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2023年10月


◆ドキュメント
作成日付:2023/10/26
更新日付:2023/12/10
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート5))

<目次>






東京・山梨連続リンチ殺人事件(松井知行・紙谷惣)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)5月から同年9月にかけて、東京都新宿区と山梨県北都留郡丹波山村で発生した殺人・死体遺棄・死体損壊事件。

犯行グループは男女11人だがうち男9人は以前からクレジットカードを使った振り込め詐欺を繰り返していた。

2003年9月頃から元飲食店経営者 古川信也さん(当時26歳)を含む数人を埼玉県戸田市のアパートに監禁し、9月19日に山梨県北都留郡丹波山村親川地区にて、古川さんの交際相手であった当時19歳の女に古川さんの首を絞めさせ、更に主犯の男とその共犯者たちも同じく首を絞め、古川さんの首にロープを巻き付け綱引きをするように引っ張るなどして殺害した。また古川さんをいったん解放した後に、殺害したことが判明している。当時17歳の少女はこの殺害には関与はしていなかったが、主犯 松井知行(当時39歳)より死体遺棄に無理やり加担させられた。

2003年10月4日に東京都西多摩郡奥多摩町の町道で人の右腕が落ちているのを猟友会のメンバーが発見した。司法解剖の結果、身元は古川さんと判明した。

その後、2004年(平成16年)1月8日までに未成年者2人を含む男女8人が古川さんに対する逮捕監禁容疑で逮捕された。後に殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で再逮捕されている。その後、容疑者らの供述により小菅村で白骨化した古川さんの頭蓋骨が発見された。但し、後述の南アフリカに逃亡した男3人以外は無理やり犯行に加担させられていた。

また8人のうち数人が別の事件に関与した疑いが強まり、追及したところ、別の男性に暴行を加えて死亡させ、死体を埼玉県秩父郡長瀞町に遺棄したとも供述した。1月12日に長瀞町の山中を捜索したところ、人の胴体が発見された。身元は元スナック店経営者の長沼正司さん(当時38歳)と判明。長沼さんは、2003年5月27日に新宿区歌舞伎町から行方がわからなくなり、家族が捜索願を出していた。その後の捜査で5月27日に犯行グループらがBを歌舞伎町のホテルで暴行して死亡させ、翌日、長瀞町に遺体を遺棄していたことがわかった。

古川さんの事件について、共犯者の残りの3人がすでに南アフリカ共和国へ逃亡しており、国際刑事警察機構を通じて国際手配された。2004年4月12日に警視庁は主犯格の男を含む逃亡中の3人に対し、逮捕状を取り、長沼さんに対する殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で指名手配した。3人のうち2人は古川さんの事件でも国際手配されている。

古川さんに対する殺人罪等で国際手配されていた3人のうち1人は、2004年6月4日にクレジットカード不正利用でアメリカハワイ州の刑務所に服役していたが、刑期を終えたために、警視庁がアメリカ政府に身柄の引き渡しを求め、アメリカ政府がそれに応じ、日本に強制送還され、その後逮捕された。

2011年(平成23年)11月1日、警視庁は古川さんの殺害容疑で国際手配されていた事件当時19歳だった女を逮捕した。女は、逃亡先の南アフリカ共和国から、知人を通じて出頭するために帰国する意向を告げ、成田空港で身柄を拘束された。同年11月23日に女は共謀や殺意の面で立証が困難として、嫌疑不十分で不起訴処分となり釈放された。

2020年(令和2年)8月下旬、南アフリカに逃亡していたうちの別の1人 紙谷惣(当時46歳)が南アフリカの日本大使館に出頭し「日本に帰りたい。金がなくなり逃げられなくなった。奥多摩の事件は自分がやった」と話し、9月3日日本に帰国し成田空港でPCR検査を受けた後に逮捕された。

3人のうちリーダー格とされる最後の一人 松井知行(当時50歳)については、2016年(平成28年)12月頃に南アフリカの海岸で木から首をつって死亡しているのが発見されており、自殺と見られている。なお、2022年7月24日に指紋が照合されたため、警視庁の捜査員が南アフリカに派遣され、遺体が松井のものと矛盾はないという結果が出た。同年10月3日、警視庁は、容疑者死亡のまま書類送検し、この事件の捜査を終結したと発表した。
東京・山梨連続リンチ殺人事件(松井知行・紙谷惣)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年9月15日に東京地裁(合田悦三裁判長)は2人の被告にそれぞれ懲役14年・懲役12年の判決を言い渡した。

2006年(平成18年)3月7日に東京地裁(合田悦三裁判長)は、事件当時17歳の少女に対し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。その後少女が控訴したが、2007年8月に東京高裁は、前述の判決を支持し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。

2023年(令和5年)3月7日に東京地裁(浅香竜太裁判長)は、南アフリカに逃亡していたうちの1人 紙谷惣(当時46歳)に対し懲役13年の判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 松井知行・・・死亡(自殺)
 紙谷惣・・・2036年3月頃、59歳(懲役13年)

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徳之島兄家族殺傷事件(名古圭志)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年(平成14年)8月16日に鹿児島県の徳之島(大島郡伊仙町)で発生した殺傷事件である。『南日本新聞』では伊仙町母子殺傷事件と呼称される。

2002年8月16日午前11時ごろ、鹿児島県伊仙町在住の団体職員 名古博文さん(当時42歳)の住居において、名古さんの妻 名古和美さん(当時40歳)、長女 千尋さん(当時17歳)、次男(同13歳)の3人が、博文さんの弟である名古圭志(当時32歳)に包丁で刺され、和美さん・千尋さんの2人が死亡、次男が重傷を負った。

本件の犯人 名古圭志(当時32歳)は、1970年(昭和45年)5月7日生まれ。出生と同日に母親が死亡し、施設に預けられた。その後、伊仙町に戻り、父親、兄博文さん、姉、大叔母らと暮らすようになった。高校卒業後、1989年(平成元年)に伊仙町を出て、一時期は関西地方のスーパーや精肉店で働いていたが、やがて暴力団員として活動するようになった。

圭志は2002年2月に父親の病死を契機に暴力団を脱退し伊仙町に帰郷。博文さん方に同居していたが、やがて同じ敷地内にある父親の住居を改築し住みはじめた。同年5月頃から圭志が和美さんや千尋さんに対し干渉するようになり、みかねた博文さんが「自分たち(博文さんと圭志)は兄弟でも、(博文さんの)家族は赤の他人なのだから干渉しないように」と指摘すると、それをきっかけに、圭志は自分が博文さんから無視されていると邪推するようになった。

その後は兄弟の絆を確認しようと思い、自分の住む家の壁を壊すなどの行動に出たが、博文さんは叱ることはなかったため、圭志は博文さんに対し、より強い不信感を抱くようになった。

同年6月ごろ、圭志は夏祭りの準備作業について知人男性とトラブルになり、その際に兄 博文さんが仲裁に入ったが、圭志は博文さんが一方的に男性をかばったと思い込み、博文さんに対する怒りを爆発させ、家族を皆殺しにして博文さんを悲しませようと決意した。

2002年8月16日11時ごろ、圭志は博文さん宅に行き、庭にいた次男の胸を刺身包丁で刺して重傷を負わせた。屋内に入ると、居間で和美さんの胸を一突きにして失血死させた。さらに千尋さんの脇腹などを刺し、さらに完全に絶命させようと千尋さんの胸や背中をメッタ刺しにして殺害した。圭志は犯行の約40分後に徳之島警察署へ出頭し、殺人などの容疑で逮捕された。
徳之島兄家族殺傷事件(名古圭志)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年6月18日に判決公判が開かれ、鹿児島地裁(大原英雄裁判長)は被告人 名古圭志(当時32歳)を求刑通り死刑とする判決を言い渡した。同地裁で言い渡された死刑判決は39年ぶりで、判決理由では「犯行態様が悪質、残虐である、動機に酌むべき余地がない」とされている。圭志は一度は福岡高裁宮崎支部へ控訴したが、同年8月26日付で控訴を取り下げ、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2008年2月1日、福岡拘置所で死刑執行(当時37歳没))

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所沢母子殺害事件(大谷竜次・佐久間義明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年2月8日に埼玉県所沢市の母子が自宅で殺害され浴槽に遺棄された事件。

2018年2月8日埼玉県所沢市西所沢の住宅の浴槽で、この家に住む 入江富美子さん(当時76歳)とその次男 大崎欣孝さん(当時53歳)の遺体が発見された。遺体は水を張られた浴槽の中に富美子さんの遺体の上に欣孝さんの遺体が重ねられていた。司法解剖の結果、死因は富美子さんが溺死、欣孝さんが肺などを刺されたことによる失血死であった。富美子さんには目立った外傷はなかったが現場の状況から浴室内で殺害されたと推定された。

同月12日、欣孝さんの中学時代の同級生で富美子さん方に同居して富美子さんの介護を手伝っていた住所不定、無職 佐久間義明(当時53歳)と佐久間の知人で富美子さん方にも出入りしていた大谷竜次(当時42歳)が欣孝さんの遺体を放置したとして死体遺棄の容疑で埼玉県警所沢署に逮捕されたが、処分保留となり、大谷と佐久間は富美子さんのキャッシュカードで現金を引き出した窃盗容疑で逮捕・起訴された。

大谷と佐久間は上記容疑で公判中の2019年7月1日に欣孝さんへの殺人容疑で逮捕された。さいたま地方検察庁 は大谷を殺人、死体遺棄、窃盗で起訴し、佐久間を死体遺棄で起訴し、殺人に関しては処分保留とした。

2020年12月3日、佐久間と大谷は富美子さんへの殺人容疑で再逮捕された。

佐久間は、殺人容疑については処分保留となり起訴されず、起訴された死体遺棄罪について実刑判決が確定し、大谷の一審判決が下された2022年3月18日時点で既に刑期を終えていた。
所沢母子殺害事件(犯行現場)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 佐久間は、殺人容疑については処分保留となり起訴されず、起訴された死体遺棄罪について実刑判決が確定し、大谷の一審判決が下された2022年3月18日時点で既に刑期を終えていた。

さいたま地方裁判所第5刑事部で行われたXの裁判員裁判(小池健治裁判長、事件番号 令和元年(わ)第854号等)にて、判決は3月18日に下され、大谷に懲役28年(求刑無期懲役)が言い渡された。

大谷側は判決を不服として控訴したが、2審の東京高等裁判所は1審判決を支持し控訴を棄却。最高裁判所第3小法廷は2023年(令和5年)9月26日付で大谷側の上告を棄却する決定をした。

❖出所予定(年齢)
 佐久間義明・・・2022年3月頃、57歳(処分保留のまま刑期終了)
 大谷竜次・・・2051年9月頃、60歳(懲役28年)

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栃木兄弟誘拐殺人事件(下山明宏)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年9月11日、栃木県小山市で兄弟(4歳と3歳)が誘拐され後日、遺体で発見された事件。

被害者家族が同居していた家の家主の男が逮捕された。

知人宅に子供二人を連れて居候しており、その知人男性がどうやら連れ出したようであったが、家に戻っていないとのことだった。
知人の名は、下山明宏(当時39歳)。小学6年生の娘と、小学1年生の息子がいる男だった。

2004年9月11日に小林一斗(こばやしかずと)ちゃん(当時4歳)と隼人(はやと)ちゃん(当時3歳)の兄弟の誘拐事件が発生。

2004年9月13日に男(40歳)が未成年者誘拐の容疑で逮捕される。男は被害者家族と同居しており、家主はこの男である。男は2人を連れまわしたことを1度は認めるが「わからない」と供述が一変する。
2004年9月14日に被疑者が2人の殺害を認めた。その供述通り、思川で弟の遺体が発見される。2004年9月16日に兄の遺体も同じ川で発見される。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年6月4日に被告人が東京拘置所で病死。

❖出所予定(年齢)
 死亡(病没)

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栃木小1女児殺害事件(勝又拓哉)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年(平成17年)12月1日、栃木県今市市(現:日光市)に住む小学1年生の吉田有希ちゃん(当時7歳)が行方不明となり、翌日(2日)に茨城県常陸大宮市の山林で刺殺体となって発見された事件。

2005年12月1日、栃木県今市市(現:日光市)の大沢小学校に通う小学1年生の有希ちゃんが、下校途中に行方不明となった。
有希ちゃんは午後2時50分ごろ、自宅から約1キロ離れた今市市土沢の市道を徒歩で下校途中、三叉路で友人と別れた。現場は雑木林の間に一般住宅が点在し、人通りの少ない場所だった。

家族が駐在所に捜索願を提出した。捜索が開始されたが、発見にいたらなかった。

三叉路から120メートル行った砂利道に曲がる前の場所で地面に残った有希ちゃんの体の匂いが消え、警察犬が反応を示さなくなったため、この辺りで連れ去られたものと考えられる。

2005年12月2日、栃木県警察が公開捜査を開始。午後2時ごろ、有希ちゃんの自宅から60km離れた茨城県常陸大宮市の山林で、野鳥観察をしていた老人3人が遺体を発見。遺棄現場周辺は人通りが少なく、人目につかない場所であった。

2014年6月3日、栃木・茨城両県警察の合同捜査本部は、別件の商標法違反容疑で逮捕され、事件への関与をほのめかす供述をした無職の勝又拓哉(当時32歳)を逮捕した。
栃木小1女児殺害事件(勝又拓哉)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2020年3月4日、最高裁判所第二小法廷(三浦守裁判長)が上告棄却決定。同月17日付で被告人Kの無期懲役が確定。

❖出所予定(年齢)
 2050年3月頃、77歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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栃木女性教師刺殺事件(平田守(13歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1998年(平成10年)1月28日に栃木県黒磯市(現那須塩原市)で発生した中学校内での生徒 平田守(当時13歳)による教師刺殺事件。少年は腰塚佳代子教諭(当時26歳)に授業に遅刻したことを注意された際、カッとなって刺したという。

1998年1月28日午前、栃木県黒磯市内の中学校に登校した加害少年 平田守は、2時間目の国語の授業が終わると保健室に行った。朝から気分が悪かったためとしたが、養護教諭が体温を測定しても異常がなかったため、教室に戻るように促した。

3時間目は、彼が科目も担当の腰塚佳代子教諭も嫌いな英語の授業だった。教室に戻る途中にトイレに寄って友人と雑談していたため、およそ10分ほど遅れて教室に入り、腰塚佳代子教諭から平田守は注意された。その後ノートを開いたと思うと、芯を出さないままシャープペンシルで何か滅茶苦茶にノートに書き、ノートを破り捨てた。さらに席が近い友人の生徒に漫画の話をしていたため、腰塚佳代子教諭に再び注意を受けた。少年 平田守は腰塚佳代子教諭を眼光鋭く睨み付けたが無視された。プライドを傷つけられたと解釈した少年 平田守は、授業が終わる寸前「ぶっ殺してやる!」と口走った。友人は「やめろ、殺すな」と制止した。

授業終了後、腰塚佳代子教諭は授業中に会話を交わした少年 平田守と友人を廊下に呼び出して注意を与えた。

腰塚佳代子教諭が注意していると、少年 平田守はポケットからバタフライナイフ(刃渡り10cm)を取り出して、脅して見せた。

腰塚佳代子教諭がひるまず言い返すと、少年 平田守は教諭の腹部にナイフを突き刺した。

「ギャーッ」と腰塚佳代子教諭の悲鳴が廊下に響いたが、さらに胸、背中と少なくとも7ヶ所を刺された。少年 平田守は最初に腹部を刺したところまでは覚えているが、後は夢中で覚えていないと供述している。なおも少年 平田守は倒れこんだ腰塚佳代子教諭の身体を内臓が破裂するほど蹴り続けたが、これに驚いた友人の通報で隣の教室から飛び出してきた別の教諭に取り押さえられ、通報で駆けつけた警察に補導された。

腰塚佳代子教諭は直ちに病院に搬送されたが、すでに心肺停止状態で、1時間後に出血多量による死亡が確認された。胸に刺された一突きが致命傷だったと思われる。凶器のバタフライナイフは、2,3週間前に黒磯市で買ったものだった。
栃木女性教師刺殺事件(平田守(13歳))
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 黒磯署は少年 平田守を補導した。県北児童相談所は少年 平田守を宇都宮家裁に送致し、少年法にもとづく処分が適用された。

遺族は1999年4月、1億3800万円の損害賠償を求めて少年 平田守の両親を提訴。原告側は、少年に責任能力は無く、賠償責任は両親が負うべきと主張した。被告側は、少年 平田守に不法行為の責任能力は無かったとは言えず、現場にいなかった両親に監督義務はないとして、請求棄却を求めた。2004年9月15日に宇都宮地裁は少年 平田守の責任能力を認め、少年 平田守の両親にも共同不法行為責任があると認定し、8200万円の賠償命令を下した。

❖出所予定(年齢)
 1999年1月頃、14歳、すでに退院(医療少年院は12ヶ月が標準期間)

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栃木リンチ殺人事件(萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1999年12月4日に栃木県で発覚した複数少年らによる拉致・監禁・暴行・恐喝・殺人・死体遺棄事件。

無抵抗な被害者を加害者少年らが連れまわして暴行を加え多額の金銭を奪い、被害者家族が警察に相談していることを知ると被害者を殺害に及んだという凶悪・凄惨な少年犯罪である。また被害者の両親から9回もの捜査依頼を受けながらそれを拒絶し続けた栃木県警察の不手際も世論に衝撃を与え、桶川ストーカー殺人事件とともに一部国民の警察不信の一因となった事件。事件発覚後、栃木県警は世論および裁判所から厳しく批判された。

萩原克彦(主犯・当時19歳)は日頃から、日産自動車社員の梅沢昭博(当時19歳)・無職の村上博紀(当時19歳)から金銭を巻き上げていたが、やがて梅沢は会社の同期で性格がおとなしい須藤正和さん(当時19歳)を身代わりにたてることを思いついた。そして1999年9月29日、梅沢が須藤さんを電話で呼び出すと、萩原らは須藤さんを拉致し、サラ金から次々と借金をさせて、自分たちの遊興費にあてた。

須藤さんがサラ金から借金を拒絶されるようになると、今度は須藤さんの知人や友人から金を借りさせ、およそ2ヶ月にわたって須藤さんを連れまわした。その間、須藤さんをホテルなどに監禁し、最高温度のシャワーをかける「熱湯コマーシャル」、殺虫スプレーにライターで火をつけ浴びせかける「火炎放射器」などのリンチを加え、須藤さんを散々にいたぶった。それにより須藤さんの肌は焼けただれ、顔ははれあがった。

死体を検死した段階では皮膚の8割が火傷を負い、「たとえ絞殺されなくともいずれ死亡したと思われる」ほどに酷い外傷であったにもかかわらず、病院に一度連れて行ったきり(しかもAらが診察室までついて入り須藤さんに心理的圧迫を加え、腕の火傷しか見させなかった)で何の治療も施さず、火傷した皮膚にさらに90℃以上のポットの熱湯をかけ風呂場に連れ込んで熱湯シャワーをかけ(「熱湯コマーシャル」は日常化していた)、抵抗すると殴り続けるなどのリンチを加えていた。

須藤さんの失踪に不審を抱いた須藤さんの両親は栃木県石橋警察署(現・下野警察署)に捜査を依頼するが、応対した担当官は「お宅の息子さんが悪いんじゃないの」「仲間に金を分け与えて、面白おかしく遊んでいるんだろう」「麻薬でもやっているんじゃないの」「警察は事件にならないと動かないんだよ」などと須藤さんの両親を突き放し、まったく取り合おうとはしなかった。

やがて、須藤さんから両親のもとに、たびたび金を無心する電話がかかるようになり、両親は須藤さんの安全のために金を振り込み続けた。その金を銀行に下ろしに来た須藤さんの姿が銀行の防犯ビデオに映っていた。ビデオに映っていた須藤さんの外見は、髪を丸坊主にされ眉をそり落とされ、更に火傷や殴られた跡があり失踪前とかなり異なっていた。

銀行の関係者は「須藤さんの後ろに複数の男たちがついていました。いつでもビデオを証拠として提出する用意があるので警察に相談してください」と須藤さんの両親に勧め、須藤さんの両親は再び石橋警察署を訪れ、ビデオテープを証拠品として銀行から取り寄せるよう依頼した。

しかし、石橋警察署の署員は「裁判所の許可もないのにそんなことできない」と再び突き放した(署員の発言は令状のことを指したものと思われるが、銀行関係者の発言から任意の提出に応じた可能性はある)。その際、須藤さんから両親の携帯電話に電話がかかってきた。

須藤さんの父親は事態が逼迫していることを理解してもらうべく「お父さんの友人がいるから」と友人に見立て、警察官に携帯電話を渡した。しかし、その警察官が「石橋署の警察官だ」と名乗ってしまい、電話は切られた。警察官は「あ、切れちゃった」と言って、携帯電話を父親に返したという。

一部では、萩原らはこの出来事によって警察の捜査が自分たちに迫っていると考え、須藤さんの殺害を決意したのではないかという見方がされている。のちにこの刑事の不用意な発言が須藤さんの殺害計画のきっかけとなったことが裁判で認定された。殺害の理由としては他に、あまりにも壮絶なリンチを加え続けたがゆえに、須藤さんの身体には既に不可逆的な傷が残されており、須藤さんを生かしていたら事件発覚は免れないと判断したからだという。

1999年12月2日、犯行に途中から加わった高校生のD(当時16歳)とともに萩原らは、須藤さんを紐で首を絞め殺害した。そして市貝町の山林に埋め、死体を埋めた穴にコンクリートを流し込んだ。死体を埋めるコンクリートやベニヤ板、スコップ、砂利を調達するのに使われたのは、須藤さんの最後の給料だった。このとき須藤さんは退職扱いとなっていた。

死体を隠した後、萩原らは「十五年逃げ切ればいい(当時の殺人罪の公訴時効が15年であるため)」と、『追悼花火大会』と称して花火で遊ぶなどしていた。しかし、良心の呵責に耐えられなかったDが12月4日、警視庁三田警察署に自首し、事件が発覚した。警視庁は早速、三田警察署内に捜査本部を設置し、Dの証言にもとづいて須藤さんの遺体を発見。翌日警視庁は萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀(全員当時19歳)を逮捕した。
栃木リンチ殺人事件(左:梅沢昭博、中央:萩原克彦・主犯、右:村上博紀)
左:梅沢昭博、中央:萩原克彦・主犯、右:村上博紀

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 自首によって事件解決のきっかけをつくったDは酌量が認められ少年院送致となった。萩原・梅沢・Cも事件当時、未成年だったが、東京家庭裁判所は刑事処分相当として逆送し、宇都宮地方検察庁は殺人・死体遺棄罪で萩原らを起訴した。須藤さんの遺族は強盗殺人罪で起訴するよう宇都宮検察審査会に陳述書を提出したが、棄却されている。

2000年6月1日、宇都宮地方裁判所は、「犯行は計画的で凶悪。極めて自己中心的で酌量の余地は全くない」として萩原・梅沢に求刑通り無期懲役、村上に求刑通り懲役5~10年の判決を下した。萩原は控訴したが、2001年1月29日、東京高等裁判所は控訴を棄却。その後上告も棄却され、萩原の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 萩原克彦(主犯)・・・2031年1月頃、50歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 梅沢昭博・・・2030年6月頃、49歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 村上博紀・・・2010年6月頃、29歳(懲役10年、すでに出所)

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鳥取連続不審死事件(上田美由紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)から2009年(平成21年)にかけて鳥取県で、上田美由紀(逮捕時35歳、スナックの元ホステス)の周辺で起こった6件の連続不審死事件である。

捜査の結果、上田による強盗殺人2件、自殺2件、事故死1件、病死1件とされた。

2009年4月発生のトラック運転手の溺死事件(後述の第4の事案)に関し、鳥取県警察はスナックの元ホステスの上田の捜査を開始した。

2009年10月には上田の周辺で2件の不審死事案(第5・第6の事案)が発生した。鳥取県警は2009年11月2日に別件の詐欺容疑で上田を逮捕し、強制捜査に乗り出した。また上田周辺での過去の不審死事案3件を含めて「鳥取連続不審死」として改めて捜査することとなった。

