竜ヶ崎竜之介のスマホ閲覧で通勤通学を有意義にするプログ

アクアリウムを中心として、他にもホラーやパソコンなどの趣味や仕事、他に日常の出来事について好き放題書いていこうと思います。虎ノ門虎之助でメダカのプログを書いていますが、他のことも書きたくなりましたので新しいプログを立ち上げました。

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2023年09月


鉄骨落下は5本で計48トン 作業員は20m下に 東京駅前の事故(2023年9月19日)

 19日午前9時20分ごろ、東京都中央区八重洲1丁目の東京駅八重洲中央口に近い再開発工事現場で、「3階部分に鉄骨とともに人が転落した」と119番通報があった。警視庁によると、作業員の33歳と43歳の男性2人が鉄骨の下敷きになって死亡し、別の40代の男性が重傷を負い、20代の男性2人がけがをした。警視庁は業務上過失致死傷の疑いで調べる。

事故が起きたのは、2021年に着工し、25年度に完成予定の地上51階建て地下4階の商業ビルの建設現場。ともに大手ゼネコンの大林組と大成建設の共同企業体が工事を請け負っている。

警視庁中央署によると、亡くなったのは埼玉県朝霞市の原裕一郎さん(33)と千葉県市川市の花田大和さん(43)。大林組によると、2人を含めた5人は同じ下請け会社の社員という。

同署によると5人は事故当時、7階部分にいて、クレーンのワイヤにつるされた鉄骨の梁(はり)を取り付ける作業をしていた。この鉄骨がワイヤから外れ、その際に7階部分にすでに設置してあった別の鉄骨も落下したという。

亡くなった男性2人は鉄骨と命綱で結ばれていたといい、鉄骨と一緒に落下し、3階部分で下敷きになったとみられる。ほかの3人も7階部分から3階部分に落下したという。

鉄骨は長さ30メートル、幅30センチ、重さ15トンぐらいで、警視庁はクレーンのワイヤに不具合があったとみている。

大林組によると、落下した鉄骨は計5本で、長さはそれぞれ13~18メートル。重量は計約48トンあった。3階部分から7階部分までの高さは約20メートルで、7階部分で作業していた5人は全員命綱をしていたという。

5人とは別に、3階部分で作業していた1人にも飛散物が頭に当たり、病院で治療中という。

警視庁は今後、現場の状況を詳しく調べるとともに、共同企業体の安全管理責任者から事情を聴く方針だ。
東京駅前の事故


クレーンから落下した長さ9mの鉄骨の下敷きに…造船会社で45歳の男性作業員が死亡(2023年9月26日)

 26日夕方、高知市の造船会社で作業中だった40代の男性作業員がクレーンから落下した鉄骨の下敷きとなり、搬送先の病院で死亡が確認されました。

事故があったのは高知市仁井田の新来島高知重工(しんくるしまこうちじゅうこう)です。

警察の調べによりますと、26日午後4時20分ごろ、工場の関係者から「状況ははっきり分からないが、男性が鉄骨に挟まれて意識と呼吸がない」と消防に通報がありました。

この事故で高知県香美市土佐山田町の会社員 武田進さん(45)が意識不明の状態で高知市内の病院に救急搬送されましたが、その後死亡が確認されました。

鉄骨は長さが9mあり、武田さんはクレーン下の操作盤を自ら操作し鉄骨を吊り上げていたところ、何らかの原因で落下したとみられています。本来、事故が起きた時間帯にこの鉄骨を吊り上げる予定はなかったといい、警察は何のために持ち上げていたのか、事故の詳しい原因を調べています。

新来島高知重工は、コンテナ船や自動車・セメント運搬船など船舶の建造や舶用製品の製作などを行う造船会社で、武田さんは関係会社の社員だということです。
造船会社で事故

鉄筋落下で作業員が亡くなられた事故が2件立て続けに発生しました。

命を守る為に命綱をしていたそうですが、その命綱をつけた鉄筋が落下して引っ張られてであり、それが仇になるのは・・・なんともやりきれないです。

建築会社で働いてますが、工期を気にするあまり 守るべきことを守らずスピード重視の作業になってしまうことが多々あるんでしょうか。

安全確認、点検は自分がその日怪我なく家に帰れるための作業でもあることを改めて考えることが必要であり、家族ある人は元気な姿と顔で家族の下へ帰るためだと思って作業に臨んでもらえたらと思います。

今までもこういった事故で亡くなられた沢山の作業員の方がいらっしゃるはずで、ご遺族の方達からしたら、安全対策の末に起きた結果としても受け入れ難い事実ばかりでしょう。

事故の原因や内容にもよると思いますが、ご遺族への補償金などは当たり前のように対応して欲しいですし、報道などても取り上げられず同様の事故に遭われた事のある方々へも再度スポットライトが当てられるべきで、こういった事故が起きる起因について、大手ゼネコンやデベロッパーが雇用契約・形態を考え見直し、土地や建物ばかりにお金を投じるだけでなく、人への安全性の強度を高めるお金をちゃんと使って欲しいと思います。



※最後に
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海岸を歩く女性に雷直撃、そばにいた男性も犠牲に 周囲は悲鳴(メキシコ)(2023年9月25日)

 世界では年間1000人ほどが落雷の被害に遭うと言われているが、このほどメキシコのビーチで雷に打たれて男女2人が死亡する事故が発生した。落雷の瞬間は当時、その場にいた海水浴客と思われる人物が撮影しており、動画がSNS上で拡散され、衝撃が広がっている。米ニュースメディア『New York Post』などが伝えた。

メキシコ中西部に位置するミチョアカン州のマルアタ・ビーチで現地時間15日の午後2時20分頃、グアナフアト州から夫と訪れていたエルヴィア・デ・ヘススさん(Elvia de Jesús、33)と、コリマ州テコマン出身のフェリックス・アンドレスさん(Félix Andrés)という男性が、落雷によって亡くなった。

当時、その場にいた人が撮影した動画には、偶然にも2人が落雷を受けた瞬間が捉えられていた。動画には、迫りくる雷雨から避難しようと天蓋付きのビーチハウスに逃げ込む人の姿が映っており、空には稲妻が走り、波が徐々に高くなりつつある様子が見て取れる。

そして、カメラが海岸を歩いているエルヴィアさんの姿を捉えた直後、大きな轟音とともに稲妻が彼女を直撃し、稲妻は砂浜を滑るように移動して、そばにいたフェリックスさんにも直撃した。落雷を受けた2人はその場に倒れ込み、周囲からの悲鳴が聞こえてくる。またカメラが大きく揺れていたことから、撮影者も動揺を隠しきれなかったようだ。

メキシコのニュースメディア『La Verdad Noticias』によると、エルヴィアさんが落雷を受けた後、先に海から上がっていた夫のロベルトさん(Roberto、34)が駆け寄って心肺蘇生を施したが、到着した救急隊によってその場で死亡が確認された。一方のフェリックスさんは、搬送先の病院で息を引き取った。

アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によると、米国内では年間約4000万件の落雷が発生し、雷に打たれる人の確率は100万分の1以下とのことだ。また、落雷の被害に遭った人の9割が生存しているそうだ。しかし日本の気象庁ホームページによると、積乱雲から直接人体に落雷する「直撃雷」を受けた場合、約8割の人が死亡するという。
メキシコ雷01_
メキシコ雷02_

凄惨な動画でした。こんなにもはっきりと人間が避雷針のようになって、雷に打たれる動画はなかったんではないでしょうか。

メキシコのビーチで男女2人が雷に打たれて死亡する事故が発生しました。最初に女性は雷に打たれて、その後、地面を伝って雷が伝線するかのように近くにいた男性が打たれて倒れます。

とにかく、女性に雷が落ちた最初は、不謹慎ですが何か映画のワンシーンを見ているかのように、よく悪魔や怪物が最後に雷に打たれて終わりを告げるような場面を思い出してしまいました。

世界中では、毎秒100回以上の落雷が生じているそうな。

年間でカウントすると3億回を超えるらしく、こんなに雷が落ちていたら、いつ人間に雷が落ちても不思議はありませんが、人間が雷に打たれることはまずありません。

正確なデータはないものの、その確率は隕石の落下で死亡する確率よりもはるかに低く、100万分の1などと言われています。ただ、サメに襲われる確率は、およそ370万分の1なので、はるかに高いのです。

とても運が悪いとしか、言いようがないのですが、ご冥福をお祈りいたします。

人体に雷が落ちるとどうなるのででしょうか。雷が落ちて体の表面を電気が流れる場合は衣類の破損、焦げや浅いやけどとなります。 体の中を流れると心臓や肺の運動を停止させますので致命的です。 両方に流れると心臓や肺への影響が軽減されます。

写真では燃えているかのようですが、雷によって光っているだけで、落雷によって体の中を電流が流れる時間は非常に短い時間(0.1秒以下)ですので高電圧の割に多量の熱は発生しません。

雷の落ちる場所ですが、雷雲の位置次第にはなりますが、どこにでも落ちます。海面、平野、山岳などところを選ばずに落ちます。そして高いものに落ちる傾向があります。 グランドやゴルフ場、屋外プール、堤防や砂浜、海上などの開けた場所や、山頂や尾根などの高いところなどでは、人に落雷しやすくなるので危険です。

雷が発生する理由にはさまざまな説がありますが、一般的には、雲の中にあるちり(微粒子)や水、氷の粒がぶつかり合ことで摩擦帯電が起きたり、氷の粒が分裂したりすることで、大気(雲)の中にプラスとマイナスの電荷が発生することが原因と考えられています。



※最後に
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ようやく、関東も涼しくなりました。最高気温は27~28℃、最低気温が20~22℃になり、昼間に半袖で出かけても、秋風らしい風が吹いており「涼しい!」と感じましたし、空を見上げると、巻積雲(けんせきうん、というらしい)が空を覆っており、ようやく一息ついた感じです。

この夏は、観測史上最も暑かった夏でして、北海道では例年より6~8月では例年より3℃高く、8月だけでみますと例年より3.7℃高くなった年でもあります。

異常な夏ではありますが、地球環境は「温暖化」を通り越して「沸騰期(※)」になったそうですので、この先も異常が続くんでしょう。

※「『地球温暖化』時代は終わり、『地球沸騰』時代が到来した」。7月の世界平均気温が観測史上最高となるのが確実視される中、国連のグテレス事務総長は2023年7月27日の記者会見で危機感をあらわにした。

夏も冷涼でエアコン普及率が低い北海道や北東北も、例外なく猛暑に襲われた。北日本は暑さに慣れていない分、熱中症で搬送される人も多かったそうです。

どうして北海道の話をするかといいますと、一番暑かった8月下旬に、涼を求めて北海道の函館(実際は北斗市に親が住んでいます)に行ってしまったのです。

北海道への行きは飛行機で羽田空港から函館空港に行きました。例年ですと、函館空港に着いて飛行機から降りて、ボーディング・ブリッジ(※)を通ると、涼しい風が吹いていて、北海道はやっぱり涼しいとなりますが、羽田空港の蒸し暑さと同じだったのです。

