竜ヶ崎竜之介のスマホ閲覧で通勤通学を有意義にするプログ

アクアリウムを中心として、他にもホラーやパソコンなどの趣味や仕事、他に日常の出来事について好き放題書いていこうと思います。虎ノ門虎之助でメダカのプログを書いていますが、他のことも書きたくなりましたので新しいプログを立ち上げました。

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カテゴリ: スポーツ


元世界王者・桃田賢斗(29)が日本代表引退会見「再び世界のトップを目指すのは体力面、精神面において限界」現役は続行(2024年4月18日)

 バドミントンの男子シングルス元世界王者の桃田賢斗(29、NTT東日本)が18日に会見を開き、日本代表から退くことを発表した。

この日、黒のスーツで会見に出席した桃田は冒頭で「今月末のトマス杯を最後に日本代表引退を決意したこのタイミングで、自分の口から感謝の気持ちを伝えたいと思い、このような場を設けさせていただきました」と話した。

これまでを振り返り、「2020年の1月の交通事故から苦しいこともたくさんありましたし、自分の中で思うようなプレーだったり、自分なりに試行錯誤はこうやってきたつもりではいたんですけど」としみじみした表情を見せた。「充実した代表人生だったかなと思います」。

引退理由を「気持ちと、体のギャップというか、そういうのが続いていく中で、このままその世界一をまた、目指そうというところまで行けないなと判断した」と話した。

今月末に発表される五輪ランキングでパリ五輪出場者が内定するが、桃田の出場はほぼ絶望的となっている。「再び世界のトップを目指すのは体力面、精神面において限界と感じ、決意をしました」とし、日本代表は引退するが、所属するNTT東日本で競技は続行するという。

桃田は中学生で全日本総合選手権に初めて出場し、2015年に初優勝を果たした。その後は2018年、19年、20年で3連覇、22年、23年と6度、日本の頂点に立った。2018年の世界選手権で日本男子初の世界王者になると2019年も優勝し、連覇を達成。2019年は国際大会で歴代最多の年間11回の優勝し、ギネス世界記録も認定された。

しかし世界のトップを走り続けた、その裏で2016年には東京都内の違法カジノ店で賭博をしていたことが発覚し、日本バドミントン協会から無期限の競技会出場停止処分を受けた。当時、世界ランク2位とリオ五輪のメダル候補だったが、その夢は閉ざされた。

さらに2020年1月、マレーシアマスターズ優勝後に空港への移動中に交通事故に遭遇。運転手が死亡し、桃田も顎、唇、眉間などを裂傷、全身打撲の怪我を負った。その後、目の不調でシャトルが二重に見えたため、精密検査の結果、右眼窩底骨折で全治3カ月を要することが判明した。

また、五輪で金メダル確実と言われていた選手が何一つメダルを取れないまま引退となりました。

一言で言いますと、運のない人でした・・・。

選手としてこれから旬という時に不祥事(東京都内の違法カジノ店にて賭博)により、2016年のリオ五輪に出場できませんでした。

それでもそこから巻き返して2018年に男子シングルの世界ランキングのトップまで上り詰めて、2020年の東京五輪で金メダルの最有力でしたが、今度は2020年に交通事故(クアラルンプール国際空港へ車で移動中、桃田等を乗せた白いバンがトラックに衝突する事故が発生し24歳の運転手が死亡し、桃田選手も顎、唇、眉間の計3か所を裂傷、全身打撲の怪我を負い、クアラルンプールの病院に入院した)に遭って、東京五輪がコロナで1年延びても万全の状態で出場できずに敗退でした。

それでも日本のバドミントン界に大きな希望を与えてくれた功績は後々まで語られるでしょう。

瀬古利彦(男子マラソン)
彗星のごとく、日本男子マラソン界に現れた人でした。

1978年12月の福岡国際マラソンで2:10:21で優勝(当時世界歴代10位)を皮切りに1979年04月ボストンマラソンは2位でしたが、当時世界歴代9位、そして1979年12月の福岡国際マラソンで優勝でモスクワ五輪代表権獲得しましたが、1980年のモスクワ五輪はソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はなりませんでした。

その後、1983年12月の福岡国際マラソンまで五連勝負けなし敵なし(1983年02月の東京国際マラソンでは2:08:38で優勝し当時世界歴代3位)で臨んだ、ロス五輪では、まさかまさかの14位の失速で、優勝もしくはメダル獲得どころか、入賞にすら入らない成績となります。いろいろと敗因理由がありますが、その当時の五輪のメダル獲得期待といったら尋常ではない盛り上がりでしたので、これは相当なプレッシャーになったと思います。

その後、1988年03月のびわ湖毎日マラソンで2:12:41の優勝でソウル五輪代表権獲得をしましたが、平凡なタイムでした。

ソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていましたが1987年12月の福岡国際マラソンを負傷のため欠場しました。マスメディアでは、ライバルの中山が「這ってでも出てこい!」と発言もありました

1988年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となるも、この代表選出については、瀬古さんに対する救済策ではないかという意見が当時多く出されました。

この代表選考の不透明さは瀬古さんの責任ではありませんが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになりました。

この当時から2019年開始されたMGCのような一発勝負(MGCも実際は代表枠3名中2名決定)のような議論がされておりました。

そして、ソウル五輪では9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わりました。

上村愛子(女子フリースタイルスキー・モーグル)
五大会の五輪に出場し、いずれも入賞しましたが、残念ながら、あと一歩届かないといった結果でした。取らせてあがたかったですね。

1998年、弱冠18歳にして上村自身初めての冬季オリンピック・女子モーグル日本代表出場となし、1998年長野オリンピックでは、2月8日の予選を13位(21.82点)で通過。3日後・2月11日の決勝本番でも大きなミスなくまとめて、いきなり7位入賞(23.79点)の好成績を残しました。

なお、同女子モーグル日本代表の里谷多英が、日本女子史上初の冬季五輪金メダルを獲得する快挙を達成しまして、最初は上村さんがマスコミには注目されていましたが、里山さんが話題を一気にかっさらっていった感があります。

22歳の2002年、自身2度目の冬季五輪出場となるソルトレークシティオリンピックに出場しました。

2月10日、予選では日本女子トップの4位(23.82点)で通過。決勝ではメダル獲得が期待されたが、わずかにエアの着地が乱れ、滑走のスピードも伸びずに6位入賞(24.66点)に留まりました。

再び、里谷さんは冬季五輪2大会連続メダルとなる銅メダル獲得したため、またしても五輪後の注目は里谷さんに集まりました。

26歳の2006年、トリノオリンピックへ自身冬季五輪3度目の出場となりました。試合前から膝を負傷するハンデを背負いながらも、2月11日の予選では日本女子首位の5位(24.20点)で通過。同日の決勝では、世界女子選手でも稀な大技エア「コークスクリュー(空中で縦方向と横方向の両方に身体を回転させる、3Dエア)」を成功させるも、得点は伸びずに5位入賞(24.01点)に終わりました。

3大会連続して入賞は果たすも、五輪メダルを再び獲得できなかった同大会終了後のインタビューにおいて、上村さんは薄っすらと悔し涙を浮かべながら、「一体どうすればオリンピックの表彰台に乗れるのかが…ナゾです…」とコメントしました。3度目の正直でとりたかったでしょうね。

2010年にワールドカップ前半戦未勝利のまま、30歳となる4度目の冬季五輪出場となるバンクーバーオリンピックに臨みました。

2010年2月13日、女子モーグル競技に出場。予選では日本女子トップの5位で通過(24.31点)し、期待された決勝では自身冬季五輪最高順位となる4位入賞を果たす(24.68点)。自身冬季五輪では4大会連続入賞を達成するも、又しても五輪メダル獲得はなりませんでした。

競技終了後のインタビューにおいて上村は、全力を出し切ったことに対する満足感を述べつつも、メダル及び表彰台を逃した事については「何で、こんなに一段一段(7→6→5→4位)なんだろう、と思いましたけど……」と思わず泣きながら、無念な心情を口していました。

長期休養を経て2014年、上村さん自身34歳となった5度目の冬季五輪日本代表に選出され、ソチオリンピック本番に出場すします。

2014年2月8日に行われた女子モーグル決勝(12名勝ち抜け)の1回目では、20.43点を出して9位で再び通過。決勝2回目(6名勝ち抜け)は21.15点で6位となり、際どく決勝3回目に進んだ。そして最後は6人によるメダルを賭けての決勝3回目では、1番スタートで20.66点を出して残り3人までトップをキープしたが、最後の3人に抜かれて前回バンクーバー五輪と全く同じ4位入賞となりました。

冬季五輪では5大会連続入賞という快挙を成し遂げたものの、自身の悲願だった五輪メダル獲得には惜しくも届きませんでした。

それでも、競技終了後のインタビューで上村さんは「こんなに何本も滑るオリンピックは初めてで、決勝ではメダルが獲れなかったけど、とても清々しい気分です。3本共に全力で滑れたことで、点数も見ずに泣いてました」「ソチを目指そうとした時、又(メダルが)取れないとか取れるとか、そういう場所に戻る自信は持てなかった。最高の滑りをしたら獲れるかもという所まで来れたのが、凄く嬉しい」と、目を潤ませながらも笑顔を浮かべました。

また、自身の五輪出場はこれが最後と示唆しつつ「今回の五輪は良い想い出で終われるんじゃないかと。メダルは無いんですけどね(苦笑)。そこは申し訳ないとしか言いようがないんですけど、頑張ってよかったなぁと思っています」と、悔い無く完全燃焼出来た事を強調していました。

いやー。メダルをとらせてあげたかったです。



※最後に
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【速報】通訳の水原一平氏が球団側に解雇されたと地元紙報道 ドジャース大谷翔平選手の資金を使い違法賭博か【2024/3/21 7:44】

 ドジャース大谷翔平選手の通訳を務める水原一平氏が球団側に解雇されたと、地元紙が伝えました。違法とみられるスポーツ賭博に関与したなどの疑いがあるということです。

ロサンゼルスタイムズ紙によりますと、大谷選手の代理人弁護士は20日、通訳の水原一平氏が違法とみられるスポーツ賭博に関与していたほか、大谷選手の資金を流用していた疑いがあるとして、当局に告発したということです。また、球団側は、水原氏を20日付で解雇したということです。

当局がスポーツ賭博を捜査する中で、大谷選手の名前が浮上したことを知ったロサンゼルスタイムズが、大谷選手の代理人に問い合わせたことで判明しました。

代理人は「大谷選手は大規模な窃盗の被害にあった」と話しているということで、関係者によりますと、水原氏は数百万ドルに関与しているとみられるということです。
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ドジャースが通訳の水原氏解雇、違法賭博で大谷の資金着服か【2024/3/21 10:28】

 米大リーグ(MLB)のロサンゼルス・ドジャース(Los Angeles Dodgers)は20日、大谷翔平(Shohei Ohtani)の通訳を務める水原一平(Ippei Mizuhara)氏を解雇した。大谷の弁護士は、同選手が「大規模な窃盗」の被害に遭ったと発表しており、水原氏は違法とされるブックメーカーに賭けるために数百万ドルを着服したとみられている。

ドジャースの広報担当はAFPの取材に対し、「チームはメディア報道を認識しており、情報を収集している」とし、「球団は通訳の水原一平氏が解雇されたことを発表する。現時点でそれ以上のコメントはない」と電子メールで応じている。

大谷の弁護士が所属するバーク・ブレットラー法律事務所(Berk Brettler LLP)は、「最近のメディアへの取材に応じる中で、ショウヘイが大規模窃盗の被害者であることが判明し、この件を当局に引き渡すことにした」との声明を発表している。

米紙ロサンゼルス・タイムズが報じたところによると、違法ブックメーカーのマシュー・ボウヤー(Mathew Bowyer)氏への連邦捜査の中で大谷の名前が浮上したという情報を同紙がつかんだ後、同法律事務所が大谷の通訳を長年勤める水原氏の行動を調査したという。声明の中では水原氏の名前は触れられていない。

同紙は匿名の情報筋2人の話として、被害額は「数百万ドルに上る」とし、水原氏がその金を賭博に使ったと報じている。

一方、米スポーツ専門チャンネルESPNは、大谷の銀行口座から「少なくとも450万ドル(約6億8000万円)」がボウヤー氏の関係者に送金されたと報道。水原氏本人を含む複数の関係者はESPNの取材に対して、大谷は賭博をしておらず、その資金は水原氏の借金の埋め合わせに使われたと話している。

MLBは「選手、審判、球団やリーグの役員及び従業員」が野球に賭けたり、他のスポーツへ違法に賭けたりすることを禁じている。またスポーツ賭博自体は米国の多くの州で合法化されているものの、カリフォルニア州ではオンライン賭博などは違法となっている。

ロサンゼルス・タイムズによると、ボウヤー氏は昨年同州にある自宅を連邦捜査官に家宅捜索されていた。ボウヤー氏の弁護士は、ボウヤー氏が「オオタニとは会ったことも、話したことも、テキストメッセージを送ったことも、いかなる形でも接触したことはない」と話している。

日本生まれで南カリフォルニア育ちの水原氏は、2017年に大谷がロサンゼルス・エンゼルス(Los Angeles Angels)と契約してから個人通訳となり、その後大谷を追ってドジャースに移籍した。

大谷は水原氏を伴って試合やトレーニングのために球場入りしたり、チームの施設を離れた場所でも同じ時間を過ごしたりしている。
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「田舎で育った場合のアスリートは…」為末大氏、水原一平氏の解雇報道で私見「いいように転がされて」【2024/3/21 14:39】

 陸上男子400メートル障害で五輪3大会連続出場を果たした為末大氏が21日、自身のX(旧ツイッター)を更新。エンゼルス時代から専属通訳として大谷翔平投手を公私でサポートしてきた水原一平通訳が違法なスポーツ賭博に関与しドジャースを解雇されたとのニュースに関連し、私見をつづった。

為末氏は「今回の大谷さんの話とは関係なく(いやないこともないですが)ですが、ふと思ったので。一般的に、アスリートが有名になり始める年齢は18―24歳あたりで、そこで以下のようなことが起こります」と書き始め、「先輩や昔の同級生が保険を売りにきたり、お金を貸して欲しいとお願いされる」「いろんな人を紹介される。その中にグレーゾーンの人が混ざっていることもある。紹介する人は先輩だったりするのでややこしい」「マネジメント事務所から連絡がある」「会社を作る必要が出てきた場合、よくわからないまま株主の比率が決まる」と記述。

「田舎で育った場合のアスリートは、昔と同じように素直に生きているといいように転がされてしまいます」とし、「それで傷ついた人は今度は警戒心が強くなり、とにかく知っている数人だけで固めようとしますが、それはそれで身内と近くなりすぎて問題が起きたりします」とつづった。

さらに「難しいのはそれが競技に集中している時であり、さらに20代の経験がない若い時にやってくる点です。相談しようにも、スポーツの中にそんな経験がある人も少ないです。言いにくいことも多い」と指摘し、「最近は少しマシになっていると思いますが、それでもやっぱりちらほら困っている話を聞き、なんとかできないだろうかと考えています」と明かした。

これを読んだ時、スポーツ選手で大成して莫大な金額を稼ぎだすような人物になった場合は、本当に誰を信頼していいのか?わからなくなるんじゃないでしょうか。

まさかまさかと思いまして、はっきり言ってメディアの誤報なのかと思った次第なのです。

そして、通訳としてキャリアの最高峰と言える金額を手にしていたと思われ、大谷の通訳としての給料は年間年30万~50万ドル(4500万~7500万円)だったということで、少し贅沢しても一生食べていける金額を稼ぎだしていたのではと思うのです。

また大谷選手の通訳の契約が終了した後でも『あの大谷選手の通訳』として泊がつきますので、その後の仕事も「引き手あまた」だったんじゃないかと思うのです。

これをすべて棒に振るとは非常に残念でなりません。

とにかく事実関係を正確に確認して適切な調査を行っていただきたいと思います。

他の記事によると、水原さんが勝手に大谷選手の口座から使い込んだわけでは無く賭博で負けて大金を請求され困って大谷選手に相談して大谷選手が肩代わりしたようですね。

しかし、有名な大谷選手の口座から大金が動いてた事で当局が調査に踏み切り発覚したのでしょう。なので窃盗ではないようです。

本来はビジネスパートナーであり友達ではないので、肩代わりする必要はないのですが、大谷選手の水原さんに対するこれまでの信頼関係から、そうした行動に出たのではと思います。

大谷選手が人間不信にならなければ良いのですけれど、スーパースターになって大金がころがりこんでくると本人が変わらなくても周囲が変わってしまいますし、よからぬ輩も甘い蜜を吸いに来るでしょう。有名税みたいなもので避けては通れない道なのでしょうか?

