◆ドキュメント
作成日付:2023/10/26
更新日付:2023/12/10
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート5))
更新日付:2023/12/10
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※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート5))
<目次>
東京・山梨連続リンチ殺人事件(松井知行・紙谷惣)
2003年(平成15年)5月から同年9月にかけて、東京都新宿区と山梨県北都留郡丹波山村で発生した殺人・死体遺棄・死体損壊事件。
犯行グループは男女11人だがうち男9人は以前からクレジットカードを使った振り込め詐欺を繰り返していた。
2003年9月頃から元飲食店経営者 古川信也さん(当時26歳)を含む数人を埼玉県戸田市のアパートに監禁し、9月19日に山梨県北都留郡丹波山村親川地区にて、古川さんの交際相手であった当時19歳の女に古川さんの首を絞めさせ、更に主犯の男とその共犯者たちも同じく首を絞め、古川さんの首にロープを巻き付け綱引きをするように引っ張るなどして殺害した。また古川さんをいったん解放した後に、殺害したことが判明している。当時17歳の少女はこの殺害には関与はしていなかったが、主犯 松井知行(当時39歳)より死体遺棄に無理やり加担させられた。
2003年10月4日に東京都西多摩郡奥多摩町の町道で人の右腕が落ちているのを猟友会のメンバーが発見した。司法解剖の結果、身元は古川さんと判明した。
その後、2004年(平成16年)1月8日までに未成年者2人を含む男女8人が古川さんに対する逮捕監禁容疑で逮捕された。後に殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で再逮捕されている。その後、容疑者らの供述により小菅村で白骨化した古川さんの頭蓋骨が発見された。但し、後述の南アフリカに逃亡した男3人以外は無理やり犯行に加担させられていた。
また8人のうち数人が別の事件に関与した疑いが強まり、追及したところ、別の男性に暴行を加えて死亡させ、死体を埼玉県秩父郡長瀞町に遺棄したとも供述した。1月12日に長瀞町の山中を捜索したところ、人の胴体が発見された。身元は元スナック店経営者の長沼正司さん(当時38歳)と判明。長沼さんは、2003年5月27日に新宿区歌舞伎町から行方がわからなくなり、家族が捜索願を出していた。その後の捜査で5月27日に犯行グループらがBを歌舞伎町のホテルで暴行して死亡させ、翌日、長瀞町に遺体を遺棄していたことがわかった。
古川さんの事件について、共犯者の残りの3人がすでに南アフリカ共和国へ逃亡しており、国際刑事警察機構を通じて国際手配された。2004年4月12日に警視庁は主犯格の男を含む逃亡中の3人に対し、逮捕状を取り、長沼さんに対する殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で指名手配した。3人のうち2人は古川さんの事件でも国際手配されている。
古川さんに対する殺人罪等で国際手配されていた3人のうち1人は、2004年6月4日にクレジットカード不正利用でアメリカハワイ州の刑務所に服役していたが、刑期を終えたために、警視庁がアメリカ政府に身柄の引き渡しを求め、アメリカ政府がそれに応じ、日本に強制送還され、その後逮捕された。
2011年(平成23年)11月1日、警視庁は古川さんの殺害容疑で国際手配されていた事件当時19歳だった女を逮捕した。女は、逃亡先の南アフリカ共和国から、知人を通じて出頭するために帰国する意向を告げ、成田空港で身柄を拘束された。同年11月23日に女は共謀や殺意の面で立証が困難として、嫌疑不十分で不起訴処分となり釈放された。
2020年(令和2年)8月下旬、南アフリカに逃亡していたうちの別の1人 紙谷惣(当時46歳)が南アフリカの日本大使館に出頭し「日本に帰りたい。金がなくなり逃げられなくなった。奥多摩の事件は自分がやった」と話し、9月3日日本に帰国し成田空港でPCR検査を受けた後に逮捕された。
3人のうちリーダー格とされる最後の一人 松井知行(当時50歳)については、2016年(平成28年)12月頃に南アフリカの海岸で木から首をつって死亡しているのが発見されており、自殺と見られている。なお、2022年7月24日に指紋が照合されたため、警視庁の捜査員が南アフリカに派遣され、遺体が松井のものと矛盾はないという結果が出た。同年10月3日、警視庁は、容疑者死亡のまま書類送検し、この事件の捜査を終結したと発表した。
2004年9月15日に東京地裁(合田悦三裁判長)は2人の被告にそれぞれ懲役14年・懲役12年の判決を言い渡した。
2006年(平成18年)3月7日に東京地裁(合田悦三裁判長)は、事件当時17歳の少女に対し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。その後少女が控訴したが、2007年8月に東京高裁は、前述の判決を支持し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。
2023年(令和5年)3月7日に東京地裁(浅香竜太裁判長)は、南アフリカに逃亡していたうちの1人 紙谷惣(当時46歳)に対し懲役13年の判決を言い渡した。
❖出所予定(年齢)
松井知行・・・死亡(自殺)
紙谷惣・・・2036年3月頃、59歳(懲役13年)
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徳之島兄家族殺傷事件(名古圭志)
2002年(平成14年)8月16日に鹿児島県の徳之島(大島郡伊仙町)で発生した殺傷事件である。『南日本新聞』では伊仙町母子殺傷事件と呼称される。
2002年8月16日午前11時ごろ、鹿児島県伊仙町在住の団体職員 名古博文さん(当時42歳)の住居において、名古さんの妻 名古和美さん(当時40歳)、長女 千尋さん(当時17歳)、次男(同13歳)の3人が、博文さんの弟である名古圭志(当時32歳)に包丁で刺され、和美さん・千尋さんの2人が死亡、次男が重傷を負った。
本件の犯人 名古圭志(当時32歳)は、1970年(昭和45年)5月7日生まれ。出生と同日に母親が死亡し、施設に預けられた。その後、伊仙町に戻り、父親、兄博文さん、姉、大叔母らと暮らすようになった。高校卒業後、1989年(平成元年)に伊仙町を出て、一時期は関西地方のスーパーや精肉店で働いていたが、やがて暴力団員として活動するようになった。
圭志は2002年2月に父親の病死を契機に暴力団を脱退し伊仙町に帰郷。博文さん方に同居していたが、やがて同じ敷地内にある父親の住居を改築し住みはじめた。同年5月頃から圭志が和美さんや千尋さんに対し干渉するようになり、みかねた博文さんが「自分たち(博文さんと圭志)は兄弟でも、(博文さんの)家族は赤の他人なのだから干渉しないように」と指摘すると、それをきっかけに、圭志は自分が博文さんから無視されていると邪推するようになった。
その後は兄弟の絆を確認しようと思い、自分の住む家の壁を壊すなどの行動に出たが、博文さんは叱ることはなかったため、圭志は博文さんに対し、より強い不信感を抱くようになった。
その後は兄弟の絆を確認しようと思い、自分の住む家の壁を壊すなどの行動に出たが、博文さんは叱ることはなかったため、圭志は博文さんに対し、より強い不信感を抱くようになった。
同年6月ごろ、圭志は夏祭りの準備作業について知人男性とトラブルになり、その際に兄 博文さんが仲裁に入ったが、圭志は博文さんが一方的に男性をかばったと思い込み、博文さんに対する怒りを爆発させ、家族を皆殺しにして博文さんを悲しませようと決意した。
2002年8月16日11時ごろ、圭志は博文さん宅に行き、庭にいた次男の胸を刺身包丁で刺して重傷を負わせた。屋内に入ると、居間で和美さんの胸を一突きにして失血死させた。さらに千尋さんの脇腹などを刺し、さらに完全に絶命させようと千尋さんの胸や背中をメッタ刺しにして殺害した。圭志は犯行の約40分後に徳之島警察署へ出頭し、殺人などの容疑で逮捕された。
2004年6月18日に判決公判が開かれ、鹿児島地裁(大原英雄裁判長)は被告人 名古圭志(当時32歳)を求刑通り死刑とする判決を言い渡した。同地裁で言い渡された死刑判決は39年ぶりで、判決理由では「犯行態様が悪質、残虐である、動機に酌むべき余地がない」とされている。圭志は一度は福岡高裁宮崎支部へ控訴したが、同年8月26日付で控訴を取り下げ、死刑が確定した。❖出所予定(年齢)
死刑判決(2008年2月1日、福岡拘置所で死刑執行(当時37歳没))
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所沢母子殺害事件(大谷竜次・佐久間義明)
2018年2月8日に埼玉県所沢市の母子が自宅で殺害され浴槽に遺棄された事件。
2018年2月8日埼玉県所沢市西所沢の住宅の浴槽で、この家に住む 入江富美子さん(当時76歳)とその次男 大崎欣孝さん(当時53歳)の遺体が発見された。遺体は水を張られた浴槽の中に富美子さんの遺体の上に欣孝さんの遺体が重ねられていた。司法解剖の結果、死因は富美子さんが溺死、欣孝さんが肺などを刺されたことによる失血死であった。富美子さんには目立った外傷はなかったが現場の状況から浴室内で殺害されたと推定された。
同月12日、欣孝さんの中学時代の同級生で富美子さん方に同居して富美子さんの介護を手伝っていた住所不定、無職 佐久間義明(当時53歳)と佐久間の知人で富美子さん方にも出入りしていた大谷竜次(当時42歳)が欣孝さんの遺体を放置したとして死体遺棄の容疑で埼玉県警所沢署に逮捕されたが、処分保留となり、大谷と佐久間は富美子さんのキャッシュカードで現金を引き出した窃盗容疑で逮捕・起訴された。
大谷と佐久間は上記容疑で公判中の2019年7月1日に欣孝さんへの殺人容疑で逮捕された。さいたま地方検察庁 は大谷を殺人、死体遺棄、窃盗で起訴し、佐久間を死体遺棄で起訴し、殺人に関しては処分保留とした。
2020年12月3日、佐久間と大谷は富美子さんへの殺人容疑で再逮捕された。
佐久間は、殺人容疑については処分保留となり起訴されず、起訴された死体遺棄罪について実刑判決が確定し、大谷の一審判決が下された2022年3月18日時点で既に刑期を終えていた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
佐久間は、殺人容疑については処分保留となり起訴されず、起訴された死体遺棄罪について実刑判決が確定し、大谷の一審判決が下された2022年3月18日時点で既に刑期を終えていた。
さいたま地方裁判所第5刑事部で行われたXの裁判員裁判(小池健治裁判長、事件番号 令和元年(わ)第854号等)にて、判決は3月18日に下され、大谷に懲役28年(求刑無期懲役)が言い渡された。
大谷側は判決を不服として控訴したが、2審の東京高等裁判所は1審判決を支持し控訴を棄却。最高裁判所第3小法廷は2023年(令和5年)9月26日付で大谷側の上告を棄却する決定をした。
❖出所予定(年齢)
佐久間義明・・・2022年3月頃、57歳(処分保留のまま刑期終了)
大谷竜次・・・2051年9月頃、60歳(懲役28年)
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栃木兄弟誘拐殺人事件(下山明宏)
2004年9月11日、栃木県小山市で兄弟(4歳と3歳)が誘拐され後日、遺体で発見された事件。
被害者家族が同居していた家の家主の男が逮捕された。
知人宅に子供二人を連れて居候しており、その知人男性がどうやら連れ出したようであったが、家に戻っていないとのことだった。
知人の名は、下山明宏(当時39歳)。小学6年生の娘と、小学1年生の息子がいる男だった。
2004年9月11日に小林一斗(こばやしかずと)ちゃん(当時4歳)と隼人(はやと)ちゃん(当時3歳)の兄弟の誘拐事件が発生。
2004年9月13日に男(40歳)が未成年者誘拐の容疑で逮捕される。男は被害者家族と同居しており、家主はこの男である。男は2人を連れまわしたことを1度は認めるが「わからない」と供述が一変する。
2004年9月14日に被疑者が2人の殺害を認めた。その供述通り、思川で弟の遺体が発見される。2004年9月16日に兄の遺体も同じ川で発見される。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2006年6月4日に被告人が東京拘置所で病死。
❖出所予定(年齢)
死亡(病没)
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栃木小1女児殺害事件(勝又拓哉)
2005年(平成17年)12月1日、栃木県今市市(現:日光市)に住む小学1年生の吉田有希ちゃん(当時7歳)が行方不明となり、翌日(2日)に茨城県常陸大宮市の山林で刺殺体となって発見された事件。
2005年12月1日、栃木県今市市(現:日光市)の大沢小学校に通う小学1年生の有希ちゃんが、下校途中に行方不明となった。
有希ちゃんは午後2時50分ごろ、自宅から約1キロ離れた今市市土沢の市道を徒歩で下校途中、三叉路で友人と別れた。現場は雑木林の間に一般住宅が点在し、人通りの少ない場所だった。
家族が駐在所に捜索願を提出した。捜索が開始されたが、発見にいたらなかった。
三叉路から120メートル行った砂利道に曲がる前の場所で地面に残った有希ちゃんの体の匂いが消え、警察犬が反応を示さなくなったため、この辺りで連れ去られたものと考えられる。
2005年12月2日、栃木県警察が公開捜査を開始。午後2時ごろ、有希ちゃんの自宅から60km離れた茨城県常陸大宮市の山林で、野鳥観察をしていた老人3人が遺体を発見。遺棄現場周辺は人通りが少なく、人目につかない場所であった。
2014年6月3日、栃木・茨城両県警察の合同捜査本部は、別件の商標法違反容疑で逮捕され、事件への関与をほのめかす供述をした無職の勝又拓哉(当時32歳)を逮捕した。
2020年3月4日、最高裁判所第二小法廷(三浦守裁判長)が上告棄却決定。同月17日付で被告人Kの無期懲役が確定。❖出所予定(年齢)
2050年3月頃、77歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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栃木女性教師刺殺事件(平田守(13歳))
1998年(平成10年)1月28日に栃木県黒磯市(現那須塩原市)で発生した中学校内での生徒 平田守(当時13歳)による教師刺殺事件。少年は腰塚佳代子教諭(当時26歳)に授業に遅刻したことを注意された際、カッとなって刺したという。
1998年1月28日午前、栃木県黒磯市内の中学校に登校した加害少年 平田守は、2時間目の国語の授業が終わると保健室に行った。朝から気分が悪かったためとしたが、養護教諭が体温を測定しても異常がなかったため、教室に戻るように促した。
3時間目は、彼が科目も担当の腰塚佳代子教諭も嫌いな英語の授業だった。教室に戻る途中にトイレに寄って友人と雑談していたため、およそ10分ほど遅れて教室に入り、腰塚佳代子教諭から平田守は注意された。その後ノートを開いたと思うと、芯を出さないままシャープペンシルで何か滅茶苦茶にノートに書き、ノートを破り捨てた。さらに席が近い友人の生徒に漫画の話をしていたため、腰塚佳代子教諭に再び注意を受けた。少年 平田守は腰塚佳代子教諭を眼光鋭く睨み付けたが無視された。プライドを傷つけられたと解釈した少年 平田守は、授業が終わる寸前「ぶっ殺してやる!」と口走った。友人は「やめろ、殺すな」と制止した。