※ターミナルビルから旅客機や客船に乗客や乗員を乗降させるための設備である。搭乗橋(とうじょうきょう) などともいう。

10年位前までエアコン普及率の全国平均が86%程度であったのに対し、北海道では18%程度とエアコンなしでの生活が普通であったようです。

しかし、近年は真夏日や熱帯夜の日数増加に伴って北海道でのエアコン需要も増加傾向にあります。

ここ10年くらいの間にエアコンの普及率は50%に届く勢いで伸びており、日本最北の北海道でも温暖化の影響が感じられます。

しかしながら、年々気温の上昇とともにエアコン需要も高まりつつある北海道ですが、エアコンなしの生活もさほど珍しくないようです。

その理由には湿度の低さや、夜間の気温が下がりやすい、また夏が短いなど年間通してエアコンを稼働させる機会が本州以南に比べ少ないという背景が影響していると言えそうです。

我が親の住んでいる家は、エアコンがついています。元々、北海道の人間でしたが、東京へ就職にでてきて、定年退職を機に北海道に戻ったUターン組ですので、長く関東に住んでいたことから、北海道でもエアコンを設置したのです。

我が親の住んでいる周りの家はエアコンは設置していないそうで、かなり珍しがられたと言っておりました。

今回、涼を求めていきましたが、真夏日(最高気温が30℃以上)ともいえる最高気温33℃の日が連日続きましたし、どこに行っても暑いのです。公共交通機関、特に函館の市電といさりび鉄道などは、冷房が点いていないので、乗っているだけで汗が噴き出てきます(全車両というわけではありませんが、ほとんど冷房はついていないの意)。
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また、クーラーがとても弱い、効きが悪い店や観光施設が結構な頻度であったと思います。観光施設を廻るだけで喉がとても乾きました。

夜は、熱帯夜(夕方から翌日の朝までの最低気温が25℃以上になる夜)でありましたので、例年であれば窓を開けると、朝3~5時には「うわぁ、寒い寒い!」ということで窓を閉めて、また熟睡するわけですが、今年は窓を開けると熱気が入ってくるので、窓は開けれません。クーラーのある部屋は居間で寝れませんので、扇風機を持っていって寝ました。

久しぶりに扇風機で寝ました。昭和生まれなので、その昭和の子供のころを思い出しました。昭和はまだ、令和も今ほど暑くなかったので寝れましたね。

昼間はあちらこちら出かけましたが、見事に晴天に恵まれましたので、どこに観光に行っても暑くて汗が滝のように出てきました。

もちろん、函館は道南と呼ばれる南側ですので、道北(稚内・旭川・富良野)、道央(石狩・空知・胆振・日高・後)、道東(網走・十勝・釧路・根室)とは違います。

しかしながら、今後も地球温暖化というより沸騰期は続くと思います。

やはり、エアコンの普及をすすめていくべきなのかなとも思います。特に公共交通機関は、すすめるべきです。昔の北海道ではありません。関東以南の観光客は、北海道に涼を求めてくるのもひとつの目的だと思います。

そして、北海道の人たちも家にはエアコンを入れた方がいいと思います。温暖化の今も北海道は夏が短いのは確かですが、それでも真夏日の家の中は暑いです。我が親にもエアコンの必要性を説きました。

北海道では、冷風機が飛ぶように売れたそうで、例年の8倍とか北海道のニュースで流れておりました。しかしながら、滞在中の8月22日に、北海道・伊達市の小学校で、体育の授業のあと小学2年生の女の子が倒れ、熱中症の疑いで病院に運ばれましたが死亡したニュースも流れました。悲しい話です。

北海道は涼しいというのは、もはや幻想でしかないのかもしれません。



※最後に
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【速報】“あおり運転” バイク男性が死亡した事件 懲役10年の判決 危険運転致死の罪に問われた元介護士の男に(2023年9月22日)

 堺市で去年、あおり運転の末にバイクに乗った男性を死亡させた、危険運転致死の罪に問われた男に対し、大阪地方裁判所堺支部は懲役10年を言い渡しました。

元介護士の川島陸被告(28)は去年3月、堺市の府道で、バイクで走行していた男性(当時28歳)に対して、車であおり運転を繰り返した末に転倒させるなどして即死させた危険運転致死の罪に問われていました。

裁判は9月13日に始まり、川島被告は起訴内容を認めていました。

検察側は「被告がバイクのすぐ前に割り込み、その後、被害者に車を蹴られたことから、危険な速度で追跡した」「事件の後、ドライブレコーダーのSDカードを捨てた」などと指摘。

一方、弁護側は「バイクを追いかけたのは被害者に車を蹴られたことがきっかけで、理由のないあおり運転とは異なる」と主張していました。

検察側は懲役12年を求刑していました。

22日の判決で大阪地方裁判所堺支部は、川島被告に懲役10年を言い渡しました。
堺市南区の元介護士・川島陸被告

煽り運転でバイクを運転していた男性を転倒させて即死させるという痛ましい事件の判決がありました。懲役10年だそうです、

煽り運転ということは交通事故として処理されますが、明らかに未必(みひつ、必ずしもそうなるものではないの意)の故意が認められる殺人罪にならないにかなとも思います。

道路交通法で裁くと、刑がとても軽くなります。

この判決ときいて思うんです。もし、殺したい相手がいて殺そうとする。この方法ですよね。包丁なんかで刺して殺したら懲役はどうなるでしょうか?犯罪として裁かれて、おそらく無期懲役になるでしょう。

日本で最も重い罪は「外患誘致罪(がいかんゆうちざい)」です。「外患誘致罪」は、外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者を死刑に処する罪です。

これは日本でもっとも重いとされる犯罪です。法定刑は死刑のみで懲役や禁錮の規定はなく、未遂や予備・陰謀の段階でも重く処罰されるのです。


刑罰は、重い順に、主刑である死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料の6種類に、付加刑である没収を加えた7種類です。

人を刺して殺した場合は、死刑だってありえるんです。

これが、車で轢いて殺してしまったら、どうでしょうか。

一番重い罪である「危険運転致死傷罪」で裁かれるんですが、かなり罰則が弱いです。

「危険運転致死傷罪」とは、危険な自動車の運転によって、人を死亡または負傷させた場合に成立する犯罪です。

刑法208条の2に規定されており、死亡させてしまったときは1年以上20年以下の懲役、負傷させてしまったときは15年以下の懲役となります。罰金刑はありません。

「危険運転致死傷罪」は、東名高速道で飲酒運転のトラックが女児二人を死亡させた1999年の東名高速飲酒運転事故などをきっかけになりました。

飲酒運転や無免許運転の被害者のご遺族が中心となって、極めて危険で無謀な運転により無惨にも生命が失われた場合にも業務上過失致死傷罪で5年以下の懲役などにしかならないことに対する問題提起がなされ、社会的関心が強くなって、多数の署名などが集まった結果、2001年に制定されたのです。

制定当時は、死亡させた場合に1年以上15年以下の懲役、負傷させた場合に10年以下の懲役でしたが、刑罰が軽いとの批判があり、2005年改正により現在の刑罰に引き上げられました。

また、新設当時には、四輪以上の自動車の運転の場合に限定されていましたが、2007年改正により単に自動車となり、自動二輪車なども含むことになりました。

危険運転致死傷罪に該当しない場合についても、2007年改正により自動車運転過失致死傷罪が新設され、業務上過失致死傷罪より重い7年以下の懲役などの刑罰が科されることになっています。

自動車運転死傷行為処罰法の第2条には、危険運転致死傷罪に該当するものとして6種類の行為が適用条件として記載されています。

❖危険運転致死傷罪に適用される行為
 ・アルコールまたは薬物の影響による走行
 ・制御が困難なスピードによる走行
 ・制御する技能を持たずに運転
 ・人や車の通行を妨害する目的での運転
 ・赤信号を無視して危険な速度で走行
 ・通行禁止の道路を危険な速度で走行

これが極めてあいまいで、適用されずに遺族や関係者ががっかりするケースが多発しているんです。そして、最大でも懲役20年ですよ。無期懲役が30年と言われていますし、どんなに悪質でも死刑がありません。

これが煽り運転だけになりますと、道路交通法では、通行妨害目的で交通の危険のおそれのある方法により一定の違反をした場合、罰則として3年以下の懲役または50万円以下の罰金、行政処分として違反点数25点で免許取消し(欠格期間2年)となります。

「危険運転致死傷罪」にしても「道路交通法」にしても罰則が弱いので、類似の案件は増加するばかりとなります。



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サメは孤独な存在ではない、6400kmもいっしょに泳ぐ2匹のホホジロザメ(2023年9月13日)

 ホホジロザメ(Carcharodon carcharias)は孤独の放浪者であると昔から言われている。その巨大なサイズとパワー、特徴的な外見で知られる象徴的な捕食者はネズミザメ科に属し、現存する最大級の捕食性のサメだ。

沿岸水域や沖合を含む幅広い海洋環境で生息していることが知られており、全世界の温暖、時には熱帯の海域で見られる。国際自然保護連合(IUCN)によって危急種に分類されており、さまざまな脅威(乱獲、生息環境の悪化、偶発的な混獲など)に直面している。獰猛な性質でよく知られている一方、ホホジロザメには科学者が解明しようとしている多くの謎がある。他の生物との関係もその1つだ。

かつては、紺碧の海を縦横にさまよい生命維持と時折、交流(交尾のために)をする孤独な動物と考えられていたことが、サイモンとジキルと名づけられた2匹のサメに関する最近の発見をより興味深いものにした。

昨年12月、米ジョージア州海岸付近で、海洋生物学者らによって追跡装置を取り付けられたサイモンとジキルは、6400km以上におよぶ特別な旅に出た。歩調を合わせた彼らの回遊は大西洋を経由して北へと進み、7月後半にはケベック州付近のセントローレンス湾に達した。サイモンが最後に位置情報を発信したのは8月11日、ジキルは7月18日以来発信していない。

サメを追跡する組織であるOCEARCHの主任研究員であるボブ・ヒューター博士は、自身の驚きを表現して「彼らは異常なほど同調して北へ向かいました。このような行動は初めて観察されたもので、これは非常に興味深いものです。謎に満ちた胸躍らされる結果です」と述べた。

サイモンとジキルの不思議な行動は、ある興味深い疑問を呼び起こした。このサメたちは友達なのだろうか?