小さい頃からスポーツ一筋で生きてきて「お金の管理」も勉強はできないでしょうから、どうしても人任せになりますし、家族との時間もままならない選手に、その時間を割くことも難しいでしょう。スポーツ界の「お金の管理」をサポートすべき体制づくり、特にお金を使い込まれないような。しっかりした監査体制を含めて、今一度在り方を考え直すべきではないでしょうか。



※最後に
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山川穂高

ソフトバンク・甲斐野が西武へ移籍 FA山川の人的補償で 「こっそり僕だけ応援して」と鷹党にメッセージ(2024年1月11日)

 国内フリーエージェント(FA)権を行使して西武からソフトバンクへ移籍した山川穂高内野手(32)の人的補償として、甲斐野央投手(27)が西武へ移籍することが11日、両球団から発表された。

甲斐野は球団を通じて「ホークスには本当にお世話になり感謝しかありません」と感謝のコメント。新天地の西武について「チームの雰囲気が明るくファンの方も熱いイメージがありますので、ベルーナドームでプレーするのが今から楽しみです」と意気込んだ。

甲斐野は1996年11月16日、兵庫県生まれ。東洋大姫路、東洋大を経て18年ドラフト1位でソフトバンクに入団。1年目から65試合に登板するなど救援としてプロ5年間で通算160試合に登板し、7勝8敗11セーブ、41ホールドを挙げた。昨季は46試合で3勝1敗2セーブ8ホールド、防御率2・53の成績だった。

甲斐野のコメント全文は以下の通り。

突然のことではありましたが、ホークスには本当にお世話になり感謝しかありません。ドラフト1位で獲ってもらったものの、期待に沿えるような活躍はできなかったと思いますが、チームメイト・監督・コーチ・スタッフ・フロントに皆さんには温かく見守ってもらい感謝しています。

今回僕を評価・指名してくれた西武球団にも感謝しています。チームの雰囲気が明るくファンの方も熱いイメージがありますので、ベルーナドームでプレーするのが今から楽しみです。

最後にホークスファンの皆さんにも感謝を伝えたいです。良い時も悪い時も声援を送ってくれ、福岡の街を歩いていてもよく声をかけてもらいました。ケガから復帰した時にマウンドで受けた声援はずっと忘れません。今後のホークス戦でも、こっそり僕だけ応援して欲しいです。

これからも野球人としてやるべきことは変わりませんので、ブレずに自分らしく頑張っていきたいと思います。
和田毅
甲斐野央

やはり何度読んでもわからない制度です。

FAと書き、フリーエージェント読みます。選手にチーム移籍の自由を与える制度だそうです。

一方、トレードがあります。選手の意思とは関係なしに球団間の合意のもと、選手を交換する制度なんだそうです。

トレードにはいくつか方法があって、選手同士の交換トレードがありまして、これが基本的なトレードです。次に金銭トレードがあり、一方の球団が選手を出して、一方の球団が金銭を払います。他にも無償トレードがあり、一方の球団が選手をもらいますが、選手を出した球団に選手も金銭の補償もしないでいいトレードです。

FAとは、繰り返しますがFree Agent(フリーエージェント)の略でして、選手の1軍登録が7~8年を超えると、選手は自らの意思で、新たにどの球団とも契約を結ぶことができる権利なのです。

FA権を得るには、所属球団で活躍していないといけません(1軍登録期間が必要なため)

つまり、FA権を行使する選手は所属球団にとって主力の選手でして、出ていかれると困る選手でもあります。サラリーマンの優秀な人が転職するのと近いですね。

そして主力の選手は、欲しい球団が、いい条件の金銭(給料)を提示して獲得しようとします

選手も自分を評価してくれる球団(給料が高い球団)に移籍しようとするのです。

ここで問題が起きます。

このFAでは、資金の豊富(金持ち球団)に優秀な選手ばかりが揃ってしまい、プロ野球リーグ全体に戦力均衡が崩れて、その球団ばかりが優勝ばかりすると野球が面白みが薄れて人気が下火になったり、人気のない球団は、入場料、球場内の物販、放映権、ライセンス、スポンサーの収入減少につながり、球団経営がたちいかなくなる可能性もあります。

そこで1993年FA制度が始まると同時に、FA宣言により選手が他球団に移籍した場合、戦力低下の補償として人的補償_金銭補償が始まりました。

所属球団の年俸1位〜10位までの選手がFA宣言をした場合のみ、人的補償が発生します。なお、11位以下の選手がFA宣言をした場合には、人的補償は発生しません。

また、1位〜10位の中でもランクが分かれています。

年俸1位〜3位がAランク
4位〜10位がBランク11位以下がCランクです。
このランクによって、人的補償と金銭補償の額が決められています(なお、外国人選手の年俸は年俸順位に含めません)。

❖FAの人的補償と金銭補償

ランク 年俸順位 補償
Aランク 年俸1位〜3位 選手1名+年俸の0.5倍の金銭
Bランク 年俸4位〜10位 選手1名+年俸の0.4倍の金銭
Cランク 年俸11位〜 なし

また、人的補償にいい選手がいなかった場合には、選手をもらわない代わりに金銭補償を増やすこともできます。

❖トレードと変わらない半FA制度

これがわかりません。

人的補償では、人的補償になった選手に意思がないので、トレードと変わらないのです。選手も行きたくない球団に行かされる可能性もありますので、今回のように、最初は、和田選手でしたが、蓋を開けてみると甲斐野選手になりました。

真相は定かではありませんが、和田選手は「西武に行くなら引退する」という話も出てきています。和田選手は最後のダイエーホークスの選手の一人で開幕を迎えると43歳で通算158勝のレジェンド級の選手で、入団したホークスでキャリアを終わらせたいと考えているかもしれません。

西武ライオンズもソフトバンクホークスも、和田選手を人的補償ということで、スポーツ新聞にすっぱ抜かれてから、影響を考慮してと変更というきな臭い話もあります。

こうなると、FAでも何でもなく、単なる球団間の話し合いによるトレードを変わらないんではないか?とも思います。

❖プロテクトの意味がない・・・

FA制度における「プロテクト」とは、FAで発生する人的補償の際に、流出しないよう選手を守る行為のことを言います。

「プロテクト」には、人数制限があり1球団あたり28名という制限があります。

人的補償をする場合、FAで流出する球団は、譲渡先の球団の「プロテクト外」の28名以外の選手から選択することになります。

このFA制度ではプロテクトリストを流出する球団に渡して、プロテクトから外れた選手の中から指名して獲得します。

球団間で話し合って人的補償選手を決めるのなら、そもそもプロテクトリストというものが意味を成さなくなってしまいます。

これではトレードと何ら変わりありません。



※最後に
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札幌市の五輪招致が事実上退場、SNSではやむなしとの声「哀れだよなこの国も」石川県・馳知事の失言も話題に(2023年12月1日)

 札幌市が目指してきた冬季五輪招致が、事実上の「退場」に追い込まれた。2030年、34年、38年も全て他都市が候補に挙がる絶望的状況となったが、SNSでは21年に開かれた東京五輪の悪評を踏まえて「久方ぶりの明るいニュース」「もう諦めろや」「公金チューチューを防げた」などの声が広がっている。

国際オリンピック委員会(IOC)が29日に開いた理事会で30年大会はフランス、34年大会は米ソルトレークシティーを最優先候補地とすると決定。38年大会についてもスイスを優先的に対話できる候補地とした。このため、札幌市が続けてきた五輪招致活動は窮地に追い込まれ、共同通信は1日に札幌市幹部が「撤退というよりも退場に近い」と語ったと報じた。

東京五輪は新型コロナウイルスの感染拡大で、反対の世論が根強い中で開かれた。終了後には汚職事件やテスト大会関連事業の入札での受注調整など不祥事が相次いで発覚し、逮捕者も出た。このため、札幌五輪招致に対する支持は悪化。今年10月には札幌市が30年大会の招致活動を断念し、34年大会以後の招致を目指すと発表した。

X(旧ツイッター)ではこの状況を受けた声が広がり、「汚職まみれで運営グダグダの東京五輪の悪夢があるので無理だと思う。悲しいけど日本でやる資格ないと思う」「完全にIOCに見放されたね。哀れだよなこの国も」といった意見が次々と寄せられた。馳浩石川県知事による「IOC委員に贈答品を渡すために官房機密費を使った」という失言も批判の材料となり、「考えてみたら札幌五輪が絶望的になったのは、馳さんのダメ押しがあったからかもしれないね」という声も上がった。


❖馳浩知事の発言(2023年11月17日)
 汚職にまみれた大会となってしまった東京オリンピックですが、自民党の招致推進本部長を務めていた人物がポロリと漏らした発言により、新たな疑惑が明るみに出てしまったようです。

石川県の馳浩知事が口を滑らせちゃった東京五輪招致に関する「内閣官房機密費」を使ったワイロ疑惑です。

11月17日、東京の日本体育大学で、全国の自治体関係者による地域のスポーツ振興などを話し合う意見交換会が行なわれたのですが、そこに馳せ参じた馳知事は講演会で、いつものように自分の自慢話を始めました。馳知事は自民党の衆議院だった時代から、講演や演説のたびに自分の自慢話や手柄話をするのが大好きで、自民党候補の応援演説に行った時も、候補者のことにはほとんど触れず、自分の自慢話を長々と話していたと言われています。

今回の講演では、自民党の東京五輪招致推進本部長をつとめていた自分が、2013年に東京五輪の招致に成功したという自慢話を披露したのです。そして、こうしたエピソードには付き物の「当事者しか知りえない裏話」として、当時の安倍晋三首相からの指示や、実際に自分が行なったロビー活動について、次のように話したのです。

「私は当時総理だった安倍晋三総理から『馳、国会を代表して五輪招致を勝ち取れ。必ずやってくれ』と叱咤激励されました。今からしゃべることは、メモを取らないようにしてくださいね。総理は『金はいくらでも出す。出せる。官房機密費もあるから』と

「それで、私は周囲に話を聞き、作戦を練りました。私は大して英語もしゃべれませんが、招致はIOC委員の投票で決まります。そこで、五輪招致のためにアルバムを作ったんです。IOCの委員が選手としてオリンピックに出場した時の良い場面、活躍している写真を、K社という会社がごまんと持っているわけですよ。IOC委員は全員で105名、その全員のアルバムを作ってお土産として持参したんです。この話は外で言っちゃダメですよ、官房機密費使って作ったので

「K社に『なんでこんなに高いのか』と聞いたら、肖像権などの問題があり、K社はそれをぜんぶ管理して、持っているから作成できたと説明されました。今、オリンピックは肖像権とか権利関係がいろいろとうるさいんですね。写真が20枚か30枚くらいのアルバムで、1冊20万円ですよ。それを私は世界のIOC委員に持って行きました」

「ウクライナでは、陸上のファンならご存じでしょう、(棒高跳びの金メダリストの)セルゲイ・ブブカ選手にアルバムを渡しました。こんな感じで世界のIOCの委員をまわって五輪招致を勝ち取ったのです。2013年9月7日のことでした」

札幌市の五輪招致がようやく事実上退場となりました。

日本ハムが広島市のエスコンフィールドに本拠地移転されてしまった札幌ドームの赤字運営の解消も目途がたっていないので穴埋めで税金が投入されると思いますが、五輪招致となりますと競技場の建設や大会運営費に税金が投入されて、さらに札幌市民に負担をかけることになると思いますし、恐らく国の税金までも投入されるでしょう。

東京大会が、コロナ禍に巻き込まれたことでの無観客や海外渡航者の制限による輸入減、国立競技場の建設やり直しや、コンパクト五輪などで3兆円に膨らんだ大会コストでした。

当時の猪瀬直樹都知事は「誤解する人がいるので言う。2020東京五輪は神宮の国立競技場を改築するがほとんど40年前の五輪施設をそのまま使うので世界一カネのかからない五輪なのです。」とツイートしています。

しかしながら、当初7,000億円が3兆円まで膨らんだ大会コストは「責任者不在のオリンピック団体、チェックが甘い都民」とも言われておりますが、それは『ちょっと待て!』です。

元々『五輪は不要』と考えていた東京都民のせいにするのはおかしいかと思います。

2016年のオックスフォード大学の研究で、1960年以降開催のオリンピック予算は平均156%超過しており、3分の1の大会では、コストが不明と判明したそうです。

つまり、理解に苦しむかもしれませんが、1960~2016年(リオデジャネイロオリンピック)の大会のうち3分の1以上では、誰も予算超過について把握していないようなのです。

「例外なくすべての大会で、予算を超過しています」と研究者のフリウビャ教授は言っておられます。

オリンピックの予算超過は平均156%。超過率が最大だったのは1976年のモントリオール大会で、720%という驚異的な超過だ。モントリオール市は支払いを終えるのに30年かかった。2位は1980年のレークプラシッドは324%の超過で、ソチの289%、バルセロナの266%と続いています。

大規模な交通プロジェクトの予算超過の平均は、道路が20%、大型の橋が34%、鉄道が45%だった。また、ダムの平均は90%、ITプロジェクトは107%だったそうで、オリンピックの予算超過は、これらのプロジェクトより、はるかに超過しています、

「オリンピックの事務局ができることとは、問題解決のためにお金をつぎ込むことぐらいなのです」と研究チームは述べる。つまりオリンピックには事実上、自由に使えるカネが必要なのだそうです。

今の日本にオリンピックも万博も、ワールドカップも必要ありません。

そんな事に無駄な税金を掛けて、予算を平気でオーバーして更に税金の追加無駄遣いをする役人や各協会担当者共に高い給料を払う必要な無いのです。

『どうしてやるのか?』

それは利権にむらがる吸血ヒルたちに五輪、万博、ワールドカップなどの大きな大会を開催することは、税金を懐に入れる絶好の機会だからです。

東京五輪で痛い目にあったのを日本国民として見ているはずなのに、それでも招致活動をやめようとしないのですから。

今は本当に必要な所に金を使うべきで、そういったイベントで肥え太るヒル共に血を吸わせる必要はまったくありません。まず日本国内の問題山積していることを政治でしっかり解決していくことが大事と思います。

招致できなくても別に悲しむことではないと思います。イベント重視ではなく、福祉と公共に時間と財産を使う、堅実かつ安定的で持続可能な行政を行うべきです。

どの自治体も同じです。しっかり足元を見つめて、誰にでも優しくいられる社会をつくりましょう。続けましょう。公僕って、いい言葉じゃないですか。

また、問題として、温暖化ならぬ地球沸騰期に入った気候も気になります。この国では、もはやオリンピックやワールドカップは開催できないかもしれません。

夏は暑すぎるし、冬はこれからも雪が降るかどうか判らなくなってきました。地球気候変動で毎年のように暑くなっているからです。現に東京五輪ではマラソンが東京でなく北海道に急遽変更になりました。サッカーワールドカップのカタール大会(2022年)は11月開催でした。

北海道付近の海では、ブリがとれたり、紅ズワイガニがとれたりと海までもおかしくなっている。台風の進路も今年は上陸が極端に少なかったと思います。

南極や北極の氷が溶けているし、問題は世界的なもので局地的なものではないのです。

札幌市が敗退したことは、日本のためにかえって良いのではないか。それだけが救いです。

2038年なんて氷河期世代が高齢者になり高齢化率は約35%になっており、人口も大きく減少し、1,500万人減少の1億1千万人になっています。そんな老人の多い国がオリンピック運営をうまくできるのでしょうか。

吸血ヒルたちに税金が垂れ流されるようなオリンピックなんてもう日本では開催せずに、その分は国民の福祉のために使用するしかないと思います。



※最後に
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2023.11.30改題(旧題:【中田の次は安楽・・・】野球界に蔓延する暴力行為)

楽天に激震!安楽パワハラ疑惑 複数の選手が告発 球団側も認め「しっかりと調査する」(2023年11月25日3時00分)

 楽天の複数の若手選手が安楽智大投手(27)からパワーハラスメント(パワハラ)の被害を受けていると球団に訴えていることが24日、分かった。済美(愛媛)時代に甲子園大会準優勝の実績があり、14年ドラフト1位で入団した右腕は今季も57試合に登板するなど近年は救援としてブルペンを支えている。今後、球団は事実関係を調査した上で、厳正に対処する方針だ。