警察による捜査の結果、うち2件が強盗殺人として上田を逮捕。その他の事案は自殺2件、事故死1件、病死1件とされた。

◆第1の事案(自殺)
 1999年に鳥取に赴任した新聞記者の古川司さん(当時42歳)は、2001年ごろ上田が勤めるスナックで上田と出会い、2003年には妻子があるにもかかわらず上田と交際・同棲するようになる。また、その時期には古川さんは周囲に借金してまわる様になった。そんななか、2004年5月13日、鳥取市内のJR・因美線で古川さんの轢死体が発見された。周囲には段ボールの破片が散乱しており、段ボールを被るか、段ボール箱の中に入る状態だったと推察された。段ボールには「上田に出会えてよかった。本当の愛を知った」と走り書きがあり、また勤務先の新聞社には「迷惑をかけた」との遺書らしきものが残されており、警察は「自殺」と判断し、司法解剖なども行われなかった。

◆第2の事案(事故死)
 警備員として警備会社勤務の古田新一さん(当時27歳)は、2001年ごろ女Uが勤めるスナックで上田と出会い、古田さんの実弟も含め上田と遊び友達になると、2005年ごろには上田宅に居候し、上田の子供の面倒を見るなどしていた。2007年8月18日、古田さんは上田家族とともに鳥取砂丘近くの海辺に貝採りに出かけ、沖合約200メートル水深約2メートルの地点の海底に沈んでいるのが発見された。救助後に病院に搬送されたが、同年8月27日に蘇生後脳症で死亡した。警察および病院は特に疑念を抱かず、事故として処理された。

◆第3の事案(自殺)
 鳥取県警刑事の藤田格さん(当時41歳)は、2007年ごろ捜査の一環として上田が勤めるスナックを訪れたのをきっかけに、同スナックの常連となり、妻子がありながら上田と交際するようになった。2008年2月、鳥取県内の山中で首を吊った状態で発見された。警察は自殺と判断し、司法解剖なども行われなかったとされる。

◆第4の事案(上田による強盗殺人)
 トラック運転手の矢部和実さん(当時47歳)は、2008年2月ころより上田と交際をしており、上田に対し300万円ほどの金銭も渡していた。2009年4月11日、鳥取県北栄町の沖合約600メートル水深約3メートルの海底で矢部さんが全裸の水死体で発見され、司法解剖の結果、死因は溺死、体内から睡眠導入剤が検出されるとともに、通常の溺死では普通見られない肺からの砂が検出された。2010年3月3日に鳥取県警は強盗殺人容疑で上田を逮捕した。

◆第5の事案(上田による強盗殺人)
 鳥取市内で電器店を経営する円山秀樹さん(当時57歳)は、2009年夏ごろに上田および上田の交際相手で同棲中の安東儀導(当時46歳)に対して100万円を超える家電製品を掛け売りで納品していた。2009年10月7日、鳥取市の摩尼山中腹の摩尼川にて、円山さんが顔に傷、うつ伏せの状態で水死しているのが発見された。司法解剖の結果、睡眠導入剤が検出された。状況証拠などから、2010年1月28日に鳥取県警は強盗殺人容疑で上田を逮捕した。

◆第6の事案(病死)
 上田宅の近隣のアパートに住む田口和美さん(当時58歳)は、ホテル従業員だったが、2009年に脳梗塞を患い、以後、職を失い生活保護を受けて生活していた。朝日新聞によると関係者の証言として「同年10月26日夕刻、男Gの意識が混濁し、上田が田口さんに錠剤を服用させていた」。翌27日朝には病院に救急搬送されるも死亡が確認された。遺体は司法解剖され、体内から睡眠導入剤が検出された。県警は、上田との関連を捜査するも、男Gは心臓に持病があったこと、死亡と睡眠導入剤との因果関係が不明なことなどにより最終的には病死と判断した。
鳥取連続不審死事件(上田美由紀)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年6月29日に開かれた上告審弁論では、弁護側は強盗殺人2件について、2件とも「睡眠導入剤により意識が朦朧とする被害者を誘導・入水させる行為は上田には不可能」と無罪を主張し、検察側は「犯行は十分可能」と上告棄却を求め、結審した。

2017年7月27日、最高裁第1小法廷は「第1審・控訴審の過程で憲法違反無し。各種の状況証拠・動機は合理的な疑義を払拭する程度に証明済で、上田が犯人であるとする第1審・控訴審の判決は正当。犯行経緯・動機・計画性などから第1審・控訴審での死刑との量刑も已む無し」として、上告を棄却した。

弁護側は最高裁判所に対し上告棄却判決の訂正申し立てを行ったが、最高裁判所は2017年8月23日に棄却の決定を出した。これにより、上田の死刑判決が確定した。

2023年(令和5年)1月15日、法務省は、広島拘置所に収容されていた上田死刑囚が、前日14日の午後4時すぎ、拘置所の自室で食べ物を喉に詰まらせ、窒息死したと発表した。

❖出所予定(年齢)
 死亡(事故)

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富岡八幡宮殺人事件(富岡茂永・富岡真里子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年(平成29年)12月7日に東京都江東区の富岡八幡宮近郊と敷地内で起こった連続殺人事件である。

2017年12月7日、富岡八幡宮第21代宮司  富岡長子さん(当時58歳)が、神社近郊の路上で前々任の第20代宮司であった実弟 富岡茂永(当時56歳)に日本刀で斬りつけられ、殺害された。富岡長子さんが搭乗していた車の運転手も、共謀していたと思われる富岡茂永の妻 富岡真里子(当時49歳)などに追跡され、傷害を負ったが命に別状はなかった。その後、富岡茂永はYを神社敷地内で殺害した後、自殺した。

1995年、富岡茂永は、実父である第19代宮司(以下、19代目)から、地位を受け継ぎ、同神社の第20代宮司に就任した。富岡茂永は参拝者を広く呼び込むために、勧進相撲発祥地であり、横綱力士碑が建立されていることなどを利用し、新横綱の土俵入りを記念する興行などを神社で行い、来訪者を集めていた。その一方で富岡茂永は、神社の賽銭などを使って、銀座などのクラブで飲み歩いたり、ラスベガスのカジノで賭博を日常的に行ったりするなどの放蕩行為が問題視されていた。

これを見兼ねた19代目の意向を受け、2001年には富岡茂永の宮司の職階が解かれ、19代目が宮司に復帰した。この頃から、富岡茂永は、解任されたことへの逆恨みから、怪文書を送りつけるようになり、2006年には「積年の恨み。地獄へ送る」と脅迫的な内容の葉書を実姉である富岡長子さんに送付したことで、警視庁に逮捕された。

2010年、19代目は高齢のため宮司の職を退き、後継者として禰宜であった富岡長子さんを指名したが、神社本庁からの返答はなく、事実上宮司就任拒否の状態が続いたため、長期にわたって宮司が存在しない空位になった。富岡長子さん側も弁護士を介入させ、就任拒否に抗弁するも突き返されるなど、話し合いが一向に進展しないことに業を煮やし、2017年9月28日、同神社の責任役員会は、神社本庁より脱退した。

2017年12月7日の夜更け、富岡長子さんが八幡宮に帰宅し、車から降りようとしていたところを、物陰に隠れていた富岡茂永と富岡真里子は日本刀を振りかざし、富岡長子さんと車の運転手の両名を襲撃した。富岡茂永は、逃走する富岡長子さんの背後から後ろ首を斬りつけ、次に胸へ日本刀を突き刺した。

思い切り刺したせいで、日本刀は破損し折れた。富岡真里子はスーパーマーケットまで逃げた運転手の右肩から右腕にかけて斬りつけるも、「お前だけは許してやる」と吐き捨てて、逃走した。富岡茂永と富岡真里子は2人で敷地内まで逃げた末、富岡茂永は境内にてサバイバルナイフで富岡真里子の胸や腹を刺して殺害した後、自身の左胸を刺して富岡茂永は自殺した。
富岡八幡宮殺人事件(左が富岡長子さんと右が富岡茂永)
左が富岡長子さん、右が富岡茂永(犯人)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被疑者死亡のまま殺人容疑などで書類送検

❖出所予定(年齢)
 富岡茂永・・・死亡(自殺)
 富岡真里子・・・死亡(富岡茂永による殺害)

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富山市奥田交番襲撃事件(島津慧大)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年(平成30年)6月26日に富山県富山市久方町にある富山中央警察署奥田交番で発生した警察官襲撃事件。

2018年6月26日午後2時10分頃、富山県富山市久方町に所在する富山中央警察署奥田交番裏口をノックする音が聞こえた。交番には所長である稲泉健一警部補(事件当時46歳)と交番相談員1名が勤務についており、稲泉警部補が裏口を開けたところを突如、島津慧大(当時21歳)が襲い掛かってきた。稲泉警部補は全身約30か所を刺され貸与されていた拳銃を奪われた。

島津は拳銃を所持したまま逃走し交番相談員が交番向かいの美容室に助けを求めたことから事件が発覚した。さらに島津は逃走の途中富山市立奥田小学校正門付近で誘導警備にあたっていた警備員 中村信一さん(当時68歳)に向け拳銃を発砲うち2発が中村さんに命中した。中村さんは病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。島津はなおも奥田小学校の敷地内に侵入したが、駆け付けた警察官が島津に向けて警告をしたのち拳銃を発砲。左腹部に被弾し身柄を確保された。
富山市奥田交番襲撃事件(交番)
富山市奥田交番襲撃事件(島津慧大)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2022年3月24日に控訴審判決公判が開かれ、名古屋高裁金沢支部(森浩史裁判長)は強盗殺人罪の成立を否定した上で無期懲役を言い渡した第一審・富山地裁の判決を破棄し、審理を同地裁に差し戻す判決を言い渡した。同高裁は判決理由で「島津は警官が拳銃を所持していることを意識しており、拳銃を奪う目的で交番を襲撃したと考えるのが自然な見方だ」と指摘して、強盗殺人罪の成立を前提として審理をし直すように命じ、一審判決に事実誤認があったとした。

2022年4月4日、弁護側は「(本判決は)憲法違反がある」と主張した上で、差し戻し判決を不服とし最高裁判所に上告した。

❖民事訴訟
 2021年6月11日、中村信一さんの妻は、富山県警察の初動対応が不十分だったなどとして、犯人 島津慧大と富山県に約2600万円の損害賠償を求める訴訟を、富山地方裁判所に提訴した。

訴状によると、「島津が交番を襲って銃を奪い逃走しているのに、県警本部通信指令課は近隣住民や通行人らを避難させるよう指示せず、現場に到着した警察官らも行動を怠り、このため中村さんは危険を認識できず、至近距離から撃たれて死亡した。通信指令課が現場の警察官に指示を出し、付近住民や通行人にパトカーの拡声器などで警告を発していれば、被害者の生命の危険は回避できた」などとしている。

2022年3月23日、富山地裁(松井洋裁判長)は原告側(中村さんの妻)の主張を認め、島津に約2600万円の賠償を命じる判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 公判中(最高裁判所に上告)

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豊川市一家5人殺傷事件(岩瀬高之)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年4月17日に愛知県豊川市で、無職の男が自分の両親など一家5人を殺傷した事件である。

2010年4月16日午前2時40分頃、豊川市伊奈町前山に住む58歳の男性宅で、長男 岩瀬高之(当時30歳)が父親 岩瀬一美さん(当時58歳)と三男夫婦の長女 金丸友美ちゃん(当時1歳)を殺害し、また母親 正子さん(当時58歳)と三男 文彦さん(当時22歳)と三男の内縁の妻(当時27歳)に怪我を負わせ、自室の布団に火をつけて家を半焼させた。長男はその後、近所の葬儀場の敷地で現行犯逮捕された。

長男は中学校を卒業後、製菓工場に勤めるも1年ほどで退職。以後は職に就かず、十数年の間引きこもりの状態で、インターネットオークションで200万 - 300万円の借金を抱えていた。借金が原因でインターネットを解約されたことに激怒し一家を殺傷したのち、自宅の布団に火をつけた。事件前たびたびパトカーが駆けつける騒ぎになっていた。

2010年5月7日、長男は自宅への放火容疑で再逮捕された。警察は岩瀬高之の精神鑑定を行なった。
豊川市一家5人殺傷事件(岩瀬高之)
豊川市一家5人殺傷事件(家族構成)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 精神鑑定では岩瀬高之に中程度の知的障害と自閉症があるという鑑定結果が出された。2011年11月30日の名古屋地裁での公判で検察側は無期懲役を求刑。12月7日に懲役30年の実刑判決が言い渡された。2012年11月19日、最高裁判所第二小法廷(小貫芳信裁判長)は上告を棄却した。

❖出所予定(年齢)
 2042年11月頃、60歳(懲役30年)

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豊川市主婦殺人事件(少年)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)5月1日に日本の愛知県豊川市で発生した少年による殺人事件。

少年(当時17歳)が主婦 筒井喜代さん(当時64歳)を40ヶ所刺して殺したうえに、夫 筒井弘さん(当時67歳)にも軽傷を負わせた。その後、前もって竹藪に隠してあった服に着替えて逃走したが、竹藪に自分の鞄を置き忘れていった。

豊川市の住宅で、妻が血だらけで倒れているのを帰宅した夫が発見して通報。妻は金槌で殴打されたうえ、包丁で首などを刺され死亡した。その直前に少年が家から飛び出したのを夫が目撃し、格闘したが首などを刺されて軽傷[要出典]を負った。

少年は近くの高校の制服であるブレザーを着ていた。逮捕後の供述によると、その日たまたま家の前を通りかかり、玄関が少し空いていたのと表札から年寄りと思い、家の中に侵入した。事件を起こしたあと、最寄り駅まで逃走し、公衆トイレで一夜を過ごしたあと、「寒くて疲れた」ため交番に自首した。
豊川市主婦殺人事件(殺害現場)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 犯人は、動機として「殺人の体験をしてみたかった(人を殺してみたかった)。」「未来のある人は避けたかったので老女を狙った」と供述していたが、学校内ではソフトテニス部に所属し、後輩からの信頼も厚く、しかも極めて成績優秀であると見られていたため、その評判と犯罪行為との乖離が疑問とされた。そのため精神鑑定がなされ、1回目の鑑定では「分裂病質人格障害か分裂気質者」と出されたが、2回目の鑑定では「犯行時はアスペルガー症候群が原因の心神耗弱状態であった」という結果が出され、2回目の鑑定を認定し、2000年12月26日に名古屋家庭裁判所は医療少年院送付の保護処分が決定した。2回目の鑑定医師団には児童精神医学の専門医が鑑定団の一人として加わっていた。

アスペルガー症候群は先天性の発達障害であり、知能と言語能力に問題のない自閉症の一種である。対人関係の構築に困難があるため、二次的な障害として社会生活に対する不適応がみられることがある。この事件は、文部省(当時)に広い範囲における高機能自閉症児に対する早期の教育支援が必要であることを認識させ、後に特別支援教育として制度化されることになった。

❖出所予定(年齢)
 2008年12月頃、25歳、すでに退院(医療少年院にて最大25歳収容と仮定)

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豊田2人刺殺事件(実名未公表x)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1995年(平成7年)5月3日に日本の愛知県豊田市越戸町で発生した殺人事件。

被告人が統合失調症と認定されたため公判停止となり、17年後の2014年(平成26年)に公判が再開された。第一審では公訴棄却の判断が示されたが、控訴審では審理差し戻しの判決が言い渡されため、弁護側が上告したところ、最高裁判所は「被告人の訴訟能力に回復の見込みがない場合、検察の(公訴)取り消しの有無にかかわらず裁判所が裁判を打ち切ることができる」という判断を初めて示した。

1995年5月3日正午過ぎ、愛知県豊田市越戸町の神社「天満宮」の境内で、無職の男性X(当時52歳・以下「加害者」または「被告人」)が男性 塚田鍵治さん(当時66歳)と、彼の孫である男児 翔輝ちゃん(当時1歳)の2人を刺殺し、駆け付けた愛知県警察の警察官に現行犯逮捕された。加害者Xは当初「朝起きたときからむしゃくしゃしていた」と話して容疑を認めていたが、意味不明な供述も多かった。Xは20歳代のころに数年ほど精神病院に入院していた過去があった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 名古屋地方検察庁岡崎支部は4か月間の鑑定留置(精神鑑定)の後、「加害者Xには刑事責任能力がある」として、Xを1995年9月に起訴した。名古屋地方裁判所岡崎支部で公判が7回開かれたが、被告人Xは1997年(平成9年)3月に統合失調症と鑑定されたため、同地裁支部は弁護側の「被告人Xは病気で訴訟能力がない」という主張を認めて公判停止を決定した。被告人Xは公判停止後に医療施設に措置入院となったが、ほとんど会話が成立せず、介護が必要な状態なほど病状が悪化した。

2014年(平成26年)3月に名古屋地裁岡崎支部は17年ぶりに公判を再開する意向を示し、弁護側は公訴棄却を求めた一方、検察側は公判継続の意見書を提出した。

2016年(平成28年)12月19日に最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は「形式的に裁判が継続しているに過ぎない状態を続けることを刑事訴訟法は予定していない。被告人Xに訴訟能力が回復する見込みがなければ、検察が起訴を取り消したかどうかに関わらず、裁判所は裁判を打ち切ることができる」との初判断を示し、審理を続行させる判断をした二審判決を破棄自判して、裁判を打ち切る公訴棄却とする一審判決が確定した。被告人Xは73歳になっていた。

❖出所予定(年齢)
 一審判決未公表につき不明

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豊橋小2女児誘拐殺人事件(浦山裕司)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1989年10月11日に愛知県豊橋市で発生した身代金誘拐殺人事件である。

1989年10月11日16時頃、豊橋市西山町で小林美幸子(みさこ)ちゃん(当時8歳)が行方不明となる。
同日18時過ぎ、美幸子ちゃんの家に三河訛りの男の声で身代金1000万円を要求する電話があり、父親が110番通報。19時15分、愛知県警はNTT豊橋支店へ美幸子ちゃん宅に掛かる電話の逆探知を依頼する。この後も数回電話があり、女児が出たこともあった。

21時1分、犯人は身代金の金額を500万円に半減する電話を掛けてきた。

犯人はこの日、22時39分までに合計12回の電話を掛けてくるが、ここから約8時間連絡が途絶えた。
犯人は朝「現金を持参して二川駅から電車で浜松まで行き、駅前の喫茶店で待て」と父親を浜松市に向かわせ、「11時43分浜松発豊橋行東海道線の最後尾左側に乗り、ピンクの傘が見えたら金を落とせ」と指示を出す。

直後の11時46分、警戒中の警察官が、浜松市篠原町(現在・浜松市西区篠原町)にて狭い踏切を無理やり通過した不審車両(クレスタ・スーパールーセント白色「豊橋55 す21-22」)を発見し、追跡するも振り切られた。男が1人で乗車していた。

この後も愛知・静岡両県境付近で手配車両を追いつめる機会が複数回あったものの、犯人は車ごと捜査車両に体当たりし、狭路でも車体をこすりつけながら猛スピードで逃走を繰り返したため逃げられてしまう。

14時40分、静岡県湖西市白須賀の山中にて、静岡県警の警察官が脱輪状態で放置されている手配車両を発見し、近くにいた浦山裕司(当時27歳)に任意同行を求める。

10月13日未明に浦山の自宅や経営していた店に家宅捜索が入り、浦山を身代金目的誘拐容疑で逮捕するとともに朝から美幸子ちゃんの捜索を始める。午後、山中に埋められていた美幸子ちゃんが遺体で発見された。

美幸子ちゃんは誘拐された直後に車のトランクに入れられ衰弱していたところを男に殴打され、生き埋めにされたのが死因であった。

浦山は住宅ローンを始め友人や知人、サラ金からも合わせた借金の総額は2430万円に及んでいた。
サラ金への返済期限が迫っていたが金の工面が出来ず、身代金目的誘拐で金を得て返済しようと企てたものであった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1994年9月、名古屋地裁豊橋支部で無期懲役の判決となった。

❖出所予定(年齢)
 2024年9月頃、57歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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ドラム缶女性焼殺事件(野村哲也・川村幸也・牧田晃和・牧田光希・白沢秀樹・池田浩市)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)4月4日未明、愛知県名古屋市千種区振甫町2丁目の路上で女性2人が拉致され、同県瀬戸市北白坂町の山中で焼き殺された強盗殺人・死体損壊事件である。

◆登場人物

・加害者
 野村哲也(当時33歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行
 川村幸也(当時38歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行

 牧田晃和(当時40歳)牧田光希の兄、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
 牧田光希(当時37歳)牧田晃和の弟、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
 白沢秀樹(当時45歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定
 池田浩市(当時28歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定

・被害者(負傷者1人、死者2人の合計3人)
 深谷茂樹さん(当時56歳)愛知県名古屋市で喫茶店を経営し、個人で金貸し業も営む
 深谷洋子さん(当時65歳)深谷さんの妻
 高橋勝子さん(当時59歳)洋子さんの実妹で、男性経営の喫茶店の従業員として働く
ドラム缶女性焼殺事件(野村哲也・川村幸也)
左が川村幸也、右が野村哲也の主犯格の2人

◆事件の背景
 事件の4か月ほど前の12月初旬。野村哲也(犯行当時33歳)の父親が経営する金融会社が、名古屋市内の喫茶店経営・深谷茂樹さん(事件当時56歳)に貸し付けた240万円(手形)が焦げ付いており、父親は野村に対してその取り立てを任していた。
しかし、取り立ては難航。12月13日、なんとか深谷さんと接触し、手形の支払い、もしくは深谷さんが乗るクラウンマジェスタの引き渡しなどを求めた。

深谷さんは所有する不動産を売却して支払うという念書は書いたが、それ以上の事には応じられないと言った。

何の進展もないままに4月に入り、しびれを切らした野村の実父は、手形の取り立てについて野村を叱責した。焦った野村は、川村に相談し、自分らの取り分60万円を差し引いた180万円を早急に実父に渡す必要があると考え、2月に失敗した深谷さんの拉致計画をもう一度実行することを決めた。

◆犯人たちの関係性
 犯人全員は愛知県春日井市の運送会社で一緒に働いていた時期があった。川村幸也(犯行当時38歳)はその後退職し、春日井市内で中古車販売業を営んでいた。

1999(平成11)年、川村は野村に対し、休眠会社を買い取って別会社を設立し、商品を買って売り抜けた後計画的に倒産させる、という方法で商品代金の支払いを免れる「引き屋」と呼ばれる商売を持ち掛けた。完全な詐欺であるが、もともと暴力団関係に近い父親の存在があった野村はそれを承諾し、川村も野村の同意を得たことから牧田光希(当時37歳、以後弟)・牧田光希(弟)・白沢秀樹(当時45歳)・池田浩市(当時28歳)らも誘い込んだ。

牧田らはすでにかなりの額の借金を抱えていたこともあって、川村と野村の儲け話を鵜呑みにし、さらには4人の中で唯一ブラックリストに載っていなかった牧田兄を社長に据えた。
首謀者であったはずの川村と野村は、万が一のことを考えて自分たちの名前は表に出さないように仕組んでいた。

詐欺会社を設立したのち、当初はそうでもなかった男らの立ち位置というものが次第にはっきりしてくる。社長はあくまで牧田兄であったが、事実上のリーダーは川村と野村であり、特に川村は、右足の膝下がなく、それについて「以前ヤクザともめて切られた」「背中一面に入れ墨がある」などと吹聴していたことから、野村以外の4人は川村に対して一目置いていた。

4人とて、言われるがままに最初から服従していたわけではなかった。
牧田兄は役員に据えられていたものの、相当な出資もさせられており、会社を辞めたい旨を漏らしていた。しかしそのたびに、川村と野村から家族に危険が及ぶかのようなことを言われたり、暴行を加えられるなどし、さらには妻の借金問題などで形式上の離婚もするなど、相当に追い詰められていた牧田兄は、平成12年2月に自殺を図るが、失敗に終わる。