サメの社会的行動については他の動物ほど知られていないが、ある種のサメが社会的交流やグループ行動をさまざまなレベルで行ったことを示唆する証拠がある。たとえばオグロメジロザメ(Carcharhinus amblyrhynchos)は集団行動で知られている。研究によると、サメたちは岩礁の一部で比較的安定したグループを形成し、集団は数カ月から数年間続き捕食されるリスクを減らしたり求愛行動を行うなど、さまざまな目的が達成されていることがわかっている。

コモリザメ(Ginglymostoma cirratum)とネムリブカ(Triaenodon obesus)も、日中、グループを作って海底で休んでいるところが発見されており、接近して平和に共存するための寛容さを示した。ツマジロ(Carcharhinus albimarginatus)も群泳行動で知られており、特に海山などの海底でよく見られる。

ホホジロザメに関しては、データ追跡によって、アザラシの群生地など、ある種の海域での一時的な個体間のつながりが判明している。つまり、これはおそらく科学が捉えた友情関係なのだろう。ほかにも、タグをつけられていない別のサメがいっしょにいたのだろうか、あるいは、兄弟か異父母兄弟などの血縁関係はあるだろうのか?

この謎を解明するべく、OCEARCHの研究チームはサイモンとジキルに血縁関係があるかどうかを調べるために遺伝子検査を行っている。関係がどうであれ、2匹のこの前例のない行動をきっかけに、科学者たちは新たな探求の道を切り開き、この絶滅危惧種の理解をさらに深めようとしている。

「ホホジロザメは私たちが考えていたよりも複雑であることがすでにわかっています」とヒューターがDaily Mailに話している。「この発見は、サメの回遊における家族的、社会的要因にまったく新しい要素を付け加えるものです」。

さらにヒューターは、いずれも若いオスであるこのサメたちが、常に10~100マイル(16~1600km)の距離を保っていたことについても触れた。タグをつけられたジョージア州海岸付近の島、セントシモンズ島とジキル島にちなみ名づけられた2匹は、10~15歳と推定されている。

サメが社会的交流をしているかもしれないという発見は、科学研究においてだけでなく、保護活動にも役立つ可能性がある。サイモンとジキルの交友の発見はこの動物たちに「人間味」を与えるかもしれないとヒューターは信じている。いずれにせよ、サイモンとジキルはサメの社会的行動という未だほとんどが謎に包まれている分野に、価値ある知見をもたらすものだ。彼らのユニークな旅は、知識ベースに蓄積され、動物たちの理解をさらに深めていくものとなるだろう。
ホオジロザメ2匹

ホオジロザメに社会的行動があるかもしれないというニュースです。

海洋生物学者らによって追跡装置を取り付けられたサイモンとジキルは、6400km以上におよぶ特別な旅に出たそうです。

残念ながら、追跡装置の信号は途絶えてしまったそうですが、これほど長い距離を一緒に泳ぐことはないそうなのです。

サメと言いますと、映画『ジョーズ』に始まり、最近では絶滅したメガドロンが出てくる『MEGザモンスターズ2』での人食いというイメージが植え付けられていますし、Youtubeには閲覧注意のシャークアタックの動画があったりします。

そんなイメージが先行して、単独で行動して、どこからともなく現れ、攻撃を仕掛ける「捕食者」という感じでしかないと思います。

実際には、 500種類いると言われているサメの中で、危険な人食いサメは6種類ですし、シャークアタックもビーチによっては何十年に1回の運の悪い出来事として、亡くなられた人のニュースをききます。

ところが今、従来のサメの孤独なイメージが覆されつつあるのです。近年、世界各地のサメ研究者が、サメが集まって仲間づきあいをしていることを発見しているそうなんです。

米フロリダ国際大学の海洋科の研究チームが、2020年8月に学術誌「英国王立協会紀要B」に発表した論文によると、オグロメジロザメは何年も同じグループで過ごしていて、明らかに特定の個体と一緒にいることを好む傾向が見られ、なかには4年ものあいだ続いた「友情」もあったというらしいです。

2016年に科学誌「Scientific Reports」に掲載された論文でも、米国の東部沿岸に生息するシロワニ(ネズミザメ目のサメ)の間に、複雑な社会的ネットワークがあることが確認されています。こうした関係は、以前は、チンパンジーのような高等な哺乳類にしか見られないと考えられていたらしいです。

記録装置を取り付けられたサメたちは仲間と何千回も交流し、4日間も一緒に行動していたペアもいたのです。

この研究では、一部のサメが、たまたま一緒にいたわけではなく、明らかにお互いを気に入って一緒に行動していたこともわかっています。

サメがなぜ仲間づきあいをするのか、どの程度協力しあうのかを解明するのはまだ困難だが、餌の入手状況や気候変動による海洋の温暖化など、いくつかの手がかりがあります。

米カリフォルニア州では、1994年にホホジロザメを保護するようになってから個体数が回復し、南部の沿岸では記録的な数のホホジロザメ(主に幼魚)が確認されています。

ドローンを「スパイ衛星」として利用し、送信機を取り付けたサメを追跡した結果、2020年にサンディエゴからサンタバーバラにかけての沿岸で53匹のサメが確認されました。
ホホジロザメは通常9メートルほどの距離を保っていて、あまり仲良しには見えないが、彼らが気に入った海域に集まっているらしいです。

人間の子の遊び場や校庭のようなもので、サメの子たちがなぜこの遊び場にやってくるのか、何が彼らを引きつけるのかということです。

研究者たちは、いくつかの仮説を立てています。
 ・サメの好物であるアカエイが多いこと。
 ・大型のサメなどの捕食者から身を守ることができること。
 ・気候変動による太平洋の海水温の上昇に伴い、ホホジロザメがどんどん北上していること。

バハマのビミニ諸島にあるビミニ・サメ研究所によると、サメが協力して狩りをするかどうかを解き明かすのは難しいといいます。例えば、オオメジロザメやツマグロ(メジロザメ目のサメ)など一部のサメは、餌となる魚たちが集団で一斉に産卵するときには数十匹も集まってきて、獲物を取り囲んでいるように見えることがあります。

問題は、サメたちが本当に協力しあっているのか、つまり、狩りの条件を最適化するために意図的にそれをやっているのかということです。たまたま大量の餌があり、それぞれのサメが食事をしに来ただけかもしれません。

サメの仲間づきあいには、これといった目的が見つからない場合もあります。ビミニ・サメ研究所は、若いレモンザメが明確な理由もなくほかの個体と仲良くしようとすることを発見したそうです。これまでの研究から、それぞれのレモンザメには個性があり、ほかの個体と一緒に過ごすかどうかに影響を及ぼしている可能性があることがわかっています。
レモンザメ
研究チームが本来の生息地の中の外洋水槽でレモンザメの赤ちゃんを観察したところ、幅広い社会的気質が見られ、ほかの個体と頻繁に交流する社交的な個体もいれば、単独行動を好むつきあいの悪い個体もいることがわかっています。

今後数年間で、サメについて多くのことが明らかになっていくかみしれません。



※最後に
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※2023.09.11改題(旧題:【サッカー日本代表のレベルが変わった試合の歴史】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.09.12改題(旧題:【サッカー日本代表が新たな次元に突入した試合を振り返る】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.10.22改題(旧題:【まだ途上:サッカー日本代表が史上最強になるまで】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)

【日本代表】ドイツに4-1快勝!伊東、上田、浅野、田中がゴール!初のW杯優勝経験国に2連勝(2023年9月10日(日) 5:36)

<国際親善試合:ドイツ1-4日本>◇9日(日本時間10日)◇フォルクスワーゲン・アレーナ
日本代表(2023.09.10)その2
 サッカー日本代表(FIFAランキング20位)がドイツ代表(同15位)と対戦し、FIFAワールドカップ(W杯)優勝経験国に対しては日本史上初となる2連勝を成し遂げた。

昨年11月のW杯カタール大会1次リーグ初戦に続く4-1で返り討ちにした。伊東純也、上田綺世、浅野拓磨、田中碧が決めた。途中出場の久保建英も2アシストした。

森保一監督(55)は「選手もスタッフも厳しい試合になると覚悟した上で準備を日々やってこられて良かった。高い目標を持ちながらチームを積み上げていること、準備期間の中でやれたこと、勝利は別としてチャレンジできたことがすごく良かったかなと思います」と納得した。

先発はGKに大迫敬介、DFラインは左から伊藤洋輝、板倉滉、冨安健洋、菅原由勢。2ボランチはリバプール遠藤航と守田英正が組んだ。2列目は右に伊東純也が入り、トップ下に鎌田大地、左に三笘薫。1トップに上田綺世を置く4-2-3-1の陣形でスタートした。

開始から出足鋭いプレスとコンパクトな守備で、ドイツの攻め上がりを許さない。完全敵地でペースを握ると、前半11分に伊東がいきなり先制した。菅原の右からの高速クロスにニアサイドへ走り込み、レアル・マドリードDFリュディガーの鼻先で合わせ、右足ワンタッチで流し込んだ。

その8分後にドイツFWサネに同点弾を許したが、わずか3分後の22分に上田のゴールで勝ち越した。

再び菅原の右クロスに伊東が右足で合わせる。これはミートできず、こぼれたが、そのボールを上田が左足ダイレクトで合わせた。急にボールが来ても決める嗅覚にSNSも興奮となった。

ドイツは自国で、まだサポーターが格下と見ているだろう日本を相手に、連敗など許されない。その中で反対に森保ジャパンが、リードだけでなく複数回の決定機を決め切る展開となった。センターバックでは初の先発コンビ結成となった冨安と板倉も奮戦。前半終了時には、スタジアム内にドイツ代表に対する猛烈なブーイングが響く異様な空気に包まれた。

後半に入ると、さらにチャレンジした。守備時に三笘がウイングバックに下がる3バックに布陣を変更。前半、右サイドから攻め込んできたサネを抑えにかかった。13分には上田に代えてFW浅野拓磨、鎌田に代えてDF谷口彰悟を投入。昨冬W杯で決勝点を挙げたジャガーも登場した。20分には、その浅野がロングパスに抜け出して1対1の決定機。GKテアステーゲンの好セーブに防がれたものの、ゴールに迫り続けた。

28分には、ドイツで現役最多122試合目の出場となったFWミュラーが送り込まれたが、日本が追加点を許さず。後半終了間際には浅野、田中碧が追加点。久保建英の2アシストだった。W杯で「ドーハの歓喜」と呼ばれた歴史的金星を挙げた日本が、今度は敵地でW杯優勝4度の強豪に真っ向勝負を挑み、勝ち切った。W杯制覇国からの連勝は日本サッカー史上初の快挙となった。

森保監督「3バックだけでなく可変で、難しい戦術変更の中でも選手たちがこなしてくれたと思います。いい守備からいい攻撃を忘れることなく、守備の強度を高くやってくれました。日本で応援してくださった皆さん、早朝からの応援が力になりました。スタジアムの日本の皆さんとも喜びを共有できてうれしいです」

伊東「(菅原)由勢からニアにボール来るかなと思って、うまく触ってゴールになって良かったと思います。うまく連携の中から裏に抜け出してクロスに行く場面が多かった」

上田「はね返りを詰めた形でしたけど、常に準備していたので取れたゴールだと思います。もう2つ自分なりに決めなければいけない場面があったので課題はありましたけど、初めて日本代表に貢献できたんじゃないかなと思います、多少」