少年少女の規範とならなければいけないプロ野球選手による、パワハラ疑惑が浮上した。関係者によると複数の選手から、今オフの契約更改交渉の席などで安楽から日常的に「いじめを受けている」と告発があったという。森井誠之球団社長は「私の耳にも入ってきている状況。しっかりと調査する」と認め、調査に乗り出す方針。仮に事実なら大問題だ。

ある選手はスポニチ本紙の取材に、今夏のロッテ戦前のZOZOマリンのロッカールームで「倒立しろ」と命令されたことを明かし「身動きがとれない状態でズボンとパンツを取られて下半身を露出させられた。陰部に靴下をかぶせて笑いものにされて恥ずかしかったし、精神的な苦痛を受けた。同じ被害を受けた選手は別にもいる」と生々しく証言した。この場面を見たという複数の選手もいる。

また別の選手らによると指導の名目で「アホ」や「バカ」など罵声を浴びせ、食事などの誘いを断ったり電話に出ない際は「だからお前はダメなんだ」などの言葉で人格否定を繰り返す被害もあった。「罰金」と称して金銭の支払いを強要することもあり、このような内容を送ったLINEなどの記録も残されているという。またかつて在籍した選手からも、21年の春季キャンプ中に平手打ちされ、むち打ちの症状が出たと証言する声も出ている。外部の人間が入れないロッカールーム内での行為も多く、これまで実態が表面化することはなかったが、ある中堅選手は「明らかないじめ行為。周囲が注意しても安楽は“そんなことはしていない”とか“あいつだって悪い”と聞く耳をもたなかった」と話した。

被害の申し出を受け球団も調査に乗り出す方針。森井社長は「大前提としてハラスメントということはどんなことがあっても許されない」とした上で「(被害の)声に対して誠実に対応しなければいけない。まずは本人(安楽)と話をして、派生する人にも話を聴かないといけない」と今後の見通しを語った。

済美時代の13年選抜で準優勝などの実績を残し、14年ドラフト1位で入団した安楽。9年目の今季も57試合に登板してブルペンを支えた。この日は楽天モバイルパークで自主トレを行ったとみられ、25日には契約更改交渉が予定されている。ファンの人気も高い主力選手によるパワハラ疑惑。今後の調査の行方が注目される。
安楽智大①
◇安楽 智大(あんらく・ともひろ)1996年(平8)11月4日生まれ、愛媛県出身の27歳。済美では1年秋からエースで2年春夏に甲子園出場。2年春は5試合で計772球を投じて準Vに貢献し、夏は甲子園最速(当時)の155キロを記録。14年ドラフト1位で楽天入団。15年10月5日のソフトバンク戦で先発しプロ初登板初勝利。20年から救援に転向。今季は57試合で3勝2敗、防御率3・04。1メートル86、87キロ。右投げ左打ち。

☆西武 10年7月に当時の大久保博元2軍打撃コーチが、菊池雄星に対して暴力行為があったとして解雇。翌11年1月、同氏は契約解除の無効を求め西武を提訴したが、12年から楽天コーチに就任することが決まり、訴訟の継続を断念した。

☆日本ハム 21年8月に中田翔がチームメートへの暴力行為を行ったとして、1、2軍全試合の出場停止処分。同僚の選手1人に対して突発的に腹を立てて暴行に及んだと説明した。中田はその後、無償トレードで巨人に移籍した。


楽天 ハラスメント問題の安楽 25日に予定されていた契約更改を急きょ見送り(2023年11月25日9時22分)

楽天は25日、球団内でのハラスメント行為が明らかになった、安楽智大投手(27)のこの日に予定されていた契約更改交渉が、見送りになったことを発表した。今後行われるかは未定となっている。

安楽は複数の後輩選手へ執拗な食事の誘いや、練習中や練習後に高圧的な言葉をかけるなどのハラスメント行為をしていたと見られる。
安楽智大②


【楽天】パワハラ疑惑の安楽智大、契約更改は無期限延期 選手、関係者ら約100人にアンケート調査実施(2023年11月25日19時29分)

 楽天・森井誠之球団社長(49)が25日、複数選手からハラスメント被害を訴えられている安楽智大投手(27)に対し自宅待機を命じていると明かした。

仙台市内で取材対応した森井社長は「まずはファンの方にご心配とご不安を与えてしまい申し訳ございません」と謝罪。続けて「今日の報道を受けまして、今日契約更改がありましたが、本人にも通達しまして、契約更改に関しましては無期限延期としています。その上で本人には自宅で待機をするように通達しました」と現状を報告した。

安楽はZOZOマリンのロッカールーム内で若手選手を逆立ちさせた状態で下着をずらし下半身を露出させたり、かつて在籍した元選手の頭部を平手打ちを行うなどの暴力行為があったという証言が公になっている。

森井社長は「その上でですが、本人と会って直接ヒアリングを行っております。その上で本人の言い分を聞きました。全選手、監督、コーチ、スタッフに対してアンケートを送っております。これを全員分集めて、事実確認を行っているのが現在のステータスになります。今日中には集まらないとは思いますが、それも含めて双方の(意見の)部分を照らし合わせて適切な処置、対応をしたいなと思います」と球団関係者約100人にアンケートを送付し、情報収集を行っているとした。

仮に安楽のハラスメント行為が認定された場合の処分については30日がNPBへの保留者名簿の提出期限となっており、「まさにそのあたりが社内で議論しているところ。認識はしているのでひとつのラインにはなると思う」と説明した。
安楽智大③


【楽天】安楽智大のパワハラ疑惑関連で、選手ら関係者約100人に送付したアンケートが締め切り(2023年11月26日19時50分)

 楽天は26日、安楽智大投手(27)の後輩選手へのパワーハラスメント疑惑について、チーム関係者に送付したアンケートの回答を締め切った。監督、コーチ、選手、スタッフら約100人が対象の記名式で、パワハラ行為を受けたか、見たかなどの声を募った。回答を集計した後、安楽にも再度ヒアリングを行う方針。調査がまとまり次第、報道陣に報告するとしている。球団が来季も契約する権利を持つ保留者名簿の提出期限は、30日となっている。
安楽智大④_

楽天の安楽智大(あんらく・ともひろ)が複数選手の球団への訴えで、パワハラ疑惑が報道されました。つい最近では、日本ハム中田が同じような事件を起こして、巨人へトレードとなりました。現在は楽天球団による本人の事情聴取や、関係者へのアンケートが行われて、詳細が念入りに調べられています。

楽天と言えば、パワハラ疑惑が発覚した11月25日に、サッカーJ1 ヴィッセル神戸が初優勝 創設29年目で頂点にたったばかりのうれしいニュースをかき消してしまうほどのニュースとなりました。

大谷翔平選手やイチロー選手のような暴力とは無縁の方もいますので、野球界全体に蔓延しているとは思いたくないですが、少年野球から根絶していかないといけない根の深い問題なのかもしれません。

【速報】楽天森井球団社長「報道はほぼ事実」ハラスメント疑惑・安樂投手自由契約に〈宮城〉(2023年11月30日16時12分)

 プロ野球・楽天は先ほど会見を開き、安樂智大投手のハラスメント疑惑に対し、森井球団社長が「報道はほぼ事実」と話し、謝罪しました。また、安樂投手とは来シーズン契約を結ばず、自由契約にすることも発表しました。

森井球団社長の主な発言は以下の通りです。

まずはじめに、ファンのみなさま、関係しているすべての皆様方に多大なるご心配ご不安を与えたこと、このような事態になりましたこと、深くお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。

今月25日から全選手、監督、コーチ、スタッフに対してアンケートを実施しました。アンケート結果をもとに、各選手のヒアリングを実施し、改めて本人への確認も行い、専門家の意見もいただきながら、調査・確認を慎重に進めてきました。その結果、これまで報道がなされていた安楽選手に対して、ほぼ事実ということが判明しました。本人としても、「大変申し訳ない」と反省の弁を何度も述べており、被害者やファンのみなさまに、直接自分の口で謝罪をしたいと何度も申し上げております。

しかしながら、本件に関して、球団としては見過ごすことのできない重大な事象ととらえ、本日提出期限であります、保留選手名簿への記載をしないという結論にいたりました。改めましてファンのみなさま関係するみなさまに多大なるご迷惑をおかけすることになったこと、改めてお詫び申し上げます。この度は誠に申し訳ございません。
楽天の安楽智大は自由契約へ①


【楽天】安楽智大は自由契約へ ハラスメント行為が認定され被害者は約10人、目撃した選手は40人(2023年11月30日16時25分)

 楽天・安楽智大投手(27)の複数選手へ対するハラスメント疑惑について、森井誠之球団社長(49)が30日、楽天モバイルで記者会見を開き、安楽を自由契約にすると発表した。

この日がNPBに提出する保留者名簿の提出期限となっており、森井社長は25日時点で、「社内で議論しているところでは一つのライン」と対応の可否を判断する目安の日としていた。会見には球団の顧問弁護士であるTMI総合法律事務所の稲垣勝之氏も同席した。

森井社長は「今月の25日から監督、コーチ、選手へアンケートを行いました。アンケート結果と本人のヒアリングを重ね、専門家と協議を重ね、安楽選手についてほぼ事実と認識しました。球団として重大な事態と受け止め、保留選手名簿への記載をしないと決断に至りました」と説明した。

137名へアンケート配布を行い、回答率は92パーセント。約10名の選手が被害を訴え、目撃したことがある選手は40名いた。

安楽は反省の意を示しており、選手やファンの方へ謝罪をしたいと話しているという。球団としては今後、謝罪の場を設けることも検討している。

確認できた被害については、ロッカールームで下半身を露出させたことや罵声を浴びせたことは事実だと認識された。安楽への調査は終了すると話し、今後は被害の場を訴える窓口を設けるなど対策を行う。
楽天の安楽智大は自由契約へ②

【2023.11.30】追記
ひとつの結論がでました。楽天は関係者全員へのアンケートと安楽智大へのヒアリングにより、事実ということが確定となりました。

安楽が自由契約になるのは事の重大さからして事実で有れば当然の判断でしょう。さらにここで終わるのか?自由契約ではなく解雇で訴訟になるのかもしれません。

元日本ハムー巨人の中田の一件とか見聞きしていてこうなるって想像がつきそうなものですが、やはり中田の前例(トレード救済)も頭にあったのかとも勘ぐってしまいます。

元同僚からの球団への告発から始まり、アンケートでは10人もの被害者がいたことがわかりました。元同僚からの告発ですから、パワハラも度を通り越して犯罪まがいの行為で耐えられなかったんでしょう。これは非常に重いですね。リーグ優勝、日本一を目指して、日々目標にむかって同じ釜の飯を食べている人間たちからの告発ですから、弁解の余地もありません。残念な結果になりました。

最後のジャイアンツ様へ。これでも安楽をとりますか?



※最後に
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羽生結弦さん離婚発表「誹謗中傷やストーカー行為…お相手と私自身を守り続けることは極めて難しく」決断(2023年11月17日23時44分)
羽生結弦さん
 フィギュアスケート男子で14年ソチ、18年平昌五輪と2大会連続金メダルを獲得し、現在はプロスケーターとして活躍する羽生結弦さん(28)が17日深夜、離婚することを決断したと公式X(旧ツイッター)「羽生結弦official_Staff公式」で発表した。結婚発表からわずか105日での決断となった。

 今年8月4日の午後11時11分に一般女性との結婚を発表した羽生さん。この日、Xで「互いを心から尊敬し、大切にしていく覚悟を持って結婚いたしました。それぞれを守るために様々なことを考えながら共に乗り越え、過ごしてきました」と振り返り、重大な決意をつづった。

 「現在、様々なメディア媒体で、一般人であるお相手、そのご親族や関係者の方々に対して、そして、私の親族、関係者に対しても、誹謗中傷やストーカー行為、許可のない取材や報道がなされています。生活空間においても、不審な車や人物に徘徊されることや、突然声をかけられることもあります。私たちは、共に思い悩みながらも、このような事態から、互いをなんとか守っていけるように努めてきました」と結婚発表以降、様々な場面でプライバシーを脅かされる事態に直面していたことを明かした。

 これまでの経緯から「しかし、私が未熟であるがゆえに、現状のままお相手と私自身を守り続けることは極めて難しく、耐え難いものでした。このような状況が続いていく可能性と、一時改善されたとしても再びこのような状況になってしまう可能性がある中で、これからの未来を考えたとき、お相手に幸せであってほしい、制限のない幸せでいてほしいという思いから、離婚するという決断をいたしました」と重大な決断をするに至ったとした。
羽生結弦さん離婚発表

【速報】羽生結弦さんが結婚を発表(2023年8月5日3時9分)

 フィギュアスケートの羽生結弦さんが自身の公式SNSで結婚を発表しました。

 フィギュアスケートでオリンピック連覇、そして昨年7月、プロに転向した羽生結弦さんが、今月4日夜、自身の公式SNSで結婚を発表しました。

 「この度、私、羽生結弦は入籍する運びとなりました。今後の人生も、応援してくださっている皆様と、スケートと共に、全力で前へと、生きていきます。これからも支えてくださる方々への感謝の気持ちと共に、皆様の全てを、最高の形にできるように、滑り続けます。これからも、どうかよろしくお願い致します」と、コメントを出しました。
羽生結弦さん結婚発表

羽生結弦さんが離婚されました。

離婚の真の理由は、お二人しかわかりませんので、周りがどうこう詮索しても意味はありません。

離婚するのは当人たちの自由ですが、離婚理由をマスコミとしてしまったところて、マスコミ含めた周囲は黙っていられなると思いますのは容易に想像はついたはずです。

結婚発表のSNSコメントでは
『プロに転向した今も、競技者としての過去も、人間として未熟な私ですが、皆様からのたくさんの応援や期待、そして視線から計り知れないほど大きな力をいただいてきました。』と書かれている一文がありました。

そして離婚発表のSNSコメントでは
『しかし、私が未熟であるがゆえに、現状のままお相手と私自身を守り続けることは極めて難しく、耐え難いものでした。』

と自分が人間的に未熟というのであれば、

『未熟な私には相手を思いやることができず、傷つけてしまい、この度離婚することになりました。』

だけでよかったのです。

一番気になりますのは、離婚までの間にマスコミ等に対して注意喚起を一度も行わなかったと言う最大の違和感があります。

羽生結弦さんの離婚は、お二人で話し合った結果でしたら、どうしても結婚生活を持続させていくべき解決策に至らなかったのかが不思議に思えます。やはり105日間余りでスピード離婚になったことは腑に落ちないと思います。

離婚理由が「マスメディア媒体」から元奥様を守る為と云いつつも、仮にも深い愛情と絆で結ばれていたならば、そんなに簡単に別離するという結論にはならなかったと思います。

芸能人の「円満離婚アピール」の見え見えの違和感よりかはましでしょうか。

❖自分ならSNSコメントはこう書く!