同じく取り込み詐欺の会社に嫌気がさしていた池田は、平成11年の年末から翌12年の1月にかけて、実家に身を隠すなどして川村と野村から離れようと試みている。しかし、川村と野村はすぐさま実家を探り当て、池田に対して「事業の遂行に努力し、違約の場合はいかなる処罰や処分も甘受する」というとんでもない念書を作成させられ、連れ戻された。

このような状態を断ち切るために野村は、会社を受取人とする生命保険を4人にかけた。災害死亡で6,000万円、それ以外の死亡時には5,000万円が会社に入るもので、何かあるたびに川村らは、「誰が死ぬんだ。死ぬとしたら事故死だ。」などと言って4人を黙らせた。4人にはもはや、逃げ出す手段を考える力さえも、残っていなかった。

◆事件概要
・最初の凶行と拉致監禁
 犯行日2000年4月4日、池田浩市(当時28歳)の運転するクラウンに乗車した野村哲也(犯行当時33歳)・川村幸也(犯行当時38歳)両名は深谷茂樹さん(事件当時56歳)の経営する喫茶店付近に到着し、深谷さんらが喫茶店から出てくるところを見張った。

池田の運転するクラウンに乗車した野村・川村両名は深谷さんの経営する喫茶店付近に到着し、深谷さんらが喫茶店から出てくるところを見張った。一方で牧田光希(当時37歳、以後弟)が運転するスペクトロンに乗車した牧田光希(弟)・白沢秀樹(当時45歳)両名は助手席に牧田晃和(当時40歳、以後兄)だけを残し千種区内の深谷さん宅車庫付近の路上で帰宅を待ち伏せた。

野村・川村・池田の3人は被害者深谷さんが閉店後、妻の深谷洋子さん(事件当時65歳)・喫茶店従業員の義妹 高橋勝子さん(事件当時59歳、深谷さんの妻 深谷洋子さんの妹)とともにサウナに向かうところを確認した。

2000年4月4日午前0時30分頃、深谷さんはマジェスタを運転して自宅前に到着した。

マジェスタのトランクを開けて荷物を取り出そうとした。その直後、角材を持った白沢が深谷さんの背後に走り寄り、深谷さんの頭部などを角材で数回殴打して全治約2週間の頭部挫傷・挫滅創・右前腕打撲などの怪我を負わせた。深谷さんは助けを求めようと近くの知人宅に逃げ込んだため、白沢はその後を追ったが途中で見失った。

クラウンに乗車して深谷さんのマジェスタを追尾していた野村・川村・池田の3人は、深谷さん・妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんの3人がマジェスタから降車した直後、白沢が深谷さんを襲撃したことを確認したため、川村は野村・池田両名に対し、「何をしてる。あいつら(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢)だけじゃやりきれないから早く行け」などと怒鳴り、深谷さん・妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんの3人を全員監禁するように指示した。

牧田晃和(兄)がスペクトロン車内のBの左側に乗車してドアを閉め、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者をスペクトロン車内に監禁した。

野村・川村両名はその後、犯行現場付近にあるナゴヤドーム(名古屋市東区)付近で川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・池田の4人と合流したが、その時に池田が「奪ったマジェスタの残り燃料が少ない」と申し出たため、野村は池田に「ガソリンスタンドで給油した後、集合場所に指定した愛知県瀬戸市内の自動車学校に来て合流しろ」と指示した。

・思わぬ任意同行
野村から指示を受けた池田はガソリンスタンドでマジェスタに給油後、野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人と落ち合うため瀬戸市内の自動車学校に向かおうとしたが、池田が自分の携帯電話を川村が運転するクラウン車内に置き忘れたことに気付き、白沢と互いに「他のメンバーとどう居場所を連絡し合おうか?」と相談しながら走行していた。その途中の2000年4月4日午前1時17分頃、Aからの110番通報を受けて緊急配備についていた愛知県警察の警察官らが「被害車両のナンバープレート情報と一致するマジェスタ」を発見した。

乗車していた白沢・池田は現場から北東約6km離れた千種区香流橋2丁目の県道交差点で信号待ちのため停車していたところ、警察官から職務質問を受けて愛知県警千種警察署に任意同行された。白沢・池田両被疑者は千種署にて「深谷さんを襲撃してマジェスタなどを強取した強盗致傷容疑」「妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を拉致して監禁した逮捕・監禁容疑」で取り調べを受け、前者については認めたが後者については否認したまま、同日午前3時頃に強盗致傷罪の被疑事実で緊急逮捕された。取り調べの当初、白沢・池田両被疑者は「自分たち2人でやったことだ」と話して共犯者の野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人の存在を秘匿し、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の安否についても話さなかった。

一方で野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人は集合場所の自動車学校に到着して白沢・池田両名を待ち、その間に牧田晃和(兄)が妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の両足をガムテープで緊縛したが、前述のように警察に取り押さえられた白沢・池田両名は自動車学校にやってこなかったため、野村・川村両名はクラウンを走行させて付近を捜したが、2人を見つけることはできなかった。

そのため野村・川村両名は自分たち残った4人で犯行計画を続行することに決め、川村が運転して野村が同乗するクラウンが先頭を走り、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を監禁した状態で牧田光希(弟)が運転し牧田晃和(兄)が同乗したスペクトロンがクラウンに続く形で自動車学校を後にし、殺害場所を探した。

野村・川村両名は2000年4月4日午前2時30分頃、愛知県瀬戸市北白坂町内にある「東京大学大学院農学部生命科学研究科附属演習林 愛知演習林」内まで移動したところ、林内にある山道の途中に自動車を駐車できる空き地を見つけ、その場所を殺害場所とすることを決めた上でそこにクラウンを駐車し、続いてWもスペクトロンを同所に駐車した。

・生きたまま焼き殺してチェーンソーで解体、証拠隠滅
野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人はスペクトロンから積載してあったドラム缶2缶を下ろし、空き地に並べておいて蓋を開けると、野村が牧田晃和(兄)に「風呂にでも入ってもらえ」などと言い、スペクトロン車内で助けを求めるように唸り声を上げていた妻の洋子さんを牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名にドラム缶の中へ運び入れさせて立たせた。

野村はその後、ドラム缶内で立っていた妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を座らせるよう指示し、これを受けたW・X両名は妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の頭・肩を手で押し込んでドラム缶内に座らせた。すると川村がスペクトロン車内に積載されていた約4リットルのガソリン混合油の入ったエンジンオイル缶を持ち出して野村に渡し、野村がその缶の蓋を開けて義妹(妻の妹)の勝子さんの頭から約1リットルのガソリン混合油をかけ、続いて妻の洋子さんにも頭から約1リットルのガソリン混合油をかけた。

妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんはこれから自らの身に起ることに気づき、懇願した。
「助けて!ちょっと私の話を聞いて!」「お願いします!!」
しかし、その懇願も届かないと悟ったのか、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんは静かになり、そして念仏を唱え始めた。

野村は妻の洋子さんの入ったドラム缶の蓋を閉め、さらにWが義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶の蓋を閉めた。野村はさらにドラム缶の蓋が開かないよう、牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名に角材・重石に使う石を持ってくるよう命じ、牧田光希(弟)が付近にあった石を妻の洋子さんの入ったドラム缶の蓋の上に載せ、牧田晃和(兄)がスペクトロン車内から角材を持ち出して野村に手渡し、野村がその角材を義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶の蓋にかませることで、それぞれ蓋が開かないようにした。

野村はその後、牧田晃和(兄)に命じてドラム缶に点火するための新聞紙をスペクトロン車内から持ってこさせ、牧田晃和(兄)から丸めて筒状にさせた新聞紙を受け取った。さらに野村は川村に簡易ライターを出させて牧田光希(弟)に手渡させたが、牧田光希(弟)が野村の持つ新聞紙にライターで点火しようとしたところ、野村は「俺が火を点けろってことか?」と自ら点火することを拒否するような発言をしたため、川村は牧田光希(弟)に「お前が点火しろ」と命令した。そのため牧田光希(弟)は同日午前2時40分頃、川村から手渡されたライターで野村から受け取った新聞紙に点火し、妻の洋子さんが入ったドラム缶に近づいて缶下部の通気口に火の点いた新聞紙を近づけた。
ドラム缶女性焼殺事件(ドラム缶)
すると「ボッ」という音とともに火がガソリン混合油に引火して妻の洋子さんの入ったドラム缶が燃え上がり、直後に義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶内のガソリン混合油にも引火し、それぞれのドラム缶内にいた妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者は断末魔のうめき声を発しながら焼死した。

野村・川村両名は妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を殺害後、依然として白沢・池田両名から連絡がなかったことから2人を探しに行くことを決め、川村が牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名に「ドラム缶の火を消さずに遺体を燃やし続けろ。義妹(妻の妹)の勝子さんのハンドバッグなど証拠になりそうなものも遺体と一緒に燃やせ」などと指示した上でクラウンに乗車し、殺害現場を離れたY・池田を再び探しに向かったが、結局発見できなかったために同日午前5時頃に殺害現場に戻った。その間、牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名は川村から指示された通り木切れなどを集めてドラム缶に投入し、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体を焼却し続け、証拠になりそうな物品類を燃やして証拠隠滅工作を図った。

野村・川村・牧田晃和(兄)の3人はその後、傘・木の棒などでドラム缶内の妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体の塊を突いて燃えやすいようにした上、野村・牧田光希(弟)両名は金槌を、牧田晃和(兄)はタイヤレンチをそれぞれ使用してそれぞれドラム缶内の大きな骨片を粉砕した。その頃、川村は便意を催したために付近で排便し、便が証拠になるのを防ぐためにビニール袋に入れて野村・牧田光希(弟)らのいる場所に持ち帰ったが、牧田光希(弟)は義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体が入ったドラム缶にそのビニール袋を投げ入れた。その後、牧田光希(弟)がドラム缶内にあった被害者Bの遺体をチェーンソーで切断することを提案し、ドラム缶内に水を注いで消火した後、自らチェーンソーをドラム缶内に入れて妻の洋子さんの遺体を切断した。

野村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の3人は妻の洋子さんの遺体が入ったドラム缶を空地の下の沢に落とし、牧田光希(弟)は野村・川村両名の指示を受けてドラム缶内から外に飛び出した妻の洋子さんの遺体の塊をチェーンソーで切断し、野村・川村両名がドラム缶内から外に飛び出した骨片などを付近に投げ捨てるなどして妻の洋子さんの遺体を遺棄した。同日午前6時ごろ、野村・川村・牧田光希(弟)の3人は水を注いで消火した義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体が入ったドラム缶を空き地の下の沢に落とし、妻の洋子さんの場合と同様にWがチェーンソーで遺体を切断し、野村・川村両名が骨片などを付近に投げ捨てるなどして義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体を遺棄した。このようにして両被害者の遺体を損壊・遺棄したあと、川村は遺体の骨片を粉砕する用途で利用した金槌を投棄したり、Wに命じて遺体を切断するのに利用したチェーンソーを投棄させるなどして証拠隠滅を図った。野村・川村両名はすり鉢をスペクトロンに積んで現場まで持ち込んだが、チェーンソーで遺体が灰のように粉々になったため、結局はすり鉢を使用せず灰を周囲に捨てた。

・緊急逮捕と指名手配、そして逃亡と身代わり出頭
事件発生直後、愛知県警千種署は深谷さんから110番通報を受けて緊急配備し、午前1時20分頃になって現場から北東約6km離れた千種区香流橋2丁目の県道交差点で信号待ちをしていた深谷さんの車を発見、乗車していた白沢・池田両被疑者を職務質問の上で任意同行した。千種署で取り調べたところ、白沢・池田両被疑者は「妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両名を拉致・監禁した逮捕・監禁容疑」は否認したものの、「深谷さんを襲撃してマジェスタなどを強取した強盗致傷容疑」を認めたため、同日午前3時頃になって2人を強盗致傷罪の被疑事実で緊急逮捕した。

2000年4月5日、捜査本部は女性2人の実名・当時の服装などの特徴を公開し、一般からの情報提供を呼び掛ける公開捜査を開始し、指名手配された被疑者 牧田光希(弟)の行方を80人態勢で追った。一方で逃走中の野村・川村両名は5日になって指名手配された牧田光希(弟)の処遇について相談した結果、「牧田光希(弟)を警察署に出頭させ、『深谷さんら被害者3人を襲撃した犯行は牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢・池田の4人だけで計画・実行したものであり、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者はナゴヤドーム付近で解放した』とする虚偽の供述をさせる」ことで合意した。

野村はこの時、自分が取り込み詐欺会社で使用していた偽名(「上杉宏次郎」)を牧田光希(弟)に名乗らせることで「俺が『上杉宏次郎』の偽名を使って取り込み詐欺に関与していたことが隠蔽できる」と考え、牧田光希(弟)に命じて東濃信用金庫坂下支店の「上杉宏次郎」名義の銀行口座に残っていた預金18万円を引き出させ、この時に牧田光希(弟)の顔を防犯カメラに撮影させた。さらに野村・川村両名は牧田光希(弟)に対し「お前が警察署に出頭して『この犯行は自分たち4人(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢・池田)でやりました』と言って来い」と命令するとともに、「社長のお前が『上杉宏次郎』(野村の偽名)と本名を使い分けて取り込み詐欺をやっていたことにしておけ。お前らの家族の面倒は見てやるから、俺たちのことは絶対に話すな」などと口止めした。

牧田光希(弟)は取り調べの当初、野村・川村両名の存在を隠していたが、警察官から追及されたことで嘘をつき通すことができなくなり、共犯者として関与した野村・川村両名の存在を自供するとともに、2000年4月7日までに妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者をドラム缶で焼き殺した強盗殺人などの事実を自供した。

・遺体発見
2000年4月8日午前、捜査本部は藤岡町・瀬戸市境の山中で本格的な捜索を開始し、焼けて炭化した(後に妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体と判明する)遺体の一部(被害者女性2人の顎・脚とみられた骨)と、遺体を焼いた痕跡のあるドラム缶2缶を発見したため、強盗殺人・死体損壊などの事実が発覚した。現場山中捜索では骨以外にも、2人の所有物とみられるネックレスが発見されたほか、女性用とみられる腕時計2個が林道脇の空き地と道路を挟んだ向かい側の山側に転がっていた。また、空き地から数十メートル下の崖にドラム缶2缶とチェーンソーが転がっているのを発見した。

・主犯格2人出頭
逃亡を続けていた野村・川村両名は牧田光希(弟)を身代わり出頭させた後、野村の実父の知人を頼って東京都から埼玉県・栃木県・群馬県と関東地方一帯を逃げ回り続けたが、その途中で自分たちも指名手配された事実を知るなどしたため「これ以上はもう逃げきれない」と考え、「警察署に出頭した上で『自分たちは強盗殺人などの犯行に関係ない』と言い張ろう」と嘘の供述をして口裏合わせをすることを決めた。そして野村・川村両名は2000年4月10日、2人合わせて約10万円の所持金を持ってそれぞれ愛知県警千種署に出頭した。

2000年4月10日午後6時頃、それまで指名手配されていた野村・川村両被疑者が千種署に出頭してきたことから、特捜本部は同日付で両被疑者を手配容疑の強盗致傷容疑で逮捕した。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2003年6月19日、名古屋高裁(小出錞一裁判長)で牧田光希(弟)ら共犯4被告人の控訴審判決公判が開かれた。名古屋高裁は第一審の判決(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両被告人は無期懲役、白沢・池田両被告人は懲役12年)をいずれも支持し、検察・弁護人側双方の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した。

牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢の3被告人は一・二審判決を不服として、それぞれ最高裁に上告した。一方で検察側・被告人 池田はともに上告期限の2003年7月3日までに上告せず、被告人 池田は懲役12年の一・二審判決が確定した。

最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は2004年(平成16年)2月3日付で、一・二審判決を不服として上告していた牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢の3被告人について、いずれも一・二審判決を支持して上告を棄却する決定をした。

この決定により牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両被告人を無期懲役、被告人 白沢を懲役12年とした判決が確定した。

2006年6月9日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は上告審判決公判で、一・二審の死刑判決を支持し野村・川村両被告人の上告を棄却する判決を言い渡した。

この判決により野村・川村両被告人に対し一・二審の死刑判決が確定することとなり、2006年7月6日付で判決訂正申立書棄却決定により正式に死刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 野村哲也(主犯格)・・・2009年1月29日に死刑執行(享年39歳)
 川村幸也(主犯格)・・・主犯格、2009年1月29日に死刑執行(享年44歳)
 牧田晃和(牧田光希の兄)・・・無期懲役(2034年4月頃、70歳(仮釈放30年と仮定))
 牧田光希(牧田晃和の弟)・・・無期懲役(2034年4月頃、67歳(仮釈放30年と仮定))
 白沢秀樹・・・懲役12年判決が確定(2015年8月頃、57歳(出所))
 池田浩市・・・懲役12年判決が確定(2018年8月頃、40歳(出所))

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長崎・佐賀連続保険金殺人事件(外尾計夫・山口礼子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1992年(平成4年)と1998年(平成10年)に佐賀県と長崎県で発生し、1999年(平成11年)に発覚した連続保険金殺人事件である。

◆佐賀事件
 山口礼子(当時33歳)の夫が佐賀県のホステスと不倫関係に陥った。ホステスの夫であったマスターは逆恨みし、山口に迫り、全裸写真を撮影する。さらにマスターは写真で山口を脅迫し、愛人関係を持つに至った。その後、山口はマスターが経営するスナックで働き始め、そこで客であった外尾計夫(ほかおかずお、当時45歳)と出会い、これと愛人関係になる。外尾はマスターとの関係を清算する代わりに、山口に夫に保険金を掛けて保険金殺人をするよう迫った。1992年(平成4年)9月10日、山口は夫(当時36歳)に睡眠導入剤を混入したカレーライスを食べさせた上、佐賀県藤津郡太良町の大浦海岸で転落させて水死させ、約9,000万円の保険金を騙し取った。

◆長崎事件
 1998年(平成10年)10月26日、山口は当時高校生だった山口の次男(当時16歳)を夜釣りに誘い出し、睡眠薬を飲ませる。そして翌日(10月27日)未明、山口は外尾と共に寝ている次男を長崎県北高来郡小長井町(現:諫早市)の海に突き落とした。睡眠薬の効き目が切れたのか次男は泳いで岸までたどり着くが、山口は岸辺にしがみつく次男の頭を押さえつけて水死させた。次男には約3,500万円の保険金がかけられていたが、保険金の支払いは保留されたため、2人は保険金を得られなかった。
また、外尾・山口両名はこれに先立つ同年9月29日20時ごろ、佐賀県鹿島市内の知人(当時75歳)宅に押し入り、現金約137,000円やネックレスなど6本(自家合計約120万円相当)、普通預金通帳1冊を強奪した。

◆逮捕
 長崎県警察(捜査一課・諫早警察署)は1999年8月30日、外尾計夫(ほかおかずお、当時52歳)と山口礼子(当時40歳)を、殺人容疑で逮捕。その後、9月18日には長崎・佐賀両県警が2人を佐賀事件の殺人容疑で再逮捕し、諫早署に150人態勢の合同捜査本部(本部長・小賦義一長崎県警刑事部長)を設置した。その後の捜査で、山口の長男(当時19歳)や長女(当時10歳)にもそれぞれ4,000万円と2,500万円の保険金を掛けており、長女には何回か睡眠薬を飲ませていたことが発覚した。
長崎・佐賀連続保険金殺人事件(山口礼子・外尾計夫)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2003年(平成15年)1月31日、長崎地裁(山本恵三裁判長)は被告人2人に死刑判決を言い渡した。山口の弁護団は即日控訴し、外尾も同年2月14日付で控訴した。

2004年(平成16年)5月21日の控訴審判決公判で、福岡高裁(虎井寧夫裁判長)は第一審判決のうち、山口に関する部分を破棄自判し、山口を無期懲役とした一方、外尾に関しては第一審判決を支持し、控訴を棄却する判決を言い渡した。

2005年(平成17年)10月25日付で、最高裁第一小法廷(島田仁郎裁判長)が山口の上告を棄却する決定を出したため、山口は無期懲役が確定した。なお、山口は獄中結婚し、「M」姓に改姓している。

外尾は2008年(平成20年)1月31日に最高裁第一小法廷(涌井紀夫裁判長)で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定した。

2020年(令和2年)9月27日時点で、外尾(現在76歳)は死刑囚(死刑確定者)として、福岡拘置所に収監されている。

❖出所予定(年齢)
 外尾計夫・・・死刑判決(福岡拘置所収監中、死刑未執行)
 山口礼子・・・2035年10月頃、76歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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長崎市長射殺事件(城尾哲弥)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)4月17日に当時長崎市長の伊藤一長(当時61歳)がJR九州長崎駅近くの歩道で山口組系暴力団幹部の男に銃撃され、死亡した事件。

2007年(平成19年)4月15日、第16回統一地方選挙後半戦の市長選などが告示され、長崎市長選挙は22日の投開票日に向けて、4選を目指す現職の伊藤と新人3人の合わせて4人が出馬した。働き盛りの61歳だった伊藤はそれまでの選挙でも挑戦者を全く寄せ付けず2選、3選を果たしており、今回も新人3人が伊藤に及ばないのは明らかで無風、無関心の選挙戦となっていた。

告示2日後の4月17日午後7時51分、遊説をしていた伊藤がJR九州長崎駅付近にあった長崎市大黒町の自身の選挙事務所前に到着。事務所前に集まっていた記者たちと会見を開く予定であったため、スタッフが記者らに市長が帰ったと告げた直後の午後7時51分45秒ごろ、伊藤は城尾哲弥(当時59歳)に銃撃された。

使用された拳銃は5連発式の回転式拳銃で、城尾は伊藤の背後から2発を発射し、2発とも伊藤の背中に命中した。伊藤は救急車で長崎大学医学部・歯学部附属病院に搬送されたが、心臓と肺が裂けてすでに心肺停止状態に陥っていたため、心臓血管外科江石清行教授を中心とした医療チームが人工心肺を用いて治療するも、翌4月18日午前2時28分、胸部大動脈損傷による大量出血のために死亡した。

城尾は現場で選挙事務所関係者らに取り押さえられ、駆けつけた警察官に殺人未遂の現行犯で逮捕された(のちに容疑を殺人に切り替え)。

城尾は指定暴力団山口組系水心会の会長代行で、逮捕時20発ほどの弾丸を所持していた。報道によると、市が発注する公共工事をめぐって市を恨んでいた、あるいは自身の運転する車が市の発注した道路工事現場で事故を起こした際に車両保険が支払われなかったためと報道されている。
長崎市長射殺事件(城尾哲弥)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2012年1月16日、最高裁判所第3小法廷(寺田逸郎裁判長)は、検察と城尾双方の上告を棄却する決定を下して、無期懲役が正式に確定した。

城尾は2020年1月22日、収監先の大阪医療刑務所にて72歳で病死した。

❖出所予定(年齢)
 死亡(病没)

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長崎ストーカー殺人事件(筒井郷太)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年(平成23年)12月に長崎県西海市で発生した殺人事件。

2010年9月に筒井郷太(当時27歳)は会員制のインターネットサイトを通じて女性と知り合って交際を始め、2011年5月から千葉県習志野市で同居を始めたが、筒井は交際女性のメールを先にチェックする、勝手に家族や友人たちと連絡を取らせない、勤務先の出来事について10~15分おきにメールや電話で報告させるなど厳しく束縛した。2011年6月下旬以降、連絡や帰宅が遅れたという理由で交際相手の頭や顔を殴る蹴る等の暴行を加えた。交際相手は勤務先の無断欠勤・早退が増加。女性の親族は、女性の異変は筒井の虐待等が原因と理解し、2011年10月30日、警察などと共に女性を助け出し、署員が筒井を任意同行し「二度と近づかない」との誓約書を書かせて帰した。女性は親族の手助けにより、長崎県西海市の実家に帰った。