冨安「まずはしっかりと勝てたことは大きいですし、ゲームをうまく進める。追加点は取りに行くよ、という指示は森保さんから出ていたので、後半3点目、4点目も取れて、狙い通りの戦いはできたんじゃないかなと思います。W杯とは違った勝利。次につながる。もっともっと期待してほしいですし、次の3年後のW杯でベスト8の壁を破っていきたい」


【セルジオ越後】ブラボーだね! 日本はW杯より成長していた ドイツ監督は解雇されるだろうな(2023年9月10日(日) 6:50配信)

日本代表(2023.09.10)その1
 情報戦の勝利だね。相手左サイドバックはボロボロだった。その情報が事前に入ったから、日本は右MF伊東、DF菅原が集中的に攻めて、前半2得点。後半もMF久保がそのサイドから2アシストと、4点すべてが日本の右サイドから生まれた。それを修正できなかった相手監督は解雇されるだろうな。

日本はW杯の時より間違いなく成長していた。前半は互角以上に戦ってリードして、後半5バックに変えたのは、何かを試す狙いではなく単純に勝ちたかったからだと思う。その戦術がはまってカウンターも決まった。一方で、ドイツの衰退時代はしばらく続くね。足元ばかりで、裏が取れない。選手層が薄いし、点が取れるFWもいなかった。

日本は、システマチックに戦う欧州チームには対抗できることが証明された。今後の課題は南米のチームだ。W杯でベスト8の壁を越えるには、南米勢にも勝たないといけない。欧州は戦術で得点を狙うが、南米は個人で突破してくる。

この日、唯一苦しんだのも、MFサネの個人突破だからね。サネのような選手は南米に何人もいる。日本が苦手とする相手をどう克服するか。今回はドイツに完全アウェーで勝ったが、南米勢との完全アウェー戦は過去3戦全敗、通算0得点8失点だ。次のステージに上がるためには、克服してほしい。

今回の欧州遠征で日本はドイツ、トルコと、普段はあまり組めない欧州勢と2試合を組んだ。今後、欧州遠征時には南米の強豪とのマッチメークを考える必要がある。ほとんどの選手が欧州でプレーしているので体調もいいはず。3月に日本へ呼んだウルグアイ、コロンビアはコンディションがあまり良くなかったが、それでも日本は勝てなかった。

アルゼンチンやブラジルと欧州で試合を組めば、何十億円もの金がかかるのだろう。だが、それこそ「新しい景色」への投資だ。3年後のW杯(FIFAワールドカップ北中米大会)で必ず返ってくる。日本サッカー協会(JFA)は今、経済的に苦しいかもしれない。それでも極端な言い方をすれば、その投資ができるか、できないかでW杯の成績が決まると思う。

とにかく今日はドイツに勝って、早起きしたかいがあったね。試合後、選手は誰も言わなかったけれど「ブラボー」だったよ。(日刊スポーツ評論家)


「本当に素晴らしい」 本田圭佑、ドイツに4発快勝の森保ジャパンを祝福「日本は次のレベルに達したと思う」(2023年9月10日(日) 8:00配信)

日本代表(2023.09.10)その3
 森保一監督率いる日本代表は、現地時間9月9日(日本時間10日未明)に敵地ヴォルフスブルクで行われた強豪ドイツ代表との国際親善試合で、4-1と完勝した。ワールドカップ(W杯)出場3回を誇るMF本田圭佑は、自身の公式X(旧ツイッター)で「日本は次のレベルに達したと思う」と綴った。

カタールW杯のグループリーグで対戦し、日本が2-1とドイツを撃破。それ以来の再戦となったなか、MF伊東純也とFW上田綺世のゴールで前半を2-1で折り返し、後半には途中出場のFW浅野拓磨とMF田中碧もゴールを奪い、日本が4-1と完勝した。

直近の対戦では2連勝、通算の対戦成績でも日本は2勝1分1敗と勝ち越した。試合後に本田は自身の公式Xで「日本は昨年のW杯からドイツ相手に連勝。本当に素晴らしい! 日本は次のレベルに達したと思う。おめでとう、日本」と祝福のメッセージを送っていた。

1993年5月15日に日本でのプロリーグ『Jリーグ』が開幕しました。その前身である日本サッカーリーグから長くサッカーを見てきました。

プロリーグが出来て、念願だったW杯に初めて出場、2002年には日本でW杯が開催されて、W杯に出るのが当たり前のようになって、今では強くなったことでW杯予選がつまらなくなってしまって、W杯でベスト16に進まないと失敗みたいな、ベスト8、そしてW杯優勝というのが目標になりました。

それでも・・・結局ドイツには負けるんだろうなって思っていました。

朝3時に起きました。そしてTVを点けましたが、ドイツが2点とったところで寝ようと思っていました。

相手チームの状況が悪い?監督の采配が悪くて解任論がでている?直前の2試合は負けている?・・・いやいや、そんなの関係ありません。だって、あのサッカー大国、W杯優勝4回のドイツですよ。

2022年W杯では相手が油断していたから奇跡的に勝てたものの(試合全体のボール支配率はドイツが65%、日本は24%。パス本数もドイツが820本のうち743本を通して日本ゴールに迫ったのに対し、日本は3分の1の261本)、本気で立ち向かってきたならば、こんな大国に勝てるわけが無い・・・。

でも、今の日本の若き代表選手は、きっとそんなこと誰も思って無かったのですね。

本当にサッカーは時代が変わりました。どんな大きな試合よりも、この親善試合では、それを衝撃と共に感じたのです。

朝3時でドイツに2点とられたら、すぐに寝ようと思っていたのですが、日本代表のプレーに魅了されて90分間見てしまいました。

本田圭祐さんの『日本は次のレベルに達したと思う』というのが、昔からの日本代表を見ているミーハーなサッカーファンの感じたことだと思います。

古くから見ているミーハーなサッカーファンでも、『次にレベルに達したと思う』というきっかけは肌で感じます。そんなきっかけとなった試合をご紹介します。

1985年FIFAメキシコW杯アジア最終予選(韓国戦)・・・プロ化に向けて
1985年10月26日、メキシコW杯アジア予選が、1993年『Jリーグ』のプロ化される前に最もW杯に近づいた予選でした。当時のW杯のアジア出場枠はわずか2ヶ国でして、1枚はイラクが出場権を勝ち取っており、残る1枚を日本と韓国のホーム&アウェイによる最終決戦だったのです。

この韓国戦に勝てば初の本大会出場でした。しかし、1985年10月26日の国立競技場での第1戦は、韓国に2点先行された前半43分に、FKのチャンスをゴール正面約25メートルでえます。FKの名手・10番 木村和司が右足でカーブをかけたボールはゴール左上隅に吸い込まれました。この時は歓喜に沸く国立競技場でした。だが、あと1点が遠かったのです。FKが直接決まって1点差に迫ったものの1ー2黒星でした。
メキシコW杯韓国戦FK決めた
1985年11月3日のアウェー第2戦も0ー1で敗れ、悲願を逃したのです。W杯出場の夢をかなえるために、日本はその後、12年の月日を費やしたのです。

それまで日本では「W杯は欧米のプロ選手が出場する大会。プロがない日本にW杯は夢舞台で五輪が現実的な目標」でした。W杯はフランスのプラティニ、ブラジルのジーコ、アルゼンチンのマラドーナなどのスーパースター含めてTVで見るものでしたが、あと一歩で手が届くところまで来たことは大きかったW杯予選でした。

この試合には、6万2000人の観衆が詰めかけました。当時はまだまだマイナーであったサッカーが、これほどまで大歓声を受けたのは初めてでした。日本サッカーの大一番に日本中が盛り上がったが、夢はかなわいませんでした。新聞の紙面には「W杯へ日本手痛い黒星」「62000観衆絶叫、タメ息」など厳しい見出しが躍りました。

そして敗れはしたものの、日本代表の強化を本気で考える機運が生まれたのです。韓国は一足早く1983年にプロリーグ(Kリーグ)をつくり選手を強化していました。プロとアマの差は大きく「日本でもプロを」の声が次第に大きくなったのです。

森孝慈監督は「これからが、我々の真価を発揮するときだ」と言っていたが、雪辱を期した第2戦も敗れましたし、石井義信監督が率いた2年後のソウル五輪もあと一歩で中国に敗れました。しかしながら、敗れたことが逆にプロ化の機運を一気に高めたのです。

1992年AFCアジアカップ広島大会・・・アジアで初めて頂点に!
まだ、1993年に『Jリーグ』がプロ化される前年の大会です。

AFCアジアカップ1992広島大会は、1992年10月29日から11月8日まで日本の広島県で開催された10回目のAFCアジアカップでした。この大会の開催国である日本は2大会連続2回目の出場にして初めてフル編成のA代表で参加し、初優勝に輝いたのです。

日本代表は翌年の1994年アメリカ・ワールドカップ(W杯)出場を目指し、1992年3月に史上初の外国人監督としてハンス・オフト氏が就任しました。

日本代表はタレント揃いで、三浦知良、中山雅史、高木拓也、北沢豪、福田正博、ラモス瑠偉、柱谷幸一、都並敏史などヴェルディ川崎(1993年のJリーグ開幕時のチーム名称、現東京ヴェルディ1969)中心のメンバーに2023年日本代表監督の森保一もおりました。

1992年8月には韓国、中国、北朝鮮と争ったダイナスティカップで初優勝を飾るなど、成果が表れつつありました。そんな中、1992年10月末から11月にかけて広島でアジアカップが開催されました。

日本の報道陣はこぞって好成績を期待したが、オフト監督は「私の仕事と、われわれの目標は、来年のW杯予選」と語り、この大会も「W杯予選へのプロセス」と言い続け、チーム強化の一環という姿勢を崩していませんでした。

決勝の相手は大会2連覇中で、当時アジア最強と目されていたサウジアラビアです。日本は中国戦で退場処分を受けた松永に加え、中盤の要だった森保一も警告累積で出場停止でした。

そうするうちに前半37分、左サイドで都並敏史からパスを受けたカズがセンタリング。これを高木琢也が胸トラップから、落ち際を左足ボレーで合わせて先制しました。

後半は追加点こそ奪えなかったものの、そのまま1-0でタイムアップを迎え、ついにアジアの頂点に立ちました。
1992年アジアカップ広島大会
試合後、柱谷は「気が付いたら決勝に来て、優勝していた」と、無心での戦いだったと振り返っていました。オフト監督が語った「W杯予選へのプロセス」という意識の影響もあったでしょうが、貴重な経験に加えて結果も出るという、収穫の多い大会となりました。

当初は広島県内でも、大会が行なわれていることを知らない人がいたほどでしたが、決勝は5万人の大観衆で埋まり、日本中の注目を集めました。翌年(1993年)5月の『Jリーグ』開幕を控えていた日本サッカー界が、現在まで続く新しい時代の扉を開いた初優勝でした。

1994年FIFAアメリカW杯アジア最終予選『ドーハの悲劇』
1993年に『Jリーグ』がプロ化されてから初めて臨んだW杯予選でした。

最終予選が独特で、進出した6チームが、カタール・ドーハでの集中開催方式で1順の総当たり戦を行う。上位2チームが本大会出場権を得るものでした。要は一発勝負だったんです。