授業終了後、腰塚佳代子教諭は授業中に会話を交わした少年 平田守と友人を廊下に呼び出して注意を与えた。
腰塚佳代子教諭が注意していると、少年 平田守はポケットからバタフライナイフ(刃渡り10cm)を取り出して、脅して見せた。
腰塚佳代子教諭がひるまず言い返すと、少年 平田守は教諭の腹部にナイフを突き刺した。
「ギャーッ」と腰塚佳代子教諭の悲鳴が廊下に響いたが、さらに胸、背中と少なくとも7ヶ所を刺された。少年 平田守は最初に腹部を刺したところまでは覚えているが、後は夢中で覚えていないと供述している。なおも少年 平田守は倒れこんだ腰塚佳代子教諭の身体を内臓が破裂するほど蹴り続けたが、これに驚いた友人の通報で隣の教室から飛び出してきた別の教諭に取り押さえられ、通報で駆けつけた警察に補導された。
腰塚佳代子教諭は直ちに病院に搬送されたが、すでに心肺停止状態で、1時間後に出血多量による死亡が確認された。胸に刺された一突きが致命傷だったと思われる。凶器のバタフライナイフは、2,3週間前に黒磯市で買ったものだった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
黒磯署は少年 平田守を補導した。県北児童相談所は少年 平田守を宇都宮家裁に送致し、少年法にもとづく処分が適用された。
遺族は1999年4月、1億3800万円の損害賠償を求めて少年 平田守の両親を提訴。原告側は、少年に責任能力は無く、賠償責任は両親が負うべきと主張した。被告側は、少年 平田守に不法行為の責任能力は無かったとは言えず、現場にいなかった両親に監督義務はないとして、請求棄却を求めた。2004年9月15日に宇都宮地裁は少年 平田守の責任能力を認め、少年 平田守の両親にも共同不法行為責任があると認定し、8200万円の賠償命令を下した。
❖出所予定(年齢)
1999年1月頃、14歳、すでに退院(医療少年院は12ヶ月が標準期間)
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栃木リンチ殺人事件(萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀)
1999年12月4日に栃木県で発覚した複数少年らによる拉致・監禁・暴行・恐喝・殺人・死体遺棄事件。
無抵抗な被害者を加害者少年らが連れまわして暴行を加え多額の金銭を奪い、被害者家族が警察に相談していることを知ると被害者を殺害に及んだという凶悪・凄惨な少年犯罪である。また被害者の両親から9回もの捜査依頼を受けながらそれを拒絶し続けた栃木県警察の不手際も世論に衝撃を与え、桶川ストーカー殺人事件とともに一部国民の警察不信の一因となった事件。事件発覚後、栃木県警は世論および裁判所から厳しく批判された。
萩原克彦(主犯・当時19歳)は日頃から、日産自動車社員の梅沢昭博(当時19歳)・無職の村上博紀(当時19歳)から金銭を巻き上げていたが、やがて梅沢は会社の同期で性格がおとなしい須藤正和さん(当時19歳)を身代わりにたてることを思いついた。そして1999年9月29日、梅沢が須藤さんを電話で呼び出すと、萩原らは須藤さんを拉致し、サラ金から次々と借金をさせて、自分たちの遊興費にあてた。
須藤さんがサラ金から借金を拒絶されるようになると、今度は須藤さんの知人や友人から金を借りさせ、およそ2ヶ月にわたって須藤さんを連れまわした。その間、須藤さんをホテルなどに監禁し、最高温度のシャワーをかける「熱湯コマーシャル」、殺虫スプレーにライターで火をつけ浴びせかける「火炎放射器」などのリンチを加え、須藤さんを散々にいたぶった。それにより須藤さんの肌は焼けただれ、顔ははれあがった。
死体を検死した段階では皮膚の8割が火傷を負い、「たとえ絞殺されなくともいずれ死亡したと思われる」ほどに酷い外傷であったにもかかわらず、病院に一度連れて行ったきり(しかもAらが診察室までついて入り須藤さんに心理的圧迫を加え、腕の火傷しか見させなかった)で何の治療も施さず、火傷した皮膚にさらに90℃以上のポットの熱湯をかけ風呂場に連れ込んで熱湯シャワーをかけ(「熱湯コマーシャル」は日常化していた)、抵抗すると殴り続けるなどのリンチを加えていた。
死体を検死した段階では皮膚の8割が火傷を負い、「たとえ絞殺されなくともいずれ死亡したと思われる」ほどに酷い外傷であったにもかかわらず、病院に一度連れて行ったきり(しかもAらが診察室までついて入り須藤さんに心理的圧迫を加え、腕の火傷しか見させなかった)で何の治療も施さず、火傷した皮膚にさらに90℃以上のポットの熱湯をかけ風呂場に連れ込んで熱湯シャワーをかけ(「熱湯コマーシャル」は日常化していた)、抵抗すると殴り続けるなどのリンチを加えていた。
須藤さんの失踪に不審を抱いた須藤さんの両親は栃木県石橋警察署(現・下野警察署)に捜査を依頼するが、応対した担当官は「お宅の息子さんが悪いんじゃないの」「仲間に金を分け与えて、面白おかしく遊んでいるんだろう」「麻薬でもやっているんじゃないの」「警察は事件にならないと動かないんだよ」などと須藤さんの両親を突き放し、まったく取り合おうとはしなかった。
やがて、須藤さんから両親のもとに、たびたび金を無心する電話がかかるようになり、両親は須藤さんの安全のために金を振り込み続けた。その金を銀行に下ろしに来た須藤さんの姿が銀行の防犯ビデオに映っていた。ビデオに映っていた須藤さんの外見は、髪を丸坊主にされ眉をそり落とされ、更に火傷や殴られた跡があり失踪前とかなり異なっていた。
銀行の関係者は「須藤さんの後ろに複数の男たちがついていました。いつでもビデオを証拠として提出する用意があるので警察に相談してください」と須藤さんの両親に勧め、須藤さんの両親は再び石橋警察署を訪れ、ビデオテープを証拠品として銀行から取り寄せるよう依頼した。
銀行の関係者は「須藤さんの後ろに複数の男たちがついていました。いつでもビデオを証拠として提出する用意があるので警察に相談してください」と須藤さんの両親に勧め、須藤さんの両親は再び石橋警察署を訪れ、ビデオテープを証拠品として銀行から取り寄せるよう依頼した。
しかし、石橋警察署の署員は「裁判所の許可もないのにそんなことできない」と再び突き放した(署員の発言は令状のことを指したものと思われるが、銀行関係者の発言から任意の提出に応じた可能性はある)。その際、須藤さんから両親の携帯電話に電話がかかってきた。
須藤さんの父親は事態が逼迫していることを理解してもらうべく「お父さんの友人がいるから」と友人に見立て、警察官に携帯電話を渡した。しかし、その警察官が「石橋署の警察官だ」と名乗ってしまい、電話は切られた。警察官は「あ、切れちゃった」と言って、携帯電話を父親に返したという。
須藤さんの父親は事態が逼迫していることを理解してもらうべく「お父さんの友人がいるから」と友人に見立て、警察官に携帯電話を渡した。しかし、その警察官が「石橋署の警察官だ」と名乗ってしまい、電話は切られた。警察官は「あ、切れちゃった」と言って、携帯電話を父親に返したという。
一部では、萩原らはこの出来事によって警察の捜査が自分たちに迫っていると考え、須藤さんの殺害を決意したのではないかという見方がされている。のちにこの刑事の不用意な発言が須藤さんの殺害計画のきっかけとなったことが裁判で認定された。殺害の理由としては他に、あまりにも壮絶なリンチを加え続けたがゆえに、須藤さんの身体には既に不可逆的な傷が残されており、須藤さんを生かしていたら事件発覚は免れないと判断したからだという。
1999年12月2日、犯行に途中から加わった高校生のD(当時16歳)とともに萩原らは、須藤さんを紐で首を絞め殺害した。そして市貝町の山林に埋め、死体を埋めた穴にコンクリートを流し込んだ。死体を埋めるコンクリートやベニヤ板、スコップ、砂利を調達するのに使われたのは、須藤さんの最後の給料だった。このとき須藤さんは退職扱いとなっていた。
死体を隠した後、萩原らは「十五年逃げ切ればいい(当時の殺人罪の公訴時効が15年であるため)」と、『追悼花火大会』と称して花火で遊ぶなどしていた。しかし、良心の呵責に耐えられなかったDが12月4日、警視庁三田警察署に自首し、事件が発覚した。警視庁は早速、三田警察署内に捜査本部を設置し、Dの証言にもとづいて須藤さんの遺体を発見。翌日警視庁は萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀(全員当時19歳)を逮捕した。
死体を隠した後、萩原らは「十五年逃げ切ればいい(当時の殺人罪の公訴時効が15年であるため)」と、『追悼花火大会』と称して花火で遊ぶなどしていた。しかし、良心の呵責に耐えられなかったDが12月4日、警視庁三田警察署に自首し、事件が発覚した。警視庁は早速、三田警察署内に捜査本部を設置し、Dの証言にもとづいて須藤さんの遺体を発見。翌日警視庁は萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀(全員当時19歳)を逮捕した。
左:梅沢昭博、中央:萩原克彦・主犯、右:村上博紀
❖判決内容(判決内容・判決時期)
自首によって事件解決のきっかけをつくったDは酌量が認められ少年院送致となった。萩原・梅沢・Cも事件当時、未成年だったが、東京家庭裁判所は刑事処分相当として逆送し、宇都宮地方検察庁は殺人・死体遺棄罪で萩原らを起訴した。須藤さんの遺族は強盗殺人罪で起訴するよう宇都宮検察審査会に陳述書を提出したが、棄却されている。
2000年6月1日、宇都宮地方裁判所は、「犯行は計画的で凶悪。極めて自己中心的で酌量の余地は全くない」として萩原・梅沢に求刑通り無期懲役、村上に求刑通り懲役5~10年の判決を下した。萩原は控訴したが、2001年1月29日、東京高等裁判所は控訴を棄却。その後上告も棄却され、萩原の判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
萩原克彦(主犯)・・・2031年1月頃、50歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
梅沢昭博・・・2030年6月頃、49歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
村上博紀・・・2010年6月頃、29歳(懲役10年、すでに出所)
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鳥取連続不審死事件(上田美由紀)
2004年(平成16年)から2009年(平成21年)にかけて鳥取県で、上田美由紀(逮捕時35歳、スナックの元ホステス)の周辺で起こった6件の連続不審死事件である。
捜査の結果、上田による強盗殺人2件、自殺2件、事故死1件、病死1件とされた。
2009年4月発生のトラック運転手の溺死事件(後述の第4の事案)に関し、鳥取県警察はスナックの元ホステスの上田の捜査を開始した。
2009年10月には上田の周辺で2件の不審死事案(第5・第6の事案)が発生した。鳥取県警は2009年11月2日に別件の詐欺容疑で上田を逮捕し、強制捜査に乗り出した。また上田周辺での過去の不審死事案3件を含めて「鳥取連続不審死」として改めて捜査することとなった。
警察による捜査の結果、うち2件が強盗殺人として上田を逮捕。その他の事案は自殺2件、事故死1件、病死1件とされた。
◆第1の事案(自殺)
1999年に鳥取に赴任した新聞記者の古川司さん(当時42歳)は、2001年ごろ上田が勤めるスナックで上田と出会い、2003年には妻子があるにもかかわらず上田と交際・同棲するようになる。また、その時期には古川さんは周囲に借金してまわる様になった。そんななか、2004年5月13日、鳥取市内のJR・因美線で古川さんの轢死体が発見された。周囲には段ボールの破片が散乱しており、段ボールを被るか、段ボール箱の中に入る状態だったと推察された。段ボールには「上田に出会えてよかった。本当の愛を知った」と走り書きがあり、また勤務先の新聞社には「迷惑をかけた」との遺書らしきものが残されており、警察は「自殺」と判断し、司法解剖なども行われなかった。
◆第2の事案(事故死)
警備員として警備会社勤務の古田新一さん(当時27歳)は、2001年ごろ女Uが勤めるスナックで上田と出会い、古田さんの実弟も含め上田と遊び友達になると、2005年ごろには上田宅に居候し、上田の子供の面倒を見るなどしていた。2007年8月18日、古田さんは上田家族とともに鳥取砂丘近くの海辺に貝採りに出かけ、沖合約200メートル水深約2メートルの地点の海底に沈んでいるのが発見された。救助後に病院に搬送されたが、同年8月27日に蘇生後脳症で死亡した。警察および病院は特に疑念を抱かず、事故として処理された。
◆第3の事案(自殺)
鳥取県警刑事の藤田格さん(当時41歳)は、2007年ごろ捜査の一環として上田が勤めるスナックを訪れたのをきっかけに、同スナックの常連となり、妻子がありながら上田と交際するようになった。2008年2月、鳥取県内の山中で首を吊った状態で発見された。警察は自殺と判断し、司法解剖なども行われなかったとされる。
◆第4の事案(上田による強盗殺人)
トラック運転手の矢部和実さん(当時47歳)は、2008年2月ころより上田と交際をしており、上田に対し300万円ほどの金銭も渡していた。2009年4月11日、鳥取県北栄町の沖合約600メートル水深約3メートルの海底で矢部さんが全裸の水死体で発見され、司法解剖の結果、死因は溺死、体内から睡眠導入剤が検出されるとともに、通常の溺死では普通見られない肺からの砂が検出された。2010年3月3日に鳥取県警は強盗殺人容疑で上田を逮捕した。
◆第5の事案(上田による強盗殺人)
鳥取市内で電器店を経営する円山秀樹さん(当時57歳)は、2009年夏ごろに上田および上田の交際相手で同棲中の安東儀導(当時46歳)に対して100万円を超える家電製品を掛け売りで納品していた。2009年10月7日、鳥取市の摩尼山中腹の摩尼川にて、円山さんが顔に傷、うつ伏せの状態で水死しているのが発見された。司法解剖の結果、睡眠導入剤が検出された。状況証拠などから、2010年1月28日に鳥取県警は強盗殺人容疑で上田を逮捕した。
◆第6の事案(病死)
上田宅の近隣のアパートに住む田口和美さん(当時58歳)は、ホテル従業員だったが、2009年に脳梗塞を患い、以後、職を失い生活保護を受けて生活していた。朝日新聞によると関係者の証言として「同年10月26日夕刻、男Gの意識が混濁し、上田が田口さんに錠剤を服用させていた」。翌27日朝には病院に救急搬送されるも死亡が確認された。遺体は司法解剖され、体内から睡眠導入剤が検出された。県警は、上田との関連を捜査するも、男Gは心臓に持病があったこと、死亡と睡眠導入剤との因果関係が不明なことなどにより最終的には病死と判断した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2017年6月29日に開かれた上告審弁論では、弁護側は強盗殺人2件について、2件とも「睡眠導入剤により意識が朦朧とする被害者を誘導・入水させる行為は上田には不可能」と無罪を主張し、検察側は「犯行は十分可能」と上告棄却を求め、結審した。
2017年7月27日、最高裁第1小法廷は「第1審・控訴審の過程で憲法違反無し。各種の状況証拠・動機は合理的な疑義を払拭する程度に証明済で、上田が犯人であるとする第1審・控訴審の判決は正当。犯行経緯・動機・計画性などから第1審・控訴審での死刑との量刑も已む無し」として、上告を棄却した。