筒井は交際相手が戻るように仕向けることを考え、脅迫メールを交際相手の友人らに送信した。2011年12月、元交際相手は千葉県習志野署に傷害の被害申告をした。筒井は習志野署に出頭した際に、交際相手に近づかないよう注意され、三重県の実家に戻った。筒井は交際相手の家族らに脅迫メールを送り、交際相手が実家に連れ戻されたと信じ込み、交際相手の家族への憤りを増幅させた。 2011年12月14日、筒井は実家で父親を殴って、警察が呼ばれたために逃走し、被害届を提出しないように父親に頼んだが拒まれ、「親にも見放された。自分には交際相手しかいない」と思い、交際相手を取り戻すために、長崎県西海市の交際相手の実家へ向った。

2011年12月16日、筒井は長崎県西海市にある交際相手の山下誠さん(当時58歳)方に侵入し、出刃包丁で交際相手の祖母 山下久江さん(当時77歳)と母 山下美都子さん(当時56歳)を殺害した。その間に宅配業者が訪ねてきたが、筒井は家人を装って宅配業者から荷物を受け取った。

その後、帰宅した親族が2人の死体を発見した。家族らの説明から女性の交際相手であった筒井が浮上。12月17日に筒井郷太(当時27歳)を殺人、住居侵入容疑で逮捕した。2012年1月4日、筒井を鑑定留置し、4月26日に殺人、住居侵入、窃盗罪で起訴された。その後、筒井は傷害罪や脅迫罪で逮捕、起訴された。
長崎ストーカー殺人事件(筒井郷太)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2013年6月14日、長崎地方裁判所は「(捜査段階において容疑を認める供述について)不当な取り調べが行われた事実はない。供述内容は臨場感に満ち、秘密の暴露も含まれる」として自白の任意性・信用性を認め、その上で被告が所持していた包丁や着衣から被害者2人のDNAが検出されたことを挙げて被告が犯人であるとし、また責任能力について「犯行は計画的で、完全責任能力が認められる」とし、求刑通り、筒井に死刑判決を言い渡した。

筒井は上告するも、2016年7月21日に最高裁判所で死刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)

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長崎男児誘拐殺人事件(松田雄一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)7月1日に長崎県長崎市で発生した、男児が誘拐され殺害された事件。

2003年(平成15年)7月1日午後7時頃、長崎市内の大型家電量販店を家族で買い物に訪れ、一人でゲームコーナーで遊んでいた種元駿君(当時4歳)に対して加害者の当時中学1年の松田雄一(当時12歳)が「お父さん、お母さんに会いに行こう」と騙して連れて行く。路面電車に無賃乗車し、商店街を連れ回した後、長崎市万才町の築町パーキングビル屋上で男児を全裸にし、腹などに殴る蹴るの暴行を加えた。さらに、はさみで性器を数箇所切り付けた。しかし、防犯カメラが設置されていることに気づいてパニックになり、泣き叫んでいた駿君を「何とかしなければ」と思い、駿君を抱え上げて手すり越しに、屋上から約20メートル下の通路に突き落として殺害した。

犯行後から補導されるまで、少年は通っていた中学校で、事件について冗談を交えて話したり(同級生証言)、駿君と出会った電器店でゲームソフトを購入していた。

犯行現場に近い繁華街に設置されていた防犯カメラにより、7月9日に加害者の松田少年が補導される。松田少年は事件当時12歳であったため、逮捕することができず補導という形であった。この事件以前にも松田少年は、この事件と類似した異常性欲が顕著に見られる事件を20件以上引き起こしていた。なお、この事件に関しては、イギリスで1993年に起きたバルジャー事件との類似性についても多く報道された。

また、松田少年は小学3年の頃に友人に股間を蹴られ病院に行っており、この頃から男性器への執着が生まれていったとされる。2003年8月6日付けの『週刊新潮』では「ボクは、ずっと前におなじことされたもん。裸にされて怖い思いしたから。それでも、じっと黙っとったもん」「怖かったけど、変な気持ちになった。だから、ボクも中学生になって、同じことをしてもいいと思ったからね」という話が載せられている。

加害者(松田少年)が中学1年の少年であったため、凶悪な少年事件として国内を震撼させた。加害者の少年(松田少年)は、「男児の性器に対する拘りを払拭することは出来ない」と述べており、児童自立支援施設を退所できないまま、中学校を卒業した。
長崎男児誘拐殺人事件(ビル屋上)
長崎男児誘拐殺人事件(松田雄一)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 長崎家庭裁判所は、審判にあたり専門家チームによる2か月間の精神鑑定を実施した。

その結果、松田少年の特質として
・パニックになりやすい
・対人共感性、対人コミュニケーション能力が乏しい
・母親を異常に恐れている
と分析。一方で、学校の成績は学年トップクラスで、なおかつ12歳でありながらすでに三国志を読破しているなど、知能面での障害がないことから、松田少年をアスペルガー症候群であると診断した。

家裁は児童自立支援施設への送致と1年間の強制措置(鍵付きの部屋に入れられる)を認め、松田少年は2003年9月、国立武蔵野学院(埼玉県さいたま市緑区)へ入所した。強制措置については、入所後1年ごとに再検討が行われており、2006年9月に3度目の延長がなされたが、4度目の延長はなされず、2007年9月に解除された。

❖出所予定(年齢)
 2007年9月頃、16歳、すでに退院(児童自立支援施設にて4年の保護処分)

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中津川一家6人殺傷事件(原平)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 岐阜県で2005年(平成17年)に発生した家族内の大量殺人事件である。裁判では一家心中として極刑を回避した。

◆登場人物

・加害者
 原平(当時57歳)

・被害者

 原チヨコさん(当時85歳)・・・犯人の母(死亡)
 原正さん(当時33歳)・・・犯人の長男(死亡)
 藤井こずえさん(当時30歳)・・・犯人の長女(死亡)
 藤井孝平ちゃん(当時2歳)・・・犯人の孫(死亡)
 藤井彩菜ちゃん(当時生後3週間)・・・犯人の孫(死亡)
 藤井孝之さん(当時44歳)・・・犯人の娘婿(怪我)
中津川一家6人殺傷事件(原平)

2005年(平成17年)2月27日午後2時ごろ、岐阜県中津川市坂下町で、男性が腹を刺されているとの通報があった。警察は彼を保護したが全治2週間の怪我をしていた。同じ頃中津川市職員 原平(加害者、当時57歳)の自宅で、大勢の人が倒れているとの通報があった。警察と救急隊員がかけつけたところ原平の長女 藤井こずえさん(当時30歳)が2歳の男児 藤井孝平ちゃんと生後3週間の女児 藤井彩菜ちゃんを抱えて倒れており、そばのソファのうえで原平の母 原チヨコさん(当時85歳)が倒れており、原平の整体業の長男 原正さん(当時33歳)も2階で倒れていた。5人全員が原平の手で絞殺されていた。

原平は首に包丁を突き刺した状態で空の浴槽の中に隠れているところを発見された。腹を刺されていた原正さんは原平の娘婿で被害者の2児の父親であった。原平は5人の殺害のほか、中津川警察署から調教を嘱託されていた警察犬2頭も殺害していた。原平は全治三週間の重傷で退院後の3月12日に娘婿に対する殺人未遂で逮捕され、4月2日に5人に対する殺人罪で再逮捕された。

2005年(平成17年)7月1日の初公判の検察による冒頭陳述によれば、事件の背景は次のようなものであるとした。長野県出身のAは1970年に坂下町(2005年2月に中津川市に編入合併)の公立病院に採用され、事件当時は老人保健施設の事務長をしており、近所では仲良し家族との評判であった。

しかしAと母の二人の間は深刻な確執があった。原平は厳格な母親を小学生の時から嫌っており、中学生の時には口を聞かなくなっていたが、数年前から同居するようになった。しかし原平の母は原平の妻(当時54歳)を泥棒呼ばわりするなどしたため、母に対する嫌悪感が積もる反面、妻に対し申し訳ないと思った。事件の直前の1月27日に母名義の郵便貯金の預け替えが必要であることから郵便局長が手続きの説明をしたが、郵便局長をなじったことから、母に対する嫌悪が爆発することになった。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 名古屋高裁は2010年(平成22年)1月26日に双方の控訴を棄却し第一審・無期懲役判決を支持する判決を言い渡した。

名古屋高検・被告人双方が最高裁に上告していたが、最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は2012年(平成24年)12月3日に双方の上告を棄却する決定を出したため、無期懲役判決が確定することとなった。

❖出所予定(年齢)
 2042年1月頃、92歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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長野・愛知4連続強盗殺人事件(西本正二郎)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)1月13日から同年9月7日にかけて、愛知県春日井市および長野県飯伊地域(飯田市・下伊那郡高森町)で連続して発生した強盗殺人事件。春日井市でタクシー運転手1人が、長野県では高齢者3人が相次いで殺害された。


交通事故がきっかけで失業した西本正二郎(当時27歳)は、2004年1月、仕事を探しに愛知県名古屋市に出るものの求職に失敗し、所持金が尽きたところでタクシーの襲撃を計画、同県春日井市内でタクシー運転手の湊保雄さん(当時59歳)を首を切って殺害し売上金を奪った。

その後、故郷である長野県飯田市に帰省した西本は、4月26日に同市大王路の独居高齢女性 島中実恵さん(当時77歳)を絞殺、8月14日には飯田市と隣接する下伊那郡高森町出原在住の独居高齢男性 加藤仁さん(同69歳)を、9月7日には同町吉田在住の独居高齢女性 木村あい子さん(同74歳)をそれぞれ刺殺、いずれも金品を奪った。加藤仁さんは事件の約10年前に息子を、7年前に妻をそれぞれ亡くしており、事件当時は一人暮らしだった。

西本は同年9月13日、飯田市下久堅の民家へ空き巣に入った。この家は西本の元同僚の家で、元同僚は何度も被害に遭っていたことから警察に自動通報される防犯センサーを設置しており、西本が窓ガラスを割って鍵を開けたところでセンサーが作動した。西本は何も取らずに逃走したが、通報を受けて駆けつけた飯田署員に職務質問されて住居侵入と窃盗未遂容疑で逮捕され、後に木村あい子さん事件の強盗殺人容疑で再逮捕された。後に島中実恵さん・加藤仁さんの両事件や、愛知県で発生した湊保雄さん事件についてもそれぞれ自供した。
長野・愛知4連続強盗殺人事件(西本正二郎)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 第一審の公判は長野地裁(土屋靖之裁判長)で開かれ、2006年(平成18年)2月8日の論告求刑公判で、長野地方検察庁は西本に死刑を求刑。長野地裁は同年5月17日、西本に死刑判決を言い渡した。

2007年(平成19年)1月22日に控訴審判決公判が予定されていたが、同月11日付で西本が自ら控訴を取り下げたため、死刑が確定した。

判決確定から2年後の2009年(平成21年)1月29日、西本は東京拘置所で死刑を執行された(32歳没)。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2009年(平成21年)1月29日、東京拘置所で死刑執行(当時32歳没))

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中野区中国人留学生殺害事件(陳世峰(チェンシーフォン))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 東京都中野区で2016年(平成28年)11月3日未明に発生した殺人事件。

法政大学の大学院生で中国籍の女性 江歌さん(ジャンガ―・当時24歳)を、中国籍の男 陳世峰(チェンシーフォン・当時25歳)がアパートの前で所持していたナイフにより複数回刺して殺害。現場には、加害者の元交際相手で被害者と同居中であった劉鑫(リュウシン・当時24歳)性がいた。

事件の数日後に、詳細についての報道がまだ不十分な際、被害者の母 江秋蓮(ジャンチウィエン)は「親友を庇い殺された」とのいきさつを新浪微博に明らかにしていたことで、中国においても国民の強い関心を集めていた。事件発生以来の1年近く、母は現場にいた同居女性およびその家族の個人情報を明らかにしており、相手が事件の道徳的義務を果たしていないと非難し、「国内外の大衆に向けて署名募集活動を行い、日本の司法に犯人の死刑を求刑を望む」と述べた。2017年11月、事件が発生した翌年、インタビュー番組「局面」で、被害者の母とその同居女性の声明が発表され、中国国内の世論に新たな関心を集めた。
中野区中国人留学生殺害事件(陳世峰(チェンシーフォン))
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年12月、陳は東京地方裁判所で殺人罪で検察の求刑通りの懲役20年の刑が下されている。

❖出所予定(年齢)
 2037年5月頃、55歳(懲役20年)

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長野市一家3人殺害事件(松原智浩・池田薫・伊藤和史・斎田秀樹)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年(平成22年)3月に長野県長野市で発生した一家殺人事件。この事件が発覚するきっかけとなった貸倉庫内にあったワゴン車から遺体が見つかった。

2010年4月10日、長野市若宮の貸倉庫内にあったワゴン車から、宮城浩法(当時37歳)が頭蓋内損傷で亡くなっているのが見つかった。見つかったのは、別の ”家族失踪事件” に伴う捜査の過程で得られたある証言によるものだった。

この証言をした伊藤和史(逮捕時31歳)は、2005年7月頃に宮城と知り合っていた。当時、大阪の風俗店で働いていた伊藤は、この宮城に目を付けられたことで、それまでの生活が一変することになる。

伊藤は自宅の鍵を取り上げられ、ビールジョッキで頭を殴られたり、包丁で足を刺されるなど、激しい暴行を受けた。家族や知人らの個人情報も把握され、逃げることもままならない状態。命じられるままに養子縁組をして、姓を変えては消費者金融から金を借りて宮城に渡すことを強要された。

2005年8月頃からは、長野市にある「オリエンタルグループ」と称する会社の金文夫会長と、その長男で専務の金良亮のもとで、建築関係の営業や現場作業等を担当する従業員となった。ここでは朝から晩までこき使われ、休みはほとんどなく1ヶ月フルに仕事してもほぼ無給。そのため夜も働いて稼ぐしかなく、毎日3~4時間しか寝られない過酷な生活だった。

宮城は、沖縄県浦添市出身の元暴力団員だった。金良亮(当時30歳)の暴走族時代からの先輩で、暴力団時代には兄貴分だった。しかし、宮城がある犯罪で服役することになった時期から、金良亮と宮城の関係はぎくしゃくし始めていた。

兄貴分である宮城は、金良亮に犯罪で得た金を多く渡すように言い、暴力に出ることもしばしばだった。やがて、金良亮は「宮城と縁を切りたい」「殺す」などと愚痴を言うようになった。

宮城が出所した2008年7月20日。刑務所を出所した宮城を、金良亮は伊藤らを従えて迎えに行った。そして兵庫県警・尼崎警察署のすぐ側の車内で宮城を射殺。伊藤が車外に出ている間のできごとだった。

宮城の遺体は、長野市若宮の貸倉庫内に車ごと放置されるが、この殺人の一部始終を知る伊藤は、金良亮や金文夫(当時60歳)会長に対する恐怖が一層強まった。実際、事あるごとに「お前も宮城のようになりたいか?」と脅されたという。そしてこの事件以降、伊藤は金親子の支配下に置かれることになった。

事件に絡み、貸倉庫を使用している会社の実質的な経営者の男などから事情聴取を進めた。

その後本事件について、3月下旬から行方不明となっていて、親族が捜索願を出していた長野県長野市在住の一家3人について遺体を埋めたと自供した。

伊藤は、自分の妻子に危害がおよぶことを、伊藤は何より恐れていた。極悪な生活からの逃亡をあきらめたのも、妻子を守るためである。逃げたら妻子が危険な目に遭うかもしれず、助けを求めるべき長野県警には金親子と懇意にしている刑事がいて、警察はあてにならないと考えていた。

そうしてまで守ってきた家族を引き込もうとする金親子に対し、伊藤の心の中には殺意が芽生えていった。彼は松原に金親子の殺害について持ちかけたが、同じ気持ちを抱いていた松原智浩(逮捕時39歳)はこれに同意。さらに同じ境遇の池田薫(逮捕時34歳)も引き入れ、犯行は3人で行うことにした。

犯行後の遺体の運搬については、オリエンタルグループと取引のあるプラスティック販売業者・斎田秀樹(逮捕時51歳)に100万円の報酬で依頼して了承を得た。

2010年3月24日午前8時50分頃、2階の夫婦の寝室隣の居間において、伊藤が有紀子の背後から、いきなりロープを首に巻き付ける。そして転倒した有紀子の首のロープを伊藤・松原・池田の3人が代わる代わる絞め付けて殺害した。

午前9時10分頃、次に寝室で寝ている良亮の首にロープを巻き付け、伊藤と松原が両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けた。良亮は窒息により死亡。2階物置から現金約281万円を強取した。

金文夫会長(62歳)は2階の居間にあるリクライニングソファーで眠っていた。午前9時25分頃、伊藤と池田は彼の首にロープを巻き付け、両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けて殺害。その後、池田が金文夫会長の持つ現金約135万円を奪った。

供述に基づいて捜索したところ、2010年4月14日に愛知県西尾市南奥田町の資材置き場に遺棄されているのが発見された。

金文夫(当時60歳)、金良亮(当時30歳)、楠見有紀子(26歳)の3人はいずれも窒息死だった。

長野県警長野中央警察署は殺人事件として捜査して4月15日に松原智浩(逮捕時39歳)・池田薫(逮捕時34歳)・伊藤和史(逮捕時31歳)・斎田秀樹(逮捕時51歳)の4人を死体遺棄の疑いで逮捕、2010年5月5日に強盗殺人容疑で4人を再逮捕した。そのうち3人の容疑者 松原・池田・伊藤は韓国籍男性の会社の従業員である。
長野市一家3人殺害事件(伊藤和史・松原智浩)
左が伊藤和史、右が松原智浩
長野市一家3人殺害事件(金文夫・金良亮・楠美有紀子)
被害者の3人、でもこちらも鬼畜・・・。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 第一審を担当した長野地裁は松原(2011年3月25日)・池田(2011年12月6日)・伊藤(2011年12月27日)に求刑通り死刑・殺害行為に加担していない斎田には松原・池田・伊藤との共謀を認めた上で懲役28年(求刑・無期懲役)をそれぞれ言い渡した。

控訴審を担当した東京高裁では、池田(2014年2月27日)を従属的だったとして無期懲役・池田を強盗殺人幇助罪にとどまるとして懲役18年に減刑したものの、松原(2012年3月22日)・伊藤(2014年2月20日)の死刑判決は維持。最高裁では全被告の上告を棄却(松原は2014年9月2日・池田は2015年2月9日・伊藤は2016年4月26日・斎田は2013年9月30日)し、松原・伊藤の死刑、池田の無期懲役、斎田の懲役18年の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 伊藤和史・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
 松原智浩・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
 池田薫・・・2045年4月頃、64歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 斎田秀樹・・・2031年9月頃、69歳(懲役18年)

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中村橋派出所警官殺害事件(柴嵜正一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1989年(平成元年)5月16日未明に東京都練馬区中村北で発生した強盗殺人・公務執行妨害・銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反事件。

元陸上自衛官の柴嵜正一(事件当時20歳)が銀行強盗などのために拳銃を奪取しようと警視庁練馬警察署「中村橋派出所」を襲撃し、勤務していた警察官2人(山崎達雄巡査(当時30歳、事件後に警部補に特進)、小林利明巡査部長(当時35歳、事件後に警部に特進))をサバイバルナイフで刺殺したが、被害者らの抵抗に遭い拳銃強奪は未遂に終わった。

1989年(平成元年)5月16日午前2時50分前頃、山崎巡査が、派出所正面入り口前で一時的に保管していた遺留品のバイクを派出所裏手の遺留自転車等保管場所へと移動させる作業に移ったのを確認。

柴嵜は背後から山崎巡査に接近し背中をサバイバルナイフで突き刺しました。山崎巡査は刺されながらも振り向いて抵抗してもみ合いになり、柴嵜はさらに山崎巡査の胸部などを突き刺して致命傷を負わせた。

柴嵜は山崎巡査に致命傷を負わせた後、山崎巡査が腰に携帯していた拳銃を奪おうとするが、山崎巡査は致命傷を負いながらもなおも抵抗したため奪う事ができなかった。

そこへ、異常を察知して派出所内から小林巡査部長が駆けつけ、警棒を構えながら「おい!」と声をかけた。

柴嵜は咄嗟に「このままでは捕まる、この警察官(小林巡査部長)を殺害して拳銃を奪い逃げよう」と考え、小林巡査部長が振り上げた警棒を左手で払い除けながら、右手に持ったサバイバルナイフで小林巡査部長の胸部を突き刺した。小林巡査部長は刺されながらも怯まずに抵抗して路上に転倒したままもみ合いとなるが、柴嵜はさらに小林巡査部長の胸部などを複数回にわたって刺し、致命傷を負わせた。

柴嵜はその上で小林巡査部長の拳銃を奪おうとするが、これも小林巡査部長の必死の抵抗に遭って失敗。小林巡査部長はそのまま拳銃を抜いて反撃に出ようとするが、それを見た柴嵜は逃走。小林巡査部長は逃げる柴嵜に3発の威嚇射撃している。

そして、小林巡査部長は瀕死の重傷を負いながらも、派出所内へと戻り事件の発生を本部に通報している。

通報を受けた警視庁はすぐに周辺に規制線を張り、現場となった「中村橋派出所」周辺の通りには、パトカー、鑑識や機動捜査隊、捜査一課の車両がひしめき、捜査員や警備のための警察官が周囲に溢れて騒然とした状況となった。

被害者の警察官2名は、小林巡査部長が同日午前3時55分頃に、山崎達査が同日午前4時18分頃に亡くなった。(共に死因は失血死)
中村橋派出所警官殺害事件(柴崎正一)
中村橋派出所警官殺害事件(山崎達雄巡査・小林利明巡査部長)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1998年(平成10年)9月17日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人 柴嵜正一・弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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流山女性殺害事件(橋詰雄介)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年(平成9年)5月18日に千葉県流山市鰭ケ崎のマンションで発生した強盗殺人・強盗強姦などの事件。

当時17歳の少年 橋詰雄介(2012年1月18日逮捕当時32歳)が、女性会社員 田島由美さん(当時24歳)を強姦して殺害し、キャッシュカードを奪った少年犯罪である。

事件直後、実際には無実だった被害者の親族が、千葉県警察によって誤認逮捕される冤罪事件が発生。事件発生から、2012年(平成24年)1月に真犯人Xが逮捕される(事件解決)までに15年を要した。

2012年11月21日に判決公判が開かれ、千葉地裁(齊藤啓昭裁判長)は検察官の求刑通り、懲役15年の判決を言い渡した。

橋詰は2014年(平成26年)に懲役15年が確定し、2020年(令和2年)3月に出所したが、出所後に窃盗3件(未遂1件を含む)などの事件を起こし、2021年(令和3年)に懲役4年の実刑判決を受けた。
流山女性殺害事件(橋詰雄介)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2012年11月21日に判決公判が開かれ、千葉地裁(齊藤啓昭裁判長)は検察官の求刑通り、懲役15年の判決を言い渡した。

弁護人側は判決を不服として、同月27日付で東京高等裁判所に控訴したが、東京高裁(村瀬均裁判長)は2013年(平成25年)7月18日に「橋詰の供述通り、凶器とみられる刃物が発見されており、犯行を認めた捜査段階の供述は信用できる」「弁解は信用できない」として、原判決を支持して控訴を棄却する判決を宣告した。2014年(平成26年)2月12日付で、最高裁判所第三小法廷(木内道祥裁判長)が被告人 橋詰側の上告を棄却する決定を出したため、懲役15年の判決が確定している。

◆出所後
橋詰は2014年(平成26年)に懲役15年が確定し、2020年(令和2年)3月に出所したが、出所後に窃盗3件(未遂1件を含む)などの事件を起こし、2021年(令和3年)に懲役4年の実刑判決を受けた。

❖出所予定(年齢)
 2020年3月頃、40歳(本件では出所)