応援してくださっている皆様へ

いつも暖かいお言葉や応援、ご声援、本当にありがとうございます。

私事ではありますが、皆様にお伝えしたいことがございます。

私は、一般の方と結婚いたしました。

互いを心から尊敬し、大切にしていく覚悟を持って結婚いたしました。

それぞれを守るために様々なことを考えながら共に乗り越え、過ごしてきました。

しかしながら、未熟な私には相手を思いやることができず、傷つけてしまい、この度離婚するということになりました。・・・離婚理由はいらない(所詮、何を書いても憶測を呼ぶ)

この度の離婚につきましてはすべて、わたくしの不徳の致すところです。関係者の皆様、ファンの皆様に深くお詫び申し上げます。【追記】

そんな生活の中で、お相手は、家から一歩も外に出られない状況が続いても、私を守るために行動し、支えてくれていました。

現在、様々なメディア媒体で、一般人であるお相手、そのご親族や関係者の方々に対して、そして、私の親族、関係者に対しても、誹謗中傷やストーカー行為、許可のない取材や報道がなされています。生活空間においても、不審な車や人物に徘徊されることや、突然声をかけられることもあります。

私たちは、共に思い悩みながらも、このような事態から、互いをなんとか守っていけるように努めてきました。

しかし、私が未熟であるがゆえに、現状のままお相手と私自身を守り続けることは極めて難しく、耐え難いものでした。

このような状況が続いていく可能性と、一時改善されたとしても再びこのような状況になってしまう可能性がある中で、これからの未来を考えたとき、お相手に幸せであってほしい、制限のない幸せでいてほしいという思いから、離婚するという決断をいたしました。

最後に、皆様にお願いがございます。【追記】

現在、様々なメディア媒体で、一般人であるお相手、そのご親族や関係者の方々に対して、そして、私の親族、関係者に対しても、誹謗中傷やストーカー行為、許可のない取材や報道がなされています。生活空間においても、不審な車や人物に徘徊されることや、突然声をかけられることもあります。【本文移動】

そんな生活の中で、お相手は、家から一歩も外に出られない状況が続いても、私を守るために行動し、支えてくれていました。【本文移動】

これからは、一般人であるお相手、そのご親族や関係者の方々、また、私の親族、関係者に対しての誹謗中傷や無許可の取材、報道等、迷惑行為はおやめください。御遠慮ください。【言い回しの変更】

心より、お願い申し上げます。

この先も、前に進んでいきます。

これからも、よろしくお願いいたします。

最後に、自分が有名人で離婚発表をSNSでコメントするなら、どう書きますか?私なら、上記のように書きます。いろいろな意見があると思います。



ザキトワさん・・・。
ザキトワさん



※最後に
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万博建設費増額、甘かった協会の見通し 各方面から批判噴出(2023年10月20日)

大阪・関西万博(基本構想)
 大阪・関西万博の会場建設費が、これまでの1850億円から500億円増の最大2350億円となることが20日、正式に報告された。日本国際博覧会協会は資材費や人件費の高騰を増額の理由とするが、これらへの懸念は昨年時点で経済界などから指摘されていた。ぎりぎりまで増額の判断をしなかった協会の見通しの甘さに、各方面から批判が噴出している。

「1850億円の範囲内で建設を行うミッションを与えられ努力してきたが、不十分ということで苦渋の決断をして(増額を)お願いしている」。建設費増額の報告後に大阪市内で記者会見した協会の石毛博行事務総長はこう釈明した。

建設費は政府、大阪府市、経済界の3者が等分負担する。これまで1者あたりの負担は617億円だったが、増額により単純計算で160億円超の追加負担が発生する。

増額の報告を受けた大阪府の吉村洋文知事は「説明は不十分だ。協会に改めて質問し、回答を踏まえて判断したい」と厳しい表情で語った。

建設費が令和2年12月に1250億円から1850億円に引き上げられた際、井上信治万博担当相(当時)は「新型コロナウイルス禍で負担を強いられている中だが、国民が盛り上がる万博にするのがわれわれの責任」と言及。吉村氏は「コストを上げるのはこれが最後だ」と述べていた。

その後、ロシアによるウクライナ侵攻の影響などで資材や燃料価格の高騰が続き、予算は逼迫(ひっぱく)。経済界で寄付集めの旗振り役を務めてきた関西経済連合会の松本正義会長は昨年11月の会見で「以前から(1850億円で)足りるのかと何度も言ってきた」とした上で、建設費の上振れを容認する考えを示した。

それにもかかわらず、協会は「ただちに見直し議論が必要な状況ではない」などと従来の主張を崩さなかった。その根拠として、協会は最初に増額した際に物価上昇分を織り込んでいることなどを挙げていた。

実は協会内でも、想定を上回る物価上昇などで「増額は避けられない」との意見も出ていたが、予算膨張の批判を避けたいトップの判断が遅れた。石毛氏は20日の会見で「昨年段階で(増額を)お願いするという認識はなかった」とした。

松本氏は産経新聞の取材に対し、「協会は土壇場で(1850億円では)できないと言ってきた。負担する国民に対する説明が不足しているし、不誠実な態度だ」と批判した。
大阪・関西万博(工事中)

2025年日本国際博覧会(略称「大阪・関西万博」)が、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに、2025年4月13日 から10月13日までの183日間、大阪市の人工島「夢洲」で開催されます。

その会場となる大阪市の人工島「夢洲」ですが、建設費が当初の1,850億円から500億円増えて最大2,350億円となることが20日に正式報告されたそうです。

毎度の事ですが、五輪にしても万博にしても事前からこうなるとは皆が思っています。

そして近年の五輪や万博は開催自体に反対する人が多いです。過去のようには経済効果は期待できないことを分かっていることに税金を投入するならば、少子化や高齢化など難題への税金投入してほしいですし、給料も増えないので、減税してほしいというのが、国民の願いなのではないでしょうか。

五輪も万博も国民の了承など取らずして、ほぼ決定事項になっているのが、どうも気になります。
五輪や万博など、多額の税金を投入する祭典は国民投票で決めるよう法律を改正してほしいところです。

大阪・関西万博の会場となる大阪市の人工島「夢洲」ですが、物理的な悪条件が重なっています。

夢洲は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンがあることで有名な此花区(このはなく)の埋め立て地です。 広さは約390ヘクタールで、そのうち約170ヘクタールが万博・IR の開発対象となっています。

夢洲の土は、海や川の底を掘り起こしたいわゆる浚渫土(しゅんせつど)なので地盤がとても軟弱です。建物を建てると地盤沈下や液状化現象が発生してしまうで、そのままでは建物が建てられないため、大規模な地盤改良がおこなわれています。

また、1970年からゴミ処理場として焼却物や建設残土で埋めたれられたこの土地は、土壌汚染の問題が指摘されています。

そして、建設費を押し上げているひとつの理由として挙げられているのが、開催地・夢洲へのアクセスの悪さです。実際に地図を見ると一目瞭然ですが、夢洲へアクセスできる陸路は「夢咲トンネル」と「夢舞大橋」の2つしかありません。

建設資材を運ぶトラックなどのルートも限られます。多くの海外パビリオン担当者はこの交通事情を理解しておらず、通常の万博と同じペースでの発注を想定しているとのこと。多くの建設会社は建設が間に合わない「責任問題」を押し付けられることを恐れ、海外パビリオンの工事に関わらないように立ち回っています。

こうして建設が遅れて人件費が上振れしています。2024年問題(※)もありますので、このままではすまないでしょう。

※物流・運送業界の「2024年問題」とは、働き方改革法案によりドライバーの労働時間に上限が課されることで生じる問題の総称のことです。 具体的には、ドライバーの時間外労働時間が年間960時間に制限されることで、一人当たりの走行距離が短くなり、長距離でモノが運べなくなると懸念されています。
2023年大阪万博
それでも、2023年10月12日に札幌市と日本オリンピック委員会(JOC)は11日、2030年冬季五輪・パラリンピック招致の断念をやっと表明した次第です。。

2014年から招致を続けてますが、東京大会汚職でオリパラのイメージが悪化した結果、当然ですが市民の支持率は高まりません。2034年以降の招致の可能性を探るといいますが「超高齢化社会」に突入していく札幌で開催する「大義」はどこにあるんでしょうか?

それでも、五輪、万博、W杯を誘致して利権に群がりたいハイエナのような連中が虎視眈々とタイミングを伺っているのです。

利権にまみれた過去の祭典や大会を振り返ってみましょう。意外にも黒字である祭典や大会が多いです。ただし、その後のレガシー(遺産)の維持管理では、ほぼ赤字垂れ流しになります。

東京五輪(2020年が1年伸びて2021年)・・・赤字2兆円超え

東京五輪
コロナ禍に行われた東京五輪です。いわくつきの五輪となりましたね。

最初は2015年に日本中が大騒動となった「五輪エンブレム(ロゴマーク)問題」です。

最初に発表されたエンブレムが「盗作疑惑」にさらされ撤回されたことで、公募されたイラストの中から大会組織委員会が選出した3つの作品を最終候補作品として発表し、これを全国1万6,769校の小学生の投票にて決定となりました。もう、どんなエンブレムかも忘れてしまいました。

東京五輪の主会場、国立競技場の建て替えには紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。

整備主体の日本スポーツ振興センター(JSC)は2012年11月、ザハ・ハディド氏のデザインを最優秀賞に決定しました。8万人収容で、完成予定は19年3月、総工費は1300億円程度とされていました。

しかしながら設計段階で工費が約3500億円まで膨らみ、政府は計画を縮小として。2015年7月、工費2520億円とする計画を決定しましたが批判が収まらず、安倍晋三首相が2015年7月、白紙撤回を表明した。

そして、大成建設・梓設計・建築家の隈研吾氏で構成するチームにより、新しい国立競技場は2019年11月に完成しました。ただし、旧計画ではこけら落としになるはずだったラグビーワールドカップ(W杯)には間に合わいませんでした。コンセプトは木をふんだんに使った「杜(もり)のスタジアム」であり、約6万の観客席は5色でモザイク状に彩られました。そして周辺を含めた整備費は1569億円でした。

白紙撤回を巡り、ザハ・ハディド氏の事務所に約14億円払ったと発表しました。

JSC(日本スポーツ振興センター)によりますと、白紙撤回となった当初の新国立競技場にかかった費用は約68億6000万円でした。このうち、デザインしたザハ氏の事務所に支払ったのは、デザインの作成にかかった費用や人件費などを合わせて約13億9000万円でした。違約金などは発生しませんでした。

そして、2019年11月、東京五輪のマラソン・競歩の開催地が札幌に変更されることが正式に決まりました。

これは2019年9月にドーハで行われた女子マラソンは暑さを避けて真夜中にスタート時間を設定したものの、高い気温と湿度で参加者の40%が途中リタイヤと、異常事態が発生しました。それが影響したのか、突然の開催地変更が翌10月に公表されたのです。

IOCによる急な決定は開催地の都知事ですらかやの外でした。そして札幌市長がマラソン・競歩開催に関し「光栄です」と発言したことで一部の都民から反感を買い、札幌市にはのべ200件を超える抗議が殺到したと伝えられています。

もう一つの都市で五輪の大会運営をするのは限界がありますので、東京五輪とかではなく、日本五輪とかにすればいいのにと思います。

そして、東京五輪・パラリンピックについて、会計検査院は2022年12月21日、大会経費は計約1兆7千億円に上るとする検査結果を国会に報告されました。 大会組織委員会(解散)の最終報告で公表された経費は約1兆4千億円でしたが、検査院は国の負担した「直接経費」が約2800億円多かったと結論づけました。

また、会計検査院は大会経費の調査報告を発表しました。道路整備など関連経費も加えた総額は3兆6845億円に上った。立候補時に見積もった7340億円に比べ、5倍の費用がかかった計算だ。

予算なんてあってないようなものですね。

オリンピックの平均費用はいくらかといいますと、英オックスフォード大の研究では、1960年から2016年までの夏季五輪の平均開催費用(パラリンピック含まず)は60億ドル(約6600億円)で、年々増加傾向にあるとしています。

東京五輪で使われた税金は、東京都と国の「大会経費」 と「関連経費」の合計額は、都が1兆4千519億円、国が1兆3千59億円でした。この金額は都と国の一般会計から支出されており、財源はいずれも税金になります。いやー凄い金額ですね。

組織委員会の算定には甘さがあったと言わざるを得ませんね。

無駄遣いも目に余る。選手村の料理が175トン、大会関係者用の弁当が30万食分も廃棄され、感染対策のマスクやガウンなど医療用品も大量に処分されていたそうです。これは氷山の一角と言われています。

大会関連事業も経費全体を膨張させました。検査院によると、14府省などの329事業で1兆3002億円の国費が投じられた。テロ情報の収集や道路の暑熱対策、競技会場周辺のバリアフリー化など数々の事業が実施されたためです。

2034年以降に冬季大会の開催に札幌市が名乗りを上げています。市は改めて住民に賛否の意向を調査する方針ですが、東京五輪の徹底した検証がなければ、招致に理解は得られないでしょう。

組織委員会の収支では、新型コロナウイルスの影響で多くの会場で無観客での開催となり、900億円を見込んでいたチケット収入がほどんど得られなかったことなどから、収入が2020年12月時点に公表した7210億円を806億円下回って6404億円だったそうです。

東京五輪・パラリンピック組織委員会、および東京都、国の赤字の総額は約2兆3713億円になる試算も出ています。

❖五輪の費用比較
 ・東京夏季五輪(2021年、280億ドル/約3兆1000億円)
 ・平昌冬季五輪(2018年、129億ドル/約1兆4000億円)
 ・リオデジャネイロ夏季五輪(2016年、137億ドル/約1兆5000億円)
 ・ソチ冬季五輪(2014年、219億ドル/約2兆4000億円)
 ・ロンドン夏季五輪(2012年、150億ドル/約1兆6500億円)
 ・バンクーバー冬季五輪(2010年、25億ドル/約2800億円)
 ・北京夏季五輪(2008年、68億ドル/約7500億円)
 ・トリノ冬季五輪(2006年、44億ドル/約4900億円)
 ・アテネ夏季五輪(2004年、29億ドル/約3200億円)
 ・ソルトレークシティ冬季五輪(2002年、25億ドル/約2800億円)
 ・シドニー夏季五輪(2000年、50億ドル/約5500億円)
 ・長野冬季五輪(1998年、22億ドル/約2400億円)
 ・アトランタ夏季五輪(1996年、42億ドル/約4650億円)
 ・リレハンメル冬季五輪(1994年、22億ドル/約2400億円)
 ・バルセロナ夏季五輪(1992年、97億ドル/約1兆1000億円)

日韓ワールドカップ(2002年)・・・共催も60億円黒字

日韓W杯
2002年日韓ワールドカップ(W杯)は、サッカー関係者やファンには、悲願の招致となった大会です。
フランスワードカップでは、日本は初出場を果たしたものの、グループステージでは3連敗でした。

特にW杯開催国はグループステージ敗退なしという神話(その後、2010年の南アフリカ、2022年のカタールはグループステージ敗退)があり、開催国がグループステージで敗退するのは不名誉な記録であり、当時の弱小アジアの開催では、日本がグループステージ敗退の可能性があり、危ぶまれていました。

しかしながら、開催国として日本はグループステージを突破しました。ノックアウトステージのラウンド16でトルコに負けてしまいましたが、開催国の責任は果たしたと思います。

日韓ワールドカップは、開催されるまでの紆余曲折を覚えている人も多いのではないでしょうか。

開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定でした。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派と欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始めます。

そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進し、次第に日韓共催案が現実味を帯び始めます。

しかし直前になって欧州理事たちが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派となりました。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から趨勢を悟ったアヴェランジェ会長は定例理事会で日韓両国による共同開催案を自ら提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じたのです。

結局、投票を待たずして1996年5月30日FIFA理事会は「ワールドカップは単独開催」という規則を無視し、FIFA事務局長のジョセフ・ゼップ・ブラッターの名でホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し日韓共催を打診する文書を送り、欧州アフリカ理事らの動向を掴めなかった日本は想定外となる共同開催決定に苦渋の決断で受け入れを表明したのです。

日本ではグループステージ、ノックアウトステージで使用される15の競技場を新設及び一部は改修する費用だけで、4500億円が投資されました。 これに交通基盤整備や競技場周辺のインフラ整備などを加えると総投資額は約9000億円となりました。

大会後、日本は2002年日ワールドカップ(W杯)サッカーの開催で132億8300万円(1億1070万ドル)の収益を挙げたことが明らかになりました。

そして日本ワールドカップ(W杯)組織委員会(JAWOC)が日韓ワールドカップサッカーで60億円以上の黒字を記録する見通しだと報じられました。

ラグビーワールドカップ(2019年)・・・W杯史上最高の68億円黒字

ラグビー2019W杯
日本でラグビーワールドカップ(W杯)が行われました。2019年9月20日から11月2日に開催されました。第9回ラグビーワールドカップでアジア初、またティア1以外の国における初の開催でした。

日本、今まで決勝トーナメントに進出したことがありませんでしたが、地の利を生かして、プールステージを4勝0敗で突破しました。決勝トーナメントでは南アフリカ共和国に敗れてしまいましたが、開催国の責任は果たしたと言えるでしょう。

このワールドカップ費用は、全体としては約420億円で、内訳、大会運営費全体で約180億円、大会開催のための会場改修費用が約100億円、そして、何よりも大きな負担となったのが、大会主催者であるワールドラグビー(WR)への負担金の支払いでした。その額、約130億円(9,600万ポンド)でした。

そして、大成功を収めたラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会が新たな「史上最高」を記録しました。大会組織委員会が2020年3月10日に発表した実質的な黒字は68億円程度と、W杯史上最高額になったとみられる