弁護側は最高裁判所に対し上告棄却判決の訂正申し立てを行ったが、最高裁判所は2017年8月23日に棄却の決定を出した。これにより、上田の死刑判決が確定した。
2023年(令和5年)1月15日、法務省は、広島拘置所に収容されていた上田死刑囚が、前日14日の午後4時すぎ、拘置所の自室で食べ物を喉に詰まらせ、窒息死したと発表した。
死亡(事故)
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富岡八幡宮殺人事件(富岡茂永・富岡真里子)
2017年(平成29年)12月7日に東京都江東区の富岡八幡宮近郊と敷地内で起こった連続殺人事件である。
2017年12月7日、富岡八幡宮第21代宮司 富岡長子さん(当時58歳)が、神社近郊の路上で前々任の第20代宮司であった実弟 富岡茂永(当時56歳)に日本刀で斬りつけられ、殺害された。富岡長子さんが搭乗していた車の運転手も、共謀していたと思われる富岡茂永の妻 富岡真里子(当時49歳)などに追跡され、傷害を負ったが命に別状はなかった。その後、富岡茂永はYを神社敷地内で殺害した後、自殺した。
1995年、富岡茂永は、実父である第19代宮司(以下、19代目)から、地位を受け継ぎ、同神社の第20代宮司に就任した。富岡茂永は参拝者を広く呼び込むために、勧進相撲発祥地であり、横綱力士碑が建立されていることなどを利用し、新横綱の土俵入りを記念する興行などを神社で行い、来訪者を集めていた。その一方で富岡茂永は、神社の賽銭などを使って、銀座などのクラブで飲み歩いたり、ラスベガスのカジノで賭博を日常的に行ったりするなどの放蕩行為が問題視されていた。
これを見兼ねた19代目の意向を受け、2001年には富岡茂永の宮司の職階が解かれ、19代目が宮司に復帰した。この頃から、富岡茂永は、解任されたことへの逆恨みから、怪文書を送りつけるようになり、2006年には「積年の恨み。地獄へ送る」と脅迫的な内容の葉書を実姉である富岡長子さんに送付したことで、警視庁に逮捕された。
2010年、19代目は高齢のため宮司の職を退き、後継者として禰宜であった富岡長子さんを指名したが、神社本庁からの返答はなく、事実上宮司就任拒否の状態が続いたため、長期にわたって宮司が存在しない空位になった。富岡長子さん側も弁護士を介入させ、就任拒否に抗弁するも突き返されるなど、話し合いが一向に進展しないことに業を煮やし、2017年9月28日、同神社の責任役員会は、神社本庁より脱退した。
2017年12月7日の夜更け、富岡長子さんが八幡宮に帰宅し、車から降りようとしていたところを、物陰に隠れていた富岡茂永と富岡真里子は日本刀を振りかざし、富岡長子さんと車の運転手の両名を襲撃した。富岡茂永は、逃走する富岡長子さんの背後から後ろ首を斬りつけ、次に胸へ日本刀を突き刺した。
思い切り刺したせいで、日本刀は破損し折れた。富岡真里子はスーパーマーケットまで逃げた運転手の右肩から右腕にかけて斬りつけるも、「お前だけは許してやる」と吐き捨てて、逃走した。富岡茂永と富岡真里子は2人で敷地内まで逃げた末、富岡茂永は境内にてサバイバルナイフで富岡真里子の胸や腹を刺して殺害した後、自身の左胸を刺して富岡茂永は自殺した。
思い切り刺したせいで、日本刀は破損し折れた。富岡真里子はスーパーマーケットまで逃げた運転手の右肩から右腕にかけて斬りつけるも、「お前だけは許してやる」と吐き捨てて、逃走した。富岡茂永と富岡真里子は2人で敷地内まで逃げた末、富岡茂永は境内にてサバイバルナイフで富岡真里子の胸や腹を刺して殺害した後、自身の左胸を刺して富岡茂永は自殺した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
被疑者死亡のまま殺人容疑などで書類送検
❖出所予定(年齢)
富岡茂永・・・死亡(自殺)
富岡真里子・・・死亡(富岡茂永による殺害)
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富山市奥田交番襲撃事件(島津慧大)
2018年(平成30年)6月26日に富山県富山市久方町にある富山中央警察署奥田交番で発生した警察官襲撃事件。
2018年6月26日午後2時10分頃、富山県富山市久方町に所在する富山中央警察署奥田交番裏口をノックする音が聞こえた。交番には所長である稲泉健一警部補(事件当時46歳)と交番相談員1名が勤務についており、稲泉警部補が裏口を開けたところを突如、島津慧大(当時21歳)が襲い掛かってきた。稲泉警部補は全身約30か所を刺され貸与されていた拳銃を奪われた。
島津は拳銃を所持したまま逃走し交番相談員が交番向かいの美容室に助けを求めたことから事件が発覚した。さらに島津は逃走の途中富山市立奥田小学校正門付近で誘導警備にあたっていた警備員 中村信一さん(当時68歳)に向け拳銃を発砲うち2発が中村さんに命中した。中村さんは病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。島津はなおも奥田小学校の敷地内に侵入したが、駆け付けた警察官が島津に向けて警告をしたのち拳銃を発砲。左腹部に被弾し身柄を確保された。
島津は拳銃を所持したまま逃走し交番相談員が交番向かいの美容室に助けを求めたことから事件が発覚した。さらに島津は逃走の途中富山市立奥田小学校正門付近で誘導警備にあたっていた警備員 中村信一さん(当時68歳)に向け拳銃を発砲うち2発が中村さんに命中した。中村さんは病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。島津はなおも奥田小学校の敷地内に侵入したが、駆け付けた警察官が島津に向けて警告をしたのち拳銃を発砲。左腹部に被弾し身柄を確保された。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2022年3月24日に控訴審判決公判が開かれ、名古屋高裁金沢支部(森浩史裁判長)は強盗殺人罪の成立を否定した上で無期懲役を言い渡した第一審・富山地裁の判決を破棄し、審理を同地裁に差し戻す判決を言い渡した。同高裁は判決理由で「島津は警官が拳銃を所持していることを意識しており、拳銃を奪う目的で交番を襲撃したと考えるのが自然な見方だ」と指摘して、強盗殺人罪の成立を前提として審理をし直すように命じ、一審判決に事実誤認があったとした。
2022年4月4日、弁護側は「(本判決は)憲法違反がある」と主張した上で、差し戻し判決を不服とし最高裁判所に上告した。
❖民事訴訟
2021年6月11日、中村信一さんの妻は、富山県警察の初動対応が不十分だったなどとして、犯人 島津慧大と富山県に約2600万円の損害賠償を求める訴訟を、富山地方裁判所に提訴した。
訴状によると、「島津が交番を襲って銃を奪い逃走しているのに、県警本部通信指令課は近隣住民や通行人らを避難させるよう指示せず、現場に到着した警察官らも行動を怠り、このため中村さんは危険を認識できず、至近距離から撃たれて死亡した。通信指令課が現場の警察官に指示を出し、付近住民や通行人にパトカーの拡声器などで警告を発していれば、被害者の生命の危険は回避できた」などとしている。
2022年3月23日、富山地裁(松井洋裁判長)は原告側(中村さんの妻)の主張を認め、島津に約2600万円の賠償を命じる判決を言い渡した。
❖出所予定(年齢)
公判中(最高裁判所に上告)
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豊川市一家5人殺傷事件(岩瀬高之)
2010年4月17日に愛知県豊川市で、無職の男が自分の両親など一家5人を殺傷した事件である。
2010年4月16日午前2時40分頃、豊川市伊奈町前山に住む58歳の男性宅で、長男 岩瀬高之(当時30歳)が父親 岩瀬一美さん(当時58歳)と三男夫婦の長女 金丸友美ちゃん(当時1歳)を殺害し、また母親 正子さん(当時58歳)と三男 文彦さん(当時22歳)と三男の内縁の妻(当時27歳)に怪我を負わせ、自室の布団に火をつけて家を半焼させた。長男はその後、近所の葬儀場の敷地で現行犯逮捕された。
長男は中学校を卒業後、製菓工場に勤めるも1年ほどで退職。以後は職に就かず、十数年の間引きこもりの状態で、インターネットオークションで200万 - 300万円の借金を抱えていた。借金が原因でインターネットを解約されたことに激怒し一家を殺傷したのち、自宅の布団に火をつけた。事件前たびたびパトカーが駆けつける騒ぎになっていた。
2010年5月7日、長男は自宅への放火容疑で再逮捕された。警察は岩瀬高之の精神鑑定を行なった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
精神鑑定では岩瀬高之に中程度の知的障害と自閉症があるという鑑定結果が出された。2011年11月30日の名古屋地裁での公判で検察側は無期懲役を求刑。12月7日に懲役30年の実刑判決が言い渡された。2012年11月19日、最高裁判所第二小法廷(小貫芳信裁判長)は上告を棄却した。
❖出所予定(年齢)
2042年11月頃、60歳(懲役30年)
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豊川市主婦殺人事件(少年)
2000年(平成12年)5月1日に日本の愛知県豊川市で発生した少年による殺人事件。
少年(当時17歳)が主婦 筒井喜代さん(当時64歳)を40ヶ所刺して殺したうえに、夫 筒井弘さん(当時67歳)にも軽傷を負わせた。その後、前もって竹藪に隠してあった服に着替えて逃走したが、竹藪に自分の鞄を置き忘れていった。
豊川市の住宅で、妻が血だらけで倒れているのを帰宅した夫が発見して通報。妻は金槌で殴打されたうえ、包丁で首などを刺され死亡した。その直前に少年が家から飛び出したのを夫が目撃し、格闘したが首などを刺されて軽傷[要出典]を負った。
少年は近くの高校の制服であるブレザーを着ていた。逮捕後の供述によると、その日たまたま家の前を通りかかり、玄関が少し空いていたのと表札から年寄りと思い、家の中に侵入した。事件を起こしたあと、最寄り駅まで逃走し、公衆トイレで一夜を過ごしたあと、「寒くて疲れた」ため交番に自首した。
少年は近くの高校の制服であるブレザーを着ていた。逮捕後の供述によると、その日たまたま家の前を通りかかり、玄関が少し空いていたのと表札から年寄りと思い、家の中に侵入した。事件を起こしたあと、最寄り駅まで逃走し、公衆トイレで一夜を過ごしたあと、「寒くて疲れた」ため交番に自首した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
犯人は、動機として「殺人の体験をしてみたかった(人を殺してみたかった)。」「未来のある人は避けたかったので老女を狙った」と供述していたが、学校内ではソフトテニス部に所属し、後輩からの信頼も厚く、しかも極めて成績優秀であると見られていたため、その評判と犯罪行為との乖離が疑問とされた。そのため精神鑑定がなされ、1回目の鑑定では「分裂病質人格障害か分裂気質者」と出されたが、2回目の鑑定では「犯行時はアスペルガー症候群が原因の心神耗弱状態であった」という結果が出され、2回目の鑑定を認定し、2000年12月26日に名古屋家庭裁判所は医療少年院送付の保護処分が決定した。2回目の鑑定医師団には児童精神医学の専門医が鑑定団の一人として加わっていた。
アスペルガー症候群は先天性の発達障害であり、知能と言語能力に問題のない自閉症の一種である。対人関係の構築に困難があるため、二次的な障害として社会生活に対する不適応がみられることがある。この事件は、文部省(当時)に広い範囲における高機能自閉症児に対する早期の教育支援が必要であることを認識させ、後に特別支援教育として制度化されることになった。
❖出所予定(年齢)
2008年12月頃、25歳、すでに退院(医療少年院にて最大25歳収容と仮定)
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豊田2人刺殺事件(実名未公表x)
1995年(平成7年)5月3日に日本の愛知県豊田市越戸町で発生した殺人事件。
被告人が統合失調症と認定されたため公判停止となり、17年後の2014年(平成26年)に公判が再開された。第一審では公訴棄却の判断が示されたが、控訴審では審理差し戻しの判決が言い渡されため、弁護側が上告したところ、最高裁判所は「被告人の訴訟能力に回復の見込みがない場合、検察の(公訴)取り消しの有無にかかわらず裁判所が裁判を打ち切ることができる」という判断を初めて示した。
1995年5月3日正午過ぎ、愛知県豊田市越戸町の神社「天満宮」の境内で、無職の男性X(当時52歳・以下「加害者」または「被告人」)が男性 塚田鍵治さん(当時66歳)と、彼の孫である男児 翔輝ちゃん(当時1歳)の2人を刺殺し、駆け付けた愛知県警察の警察官に現行犯逮捕された。加害者Xは当初「朝起きたときからむしゃくしゃしていた」と話して容疑を認めていたが、意味不明な供述も多かった。Xは20歳代のころに数年ほど精神病院に入院していた過去があった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
名古屋地方検察庁岡崎支部は4か月間の鑑定留置(精神鑑定)の後、「加害者Xには刑事責任能力がある」として、Xを1995年9月に起訴した。名古屋地方裁判所岡崎支部で公判が7回開かれたが、被告人Xは1997年(平成9年)3月に統合失調症と鑑定されたため、同地裁支部は弁護側の「被告人Xは病気で訴訟能力がない」という主張を認めて公判停止を決定した。被告人Xは公判停止後に医療施設に措置入院となったが、ほとんど会話が成立せず、介護が必要な状態なほど病状が悪化した。
2014年(平成26年)3月に名古屋地裁岡崎支部は17年ぶりに公判を再開する意向を示し、弁護側は公訴棄却を求めた一方、検察側は公判継続の意見書を提出した。
2016年(平成28年)12月19日に最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は「形式的に裁判が継続しているに過ぎない状態を続けることを刑事訴訟法は予定していない。被告人Xに訴訟能力が回復する見込みがなければ、検察が起訴を取り消したかどうかに関わらず、裁判所は裁判を打ち切ることができる」との初判断を示し、審理を続行させる判断をした二審判決を破棄自判して、裁判を打ち切る公訴棄却とする一審判決が確定した。被告人Xは73歳になっていた。
❖出所予定(年齢)
一審判決未公表につき不明
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豊橋小2女児誘拐殺人事件(浦山裕司)
1989年10月11日に愛知県豊橋市で発生した身代金誘拐殺人事件である。
1989年10月11日16時頃、豊橋市西山町で小林美幸子(みさこ)ちゃん(当時8歳)が行方不明となる。
同日18時過ぎ、美幸子ちゃんの家に三河訛りの男の声で身代金1000万円を要求する電話があり、父親が110番通報。19時15分、愛知県警はNTT豊橋支店へ美幸子ちゃん宅に掛かる電話の逆探知を依頼する。この後も数回電話があり、女児が出たこともあった。
21時1分、犯人は身代金の金額を500万円に半減する電話を掛けてきた。
犯人はこの日、22時39分までに合計12回の電話を掛けてくるが、ここから約8時間連絡が途絶えた。
犯人は朝「現金を持参して二川駅から電車で浜松まで行き、駅前の喫茶店で待て」と父親を浜松市に向かわせ、「11時43分浜松発豊橋行東海道線の最後尾左側に乗り、ピンクの傘が見えたら金を落とせ」と指示を出す。