1992年のアジアカップ広島大会の優勝や1993年に開幕したプロリーグ『Jリーグ』の開幕で、サッカーファンのみならず世間的にも『W杯に行ける(かも)』と注目度は高く、もうマイナーとは呼ばせないというところまできました。
ドーハの悲劇その1
そんな期待を抱いていた1993年10月15日の初戦のサウジアラビア戦は0-0引き分け、次の1993年10月18日のイラン戦は1-2で敗戦となり、いきなりW杯出場が崖っぷちのピンチとなります。

しかしながら、ここからが不屈の精神で、北朝鮮戦で3-0の勝利、そしてなんと韓国戦を1-0の勝利でW杯出場を手繰り寄せます。
1994年W杯第5戦前の第4戦までの勝ち点
最終第5戦前は日本とサウジアラビアが勝ち点5で、この2ヶ国が出場権内にいたのです。しかしながら、3位の韓国から5位のイランまで勝ち点4点ですので僅差となっており予断は許しません。

第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきましたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催されました。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送りました。

試合は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知良がヘディングで押し込み、日本が早々と先制します(1-0)。前半は1-0のまま終了しました。

他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』で、このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなります。

後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いつきました。他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となります。

イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず、逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドポジションぎりぎりから中山が右角にシュートを決めて、2-1と勝ち越しに成功した。

89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイド(バックスタンド側)からコーナーキックのチャンスを得ると、このキック前に90分を経過してロスタイムに突入します。

ここでキッカーのライス・フセイン=シハーブはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。

意表を突かれた日本は三浦知良が対応しますが、ハラフ・ムフシンに振り切られセンタリングを上げられます。これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となりました(90分17秒)。

イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込みました。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審の セルジュ・ムーメンターラー(スイス)の笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となりました。
ドーハの悲劇その2
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は下表の通りとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得し、得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃しました。
ドーハの悲劇第5戦後の勝ち点
「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれました(韓国では『ドーハの歓喜』)。

1993年10月28日は後に日本サッカー史上最大の悲劇として語り継がれてきた「ドーハの悲劇」が起きた日になりました。ただし、この失敗があるからこそ、日本はアジアサッカーのリーダーとしての地位を確立しています。

TVで次のフランスW杯アジア予選途中と本選の監督に就任した岡田武史監督が言っていた言葉を、今でも覚えています。

『今の日本のチームは、アジアで戦えば10回中、5回は勝っていけるチームです。ただ、今初めて5回勝てるチームになったんですよね。』

『今まで、僕らのときは3回しか勝てないチームが何とか出ようとしたんですけど、今ようやく同じレベルになって初めて同じレベルになっていきなり出ようとは甘いよと。』

『ワールドカップはそんな簡単なものではないよ。今はじめて同じレベルになったんだろ。その中で運があったりなかったり、いろんなことがあってでてくる。なんか言われている気がしましたけど。』

『ここまで5回勝てる力まできているのは間違いないです。今回出れなかったんですけど、ここまでオフトはじめ彼らが5回勝てるところまでもってきて、最後の最後で運がなかったというか、でも我々はこれから次に向かってやっていかないといけないと思うんですよね。また3回の世界におとしてはいけないんですよね。僕らだけでなく、カタールまで応援、日本で応援している方と一緒になって次のフランスに向けてしなくてはいけない。』

『きっとね、W杯は今日の日本のプレーヤーが力がなかったというわけではなかったんですよ。イラクが上ではないんですよ。同じ力だったんだけど、W杯に出た国と1回も出なかった国の差なんですよ。きっと。』

『ようやく同じレベルになれたんだから。次はきっと。きっと出れるように・・・。』

1998年FIFAフランスW杯アジア最終予選『ジョホールバルの歓喜』
FIFAワールドカップ・フランス大会の出場国数は前回アメリカ大会の24から32へと拡大され、アジア地区の出場枠も2から「最大3.5」に増やされました。

アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、A・B各組1位の2ヵ国は本大会出場権を獲得となりました。A・B各組2位の2ヵ国は第3代表決定戦(AFCプレーオフ)を行ない、この勝者が3番目の本大会出場権を獲得。決定戦の敗者はアジア4位(0.5枠)としてオセアニア地区1位(0.5枠)と大陸間プレーオフを行ない、その勝者が本大会出場という方式でありました。

フランスW杯を目指した日本代表にとっては「アジア予選突破」が至上命題でした。なぜなら、すでに2002年大会は日本開催(日韓共催)が決まっていましたが、W杯出場経験のない国が開催国となった例は(第1回、第2回大会を除いて)ひとつもなかったからです。
ジョホールバルの歓喜その1
苦しみ抜いて本大会切符を手にした過去の最終予選でした。とりわけ、初出場を果たした1998年フランス大会の最終予選は、ホーム・日韓戦の逆転負け、加茂周(解説者)監督の解任と岡田武史(FC今治)監督の電撃昇格、自力2位の消滅、イランとの第3代表決定戦(ジョホールバルの歓喜)・・・と、数々の紆余曲折の末に出場権をつかむという奇跡的なものでした。

1997年9月7日に初戦・ウズベキスタン戦は三浦知良の4ゴールなどで6-3の勝利しました。守りの乱れこそ懸念されたものの、白星発進となり、加茂監督らスタッフも胸をなでおろしました。

1997年9月19日のアウェイ・UAE戦(アブダビ)は酷暑でのゲームです。それをスコアレスドローで乗り切ったのは日本にとって、ここまでは悪くない序盤でした。

歯車が狂い始めたのは、1997年9月28日の第3戦・韓国戦(東京・国立)です。汗ばむような陽気の中、後半22分に山口素弘(解説者)の芸術的ループシュートで先制点決まった場面は国立競技場は歓喜の渦でした。

しかしながら、韓国がFWの切り札・金大義を投入した直後、加茂監督は日本国籍を取得してこの試合で代表デビューしたFW呂比須ワグナー下げてDF秋田豊を投入。この守備的采配で日本の勢いが止まり、守りを混乱させる結果となり、そして徐正源と李敏成にゴールを奪われ、1ー2の逆転負けとなりました。

この敗戦を境に中田英寿と名波が報道陣に対して口を閉ざすようになるなど、チームにこれまでにない緊張感が漂いました。

1週間後の1997年10月4日のアウェイ・カザフスタン戦(アルマトイ)で秋田豊の先制点でリードしながらラスト1分のところで追いつかれ、1-1のドローに終わったことで、日本サッカー協会幹部は監督交代を決断し、岡田武史コーチを昇格させました。
ジョホールバルの歓喜その0
Jリーグはおろか、実業団でも指揮を執ったことのない指導者を抜擢するのは常軌を逸していました。それでも日本は新たな一歩を踏み出すしかないほど追い込まれていました。

岡田体制初陣となった1997年10月11日のアウェイ・ウズベキスタン戦(タシケント)は中田英寿や呂比須ワグナーらここまでの主力を外し、森島寛晃と城彰二を先発起用しましたがゴールが遠く、後半31分に失点してしまう苦境に陥りました。

しかし残り1分、後半から出場していた呂比須がロングボールをヘッド。これがDFのミスを誘って幸運な同点弾が生まれます。この1点がなければ、日本は敗退していた可能性もありました。

実際、この時点で日本は勝ち点6の3位。1位・韓国は同13、2位・UAEも7を稼いでいて、自力2位もなくなっており、日本の試合がなかった1997年10月18日にUAEがカザフスタンに勝っていれば、絶望的な状況になるはずでしたが、UAEはカザフスタンに0-3でまさかの敗戦で、1997年10月26日のUAEとの直接対決に勝てば2位再浮上というかすかな希望が見えてきました。

極めて重要となった東京・国立でのUAE戦は、開始3分には呂比須ワグナーが豪快なシュートで先制しましたが、前半のうちに同点に追いつかれます。

特にエースである三浦知良の不調は深刻だった。実は9月の韓国戦で崔英一に徹底マークを受け、尾てい骨骨折のアクシデントに見舞われていましたが、まだ情報が公になっておらず、彼は批判の矢面に立たされ続けていました。

結局、このUAE戦は1ー1のドロー。試合後、スタジアムから出てきた三浦知良が、正門前に陣取ったサポーターから「お前なんかやめちまえ、腹を切れ」と罵倒され、イスを投げつけられるという前代未聞の事件も起きました。

当時を知らない人にしてみれば、日本代表の戦いに人々がここまで一喜一憂したこと自体、信じられないかもしれません。当時の選手たちが凄まじい重圧を感じながら世界への扉をこじ開けようとした事実があります。

3位に沈んだままの日本とは対照的に、韓国はこの時点で1位通過が決定した1997年11月1日のアウェイ・韓国戦(ソウル・蚕室)は彼らにとっては消化試合でした。しかしながら、日本にとっては絶対に勝ち点3を手にしなければならない大一番でした。

試合はモチベーションの差が明白に出まして切迫感を前面に押し出す日本は開始3分、相馬直樹のクロスから名波が先制。後半37分には再び左の相馬の折り返しを呂比須がゴール。2-0とリードを広げました。

後半に入ると韓国ペースになり、金度勲に度重なる決定機を作られる。岡田監督は一歩も引かず、北澤豪に代えて平野孝を起用し「下がって守りたいのを我慢して前へ前へという意識を持たせるようにした」と加茂監督とは正反対の采配を見せました。これで日本は2ヶ月ぶりの勝利、またソウルで13年ぶりの白星を挙げ、やっと長く険しいトンネルを抜け出しました。

三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止となった11月8日のカザフスタン戦(東京・国立)では、代表復帰した中山雅史(沼津)と高木琢也(長崎監督)が爆発し、5-1で圧勝。最終的にUAEをかわして2位を奪回し、11月16日のイランとの第3代表決定戦に進みました。

ジョホールバルのラルキンスタジアムで1枚の切符を手にするためのイランとの第3代表決定戦。三浦知良と中山雅史が2トップが先発し前半40分に中田のスルーパスを受けた中山雅史が先制点を挙げました。

しかし、後半1分、茶番劇を見せたアジジに同点弾を決められ、ダエイにも逆転ゴールを奪わました。そこで岡田監督は2トップの2枚代えを決断。これまで代表戦で一度も途中交代したことのなかった三浦知良と中山雅史を下げ、城と呂比須を同時投入します。

その城が2点目を叩き出し、試合は延長へ。そしてご存知の通り、日本の飛び道具・岡野雅行がゴールデンゴールを挙げ、日本はアジアの壁をついにこじ開けたのです。
ジョホールバルの歓喜その2
ジョホールバルの歓喜その3