過去のW杯で開催国に入った剰余金をみると、2015年のイングランド大会で2600万ポンド(約34億円)でしたので、その2倍に達したのです。

黒字の立役者は、もちろん史上初のベスト8進出を果たした我らがジャパンでした。ジャパンの5試合の総入場者数は24万9750人。チケットは全て完売でした。

それだけではありません。大会を通じたチケット完売率は過去最高の99%。チケット収入は389億円を記録し、これが牽引役となって68億円の黒字を計上しました。

大阪万博(1970年)・・・日本初の万博で大成功の198億円黒字

1970年大阪万博
2025年の大阪・関西万博は「2匹目のどじょう」を狙っているといってもいいです。

1970年、183日間で6421万人以上が訪れた日本万国博覧会の入場者数は2010年の上海万博に抜かれるまで、万博史上の最高記録を保持しました。

日本にとって国際博覧会の開催は悲願でした。明治期に構想は2度あったが実現せず、1940年開催予定の「紀元2600年記念日本万国博覧会」は前売券まで販売されたものの、日中戦争により延期という名の中止に追い込まれました。

終戦後、高度経済成長を遂げていた日本は、甲子園球場83個分に及ぶ約330ヘクタールの会場で、「戦後復興の総仕上げ」に挑んだのです。

当初、客足は鈍く、開幕日には53万人の入場者が予測されたが、27万4124人に留まり、その週は1日20万人に届かない日々が続きました。しかし、徐々に口コミで面白さが伝わっていったのです。高度経済成長期中の日本の万博には「未来の日本」を写し出していたのです。

国内外のパビリオン数は計116でした。電気通信館には携帯電話やテレビ電話が並び、人々はその目新しさの虜になりました。アメリカ館は空気膜構造を応用し、柱のないエアドームを作りました。この工法は、後の東京ドームなどに取り入れられています。

動く歩道やモノレール、10分200円で乗れる電気自動車などの移動手段も物珍しく、パビリオンが見せる近未来像とともに会場は新しいものに溢れました。そして77か国が参加する万博は「世界の祭り」でもありました。リオのカーニバルなどの催しや、各パビリオンのレストランで供される異国の料理も人々を魅了しました。

閉幕直前の9月5日には最多の83万5832人を動員。総入場者数は6421万を超え、当時の万博史上最多を記録したのです。

そして877億円という莫大な予算を掛けて赤字を危惧されましたが、最終的には192億円もの黒字を生み出しました。後世に語り継がれる大成功を収め、「太陽の塔」の岡本太郎、「カプセル建築」の黒川紀章、服飾デザイナーのコシノジュンコなどの芸術家は国際的にもその名を轟かせました。

愛知万博(2005年)・・・開催決定後のに会場変更もあったが130億円黒字
愛知県長久手町(現在は市)を主会場に、2005年に開かれた愛知万博(愛・地球博)。開催決定後の会場変更といった曲折を経て、会期中は2200万人の来場者でにぎわいました。多くの県民の記憶に残り、収支も黒字を確保しました。

愛知万博開催が決まったのは1997年。主会場に想定した瀬戸市の「海上(かいしょ)の森」には貴重な動植物が生息し、決定前から市民団体などの反対運動が続きました。

1999年5月、県は絶滅の恐れがあるオオタカの営巣を確認する。「衝撃的なことだった」。当時の愛知県知事、神田真秋・愛知芸術文化センター総長(67)は振り返っています。

2000年1月には、博覧会国際事務局(BIE)が跡地を研究施設や宅地に利用する計画に懸念を示していたことが判明しました。見直しを迫られ、県は「検討会議」を何度も開催しましたが、瀬戸市の会場を縮小し、長久手の愛知青少年公園を主会場にして開幕に間に合わせました。

愛知万博の会場建設費は、会場内で催しを開く催事場や緑地や道路、それに会場のシンボルとなる「大屋根」の建設などに使われました。 当初の計画では1,250億円でしたが、2020年、来場者の暑さ対策や「大屋根」の設計変更などを理由に600億円増やして1,850億円に引き上げられました。

結局、目標の1500万人を大幅に上回る2204万9544人が足を運びました。地元の数多くのリピーターが支え、約130億円の剰余金(黒字)をもたらしたのです。

長野五輪(1998年)・・・大成功の45億円黒字

長野五輪
20世紀最後の冬季五輪。1972年札幌オリンピック以来となる冬季五輪に、日本中はもちろん、地元である長野は大きな熱狂に包まれました。

20世紀最後の冬季オリンピックとなった長野オリンピックの開会式は、善光寺の鐘の音で始まりました。世界72の国や地域から2300人を超すアスリートが集まり、日本はスキージャンプの船木和喜さんやスピードスケートの清水宏保さんらが獲得した金メダル5つを含む10個のメダルを獲得しました。

長野は、開催地を獲得すべく、ライバルのソルトレークシティを引き離すため、「全選手団の交通費・宿泊費・食費を全て負担する」と、直前に文章に付けたし、プレゼンテーションしたのである。 結果、僅差でソルトレークシティを振り切り、オリンピック開催地は長野に決定した。

長野五輪の大会運営費の内訳は。映像の制作、競技会場の仮設施設の建設、広報・報道、式典などに使われました。1988年の段階では400億円の予定でしたが、1991年の誘致段階で、760億円、1995年6月の試算では1500億円を超えました。1996年には切りつめて945億円という予算に減額しました。そして1997年3月には1030億円に最終決定されました。このように大会運営費が膨れ上がったのは実施競技数の増加、会場の広域化などのためでした。

日本勢が冬季五輪史上最多の10個のメダルを取った長野五輪は運営面でも大成功でした。スポンサー収入や関連グッズの売り上げが予想以上に伸び、黒字額は45億円を超えました。そのうち40億円強がスポーツ振興のために使い切る方式の基金として積み立てられたのです。

長野五輪点火
昭和世代の私は、これを見てから「日本で祭典や大会はやんない方がいいかも」と思いました。

世界都市博覧会(東京・1994年)中止・・・開催なら800億、中止で600億捨てる

都市博中止
世界都市博覧会(以降、都市博)構想の発端は、1985年(昭和60年)の世界テレポート連合創立総会にて東京都知事・鈴木俊一都知事が「東京テレポート構想」を発表したことに始まります。

都市博は事業費3兆9.000億円という巨額を投じた湾岸開発・臨海副都心を内外にアピールする起爆剤として、鈴木俊一都知事が推進していました。

鈴木俊一都知事は、1970年(昭和45年)に開催された日本万国博覧会において事務総長理事を務めた経験がありました。万国博の会場選定において、当初からは首都圏開催を主張しており、最後まで東京にこだわったものの、政府内での「東京はオリンピックをやった、その次は大阪でないとまずい」という流れに押され、結局「首都圏での博覧会開催」という本人の夢は果たせぬまま時は流れていきました。

そんな鈴木俊一都知事も高齢となり、知事在職中に、果たせぬ夢だった「首都圏での博覧会開催」をどうしても実現させたいという強い希望もあり、1988年(昭和63年)2月、東京での万国博覧会開催に意欲を見せると、当時徳川家康江戸入府400年事業を検討していた東京ルネッサンス企画委員会で議論が重ねられ、同年9月の最終報告に(国際博覧会ではないものの)国際的イベントとしての「東京世界都市博覧会(仮称)」開催の提案が盛り込まれることになりました。

1990年4月にまとめられた『東京フロンティア基本計画』は以下のとおりです。

 ・名称:東京フロンティア
 ・開催期間:1994年(平成6年)3月 - 12月(300日間)・・・その後2年延期
 ・主催:財団法人東京フロンティア協会
 ・会場:東京テレポートタウンを中心とした東京臨海副都心全体
 ・目標来場者数:3,000万人

改めて世界都市博覧会として再浮上したのは、1993年に泉真也氏や木村尚三郎氏などが総合プロジューサーに就任したころからです。その間、パブルの崩壊、臨海開発と併せて都市博の見直しも行われ、鈴木俊一都都知事も計画の縮小、2年延期など開催に向けて執念を燃やしました。

ところが1995年の都知事選に勝利した無党派の青島幸男都知事が、都市博中止を公約の一つとして当選、政策の継続性を重視されてきた都政を打破して公約に応えようと、悩み、迷い抜いた末、最終決断を迫られた5月31日、遂に中止と発表しました。

「青島は約束を守る男か、守れない男か、信義の問題だ」と、就任早々、大見得を切って登場した青島幸男都知事、それが1995年4月11日には「中止したほうがいいという姿勢は変わっていないが、断固中止というまで意固地ではない。規模を3割縮小したほうが財政負担が軽いということになれば、やってもよい」とやや軟化したと思うと、その3日後にはまた「このまま進めても都民の利益は一つもない」として、規模を縮小しての開催でなく、あくまで中止する考えを示しました。

それに対してマスコミは、都市博の開催、中止には賛否両論でした。1995年5月18日の東京都議会では異例の記名投票が行われ、賛成100、反対は23という結果、またまた青島都知事の決断を鈍らせました。

1995年5月末になって開催まで10カ月と近づく。当初25の企業グループが参加予定していたが、東京はイベントの競合も厳しく、パブルの崩壊、地域活性化のイベントも見直しの時期として、12の企業グループに半減しました。それでも出展企業の多くは総事業費20~30億円を投資して、1日も早く決定してほしいと、苛立ちを募らせました。そして悩み迷い抜いた青島都知事は1995年5月31日、遂に中止の決断を下しました。公約を果たしたとはいえ、青島幸男都知事の都政運営(※)には暗雲がたちこめていました。

※都知事としての青島は、都市博中止以外には特に目立った施策はなく、他の公約を守ることもないまま官僚・役人任せの行政に終始する。このため、徐々に青島に対する批判は高まった。もっとも、オール野党であったために独自色を出すことができなかったという見方もある。1期務めた1999年、任期満了で都知事の職を退任した。この時、2期目に立候補をするかどうか直前まで決めておらず、態度表明の記者会見の直前でも都政担当記者はおろか、ナンバー2である副知事でさえも退任するかどうかを知らなかった。

1996年4月22日、東京都から最終財政影響額が発表された。これによれば、青島幸男都知事に事務局側が「中止した場合、東京都に982億円(誤差は50億円)程度の損失が出る」と伝えていたのに対し、実際の損失額は610億円にとどまった。開催されていた場合に予定されていた支出である約830億円よりも220億円も下回ったこととなる。

従って、都市博を開催していれば830億円で済みましたが、開催中止にしたことにより600億円を捨てたことになります。これをどう捉えるかです。



※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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※2023.09.11改題(旧題:【サッカー日本代表のレベルが変わった試合の歴史】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.09.12改題(旧題:【サッカー日本代表が新たな次元に突入した試合を振り返る】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.10.22改題(旧題:【まだ途上:サッカー日本代表が史上最強になるまで】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)

【日本代表】ドイツに4-1快勝!伊東、上田、浅野、田中がゴール!初のW杯優勝経験国に2連勝(2023年9月10日(日) 5:36)

<国際親善試合:ドイツ1-4日本>◇9日(日本時間10日)◇フォルクスワーゲン・アレーナ
日本代表(2023.09.10)その2
 サッカー日本代表(FIFAランキング20位)がドイツ代表(同15位)と対戦し、FIFAワールドカップ(W杯)優勝経験国に対しては日本史上初となる2連勝を成し遂げた。

昨年11月のW杯カタール大会1次リーグ初戦に続く4-1で返り討ちにした。伊東純也、上田綺世、浅野拓磨、田中碧が決めた。途中出場の久保建英も2アシストした。

森保一監督(55)は「選手もスタッフも厳しい試合になると覚悟した上で準備を日々やってこられて良かった。高い目標を持ちながらチームを積み上げていること、準備期間の中でやれたこと、勝利は別としてチャレンジできたことがすごく良かったかなと思います」と納得した。

先発はGKに大迫敬介、DFラインは左から伊藤洋輝、板倉滉、冨安健洋、菅原由勢。2ボランチはリバプール遠藤航と守田英正が組んだ。2列目は右に伊東純也が入り、トップ下に鎌田大地、左に三笘薫。1トップに上田綺世を置く4-2-3-1の陣形でスタートした。

開始から出足鋭いプレスとコンパクトな守備で、ドイツの攻め上がりを許さない。完全敵地でペースを握ると、前半11分に伊東がいきなり先制した。菅原の右からの高速クロスにニアサイドへ走り込み、レアル・マドリードDFリュディガーの鼻先で合わせ、右足ワンタッチで流し込んだ。

その8分後にドイツFWサネに同点弾を許したが、わずか3分後の22分に上田のゴールで勝ち越した。

再び菅原の右クロスに伊東が右足で合わせる。これはミートできず、こぼれたが、そのボールを上田が左足ダイレクトで合わせた。急にボールが来ても決める嗅覚にSNSも興奮となった。

ドイツは自国で、まだサポーターが格下と見ているだろう日本を相手に、連敗など許されない。その中で反対に森保ジャパンが、リードだけでなく複数回の決定機を決め切る展開となった。センターバックでは初の先発コンビ結成となった冨安と板倉も奮戦。前半終了時には、スタジアム内にドイツ代表に対する猛烈なブーイングが響く異様な空気に包まれた。

後半に入ると、さらにチャレンジした。守備時に三笘がウイングバックに下がる3バックに布陣を変更。前半、右サイドから攻め込んできたサネを抑えにかかった。13分には上田に代えてFW浅野拓磨、鎌田に代えてDF谷口彰悟を投入。昨冬W杯で決勝点を挙げたジャガーも登場した。20分には、その浅野がロングパスに抜け出して1対1の決定機。GKテアステーゲンの好セーブに防がれたものの、ゴールに迫り続けた。

28分には、ドイツで現役最多122試合目の出場となったFWミュラーが送り込まれたが、日本が追加点を許さず。後半終了間際には浅野、田中碧が追加点。久保建英の2アシストだった。W杯で「ドーハの歓喜」と呼ばれた歴史的金星を挙げた日本が、今度は敵地でW杯優勝4度の強豪に真っ向勝負を挑み、勝ち切った。W杯制覇国からの連勝は日本サッカー史上初の快挙となった。

森保監督「3バックだけでなく可変で、難しい戦術変更の中でも選手たちがこなしてくれたと思います。いい守備からいい攻撃を忘れることなく、守備の強度を高くやってくれました。日本で応援してくださった皆さん、早朝からの応援が力になりました。スタジアムの日本の皆さんとも喜びを共有できてうれしいです」

伊東「(菅原)由勢からニアにボール来るかなと思って、うまく触ってゴールになって良かったと思います。うまく連携の中から裏に抜け出してクロスに行く場面が多かった」

上田「はね返りを詰めた形でしたけど、常に準備していたので取れたゴールだと思います。もう2つ自分なりに決めなければいけない場面があったので課題はありましたけど、初めて日本代表に貢献できたんじゃないかなと思います、多少」

冨安「まずはしっかりと勝てたことは大きいですし、ゲームをうまく進める。追加点は取りに行くよ、という指示は森保さんから出ていたので、後半3点目、4点目も取れて、狙い通りの戦いはできたんじゃないかなと思います。W杯とは違った勝利。次につながる。もっともっと期待してほしいですし、次の3年後のW杯でベスト8の壁を破っていきたい」


【セルジオ越後】ブラボーだね! 日本はW杯より成長していた ドイツ監督は解雇されるだろうな(2023年9月10日(日) 6:50配信)

日本代表(2023.09.10)その1
 情報戦の勝利だね。相手左サイドバックはボロボロだった。その情報が事前に入ったから、日本は右MF伊東、DF菅原が集中的に攻めて、前半2得点。後半もMF久保がそのサイドから2アシストと、4点すべてが日本の右サイドから生まれた。それを修正できなかった相手監督は解雇されるだろうな。

日本はW杯の時より間違いなく成長していた。前半は互角以上に戦ってリードして、後半5バックに変えたのは、何かを試す狙いではなく単純に勝ちたかったからだと思う。その戦術がはまってカウンターも決まった。一方で、ドイツの衰退時代はしばらく続くね。足元ばかりで、裏が取れない。選手層が薄いし、点が取れるFWもいなかった。

日本は、システマチックに戦う欧州チームには対抗できることが証明された。今後の課題は南米のチームだ。W杯でベスト8の壁を越えるには、南米勢にも勝たないといけない。欧州は戦術で得点を狙うが、南米は個人で突破してくる。

この日、唯一苦しんだのも、MFサネの個人突破だからね。サネのような選手は南米に何人もいる。日本が苦手とする相手をどう克服するか。今回はドイツに完全アウェーで勝ったが、南米勢との完全アウェー戦は過去3戦全敗、通算0得点8失点だ。次のステージに上がるためには、克服してほしい。