直後の11時46分、警戒中の警察官が、浜松市篠原町(現在・浜松市西区篠原町)にて狭い踏切を無理やり通過した不審車両(クレスタ・スーパールーセント白色「豊橋55 す21-22」)を発見し、追跡するも振り切られた。男が1人で乗車していた。
この後も愛知・静岡両県境付近で手配車両を追いつめる機会が複数回あったものの、犯人は車ごと捜査車両に体当たりし、狭路でも車体をこすりつけながら猛スピードで逃走を繰り返したため逃げられてしまう。
14時40分、静岡県湖西市白須賀の山中にて、静岡県警の警察官が脱輪状態で放置されている手配車両を発見し、近くにいた浦山裕司(当時27歳)に任意同行を求める。
10月13日未明に浦山の自宅や経営していた店に家宅捜索が入り、浦山を身代金目的誘拐容疑で逮捕するとともに朝から美幸子ちゃんの捜索を始める。午後、山中に埋められていた美幸子ちゃんが遺体で発見された。
美幸子ちゃんは誘拐された直後に車のトランクに入れられ衰弱していたところを男に殴打され、生き埋めにされたのが死因であった。
浦山は住宅ローンを始め友人や知人、サラ金からも合わせた借金の総額は2430万円に及んでいた。
サラ金への返済期限が迫っていたが金の工面が出来ず、身代金目的誘拐で金を得て返済しようと企てたものであった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
1994年9月、名古屋地裁豊橋支部で無期懲役の判決となった。
❖出所予定(年齢)
2024年9月頃、57歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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ドラム缶女性焼殺事件(野村哲也・川村幸也・牧田晃和・牧田光希・白沢秀樹・池田浩市)
2000年(平成12年)4月4日未明、愛知県名古屋市千種区振甫町2丁目の路上で女性2人が拉致され、同県瀬戸市北白坂町の山中で焼き殺された強盗殺人・死体損壊事件である。
◆登場人物
・加害者
野村哲也(当時33歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行
川村幸也(当時38歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行
牧田晃和(当時40歳)牧田光希の兄、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
牧田光希(当時37歳)牧田晃和の弟、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
白沢秀樹(当時45歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定
池田浩市(当時28歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定
・被害者(負傷者1人、死者2人の合計3人)
深谷茂樹さん(当時56歳)愛知県名古屋市で喫茶店を経営し、個人で金貸し業も営む
深谷洋子さん(当時65歳)深谷さんの妻
高橋勝子さん(当時59歳)洋子さんの実妹で、男性経営の喫茶店の従業員として働く
左が川村幸也、右が野村哲也の主犯格の2人
・加害者
野村哲也(当時33歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行
川村幸也(当時38歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行
牧田晃和(当時40歳)牧田光希の兄、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
牧田光希(当時37歳)牧田晃和の弟、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
白沢秀樹(当時45歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定
池田浩市(当時28歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定
・被害者(負傷者1人、死者2人の合計3人)
深谷茂樹さん(当時56歳)愛知県名古屋市で喫茶店を経営し、個人で金貸し業も営む
深谷洋子さん(当時65歳)深谷さんの妻
高橋勝子さん(当時59歳)洋子さんの実妹で、男性経営の喫茶店の従業員として働く
左が川村幸也、右が野村哲也の主犯格の2人
◆事件の背景
事件の4か月ほど前の12月初旬。野村哲也(犯行当時33歳)の父親が経営する金融会社が、名古屋市内の喫茶店経営・深谷茂樹さん(事件当時56歳)に貸し付けた240万円(手形)が焦げ付いており、父親は野村に対してその取り立てを任していた。
しかし、取り立ては難航。12月13日、なんとか深谷さんと接触し、手形の支払い、もしくは深谷さんが乗るクラウンマジェスタの引き渡しなどを求めた。
深谷さんは所有する不動産を売却して支払うという念書は書いたが、それ以上の事には応じられないと言った。
何の進展もないままに4月に入り、しびれを切らした野村の実父は、手形の取り立てについて野村を叱責した。焦った野村は、川村に相談し、自分らの取り分60万円を差し引いた180万円を早急に実父に渡す必要があると考え、2月に失敗した深谷さんの拉致計画をもう一度実行することを決めた。
◆犯人たちの関係性
犯人全員は愛知県春日井市の運送会社で一緒に働いていた時期があった。川村幸也(犯行当時38歳)はその後退職し、春日井市内で中古車販売業を営んでいた。
1999(平成11)年、川村は野村に対し、休眠会社を買い取って別会社を設立し、商品を買って売り抜けた後計画的に倒産させる、という方法で商品代金の支払いを免れる「引き屋」と呼ばれる商売を持ち掛けた。完全な詐欺であるが、もともと暴力団関係に近い父親の存在があった野村はそれを承諾し、川村も野村の同意を得たことから牧田光希(当時37歳、以後弟)・牧田光希(弟)・白沢秀樹(当時45歳)・池田浩市(当時28歳)らも誘い込んだ。
牧田らはすでにかなりの額の借金を抱えていたこともあって、川村と野村の儲け話を鵜呑みにし、さらには4人の中で唯一ブラックリストに載っていなかった牧田兄を社長に据えた。
首謀者であったはずの川村と野村は、万が一のことを考えて自分たちの名前は表に出さないように仕組んでいた。
詐欺会社を設立したのち、当初はそうでもなかった男らの立ち位置というものが次第にはっきりしてくる。社長はあくまで牧田兄であったが、事実上のリーダーは川村と野村であり、特に川村は、右足の膝下がなく、それについて「以前ヤクザともめて切られた」「背中一面に入れ墨がある」などと吹聴していたことから、野村以外の4人は川村に対して一目置いていた。
4人とて、言われるがままに最初から服従していたわけではなかった。
牧田兄は役員に据えられていたものの、相当な出資もさせられており、会社を辞めたい旨を漏らしていた。しかしそのたびに、川村と野村から家族に危険が及ぶかのようなことを言われたり、暴行を加えられるなどし、さらには妻の借金問題などで形式上の離婚もするなど、相当に追い詰められていた牧田兄は、平成12年2月に自殺を図るが、失敗に終わる。
同じく取り込み詐欺の会社に嫌気がさしていた池田は、平成11年の年末から翌12年の1月にかけて、実家に身を隠すなどして川村と野村から離れようと試みている。しかし、川村と野村はすぐさま実家を探り当て、池田に対して「事業の遂行に努力し、違約の場合はいかなる処罰や処分も甘受する」というとんでもない念書を作成させられ、連れ戻された。
このような状態を断ち切るために野村は、会社を受取人とする生命保険を4人にかけた。災害死亡で6,000万円、それ以外の死亡時には5,000万円が会社に入るもので、何かあるたびに川村らは、「誰が死ぬんだ。死ぬとしたら事故死だ。」などと言って4人を黙らせた。4人にはもはや、逃げ出す手段を考える力さえも、残っていなかった。
◆事件概要
・最初の凶行と拉致監禁
犯行日2000年4月4日、池田浩市(当時28歳)の運転するクラウンに乗車した野村哲也(犯行当時33歳)・川村幸也(犯行当時38歳)両名は深谷茂樹さん(事件当時56歳)の経営する喫茶店付近に到着し、深谷さんらが喫茶店から出てくるところを見張った。
犯行日2000年4月4日、池田浩市(当時28歳)の運転するクラウンに乗車した野村哲也(犯行当時33歳)・川村幸也(犯行当時38歳)両名は深谷茂樹さん(事件当時56歳)の経営する喫茶店付近に到着し、深谷さんらが喫茶店から出てくるところを見張った。
池田の運転するクラウンに乗車した野村・川村両名は深谷さんの経営する喫茶店付近に到着し、深谷さんらが喫茶店から出てくるところを見張った。一方で牧田光希(当時37歳、以後弟)が運転するスペクトロンに乗車した牧田光希(弟)・白沢秀樹(当時45歳)両名は助手席に牧田晃和(当時40歳、以後兄)だけを残し千種区内の深谷さん宅車庫付近の路上で帰宅を待ち伏せた。
野村・川村・池田の3人は被害者深谷さんが閉店後、妻の深谷洋子さん(事件当時65歳)・喫茶店従業員の義妹 高橋勝子さん(事件当時59歳、深谷さんの妻 深谷洋子さんの妹)とともにサウナに向かうところを確認した。
2000年4月4日午前0時30分頃、深谷さんはマジェスタを運転して自宅前に到着した。
マジェスタのトランクを開けて荷物を取り出そうとした。その直後、角材を持った白沢が深谷さんの背後に走り寄り、深谷さんの頭部などを角材で数回殴打して全治約2週間の頭部挫傷・挫滅創・右前腕打撲などの怪我を負わせた。深谷さんは助けを求めようと近くの知人宅に逃げ込んだため、白沢はその後を追ったが途中で見失った。
クラウンに乗車して深谷さんのマジェスタを追尾していた野村・川村・池田の3人は、深谷さん・妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんの3人がマジェスタから降車した直後、白沢が深谷さんを襲撃したことを確認したため、川村は野村・池田両名に対し、「何をしてる。あいつら(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢)だけじゃやりきれないから早く行け」などと怒鳴り、深谷さん・妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんの3人を全員監禁するように指示した。
牧田晃和(兄)がスペクトロン車内のBの左側に乗車してドアを閉め、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者をスペクトロン車内に監禁した。
野村・川村両名はその後、犯行現場付近にあるナゴヤドーム(名古屋市東区)付近で川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・池田の4人と合流したが、その時に池田が「奪ったマジェスタの残り燃料が少ない」と申し出たため、野村は池田に「ガソリンスタンドで給油した後、集合場所に指定した愛知県瀬戸市内の自動車学校に来て合流しろ」と指示した。
・思わぬ任意同行
野村から指示を受けた池田はガソリンスタンドでマジェスタに給油後、野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人と落ち合うため瀬戸市内の自動車学校に向かおうとしたが、池田が自分の携帯電話を川村が運転するクラウン車内に置き忘れたことに気付き、白沢と互いに「他のメンバーとどう居場所を連絡し合おうか?」と相談しながら走行していた。その途中の2000年4月4日午前1時17分頃、Aからの110番通報を受けて緊急配備についていた愛知県警察の警察官らが「被害車両のナンバープレート情報と一致するマジェスタ」を発見した。
乗車していた白沢・池田は現場から北東約6km離れた千種区香流橋2丁目の県道交差点で信号待ちのため停車していたところ、警察官から職務質問を受けて愛知県警千種警察署に任意同行された。白沢・池田両被疑者は千種署にて「深谷さんを襲撃してマジェスタなどを強取した強盗致傷容疑」「妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を拉致して監禁した逮捕・監禁容疑」で取り調べを受け、前者については認めたが後者については否認したまま、同日午前3時頃に強盗致傷罪の被疑事実で緊急逮捕された。取り調べの当初、白沢・池田両被疑者は「自分たち2人でやったことだ」と話して共犯者の野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人の存在を秘匿し、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の安否についても話さなかった。
一方で野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人は集合場所の自動車学校に到着して白沢・池田両名を待ち、その間に牧田晃和(兄)が妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の両足をガムテープで緊縛したが、前述のように警察に取り押さえられた白沢・池田両名は自動車学校にやってこなかったため、野村・川村両名はクラウンを走行させて付近を捜したが、2人を見つけることはできなかった。
そのため野村・川村両名は自分たち残った4人で犯行計画を続行することに決め、川村が運転して野村が同乗するクラウンが先頭を走り、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を監禁した状態で牧田光希(弟)が運転し牧田晃和(兄)が同乗したスペクトロンがクラウンに続く形で自動車学校を後にし、殺害場所を探した。
野村・川村両名は2000年4月4日午前2時30分頃、愛知県瀬戸市北白坂町内にある「東京大学大学院農学部生命科学研究科附属演習林 愛知演習林」内まで移動したところ、林内にある山道の途中に自動車を駐車できる空き地を見つけ、その場所を殺害場所とすることを決めた上でそこにクラウンを駐車し、続いてWもスペクトロンを同所に駐車した。
・生きたまま焼き殺してチェーンソーで解体、証拠隠滅
野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人はスペクトロンから積載してあったドラム缶2缶を下ろし、空き地に並べておいて蓋を開けると、野村が牧田晃和(兄)に「風呂にでも入ってもらえ」などと言い、スペクトロン車内で助けを求めるように唸り声を上げていた妻の洋子さんを牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名にドラム缶の中へ運び入れさせて立たせた。
野村はその後、ドラム缶内で立っていた妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を座らせるよう指示し、これを受けたW・X両名は妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の頭・肩を手で押し込んでドラム缶内に座らせた。すると川村がスペクトロン車内に積載されていた約4リットルのガソリン混合油の入ったエンジンオイル缶を持ち出して野村に渡し、野村がその缶の蓋を開けて義妹(妻の妹)の勝子さんの頭から約1リットルのガソリン混合油をかけ、続いて妻の洋子さんにも頭から約1リットルのガソリン混合油をかけた。
妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんはこれから自らの身に起ることに気づき、懇願した。
「助けて!ちょっと私の話を聞いて!」「お願いします!!」
しかし、その懇願も届かないと悟ったのか、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんは静かになり、そして念仏を唱え始めた。
野村は妻の洋子さんの入ったドラム缶の蓋を閉め、さらにWが義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶の蓋を閉めた。野村はさらにドラム缶の蓋が開かないよう、牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名に角材・重石に使う石を持ってくるよう命じ、牧田光希(弟)が付近にあった石を妻の洋子さんの入ったドラム缶の蓋の上に載せ、牧田晃和(兄)がスペクトロン車内から角材を持ち出して野村に手渡し、野村がその角材を義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶の蓋にかませることで、それぞれ蓋が開かないようにした。
野村はその後、牧田晃和(兄)に命じてドラム缶に点火するための新聞紙をスペクトロン車内から持ってこさせ、牧田晃和(兄)から丸めて筒状にさせた新聞紙を受け取った。さらに野村は川村に簡易ライターを出させて牧田光希(弟)に手渡させたが、牧田光希(弟)が野村の持つ新聞紙にライターで点火しようとしたところ、野村は「俺が火を点けろってことか?」と自ら点火することを拒否するような発言をしたため、川村は牧田光希(弟)に「お前が点火しろ」と命令した。そのため牧田光希(弟)は同日午前2時40分頃、川村から手渡されたライターで野村から受け取った新聞紙に点火し、妻の洋子さんが入ったドラム缶に近づいて缶下部の通気口に火の点いた新聞紙を近づけた。
すると「ボッ」という音とともに火がガソリン混合油に引火して妻の洋子さんの入ったドラム缶が燃え上がり、直後に義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶内のガソリン混合油にも引火し、それぞれのドラム缶内にいた妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者は断末魔のうめき声を発しながら焼死した。
すると「ボッ」という音とともに火がガソリン混合油に引火して妻の洋子さんの入ったドラム缶が燃え上がり、直後に義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶内のガソリン混合油にも引火し、それぞれのドラム缶内にいた妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者は断末魔のうめき声を発しながら焼死した。
野村・川村両名は妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を殺害後、依然として白沢・池田両名から連絡がなかったことから2人を探しに行くことを決め、川村が牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名に「ドラム缶の火を消さずに遺体を燃やし続けろ。義妹(妻の妹)の勝子さんのハンドバッグなど証拠になりそうなものも遺体と一緒に燃やせ」などと指示した上でクラウンに乗車し、殺害現場を離れたY・池田を再び探しに向かったが、結局発見できなかったために同日午前5時頃に殺害現場に戻った。その間、牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名は川村から指示された通り木切れなどを集めてドラム缶に投入し、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体を焼却し続け、証拠になりそうな物品類を燃やして証拠隠滅工作を図った。
野村・川村・牧田晃和(兄)の3人はその後、傘・木の棒などでドラム缶内の妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体の塊を突いて燃えやすいようにした上、野村・牧田光希(弟)両名は金槌を、牧田晃和(兄)はタイヤレンチをそれぞれ使用してそれぞれドラム缶内の大きな骨片を粉砕した。その頃、川村は便意を催したために付近で排便し、便が証拠になるのを防ぐためにビニール袋に入れて野村・牧田光希(弟)らのいる場所に持ち帰ったが、牧田光希(弟)は義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体が入ったドラム缶にそのビニール袋を投げ入れた。その後、牧田光希(弟)がドラム缶内にあった被害者Bの遺体をチェーンソーで切断することを提案し、ドラム缶内に水を注いで消火した後、自らチェーンソーをドラム缶内に入れて妻の洋子さんの遺体を切断した。
野村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の3人は妻の洋子さんの遺体が入ったドラム缶を空地の下の沢に落とし、牧田光希(弟)は野村・川村両名の指示を受けてドラム缶内から外に飛び出した妻の洋子さんの遺体の塊をチェーンソーで切断し、野村・川村両名がドラム缶内から外に飛び出した骨片などを付近に投げ捨てるなどして妻の洋子さんの遺体を遺棄した。同日午前6時ごろ、野村・川村・牧田光希(弟)の3人は水を注いで消火した義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体が入ったドラム缶を空き地の下の沢に落とし、妻の洋子さんの場合と同様にWがチェーンソーで遺体を切断し、野村・川村両名が骨片などを付近に投げ捨てるなどして義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体を遺棄した。このようにして両被害者の遺体を損壊・遺棄したあと、川村は遺体の骨片を粉砕する用途で利用した金槌を投棄したり、Wに命じて遺体を切断するのに利用したチェーンソーを投棄させるなどして証拠隠滅を図った。野村・川村両名はすり鉢をスペクトロンに積んで現場まで持ち込んだが、チェーンソーで遺体が灰のように粉々になったため、結局はすり鉢を使用せず灰を周囲に捨てた。
・緊急逮捕と指名手配、そして逃亡と身代わり出頭
事件発生直後、愛知県警千種署は深谷さんから110番通報を受けて緊急配備し、午前1時20分頃になって現場から北東約6km離れた千種区香流橋2丁目の県道交差点で信号待ちをしていた深谷さんの車を発見、乗車していた白沢・池田両被疑者を職務質問の上で任意同行した。千種署で取り調べたところ、白沢・池田両被疑者は「妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両名を拉致・監禁した逮捕・監禁容疑」は否認したものの、「深谷さんを襲撃してマジェスタなどを強取した強盗致傷容疑」を認めたため、同日午前3時頃になって2人を強盗致傷罪の被疑事実で緊急逮捕した。
2000年4月5日、捜査本部は女性2人の実名・当時の服装などの特徴を公開し、一般からの情報提供を呼び掛ける公開捜査を開始し、指名手配された被疑者 牧田光希(弟)の行方を80人態勢で追った。一方で逃走中の野村・川村両名は5日になって指名手配された牧田光希(弟)の処遇について相談した結果、「牧田光希(弟)を警察署に出頭させ、『深谷さんら被害者3人を襲撃した犯行は牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢・池田の4人だけで計画・実行したものであり、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者はナゴヤドーム付近で解放した』とする虚偽の供述をさせる」ことで合意した。
野村はこの時、自分が取り込み詐欺会社で使用していた偽名(「上杉宏次郎」)を牧田光希(弟)に名乗らせることで「俺が『上杉宏次郎』の偽名を使って取り込み詐欺に関与していたことが隠蔽できる」と考え、牧田光希(弟)に命じて東濃信用金庫坂下支店の「上杉宏次郎」名義の銀行口座に残っていた預金18万円を引き出させ、この時に牧田光希(弟)の顔を防犯カメラに撮影させた。さらに野村・川村両名は牧田光希(弟)に対し「お前が警察署に出頭して『この犯行は自分たち4人(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢・池田)でやりました』と言って来い」と命令するとともに、「社長のお前が『上杉宏次郎』(野村の偽名)と本名を使い分けて取り込み詐欺をやっていたことにしておけ。お前らの家族の面倒は見てやるから、俺たちのことは絶対に話すな」などと口止めした。
牧田光希(弟)は取り調べの当初、野村・川村両名の存在を隠していたが、警察官から追及されたことで嘘をつき通すことができなくなり、共犯者として関与した野村・川村両名の存在を自供するとともに、2000年4月7日までに妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者をドラム缶で焼き殺した強盗殺人などの事実を自供した。
・遺体発見
2000年4月8日午前、捜査本部は藤岡町・瀬戸市境の山中で本格的な捜索を開始し、焼けて炭化した(後に妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体と判明する)遺体の一部(被害者女性2人の顎・脚とみられた骨)と、遺体を焼いた痕跡のあるドラム缶2缶を発見したため、強盗殺人・死体損壊などの事実が発覚した。現場山中捜索では骨以外にも、2人の所有物とみられるネックレスが発見されたほか、女性用とみられる腕時計2個が林道脇の空き地と道路を挟んだ向かい側の山側に転がっていた。また、空き地から数十メートル下の崖にドラム缶2缶とチェーンソーが転がっているのを発見した。
・主犯格2人出頭
逃亡を続けていた野村・川村両名は牧田光希(弟)を身代わり出頭させた後、野村の実父の知人を頼って東京都から埼玉県・栃木県・群馬県と関東地方一帯を逃げ回り続けたが、その途中で自分たちも指名手配された事実を知るなどしたため「これ以上はもう逃げきれない」と考え、「警察署に出頭した上で『自分たちは強盗殺人などの犯行に関係ない』と言い張ろう」と嘘の供述をして口裏合わせをすることを決めた。そして野村・川村両名は2000年4月10日、2人合わせて約10万円の所持金を持ってそれぞれ愛知県警千種署に出頭した。
2000年4月10日午後6時頃、それまで指名手配されていた野村・川村両被疑者が千種署に出頭してきたことから、特捜本部は同日付で両被疑者を手配容疑の強盗致傷容疑で逮捕した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2003年6月19日、名古屋高裁(小出錞一裁判長)で牧田光希(弟)ら共犯4被告人の控訴審判決公判が開かれた。名古屋高裁は第一審の判決(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両被告人は無期懲役、白沢・池田両被告人は懲役12年)をいずれも支持し、検察・弁護人側双方の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した。
牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢の3被告人は一・二審判決を不服として、それぞれ最高裁に上告した。一方で検察側・被告人 池田はともに上告期限の2003年7月3日までに上告せず、被告人 池田は懲役12年の一・二審判決が確定した。
最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は2004年(平成16年)2月3日付で、一・二審判決を不服として上告していた牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢の3被告人について、いずれも一・二審判決を支持して上告を棄却する決定をした。
この決定により牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両被告人を無期懲役、被告人 白沢を懲役12年とした判決が確定した。
2006年6月9日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は上告審判決公判で、一・二審の死刑判決を支持し野村・川村両被告人の上告を棄却する判決を言い渡した。
この判決により野村・川村両被告人に対し一・二審の死刑判決が確定することとなり、2006年7月6日付で判決訂正申立書棄却決定により正式に死刑判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
野村哲也(主犯格)・・・2009年1月29日に死刑執行(享年39歳)
川村幸也(主犯格)・・・主犯格、2009年1月29日に死刑執行(享年44歳)
牧田晃和(牧田光希の兄)・・・無期懲役(2034年4月頃、70歳(仮釈放30年と仮定))
牧田光希(牧田晃和の弟)・・・無期懲役(2034年4月頃、67歳(仮釈放30年と仮定))
白沢秀樹・・・懲役12年判決が確定(2015年8月頃、57歳(出所))
池田浩市・・・懲役12年判決が確定(2018年8月頃、40歳(出所))
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長崎・佐賀連続保険金殺人事件(外尾計夫・山口礼子)
1992年(平成4年)と1998年(平成10年)に佐賀県と長崎県で発生し、1999年(平成11年)に発覚した連続保険金殺人事件である。
◆佐賀事件
山口礼子(当時33歳)の夫が佐賀県のホステスと不倫関係に陥った。ホステスの夫であったマスターは逆恨みし、山口に迫り、全裸写真を撮影する。さらにマスターは写真で山口を脅迫し、愛人関係を持つに至った。その後、山口はマスターが経営するスナックで働き始め、そこで客であった外尾計夫(ほかおかずお、当時45歳)と出会い、これと愛人関係になる。外尾はマスターとの関係を清算する代わりに、山口に夫に保険金を掛けて保険金殺人をするよう迫った。1992年(平成4年)9月10日、山口は夫(当時36歳)に睡眠導入剤を混入したカレーライスを食べさせた上、佐賀県藤津郡太良町の大浦海岸で転落させて水死させ、約9,000万円の保険金を騙し取った。
◆長崎事件
1998年(平成10年)10月26日、山口は当時高校生だった山口の次男(当時16歳)を夜釣りに誘い出し、睡眠薬を飲ませる。そして翌日(10月27日)未明、山口は外尾と共に寝ている次男を長崎県北高来郡小長井町(現:諫早市)の海に突き落とした。睡眠薬の効き目が切れたのか次男は泳いで岸までたどり着くが、山口は岸辺にしがみつく次男の頭を押さえつけて水死させた。次男には約3,500万円の保険金がかけられていたが、保険金の支払いは保留されたため、2人は保険金を得られなかった。
また、外尾・山口両名はこれに先立つ同年9月29日20時ごろ、佐賀県鹿島市内の知人(当時75歳)宅に押し入り、現金約137,000円やネックレスなど6本(自家合計約120万円相当)、普通預金通帳1冊を強奪した。
◆逮捕