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名護市女子中学生拉致殺害事件(柳末盛・上野勝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1996年(平成8年)6月21日に沖縄県(沖縄本島)で発生した、わいせつ略取・強姦・殺人・死体遺棄・窃盗事件。

犯人の男2人組(本文中「柳末盛(当時38歳)」および「上野勝(当時37歳)」)は同日夕方、名護市伊差川の農道で、帰宅途中の女子中学生 伊地美香さん(当時15歳:市立羽地中学校3年生)をワゴン車(白いワンボックスカー)で拉致した。その後、2人は2回にわたって伊地さんを強姦した上で、犯行の発覚を免れるため、Aを殺害して死体を遺棄することを決意し、同日夜に国頭郡国頭村の山中で、伊地さんの首をロープで絞めて殺害し、死体を国頭村楚洲の山中に遺棄した。2人は犯行後、約半年間にわたって逃亡を続けていたが、同年12月に犯行車両を盗んだとして指名手配されていた犯人の柳が自首し、伊地さんを殺害して遺棄した旨を自供したことで、1997年(平成9年)1月1日に伊地さんの遺体が発見され、残る(上野)も同月に逮捕された。
名護市女子中学生拉致殺害事件(柳末盛・上野勝)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は1999年9月30日、2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡した。福岡高裁那覇支部 (1999) は判決理由で、「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、最高裁判例が示す死刑適用基準に沿って検討すると、殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があり、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば、極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた。

同判決に対し、福岡高等検察庁那覇支部は上告するか否か検討したが、判例違反などの上告理由を見い出せなかったため、同年10月13日、上告を断念することを決めた。弁護人も上告しなかったため、2人とも無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 柳末盛・・・2029年9月頃、68歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 上野勝・・・2029年9月頃、67歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件(武藤恵喜)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年(平成14年)3月14日未明に愛知県名古屋市中区栄4丁目で発生した強盗殺人事件。

武藤恵喜(当時52歳)は本事件前の2002年2月8日午後9時頃から2002年3月5日午後10時30分頃までの間、前後9回にわたり、名古屋市中区内のスナックバーなど計8か所で無銭飲食をし、店主らの隙を突いては売上金などを盗んで逃げるなどし、ビール22本ほか26点の飲食物(代金合計7万1300円相当)・席料・カラオケ使用などの利便(合計1万9000円相当)を騙し取った。

これに加え、2002年2月8日頃から2002年3月6日頃までの間の前後9回にわたり、前述のスナックなど計8か所で現金計約35万2300円・かばん5個ほか約159点(時価合計約16万650円相当)を窃取した。

刑務所を出所してから2か月後の2002年3月12日、武藤は52歳の誕生日を迎えたが、翌2002年3月13日にはいつものように所持金が尽き、夜の繁華街をぶらついていた。

そこで武藤は、「さらに別の飲食店に入って売上金などを盗もう」と考え、ホテル・携帯電話販売店に立ち寄り、飲食店主らを信用させるための小道具にする名刺・サンプルの携帯電話を手に入れた上、適当な飲食店を物色していた。その上で「人が少ないところがいい」と考えたBは、名古屋市中区栄4丁目の、雑居ビル3階に位置する現場スナックバーに来店した。

このスナックバーの店主は千葉春江さん(当時61歳)で、武藤が入店したのは閉店時間(午前0時)直前の午後11時だった。

武藤は日付が変わるまで店内で飲み続け、金を盗む隙を窺っていたが、千葉さんには全く隙がなく、武藤がトイレに立ったときでさえ、ドアを半開きにして武藤の動きをうかがっていたという。

途中、武藤は「タバコがなくなった」として、千葉さんにたばこを外へ買いに行くように仕向けたが、千葉さんは軽くいなし、腰を上げなかった。武藤が「仲間を迎えに行ってくる」と言い、店から逃げようと表へ出ても、後をつけてきた女性に引き戻された。

翌2002年3月14日午前3時頃、所持金がなかった武藤は「被害者に嵌められた」と感じ、いらだちを募らせていたところ、トイレから出てきた千葉さんが武藤の隣りに座り、「私のこと、何とかしようと思って掛けたんじゃないでしょうね」などと答えたことを契機に、「このままでは無銭飲食で刑務所戻りになる」と恐れた武藤は強盗することを決意し、千葉さんを椅子ごと引き倒した。

床に仰向けに転倒した千葉さんは、「初めからおかしいと思ったんだ」などと大声で叫んで抵抗し、武藤に左掌で口を押さえつけるように塞がれても、なおも暴れて抵抗した。

武藤は被害者の犯行を抑圧しようと、被害者の口を塞いだまま立たせたが、左手親指・人差し指の付け根付近を思い切り噛みつかれ、その手を伸ばして引き抜くと、千葉さんが再び大声で叫び始めた。

そのため武藤は、千葉さんの背後からその首に左腕を回し、自身の左手首付近に右腕を十字に重ねて数分間思い切り引き、千葉さんの首を絞めた。千葉さんは初めこそ叫んで抵抗していたものの、武藤が首を絞め続け、さらにそのままの体勢で千葉さんの体を持ち上げて約1分間経過すると、おとなしくなったので、武藤は千葉さんを床に寝かせた。

武藤が千葉さんの息を確認したところ、息は感じられなかったが、千葉さんを確実に殺害しようとした武藤は、その首に店内にあったカラオケのマイクコードを二重に巻き付けた上、コードの両端を思い切り引っ張り、千葉さんの首を再び強く絞め付けて殺害した。

千葉さんの内縁の夫は事件発生時刻の午前3時頃、妻の帰りが遅いのを心配し、妻の携帯電話にかけたが、誰も出なかった。そのため夫は午前7時半頃、現場スナックバーが入居する雑居ビルの管理者に連絡した。夫からの連絡を受け、ビル管理者の長女が午前8時40分頃に鍵を開けて店内に入ったところ、店内奥のカラオケコーナー付近の床で千葉さんが倒れているのを発見し、愛知県警察に110番通報したが、千葉さんは既に死亡していた。遺体の首にコードが2,3回巻かれていたことから、愛知県警は中警察署に捜査本部を設置し、殺人事件として捜査を開始した。

翌2002年3月16日午後4時半頃、金山駅北口付近の路上を捜索していた捜査員が路上を歩いている武藤を発見し、特別捜査本部が設置された中署に任意同行した。

中署は既に前述の窃盗容疑での逮捕状も用意していたが、取り調べで殺人事件について追及したところ、武藤は「金を奪う目的で客を装い店内に入ったが、口論となったことから千葉さんを殺害した」と供述し、容疑を認めたため、武藤を強盗殺人容疑で逮捕した。
名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件(武藤恵喜)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年3月22日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(才口千晴裁判長)は控訴審の死刑判決を支持し、被告人 武藤の上告を棄却する判決を言い渡した。

この判決により、被告人 武藤の死刑判決が確定した。

2013年(平成25年)2月21日、法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令により収監先・名古屋拘置所で死刑囚 武藤の死刑が執行された。62歳没、死刑確定から5年10カ月が経過していた。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2013年(平成25年)2月21日、東京拘置所で絞首により死刑執行(当時62歳没))

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名古屋小6受験殺人事件(佐竹憲吾)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2016年(平成28年)8月21日に、愛知県名古屋市北区のマンションで、佐竹憲吾(父親、当時48歳)が小学6年の長男(当時12歳)を包丁で刺し、死亡させた日本の教育虐待・殺人事件である。

2016年8月21日、名古屋市北区の自宅マンションで、父親が当時小学6年の息子(12歳)の胸を包丁で刺し、失血死させる事件が発生した。

当時、父親は息子に対し中学受験をさせており、2019年6月に行われた初公判で検察側は「指示通りに勉強しないと怒鳴ったり、暴力を振るったりした」と説明している。また2016年1月からは、脅しとして刃物を使用し、事件1、2日ほど前は父親が息子の足を切りつけるなどの傷害を加えていた。
名古屋小6受験殺人事件(佐竹憲吾)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2019年(令和元年)7月19日、名古屋地方裁判所は、父親に対し殺人の罪で懲役13年の実刑判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2032年7月頃、61歳(懲役13年)

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名古屋市連続通り魔殺傷事件(伊田和世)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)に名古屋市北区(3月30日)と千種区(4月1日)で起こった連続通り魔事件。2件の犯行で1名が負傷し、もう1名が死亡した。

2003年3月30日、名古屋市北区東水切町四丁目の路上で、菅谷悦子さん(当時22歳)が伊田和世(当時38歳)に包丁で刺される。このとき、菅谷さんは伊田に「ニシオオゾネ(西大曽根?)は、どこですか?」という意味不明な質問をされて注意を引きつけられたときに刺されたという。菅谷さんは自力で自宅まで逃げ帰ったが、腹部の刺し傷が15センチも達していたことから、4月1日に多臓器不全で死亡した。
2003年4月1日、名古屋市千種区日進通一丁目で伊田が女性B(当時22歳)を襲い、バッグを奪って逃走。Bは傷は負ったが、命には別状無かった。
2003年8月28日深夜、伊田が窃盗事件で現行犯逮捕される。翌日、家宅捜索でBのバッグが発見され、2件の通り魔事件を自供。殺人・殺人未遂容疑で再逮捕。
名古屋市連続通り魔殺傷事件(伊田和世)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年2月24日、名古屋地裁で伊田に無期懲役の判決が下された。弁護側・検察側共に控訴せず、刑は確定した。

❖出所予定(年齢)
 2036年2月頃、68歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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名古屋大学女子学生殺人事件(大内万里亜)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年(平成26年)12月7日に愛知県名古屋市で名古屋大学の女子大生が、宗教団体のセミナーに勧誘されたことで知り合った森外茂子さん(当時77歳)を殺害した殺人事件である。

2014年(平成26年)12月7日、名古屋大学の女子大生 大内万里亜(当時19歳)は、宗教の勧誘で知り合った名古屋市千種区在住の森外茂子さん(当時77歳)と宗教団体の集会に2人で参加した。集会が終了した昼ごろ、「聞きたいことがたくさんある」と持ち掛け、セミナーに参加した大内は信仰に関心を持ったかのように装い森外さんを名古屋市昭和区の自宅アパートに誘い込んだ。用意していた斧で数回殴り、マフラーで首を絞めるなどして殺害。

遺体に服を着せ、マフラーを首に巻かせた状態で風呂場の洗い場に横たわらせ、「実験結果として記録を残すため」に森外さんの写真を4、5枚撮った。事件当日に自身のTwitterアカウントで「ついにやった」と書き込みを行った。翌日に宮城県仙台市の実家に帰り、自宅アパートに遺体を1ヶ月以上放置した。
名古屋大学女子学生殺人事件(大内万里亜)

◆余罪
 殺人事件の捜査の過程で、高校時代に同級生の男子生徒及び中学時代の同級生だった女子生徒に硫酸タリウムを飲ませた事件、大学時代に帰省していた仙台市の実家近くの住宅を放火しようとした事件がそれぞれ発覚した。最終的に以下の罪状で、名古屋地方検察庁から起訴された。

 2012年5月27日 - 仙台市のカラオケ店で、劇物の硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、中学時代の同級生だった女子生徒に飲ませた殺人未遂罪

 2012年5月から7月 - 通っていた仙台市の高校で、硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、同級生の男子生徒に飲ませた殺人未遂罪

 2014年8月29日 - 30日 - ペットボトルで製造した火炎瓶に点火し、仙台市の住宅の縁側に置き、熱で窓ガラスを割ったとする火炎瓶処罰法違反と器物損壊罪

 2014年12月7日- 名古屋市で宗教勧誘で知り合った女性を誘って、斧で殴ってマフラーで絞めたとする殺人罪(本事件)

 2014年12月13日 - 仙台市の住宅(前述と同じ)の郵便受けに、引火性の高いジエチルエーテルを流し込んで火をつけたとする殺人未遂罪と現住建築物等放火未遂罪

なお加害者は2015年12月時点で名古屋大学を退学している。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2018年3月23日、名古屋高裁(高橋徹裁判長)は第一審・無期懲役判決を支持して被告人・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡した。高橋徹裁判長は、各事件時の精神状態は、躁鬱病の軽そう状態にとどまり、発達障害が動機に影響しているものの限定的だったと指摘して、一審同様に完全責任能力を認めた。

硫酸タリウム事件については、混入時に周囲の状況を確認するなど冷静に行動しているほか、致死量の知識もあったことから「被害者が死亡する可能性を十分認識しながら犯行に及んだと推認される」と述べた。被告人側は判決を不服として2018年4月5日付で最高裁へ上告した。

2019年(令和元年)10月15日付で最高裁判所第三小法廷(林景一裁判長)は被告人・元名大生の上告を棄却する決定を出したため、2019年10月22日付で無期懲役とした一・二審判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2049年10月頃、49歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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にゃんぱく宣言
子猫を殴りつけ死なせる→虐待の男性に罰金70万円 譲渡したボランティアの嘆き「信用してしまった自分の愚かさに腹が立つ」(2025年10月25日)

 沖縄区検が9月26日付けで、沖縄県うるま市の自宅アパートで子猫2匹を繰り返し殴打するなど虐待して死傷させたとして、当時ホテル従業員の20代男性を動物愛護法違反と器物損壊の罪で略式起訴し、その後、男性は罰金70万円の略式命令を受けていたことが関係者への取材で分かりました。

関係者によると、2022年2月初旬、猫の保護活動をしている個人ボランティアが、地域の情報サイト「ジモティー」を通じて子猫の譲渡を希望する男性に出会ったとのこと。まずは譲渡に先立ち子猫との相性を見るトライアルを行うため、男性に子猫2匹を引き渡したところその直後に事件が起きました。子猫は兄弟で、命を落としたのがチャムくん大けがをしたのがヨリくん当時2匹は生後約3カ月でした。当時のことをボランティアはこう振り返ります。

「2月3日、妹と2人で環境調査のために里親候補の男性に会ったんです。脱走防止の対策や先住の子猫を見て、また同居する人がいると申告があったり…最終的に優しそうな人物だと判断。保護猫2匹をトライアルで引き渡しました。いつもは最初、私の自宅に来てもらいますが、彼は東京から仕事のために転入したばかりで車がないということでした。私の家まで来てもらうようお願いしにくかったため、私の方から出向きました。

トライアル期間中はLINEなどで状況報告をするようお願いしたのですが…その日夕方になっても連絡がなかったので、不安になりジモティーサイトに連絡したり、本人にも電話して、ようやく翌日の昼過ぎに連絡が取れたんです。男性は、夜連絡できなかったことに『猫が怖がっていて、おもらしをしてお尻を洗っていた』と答え、写真を送ってきたんです。そこに写っていたのは血が付いたチャムの姿…これは危険な状況だと思い、すぐにトライアルを終わらせてチャムたちを返してもらおうと夫とともに男性の自宅へ向かいました」
チャムくん
❖兄弟の子猫2匹を男性に引き渡した 翌日自宅に向かうと血を流した子猫の姿が…
 男性の自宅に到着したところ、室内にはキャリーの中に横たわり、お尻から血を流していたというチャムくん。そこにはヨリくんも一緒にいました。「返さない」と言われないよう、とりあえず男性を責めるようなことは一切言わず。ボランティアは「おもらしなどをして大変ご迷惑をお掛けしました。申し訳ございません」と謝罪の言葉を口にしながら、チャムくんたちをキャリーごと受け取り、急いで車中で状態を確認しながら帰宅。移動中、ぐったりするチャムくんの体をヨリくんが一生懸命なめていたそうです。

「連れ帰った日は既に夜だったので病院に連れていけず、翌朝に病院へ行くつもりでした。でも帰宅後、チャムは血を流したままのたうち回り、夜中に息を引き取りました。夜が明けてかかりつけの動物病院に行き、診察そしてレントゲンを撮ってもらったところ、チャムの死因は肺に開いた穴でした。獣医師によると、肺に穴が開くほど殴られたり、壁に叩きつけられたりされた可能性があり虐待が疑われるとのこと。ヨリも片足を粉砕骨折し、手術のため入院することになりました」

翌日、愛護センターと、虐待が疑われるため動物病院から最寄りの沖縄県警石川署に通報したといいます。

「石川署の担当の方が自宅に来て、チャムの遺体を確認してくれました。虐待が疑われる際の解剖をしてくれるという日本獣医生命科学大学の研究室で検死解剖をしてもらえないかと、署の担当者にお願い。その後遺体を引き取っていただき、大学に送っていただくことができました。結果、1日室内で過ごした中では起こりえないけがの状態で虐待も考えられるというものでした。ただその結果が男性を虐待犯であると決定づける証拠にはならないと言われてショックを受けました」

❖肺に穴が開いて死んだ子猫…ボランティア、動物愛護法違反などで刑事告訴
 悔やんでも悔やんでもチャムくんは戻らない。泣いても何にもならない。ボランティアは、とにかく犯人を法で罰してもらうことを目標に行動を起こしたと言います。

「トライアルに出した私が、殺したも同然です。私の譲渡のあり方や人を判断する基準が責められるのは当然だし、覚悟の上です。だからといって男性のしたことが許されるはずもありません。私は被害届を石川署に出し絶対に受理してもらい、犯人逮捕まで持ち込みたいと決意しました。何度も警察に足を運び、調書を取ってもらったりして最終的には動物愛護法違反と器物損壊で4月に告訴を受理してもらえたんです。

また私の猫以外にもジモティーを通じて被害にあった方が数人いるとの情報を得て、その方たちに連絡を取り、石川署に情報提供をしたりしました。他にもアパートがペット可であるとの虚偽の申し出をしていたことや同居人がいなかったことも判明。被害の拡大を抑えるため、本人の親の連絡先を調べたりと、自分自身でもいろいろ動いたんです」

❖1年経過した今年5月に男性を書類送検 9月に罰金刑が出された
 とはいえ、事件が起きてから数カ月後の6月、体調を崩してしまい3週間入院したというボランティア。退院後、再び石川署へ足を運びました。

「その間に、本人から虐待だったかもしれないという自白を得たとのことで、詳細を聞くため急いで警察に出向きました。男性は『チャムを殴った。自分の手が赤く腫れるくらい強く殴った。ヨリくんを足が折れるほど強く壁に叩きつけた』という自白があったということを聞いたんです。それを耳にした途端、怒りに体が震え、絶対に許さないとあらためて思いました。また男性の親から『息子は若く、前科がつくのは忍びないので、それで和解してもらえないか』などと何度も示談の申し出がありましたが、許すつもりはないと伝えました」

そして事件が起きてから1年を経過した今年5月25日、石川署は動物愛護法違反と器物損壊の容疑で男性を那覇地検沖縄支部に書類送検。9月、男性は罰金70万円の略式命令を受けました。今回の罰金刑について、ボランティアはこう訴えます。

彼には前科がつきます。また私はSNSでこの事件について投稿し、拡散しました。動物を虐待したら、社会的にも痛い目にあうということを知らしめて、少しでも虐待の歯止めにしたいと思ったからです。この1年半を振り返ると、涙が出てひどいときは嘔吐しそうになります。あんな場所に置いてきた自分、あんな人物を信用してしまった自分の愚かさに腹が立ちます。人を信用し、かわいがられてきた猫たちが、叩きつけられた時の驚きや絶望感を想像してしまいます。チャムはどんな思いで息を引き取ったのか…自分が許せないと今でも思っています。自戒の意を込めて二度とこんな悲惨な事件が起きないことを祈ります」

❖サイトなどを通じた動物の譲渡で気を付けることとは?
 譲渡の際に気を付けることについて、これからサイトなどを通じて動物の譲渡などをご検討されている方にも読んでいただければ幸いです。

 ▽独身者への譲渡(結婚していると虚偽の申請の可能性もあるので、必ず譲渡の際はご夫婦揃って同席してもらえるようお願いする)。
 ▽譲渡契約書を必ず書いてもらう。
 ▽譲渡後、本人と動物との写真を撮ってもらうなど連絡報告を長期にわたり依頼。
 ▽ペット可のアパートやマンションかどうか確認を行うため、譲渡予定先に事前に足を運ぶ。
 ▽物腰が柔らかく、動物好きだと装っている人もいる。例えば、「親族に動物病院関係者がいる」「トイレを準備している」「ペットタワーもこれから買う」などと信用させるようなことを言う人には要注意。

インターネットによる動物の譲渡は、お互いのモラルや信頼関係によるところが大きいです。“命”を粗末に扱うような取引が行われないよう切に願います。

またしても悲惨な動物虐待事件がおきました。

自分よりも力が劣っている、弱い、小さい相手に対して非常に卑劣な事件だと思います。

ボランティアの方が1度や2度の対面による面接時間で、犯人の裏の顔、真の顔を見抜くのは、まず不可能ではないかと思いますので、ボランティアの方も非常にそんな人物に譲渡してしまったことを大変後悔して、犯人を何とか犯人に処罰を受けさせたい思いで警察に働きかけましたが、最終的には動物愛護法違反で70万円の罰金支払いの略式命令でした。

「動物愛護法」は、近年、悪質な動物の虐待等に関する事件が後を絶たない状況等を踏まえ、愛護動物のみだりな殺傷、虐待・遺棄についての罰則が強化されました。

令和2年6月1日から改正「動物の愛護及び管理に関する法律」が施行されたのです。罰則としては、愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、5年以下の懲役又は500万円以下の罰金が科せられます。また、愛護動物を虐待又は遺棄した者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金が科せられます。

そして、「略式手続」とは、通常の公開裁判によらず、書面の審理のみで罰金・過料を言い渡す特別な裁判手続です。略式手続が採用されるための要件は、刑事訴訟法第461条・第461条の2に規定されています。
 ・簡易裁判所の管轄に属する事件であること
 ・100万円以下の罰金または科料を科す事件であること
 ・被疑者が略式手続による審判に書面で同意していること

略式命令によって下される刑罰は「100万円以下の罰金または科料」に限られます。懲役・禁錮・拘留といった行動の自由を奪う刑罰が科せられることはありません。

略式手続に応じて略式命令として言い渡された罰金・科料を支払えば、直ちに身柄が解放されます。正式な公判手続が取られた場合は、起訴後も被告人として勾留を受けることになり、保釈が認められない限りは判決が下されるまで釈放されません。

ただし、たとえ罰金・科料であっても刑罰を受けた経歴がつくため、前科がついた状態になることは避けられません。

動物愛護法では、なかなか懲役刑までとはいきません。懲役刑になっても執行猶予がつきます。やはり圧倒的に罰金刑になるのが多いのが現状です。

ただし、前科がつきますので、ボランティアの方は何とか「前科持ち」にするのが精一杯の弔い合戦だったのかもしれません。

本当にこんな事件などは実名報道すればいいと思ってしまいます。

しかし、子供が子供なら親も親です。前科つくような事してるの自分の子供に前科持ちになるのを気にして和解を持ちかけました。

「この親にしてこの子あり」という言葉が相応しいですね。

気になるのが、最初は猫や犬などの小動物の虐待から始まり、エスカレートして子供達や弱い人達に危害加えるようになるのが、心配ですね。

十分にシリアルキラー、サイコパスの素質を備えております。

ボランティアの方は苦しい最後看取ってるから余計辛いと思います。せっかく助けた命なのに悔やんでいると思いますが、動物を助けるボランティアそのものの活動をやめないでほしいですね。

◆沖縄県那覇市 〜猫の変死と警察の対応〜許せない動物虐待とありえない警察官
 拡散希望だそうです。貼っておきます。





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万博建設費増額、甘かった協会の見通し 各方面から批判噴出(2023年10月20日)

大阪・関西万博(基本構想)
 大阪・関西万博の会場建設費が、これまでの1850億円から500億円増の最大2350億円となることが20日、正式に報告された。日本国際博覧会協会は資材費や人件費の高騰を増額の理由とするが、これらへの懸念は昨年時点で経済界などから指摘されていた。ぎりぎりまで増額の判断をしなかった協会の見通しの甘さに、各方面から批判が噴出している。