今回の欧州遠征で日本はドイツ、トルコと、普段はあまり組めない欧州勢と2試合を組んだ。今後、欧州遠征時には南米の強豪とのマッチメークを考える必要がある。ほとんどの選手が欧州でプレーしているので体調もいいはず。3月に日本へ呼んだウルグアイ、コロンビアはコンディションがあまり良くなかったが、それでも日本は勝てなかった。

アルゼンチンやブラジルと欧州で試合を組めば、何十億円もの金がかかるのだろう。だが、それこそ「新しい景色」への投資だ。3年後のW杯(FIFAワールドカップ北中米大会)で必ず返ってくる。日本サッカー協会(JFA)は今、経済的に苦しいかもしれない。それでも極端な言い方をすれば、その投資ができるか、できないかでW杯の成績が決まると思う。

とにかく今日はドイツに勝って、早起きしたかいがあったね。試合後、選手は誰も言わなかったけれど「ブラボー」だったよ。(日刊スポーツ評論家)


「本当に素晴らしい」 本田圭佑、ドイツに4発快勝の森保ジャパンを祝福「日本は次のレベルに達したと思う」(2023年9月10日(日) 8:00配信)

日本代表(2023.09.10)その3
 森保一監督率いる日本代表は、現地時間9月9日(日本時間10日未明)に敵地ヴォルフスブルクで行われた強豪ドイツ代表との国際親善試合で、4-1と完勝した。ワールドカップ(W杯)出場3回を誇るMF本田圭佑は、自身の公式X(旧ツイッター)で「日本は次のレベルに達したと思う」と綴った。

カタールW杯のグループリーグで対戦し、日本が2-1とドイツを撃破。それ以来の再戦となったなか、MF伊東純也とFW上田綺世のゴールで前半を2-1で折り返し、後半には途中出場のFW浅野拓磨とMF田中碧もゴールを奪い、日本が4-1と完勝した。

直近の対戦では2連勝、通算の対戦成績でも日本は2勝1分1敗と勝ち越した。試合後に本田は自身の公式Xで「日本は昨年のW杯からドイツ相手に連勝。本当に素晴らしい! 日本は次のレベルに達したと思う。おめでとう、日本」と祝福のメッセージを送っていた。

1993年5月15日に日本でのプロリーグ『Jリーグ』が開幕しました。その前身である日本サッカーリーグから長くサッカーを見てきました。

プロリーグが出来て、念願だったW杯に初めて出場、2002年には日本でW杯が開催されて、W杯に出るのが当たり前のようになって、今では強くなったことでW杯予選がつまらなくなってしまって、W杯でベスト16に進まないと失敗みたいな、ベスト8、そしてW杯優勝というのが目標になりました。

それでも・・・結局ドイツには負けるんだろうなって思っていました。

朝3時に起きました。そしてTVを点けましたが、ドイツが2点とったところで寝ようと思っていました。

相手チームの状況が悪い?監督の采配が悪くて解任論がでている?直前の2試合は負けている?・・・いやいや、そんなの関係ありません。だって、あのサッカー大国、W杯優勝4回のドイツですよ。

2022年W杯では相手が油断していたから奇跡的に勝てたものの(試合全体のボール支配率はドイツが65%、日本は24%。パス本数もドイツが820本のうち743本を通して日本ゴールに迫ったのに対し、日本は3分の1の261本)、本気で立ち向かってきたならば、こんな大国に勝てるわけが無い・・・。

でも、今の日本の若き代表選手は、きっとそんなこと誰も思って無かったのですね。

本当にサッカーは時代が変わりました。どんな大きな試合よりも、この親善試合では、それを衝撃と共に感じたのです。

朝3時でドイツに2点とられたら、すぐに寝ようと思っていたのですが、日本代表のプレーに魅了されて90分間見てしまいました。

本田圭祐さんの『日本は次のレベルに達したと思う』というのが、昔からの日本代表を見ているミーハーなサッカーファンの感じたことだと思います。

古くから見ているミーハーなサッカーファンでも、『次にレベルに達したと思う』というきっかけは肌で感じます。そんなきっかけとなった試合をご紹介します。

1985年FIFAメキシコW杯アジア最終予選(韓国戦)・・・プロ化に向けて
1985年10月26日、メキシコW杯アジア予選が、1993年『Jリーグ』のプロ化される前に最もW杯に近づいた予選でした。当時のW杯のアジア出場枠はわずか2ヶ国でして、1枚はイラクが出場権を勝ち取っており、残る1枚を日本と韓国のホーム&アウェイによる最終決戦だったのです。

この韓国戦に勝てば初の本大会出場でした。しかし、1985年10月26日の国立競技場での第1戦は、韓国に2点先行された前半43分に、FKのチャンスをゴール正面約25メートルでえます。FKの名手・10番 木村和司が右足でカーブをかけたボールはゴール左上隅に吸い込まれました。この時は歓喜に沸く国立競技場でした。だが、あと1点が遠かったのです。FKが直接決まって1点差に迫ったものの1ー2黒星でした。
メキシコW杯韓国戦FK決めた
1985年11月3日のアウェー第2戦も0ー1で敗れ、悲願を逃したのです。W杯出場の夢をかなえるために、日本はその後、12年の月日を費やしたのです。

それまで日本では「W杯は欧米のプロ選手が出場する大会。プロがない日本にW杯は夢舞台で五輪が現実的な目標」でした。W杯はフランスのプラティニ、ブラジルのジーコ、アルゼンチンのマラドーナなどのスーパースター含めてTVで見るものでしたが、あと一歩で手が届くところまで来たことは大きかったW杯予選でした。

この試合には、6万2000人の観衆が詰めかけました。当時はまだまだマイナーであったサッカーが、これほどまで大歓声を受けたのは初めてでした。日本サッカーの大一番に日本中が盛り上がったが、夢はかなわいませんでした。新聞の紙面には「W杯へ日本手痛い黒星」「62000観衆絶叫、タメ息」など厳しい見出しが躍りました。

そして敗れはしたものの、日本代表の強化を本気で考える機運が生まれたのです。韓国は一足早く1983年にプロリーグ(Kリーグ)をつくり選手を強化していました。プロとアマの差は大きく「日本でもプロを」の声が次第に大きくなったのです。

森孝慈監督は「これからが、我々の真価を発揮するときだ」と言っていたが、雪辱を期した第2戦も敗れましたし、石井義信監督が率いた2年後のソウル五輪もあと一歩で中国に敗れました。しかしながら、敗れたことが逆にプロ化の機運を一気に高めたのです。

1992年AFCアジアカップ広島大会・・・アジアで初めて頂点に!
まだ、1993年に『Jリーグ』がプロ化される前年の大会です。

AFCアジアカップ1992広島大会は、1992年10月29日から11月8日まで日本の広島県で開催された10回目のAFCアジアカップでした。この大会の開催国である日本は2大会連続2回目の出場にして初めてフル編成のA代表で参加し、初優勝に輝いたのです。

日本代表は翌年の1994年アメリカ・ワールドカップ(W杯)出場を目指し、1992年3月に史上初の外国人監督としてハンス・オフト氏が就任しました。

日本代表はタレント揃いで、三浦知良、中山雅史、高木拓也、北沢豪、福田正博、ラモス瑠偉、柱谷幸一、都並敏史などヴェルディ川崎(1993年のJリーグ開幕時のチーム名称、現東京ヴェルディ1969)中心のメンバーに2023年日本代表監督の森保一もおりました。

1992年8月には韓国、中国、北朝鮮と争ったダイナスティカップで初優勝を飾るなど、成果が表れつつありました。そんな中、1992年10月末から11月にかけて広島でアジアカップが開催されました。

日本の報道陣はこぞって好成績を期待したが、オフト監督は「私の仕事と、われわれの目標は、来年のW杯予選」と語り、この大会も「W杯予選へのプロセス」と言い続け、チーム強化の一環という姿勢を崩していませんでした。

決勝の相手は大会2連覇中で、当時アジア最強と目されていたサウジアラビアです。日本は中国戦で退場処分を受けた松永に加え、中盤の要だった森保一も警告累積で出場停止でした。

そうするうちに前半37分、左サイドで都並敏史からパスを受けたカズがセンタリング。これを高木琢也が胸トラップから、落ち際を左足ボレーで合わせて先制しました。

後半は追加点こそ奪えなかったものの、そのまま1-0でタイムアップを迎え、ついにアジアの頂点に立ちました。
1992年アジアカップ広島大会
試合後、柱谷は「気が付いたら決勝に来て、優勝していた」と、無心での戦いだったと振り返っていました。オフト監督が語った「W杯予選へのプロセス」という意識の影響もあったでしょうが、貴重な経験に加えて結果も出るという、収穫の多い大会となりました。

当初は広島県内でも、大会が行なわれていることを知らない人がいたほどでしたが、決勝は5万人の大観衆で埋まり、日本中の注目を集めました。翌年(1993年)5月の『Jリーグ』開幕を控えていた日本サッカー界が、現在まで続く新しい時代の扉を開いた初優勝でした。

1994年FIFAアメリカW杯アジア最終予選『ドーハの悲劇』
1993年に『Jリーグ』がプロ化されてから初めて臨んだW杯予選でした。

最終予選が独特で、進出した6チームが、カタール・ドーハでの集中開催方式で1順の総当たり戦を行う。上位2チームが本大会出場権を得るものでした。要は一発勝負だったんです。

1992年のアジアカップ広島大会の優勝や1993年に開幕したプロリーグ『Jリーグ』の開幕で、サッカーファンのみならず世間的にも『W杯に行ける(かも)』と注目度は高く、もうマイナーとは呼ばせないというところまできました。
ドーハの悲劇その1
そんな期待を抱いていた1993年10月15日の初戦のサウジアラビア戦は0-0引き分け、次の1993年10月18日のイラン戦は1-2で敗戦となり、いきなりW杯出場が崖っぷちのピンチとなります。

しかしながら、ここからが不屈の精神で、北朝鮮戦で3-0の勝利、そしてなんと韓国戦を1-0の勝利でW杯出場を手繰り寄せます。
1994年W杯第5戦前の第4戦までの勝ち点
最終第5戦前は日本とサウジアラビアが勝ち点5で、この2ヶ国が出場権内にいたのです。しかしながら、3位の韓国から5位のイランまで勝ち点4点ですので僅差となっており予断は許しません。

第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきましたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催されました。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送りました。

試合は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知良がヘディングで押し込み、日本が早々と先制します(1-0)。前半は1-0のまま終了しました。

他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』で、このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなります。

後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いつきました。他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となります。

イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず、逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドポジションぎりぎりから中山が右角にシュートを決めて、2-1と勝ち越しに成功した。

89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイド(バックスタンド側)からコーナーキックのチャンスを得ると、このキック前に90分を経過してロスタイムに突入します。

ここでキッカーのライス・フセイン=シハーブはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。

意表を突かれた日本は三浦知良が対応しますが、ハラフ・ムフシンに振り切られセンタリングを上げられます。これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となりました(90分17秒)。

イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込みました。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審の セルジュ・ムーメンターラー(スイス)の笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となりました。
ドーハの悲劇その2
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は下表の通りとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得し、得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃しました。
ドーハの悲劇第5戦後の勝ち点
「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれました(韓国では『ドーハの歓喜』)。

1993年10月28日は後に日本サッカー史上最大の悲劇として語り継がれてきた「ドーハの悲劇」が起きた日になりました。ただし、この失敗があるからこそ、日本はアジアサッカーのリーダーとしての地位を確立しています。

TVで次のフランスW杯アジア予選途中と本選の監督に就任した岡田武史監督が言っていた言葉を、今でも覚えています。

『今の日本のチームは、アジアで戦えば10回中、5回は勝っていけるチームです。ただ、今初めて5回勝てるチームになったんですよね。』

『今まで、僕らのときは3回しか勝てないチームが何とか出ようとしたんですけど、今ようやく同じレベルになって初めて同じレベルになっていきなり出ようとは甘いよと。』

『ワールドカップはそんな簡単なものではないよ。今はじめて同じレベルになったんだろ。その中で運があったりなかったり、いろんなことがあってでてくる。なんか言われている気がしましたけど。』

『ここまで5回勝てる力まできているのは間違いないです。今回出れなかったんですけど、ここまでオフトはじめ彼らが5回勝てるところまでもってきて、最後の最後で運がなかったというか、でも我々はこれから次に向かってやっていかないといけないと思うんですよね。また3回の世界におとしてはいけないんですよね。僕らだけでなく、カタールまで応援、日本で応援している方と一緒になって次のフランスに向けてしなくてはいけない。』

『きっとね、W杯は今日の日本のプレーヤーが力がなかったというわけではなかったんですよ。イラクが上ではないんですよ。同じ力だったんだけど、W杯に出た国と1回も出なかった国の差なんですよ。きっと。』

『ようやく同じレベルになれたんだから。次はきっと。きっと出れるように・・・。』

1998年FIFAフランスW杯アジア最終予選『ジョホールバルの歓喜』
FIFAワールドカップ・フランス大会の出場国数は前回アメリカ大会の24から32へと拡大され、アジア地区の出場枠も2から「最大3.5」に増やされました。

アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、A・B各組1位の2ヵ国は本大会出場権を獲得となりました。A・B各組2位の2ヵ国は第3代表決定戦(AFCプレーオフ)を行ない、この勝者が3番目の本大会出場権を獲得。決定戦の敗者はアジア4位(0.5枠)としてオセアニア地区1位(0.5枠)と大陸間プレーオフを行ない、その勝者が本大会出場という方式でありました。

フランスW杯を目指した日本代表にとっては「アジア予選突破」が至上命題でした。なぜなら、すでに2002年大会は日本開催(日韓共催)が決まっていましたが、W杯出場経験のない国が開催国となった例は(第1回、第2回大会を除いて)ひとつもなかったからです。
ジョホールバルの歓喜その1
苦しみ抜いて本大会切符を手にした過去の最終予選でした。とりわけ、初出場を果たした1998年フランス大会の最終予選は、ホーム・日韓戦の逆転負け、加茂周(解説者)監督の解任と岡田武史(FC今治)監督の電撃昇格、自力2位の消滅、イランとの第3代表決定戦(ジョホールバルの歓喜)・・・と、数々の紆余曲折の末に出場権をつかむという奇跡的なものでした。

1997年9月7日に初戦・ウズベキスタン戦は三浦知良の4ゴールなどで6-3の勝利しました。守りの乱れこそ懸念されたものの、白星発進となり、加茂監督らスタッフも胸をなでおろしました。

1997年9月19日のアウェイ・UAE戦(アブダビ)は酷暑でのゲームです。それをスコアレスドローで乗り切ったのは日本にとって、ここまでは悪くない序盤でした。

歯車が狂い始めたのは、1997年9月28日の第3戦・韓国戦(東京・国立)です。汗ばむような陽気の中、後半22分に山口素弘(解説者)の芸術的ループシュートで先制点決まった場面は国立競技場は歓喜の渦でした。

しかしながら、韓国がFWの切り札・金大義を投入した直後、加茂監督は日本国籍を取得してこの試合で代表デビューしたFW呂比須ワグナー下げてDF秋田豊を投入。この守備的采配で日本の勢いが止まり、守りを混乱させる結果となり、そして徐正源と李敏成にゴールを奪われ、1ー2の逆転負けとなりました。

この敗戦を境に中田英寿と名波が報道陣に対して口を閉ざすようになるなど、チームにこれまでにない緊張感が漂いました。

1週間後の1997年10月4日のアウェイ・カザフスタン戦(アルマトイ)で秋田豊の先制点でリードしながらラスト1分のところで追いつかれ、1-1のドローに終わったことで、日本サッカー協会幹部は監督交代を決断し、岡田武史コーチを昇格させました。
ジョホールバルの歓喜その0
Jリーグはおろか、実業団でも指揮を執ったことのない指導者を抜擢するのは常軌を逸していました。それでも日本は新たな一歩を踏み出すしかないほど追い込まれていました。

岡田体制初陣となった1997年10月11日のアウェイ・ウズベキスタン戦(タシケント)は中田英寿や呂比須ワグナーらここまでの主力を外し、森島寛晃と城彰二を先発起用しましたがゴールが遠く、後半31分に失点してしまう苦境に陥りました。

しかし残り1分、後半から出場していた呂比須がロングボールをヘッド。これがDFのミスを誘って幸運な同点弾が生まれます。この1点がなければ、日本は敗退していた可能性もありました。

実際、この時点で日本は勝ち点6の3位。1位・韓国は同13、2位・UAEも7を稼いでいて、自力2位もなくなっており、日本の試合がなかった1997年10月18日にUAEがカザフスタンに勝っていれば、絶望的な状況になるはずでしたが、UAEはカザフスタンに0-3でまさかの敗戦で、1997年10月26日のUAEとの直接対決に勝てば2位再浮上というかすかな希望が見えてきました。