長崎県警察(捜査一課・諫早警察署)は1999年8月30日、外尾計夫(ほかおかずお、当時52歳)と山口礼子(当時40歳)を、殺人容疑で逮捕。その後、9月18日には長崎・佐賀両県警が2人を佐賀事件の殺人容疑で再逮捕し、諫早署に150人態勢の合同捜査本部(本部長・小賦義一長崎県警刑事部長)を設置した。その後の捜査で、山口の長男(当時19歳)や長女(当時10歳)にもそれぞれ4,000万円と2,500万円の保険金を掛けており、長女には何回か睡眠薬を飲ませていたことが発覚した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2003年(平成15年)1月31日、長崎地裁(山本恵三裁判長)は被告人2人に死刑判決を言い渡した。山口の弁護団は即日控訴し、外尾も同年2月14日付で控訴した。
2004年(平成16年)5月21日の控訴審判決公判で、福岡高裁(虎井寧夫裁判長)は第一審判決のうち、山口に関する部分を破棄自判し、山口を無期懲役とした一方、外尾に関しては第一審判決を支持し、控訴を棄却する判決を言い渡した。
2005年(平成17年)10月25日付で、最高裁第一小法廷(島田仁郎裁判長)が山口の上告を棄却する決定を出したため、山口は無期懲役が確定した。なお、山口は獄中結婚し、「M」姓に改姓している。
外尾は2008年(平成20年)1月31日に最高裁第一小法廷(涌井紀夫裁判長)で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定した。
2020年(令和2年)9月27日時点で、外尾(現在76歳)は死刑囚(死刑確定者)として、福岡拘置所に収監されている。
❖出所予定(年齢)
外尾計夫・・・死刑判決(福岡拘置所収監中、死刑未執行)
山口礼子・・・2035年10月頃、76歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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長崎市長射殺事件(城尾哲弥)
2007年(平成19年)4月17日に当時長崎市長の伊藤一長(当時61歳)がJR九州長崎駅近くの歩道で山口組系暴力団幹部の男に銃撃され、死亡した事件。
2007年(平成19年)4月15日、第16回統一地方選挙後半戦の市長選などが告示され、長崎市長選挙は22日の投開票日に向けて、4選を目指す現職の伊藤と新人3人の合わせて4人が出馬した。働き盛りの61歳だった伊藤はそれまでの選挙でも挑戦者を全く寄せ付けず2選、3選を果たしており、今回も新人3人が伊藤に及ばないのは明らかで無風、無関心の選挙戦となっていた。
告示2日後の4月17日午後7時51分、遊説をしていた伊藤がJR九州長崎駅付近にあった長崎市大黒町の自身の選挙事務所前に到着。事務所前に集まっていた記者たちと会見を開く予定であったため、スタッフが記者らに市長が帰ったと告げた直後の午後7時51分45秒ごろ、伊藤は城尾哲弥(当時59歳)に銃撃された。
使用された拳銃は5連発式の回転式拳銃で、城尾は伊藤の背後から2発を発射し、2発とも伊藤の背中に命中した。伊藤は救急車で長崎大学医学部・歯学部附属病院に搬送されたが、心臓と肺が裂けてすでに心肺停止状態に陥っていたため、心臓血管外科江石清行教授を中心とした医療チームが人工心肺を用いて治療するも、翌4月18日午前2時28分、胸部大動脈損傷による大量出血のために死亡した。
城尾は現場で選挙事務所関係者らに取り押さえられ、駆けつけた警察官に殺人未遂の現行犯で逮捕された(のちに容疑を殺人に切り替え)。
城尾は指定暴力団山口組系水心会の会長代行で、逮捕時20発ほどの弾丸を所持していた。報道によると、市が発注する公共工事をめぐって市を恨んでいた、あるいは自身の運転する車が市の発注した道路工事現場で事故を起こした際に車両保険が支払われなかったためと報道されている。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2012年1月16日、最高裁判所第3小法廷(寺田逸郎裁判長)は、検察と城尾双方の上告を棄却する決定を下して、無期懲役が正式に確定した。
城尾は2020年1月22日、収監先の大阪医療刑務所にて72歳で病死した。
❖出所予定(年齢)
死亡(病没)
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長崎ストーカー殺人事件(筒井郷太)
2011年(平成23年)12月に長崎県西海市で発生した殺人事件。
2010年9月に筒井郷太(当時27歳)は会員制のインターネットサイトを通じて女性と知り合って交際を始め、2011年5月から千葉県習志野市で同居を始めたが、筒井は交際女性のメールを先にチェックする、勝手に家族や友人たちと連絡を取らせない、勤務先の出来事について10~15分おきにメールや電話で報告させるなど厳しく束縛した。2011年6月下旬以降、連絡や帰宅が遅れたという理由で交際相手の頭や顔を殴る蹴る等の暴行を加えた。交際相手は勤務先の無断欠勤・早退が増加。女性の親族は、女性の異変は筒井の虐待等が原因と理解し、2011年10月30日、警察などと共に女性を助け出し、署員が筒井を任意同行し「二度と近づかない」との誓約書を書かせて帰した。女性は親族の手助けにより、長崎県西海市の実家に帰った。
筒井は交際相手が戻るように仕向けることを考え、脅迫メールを交際相手の友人らに送信した。2011年12月、元交際相手は千葉県習志野署に傷害の被害申告をした。筒井は習志野署に出頭した際に、交際相手に近づかないよう注意され、三重県の実家に戻った。筒井は交際相手の家族らに脅迫メールを送り、交際相手が実家に連れ戻されたと信じ込み、交際相手の家族への憤りを増幅させた。 2011年12月14日、筒井は実家で父親を殴って、警察が呼ばれたために逃走し、被害届を提出しないように父親に頼んだが拒まれ、「親にも見放された。自分には交際相手しかいない」と思い、交際相手を取り戻すために、長崎県西海市の交際相手の実家へ向った。
2011年12月16日、筒井は長崎県西海市にある交際相手の山下誠さん(当時58歳)方に侵入し、出刃包丁で交際相手の祖母 山下久江さん(当時77歳)と母 山下美都子さん(当時56歳)を殺害した。その間に宅配業者が訪ねてきたが、筒井は家人を装って宅配業者から荷物を受け取った。
その後、帰宅した親族が2人の死体を発見した。家族らの説明から女性の交際相手であった筒井が浮上。12月17日に筒井郷太(当時27歳)を殺人、住居侵入容疑で逮捕した。2012年1月4日、筒井を鑑定留置し、4月26日に殺人、住居侵入、窃盗罪で起訴された。その後、筒井は傷害罪や脅迫罪で逮捕、起訴された。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2013年6月14日、長崎地方裁判所は「(捜査段階において容疑を認める供述について)不当な取り調べが行われた事実はない。供述内容は臨場感に満ち、秘密の暴露も含まれる」として自白の任意性・信用性を認め、その上で被告が所持していた包丁や着衣から被害者2人のDNAが検出されたことを挙げて被告が犯人であるとし、また責任能力について「犯行は計画的で、完全責任能力が認められる」とし、求刑通り、筒井に死刑判決を言い渡した。
筒井は上告するも、2016年7月21日に最高裁判所で死刑判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
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長崎男児誘拐殺人事件(松田雄一)
2003年(平成15年)7月1日に長崎県長崎市で発生した、男児が誘拐され殺害された事件。
2003年(平成15年)7月1日午後7時頃、長崎市内の大型家電量販店を家族で買い物に訪れ、一人でゲームコーナーで遊んでいた種元駿君(当時4歳)に対して加害者の当時中学1年の松田雄一(当時12歳)が「お父さん、お母さんに会いに行こう」と騙して連れて行く。路面電車に無賃乗車し、商店街を連れ回した後、長崎市万才町の築町パーキングビル屋上で男児を全裸にし、腹などに殴る蹴るの暴行を加えた。さらに、はさみで性器を数箇所切り付けた。しかし、防犯カメラが設置されていることに気づいてパニックになり、泣き叫んでいた駿君を「何とかしなければ」と思い、駿君を抱え上げて手すり越しに、屋上から約20メートル下の通路に突き落として殺害した。
犯行後から補導されるまで、少年は通っていた中学校で、事件について冗談を交えて話したり(同級生証言)、駿君と出会った電器店でゲームソフトを購入していた。
犯行現場に近い繁華街に設置されていた防犯カメラにより、7月9日に加害者の松田少年が補導される。松田少年は事件当時12歳であったため、逮捕することができず補導という形であった。この事件以前にも松田少年は、この事件と類似した異常性欲が顕著に見られる事件を20件以上引き起こしていた。なお、この事件に関しては、イギリスで1993年に起きたバルジャー事件との類似性についても多く報道された。
また、松田少年は小学3年の頃に友人に股間を蹴られ病院に行っており、この頃から男性器への執着が生まれていったとされる。2003年8月6日付けの『週刊新潮』では「ボクは、ずっと前におなじことされたもん。裸にされて怖い思いしたから。それでも、じっと黙っとったもん」「怖かったけど、変な気持ちになった。だから、ボクも中学生になって、同じことをしてもいいと思ったからね」という話が載せられている。
加害者(松田少年)が中学1年の少年であったため、凶悪な少年事件として国内を震撼させた。加害者の少年(松田少年)は、「男児の性器に対する拘りを払拭することは出来ない」と述べており、児童自立支援施設を退所できないまま、中学校を卒業した。
長崎家庭裁判所は、審判にあたり専門家チームによる2か月間の精神鑑定を実施した。
その結果、松田少年の特質として
・パニックになりやすい
・対人共感性、対人コミュニケーション能力が乏しい
・母親を異常に恐れている
と分析。一方で、学校の成績は学年トップクラスで、なおかつ12歳でありながらすでに三国志を読破しているなど、知能面での障害がないことから、松田少年をアスペルガー症候群であると診断した。
家裁は児童自立支援施設への送致と1年間の強制措置(鍵付きの部屋に入れられる)を認め、松田少年は2003年9月、国立武蔵野学院(埼玉県さいたま市緑区)へ入所した。強制措置については、入所後1年ごとに再検討が行われており、2006年9月に3度目の延長がなされたが、4度目の延長はなされず、2007年9月に解除された。
❖出所予定(年齢)
2007年9月頃、16歳、すでに退院(児童自立支援施設にて4年の保護処分)
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中津川一家6人殺傷事件(原平)
岐阜県で2005年(平成17年)に発生した家族内の大量殺人事件である。裁判では一家心中として極刑を回避した。
◆登場人物
・加害者
原平(当時57歳)
・被害者
原チヨコさん(当時85歳)・・・犯人の母(死亡)
原正さん(当時33歳)・・・犯人の長男(死亡)
藤井こずえさん(当時30歳)・・・犯人の長女(死亡)
藤井孝平ちゃん(当時2歳)・・・犯人の孫(死亡)
藤井彩菜ちゃん(当時生後3週間)・・・犯人の孫(死亡)
藤井孝之さん(当時44歳)・・・犯人の娘婿(怪我)
・加害者
原平(当時57歳)
・被害者
原チヨコさん(当時85歳)・・・犯人の母(死亡)
原正さん(当時33歳)・・・犯人の長男(死亡)
藤井こずえさん(当時30歳)・・・犯人の長女(死亡)
藤井孝平ちゃん(当時2歳)・・・犯人の孫(死亡)
藤井彩菜ちゃん(当時生後3週間)・・・犯人の孫(死亡)
藤井孝之さん(当時44歳)・・・犯人の娘婿(怪我)
2005年(平成17年)2月27日午後2時ごろ、岐阜県中津川市坂下町で、男性が腹を刺されているとの通報があった。警察は彼を保護したが全治2週間の怪我をしていた。同じ頃中津川市職員 原平(加害者、当時57歳)の自宅で、大勢の人が倒れているとの通報があった。警察と救急隊員がかけつけたところ原平の長女 藤井こずえさん(当時30歳)が2歳の男児 藤井孝平ちゃんと生後3週間の女児 藤井彩菜ちゃんを抱えて倒れており、そばのソファのうえで原平の母 原チヨコさん(当時85歳)が倒れており、原平の整体業の長男 原正さん(当時33歳)も2階で倒れていた。5人全員が原平の手で絞殺されていた。
原平は首に包丁を突き刺した状態で空の浴槽の中に隠れているところを発見された。腹を刺されていた原正さんは原平の娘婿で被害者の2児の父親であった。原平は5人の殺害のほか、中津川警察署から調教を嘱託されていた警察犬2頭も殺害していた。原平は全治三週間の重傷で退院後の3月12日に娘婿に対する殺人未遂で逮捕され、4月2日に5人に対する殺人罪で再逮捕された。
2005年(平成17年)7月1日の初公判の検察による冒頭陳述によれば、事件の背景は次のようなものであるとした。長野県出身のAは1970年に坂下町(2005年2月に中津川市に編入合併)の公立病院に採用され、事件当時は老人保健施設の事務長をしており、近所では仲良し家族との評判であった。
しかしAと母の二人の間は深刻な確執があった。原平は厳格な母親を小学生の時から嫌っており、中学生の時には口を聞かなくなっていたが、数年前から同居するようになった。しかし原平の母は原平の妻(当時54歳)を泥棒呼ばわりするなどしたため、母に対する嫌悪感が積もる反面、妻に対し申し訳ないと思った。事件の直前の1月27日に母名義の郵便貯金の預け替えが必要であることから郵便局長が手続きの説明をしたが、郵便局長をなじったことから、母に対する嫌悪が爆発することになった。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
名古屋高裁は2010年(平成22年)1月26日に双方の控訴を棄却し第一審・無期懲役判決を支持する判決を言い渡した。
名古屋高検・被告人双方が最高裁に上告していたが、最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は2012年(平成24年)12月3日に双方の上告を棄却する決定を出したため、無期懲役判決が確定することとなった。
❖出所予定(年齢)
2042年1月頃、92歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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長野・愛知4連続強盗殺人事件(西本正二郎)
2004年(平成16年)1月13日から同年9月7日にかけて、愛知県春日井市および長野県飯伊地域(飯田市・下伊那郡高森町)で連続して発生した強盗殺人事件。春日井市でタクシー運転手1人が、長野県では高齢者3人が相次いで殺害された。
交通事故がきっかけで失業した西本正二郎(当時27歳)は、2004年1月、仕事を探しに愛知県名古屋市に出るものの求職に失敗し、所持金が尽きたところでタクシーの襲撃を計画、同県春日井市内でタクシー運転手の湊保雄さん(当時59歳)を首を切って殺害し売上金を奪った。
その後、故郷である長野県飯田市に帰省した西本は、4月26日に同市大王路の独居高齢女性 島中実恵さん(当時77歳)を絞殺、8月14日には飯田市と隣接する下伊那郡高森町出原在住の独居高齢男性 加藤仁さん(同69歳)を、9月7日には同町吉田在住の独居高齢女性 木村あい子さん(同74歳)をそれぞれ刺殺、いずれも金品を奪った。加藤仁さんは事件の約10年前に息子を、7年前に妻をそれぞれ亡くしており、事件当時は一人暮らしだった。