「1850億円の範囲内で建設を行うミッションを与えられ努力してきたが、不十分ということで苦渋の決断をして(増額を)お願いしている」。建設費増額の報告後に大阪市内で記者会見した協会の石毛博行事務総長はこう釈明した。

建設費は政府、大阪府市、経済界の3者が等分負担する。これまで1者あたりの負担は617億円だったが、増額により単純計算で160億円超の追加負担が発生する。

増額の報告を受けた大阪府の吉村洋文知事は「説明は不十分だ。協会に改めて質問し、回答を踏まえて判断したい」と厳しい表情で語った。

建設費が令和2年12月に1250億円から1850億円に引き上げられた際、井上信治万博担当相(当時)は「新型コロナウイルス禍で負担を強いられている中だが、国民が盛り上がる万博にするのがわれわれの責任」と言及。吉村氏は「コストを上げるのはこれが最後だ」と述べていた。

その後、ロシアによるウクライナ侵攻の影響などで資材や燃料価格の高騰が続き、予算は逼迫(ひっぱく)。経済界で寄付集めの旗振り役を務めてきた関西経済連合会の松本正義会長は昨年11月の会見で「以前から(1850億円で)足りるのかと何度も言ってきた」とした上で、建設費の上振れを容認する考えを示した。

それにもかかわらず、協会は「ただちに見直し議論が必要な状況ではない」などと従来の主張を崩さなかった。その根拠として、協会は最初に増額した際に物価上昇分を織り込んでいることなどを挙げていた。

実は協会内でも、想定を上回る物価上昇などで「増額は避けられない」との意見も出ていたが、予算膨張の批判を避けたいトップの判断が遅れた。石毛氏は20日の会見で「昨年段階で(増額を)お願いするという認識はなかった」とした。

松本氏は産経新聞の取材に対し、「協会は土壇場で(1850億円では)できないと言ってきた。負担する国民に対する説明が不足しているし、不誠実な態度だ」と批判した。
大阪・関西万博(工事中)

2025年日本国際博覧会(略称「大阪・関西万博」)が、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに、2025年4月13日 から10月13日までの183日間、大阪市の人工島「夢洲」で開催されます。

その会場となる大阪市の人工島「夢洲」ですが、建設費が当初の1,850億円から500億円増えて最大2,350億円となることが20日に正式報告されたそうです。

毎度の事ですが、五輪にしても万博にしても事前からこうなるとは皆が思っています。

そして近年の五輪や万博は開催自体に反対する人が多いです。過去のようには経済効果は期待できないことを分かっていることに税金を投入するならば、少子化や高齢化など難題への税金投入してほしいですし、給料も増えないので、減税してほしいというのが、国民の願いなのではないでしょうか。

五輪も万博も国民の了承など取らずして、ほぼ決定事項になっているのが、どうも気になります。
五輪や万博など、多額の税金を投入する祭典は国民投票で決めるよう法律を改正してほしいところです。

大阪・関西万博の会場となる大阪市の人工島「夢洲」ですが、物理的な悪条件が重なっています。

夢洲は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンがあることで有名な此花区(このはなく)の埋め立て地です。 広さは約390ヘクタールで、そのうち約170ヘクタールが万博・IR の開発対象となっています。

夢洲の土は、海や川の底を掘り起こしたいわゆる浚渫土(しゅんせつど)なので地盤がとても軟弱です。建物を建てると地盤沈下や液状化現象が発生してしまうで、そのままでは建物が建てられないため、大規模な地盤改良がおこなわれています。

また、1970年からゴミ処理場として焼却物や建設残土で埋めたれられたこの土地は、土壌汚染の問題が指摘されています。

そして、建設費を押し上げているひとつの理由として挙げられているのが、開催地・夢洲へのアクセスの悪さです。実際に地図を見ると一目瞭然ですが、夢洲へアクセスできる陸路は「夢咲トンネル」と「夢舞大橋」の2つしかありません。

建設資材を運ぶトラックなどのルートも限られます。多くの海外パビリオン担当者はこの交通事情を理解しておらず、通常の万博と同じペースでの発注を想定しているとのこと。多くの建設会社は建設が間に合わない「責任問題」を押し付けられることを恐れ、海外パビリオンの工事に関わらないように立ち回っています。

こうして建設が遅れて人件費が上振れしています。2024年問題(※)もありますので、このままではすまないでしょう。

※物流・運送業界の「2024年問題」とは、働き方改革法案によりドライバーの労働時間に上限が課されることで生じる問題の総称のことです。 具体的には、ドライバーの時間外労働時間が年間960時間に制限されることで、一人当たりの走行距離が短くなり、長距離でモノが運べなくなると懸念されています。
2023年大阪万博
それでも、2023年10月12日に札幌市と日本オリンピック委員会(JOC)は11日、2030年冬季五輪・パラリンピック招致の断念をやっと表明した次第です。。

2014年から招致を続けてますが、東京大会汚職でオリパラのイメージが悪化した結果、当然ですが市民の支持率は高まりません。2034年以降の招致の可能性を探るといいますが「超高齢化社会」に突入していく札幌で開催する「大義」はどこにあるんでしょうか?

それでも、五輪、万博、W杯を誘致して利権に群がりたいハイエナのような連中が虎視眈々とタイミングを伺っているのです。

利権にまみれた過去の祭典や大会を振り返ってみましょう。意外にも黒字である祭典や大会が多いです。ただし、その後のレガシー(遺産)の維持管理では、ほぼ赤字垂れ流しになります。

東京五輪(2020年が1年伸びて2021年)・・・赤字2兆円超え

東京五輪
コロナ禍に行われた東京五輪です。いわくつきの五輪となりましたね。

最初は2015年に日本中が大騒動となった「五輪エンブレム(ロゴマーク)問題」です。

最初に発表されたエンブレムが「盗作疑惑」にさらされ撤回されたことで、公募されたイラストの中から大会組織委員会が選出した3つの作品を最終候補作品として発表し、これを全国1万6,769校の小学生の投票にて決定となりました。もう、どんなエンブレムかも忘れてしまいました。

東京五輪の主会場、国立競技場の建て替えには紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。

整備主体の日本スポーツ振興センター(JSC)は2012年11月、ザハ・ハディド氏のデザインを最優秀賞に決定しました。8万人収容で、完成予定は19年3月、総工費は1300億円程度とされていました。

しかしながら設計段階で工費が約3500億円まで膨らみ、政府は計画を縮小として。2015年7月、工費2520億円とする計画を決定しましたが批判が収まらず、安倍晋三首相が2015年7月、白紙撤回を表明した。

そして、大成建設・梓設計・建築家の隈研吾氏で構成するチームにより、新しい国立競技場は2019年11月に完成しました。ただし、旧計画ではこけら落としになるはずだったラグビーワールドカップ(W杯)には間に合わいませんでした。コンセプトは木をふんだんに使った「杜(もり)のスタジアム」であり、約6万の観客席は5色でモザイク状に彩られました。そして周辺を含めた整備費は1569億円でした。

白紙撤回を巡り、ザハ・ハディド氏の事務所に約14億円払ったと発表しました。

JSC(日本スポーツ振興センター)によりますと、白紙撤回となった当初の新国立競技場にかかった費用は約68億6000万円でした。このうち、デザインしたザハ氏の事務所に支払ったのは、デザインの作成にかかった費用や人件費などを合わせて約13億9000万円でした。違約金などは発生しませんでした。

そして、2019年11月、東京五輪のマラソン・競歩の開催地が札幌に変更されることが正式に決まりました。

これは2019年9月にドーハで行われた女子マラソンは暑さを避けて真夜中にスタート時間を設定したものの、高い気温と湿度で参加者の40%が途中リタイヤと、異常事態が発生しました。それが影響したのか、突然の開催地変更が翌10月に公表されたのです。

IOCによる急な決定は開催地の都知事ですらかやの外でした。そして札幌市長がマラソン・競歩開催に関し「光栄です」と発言したことで一部の都民から反感を買い、札幌市にはのべ200件を超える抗議が殺到したと伝えられています。

もう一つの都市で五輪の大会運営をするのは限界がありますので、東京五輪とかではなく、日本五輪とかにすればいいのにと思います。

そして、東京五輪・パラリンピックについて、会計検査院は2022年12月21日、大会経費は計約1兆7千億円に上るとする検査結果を国会に報告されました。 大会組織委員会(解散)の最終報告で公表された経費は約1兆4千億円でしたが、検査院は国の負担した「直接経費」が約2800億円多かったと結論づけました。

また、会計検査院は大会経費の調査報告を発表しました。道路整備など関連経費も加えた総額は3兆6845億円に上った。立候補時に見積もった7340億円に比べ、5倍の費用がかかった計算だ。

予算なんてあってないようなものですね。

オリンピックの平均費用はいくらかといいますと、英オックスフォード大の研究では、1960年から2016年までの夏季五輪の平均開催費用(パラリンピック含まず)は60億ドル(約6600億円)で、年々増加傾向にあるとしています。

東京五輪で使われた税金は、東京都と国の「大会経費」 と「関連経費」の合計額は、都が1兆4千519億円、国が1兆3千59億円でした。この金額は都と国の一般会計から支出されており、財源はいずれも税金になります。いやー凄い金額ですね。

組織委員会の算定には甘さがあったと言わざるを得ませんね。

無駄遣いも目に余る。選手村の料理が175トン、大会関係者用の弁当が30万食分も廃棄され、感染対策のマスクやガウンなど医療用品も大量に処分されていたそうです。これは氷山の一角と言われています。

大会関連事業も経費全体を膨張させました。検査院によると、14府省などの329事業で1兆3002億円の国費が投じられた。テロ情報の収集や道路の暑熱対策、競技会場周辺のバリアフリー化など数々の事業が実施されたためです。

2034年以降に冬季大会の開催に札幌市が名乗りを上げています。市は改めて住民に賛否の意向を調査する方針ですが、東京五輪の徹底した検証がなければ、招致に理解は得られないでしょう。

組織委員会の収支では、新型コロナウイルスの影響で多くの会場で無観客での開催となり、900億円を見込んでいたチケット収入がほどんど得られなかったことなどから、収入が2020年12月時点に公表した7210億円を806億円下回って6404億円だったそうです。

東京五輪・パラリンピック組織委員会、および東京都、国の赤字の総額は約2兆3713億円になる試算も出ています。

❖五輪の費用比較
 ・東京夏季五輪(2021年、280億ドル/約3兆1000億円)
 ・平昌冬季五輪(2018年、129億ドル/約1兆4000億円)
 ・リオデジャネイロ夏季五輪(2016年、137億ドル/約1兆5000億円)
 ・ソチ冬季五輪(2014年、219億ドル/約2兆4000億円)
 ・ロンドン夏季五輪(2012年、150億ドル/約1兆6500億円)
 ・バンクーバー冬季五輪(2010年、25億ドル/約2800億円)
 ・北京夏季五輪(2008年、68億ドル/約7500億円)
 ・トリノ冬季五輪(2006年、44億ドル/約4900億円)
 ・アテネ夏季五輪(2004年、29億ドル/約3200億円)
 ・ソルトレークシティ冬季五輪(2002年、25億ドル/約2800億円)
 ・シドニー夏季五輪(2000年、50億ドル/約5500億円)
 ・長野冬季五輪(1998年、22億ドル/約2400億円)
 ・アトランタ夏季五輪(1996年、42億ドル/約4650億円)
 ・リレハンメル冬季五輪(1994年、22億ドル/約2400億円)
 ・バルセロナ夏季五輪(1992年、97億ドル/約1兆1000億円)

日韓ワールドカップ(2002年)・・・共催も60億円黒字

日韓W杯
2002年日韓ワールドカップ(W杯)は、サッカー関係者やファンには、悲願の招致となった大会です。
フランスワードカップでは、日本は初出場を果たしたものの、グループステージでは3連敗でした。

特にW杯開催国はグループステージ敗退なしという神話(その後、2010年の南アフリカ、2022年のカタールはグループステージ敗退)があり、開催国がグループステージで敗退するのは不名誉な記録であり、当時の弱小アジアの開催では、日本がグループステージ敗退の可能性があり、危ぶまれていました。

しかしながら、開催国として日本はグループステージを突破しました。ノックアウトステージのラウンド16でトルコに負けてしまいましたが、開催国の責任は果たしたと思います。

日韓ワールドカップは、開催されるまでの紆余曲折を覚えている人も多いのではないでしょうか。

開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定でした。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派と欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始めます。

そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進し、次第に日韓共催案が現実味を帯び始めます。

しかし直前になって欧州理事たちが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派となりました。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から趨勢を悟ったアヴェランジェ会長は定例理事会で日韓両国による共同開催案を自ら提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じたのです。

結局、投票を待たずして1996年5月30日FIFA理事会は「ワールドカップは単独開催」という規則を無視し、FIFA事務局長のジョセフ・ゼップ・ブラッターの名でホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し日韓共催を打診する文書を送り、欧州アフリカ理事らの動向を掴めなかった日本は想定外となる共同開催決定に苦渋の決断で受け入れを表明したのです。

日本ではグループステージ、ノックアウトステージで使用される15の競技場を新設及び一部は改修する費用だけで、4500億円が投資されました。 これに交通基盤整備や競技場周辺のインフラ整備などを加えると総投資額は約9000億円となりました。

大会後、日本は2002年日ワールドカップ(W杯)サッカーの開催で132億8300万円(1億1070万ドル)の収益を挙げたことが明らかになりました。

そして日本ワールドカップ(W杯)組織委員会(JAWOC)が日韓ワールドカップサッカーで60億円以上の黒字を記録する見通しだと報じられました。

ラグビーワールドカップ(2019年)・・・W杯史上最高の68億円黒字

ラグビー2019W杯
日本でラグビーワールドカップ(W杯)が行われました。2019年9月20日から11月2日に開催されました。第9回ラグビーワールドカップでアジア初、またティア1以外の国における初の開催でした。

日本、今まで決勝トーナメントに進出したことがありませんでしたが、地の利を生かして、プールステージを4勝0敗で突破しました。決勝トーナメントでは南アフリカ共和国に敗れてしまいましたが、開催国の責任は果たしたと言えるでしょう。

このワールドカップ費用は、全体としては約420億円で、内訳、大会運営費全体で約180億円、大会開催のための会場改修費用が約100億円、そして、何よりも大きな負担となったのが、大会主催者であるワールドラグビー(WR)への負担金の支払いでした。その額、約130億円(9,600万ポンド)でした。

そして、大成功を収めたラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会が新たな「史上最高」を記録しました。大会組織委員会が2020年3月10日に発表した実質的な黒字は68億円程度と、W杯史上最高額になったとみられる

過去のW杯で開催国に入った剰余金をみると、2015年のイングランド大会で2600万ポンド(約34億円)でしたので、その2倍に達したのです。

黒字の立役者は、もちろん史上初のベスト8進出を果たした我らがジャパンでした。ジャパンの5試合の総入場者数は24万9750人。チケットは全て完売でした。

それだけではありません。大会を通じたチケット完売率は過去最高の99%。チケット収入は389億円を記録し、これが牽引役となって68億円の黒字を計上しました。

大阪万博(1970年)・・・日本初の万博で大成功の198億円黒字

1970年大阪万博
2025年の大阪・関西万博は「2匹目のどじょう」を狙っているといってもいいです。

1970年、183日間で6421万人以上が訪れた日本万国博覧会の入場者数は2010年の上海万博に抜かれるまで、万博史上の最高記録を保持しました。

日本にとって国際博覧会の開催は悲願でした。明治期に構想は2度あったが実現せず、1940年開催予定の「紀元2600年記念日本万国博覧会」は前売券まで販売されたものの、日中戦争により延期という名の中止に追い込まれました。

終戦後、高度経済成長を遂げていた日本は、甲子園球場83個分に及ぶ約330ヘクタールの会場で、「戦後復興の総仕上げ」に挑んだのです。

当初、客足は鈍く、開幕日には53万人の入場者が予測されたが、27万4124人に留まり、その週は1日20万人に届かない日々が続きました。しかし、徐々に口コミで面白さが伝わっていったのです。高度経済成長期中の日本の万博には「未来の日本」を写し出していたのです。

国内外のパビリオン数は計116でした。電気通信館には携帯電話やテレビ電話が並び、人々はその目新しさの虜になりました。アメリカ館は空気膜構造を応用し、柱のないエアドームを作りました。この工法は、後の東京ドームなどに取り入れられています。

動く歩道やモノレール、10分200円で乗れる電気自動車などの移動手段も物珍しく、パビリオンが見せる近未来像とともに会場は新しいものに溢れました。そして77か国が参加する万博は「世界の祭り」でもありました。リオのカーニバルなどの催しや、各パビリオンのレストランで供される異国の料理も人々を魅了しました。

閉幕直前の9月5日には最多の83万5832人を動員。総入場者数は6421万を超え、当時の万博史上最多を記録したのです。

そして877億円という莫大な予算を掛けて赤字を危惧されましたが、最終的には192億円もの黒字を生み出しました。後世に語り継がれる大成功を収め、「太陽の塔」の岡本太郎、「カプセル建築」の黒川紀章、服飾デザイナーのコシノジュンコなどの芸術家は国際的にもその名を轟かせました。

愛知万博(2005年)・・・開催決定後のに会場変更もあったが130億円黒字
愛知県長久手町(現在は市)を主会場に、2005年に開かれた愛知万博(愛・地球博)。開催決定後の会場変更といった曲折を経て、会期中は2200万人の来場者でにぎわいました。多くの県民の記憶に残り、収支も黒字を確保しました。

愛知万博開催が決まったのは1997年。主会場に想定した瀬戸市の「海上(かいしょ)の森」には貴重な動植物が生息し、決定前から市民団体などの反対運動が続きました。

1999年5月、県は絶滅の恐れがあるオオタカの営巣を確認する。「衝撃的なことだった」。当時の愛知県知事、神田真秋・愛知芸術文化センター総長(67)は振り返っています。

2000年1月には、博覧会国際事務局(BIE)が跡地を研究施設や宅地に利用する計画に懸念を示していたことが判明しました。見直しを迫られ、県は「検討会議」を何度も開催しましたが、瀬戸市の会場を縮小し、長久手の愛知青少年公園を主会場にして開幕に間に合わせました。

愛知万博の会場建設費は、会場内で催しを開く催事場や緑地や道路、それに会場のシンボルとなる「大屋根」の建設などに使われました。 当初の計画では1,250億円でしたが、2020年、来場者の暑さ対策や「大屋根」の設計変更などを理由に600億円増やして1,850億円に引き上げられました。

結局、目標の1500万人を大幅に上回る2204万9544人が足を運びました。地元の数多くのリピーターが支え、約130億円の剰余金(黒字)をもたらしたのです。

長野五輪(1998年)・・・大成功の45億円黒字

長野五輪
20世紀最後の冬季五輪。1972年札幌オリンピック以来となる冬季五輪に、日本中はもちろん、地元である長野は大きな熱狂に包まれました。

20世紀最後の冬季オリンピックとなった長野オリンピックの開会式は、善光寺の鐘の音で始まりました。世界72の国や地域から2300人を超すアスリートが集まり、日本はスキージャンプの船木和喜さんやスピードスケートの清水宏保さんらが獲得した金メダル5つを含む10個のメダルを獲得しました。

長野は、開催地を獲得すべく、ライバルのソルトレークシティを引き離すため、「全選手団の交通費・宿泊費・食費を全て負担する」と、直前に文章に付けたし、プレゼンテーションしたのである。 結果、僅差でソルトレークシティを振り切り、オリンピック開催地は長野に決定した。

長野五輪の大会運営費の内訳は。映像の制作、競技会場の仮設施設の建設、広報・報道、式典などに使われました。1988年の段階では400億円の予定でしたが、1991年の誘致段階で、760億円、1995年6月の試算では1500億円を超えました。1996年には切りつめて945億円という予算に減額しました。そして1997年3月には1030億円に最終決定されました。このように大会運営費が膨れ上がったのは実施競技数の増加、会場の広域化などのためでした。

日本勢が冬季五輪史上最多の10個のメダルを取った長野五輪は運営面でも大成功でした。スポンサー収入や関連グッズの売り上げが予想以上に伸び、黒字額は45億円を超えました。そのうち40億円強がスポーツ振興のために使い切る方式の基金として積み立てられたのです。

長野五輪点火
昭和世代の私は、これを見てから「日本で祭典や大会はやんない方がいいかも」と思いました。

世界都市博覧会(東京・1994年)中止・・・開催なら800億、中止で600億捨てる

都市博中止
世界都市博覧会(以降、都市博)構想の発端は、1985年(昭和60年)の世界テレポート連合創立総会にて東京都知事・鈴木俊一都知事が「東京テレポート構想」を発表したことに始まります。

都市博は事業費3兆9.000億円という巨額を投じた湾岸開発・臨海副都心を内外にアピールする起爆剤として、鈴木俊一都知事が推進していました。

鈴木俊一都知事は、1970年(昭和45年)に開催された日本万国博覧会において事務総長理事を務めた経験がありました。万国博の会場選定において、当初からは首都圏開催を主張しており、最後まで東京にこだわったものの、政府内での「東京はオリンピックをやった、その次は大阪でないとまずい」という流れに押され、結局「首都圏での博覧会開催」という本人の夢は果たせぬまま時は流れていきました。

そんな鈴木俊一都知事も高齢となり、知事在職中に、果たせぬ夢だった「首都圏での博覧会開催」をどうしても実現させたいという強い希望もあり、1988年(昭和63年)2月、東京での万国博覧会開催に意欲を見せると、当時徳川家康江戸入府400年事業を検討していた東京ルネッサンス企画委員会で議論が重ねられ、同年9月の最終報告に(国際博覧会ではないものの)国際的イベントとしての「東京世界都市博覧会(仮称)」開催の提案が盛り込まれることになりました。

1990年4月にまとめられた『東京フロンティア基本計画』は以下のとおりです。

 ・名称:東京フロンティア
 ・開催期間:1994年(平成6年)3月 - 12月(300日間)・・・その後2年延期
 ・主催:財団法人東京フロンティア協会
 ・会場:東京テレポートタウンを中心とした東京臨海副都心全体
 ・目標来場者数:3,000万人

改めて世界都市博覧会として再浮上したのは、1993年に泉真也氏や木村尚三郎氏などが総合プロジューサーに就任したころからです。その間、パブルの崩壊、臨海開発と併せて都市博の見直しも行われ、鈴木俊一都都知事も計画の縮小、2年延期など開催に向けて執念を燃やしました。

ところが1995年の都知事選に勝利した無党派の青島幸男都知事が、都市博中止を公約の一つとして当選、政策の継続性を重視されてきた都政を打破して公約に応えようと、悩み、迷い抜いた末、最終決断を迫られた5月31日、遂に中止と発表しました。

「青島は約束を守る男か、守れない男か、信義の問題だ」と、就任早々、大見得を切って登場した青島幸男都知事、それが1995年4月11日には「中止したほうがいいという姿勢は変わっていないが、断固中止というまで意固地ではない。規模を3割縮小したほうが財政負担が軽いということになれば、やってもよい」とやや軟化したと思うと、その3日後にはまた「このまま進めても都民の利益は一つもない」として、規模を縮小しての開催でなく、あくまで中止する考えを示しました。

それに対してマスコミは、都市博の開催、中止には賛否両論でした。1995年5月18日の東京都議会では異例の記名投票が行われ、賛成100、反対は23という結果、またまた青島都知事の決断を鈍らせました。

1995年5月末になって開催まで10カ月と近づく。当初25の企業グループが参加予定していたが、東京はイベントの競合も厳しく、パブルの崩壊、地域活性化のイベントも見直しの時期として、12の企業グループに半減しました。それでも出展企業の多くは総事業費20~30億円を投資して、1日も早く決定してほしいと、苛立ちを募らせました。そして悩み迷い抜いた青島都知事は1995年5月31日、遂に中止の決断を下しました。公約を果たしたとはいえ、青島幸男都知事の都政運営(※)には暗雲がたちこめていました。