極めて重要となった東京・国立でのUAE戦は、開始3分には呂比須ワグナーが豪快なシュートで先制しましたが、前半のうちに同点に追いつかれます。

特にエースである三浦知良の不調は深刻だった。実は9月の韓国戦で崔英一に徹底マークを受け、尾てい骨骨折のアクシデントに見舞われていましたが、まだ情報が公になっておらず、彼は批判の矢面に立たされ続けていました。

結局、このUAE戦は1ー1のドロー。試合後、スタジアムから出てきた三浦知良が、正門前に陣取ったサポーターから「お前なんかやめちまえ、腹を切れ」と罵倒され、イスを投げつけられるという前代未聞の事件も起きました。

当時を知らない人にしてみれば、日本代表の戦いに人々がここまで一喜一憂したこと自体、信じられないかもしれません。当時の選手たちが凄まじい重圧を感じながら世界への扉をこじ開けようとした事実があります。

3位に沈んだままの日本とは対照的に、韓国はこの時点で1位通過が決定した1997年11月1日のアウェイ・韓国戦(ソウル・蚕室)は彼らにとっては消化試合でした。しかしながら、日本にとっては絶対に勝ち点3を手にしなければならない大一番でした。

試合はモチベーションの差が明白に出まして切迫感を前面に押し出す日本は開始3分、相馬直樹のクロスから名波が先制。後半37分には再び左の相馬の折り返しを呂比須がゴール。2-0とリードを広げました。

後半に入ると韓国ペースになり、金度勲に度重なる決定機を作られる。岡田監督は一歩も引かず、北澤豪に代えて平野孝を起用し「下がって守りたいのを我慢して前へ前へという意識を持たせるようにした」と加茂監督とは正反対の采配を見せました。これで日本は2ヶ月ぶりの勝利、またソウルで13年ぶりの白星を挙げ、やっと長く険しいトンネルを抜け出しました。

三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止となった11月8日のカザフスタン戦(東京・国立)では、代表復帰した中山雅史(沼津)と高木琢也(長崎監督)が爆発し、5-1で圧勝。最終的にUAEをかわして2位を奪回し、11月16日のイランとの第3代表決定戦に進みました。

ジョホールバルのラルキンスタジアムで1枚の切符を手にするためのイランとの第3代表決定戦。三浦知良と中山雅史が2トップが先発し前半40分に中田のスルーパスを受けた中山雅史が先制点を挙げました。

しかし、後半1分、茶番劇を見せたアジジに同点弾を決められ、ダエイにも逆転ゴールを奪わました。そこで岡田監督は2トップの2枚代えを決断。これまで代表戦で一度も途中交代したことのなかった三浦知良と中山雅史を下げ、城と呂比須を同時投入します。

その城が2点目を叩き出し、試合は延長へ。そしてご存知の通り、日本の飛び道具・岡野雅行がゴールデンゴールを挙げ、日本はアジアの壁をついにこじ開けたのです。
ジョホールバルの歓喜その2
ジョホールバルの歓喜その3

1998年フランスW杯本戦『第1戦:アルゼンチン戦』
1998年FIFAワールドカップ・フランス大会。本大会初出場を果たしたサッカー日本代表は初戦でアルゼンチン代表と激突し、世界を知ることとなりました。
フランスW杯本戦
記念すべきサッカー日本代表のワールドカップ(W杯)初戦の相手は1998年フランス大会のグループH組で南米の強豪であり、W杯過去2度の優勝を誇るアルゼンチンとの試合でした。破壊的な攻撃力をもつ強豪を相手にディフェンシブな姿勢で臨んだ日本のゴールを守るのは川口能活、3バックは主将の井原正巳を中心に秋田豊と中西永輔。中田英寿、名波浩らが中盤に入り、前線の2トップは城彰二、中山雅史という布陣でした。大会前に急遽調整した3バックのシステムで耐え凌ぎカウンターによる攻撃に活路を見出したのです。

日本は山口素弘がシュートを打つなど序盤から積極的に動きます。だが、前半28分に先制したのはアルゼンチンでした。日本にとっては不運な失点だった。オルテガが短いドリブルからシメオネに渡し、ゴール前に飛び込んでリターンパスを受けようとして、スルー。これが、マークしていた名波の足に当たり、ゴール前に詰めようとしていた身長1メートル85の大型FWバティストゥータへの絶好の“パス”になってしまいました。バティストゥータは冷静に浮き球でシュート、足元に飛び込んで来たGK川口能活の上を抜いて技ありのゴールを決めました。
フランスW杯本戦アルゼンチン戦
日本は後半、中山に代えて呂比須ワグナー、相馬直樹に代えて平野孝を投入、攻勢をかけました。しかし、終了間際の中西の折り返しをダイレクトで放った呂比須のシュートが、相手DFにブロックされるなど、アルゼンチンの厚い守りを破ることは出来ずに0-1の敗戦となりました。日本には重く、そして遠い1点でした。

初戦を落とした日本は、第2戦のクロアチア(0-1)、第3戦のジャマイカ(1-2)とグループリーグ3連敗で、初めてのW杯を終えました。
フランスW杯本戦中山雅史ゴール

世界との差がはっきりしたことになって、『Jリーグ』で活躍している選手たちが世界、特に欧州のリーグを目指す選手が増えるきっかけになった試合でした。

2002年FIFA日韓W杯本戦『第1戦:ベルギー戦』
W杯は4年に一度開催される世界で最も大きいスポーツの祭典であることは明白だが、2002年のW杯は、史上初めてアジアで日韓開催されるという点で世界から大きな注目を浴びていました。

日本は1998年のフランス大会で初出場を決めたばかりの新鋭でしたが、その大会では3戦3敗という結果で大会を去っており、当然2002年大会では、これを上回る成績が期待されていました。

大会規定により予選が免除されて本大会からの出場となった日本は、1998年9月にフランス人監督のフィリップ・トルシエ監督が就任して以降、W杯での初勝利とグループ予選突破を目標にチームを構築してきました。

日本はグループ分けでベルギー、チュニジア、そしてロシアと同組のグループHに振り分けられた。そして日本全体の視線は、開幕戦であるベルギー戦に集まることになります。

特にW杯開催国はグループステージ敗退なしという神話(その後、2010年の南アフリカ、2022年のカタールはグループステージ敗退)があり、開催国がグループステージで敗退するのは不名誉な記録であり、当時の弱小アジアの開催では、日本がグループステージ敗退の可能性があり、危ぶまれていました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその1
そんな中で2002年6月4日、超満員の埼玉スタジアム2002で、日本代表は2度目のワールドカップを迎えました。日本中がサッカー一色に染まった地元開催の大会であり、入場シーンだけでも鳥肌が立つほどの大歓声が起こるこのスタジアムで、日本は強豪ベルギー相手に、ファンの期待に応える試合を披露します。

序盤から臆することなく積極的な姿勢を見せる日本代表でした。屈強なフィジカルを誇るベルギーの選手相手に果敢にデュエルを挑み、前半をスコアレスで折り返します。

そして、数年経った今でも色褪せないゴールはいくつもありますが、これは日本サッカー史上、一生ファンの記憶と記録に残り続けるゴールの1つだろうと思われるシーンが何と2つも見ることができます。

0-0で迎えた後半、日本は次第にベルギーのプレッシャーに押し込まれていき、57分にベルギーのヴィルモッツにゴールを奪われ、1点のリードを許す展開になりました。それでも、諦めない日本を、埼玉スタジアムに駆けつけた5万人を超えるファンの応援が後押しします。

そして直後の59分、小野伸二のロングフィードに抜け出した鈴木隆行がつま先でボールをネットに押し込み、同点ゴールを奪ってみせました。会場のボルテージは一気に最高潮になします。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその2鈴木隆行
そしてそこから10分もしない、67分、中盤のハイプレスからボール奪取に成功した日本は、そのボールを稲本潤一がドリブル突破で運び、相手フィフェンダーを強引にかわして強烈な左足シュートを叩き込んだ。日本はこのゴールで逆転に成功し、W杯で初めてリードを奪いました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその3稲本潤一
超満員の埼玉スタジアムに歓喜の渦が巻き起こった。自国開催のW杯初戦という歴史的価値も含め、大きな意味のあるゴールとなったことは間違いない。4年前はわずか1得点しかできなかった、数年前まで極東のサッカー後進国に過ぎなかった日本が、ヨーロッパの強豪国を土俵際まで追い詰めたのです。

日本にとって、残念ながらこの試合は、その後追いつかれ試合は2-2の引き分けで終わりました。

ベルギーに先制された瞬間、フランスW杯が頭をよぎりました。いくらアジアカップを制覇しても、コンフェデ杯で準優勝しても、やっぱり世界の舞台ではまた負けるのかと思ってしまったのです。しかしそのすぐ後、鈴木隆行のゴールが全部吹き飛ばしてくれました。とにかく入れるという強い執念、粘りが生んだ、華麗では無いけどめちゃくちゃかっこいいゴールでした。

本当に鈴木隆行のゴールは今見ても目頭が熱くなりますね。このゴールだけで『フランス』とは違う、日本はW杯で戦えると思ったゴールだったんです。

そして、このゲームから日本も完全に世界で戦えるという自信を監督、選手、日本国民全体で持てたと思うのです。

2006年FIFAドイツW杯本戦『第1戦:オーストラリア戦』
ジーコ監督率いる日本代表は、2004年のアジアカップを制し、ワールドカップ・アジア予選も順当に勝ち上がるなど、アジアにおいては抜きん出た強さを示していました。円熟期を迎えた中田英寿選手をはじめ、中村俊輔選手、稲本潤一選手、高原直泰選手ら海外でも活躍するタレントを多数擁し、前回日韓大会のベスト16以上の成績を目指して、このドイツ大会に臨みました。

グループステージの相手は、オーストラリア代表、クロアチア代表、ブラジル代表の3チーム。まずは初戦のオーストラリア代表に勝利し、幸先良いスタートを切りたいところでした。

日韓ワールドカップでのベスト16進出を経て、4年間で日本は多くの選手が欧州で実績を積み、「集大成になる」と期待を寄せられていた。代表23人の欧州組選手の数は、前回の4人から6人に増加していました。
2006年ドイツW杯その1
日本は3-5-2のフォーメーションで、オーストラリア戦に臨みました。GK川口能活選手を最後尾に、3バックには坪井慶介、宮本恒靖、中澤佑二が入ります。中盤の底では中田英寿と福西崇史がコンビを組み、両サイドには駒野友一と三都主アレサンドロを配置。そしてトップ下には初のワールドカップに臨む中村俊輔が入り、高原直泰と柳沢敦が2トップを形成しました。

日本は強靭なフィジカルを誇るオーストラリアのシンプルな攻撃に苦しめられましたが、コンパクトな守備陣形を保ち、まずは守りからリズムを掴んでいきました。

そして26分、右サイドから中村俊輔がクロスを入れると、これがそのままネットに吸い込まれて、日本が先制に成功します。幸運な形でゴールを奪った日本が、1点をリードして試合を折り返しました。

後半に入るとロングボールが増えてきた相手の攻撃にもしっかりと対応し、リズムを渡しません。しかし、オーストラリアを率いるフース・ヒディンク監督は、積極的な選手交代で日本に揺さぶりをかけてきます。53分にティム・ケーヒル選手、61分にジョシュア・ケネディ選手、さらに75分にはジョン・アロイージ選手と次々に攻撃の選手を送り込み、半ば強引に日本のゴールに襲い掛かってきました。

それでも何とか耐え凌いでいた日本でしたが、84分、ロングスローから最後はケーヒル選手に押し込まれると、89分に再びケーヒル選手に強烈なミドルを突きさされ逆転されてしまいます。さらにアディショナルタイムにも失点した日本は、わずか8分あまりの間に3点を奪われ、屈辱的な逆転負け。ノックアウトステージ進出に向け、いきなり苦しい状況に追い込まれました。
2006年ドイツW杯その2
どちらにもあった幸運。日本には「プラン」が欠けていた。勝負を嗅ぎわける感覚、戦術眼、精神力、体力、采配・・・。日本にとって、とてつもなく長く感じられた最後の8分間のなかに、微妙なズレから生じた敗因がそこかしこに散りばめられていました。

日本はこの敗戦を引きずって、第2戦でクロアチアにはスコアレスドロー、第3戦でブラジルには1-4で粉砕され、早々と敗れ去りました。大会後に中田が引退を発表し、ひとつの時代が終わりました。

浮かれていた日本サッカーは、頬を平手でひっぱたかれて、戦いの原点に立ち戻る必要がありました。果たして屈辱的な敗北から生まれ変われるか。そんな大会でした。
2006年ドイツW杯その3中田英寿

2018年ロシアW杯本戦『ラウンド16:ベルギー戦(ロストフの14秒)』
2018年に行なわれたロシアW杯、準々決勝進出をかけた一戦で、日本代表は世界ランキング3位(当時)の強豪・ベルギー代表を相手でした。後半立て続けに2ゴールを決めた日本は73分までリードを続け、初のベスト8進出という歴史的な瞬間への期待値はかつてなく高まります。

しかし、その思いは一気に失意へと変わり終戦となりました。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その1
初のベスト8進出を懸けて日本とベルギーが激突した一戦は、一進一退の攻防で0-0のまま前半を折り返すと、後半一気にゲームが動きます。後半3分、自陣でボールを奪ったMF乾貴士がMF柴崎岳につなぎ、右サイドを駆け上がったMF原口元気にスルーパス。原口は追いすがる相手DFを背負いながらも、シュートフェイクを入れて右足を振り抜き、ファーサイドに自身W杯初得点となる先制ゴールを突き刺しました。

さらに日本は後半7分、ゴール正面でセカンドボールを拾ったMF香川真司がタメを作ると乾にパス。フリーの乾は狙いすました右足ミドルをゴール右隅に突き刺し、リードを2点に広げました。

しかし、ベルギーも後半24分にDFヤン・フェルトンゲンの一撃で1点を返すと、途中出場のMFマルアン・フェライニのヘディング弾で同点に追いつきます。そして、後半アディショナルタイムにドラマが生まれました。

MF本田圭佑の左CKを難なくキャッチしたベルギーGKティボー・クルトワのスローイングから高速カウンターが発動。MFケビン・デ・ブライネがドリブルで持ち込み、右サイドを駆け上がったDFトーマス・ムニエが中央にグラウンダーのクロス。ゴール正面に飛び込んだFWロメル・ルカクがフィニッシュするかと思われたが意表をつくスルー、最後は飛び込んできたMFナセル・シャドリが値千金の逆転弾を決めました。直後にタイムアップの笛が鳴り、ベルギーが3-2と鮮やかな逆転勝利を収めたのです。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その2
クルトワがボールをキャッチしてから日本のネットを揺らすまで、わずか14秒。ベルギーの完璧な高速カウンターは世界中で話題となりました。

『もしかしたら、ベスト8に行かるかももしれない。』と試合をしていた選手たち、応援していたサッカーファンは、失意のどん底を味わうことになりました。

2022年カタールW杯『第3戦:スペイン戦』
ドイツとスペイン、優勝経験国2つが同居するグループEに入った日本。下馬評では突破は難しいとされていたが、2度のジャイアントキリングで世界を驚かせました。

初戦ではドイツと対戦しました。前半は防戦一方の展開となり、33分には先制を許しました。だが苦しい中でも前半を1失点で我慢すると、日本は後半に勝負をかけました。三笘薫、堂安律、浅野拓磨、南野拓実と攻撃的なカードを切ると、この交代が実ったのです。75分に堂安律が同点ゴールを奪うと、83分には浅野琢磨が逆転弾。見事初戦でドイツを撃破し、大番狂わせを起こしてみせました。

しかしながら連勝を期したコスタリカ戦に落とし穴が待っていました。このグループで最も力が劣るチーム相手に、低調なパフォーマンスに終始、終盤に決勝ゴールを許し、勝点を落とす結果となりました。
2022年カタールW杯スペイン戦その1
ここで、サッカーファンは日本の実力に疑心暗鬼になります。『強いのか?』『弱いのか?』よくわかりません。そして、第3戦の最終戦は優勝候補のスペインでしたので、グループステージ敗退もありえたのです。