西本は同年9月13日、飯田市下久堅の民家へ空き巣に入った。この家は西本の元同僚の家で、元同僚は何度も被害に遭っていたことから警察に自動通報される防犯センサーを設置しており、西本が窓ガラスを割って鍵を開けたところでセンサーが作動した。西本は何も取らずに逃走したが、通報を受けて駆けつけた飯田署員に職務質問されて住居侵入と窃盗未遂容疑で逮捕され、後に木村あい子さん事件の強盗殺人容疑で再逮捕された。後に島中実恵さん・加藤仁さんの両事件や、愛知県で発生した湊保雄さん事件についてもそれぞれ自供した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
第一審の公判は長野地裁(土屋靖之裁判長)で開かれ、2006年(平成18年)2月8日の論告求刑公判で、長野地方検察庁は西本に死刑を求刑。長野地裁は同年5月17日、西本に死刑判決を言い渡した。
2007年(平成19年)1月22日に控訴審判決公判が予定されていたが、同月11日付で西本が自ら控訴を取り下げたため、死刑が確定した。
判決確定から2年後の2009年(平成21年)1月29日、西本は東京拘置所で死刑を執行された(32歳没)。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(2009年(平成21年)1月29日、東京拘置所で死刑執行(当時32歳没))
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中野区中国人留学生殺害事件(陳世峰(チェンシーフォン))
東京都中野区で2016年(平成28年)11月3日未明に発生した殺人事件。
法政大学の大学院生で中国籍の女性 江歌さん(ジャンガ―・当時24歳)を、中国籍の男 陳世峰(チェンシーフォン・当時25歳)がアパートの前で所持していたナイフにより複数回刺して殺害。現場には、加害者の元交際相手で被害者と同居中であった劉鑫(リュウシン・当時24歳)性がいた。
事件の数日後に、詳細についての報道がまだ不十分な際、被害者の母 江秋蓮(ジャンチウィエン)は「親友を庇い殺された」とのいきさつを新浪微博に明らかにしていたことで、中国においても国民の強い関心を集めていた。事件発生以来の1年近く、母は現場にいた同居女性およびその家族の個人情報を明らかにしており、相手が事件の道徳的義務を果たしていないと非難し、「国内外の大衆に向けて署名募集活動を行い、日本の司法に犯人の死刑を求刑を望む」と述べた。2017年11月、事件が発生した翌年、インタビュー番組「局面」で、被害者の母とその同居女性の声明が発表され、中国国内の世論に新たな関心を集めた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2017年12月、陳は東京地方裁判所で殺人罪で検察の求刑通りの懲役20年の刑が下されている。
❖出所予定(年齢)
2037年5月頃、55歳(懲役20年)
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長野市一家3人殺害事件(松原智浩・池田薫・伊藤和史・斎田秀樹)
2010年(平成22年)3月に長野県長野市で発生した一家殺人事件。この事件が発覚するきっかけとなった貸倉庫内にあったワゴン車から遺体が見つかった。
2010年4月10日、長野市若宮の貸倉庫内にあったワゴン車から、宮城浩法(当時37歳)が頭蓋内損傷で亡くなっているのが見つかった。見つかったのは、別の ”家族失踪事件” に伴う捜査の過程で得られたある証言によるものだった。
この証言をした伊藤和史(逮捕時31歳)は、2005年7月頃に宮城と知り合っていた。当時、大阪の風俗店で働いていた伊藤は、この宮城に目を付けられたことで、それまでの生活が一変することになる。
伊藤は自宅の鍵を取り上げられ、ビールジョッキで頭を殴られたり、包丁で足を刺されるなど、激しい暴行を受けた。家族や知人らの個人情報も把握され、逃げることもままならない状態。命じられるままに養子縁組をして、姓を変えては消費者金融から金を借りて宮城に渡すことを強要された。
2005年8月頃からは、長野市にある「オリエンタルグループ」と称する会社の金文夫会長と、その長男で専務の金良亮のもとで、建築関係の営業や現場作業等を担当する従業員となった。ここでは朝から晩までこき使われ、休みはほとんどなく1ヶ月フルに仕事してもほぼ無給。そのため夜も働いて稼ぐしかなく、毎日3~4時間しか寝られない過酷な生活だった。
宮城は、沖縄県浦添市出身の元暴力団員だった。金良亮(当時30歳)の暴走族時代からの先輩で、暴力団時代には兄貴分だった。しかし、宮城がある犯罪で服役することになった時期から、金良亮と宮城の関係はぎくしゃくし始めていた。
兄貴分である宮城は、金良亮に犯罪で得た金を多く渡すように言い、暴力に出ることもしばしばだった。やがて、金良亮は「宮城と縁を切りたい」「殺す」などと愚痴を言うようになった。
宮城が出所した2008年7月20日。刑務所を出所した宮城を、金良亮は伊藤らを従えて迎えに行った。そして兵庫県警・尼崎警察署のすぐ側の車内で宮城を射殺。伊藤が車外に出ている間のできごとだった。
宮城の遺体は、長野市若宮の貸倉庫内に車ごと放置されるが、この殺人の一部始終を知る伊藤は、金良亮や金文夫(当時60歳)会長に対する恐怖が一層強まった。実際、事あるごとに「お前も宮城のようになりたいか?」と脅されたという。そしてこの事件以降、伊藤は金親子の支配下に置かれることになった。
事件に絡み、貸倉庫を使用している会社の実質的な経営者の男などから事情聴取を進めた。
その後本事件について、3月下旬から行方不明となっていて、親族が捜索願を出していた長野県長野市在住の一家3人について遺体を埋めたと自供した。
伊藤は、自分の妻子に危害がおよぶことを、伊藤は何より恐れていた。極悪な生活からの逃亡をあきらめたのも、妻子を守るためである。逃げたら妻子が危険な目に遭うかもしれず、助けを求めるべき長野県警には金親子と懇意にしている刑事がいて、警察はあてにならないと考えていた。
そうしてまで守ってきた家族を引き込もうとする金親子に対し、伊藤の心の中には殺意が芽生えていった。彼は松原に金親子の殺害について持ちかけたが、同じ気持ちを抱いていた松原智浩(逮捕時39歳)はこれに同意。さらに同じ境遇の池田薫(逮捕時34歳)も引き入れ、犯行は3人で行うことにした。
犯行後の遺体の運搬については、オリエンタルグループと取引のあるプラスティック販売業者・斎田秀樹(逮捕時51歳)に100万円の報酬で依頼して了承を得た。
2010年3月24日午前8時50分頃、2階の夫婦の寝室隣の居間において、伊藤が有紀子の背後から、いきなりロープを首に巻き付ける。そして転倒した有紀子の首のロープを伊藤・松原・池田の3人が代わる代わる絞め付けて殺害した。
午前9時10分頃、次に寝室で寝ている良亮の首にロープを巻き付け、伊藤と松原が両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けた。良亮は窒息により死亡。2階物置から現金約281万円を強取した。
金文夫会長(62歳)は2階の居間にあるリクライニングソファーで眠っていた。午前9時25分頃、伊藤と池田は彼の首にロープを巻き付け、両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けて殺害。その後、池田が金文夫会長の持つ現金約135万円を奪った。
供述に基づいて捜索したところ、2010年4月14日に愛知県西尾市南奥田町の資材置き場に遺棄されているのが発見された。
金文夫(当時60歳)、金良亮(当時30歳)、楠見有紀子(26歳)の3人はいずれも窒息死だった。
長野県警長野中央警察署は殺人事件として捜査して4月15日に松原智浩(逮捕時39歳)・池田薫(逮捕時34歳)・伊藤和史(逮捕時31歳)・斎田秀樹(逮捕時51歳)の4人を死体遺棄の疑いで逮捕、2010年5月5日に強盗殺人容疑で4人を再逮捕した。そのうち3人の容疑者 松原・池田・伊藤は韓国籍男性の会社の従業員である。
左が伊藤和史、右が松原智浩
被害者の3人、でもこちらも鬼畜・・・。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
第一審を担当した長野地裁は松原(2011年3月25日)・池田(2011年12月6日)・伊藤(2011年12月27日)に求刑通り死刑・殺害行為に加担していない斎田には松原・池田・伊藤との共謀を認めた上で懲役28年(求刑・無期懲役)をそれぞれ言い渡した。
控訴審を担当した東京高裁では、池田(2014年2月27日)を従属的だったとして無期懲役・池田を強盗殺人幇助罪にとどまるとして懲役18年に減刑したものの、松原(2012年3月22日)・伊藤(2014年2月20日)の死刑判決は維持。最高裁では全被告の上告を棄却(松原は2014年9月2日・池田は2015年2月9日・伊藤は2016年4月26日・斎田は2013年9月30日)し、松原・伊藤の死刑、池田の無期懲役、斎田の懲役18年の判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
伊藤和史・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
松原智浩・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
池田薫・・・2045年4月頃、64歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
斎田秀樹・・・2031年9月頃、69歳(懲役18年)
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中村橋派出所警官殺害事件(柴嵜正一)
1989年(平成元年)5月16日未明に東京都練馬区中村北で発生した強盗殺人・公務執行妨害・銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反事件。
元陸上自衛官の柴嵜正一(事件当時20歳)が銀行強盗などのために拳銃を奪取しようと警視庁練馬警察署「中村橋派出所」を襲撃し、勤務していた警察官2人(山崎達雄巡査(当時30歳、事件後に警部補に特進)、小林利明巡査部長(当時35歳、事件後に警部に特進))をサバイバルナイフで刺殺したが、被害者らの抵抗に遭い拳銃強奪は未遂に終わった。
1989年(平成元年)5月16日午前2時50分前頃、山崎巡査が、派出所正面入り口前で一時的に保管していた遺留品のバイクを派出所裏手の遺留自転車等保管場所へと移動させる作業に移ったのを確認。
柴嵜は背後から山崎巡査に接近し背中をサバイバルナイフで突き刺しました。山崎巡査は刺されながらも振り向いて抵抗してもみ合いになり、柴嵜はさらに山崎巡査の胸部などを突き刺して致命傷を負わせた。
柴嵜は山崎巡査に致命傷を負わせた後、山崎巡査が腰に携帯していた拳銃を奪おうとするが、山崎巡査は致命傷を負いながらもなおも抵抗したため奪う事ができなかった。
そこへ、異常を察知して派出所内から小林巡査部長が駆けつけ、警棒を構えながら「おい!」と声をかけた。
柴嵜は咄嗟に「このままでは捕まる、この警察官(小林巡査部長)を殺害して拳銃を奪い逃げよう」と考え、小林巡査部長が振り上げた警棒を左手で払い除けながら、右手に持ったサバイバルナイフで小林巡査部長の胸部を突き刺した。小林巡査部長は刺されながらも怯まずに抵抗して路上に転倒したままもみ合いとなるが、柴嵜はさらに小林巡査部長の胸部などを複数回にわたって刺し、致命傷を負わせた。
柴嵜はその上で小林巡査部長の拳銃を奪おうとするが、これも小林巡査部長の必死の抵抗に遭って失敗。小林巡査部長はそのまま拳銃を抜いて反撃に出ようとするが、それを見た柴嵜は逃走。小林巡査部長は逃げる柴嵜に3発の威嚇射撃している。
そして、小林巡査部長は瀕死の重傷を負いながらも、派出所内へと戻り事件の発生を本部に通報している。
通報を受けた警視庁はすぐに周辺に規制線を張り、現場となった「中村橋派出所」周辺の通りには、パトカー、鑑識や機動捜査隊、捜査一課の車両がひしめき、捜査員や警備のための警察官が周囲に溢れて騒然とした状況となった。
被害者の警察官2名は、小林巡査部長が同日午前3時55分頃に、山崎達査が同日午前4時18分頃に亡くなった。(共に死因は失血死)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
1998年(平成10年)9月17日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人 柴嵜正一・弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑が確定した。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
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流山女性殺害事件(橋詰雄介)
1997年(平成9年)5月18日に千葉県流山市鰭ケ崎のマンションで発生した強盗殺人・強盗強姦などの事件。
当時17歳の少年 橋詰雄介(2012年1月18日逮捕当時32歳)が、女性会社員 田島由美さん(当時24歳)を強姦して殺害し、キャッシュカードを奪った少年犯罪である。
事件直後、実際には無実だった被害者の親族が、千葉県警察によって誤認逮捕される冤罪事件が発生。事件発生から、2012年(平成24年)1月に真犯人Xが逮捕される(事件解決)までに15年を要した。
2012年11月21日に判決公判が開かれ、千葉地裁(齊藤啓昭裁判長)は検察官の求刑通り、懲役15年の判決を言い渡した。
橋詰は2014年(平成26年)に懲役15年が確定し、2020年(令和2年)3月に出所したが、出所後に窃盗3件(未遂1件を含む)などの事件を起こし、2021年(令和3年)に懲役4年の実刑判決を受けた。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2012年11月21日に判決公判が開かれ、千葉地裁(齊藤啓昭裁判長)は検察官の求刑通り、懲役15年の判決を言い渡した。
弁護人側は判決を不服として、同月27日付で東京高等裁判所に控訴したが、東京高裁(村瀬均裁判長)は2013年(平成25年)7月18日に「橋詰の供述通り、凶器とみられる刃物が発見されており、犯行を認めた捜査段階の供述は信用できる」「弁解は信用できない」として、原判決を支持して控訴を棄却する判決を宣告した。2014年(平成26年)2月12日付で、最高裁判所第三小法廷(木内道祥裁判長)が被告人 橋詰側の上告を棄却する決定を出したため、懲役15年の判決が確定している。
◆出所後
橋詰は2014年(平成26年)に懲役15年が確定し、2020年(令和2年)3月に出所したが、出所後に窃盗3件(未遂1件を含む)などの事件を起こし、2021年(令和3年)に懲役4年の実刑判決を受けた。
❖出所予定(年齢)
2020年3月頃、40歳(本件では出所)
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名護市女子中学生拉致殺害事件(柳末盛・上野勝)
1996年(平成8年)6月21日に沖縄県(沖縄本島)で発生した、わいせつ略取・強姦・殺人・死体遺棄・窃盗事件。
