竜ヶ崎竜之介のスマホ閲覧で通勤通学を有意義にするプログ

アクアリウムを中心として、他にもホラーやパソコンなどの趣味や仕事、他に日常の出来事について好き放題書いていこうと思います。虎ノ門虎之助でメダカのプログを書いていますが、他のことも書きたくなりましたので新しいプログを立ち上げました。

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2026年02月


親を亡くす1からの続き・・・

12月10日、私はいつものように会社で仕事をしておりました。

ふと、携帯を見ると、LINEトークで「今、電話かけていい?」と着信しておりました。

母が亡くなったと思いましたので、「大丈夫」と返信しました。

すぐにLINE音声電話がかかってきましたが、次の一言は予想外のことでした。

「お父さんが起きずに冷たくなっている。たぶん、死んでる。」と・・・。

LINEビデオ通話に切り替えて自宅の見せてもらいました。

父はソファーに寝ていましたが、医療に従事したことのない素人の私でも父が死んでいることがわかります。兄が「葬儀屋呼ばないと。」と言いましたが、私は「頬ひっぱだいて見て。」と言いました。

兄は父の頬を叩きましたが反応がありません。次に「脈をとってみて。」と言いましたが、兄は少し触ると、「もう冷たくなってる。」と言い「葬儀屋を呼ばないと。」といいました。

私は素人判断はまずいですし、「救急車。救急車を呼んで!」と兄に言い、兄は救急に連絡するので通話をいったん切りました。

もう亡くなっている場合は救急でなく警察を呼ぶという話もききますが、実際にそのような場面になると、そうはいきません。まだ、生きていて声が出せないだけかもしれませんので・・・。

その後、救急隊員が到着して確認したところ、死亡と判定されて、事件性がないか、警察に引き継がれることになりました。

兄によると、救急にかけてから、電話口で心臓マッサージの指示をされて、救急隊員が到着するまで、続けていたそうです。救急隊員が到着後に死亡判定がされて、警察に引き継がれました。

警察は兄を自室に誘導して「出ないように」と言ってから、現場の写真をとり、手紙や財布などの貴重品を証拠採取しておりました。押収はされなかったとのことでした。最後に父の亡骸を検視をおこなうために引き取っていきました。

私と言えば、函館の警察署から連絡があり、まずは父の死亡宣告、そして私の身元と家族との関係など聴かれました。特に印象に残っているのは「疎遠でしたか?」でした。どの程度が疎遠なのか?わかりかねますので「頻度は少ないものの電話はしていましたし、年に1回は北海道に行っていました。」との旨を答えました。

また、兄について、いつ電話があったのか?どんな会話をしたのか?その時間に何故家にいたのか?、また父との関係、「仲がよかったか?」や私と兄との関わりを聴かれました。他も沢山のことを聴かれましたが忘れました・・・。

警察が、既にかなり正確な情報を知っていてビックリしたことを覚えています。

実は父のほうが持病をいくつか抱えておりまして、『心臓が痛い。』とよく言っていました。「下肢動脈硬化症」にもなっていましたので、長時間は歩けませんでしたが、それでも家の周辺を散歩するぐらいには歩けていました。

父は母がもう長くないと病院から言われてましたので、母の葬儀の準備を葬儀社と打ち合わせをしようしましたが、車で向かっている途中で気分が悪くなり、兄に「引き返してくれ!」と言い、葬儀の準備はとまったままでした。

葬儀社から帰宅後してからは、1階のソファーで寝たきりになることが多くなりました。両親の寝室は2階でしたが、もう階段を上がることができなかったそうです。

父に「病院へ行ってくれ。」と勧めましたが重度の病院嫌いでしたので「行かない」と言って拒否の姿勢で、どうにもなりません。今回だけではなく、ずっとそのように生きてきた人ですので説得するのは難しかったです。

特に母が回復の見込みがなくなった時点で、だいぶ「生きる気力」が下がったようで「お母さんが可哀想だ。可哀想だ。」と繰り返し言っていたそうです。昭和気質で、母べったりの仕事だけの人でしたから、母のいない世界に絶望してしまったのかもしれませんし、以前からの病状からは自分が先に逝くと思っていたので予期せぬことかもしれません。

翌日、私は会社を休んで、北海道に向かいました。

書くのにちょっと疲れたので、またの機会に続きを書きます・・・。



※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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昨年の12月に北海道北斗市に住んでいた両親を立て続けに亡くしました。まず父が亡くなり次に母が亡くなったのは、心の整理がまったくついていない、ちょうど7日後でした。