1998年フランスW杯本戦『第1戦:アルゼンチン戦』
1998年FIFAワールドカップ・フランス大会。本大会初出場を果たしたサッカー日本代表は初戦でアルゼンチン代表と激突し、世界を知ることとなりました。
フランスW杯本戦
記念すべきサッカー日本代表のワールドカップ(W杯)初戦の相手は1998年フランス大会のグループH組で南米の強豪であり、W杯過去2度の優勝を誇るアルゼンチンとの試合でした。破壊的な攻撃力をもつ強豪を相手にディフェンシブな姿勢で臨んだ日本のゴールを守るのは川口能活、3バックは主将の井原正巳を中心に秋田豊と中西永輔。中田英寿、名波浩らが中盤に入り、前線の2トップは城彰二、中山雅史という布陣でした。大会前に急遽調整した3バックのシステムで耐え凌ぎカウンターによる攻撃に活路を見出したのです。

日本は山口素弘がシュートを打つなど序盤から積極的に動きます。だが、前半28分に先制したのはアルゼンチンでした。日本にとっては不運な失点だった。オルテガが短いドリブルからシメオネに渡し、ゴール前に飛び込んでリターンパスを受けようとして、スルー。これが、マークしていた名波の足に当たり、ゴール前に詰めようとしていた身長1メートル85の大型FWバティストゥータへの絶好の“パス”になってしまいました。バティストゥータは冷静に浮き球でシュート、足元に飛び込んで来たGK川口能活の上を抜いて技ありのゴールを決めました。
フランスW杯本戦アルゼンチン戦
日本は後半、中山に代えて呂比須ワグナー、相馬直樹に代えて平野孝を投入、攻勢をかけました。しかし、終了間際の中西の折り返しをダイレクトで放った呂比須のシュートが、相手DFにブロックされるなど、アルゼンチンの厚い守りを破ることは出来ずに0-1の敗戦となりました。日本には重く、そして遠い1点でした。

初戦を落とした日本は、第2戦のクロアチア(0-1)、第3戦のジャマイカ(1-2)とグループリーグ3連敗で、初めてのW杯を終えました。
フランスW杯本戦中山雅史ゴール

世界との差がはっきりしたことになって、『Jリーグ』で活躍している選手たちが世界、特に欧州のリーグを目指す選手が増えるきっかけになった試合でした。

2002年FIFA日韓W杯本戦『第1戦:ベルギー戦』
W杯は4年に一度開催される世界で最も大きいスポーツの祭典であることは明白だが、2002年のW杯は、史上初めてアジアで日韓開催されるという点で世界から大きな注目を浴びていました。

日本は1998年のフランス大会で初出場を決めたばかりの新鋭でしたが、その大会では3戦3敗という結果で大会を去っており、当然2002年大会では、これを上回る成績が期待されていました。

大会規定により予選が免除されて本大会からの出場となった日本は、1998年9月にフランス人監督のフィリップ・トルシエ監督が就任して以降、W杯での初勝利とグループ予選突破を目標にチームを構築してきました。

日本はグループ分けでベルギー、チュニジア、そしてロシアと同組のグループHに振り分けられた。そして日本全体の視線は、開幕戦であるベルギー戦に集まることになります。

特にW杯開催国はグループステージ敗退なしという神話(その後、2010年の南アフリカ、2022年のカタールはグループステージ敗退)があり、開催国がグループステージで敗退するのは不名誉な記録であり、当時の弱小アジアの開催では、日本がグループステージ敗退の可能性があり、危ぶまれていました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその1
そんな中で2002年6月4日、超満員の埼玉スタジアム2002で、日本代表は2度目のワールドカップを迎えました。日本中がサッカー一色に染まった地元開催の大会であり、入場シーンだけでも鳥肌が立つほどの大歓声が起こるこのスタジアムで、日本は強豪ベルギー相手に、ファンの期待に応える試合を披露します。

序盤から臆することなく積極的な姿勢を見せる日本代表でした。屈強なフィジカルを誇るベルギーの選手相手に果敢にデュエルを挑み、前半をスコアレスで折り返します。

そして、数年経った今でも色褪せないゴールはいくつもありますが、これは日本サッカー史上、一生ファンの記憶と記録に残り続けるゴールの1つだろうと思われるシーンが何と2つも見ることができます。

0-0で迎えた後半、日本は次第にベルギーのプレッシャーに押し込まれていき、57分にベルギーのヴィルモッツにゴールを奪われ、1点のリードを許す展開になりました。それでも、諦めない日本を、埼玉スタジアムに駆けつけた5万人を超えるファンの応援が後押しします。

そして直後の59分、小野伸二のロングフィードに抜け出した鈴木隆行がつま先でボールをネットに押し込み、同点ゴールを奪ってみせました。会場のボルテージは一気に最高潮になします。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその2鈴木隆行
そしてそこから10分もしない、67分、中盤のハイプレスからボール奪取に成功した日本は、そのボールを稲本潤一がドリブル突破で運び、相手フィフェンダーを強引にかわして強烈な左足シュートを叩き込んだ。日本はこのゴールで逆転に成功し、W杯で初めてリードを奪いました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその3稲本潤一
超満員の埼玉スタジアムに歓喜の渦が巻き起こった。自国開催のW杯初戦という歴史的価値も含め、大きな意味のあるゴールとなったことは間違いない。4年前はわずか1得点しかできなかった、数年前まで極東のサッカー後進国に過ぎなかった日本が、ヨーロッパの強豪国を土俵際まで追い詰めたのです。

日本にとって、残念ながらこの試合は、その後追いつかれ試合は2-2の引き分けで終わりました。

ベルギーに先制された瞬間、フランスW杯が頭をよぎりました。いくらアジアカップを制覇しても、コンフェデ杯で準優勝しても、やっぱり世界の舞台ではまた負けるのかと思ってしまったのです。しかしそのすぐ後、鈴木隆行のゴールが全部吹き飛ばしてくれました。とにかく入れるという強い執念、粘りが生んだ、華麗では無いけどめちゃくちゃかっこいいゴールでした。

本当に鈴木隆行のゴールは今見ても目頭が熱くなりますね。このゴールだけで『フランス』とは違う、日本はW杯で戦えると思ったゴールだったんです。

そして、このゲームから日本も完全に世界で戦えるという自信を監督、選手、日本国民全体で持てたと思うのです。

2006年FIFAドイツW杯本戦『第1戦:オーストラリア戦』
ジーコ監督率いる日本代表は、2004年のアジアカップを制し、ワールドカップ・アジア予選も順当に勝ち上がるなど、アジアにおいては抜きん出た強さを示していました。円熟期を迎えた中田英寿選手をはじめ、中村俊輔選手、稲本潤一選手、高原直泰選手ら海外でも活躍するタレントを多数擁し、前回日韓大会のベスト16以上の成績を目指して、このドイツ大会に臨みました。

グループステージの相手は、オーストラリア代表、クロアチア代表、ブラジル代表の3チーム。まずは初戦のオーストラリア代表に勝利し、幸先良いスタートを切りたいところでした。

日韓ワールドカップでのベスト16進出を経て、4年間で日本は多くの選手が欧州で実績を積み、「集大成になる」と期待を寄せられていた。代表23人の欧州組選手の数は、前回の4人から6人に増加していました。
2006年ドイツW杯その1
日本は3-5-2のフォーメーションで、オーストラリア戦に臨みました。GK川口能活選手を最後尾に、3バックには坪井慶介、宮本恒靖、中澤佑二が入ります。中盤の底では中田英寿と福西崇史がコンビを組み、両サイドには駒野友一と三都主アレサンドロを配置。そしてトップ下には初のワールドカップに臨む中村俊輔が入り、高原直泰と柳沢敦が2トップを形成しました。

日本は強靭なフィジカルを誇るオーストラリアのシンプルな攻撃に苦しめられましたが、コンパクトな守備陣形を保ち、まずは守りからリズムを掴んでいきました。

そして26分、右サイドから中村俊輔がクロスを入れると、これがそのままネットに吸い込まれて、日本が先制に成功します。幸運な形でゴールを奪った日本が、1点をリードして試合を折り返しました。

後半に入るとロングボールが増えてきた相手の攻撃にもしっかりと対応し、リズムを渡しません。しかし、オーストラリアを率いるフース・ヒディンク監督は、積極的な選手交代で日本に揺さぶりをかけてきます。53分にティム・ケーヒル選手、61分にジョシュア・ケネディ選手、さらに75分にはジョン・アロイージ選手と次々に攻撃の選手を送り込み、半ば強引に日本のゴールに襲い掛かってきました。

それでも何とか耐え凌いでいた日本でしたが、84分、ロングスローから最後はケーヒル選手に押し込まれると、89分に再びケーヒル選手に強烈なミドルを突きさされ逆転されてしまいます。さらにアディショナルタイムにも失点した日本は、わずか8分あまりの間に3点を奪われ、屈辱的な逆転負け。ノックアウトステージ進出に向け、いきなり苦しい状況に追い込まれました。
2006年ドイツW杯その2
どちらにもあった幸運。日本には「プラン」が欠けていた。勝負を嗅ぎわける感覚、戦術眼、精神力、体力、采配・・・。日本にとって、とてつもなく長く感じられた最後の8分間のなかに、微妙なズレから生じた敗因がそこかしこに散りばめられていました。

日本はこの敗戦を引きずって、第2戦でクロアチアにはスコアレスドロー、第3戦でブラジルには1-4で粉砕され、早々と敗れ去りました。大会後に中田が引退を発表し、ひとつの時代が終わりました。

浮かれていた日本サッカーは、頬を平手でひっぱたかれて、戦いの原点に立ち戻る必要がありました。果たして屈辱的な敗北から生まれ変われるか。そんな大会でした。
2006年ドイツW杯その3中田英寿

2018年ロシアW杯本戦『ラウンド16:ベルギー戦(ロストフの14秒)』
2018年に行なわれたロシアW杯、準々決勝進出をかけた一戦で、日本代表は世界ランキング3位(当時)の強豪・ベルギー代表を相手でした。後半立て続けに2ゴールを決めた日本は73分までリードを続け、初のベスト8進出という歴史的な瞬間への期待値はかつてなく高まります。

しかし、その思いは一気に失意へと変わり終戦となりました。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その1
初のベスト8進出を懸けて日本とベルギーが激突した一戦は、一進一退の攻防で0-0のまま前半を折り返すと、後半一気にゲームが動きます。後半3分、自陣でボールを奪ったMF乾貴士がMF柴崎岳につなぎ、右サイドを駆け上がったMF原口元気にスルーパス。原口は追いすがる相手DFを背負いながらも、シュートフェイクを入れて右足を振り抜き、ファーサイドに自身W杯初得点となる先制ゴールを突き刺しました。

さらに日本は後半7分、ゴール正面でセカンドボールを拾ったMF香川真司がタメを作ると乾にパス。フリーの乾は狙いすました右足ミドルをゴール右隅に突き刺し、リードを2点に広げました。

しかし、ベルギーも後半24分にDFヤン・フェルトンゲンの一撃で1点を返すと、途中出場のMFマルアン・フェライニのヘディング弾で同点に追いつきます。そして、後半アディショナルタイムにドラマが生まれました。