犯人の男2人組(本文中「柳末盛(当時38歳)」および「上野勝(当時37歳)」)は同日夕方、名護市伊差川の農道で、帰宅途中の女子中学生 伊地美香さん(当時15歳:市立羽地中学校3年生)をワゴン車(白いワンボックスカー)で拉致した。その後、2人は2回にわたって伊地さんを強姦した上で、犯行の発覚を免れるため、Aを殺害して死体を遺棄することを決意し、同日夜に国頭郡国頭村の山中で、伊地さんの首をロープで絞めて殺害し、死体を国頭村楚洲の山中に遺棄した。2人は犯行後、約半年間にわたって逃亡を続けていたが、同年12月に犯行車両を盗んだとして指名手配されていた犯人の柳が自首し、伊地さんを殺害して遺棄した旨を自供したことで、1997年(平成9年)1月1日に伊地さんの遺体が発見され、残る(上野)も同月に逮捕された。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は1999年9月30日、2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡した。福岡高裁那覇支部 (1999) は判決理由で、「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、最高裁判例が示す死刑適用基準に沿って検討すると、殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があり、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば、極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた。
同判決に対し、福岡高等検察庁那覇支部は上告するか否か検討したが、判例違反などの上告理由を見い出せなかったため、同年10月13日、上告を断念することを決めた。弁護人も上告しなかったため、2人とも無期懲役が確定した。
❖出所予定(年齢)
柳末盛・・・2029年9月頃、68歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
上野勝・・・2029年9月頃、67歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件(武藤恵喜)
2002年(平成14年)3月14日未明に愛知県名古屋市中区栄4丁目で発生した強盗殺人事件。
武藤恵喜(当時52歳)は本事件前の2002年2月8日午後9時頃から2002年3月5日午後10時30分頃までの間、前後9回にわたり、名古屋市中区内のスナックバーなど計8か所で無銭飲食をし、店主らの隙を突いては売上金などを盗んで逃げるなどし、ビール22本ほか26点の飲食物(代金合計7万1300円相当)・席料・カラオケ使用などの利便(合計1万9000円相当)を騙し取った。
これに加え、2002年2月8日頃から2002年3月6日頃までの間の前後9回にわたり、前述のスナックなど計8か所で現金計約35万2300円・かばん5個ほか約159点(時価合計約16万650円相当)を窃取した。
刑務所を出所してから2か月後の2002年3月12日、武藤は52歳の誕生日を迎えたが、翌2002年3月13日にはいつものように所持金が尽き、夜の繁華街をぶらついていた。
そこで武藤は、「さらに別の飲食店に入って売上金などを盗もう」と考え、ホテル・携帯電話販売店に立ち寄り、飲食店主らを信用させるための小道具にする名刺・サンプルの携帯電話を手に入れた上、適当な飲食店を物色していた。その上で「人が少ないところがいい」と考えたBは、名古屋市中区栄4丁目の、雑居ビル3階に位置する現場スナックバーに来店した。
このスナックバーの店主は千葉春江さん(当時61歳)で、武藤が入店したのは閉店時間(午前0時)直前の午後11時だった。
武藤は日付が変わるまで店内で飲み続け、金を盗む隙を窺っていたが、千葉さんには全く隙がなく、武藤がトイレに立ったときでさえ、ドアを半開きにして武藤の動きをうかがっていたという。
途中、武藤は「タバコがなくなった」として、千葉さんにたばこを外へ買いに行くように仕向けたが、千葉さんは軽くいなし、腰を上げなかった。武藤が「仲間を迎えに行ってくる」と言い、店から逃げようと表へ出ても、後をつけてきた女性に引き戻された。
翌2002年3月14日午前3時頃、所持金がなかった武藤は「被害者に嵌められた」と感じ、いらだちを募らせていたところ、トイレから出てきた千葉さんが武藤の隣りに座り、「私のこと、何とかしようと思って掛けたんじゃないでしょうね」などと答えたことを契機に、「このままでは無銭飲食で刑務所戻りになる」と恐れた武藤は強盗することを決意し、千葉さんを椅子ごと引き倒した。
床に仰向けに転倒した千葉さんは、「初めからおかしいと思ったんだ」などと大声で叫んで抵抗し、武藤に左掌で口を押さえつけるように塞がれても、なおも暴れて抵抗した。
武藤は被害者の犯行を抑圧しようと、被害者の口を塞いだまま立たせたが、左手親指・人差し指の付け根付近を思い切り噛みつかれ、その手を伸ばして引き抜くと、千葉さんが再び大声で叫び始めた。
そのため武藤は、千葉さんの背後からその首に左腕を回し、自身の左手首付近に右腕を十字に重ねて数分間思い切り引き、千葉さんの首を絞めた。千葉さんは初めこそ叫んで抵抗していたものの、武藤が首を絞め続け、さらにそのままの体勢で千葉さんの体を持ち上げて約1分間経過すると、おとなしくなったので、武藤は千葉さんを床に寝かせた。
武藤が千葉さんの息を確認したところ、息は感じられなかったが、千葉さんを確実に殺害しようとした武藤は、その首に店内にあったカラオケのマイクコードを二重に巻き付けた上、コードの両端を思い切り引っ張り、千葉さんの首を再び強く絞め付けて殺害した。
千葉さんの内縁の夫は事件発生時刻の午前3時頃、妻の帰りが遅いのを心配し、妻の携帯電話にかけたが、誰も出なかった。そのため夫は午前7時半頃、現場スナックバーが入居する雑居ビルの管理者に連絡した。夫からの連絡を受け、ビル管理者の長女が午前8時40分頃に鍵を開けて店内に入ったところ、店内奥のカラオケコーナー付近の床で千葉さんが倒れているのを発見し、愛知県警察に110番通報したが、千葉さんは既に死亡していた。遺体の首にコードが2,3回巻かれていたことから、愛知県警は中警察署に捜査本部を設置し、殺人事件として捜査を開始した。
翌2002年3月16日午後4時半頃、金山駅北口付近の路上を捜索していた捜査員が路上を歩いている武藤を発見し、特別捜査本部が設置された中署に任意同行した。
中署は既に前述の窃盗容疑での逮捕状も用意していたが、取り調べで殺人事件について追及したところ、武藤は「金を奪う目的で客を装い店内に入ったが、口論となったことから千葉さんを殺害した」と供述し、容疑を認めたため、武藤を強盗殺人容疑で逮捕した。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2007年3月22日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(才口千晴裁判長)は控訴審の死刑判決を支持し、被告人 武藤の上告を棄却する判決を言い渡した。
この判決により、被告人 武藤の死刑判決が確定した。
2013年(平成25年)2月21日、法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令により収監先・名古屋拘置所で死刑囚 武藤の死刑が執行された。62歳没、死刑確定から5年10カ月が経過していた。
❖出所予定(年齢)
死刑判決(2013年(平成25年)2月21日、東京拘置所で絞首により死刑執行(当時62歳没))
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名古屋小6受験殺人事件(佐竹憲吾)
2016年(平成28年)8月21日に、愛知県名古屋市北区のマンションで、佐竹憲吾(父親、当時48歳)が小学6年の長男(当時12歳)を包丁で刺し、死亡させた日本の教育虐待・殺人事件である。
2016年8月21日、名古屋市北区の自宅マンションで、父親が当時小学6年の息子(12歳)の胸を包丁で刺し、失血死させる事件が発生した。
当時、父親は息子に対し中学受験をさせており、2019年6月に行われた初公判で検察側は「指示通りに勉強しないと怒鳴ったり、暴力を振るったりした」と説明している。また2016年1月からは、脅しとして刃物を使用し、事件1、2日ほど前は父親が息子の足を切りつけるなどの傷害を加えていた。
2019年(令和元年)7月19日、名古屋地方裁判所は、父親に対し殺人の罪で懲役13年の実刑判決を言い渡した。❖出所予定(年齢)
2032年7月頃、61歳(懲役13年)
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名古屋市連続通り魔殺傷事件(伊田和世)
2003年(平成15年)に名古屋市北区(3月30日)と千種区(4月1日)で起こった連続通り魔事件。2件の犯行で1名が負傷し、もう1名が死亡した。
2003年3月30日、名古屋市北区東水切町四丁目の路上で、菅谷悦子さん(当時22歳)が伊田和世(当時38歳)に包丁で刺される。このとき、菅谷さんは伊田に「ニシオオゾネ(西大曽根?)は、どこですか?」という意味不明な質問をされて注意を引きつけられたときに刺されたという。菅谷さんは自力で自宅まで逃げ帰ったが、腹部の刺し傷が15センチも達していたことから、4月1日に多臓器不全で死亡した。
2003年4月1日、名古屋市千種区日進通一丁目で伊田が女性B(当時22歳)を襲い、バッグを奪って逃走。Bは傷は負ったが、命には別状無かった。
2003年8月28日深夜、伊田が窃盗事件で現行犯逮捕される。翌日、家宅捜索でBのバッグが発見され、2件の通り魔事件を自供。殺人・殺人未遂容疑で再逮捕。
2006年2月24日、名古屋地裁で伊田に無期懲役の判決が下された。弁護側・検察側共に控訴せず、刑は確定した。❖出所予定(年齢)
2036年2月頃、68歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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名古屋大学女子学生殺人事件(大内万里亜)
2014年(平成26年)12月7日に愛知県名古屋市で名古屋大学の女子大生が、宗教団体のセミナーに勧誘されたことで知り合った森外茂子さん(当時77歳)を殺害した殺人事件である。
2014年(平成26年)12月7日、名古屋大学の女子大生 大内万里亜(当時19歳)は、宗教の勧誘で知り合った名古屋市千種区在住の森外茂子さん(当時77歳)と宗教団体の集会に2人で参加した。集会が終了した昼ごろ、「聞きたいことがたくさんある」と持ち掛け、セミナーに参加した大内は信仰に関心を持ったかのように装い森外さんを名古屋市昭和区の自宅アパートに誘い込んだ。用意していた斧で数回殴り、マフラーで首を絞めるなどして殺害。
遺体に服を着せ、マフラーを首に巻かせた状態で風呂場の洗い場に横たわらせ、「実験結果として記録を残すため」に森外さんの写真を4、5枚撮った。事件当日に自身のTwitterアカウントで「ついにやった」と書き込みを行った。翌日に宮城県仙台市の実家に帰り、自宅アパートに遺体を1ヶ月以上放置した。
◆余罪
殺人事件の捜査の過程で、高校時代に同級生の男子生徒及び中学時代の同級生だった女子生徒に硫酸タリウムを飲ませた事件、大学時代に帰省していた仙台市の実家近くの住宅を放火しようとした事件がそれぞれ発覚した。最終的に以下の罪状で、名古屋地方検察庁から起訴された。
2012年5月27日 - 仙台市のカラオケ店で、劇物の硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、中学時代の同級生だった女子生徒に飲ませた殺人未遂罪
2012年5月から7月 - 通っていた仙台市の高校で、硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、同級生の男子生徒に飲ませた殺人未遂罪
2014年8月29日 - 30日 - ペットボトルで製造した火炎瓶に点火し、仙台市の住宅の縁側に置き、熱で窓ガラスを割ったとする火炎瓶処罰法違反と器物損壊罪
2014年12月7日- 名古屋市で宗教勧誘で知り合った女性を誘って、斧で殴ってマフラーで絞めたとする殺人罪(本事件)
2014年12月13日 - 仙台市の住宅(前述と同じ)の郵便受けに、引火性の高いジエチルエーテルを流し込んで火をつけたとする殺人未遂罪と現住建築物等放火未遂罪
なお加害者は2015年12月時点で名古屋大学を退学している。
殺人事件の捜査の過程で、高校時代に同級生の男子生徒及び中学時代の同級生だった女子生徒に硫酸タリウムを飲ませた事件、大学時代に帰省していた仙台市の実家近くの住宅を放火しようとした事件がそれぞれ発覚した。最終的に以下の罪状で、名古屋地方検察庁から起訴された。
2012年5月27日 - 仙台市のカラオケ店で、劇物の硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、中学時代の同級生だった女子生徒に飲ませた殺人未遂罪
2012年5月から7月 - 通っていた仙台市の高校で、硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、同級生の男子生徒に飲ませた殺人未遂罪
2014年8月29日 - 30日 - ペットボトルで製造した火炎瓶に点火し、仙台市の住宅の縁側に置き、熱で窓ガラスを割ったとする火炎瓶処罰法違反と器物損壊罪
2014年12月7日- 名古屋市で宗教勧誘で知り合った女性を誘って、斧で殴ってマフラーで絞めたとする殺人罪(本事件)
2014年12月13日 - 仙台市の住宅(前述と同じ)の郵便受けに、引火性の高いジエチルエーテルを流し込んで火をつけたとする殺人未遂罪と現住建築物等放火未遂罪
なお加害者は2015年12月時点で名古屋大学を退学している。
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2018年3月23日、名古屋高裁(高橋徹裁判長)は第一審・無期懲役判決を支持して被告人・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡した。高橋徹裁判長は、各事件時の精神状態は、躁鬱病の軽そう状態にとどまり、発達障害が動機に影響しているものの限定的だったと指摘して、一審同様に完全責任能力を認めた。
硫酸タリウム事件については、混入時に周囲の状況を確認するなど冷静に行動しているほか、致死量の知識もあったことから「被害者が死亡する可能性を十分認識しながら犯行に及んだと推認される」と述べた。被告人側は判決を不服として2018年4月5日付で最高裁へ上告した。
2019年(令和元年)10月15日付で最高裁判所第三小法廷(林景一裁判長)は被告人・元名大生の上告を棄却する決定を出したため、2019年10月22日付で無期懲役とした一・二審判決が確定した。
❖出所予定(年齢)
2049年10月頃、49歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
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※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。
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