先に父が亡くなりましたが、母が先に「胸膜原発孤立性線維性腫瘍」という腫瘍が体の中にできる難病に近い感じの病気になりました。

先に3年前にも同じ病気になっており、再発となったのですが、その時は腫瘍が小さかったので、手術で取り除くことができました。この時は無事に取り除けたので、私には連絡がありませんでした。

昨年4月に母から突然電話がかかってきました。「病気で手術することになった」ということでした。

父もあまりこの頃は「下肢動脈硬化症」で歩けなくなっていましたし、両親と兄は同居していたのですが仕事で難しい(仕事なんて休め!と思われるでしょうが、いろいろ事情がありまして・・・)ので私が代わりに付添うことになりました。

手術は4月30日でしたので、前日に関東から北海道に移動しようとした矢先、母から連絡があり「手術が中止になった」とききました。心臓や肺近くにあり、腫瘍も大きく取り除けないとのことでした。先生から説明があるというので、仕事を急遽休んで北海道には行きました。

父も母も耳が悪く、先生の説明がよく聞こえないからです。付添いで病院に行ったときは、「息子さん、きてくれたんですね。」と言われました。

函館市にある病院に行って、本来の手術日である4月30日に病院で説明されましたが、そこで聞いたのは、残酷な「ギブアップ宣言」でした。

腫瘍は3つあり、そのうちの腫瘍2つが特に大きく場所も心臓や肺の近くにあり、手術は大変危険が伴うこと、放射線治療も正常な部位を傷つけてしまうこと、そして難病に近くて(指定はないです)症例が少なく、学会で発表されている、効くか効かないかの薬を投与するしかないとのことでした。

病院から提案されたのが、札幌市にある大学病院で診てもらうことした。ただし、同じ結論になることが高いとは言われましたが、情報が集まっているので、もしかしたら回復の手立てがあるかもとのことでした。

ちょっとした旅になりましたが、札幌市にある大学病院に行きましたが、やはり結論は同じでした。

唯一の手立てである投薬治療となりました。ここで私は仕事があるので関東へ帰りました。

その後、母は薬もあわないらしく飲むのをやめてしまいました。その頃から死を意識するようになったのか、一気に元気がなくなって行きました。電話口の声も小さくなっていました。

私と言えば、あまり電話はしませんでした。何というか、父も母も今回もですが大事な話はしないというか、隠してしまうような人達でした。自分の結婚式のお祝いも裏で全部断ってしまうような人達でした。本人たちはわずらわしい親戚付き合いをさせないようにと悪気はないようでしたが、連絡がきたことぐらいは教えてほしかったんです。

父の10年間の大腸がんの手術も時も前日に言ってきて、朝一番の飛行機に飛び乗りましたし、今回の件もようですので、特に直前に言ってくるので正直迷惑でしたし、兄もいたので、父母兄の3人でやってほしいという思いもあり、ちょっと距離を置いていました。

11月末に兄から電話がかかってきました。いろいろあって、あまり話をしていないので、電話なんて、かなり久しぶりでした。

母が起きてこないので救急車に運ばれたとのことでした。父が母を起こそうとして、母は意識がなく、頬を叩いても反応がなかったそうです。前日までは料理や洗濯をしてはいたそうです。

救急搬送された病院では「覚悟しておいてくれ」と言われたそうですが、なんとか持ち直しました。その日から毎日、兄が付添いで、LINEビデオ電話で病室での母の様子を見せてくれましたが、もうまともに話せませんでしたし、こちらから話かけても目を一瞬向けるものの、ずっと目をあわせるのは苦痛のようでした。

病院からは「あまり長くない」と宣告でした。

病院に入院して10日ほどで『回復の見込みがない』とのことで、緩和ケアの病院に転院させられました。

よく言われる「病院は患者を治す場所」ということで、治る見込みのない人は、そのようになるのだと、改めて思いました。

緩和ケアの病院に転院してから、コロナに罹患していうことがわかりました。転院とともに、この日から面会謝絶になり、母の病状がわからなくなりました。インフルエンザやコロナの患者が発生すると、病棟全体が面会謝絶になるのです。おそらく、他の患者さんやご家族にも迷惑をかけたと思います。

12月に入り、妻と「年末年始かもしれない。予約とれるかなぁ?」という話をしていたことを思い出します。

そして、12月10日に突然、それは訪れました。

「父が起きない!」と兄からLINEビデオ通話がありました。

・・・書くの疲れたので次に続きます。



※最後に
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