MF本田圭佑の左CKを難なくキャッチしたベルギーGKティボー・クルトワのスローイングから高速カウンターが発動。MFケビン・デ・ブライネがドリブルで持ち込み、右サイドを駆け上がったDFトーマス・ムニエが中央にグラウンダーのクロス。ゴール正面に飛び込んだFWロメル・ルカクがフィニッシュするかと思われたが意表をつくスルー、最後は飛び込んできたMFナセル・シャドリが値千金の逆転弾を決めました。直後にタイムアップの笛が鳴り、ベルギーが3-2と鮮やかな逆転勝利を収めたのです。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その2
クルトワがボールをキャッチしてから日本のネットを揺らすまで、わずか14秒。ベルギーの完璧な高速カウンターは世界中で話題となりました。

『もしかしたら、ベスト8に行かるかももしれない。』と試合をしていた選手たち、応援していたサッカーファンは、失意のどん底を味わうことになりました。

2022年カタールW杯『第3戦:スペイン戦』
ドイツとスペイン、優勝経験国2つが同居するグループEに入った日本。下馬評では突破は難しいとされていたが、2度のジャイアントキリングで世界を驚かせました。

初戦ではドイツと対戦しました。前半は防戦一方の展開となり、33分には先制を許しました。だが苦しい中でも前半を1失点で我慢すると、日本は後半に勝負をかけました。三笘薫、堂安律、浅野拓磨、南野拓実と攻撃的なカードを切ると、この交代が実ったのです。75分に堂安律が同点ゴールを奪うと、83分には浅野琢磨が逆転弾。見事初戦でドイツを撃破し、大番狂わせを起こしてみせました。

しかしながら連勝を期したコスタリカ戦に落とし穴が待っていました。このグループで最も力が劣るチーム相手に、低調なパフォーマンスに終始、終盤に決勝ゴールを許し、勝点を落とす結果となりました。
2022年カタールW杯スペイン戦その1
ここで、サッカーファンは日本の実力に疑心暗鬼になります。『強いのか?』『弱いのか?』よくわかりません。そして、第3戦の最終戦は優勝候補のスペインでしたので、グループステージ敗退もありえたのです。

最終戦である第3戦は優勝候補のスペインと激突しました。前半スペインに先制されるが1失点で抑えると、森保一監督は後半立ち上がりにかけていた。堂安律と三笘薫を投入し攻撃的に出ると、この2人が得点に絡み6分間で逆転しました。その後はスペインの猛攻を凌ぎきったまたも逆転での勝利(1-2)となりました。日本はグループステージでドイツとスペイン相手に白星を挙げ、見事に首位通過を果たしたのです。
2022年カタールW杯スペイン戦その2
2022年カタールW杯スペイン戦その3
初のベスト8へ4度目のラウンド16に臨む日本の相手は、前回準優勝のクロアチアでした。日本が前半43分にセットプレーから均衡を破りました。しかし後半に入るとクロアチアも反撃に出ます。すると55分、アーリークロスからイヴァン・ペリシッチが強烈なヘディングシュートでネットを揺らし同点となりました。

試合は息詰まる重い展開が続き、延長戦に突入しましたが120分でも決着はつきませんでした。ベスト8の行方はPK戦に委ねられます。先攻を取った日本だったが、1人目の南野拓実と続く三笘薫が失敗。さらに4人目の吉田麻也も決められず惜敗を喫した日本は、またしても準々決勝のピッチにたどり着くことはできませんでした。

W杯ベスト8は、指先には触れていた。だが近いようで遠い「まだ見ぬ新しい景色」は、今回も我々の前に広がることはありませんでした。それでも、世界と互角に戦った今大会の日本代表は、その重い扉を開く「未来」のための「新時代」を間違いなく見せてくれたのです。

「4年後こそ」。この言葉が、今回で最後になると信じましょう。



※最後に
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コロナ後初の夏、暑すぎて敬遠 海水浴客、目標の半分以下 和歌山(2023年9月9日)

 和歌山県白浜町は8日、2023年の白良浜海水浴場の利用者が前年比32・5%(9万5078人)減の19万7867人だったと発表した。町は猛暑とお盆に襲来した台風7号の影響などを理由に挙げている。新型コロナウイルスの「5類移行」後初の海水浴シーズンへの期待から、コロナ前の19年(40万6595人)並みの40万人を目標にしていたが、半分にも届かなかった。

同海水浴場は22年と同じ5月3日~8月31日に開設。利用者は5、6月は前年比10・1%減の2万4638人、7月が同7・9%減の9万3364人だったが、8月は同51・4%減の7万9865人と大きく落ち込んだ。22年はお盆を中心に8日あった1万人以上の日が、23年は7月16日(1万8600人)の1日だけだった。町の担当者は「8月が7月より少ない年は多分例がないだろう。今年は猛暑を避け、海水浴場が閉まる午後5時以降に訪れる客が多数見られた。こんな年も過去になかった」と言う。

一方、白浜温泉旅館協同組合によると、加盟23施設の23年7~8月の宿泊者は前年比7・2%増の22万8644人だった。こうした状況から、町は観光客が猛暑で海水浴を敬遠したことに加え、コロナ禍では「3密」対策として海水浴に来ていた客層が他のレジャーや観光地に回った可能性もあるとみている。井澗誠町長は「ショックだ。優に30万人は超えると思っていた。海水浴場離れも進んでおり、夏以外に集客できるスポーツやイベントなどを考えないといけない」と述べた。

また、7月15日~8月31日に開設した他の町内の海水浴場は、臨海浦9026人(前年比10・2%減)▽江津良1万7125人(同23・2%減)▽椿1943人(同7・5%増)――だった。
海水浴場

昭和の時代は、夏と言えば「キャンプ」「祭り」や「花火」、そして「プール」や「海水浴」など、外遊びには事欠かなかったのですが、令和の時代でも人気なのは、せいぜい「キャンプ」ぐらいでしょうか。

2023年の夏の平均気温は過去最高、東京の猛暑日、熱帯夜の連続新記録など、9月の現在も最高気温は30℃を超える日が続いております。

夏が来る前には、国連のグテーレス事務総長は同日の記者会見で「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代(the era of global boiling)が来た」という発言がありまして、正にそのような状態になっております。

こうも暑ければ、各地の海水浴場が賑わうのかと思えば、そうではなさそうです。

これは暑すぎて敬遠ではなく、とてつもないスピードで「海水浴離れ」が日本国内で進んでいると思われます。

すべては、「エアコンの効いた自室で、YouTube見ていた方が楽しい」「オンラインゲームで実際に合わなくとも友達と遊べちゃう」「車の維持費や免許取得が高額すぎて、若者が車を持たない(持てない)」などの文化が関係していると思います。

恐らく、冬のスキー(スノボ)離れも顕著になるかと思います。

夏のレジャーも冬のレジャーも、集客力の面で厳しい時代が到来しているのです。



※最後に
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【海外発!Breaking News】「ボートの上にいたのに」サメが10歳少年を襲う 豪でサメ被害続出の原因とは?(2020年7月23日)

少年を襲ったとみられるホオジロザメ_
 例年以上にサメ被害の続くオーストラリアにて今月17日、10歳の少年がサメに襲われて乗っていたボートから水中に引き込まれる事故が起きた。少年は頭や上半身に裂傷を負ったものの、同乗していた父親にすぐさま救出され、九死に一生を得た。『ABC News』『LADbible』などが伝えている。

サメに襲われた10歳の少年は、父親や他2人の同乗者と共に6メートルほどの釣り船でタスマニア北西部スタンリーの海岸沖に釣りに出かけていた。事故が起きた時、彼らは港に戻る途中だったという。

事故を目撃した地元スタンリーのアワビ漁師ベン・アレンさん(Ben Allen)によると、水中からサメが現れ少年を水中に引きずり込んだ時、少年の父親たちは船の上で獲れた魚の内臓を処理していたそうで、当時の状況をこのように説明した。

「いきなり海面からサメが飛び出してきて、少年を掴んでそのまま海に引きずり込んだんだ!」

「父親の本能ってやつなんだろうね。すぐさま父親が海に飛び込んで少年を引き上げたよ。」

少年を襲ったサメは父親が海面に飛び込むとすぐに少年を離し、その場から去っていったという。

頭や胸、腕に裂傷を受けた少年は父親によって近くのフィッシュ&チップス店に運ばれ、応急処置を受けた。少年が着ていたライフベストはサメによってボロボロに裂けていたそうだ。救急隊到着後、バーニーのノースウエスト地区病院(North West Regional Hospital)に搬送された少年は状態が落ち着いており、のちにローンセストン総合病院(Launceston General Hospital)に転院している。

フィッシュ&チップス店にて少年の応急処置にあたったダイアン・メイナードさん(Diane Maynard)は「あの状況での父親の働きは、あんな恐ろしい事態にもかかわらず素晴らしいものだったわ!」「父親は気をしっかりともってよくやっていた。私が彼の立場だったとしたらあんな風にはできないと思う」と、少年の父親が救出から応急処置に至るまで非常に冷静だったことに称賛を送っている。

サメについて少年は「大きなサメでホホジロザメだった」と話しており、アレンさんの目撃証言からも襲ったのはホホジロザメと見られているが確認は取れていない。

なお事故現場近くにはアザラシの繁殖地があるため、アレンさんは「サメは食事モードに入っていたのだろう」とサメが攻撃的であった理由を推測している。

またサメ襲撃の研究者で作家でもあるクリス・ブラックさん(Chris Black)は、事故当時に父親たちが船上で魚を処理していたことが襲撃の引き金になったとして、次のように語っている。

「ホホジロザメはサメの中で唯一、ボートの上の状況など海面上で何が起こっているのかを確認するために頭を上げるサメなのです。」

「魚を処理していた父親たちは、魚の内臓を海に捨てていたに違いない。それにサメは反応したのでしょう。」

ブラックさんは「とはいえ、こんな事故はめったに起きるものではありません」「海面に飛び込んできた父親にサメも驚いたはずです」と、この事故が非常にまれなケースであるとも付け加えた。

オーストラリアでは今年6月にサーフィンを楽しんでいた男性がサメに襲われ死亡した事故を含め、この5週間以内に東海岸を中心として4件のサメによる襲撃事故があり、うち3人が亡くなっていた。

海洋研究家のジュリアン・ペッパーレル博士(Dr.Julian Pepperell)は「毎年この時期に東海岸に沿って北上するクジラの数が、今年は例年以上に増えている。クジラの死体を餌として狙うサメもその分、多く引き寄せられているのだろう」と仮説を述べている。
水面で口を開けたホオジロザメ

大分前のニュースになりますが、オーストラリアで10歳の少年をボートからホオジロザメに引きずり込まれたそうです。

少年が水中に引きずりこまれた時、少年の父親たちが獲れた魚の内臓の処理をしていたので、そのまま海に捨てていたのでしょう。匂いにつられてボートの傍まで来ると、大きな獲物(少年)がいたので、噛みついて引きずりこんだと思われます。

