅を乾かせば寄生虫も水陸で交互にすることでつきにくくなるかもしれません。

ただし、夜の暗がりでも陸上が安全と思えない場所じゃ上がってこないかもしれません。陸上にも天敵はおり、フクロウなどの夜行鳥類もあなどれません。

もっと単純な話で、水中で濡れてる時間と陸上で空気に触れる時間の両方を多く持ちたいから(肺呼吸と皮膚呼吸による酸素の取り込み)かもしれません。

とにかく「カメ夜は水中にいる!」と私たち人間が勝手に思い込んでいたわけです。

そういえばカブトムシも「夜行性ではなかった!」と最近小学生が発見しましたね。

我々が参考にする飼育本や図鑑に書いてあることは、研究によって既成概念が覆われるわけですね。

月光浴をする我が家のミシシッピニオイガメです。
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※2023.04.04改題(旧題:【クレジットカード不正利用額過去最悪でますます不正検知システムが強固になる!】えきねっとでクレジットカードが使えない!)

2022年は436億円 クレジットカードの不正利用額 統計開始以来、過去最悪を更新(2023年3月31日)

 国内で発行されたクレジットカードの不正利用額が、436億7000万円と1997年の統計開始以来、過去最悪となったことがわかりました。

日本クレジット協会の統計によりますと、2022年のクレジットカードの不正利用額は、2021年に比べて32%増加の436億7000万円で、1997年の統計開始以来、過去最悪を更新しました。そのうち、不正に入手した他人のカード番号を利用した「番号盗用被害」が、411億7000万円と全体の94.3%を占めています。

カード番号盗用被害は前の年(2021年)よりもおよそ32%の増加し、メールを送り付けて偽のホームページに接続させ、個人情報を読み取るなどの「フィッシング詐欺」の増加が背景にあるとみられます。

最近では「マイナポイント第二弾で得たポイントが失効する」などマイナポイント事務局をかたり、個人情報を抜き出す手法も報告されていて、「フィッシング対策協議会」のホームページでは、最新のフィッシング詐欺の事例などを確認することができます。

日本クレジット協会は「フィッシング詐欺に注意し、サイトやアプリを利用する際にはIDやパスワードの使いまわしをしないようにして欲しい」としています。

クレジットカードの不正利用額が過去最悪との事です。これは、ますます楽天カードの不正検知システムのセキュリティが強固になりそうな気配ですね。

この不正検知システムは、カード番号の悪用、紛失盗難カードや偽造カードの不正使用を未然に防止することを目的に各社が導入しているシステムなのですが、不正利用者との「イタチごっこ」でして、不正検知システムのセキュリティを強固にしますと、正当な利用者がネットショッピングで取引(=購入)する度に「不正」と判断され取引が保留されてしまい、誠に使い勝手が悪くなるという状態になってしまうのです。
高額なカードの利用があり、直近のカード利用時間と場所から見て、同一人物の利用とは考えられない場合や海外にて高額の利用があった場合など、詳細な取引が保留になる条件はもちろん開示されておりません。利用者側としては、とりあえずカードを取引に使用してみるしかないとなりますが、急ぎで取引したい場合などは、この取引保留は悪夢でしかありません。

そして、この不正な取引を保留解除するには、コールセンターやチャットなどの窓口で保留解除してもらわないといけませんが、夜に取引保留になった場合は、窓口営業開始となる日中(9:00~17:00)を待たないといけませんので、忙しい社会人からすると、サポート体制が悪いと思うのではないでしょうか。

そして、この不正検知システムの一番の問題点は何かといいますと、Amazonなどのショッピングサイトで商品を購入して決済したときにエラーとなりますが、「不正検知システムによる取引保留」というダイレクトなエラーは表示されない、通知されないということなのです。ショッピングサイトのシステムと、クレジットカードのシステムは、2つの異なるシステムで情報の連携ができておりませんので、利用者には、何でエラーになったのか?わからないのです。

困った利用者はオンラインショッピングサイトの会社のコールセンターに問い合わせて、クレジットカードのサイトからエラーを通知されているということが分かり、改めてクレジットカードサイトの会社のコールセンター連絡して、ようやくわかるのです。

他のクレジットカードをあわせて、最低クレジットカードを2枚持っておきたいですね。

楽天カードの不正検知システムは、別の記事でありますので、よければ読んでいってください。



※最後に
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