※都知事としての青島は、都市博中止以外には特に目立った施策はなく、他の公約を守ることもないまま官僚・役人任せの行政に終始する。このため、徐々に青島に対する批判は高まった。もっとも、オール野党であったために独自色を出すことができなかったという見方もある。1期務めた1999年、任期満了で都知事の職を退任した。この時、2期目に立候補をするかどうか直前まで決めておらず、態度表明の記者会見の直前でも都政担当記者はおろか、ナンバー2である副知事でさえも退任するかどうかを知らなかった。

1996年4月22日、東京都から最終財政影響額が発表された。これによれば、青島幸男都知事に事務局側が「中止した場合、東京都に982億円(誤差は50億円)程度の損失が出る」と伝えていたのに対し、実際の損失額は610億円にとどまった。開催されていた場合に予定されていた支出である約830億円よりも220億円も下回ったこととなる。

従って、都市博を開催していれば830億円で済みましたが、開催中止にしたことにより600億円を捨てたことになります。これをどう捉えるかです。



※最後に
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2023年(令和5年)4月29日に近所に公園がオープンしました。BBQ施設、カフェテリア、そして子供が遊ぶ公園に野球場といろいろな施設ができましたが、そこに『調整池』も作られました。

『調整池』とは開発に伴って失われた保水機能を補うため、雨水を一時的に貯めて河川への雨水の流出量を調節することにより洪水被害の発生を防止する施設であり、河川管理者及び下水道管理者以外の者が設置するものです。『調整池』に貯められた雨水は調整されながら河川に徐々に流れる為、河川へ流出する水量を調整できる仕組みです。
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『調整池』とはいっても、周辺には水草を植えており、季節によりますが、トンボや燕が飛んでいたりします。そして周辺にベンチが置いてあり、のんびりと池を眺めて休むことができます。

そんな皆の憩いの場である『調整池』ですが、実はあることを危惧していました。そもそも、この『調整池』は、何と「沼」を埋め立てて造られたのですが、その「沼」は外来種の宝庫でした。アメリカザリガニ、カダヤシ、ミシシッピアカミミガメ、ウシガエル、ブルーギルと、特定外来種と呼ばれる生き物たちの宝庫だったのです。

在来種は、僅かにヌマエビやモツゴやクチボソが何とか生き抜いていた、そんな沼でした。

この「沼」には誰かが放流して、そのような状態になったとしか思えません。特にアメリカザリガニは豊富にいますので、休日などは親子ずれで釣りをしている姿をみかけたことがあります。

その後は、立ち入り禁止、釣り禁止になりました。

そんな外来種の「沼」を埋め立てて、『調整池』を作ったのですから、外来種の放流の危惧はありましたし、ウエシガエルは近くに「沼」があるので、そこから移動してくるのではと思っておりました。

そして、8月に『調整池』を見ますと、金魚が放流されていたのです。
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この金魚たちは、エサがないので、あっという間に植えた水草を食べつくします。また、せっかくトンボが産卵してヤゴが生まれても、そのヤゴを食べてしまいます。そして動きがダイナミックなので、池の泥を巻き上げて、常に水が濁った状態になるでしょう。

その後は、どうなったのでしょうか。

久しぶりに『調整池』に見に行きました。

ここ最近はようやく涼しくなりましたので『調整池』は秋の装いとなっておりました。『調整池』には、金魚やカメの放流禁止の看板があちらこちらに貼られておりました。
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『調整池』の周囲に植えられたガマが穂をつけておりました。ガマは6月~10月にきりたんぽやソーセージ、フランクフルトに似た茶色の花を咲かせます。
そして、成熟したガマの穂は、綿毛をつけた小さなタネがぎっしりと詰まっており、触るなど刺激があると一気に飛びだしてきます。 

ガマの一本の穂には約35万個の種子が入っているといわれてます。ガマの穂は小さな雌花が集まってできているのです。
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アキアカネでしょうか。結構、飛んでおりました。『調整池』が丁度良い産卵場になるんでしょうね。他にも、シオカラトンボや、ギンヤンマも見ることができました。この辺りで水草もあり、大きな池となると、この『調整池』ぐらいですので、トンボにとって楽園なのではないでしょうか。
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『調整池』をぐるっと見渡しますと、あいかわらず金魚が泳いでおります。8月に見た時よりも体長が大きくなっており、小さなコイぐらいな感じになっております。天敵がいないので、食べ放題であり、大きな『調整池』ですので、大きくなる環境は揃っております。このままですと、繁殖して増えていきますね。

そして『次がきた!』と思いました。遠目で完全に確認できないんですが、カダヤシの登場です。

カダヤシは、北米原産の外来種です。

体長は雌5cm雄3cm前後とメダカを一回り大きく、その名の通り蚊の幼虫であるボウフラを駆除するために日本に持ち込まれました。しかし、その適応力と繁殖力の高さから、現在では東北から沖縄まで分布を広げています。

北アメリカ原産で冬の低水温にも耐えることが可能で、汚濁にも比較的強く、また特別な産卵場所を必要としないので、都市近郊の水田や用水路、池沼などに定着し、近年の都市化に伴ってさらに分布を拡大すしています。

河川や水路などでは、小さな水生昆虫や魚の稚魚を食べてしまいます。特に同じ生息環境に住む魚、なかでもメダカと競合してしまうことから、問題視される存在です。

そして、カダヤシがメダカに置き換わっており、攻撃性の強いカダヤシがメダカの卵や仔魚を捕食したりするなどして駆逐しています。

カダヤシの問題は日本だけではなく世界的にも確認されていて、その影響の大きさから「世界の侵略的外来種ワースト100」にも選定されています。
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誰かが放流したと思われます。カダヤシはすでに繁殖しており、大量の稚魚が親魚と一緒に泳いでおりました。

カダヤシの産卵期は4月~10月です。カダヤシは卵を産まず、雌の腹の中でふ化した稚魚が生まれるという卵胎生の魚です。

繁殖方法としては交尾により体内受精し、直接仔魚を産みます。卵胎生ですので水草などの特別な産卵場所を必要としません。1回に数十匹の子魚を産み、およそ月1回のペースで産み続けます。

これから、カダヤシは爆発的に増えてくると思います。カダヤシは金魚のように捕まりやすい大きさと色ではありませんので、一回侵入を許したら最後、完全駆除することはできません。

今は金魚とカダヤシしかおりませんが、今後も外来種の無断放流があると思います。

❖調整池に侵入した生き物と、これから侵入するであとう生き物(予測)

●金魚・・・侵入
●コイ・・・未侵入
●カダヤシ・・・侵入
●アメリカザリガニ・・・未侵入(いずれ無断放流と予測)
●ミシシッピアカミミガメ・・・未侵入(いずれ無断放流と予測)
●コグチバス、オオグチバス・・・未侵入
●ウシガエル・・・未侵入(いずれ近くの沼から移動してくると予測)
●ブルーギル・・・未侵入

非常に残念な限りです。この辺りには一部に民度の低い人間が棲んでいるのです。



※最後に
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◆ドキュメント
作成日付:2023/10/12
更新日付:2023/10/28

◆はじめに

未解決事件とは、容疑者が検挙、または判明・発覚などが一切できていない刑事事件のことです。

捜査または捜索等が行き詰まった場合、または公訴時効が成立して未解決となった事件は、完全犯罪が成立することを意味し、また「迷宮入り」とも言われます。なお英語では通称コールド・ケースとも言われています。

長期間に逃走した犯人が逮捕された後に身柄が判っているものも原則、「犯人がわかっている未解決事件」として表現される場合もあります。

警察庁はこの他、令和改元(2019年5月1日)以降にも、未解決の殺人・(児童の)失踪・窃盗などの事件が多く相次いで発生していることから、長期捜査中も含めた該当する未解決事件の謝礼金及び懸賞金または報奨金等を用意して、事件の解決、または解明に向けての有力な情報に提供を呼び掛けています。
 
未解決事件というと時効という言葉がセットで思い浮かびますが、現在では「死刑に当たる罪」については公訴時効が廃止されたため、時効が成立することはありません(これ以外は公訴時効の期間があります)。

<目次>






青ゲットの殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1906年(明治39年)に発生した殺人事件である。殺人罪としての時効を過ぎた為に未解決事件の一つとして扱われている。

午前5時頃、青いゲット(毛布)をかぶった35歳くらいの男が問屋を訪ね、番頭の加賀村吉(30歳)に「近所の叔母が病気になったので来てくれ」と言った(当時はもちろん防犯カメラも無かった為、容姿はよく分かっていない)。村吉はこの時大雪であったことなどから男を信用し、付いて行った。

その後、同様の手口で村吉の自宅から母・キク(59歳)を連れ出し、さらにその後、村吉の妻・ツオ(25歳)も連れ出した。男は村吉の次女(2歳)も連れ出そうとしたが、妻が連れ出される前に隣家の女性に留守番と子守りを頼んでおり、男との応対をした女性が次女の連行を拒否。そのため次女は助かった。長女は子守りとして他家に居たため、留守だった。

青ゲットの男に連れ出された3人は、その後いつまでたっても戻らず、調べると新保村の親戚には誰も病人など出ておらず、使いの者を頼んだ事実もないことが分かった。

三国警察署に置かれた捜査本部は、九頭竜川一帯の大掛かりな捜索を行い、村吉家裏手の竹田川に係留してあった小船の船べりに、血痕が付着しているのを発見した。

そして小船から少し下流の川底で妻ツオの遺体が沈んでいるのが見つかった。さらに翌日には母キクの遺体が九頭竜川の河口付近に沈んでいるのが発見され、引き上げられた。

しかし、村吉の遺体はその後の捜索でもついに発見することはできなかった。

捜査本部は男が一家を次々に連れ出して残忍に殺害していることから、村吉に強い恨みを抱いた者の犯行であると推理した。しかし村吉は真面目で酒も飲まず、良く働き、若くして番頭に取り立てられるなど大変評判は良かった。結局村吉を恨んでいる者は見つけることが出来ないまま、捜査は暗礁に乗り上げた。

そのまま捜査は進展することなく、1921年にはついに時効を迎え、迷宮入りとなってしまった。
1906年青ゲットの殺人事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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悪魔の詩訳者殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年7月11日に発生した殺人事件である。2006年7月11日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

1991年(平成3年)7月12日、筑波大学助教授の五十嵐一が同大学筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見された。司法解剖の結果、11日の午後10時頃から12日の午前2時頃までの間に殺害されたものと断定された]。遺体の首には、左に2カ所、右に1カ所の傷があり、いずれも頸動脈を切断するほどの深さで、「イスラム式の殺し方」とされる。また、右側の胸や腹など3カ所に及んだ刺し傷は、一部肝臓にまで達していた。また、現場からO型の血痕(五十嵐の血液型とは一致しないため、犯人のものとされた)や犯人が残したとみられるカンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。

犯人はエレベーターの使用を避け、階段で3階まで降りて非常階段から逃走しており、その後の消息は杳として知れなかった。

五十嵐は、1990年(平成2年)にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語訳している。1989年2月にイランの最高指導者、ルーホッラー・ホメイニーは、同書が反イスラーム的であるとして、ラシュディや発行に関わった者などに対する死刑を宣告するファトワーを発令していたため、事件直後からイラン政府との関係が取り沙汰されていた。

15年後の2006年(平成18年)7月11日、真相が明らかにならないまま殺人罪の公訴時効が成立し、未解決事件となった。外国人犯人説が有力な当事件では、実行犯が国外逃亡したと仮定した場合、公訴時効は成立していないことになるが、茨城県警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を五十嵐の遺族に返還している。
悪魔の詩訳者殺人事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・2006年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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旭川日通事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1981年に北海道旭川市で起きた日通社員が殺害された事件である。

起訴された被告も違法捜査が発覚して求刑をしないまま無罪判決が確定するという異例の展開をたどり、未解決事件となった。

事件は1981年10月31日の朝に日通(日本通運株式会社)旭川支店近文営業所の当直室で被害者Aが殺害されているのが発見されて発覚した。

司法解剖の結果30日~31日にかけて頸動脈などが切断されて出血死したと判明。警察は怨恨と物取りの両面から捜査していたが、物的証拠がなく捜査は難航した。

事件があった年に北海油脂株式会社において、同社社員Bが被害者Aと組んで大豆を横流しして殺害されるまでの三年間の間に約二千八百万円を横領したと社長に報告した後、1981年11月6日に自首した。同社は事件を穏便に済ましたいということもあって司法警察員面前調書を作成して不問となったことがあった。

捜査が難航する中、警察は被害者AとBが大豆横領で仲違いがあったのではないかとみて1982年8月17日に一度は不問にした業務上横領の罪で逮捕した。再逮捕、勾留、勾留延長となりその後に、業務上横領の罪で起訴した。一か月近くの取り調べの末、9月14日に殺人事件を自白。二十四通の自白調書が取られた後、10月7日に殺人罪で起訴された。

裁判の中で自白調書は違法な勾留、逮捕の中で作成されたものだとして証拠能力はないと判断した。これに対して検察は殺人事件の事実関係について意見を述べず、求刑も行わないという異例の展開となった。

1985年3月20日、旭川地裁は、被告人と犯行を結び付ける物証は何一つないこと、アリバイが成立すること、自白調書は別件逮捕での長時間にわたる違法な取り調べによって得られたものだとして無罪判決を下した。検察は控訴せずに無罪判決が確定した。

❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1996年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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足利事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1990年(平成2年)5月12日、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から父親がパチンコをしていたところ当時4歳の女児が行方不明になり、翌13日朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件。

栃木県警察は当初は前述の目撃証言を元にした捜査を行っていたが、わずか数か月(1990年(平成2年)5月 - 12月ぐらいまで)でその方面の捜査を取りやめている。

その後、警察は「独身男性で子供が好き」というプロファイリングに則り、聞き込みなどの地取り捜査方針に切り替える。そして、そのプロファイリングに合致する人物として、菅家利和という人物が捜査線上に浮かび、彼の身辺捜査を開始する。ちなみに、その時点での菅家利和に前科・前歴はなかった。

この警察の採用した「プロファイリング」の捜査手法は、即、犯罪性のある人物像に繋がるわけでもなく、それに合致しただけの菅家利和の単なる生活習慣も、即、不審人物視、不審行動に繋がるわけではない。その上、その情報提供者である住民の証言が菅家利和を明確に不審視する旨の証言だったのかどうかも不明である。また、同じ時期、警察はより確実性の高い前科・前歴から数人の男の行動調査をしている。

1991年(平成3年)12月2日に栃木県警察本部は同市内に住む菅家 利和(すがや としかず、当時45歳)を、猥褻目的誘拐と殺人の容疑で逮捕する。
逮捕の決め手は「女児の下着に付着していた体液のDNA型と菅家のDNA型とが一致した」ことである。しかし、1991年(平成3年)の時点におけるDNA型鑑定の技術では、別人であっても、1000人に1.2人の確率でDNA型も血液型も一致する可能性があった。

警察が任意同行を求めた理由とされる菅家利和のDNAサンプルは、先に菅家利和が指定ゴミ収集場に捨てたゴミ袋より収集した体液の付いたティッシュペーパーから検出したものであった。その時のゴミ収集が菅家利和や市町村役所の環境保全課などのゴミ回収を担当する管轄部署への令状発行、許可などの履行を行った上での活動だったのかは不明。

菅家利和の父親は息子の逮捕後まもなくショックで亡くなった。無実を信じていた母親も釈放の2年前(2007年(平成19年))に亡くなった。逮捕前々日の11月30日に栃木県足利市の実家で一緒に過ごしたのが最後となった。菅家利和は釈放後、「亡くなったと聞かされ、本当に胸が詰まった。事件が、家族も、自分の人生もばらばらにした」と語った。

菅家利和は、刑事裁判で有罪(無期懲役刑)が確定し、服役していたが、遺留物のDNA型が、2009年(平成21年)5月の再鑑定の結果、彼のものと一致しないことが判明し、彼は無実の冤罪被害者だったことが明らかとなった。

服役中だった菅家利和はただちに釈放され、その後の再審で無罪が確定した。菅家利和の無罪が確定するまでの間、長らく日本弁護士連合会が再審を支援していた。また、この事件は真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件でもある。当事件を含めて、足利市内を流れる渡良瀬川周辺で遺体が発見された3事件は足利連続幼女誘拐殺人事件とされている。
足利事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・2009年4月20日公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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厚真猟銃事件(あつまりょうじゅうじけん)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年2月4日に北海道勇払郡厚真町の山林内で、林業作業中の男性(当時45歳)がライフルで撃たれ死亡した事件。犯人と見られる二人組の男は事件後現場から逃走したとみられる。

2021年2月に業務上過失致死傷罪の公訴時効が成立したが、2023年現在は殺人事件として捜査は継続されている。

事件当日、この事件の被害者となった男性を含めた林業会社従業員は、午前7時頃から間伐作業等のため厚真町字桜丘の山林内に入った。

同日午前9時半頃、被害者男性の同僚の男性が銃声を聞いたため「危ない」と叫んだ。その直後、同僚の男性が約200メートル離れた町道上にオレンジ色の上着を着用したハンター風の二人組の男らを発見したが、男らはすぐさま青色のRV車に乗り込み、現場から立ち去った。

約30分後、同僚の男性が数十メートル離れた山の斜面で木材を引き上げるブルドーザー上で倒れている被害者男性を発見し、119番通報したが、被害者男性の左脇腹から右胸にかけてライフルの銃弾が貫通しており、即死だったと見られる。

苫小牧署は、被害者男性の死因をライフル銃の銃弾に当たったものと断定。ハンターの誤射による業務上過失致死事件とみて捜査を開始した。被害者男性の体を貫通したライフル銃の弾頭の捜索に延べ二千人を投入し、付近の土壌をスコップで掘り返しふるいに掛けるなどして捜索したものの見つからず、弾頭の捜索は事件から10ヶ月後の同年11月に打ち切られた。一方、道内外の猟銃所持者約6300人への聞き込みも行なったが、有力な情報は得られなかった。 事件発生から10年、苫小牧署はハンターの誤射の可能性が高いとみて捜査してきたが、業務上過失致死罪の公訴時効が2021年2月4日、成立した。
厚真猟銃事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもの(死刑に当たるものを除く)・2021年公訴時効(10年)・業務上過失
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・公訴時効なし・殺人

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綾瀬母子殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1988年(昭和63年)11月16日、東京都足立区綾瀬で発生した母子強盗殺人事件である。

誤認逮捕され家庭裁判所に送致された3人の被疑者は少年審判で不処分(刑事裁判の無罪に相当)の決定を受けた。

1988年11月16日に東京都足立区綾瀬で母(36歳)と子(7歳)が殺害され金品が強奪された。警視庁は翌年の1989年4月25日に、事件現場である被害者の自宅の近所に在住する(または事件当時に在住していた)A(当時16歳)・B(当時15歳)・C(当時15歳)の3人を被疑者として逮捕した。

誤認逮捕された少年3人は、事件後に好奇心から事件現場である被害者の自宅を見物に行き、聞き込み捜査中の刑事から被疑者に関する情報を知っているかと質問された時に、他人に注目されたいという動機で、事件現場である被害者の自宅で不審な人物を見たと虚偽の供述をした。

警察官は少年3人の不審人物に関する供述が不自然であったため、事件当時は不登校の状態で犯行現場での不在証明が無いという理由で母子強盗殺人犯人であるとして少年3人を被疑者と見なした。

警察官は被疑者と見なした少年3人に警察署への任意同行を求め、少年の保護者への連絡も無く、警察署内で深夜まで尋問した。警察官は被疑者の少年3人母子を殺害し強盗をしたとの供述を誘導・強要した結果、被疑者3人に母子強盗殺人をしたとの自白をさせ、警察官の意向に合致した供述調書を作成するとともに、被疑者の少年3人を逮捕した。

1989年5月16日、検察官は、Aは主導的立場の殺人実行犯と見なして逆送致による刑事処分、Bは従属的立場の殺人実行犯と見なして長期の少年院送致、Cは従属的立場の幇助犯と見なして短期の少年院送致が適切な処遇であるとの意見を付けて、3人を家庭裁判所に送致し、3人の身柄は警察の留置場から少年鑑別所に移管された。

1989年9月12日、東京家庭裁判所はA・B・Cの3人に対して、物証が不一致であることと、被疑者3人が事件当時に事件現場に不在だった証明により、検察官の主張は証拠能力が無く、供述の任意性も信用性も無く、真実ではないと判断し、A・B・Cと付添人の弁護人の主張のとおり、少年3人は無実であると判断して、刑事裁判の無罪に相当する不処分の決定をした。

逮捕と家裁送致により、警察はその後は捜査を行わなかった。結局、その後、捜査機関は再捜査を行われず、母子強盗殺害事件の真犯人を発見することなく、2003年11月16日に公訴時効が成立している。
綾瀬母子殺人事件(新聞)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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荒川区路上男性会社員刺殺事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年11月28日夜に東京都荒川区で発生した殺人事件。警視庁による正式な呼称は東日暮里三丁目先路上刃物使用殺人事件。

2012年11月から捜査特別報奨金(300万円)対象事件となっている。

2011年(平成23年)11月28日午後10時25分頃、荒川区東日暮里三丁目28番先路上でタクシー運転手がスーツ姿の若い男性が背中から出血しているのを発見し、110番通報した。男性はタクシーを呼び止め、「病院に連れて行ってほしい」と話し、運転手が「どうしたんですか」と尋ねると「刺された」と言い倒れたという[1]。

被害者の傷は心臓近くに達しており、病院に搬送された時には既に心肺停止の状態でそのままの形で亡くなった。手などで身を守る際にできる防御創は無く、背中をいきなり刃物で刺されたとみられている。

その後の警察の調べで、被害者は近所に住む当時24歳の会社員であることが判明した。現場は被害者の自宅まで僅か数十メートルのところであった。

その後最も事件解決の手掛かりとなりそうな物証が見つかった。現場付近の防犯カメラに、犯行時刻頃に現場に近づく男、及び事件後現場から全力で走り去る不審な男が映っていた(2名は服装から同一人物のようにも見受けられるが、警視庁は断定していない)。男は犯行現場から南の方角、JR鶯谷駅方面に向かったことがわかっている。

警視庁はこの男(ら)が事件に関して何らかの事情を知っているとみて情報を求めている。
荒川区路上男性会社員刺殺事件(動画)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 捜査中

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荒川連続自転車通り魔殺傷事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1959年(昭和34年)1月に発生した連続通り魔殺傷事件である。

1974年に犯人特定・逮捕には至らないまま公訴時効が成立し、未解決事件となった。

1959年1月27日の夕方、東京都荒川区内において、黒っぽい皮のジャンパーを着て自転車に乗った、15,6歳と見られる少年による連続通り魔事件が発生した。被害者は追い抜かれざまに刃物で胸を刺されていた。この日のおよそ1時間の間に、8歳の女児を含む10名の若い女性が被害にあい、そのうちの16歳の少女が死亡した。

そしてこの捜査の過程で、1月21日ごろから当日に至るまでに、同一の手口で襲われた被害者がさらに10名ほどいることが判明した。

警察による厳重な警戒の中、1月30日にも同種の事件が発生し、さらに、被害者宅に「あまり騒ぐな」と脅迫する手紙が送りつけられていたことが明らかになると、近隣の住民らは恐怖におびえ、個人行動を避けたり自警団を組織するなどの自衛策をとる者もいた。

犯行時間は、いずれも午後5時から8時前であった。また目撃者の証言から、犯人は黒っぽいジャンパーを着た16歳前後の就労している少年のようであったとの情報を得たため、同地区の有職者で非行歴のある少年に的を絞って聞き込み調査を開始。さらに近所にこのような手配書を配って情報提供を求めた。

その中で、自営業の三男(当時17歳)が捜査線上に浮上し、2月5日未明、重要容疑者として取り調べを受ける。しかし、その日の早朝にはシロと断定された。商店の人がただ配達をしているだけで、「あいつではないか」と噂したに過ぎない程度の情報も多かった。自営業の三男と同姓の少年が通り魔と疑われ、帰郷する汽車の中で自殺未遂を図っている[1]。