少年は、すぐに父親が船から飛び込んで救い出したので、何とか生き延びることができました。

それにしても、ホオジロザメは、海面の上を覗くことができる唯一のサメであることを知りました。てっきり、他のイタチザメとか、オオメジロザメとかもできるのかと思いました。

映画『ジョーズ』で、クイントが食べられるシーンでホオジロザメが沈没しつつ船に頭を上げて乗っかり、滑ったクイントが、ホオジロザメの口に一直線というシーンを思い出しますし、ホオジロザメが水面から頭を出している写真や動画を見ますが、あれはホオジロザメだけだったのですね。
映画ジョーズでクイントが食べられるシーン



※最後に
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ジャニーズ東山新社長「性加害を知らなかった」発言に、当事者の会・平本代表は「残念だね」(2023年9月7日)

 ジャニーズ事務所の藤島ジュリー景子社長は9月7日、自身が引責辞任し、後任社長として所属タレントの東山紀之さんが就任することを発表した。会見がはじまると、都内の別場所に集まった「ジャニーズ性加害問題当事者の会」(以下「当事者の会」)メンバーは、一様に険しい顔で会見の様子を写したモニターを見つめていた。

藤島前社長が会見の冒頭、「ジャニーズ事務所としても、個人としても、ジャニー喜多川に性加害があったと認識しております。被害者の皆様に心よりお詫び申し上げます」として謝罪。平本淳也代表は何度もうなずきながら様子を見ていた。

東山新社長が「(ジャニー氏の)性加害を知らなかった」と述べた場面では、平本さんは「残念だね」と言葉を発し、他の当事者の会メンバーも苦笑しながら首を横にふり、納得のいかない表情を浮かべた。

志賀泰伸さんは、会見の様子を見ながら、苦しげにうつむく仕草を見せる場面もあった。
ジャニーズ事務所性被害

ジャニーズ事務所で、ジャニーズ所属のタレント(子供)に対するのジャニー 喜多川元社長(ジャニー きたがわ、Johnny Kitagawa、1931年10月23日 - 2019年7月9日)の性加害問題で『死人に口なし』という言葉がふさわしいのですが、元ジャニーズたちが堰をきったように、性被害の告白を行っております。
ジャニー喜多川氏
被害に遭ったタレントは数百人にも及ぶとされます。

そして今日、問題が公になってから初めてのジャニーズ事務所による会見が、7日午後2時から行われました。

会見に出席したのは、ジャニーズ事務所社長の藤島ジュリー景子氏(57)と、ジャニーズ事務所所属タレントで最年長、今回新社長となった東山紀之氏(56)、タレントの井ノ原快彦氏(47)と顧問弁護士の4人です。そして、ジャニー氏の性加害を事実と正式に認め、謝罪したのです。

この中で、ジャニー 喜多川元社長による公然と行われていたとされる性的搾取を、今回、新社長になった東山紀之氏や、社長退任を表明した藤島ジュリー景子氏が、この事実を知っていたのか?ということが焦点になっています。

当の本人が亡くなられているので、世間も被害者団体も責める相手がいません。そうなると何処に責任の所在するかといいますと、かつて所属していた会社と、現在の代表を責めるしかありません。

繰り返しますが、当の本人からの話をきけませんので、この事実を昔から関わりのある現体制と新体制の上層部に問いただすしかないのです。

東山紀之氏(56)は「性加害を知らなかった。噂程度は知っている。」と語っていますし、藤島ジュリー景子氏(57)も「私も知らなかったことを知ることになった。私も、すごくショックを受けている。」というコメントです。

このコメントに対して世間は納得がいかないようで『本当に知らないの?』『知っていたのに咎めなかったんじゃないの?』という意見が大多数のような感じに見受けられます。

果たしてどうなのでしょうか。

もし『知っていた。』というであったも、公には口が裂けても言えないでしょう。

会社を再建しなくてはいけませんし、ジャニーズに所属している自分自身のキャリアも終わってしまいます。いくら寛容な業界でも、最近はコンプライアンスなどに厳しくなっておりますので、二度と仕事ができなくなり、会社が潰れてしまいます。

次に『本当に知らなかった。』というものです。

当事者の方が、東山紀之氏(56)が性加害の現場にいたのを見た人がいるなら、今からでもそう言ってほしいですが、東山紀之氏(56)も暴露されて信用が失墜するリスクがあることは当然わかってるだろうから、知ってるなら知ってたと言うと思います。

そして、ジャニー 喜多川元社長は、東山紀之氏(56)を可愛がっていましたから、東山紀之氏(56)自身には、そのようなことはしないでしょう。

東山紀之氏(56)の話にもある通り、先輩からも後輩からも何も話もなかったんではないかと思います。当事者もタレントですし、相談を先輩や後輩のタレントももちかけても何に解決にもなりませんので、相談されることもなかったんだと思います。

直接の加害者であるジャニー 喜多川元社長は亡くなり、その一族は引責辞任して経営から手を引きました。そして事務所を辞めた人は私は被害者だと名乗りをあげ、残った人は私は被害を受けていないということです。

残った人は、この先も口を割ることはないと思われますが、被害者だと名乗りを挙げた人の証言から察するに、みんな被害者なのだと思います。

そうしますと、被害者と名乗りをあげた人たちが、同じく被害者と思われる人たちが所属する会社を、当事者がいないのに訴えて補償を求めるなんて果たしてできるのでしょうか。証拠(エビデンス)があるんでしょうか。どうやって証明していくんでしょうか。実に興味深い展開になって来ました。



※最後に
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トータルテンボス藤田 野球人口の減少に「入り口はママさんが握っている」ネットより情報が速い(2023年9月5日)

 高校野球大好き芸人のトータルテンボス・藤田憲右(47)が浦和学院の森士元監督のYouTube「森士チャンネル」に出演。深刻な野球人口の減少について意見を交わした。

藤田の子供が小学3年生で学童野球を始めたとき、夫人がママ友から「何で野球なの?」と驚かれたという。

お金がかかる、場所もない、送りもしないといけない、当番ルールもある、面倒くさい。

それがママ友の学童野球に対するイメージ。藤田は「入り口はママさんたちが握っている。親がやらせたい(スポーツに子供が流れる)」と母親の野球に対するネガティブイメージが野球人口に影響していると指摘した。

藤田は「ママコミュニティーはネットより(情報が)速い」と笑った。

森氏も4000校を越えていた高野連加盟校が3400校台に落ちていることを懸念し、「なでしこ(JAPAN)見てサッカーやった母親のお子さんはサッカーをやる。高校野球は(甲子園で)ボール渡している女子にも(グラウンドに)入るんじゃないとか。最近ようやく開かれてきたが遅れている」と指摘した。

それでも森氏、藤田ともに近年の学童野球には女子が増えており、WBC優勝効果と合わせて野球人口にも復活の兆しが見えると声をそろえた。

2022年の出生数が80万人割れをした日本の出生数です。子供はどんどん減っております。平均年収が『400万円』から30年上がらない日本、経済の低迷や景気の横ばいが続いている『失われた30年※1』とありますが、この出生数も1990年の『1.57ショック』から30年は有効な対策を打ち出せないまま、何でも後ろ倒しの政治により、現在の状況を迎えているのです。

1990年の1.57ショックとは、前年(1989(平成元)年)の合計特殊出生率が1.57と、「丙午(ひのえうま)」という特殊要因により過去最低であった1966(昭和41)年の合計特殊出生率1.58を下回ったことが判明したときの衝撃を指しています。

※1失われた30年とは、バブル崩壊後の90年代初頭から現在までの期間を指す。 この30年間は高度経済成長期や安定成長期のような成長が見られず、経済の低迷や景気の横ばいが続いている。 

※2干支(えと)の一つ。 万物は5種類の元素からなるという五行説の思想に基づき、「丙」も「午」も火の性質があることから、丙午生まれの女性は気性が激しく夫を早死にさせる、との迷信が生まれたとされ出生数は激減する。60年に一度巡ってくる(前回は1966年で次回は2026年)。

幼稚園や学校も減っていますが、他にも子供の産業は右肩下がりになりますし、子供だけじゃなく、全ての産業が「人口が右肩上がり」のモデルの収益構造となっているので転換を迫られます。いわゆる「パイの奪い合い」の状態が激しくなるのです。

スポーツも例外でなく「パイの奪い合い」が激しくなります。日本においては「野球」と「サッカー」がメジャーであり、人気のあるスポーツですが、この2大スポーツも子供の減少に悩まされることになります。

「野球」と「サッカー」を比べますと、「野球」は野球場が必要になります。昭和の頃は近所に空き地があって、そこで野球をやれましたし、公園でも「野球」ができました。それが令和の今はどうでしょう。近所に空き地が少なくなりましたし、もしあっても私有地で侵入禁止となっていますし、公園は球技禁止となっています。学校も休日は「野球」と「サッカー」の校庭使用予約の取り合いです。

それでも「サッカー」は河原でもできますし、ちょっとした空き地があれば、玉一つあれば遊びでもできます。「野球」はどうでしょうか。「サッカー」に比べて、大きい空き地が必要でして、ホームベース、ファースト、セカンド、サードの4つのベースのある内野と、外野という空間が必要ですし、軟式、硬式なんてボールは使用できません。ぜいぜいゴムボールとカラーバットぐらいかと思います。

まず「野球」をやる人間が少なくなってきていると思います。今や「サッカー」「テニス」「陸上」、そして最近W杯で日本が活躍した「バスケットボール」など、色々なスポーツがありますので、それだけで野球人口が少なくなっていると思います。

次に「野球」はバット、ボール、グローブ、ユニフォームなど道具を揃えるのに多額の出費が必要なんですよね。それも使い回しの出来る様な物では中々無くて、かなりの物が個人で揃えなければいけない様な物です。

そして、母親の「野球」人気のなさですね。一番注目を浴びるプロ野球は未だに「昭和感」から脱却できない応援歌だったり、選手の私服や髪形などのセンスの悪さですね。

そして「野球」は、監督コーチの負荷が大き過ぎるので、保護者がお茶当番、テント設営、応援という名で拘束されますし、試合の日は配車登板もあります。

我が家も子供をスポーツの「少年野球」の評判をきいて『昭和から運営が変わってねー。忙しいので、拘束されるのは、とても無理!』と除外しました。

日本の少年野球界は、ボランティア活動で成り立たそうとしているところが一番の問題だと思います。

監督もコーチもボランティアでやっていただているので、月謝を払うシステムが必要なのではと思います。それでも負担は多いので、運絵スタッフにも月謝が必要なんだと思います。

しかしながら、高額になりますと、今の日本は30年給料が上がらずに非正規雇用が増えるばかりでステルス増税が追い打ちをかけて収入が少ない中で、子供を通わせることができまくなりますので非常に難しい問題となります。

私は「大谷翔平」選手のようなスーパースターは二度と現れないと思います。大谷選手が「野球界」のシステムで育てて出てきたも選手ではなく、いくつかの奇跡が重なって出てきた稀有な存在なんだと思っています。



※最後に
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