結局、犯人特定・逮捕には至らないまま、1974年に公訴時効を迎えた。
荒川連続自転車通り魔殺傷事件(新聞)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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池袋駅構内大学生殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1996年4月11日午後11時30分頃に東京都豊島区の東日本旅客鉄道(JR東日本)池袋駅構内で発生した殴打による殺人事件。

法の再改正を求めている両親の要望により、異例としては初めて長期捜査に至らなかった殺人事件でもある。

法により、捜査は継続していたが、警視庁池袋警察署捜査本部は、事件の犯人を捜しても出頭または現れなかったため、2012年4月16日に、警察庁での遺族の会見にて要望した上で長期捜査からは解消し、事件解決に繋がらなかった長期未解決事件でもあった。

また事件は大勢に目撃されており、現場となった池袋駅には目撃者の証言などを基に作成された容疑者とみられる似顔絵が貼られていた。

1996年4月11日午後11時30分頃、池袋駅の山手線外回り7・8番線ホームで当時立教大学の学生であった男性(当時21歳)が会社員風の男に絡まれ、顎を殴られ転倒した際に後頭部を強打し、5日後に入院先の病院で死亡した(のちに病院側の処置に落ち度があったとして損害賠償請求訴訟を起こし、病院側が約6500万円を支払うことで和解した)。男は事件直後、男性を介抱する別の乗客の背後に無言で立っていたが、現場に留まるよう求めた別の乗客を恫喝すると、23時37分発の山手線で日暮里駅方面に向かったという。男のその後の足取りは不明となっている(同駅までの乗車は目撃されているが、この駅で降車したのかどうかは不明)。

当初は傷害致死事件として扱われていたが、2002年7月に被害者の父親が3万5000人分の署名と公訴時効延長を求める嘆願書を法務省に提出した。その結果、傷害致死罪の公訴時効(当時7年)成立直前の2003年3月に容疑が殺人罪(当時15年)に切り替えられた。

2010年4月に殺人罪の時効が撤廃されると同時に警察庁の捜査特別報奨金制度対象事件となった(遺族の希望で2012年度より指定を辞退)。

遺族の両親が法の再改正、もしくは捜査打ち切りを求めており、警視庁は2020年12月11日に殺人容疑について容疑者不詳のまま書類送検した。一方で失踪事件など、他の長期未解決事件の捜査と同様に警視庁は引き続き事件の情報提供を呼び掛け、容疑者が特定されれば逮捕する方針。

容疑者のイメージ画
池袋駅構内大学生殺人事件(容疑者)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 遺族が法の再改正か、捜査打ち切りの意向により、警視庁は2020年12月11日に殺人容疑について容疑者不詳のまま書類送検。容疑者が特定されれば逮捕する方針。

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工事中



※最後に
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◆ドキュメント
作成日付:2023/10/12
更新日付:2023/10/12(目次あ~【更新中】

◆はじめに

未解決事件とは、容疑者が検挙、または判明・発覚などが一切できていない刑事事件のことです。

捜査または捜索等が行き詰まった場合、または公訴時効が成立して未解決となった事件は、完全犯罪が成立することを意味し、また「迷宮入り」とも言われます。なお英語では通称コールド・ケースとも言われています。

長期間に逃走した犯人が逮捕された後に身柄が判っているものも原則、「犯人がわかっている未解決事件」として表現される場合もあります。

警察庁はこの他、令和改元(2019年5月1日)以降にも、未解決の殺人・(児童の)失踪・窃盗などの事件が多く相次いで発生していることから、長期捜査中も含めた該当する未解決事件の謝礼金及び懸賞金または報奨金等を用意して、事件の解決、または解明に向けての有力な情報に提供を呼び掛けています。
 
未解決事件というと時効という言葉がセットで思い浮かびますが、現在では「死刑に当たる罪」については公訴時効が廃止されたため、時効が成立することはありません(これ以外は公訴時効の期間があります)。

<目次>






❖公訴時効廃止までの動き
 公訴時効制度は、明治15年に施行された治罪法(明治13年太政官布告第37号)において初めて定められました。

 同法は、フランス法を手本にしたと言われています。明治41年には時効期間の区分が現在に近いかたちに整えられ、昭和24年に施行された現行刑事訴訟法も、それまでの制度をおおむね引き継ぎました。

 2004年(平成16年)、死刑に当たる罪の時効期間を15年から25年に延長するなど、凶悪・重大犯罪の時効期間を見直す法改正が行われ、2005年(平成17年)1月1日から施行されました。

 この2004年(平成16年)改正は、「国民の平均年齢が大幅に延びる等の状況のもとで、凶悪重大犯罪に対する処罰感情等が時の経過により鎮静化していく度合いが低下しているというふうに考えられることや、新たな捜査技術の開発等により、犯罪発生後相当期間を経過しても、有力な証拠を得ることが可能になっていることなどを踏まえ」て行われたものとされます。

 2004年に殺人罪・強盗殺人罪など死刑にあたる罪の公訴時効の期間は15年から25年に改正されたが、殺人事件被害者遺族の会(宙の会)や全国犯罪被害者の会(あすの会)などが公訴時効停止・廃止を訴えるなど殺人事件被害者の遺族らによる公訴時効見直しの声が高まった。

 2010年4月27日、殺人罪・強盗殺人罪など公訴時効廃止や故意に死に至らしめた罪の公訴時効延長などが盛り込まれた刑事訴訟法並びに刑法の改正案が成立し、即日施行されました。施行時に公訴時効を迎えていない過去の未解決事件にも適用されます。一方で施行前に時効を迎えた事件に遡っての適用はされません。

❖公訴時効
 2010年(平成22年)4月27日に公布・施行された改正刑事訴訟法により、「人を死亡させた罪であって(法定刑の最高が)死刑に当たる罪」については公訴時効が廃止されたため、時効が成立することはありません。

 その他の罪の公訴時効期間については、いずれも刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)第250条に定められています。まず、「人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもの(死刑に当たるものを除く)」(同条1項)と「“人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもの”以外の罪」(同条2項)に分け、その上で、法定刑の重さにより時効期間の長さが定められます。

【抜粋】250条1項で人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもの(死刑に当たるものを除く)
 ー無期の懲役又は禁錮に当たる罪(強制わいせつ致死、強制性交等致死など)・・・30年
 ー長期20年の懲役又は禁錮に当たる罪(傷害致死、結果的加重犯のうち傷害の罪と比較して重い刑となる致死罪、危険運転致死など)・・・20年
 ー上に掲げる罪以外の罪(業務上過失・重過失・過失運転致死など)・・・10年

❖100歳送致
 新法の施行により公訴時効が廃止された事件において、公訴時効期間に代わる新たな概念として採られたのが「100歳送致」です。これは被疑者が100歳以上の高齢者の場合、すでに死亡している可能性が高いとして書類送検し捜査を終了するものであり、事実上の公訴時効と言えます。この場合、被疑者の年齢が判明している事件については、その被疑者が100歳に達するまでの年数が事実上の公訴時効期間となります。

❖捜査特別報奨金制度(公的懸賞金制度)
 捜査特別報奨金制度は、警察庁が指定する事件に関し、民法第529条、第529条の2及び第532条の規定に基づき、重要凶悪事件等の検挙に結び付く情報を提供した者に対して検挙等への寄与の度合いに応じて報奨金を支払う旨を広告し、情報を提供した者のうち優等者に対して報奨金を支払う制度です。

●対象事件の要件
 1.警察庁指定特別手配被疑者、警察庁指定重要指名手配被疑者に係る事件
 2.社会的反響の大きい特異又は重要な事件であって、次の要件をいずれも満たすもの
   ー殺人、強盗、放火、強制性交等(刑法の一部を改正する法律(平成29年法律第72号)による改正前の刑法(明治40年法律第45号)に規定する強姦を含む。)、略取誘拐その他被害者の生命・身体に重大な損害を及ぼした事件
   ー脅迫その他の方法により、公務又は事業活動の遂行に重大な支障を及ぼした事件
   ー捜査本部開設事件
   ー当該事案の内容、捜査の状況等に照らし、広告を実施して情報提供を促進することが有効・適切と認められる事件

●報奨金の上限額
 原則として300万円(ただし、特に必要があると認める場合には、1,000万円を超えない範囲内で増額されます。)

●応募の期間
 原則として1年間(ただし、特に必要があると認める場合には、期間が延長又は短縮されます。)



※最後に
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トイレから出た男性「試薬の硫酸が…」 新幹線内は異臭、叫び声、煙(2023年10月9日)

 JR仙台駅で9日正午ごろ、「(東北新幹線の車内で)薬品のようなものをさわって子どもがけがをした」と119番通報があり、子どもを含む数人が負傷した。3連休の最終日、一時騒然となった車内の様子を乗客たちが明かした。

妻子とともに8号車に乗車していた男性会社員(37)はこの日正午前、仙台駅で降車しようとデッキに向かうと、「駅員さんを呼んでください」と言うスーツ姿の男性を目撃した。トイレから出たばかりで、足元は大きくところどころに穴が開き、足首が見えていたという。

 ほかの乗客が乗務員を呼びにいく間、この男性は「試薬の酸が爆発してしまった」と話し、「危ないものではないです。試薬の硫酸なので大丈夫です」「ご迷惑をおかけしてすみません。大丈夫なので」などと繰り返していたという。

 別の30代の会社員女性は、帰省先から戻るために新幹線に乗り、座席で寝込んでいるところだった。見知らぬ乗客から急に起こされ、車外に避難するよう言われた。

 乗っていたのは、10両編成の6号車。車内に目をやると、床に液体が広がっているのが見えた。

 そのすぐ後に、7号車につながる通路のドアを乗務員が封鎖した。ドア向こうの通路では、煙のようなものが充満しているのがガラス越しに見えた。

 車内には異臭も漂っていた。「何かが燃えるような、たばこの煙のような臭い。少し刺激があるような感じだった」。車内を行き来する乗務員はせきこんでいる様子だった。

 7号車の方からは、「子どもがやけどした」と叫ぶ女性の声が聞こえた。

 他の乗客が「トイレで酸性の薬品の入れ物が破裂し、中身が漏れ出したようだ」と話しているのも聞こえ、すぐに車両から避難した。

 一方、駅のホームでこの新幹線の到着を待っていた男性によると、新幹線が停車した後、駅員が「7号車から煙!」と叫ぶのが聞こえた。7号車に近づくと、ドア付近に置かれたバッグから白い煙のようなものが出ていたという。

 ホームの駅弁店で働く60代の女性も「子どもがやけどをした」との声を聞いた。7号車の方に目を向けたところ、扉から白い煙が出ていた。

 その後、女性が子どもを抱きかかえ、階段を下りようとしているのが見えた。周囲の人たちは「煙が出ている」「やばい」などと話していた。

 女性は「こんなことが起きるなんて不安だ。これから安心して駅を利用できるようになれば」と話した。

東北新幹線の車内で硫酸が漏れ出してしまい、5歳児の子供含めて4人が火傷を負った事件がありました。

❖JR東日本 手回り品(※1)で持ち込まない荷物(抜粋)

※1いつも身辺に置いて使用する物品。また、旅行などをするときの携帯品。

 危険品、刃物(※2)暖炉・コンロ、動物(※3)、死体、不潔なもの、臭気を発するもの、他のお客さまに危害を及ぼすおそれのあるもの、車内を破損するおそれのあるものなどは車内への持ち込みはできません。

※2 他のお客さまに危害を及ぼすおそれがないように梱包された刃物は除きます。なお、対象とする刃物及びその梱包方法は、「刃物を鉄道車内に持ち込む際の梱包方法についてのガイドライン」(平成30年12月国土交通省鉄道局)によります。詳しくは、国土交通省ホームページをご参照ください。

※3 少量の小鳥、小虫類、初生ひな、魚介類でケースに入れたものは除きます。

(危険品について)
・危険品とは、可燃性液体、高圧ガス、可燃性固体、火薬類、揮散性毒物、農薬などを指します。
・一部の危険品については、梱包方法や持ち込み数量などを制限した上で、車内にお持ち込みいただけるものもありますが、ガソリン、灯油、軽油などの可燃性液体そのものは、量に係わらず、車内への持ち込みはできません。
・可燃性液体、高圧ガス、可燃性固体を含む製品であって、小売店などで一般的に購入いただけるもの(酒類・化粧品類・医薬品・ヘアスプレーなど)は、2リットル以内または容器を含む重さが2キロ以内であれば、持ち込むことができます。この場合、中身が簡単に漏れ出ないようにご注意ください。

持ち主は危険な薬品ではないと説明しているようです。
ただ、5歳児を含めて火傷をするような薬品ですので、上記JR東日本の危険品扱いになるでしょう。

しかしながら、ここに罰則はありませんので、被害にあわれた方の損害賠償とJR東日本に対しての損害賠償ということになるでしょう。

ちなみに「毒物及び劇物取締法」では含有量が10%を越える硫酸は「劇物」に指定されるそうです。「毒物」ではないそうです。

「毒薬(物)」とは、法第44条第1項の規定に基づき、毒性が強いものとして厚生労働 大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて指定する医薬品をいうそうです。また、「劇薬(物)」とは、同条第22項の規定に基づき、劇性が強いものとして厚生労働大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて指定する医薬品をいうそうです。

状況によっては無差別テロだと言われても仕方ない事件になりますが、持ち主の方が賢明に説明したので、何とかテロ扱いにならずにすみました。

薬品、特に危険品を遠方に持ち運びする際にはかなり慎重に運ぶと思いますが、一体どんな目的があって硫酸を新幹線を持ち込んで運んだのか?

この騒動は新青森発東京行きの東北新幹線はやぶさ52号で起きました。仙台駅に停車する直前、都内の男性は、足元の黒いバッグから薬品が漏れていると他の乗客から指摘され、バッグを持ってデッキに移動。その際、薬品が通路にこぼれ、自身の両足にもかかってやけどを負ったのです。

さらにその後、トイレに行こうとした男児が薬品で足を滑らせて転倒し、尻をやけどを負いました。助けようとした両親も足首や手にやけどを負ったのです。

ホームで新幹線を待っていた男性によると、新幹線がホームに停車した後、駅員が「煙!」と叫ぶのが聞こえた。近づくと、ドア付近に置かれたバッグから白い煙のようなものが出ていたというのです。

JR東日本によると、はやぶさ52号は乗客全員を降ろして運休となりました。東北新幹線の上り12本にも最大55分の遅れが生じるなど、約7300人に影響が出たということです。

意図的でないにしても、これがもし網棚の上で漏れだしたらどうなっただろうか?恐ろしいですね。

原因究明が待たれます。



※最後に
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冬瓜
冬瓜(トウガン)。

トウガン(冬瓜)は、ウリ科のつる性で一年草の熱帯性植物です。果実を食用する夏(7月~9月)が旬の野菜です。夏に収穫され、冬まで貯蔵することができるため冬瓜(冬まで食べれる瓜(うり))とよばれます。果肉はやわらかく、淡泊な味わいで煮物料理などに使われます。

元々の名称は「冬瓜」を音読みした「トウガ」で、これが転じて「トウガン」になりました。

日本よりも中国、東南アジアでの利用がかなり多いです。

冬瓜の果実は分厚い皮で覆われていますが、約95%が水分で、みずみずしく食べごたえがあります。皮が硬くて分厚いため、冷暗所に置けば冬まで日持ちするのです。

冬瓜の育て方
タネをまく時期は3〜5月頃まで、収穫は6〜10月までに行います。


タネは硬くて吸水しにくい為、1日水にを浸して十分吸水させてからまいて、本葉4~5枚の株まで育てます。

元肥は畝(うね※1)全体にまいて役15㎝の深さによく耕し、60㎝幅の畝を作ります。

※1畑の土を細長く盛り上げた栽培床のことを「畝」とよび、畝をつくることを「畝立て」といいます。 畝立てすることによって水はけをよくし、また栽培場所と通路の区別をすることで、野菜の生育管理がしやすくなります。 

十分灌水(かんすい※2)させて、ポリマルチを敷き、カミソリなどで切り目を入れて茎が太くてしっかりした苗を植えます。

※2草木、農作物などに水をそそぎいれること。

ポリマルチ
親弦は4~5節まで摘心(てきしん※3)し、伸びのよい子蔓を4本伸ばします。子蔓は摘心しないで伸ばし、孫蔓は子蔓に果実がなるまで取り除き、果実がついてからは放任します。

※3芽の先端を摘み取る作業のことで、先端の芽を摘むと、その下のふしにあるわき芽が伸びて枝数が増えるので、花や野菜の草丈が抑えられると共にボリューム感が生まれ、花はたくさん咲きます。


株元付近だけにわらを敷き、蔓が伸びるにしたがって、その先にわらを敷いていきます。

果実がゴルフボール程度になり始めたら、畝に沿って追肥(1株化学肥料25g程度)をします。肥料が足りないようなら半月後にもう一度、同じように追肥します。

開花後45~50日程度の完熟した実を収穫するのが一般的ですが、開花後25~30日のものを若どりする方法もあります。 完熟果は、表面のうぶ毛が少なくなり、白っぽく粉をふいたようになったら収穫適期です。大きさは約30cm前後で重さは3~5kgほどにもなります。

冬瓜の人気メニューと効果
冬瓜は使い勝手がよく、ありとあらゆる料理で調理されていますが、以下の料理が人気レシピになっています。

 ・冬瓜と豚ひき肉のあんかけ煮
 ・冬瓜た~っぷりのスープ
 ・冬瓜と卵のスープ
 ・冬瓜と鶏肉の煮物
 ・冬瓜皮のきんぴら

冬瓜には栄養素ではカリウムとビタミンCが多く含まれています。 カリウムには過剰に摂取されたナトリウムを体外に排出する働きがあります。 その働きによって高血圧の予防や利尿作用を促進し、むくみなども改善する効果があると言われています。

薬膳としても注目度の高く部位ごとに効能が違います。 皮の効能「冬瓜皮(とうがんひ)」とよばれ、実よりも強い利尿作用があります。 種の効能「冬瓜子(とうがし)」と呼ばれ、喉や痰の薬、利尿薬として使われることもあります。

夏バテ・火照り 冬瓜は漢方などで体を冷やす働きをもつ食材と考えられています。 冷え性の人などは食べ過ぎに注意が必要ですが、のぼせや火照り、解熱用としても利用されてきました。

流通と値段
東京都中央卸売市場における2022年の冬瓜1キロの平均価格は165円です。

冬瓜は通年で流通はしていますが、7月から9月が旬で最も多く市場に流通しており、手頃な価格で購入できます。 反対に旬を過ぎた冬場になると価格は高騰します。 主な産地は沖縄県や愛知県で、冬場の多くは沖縄県産のものが出回っています。 

瓜のつく野菜
以下が「瓜」のつく漢字です。

・烏瓜(からすうり)・胡瓜(きゅうり)・糸瓜(へちま)・西瓜(スイカ)・真桑瓜(まくわうり)・隼人瓜(はやとうり)・南瓜(かぼちゃ)・冬瓜(トウガン)・木瓜(ぼけ)


冬瓜の保存(常温・冷蔵・冷凍)
冬瓜はカットしていない状態であれば、常温で2~3カ月は保存がききます。丸々1個の状態でしたら、特に冷凍保存する必要はありません。

1/2、1/4サイズなどにカット済みの冬瓜の場合は、冷蔵庫で保存するようにしましょう。冬瓜の下ごしらえをした後、切り口をラップで包んで冷蔵庫に入れます。冬瓜は切り口から傷みやすい野菜ですが、ラップで包んで空気に触れないようにすることで鮮度を保てます。冬瓜はカットしなければ保存性に優れていますが、カットした後は傷むのが早いです。冷蔵で保存する場合は、2~3日間を目安に食べ切るようにしてください。

2~3日間で食べきれない場合は冷凍保存しましょう。冬瓜の下ごしらえをした後、食べやすい大きさに切ってジッパー付きの保存袋などに入れます。袋内の空気を抜き冬瓜同士が重ならないようにして、冷凍庫に入れます。冷凍した際の保存期間の目安は、1カ月程度です。



※最後に
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みずほ銀行と三菱UFJ銀行のキャッシュカードを持っています。双方とも、給与口座であり、引き落としやローン返済口座でありますので、どちらとも重宝しております。

どちらともインターネットバンキング(※)を使用しておりますので、振込など手続きは、優遇措置のあるサービスで、自分のスピードやタイミングで金融取引ができるのを便利であると思っております。

※インターネットバンキングとは、オンラインで金融取引を行えるサービスのことを指します。 従来、銀行の窓口やATMで行っていた残高照会や預け入れ、引き出し、振込などの手続が、パソコンやスマートフォンといったデバイスの利用によって自宅やオフィスなど場所にとらわれずに行うことが可能です。

今や、JCBやVisa、Masterなどの昔からなじみのクレジットカード、またSuicaやPasmoなどの交通系ICカード、nanacoやEdyなどの電子マネー、そしてPayPayやMペイなどのコード決済など、決済するのに色々な決済方法があり、大変便利になりました。

しかしながら、どうしても現金が必要となる場合もまだまだ多々あります。

この現金を得る手段は、銀行のATMしかありません。このATMも大手銀行なら自前のATMがあり、他にも他行ATMやセブン銀行などのコンビニATM、そして小売りのイオン銀行であるATMなどの提携して、どこにでも引出しや預入れ、また振込が何処できるような時代でもあります。

しかしながら、ATMを使用するとなると手数料がかかります。口座を開設している銀行で、その銀行のATMを使用するのであれば、大手銀行だと平日8:45~18:00であれば手数料は引出しや預入れ、振込(振込手数料は別途あり)は無料です。三菱UFJ銀行であれば、全日8:45~21:00という長い時間帯の無料期間があります。

しかし、それもこれも、口座の開設している銀行のATMが社会人であればオフィス出社の行き帰りの道にあるとか、自分の住んでいる街の駅や繁華街にあることが前提です。

オフィス出社の行き帰りや自分の住んでいる町にあるのは、おそらくセブンイレブンなのではないでしょうか。ただし、セブンイレブンでは、みずほ銀行のキャッシュカードは平日8:45~18:00であれば110円の手数料がかかります。そして振込サービスはありません。

三菱UFJ銀行であれば、25日と月末であれば、8:45~18:00は手数料無料ですが、それ以外の日で8:45~18:00は220円の手数料がかかります。

25日と月末の8:45~18:00の無料時間帯に行くのは、社会人であれば結構難しいと思います。

イオン銀行のATMでは、みずほ銀行のキャッシュカードであれば、平日の8:45~18:00なら、引出し、預入れ、振込は無料なのです。

そして時間外であれば手数料はとられてしまいますが、それはみずほ銀行のATMとサービス内容は同じなのです。

つまり、みずほ銀行のキャッシュカードであれば、みずほ銀行のATMを使用しても、イオン銀行のATMを使用しても、同じサービスを受けられるのです。

三菱UFJ銀行のキャッシュカードであれば、みずほ銀行のキャッシュカードと同じく、イオン銀行のATMでは平日の8:45~18:00なら、引出し、預入れ、振込は無料です。

さすがに、三菱UFJ銀行のATMのように全日8:45~21:00という長い時間帯の無料期間ではありませんが、こちらも無料サービスになっております。

時間外の手数料は110円であり、こちらも三菱UFJ銀行のATMと同じく同じ手数料となっております。


このイオン銀行のATMは、イオンモール・イオン・マルエツや旧ダイエー、そしてコンビニのミニストップなどの全国に6,450台が設置されているのです。

もちろん、全国47都道府県に 27,000台以上、 1日約250万人の利用されているセブン銀行のATMにはかないませんが、割と身近に見つけられると思います。

特にみずほ銀行や三菱UFJ銀行のATMは、振込(特に給与振込)で長時間占有されることが多いので、その場合は近くにあるイオン銀行のATMがあると平日であれば、引出しや預入れができますので、ぜひ活用してみてはどうでしょうか。



※最後に
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