最終戦である第3戦は優勝候補のスペインと激突しました。前半スペインに先制されるが1失点で抑えると、森保一監督は後半立ち上がりにかけていた。堂安律と三笘薫を投入し攻撃的に出ると、この2人が得点に絡み6分間で逆転しました。その後はスペインの猛攻を凌ぎきったまたも逆転での勝利(1-2)となりました。日本はグループステージでドイツとスペイン相手に白星を挙げ、見事に首位通過を果たしたのです。
2022年カタールW杯スペイン戦その2
2022年カタールW杯スペイン戦その3
初のベスト8へ4度目のラウンド16に臨む日本の相手は、前回準優勝のクロアチアでした。日本が前半43分にセットプレーから均衡を破りました。しかし後半に入るとクロアチアも反撃に出ます。すると55分、アーリークロスからイヴァン・ペリシッチが強烈なヘディングシュートでネットを揺らし同点となりました。

試合は息詰まる重い展開が続き、延長戦に突入しましたが120分でも決着はつきませんでした。ベスト8の行方はPK戦に委ねられます。先攻を取った日本だったが、1人目の南野拓実と続く三笘薫が失敗。さらに4人目の吉田麻也も決められず惜敗を喫した日本は、またしても準々決勝のピッチにたどり着くことはできませんでした。

W杯ベスト8は、指先には触れていた。だが近いようで遠い「まだ見ぬ新しい景色」は、今回も我々の前に広がることはありませんでした。それでも、世界と互角に戦った今大会の日本代表は、その重い扉を開く「未来」のための「新時代」を間違いなく見せてくれたのです。

「4年後こそ」。この言葉が、今回で最後になると信じましょう。



※最後に
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トータルテンボス藤田 野球人口の減少に「入り口はママさんが握っている」ネットより情報が速い(2023年9月5日)

 高校野球大好き芸人のトータルテンボス・藤田憲右(47)が浦和学院の森士元監督のYouTube「森士チャンネル」に出演。深刻な野球人口の減少について意見を交わした。

藤田の子供が小学3年生で学童野球を始めたとき、夫人がママ友から「何で野球なの?」と驚かれたという。

お金がかかる、場所もない、送りもしないといけない、当番ルールもある、面倒くさい。

それがママ友の学童野球に対するイメージ。藤田は「入り口はママさんたちが握っている。親がやらせたい(スポーツに子供が流れる)」と母親の野球に対するネガティブイメージが野球人口に影響していると指摘した。

藤田は「ママコミュニティーはネットより(情報が)速い」と笑った。

森氏も4000校を越えていた高野連加盟校が3400校台に落ちていることを懸念し、「なでしこ(JAPAN)見てサッカーやった母親のお子さんはサッカーをやる。高校野球は(甲子園で)ボール渡している女子にも(グラウンドに)入るんじゃないとか。最近ようやく開かれてきたが遅れている」と指摘した。

それでも森氏、藤田ともに近年の学童野球には女子が増えており、WBC優勝効果と合わせて野球人口にも復活の兆しが見えると声をそろえた。

2022年の出生数が80万人割れをした日本の出生数です。子供はどんどん減っております。平均年収が『400万円』から30年上がらない日本、経済の低迷や景気の横ばいが続いている『失われた30年※1』とありますが、この出生数も1990年の『1.57ショック』から30年は有効な対策を打ち出せないまま、何でも後ろ倒しの政治により、現在の状況を迎えているのです。

1990年の1.57ショックとは、前年(1989(平成元)年)の合計特殊出生率が1.57と、「丙午(ひのえうま)」という特殊要因により過去最低であった1966(昭和41)年の合計特殊出生率1.58を下回ったことが判明したときの衝撃を指しています。

※1失われた30年とは、バブル崩壊後の90年代初頭から現在までの期間を指す。 この30年間は高度経済成長期や安定成長期のような成長が見られず、経済の低迷や景気の横ばいが続いている。 

※2干支(えと)の一つ。 万物は5種類の元素からなるという五行説の思想に基づき、「丙」も「午」も火の性質があることから、丙午生まれの女性は気性が激しく夫を早死にさせる、との迷信が生まれたとされ出生数は激減する。60年に一度巡ってくる(前回は1966年で次回は2026年)。

幼稚園や学校も減っていますが、他にも子供の産業は右肩下がりになりますし、子供だけじゃなく、全ての産業が「人口が右肩上がり」のモデルの収益構造となっているので転換を迫られます。いわゆる「パイの奪い合い」の状態が激しくなるのです。

スポーツも例外でなく「パイの奪い合い」が激しくなります。日本においては「野球」と「サッカー」がメジャーであり、人気のあるスポーツですが、この2大スポーツも子供の減少に悩まされることになります。

「野球」と「サッカー」を比べますと、「野球」は野球場が必要になります。昭和の頃は近所に空き地があって、そこで野球をやれましたし、公園でも「野球」ができました。それが令和の今はどうでしょう。近所に空き地が少なくなりましたし、もしあっても私有地で侵入禁止となっていますし、公園は球技禁止となっています。学校も休日は「野球」と「サッカー」の校庭使用予約の取り合いです。

それでも「サッカー」は河原でもできますし、ちょっとした空き地があれば、玉一つあれば遊びでもできます。「野球」はどうでしょうか。「サッカー」に比べて、大きい空き地が必要でして、ホームベース、ファースト、セカンド、サードの4つのベースのある内野と、外野という空間が必要ですし、軟式、硬式なんてボールは使用できません。ぜいぜいゴムボールとカラーバットぐらいかと思います。

まず「野球」をやる人間が少なくなってきていると思います。今や「サッカー」「テニス」「陸上」、そして最近W杯で日本が活躍した「バスケットボール」など、色々なスポーツがありますので、それだけで野球人口が少なくなっていると思います。

次に「野球」はバット、ボール、グローブ、ユニフォームなど道具を揃えるのに多額の出費が必要なんですよね。それも使い回しの出来る様な物では中々無くて、かなりの物が個人で揃えなければいけない様な物です。

そして、母親の「野球」人気のなさですね。一番注目を浴びるプロ野球は未だに「昭和感」から脱却できない応援歌だったり、選手の私服や髪形などのセンスの悪さですね。

そして「野球」は、監督コーチの負荷が大き過ぎるので、保護者がお茶当番、テント設営、応援という名で拘束されますし、試合の日は配車登板もあります。

我が家も子供をスポーツの「少年野球」の評判をきいて『昭和から運営が変わってねー。忙しいので、拘束されるのは、とても無理!』と除外しました。

日本の少年野球界は、ボランティア活動で成り立たそうとしているところが一番の問題だと思います。

監督もコーチもボランティアでやっていただているので、月謝を払うシステムが必要なのではと思います。それでも負担は多いので、運絵スタッフにも月謝が必要なんだと思います。

しかしながら、高額になりますと、今の日本は30年給料が上がらずに非正規雇用が増えるばかりでステルス増税が追い打ちをかけて収入が少ない中で、子供を通わせることができまくなりますので非常に難しい問題となります。

私は「大谷翔平」選手のようなスーパースターは二度と現れないと思います。大谷選手が「野球界」のシステムで育てて出てきたも選手ではなく、いくつかの奇跡が重なって出てきた稀有な存在なんだと思っています。



※最後に
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※2023.5.24改題(旧題:【いばらの道か、修羅の道か?】西武・山川穂高選手を書類送検 当時20代の知人女性に強制性交等の疑い 警視庁)
※2023.11.15更新(2023年8月29日の不起訴処分の追加)

【速報】西武・山川穂高選手を書類送検 当時20代の知人女性に強制性交等の疑い 警視庁(2023年5月23日)

 プロ野球・埼玉西武ライオンズの山川穂高選手(31)が東京都内のホテルで女性にわいせつな行為をした疑いで、23日朝、警視庁が書類送検したことがわかった。

捜査関係者によると山川穂高選手は2022年11月、東京・港区のホテルで、知人女性(当時20代)に対してわいせつな行為をした強制性交等の疑いがもたれている。

知人女性が被害届を提出したことを受け、警視庁は、女性と山川選手の両者から任意で事情を聴くなど慎重に捜査していたが、きょう23日、書類送検に踏み切った。

山川選手は昨シーズン、パ・リーグのホームランと打点の2冠を達成。今年3月のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックでは、侍ジャパンのメンバーとしてチームの優勝に貢献した。

現在、西武の出場選手登録は抹消されている。
山川穂高
※書類送検とは
  書類送検とは、刑事手続において,司法警察員が被疑者を逮捕せず,また逮捕後,釈放した後に身柄を非拘束のまま,事件を検察官に送致することをいいます。したがって,書類送検された場合,基本的には身柄非拘束のまま検察官からの捜査を受けていくことになります。

書類送検とは、被疑者(犯罪の疑いのある人)で、身体拘束されていない者の事件記録や捜査資料を検察官に送る手続のことをいいます。書類送検された場合は、身柄非拘束のまま検察官からの捜査を受けていくことになります。

一方逮捕は,罪証隠滅のおそれや逃亡のおそれ等を理由に身柄を拘束される手続です。

書類送検されると検察官が被疑者を起訴するか不起訴にするかを決めます。起訴されてしまうと有罪率の極めて高い刑事裁判にかけられますので、前科を避けることは極めて難しいと言わざるを得ません。

西部ライオンズの山川穂高選手が書類送検されました。この時点では、まだ起訴されたわけでも有罪か無罪かを判断されたわけではありませんので、事態を見守るしかないと思います。

書類送検は、警察での捜査が終了したので、捜査書類を検察庁に送るだけの手続きであり、刑事裁判として起訴されたわけでも、有罪と判断されたわけでもありません。それはこれから検察官が起訴するかどうかを決めることです。弁護士としては、認めであれば、示談して不起訴にできないか行動する時期なのです。

西武ライオンズという球団から、度々聞こえてくる「書類送検」という言葉。西部ライオンズは教育機関ではありませんが、何か一般社会の人間と常識がかけ離れている感じがします。

過去、西部ライオンズで「書類送検」されて、起訴、不起訴となった選手たちをご紹介します。

東尾修(1987年・不起訴)
現在は娘の東尾理子や娘婿の石田純一、孫の理汰郎くんとイベントに出演することもあるなど、良いおじいちゃんというイメージが定着している東尾修さん。その東尾さんが賭け麻雀で問題となったのは、現役時代の1987年オフのことでした。

西武ライオンズに所属していた37歳の東尾は、同年に「15勝9敗・防御率2.59・85奪三振」といった成績を残しチームの3年連続パ・リーグ優勝、2年連続日本一に貢献。リーグMVPも受賞するなど、個人、チームともに最高のシーズンを過ごしていました。
東尾修
しかし同年オフ、東尾が無免許営業の雀荘で賭け麻雀をしていたことが発覚。東尾は東京・麻布十番にあったヤミ雀荘に通っていたようです。レートは1000点1000円の〝デカピン〟で、約3時間で10万円ほど負けたことがあったそうです。

東尾は書類送検され不起訴にはなったものの、球団からは「半年間の出場停止+2500万円の減俸」という重い処分を受けたのです。

なお、東尾はこの件について会見を開き「全て私の不徳の致すところ」と謝罪しているが、その中では暴力団関係者が同卓していたことも明かしています。
賭けマージャン
処分を受けた東尾は心を入れ替えたのか、オフシーズンは例年欠かさずに行っていたゴルフを絶ち、自主トレ先の沖縄で走り込みを重ねるなど徹底的にトレーニング。しかし、慣れない調整で調子が狂ったのか、翌1988年シーズンは「6勝9敗・防御率4.85・30奪三振」と成績が大幅に下落。同シーズン限りで現役を引退したため、賭け麻雀が引退の引き金を引いた形になりました。

引退後、東尾は野球解説者として活動した後西武(1995-2001)の監督を務め、在任中に2度のリーグ優勝を達成。2010年には野球殿堂入りを果たしたが、当時は賭け麻雀問題がなければもっと早く殿堂入りできていたのではとの見方もありました。

前身球団も含めライオンズ(1969-1988)一筋で20年間の現役生活を送り、「251勝247敗・防御率3.50・1684奪三振」といった通算成績を残しました。しかし、賭け麻雀をしていなければ、もう少し長く現役生活を送れていたのかもしれなかったのです。

❖東尾修の小話「球界初の1億円プレーヤー」

 「1億円プレイヤー」といえば、1980年代の野球選手にとって最高のステータスでした。打者で初は落合博満(中日)、投手は東尾修(西武)です。

1986年、2年連続三冠王を達成した落合博満(ロッテ)はオフに中日へのトレードが決まりました。このときの年俸1億3000万円(推定)が「日本球界最初の年俸1億円超え」と言われています。

東尾の場合、1億円に到達した1986年の契約更改で、球団から最初に提示された額は9800万円でした。それに対して、「200万円は自分で払うから1億円と発表したい。俺にもプライドがある」と交渉。その意気や良しとして、当時の球団代表・坂井保之が1億円で再提示、合意した経緯があります。

相内誠(2020年・証拠不十分で処罰なし)
2012年ドラフト2位の相内誠は相内誠はプロ8年で、通算0勝7敗。ケガもあって大成できない選手でした。そしてトラブル続きの野球人生でした。

有名なのが、2012年ドラフト2位で指名されたときです。ドラフト2位指名後は児童養護施設出身であることが話題になりましたが、大騒ぎになったのがドラフト指名直後の12月に起こした事件です。高速道路でスピード違反で捕まり、無免許運転だったことが発覚。前代未聞の『入団凍結』という処分になりました。

相内は8年間に5度の不祥事を起こしてしまうのです。

そして、2020年は1軍登板はなく、イースタンでは13試合登板、0勝0敗、防御率2.13でした。
相内誠
2020年4月12日、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、球団が全チーム関係者に自宅待機および不要不急の外出禁止と定めていた期間中にも関わらず、チームメイトの佐藤龍世が運転する車に乗り、千葉県内のゴルフ場でゴルフをするために外出しました。

そ法定速度60キロの首都高速道路中央環状線山手トンネル内を、89キロオーバーの149キロで走行し、速度違反取り締まり装置により検知されました。2人はその後、ゴルフ場でプレー。5月に佐藤のもとへ違反通知が届き、警視庁による事情徴収を受けました。

球団への報告は2020年8月17日になってからでした。8月18日に佐藤、8月19日に相内からヒアリングをし詳細を確認し、8月20日に佐藤とともに球団から無期限の対外試合出場禁止およびユニホーム着用禁止の処分を受けました。

9月28日に開かれた佐藤に対する東京地方裁判所の初公判で、佐藤が「同乗していた先輩の相内さんの指示に従った」と語っていたことが10月1日に報じられ、それに反応してか、2日未明に自身のInstagramのストーリー機能に、真っ暗な背景で「あきれる。」とだけ書いた投稿を行いました。意味はわかりません。そして11月3日に戦力外通告を受けました。
2015年に2軍イースタンの最多勝に輝きましたが、その翌年に右ヒジを痛め、ブレイクのチャンスを失ったのが大きかったです。その後も、2軍ではそこそこのピッチングをするものの、1軍に上がると制球が定まらず、四球でランナーをためて、勝負所で打たれることの繰り返し。本業で結果をだしていないうえに、トラブル続きとあって、いくらドラフト2位入団でも、高卒8年目で0勝は我慢の限界となり、戦力外通告を受けたと思われます。

❖佐藤龍世内野手の小話

2020年10月8日に佐藤龍世内野手(23)はスピード違反の裁判で懲役3か月、執行猶予2年の判決の有罪判決を受けました。
しかしながら、謹慎のあけた後は埼玉西武ライオンズ (2019 - 2021)、北海道日本ハムファイターズ (2021 - 2022)でプレーした後に、埼玉西武ライオンズ (2023 - )に復帰しています。

松坂大輔(2000年・身代わり出頭)
1998年ドラフト1位指名の松坂大輔です。

西武時代は「平成の怪物」と呼ばれました。21世紀初の沢村栄治賞受賞者でもあります。ゴールデングラブ賞をパ・リーグ投手最多記録となる7回受賞し、3年連続ベストナインにも輝きました。そして2006年と2009年のWBCではエースとして日本代表に貢献しました。
東尾修と松坂大輔
松坂は、2000年8月に愛車『セルシオ』で、制限60km/hの首都高速を134km/hで走行し、期間2カ月の免停処分を科せられていました。

その免停中にもかかわらず2000年9月13日にハンドルを握って当時交際中だった元日本テレビアナウンサーの柴田倫世さんのマンションに密会しに行ってしまいます。当日は松坂の20歳の誕生日で翌日にシドニー五輪への出発を控えていました。五輪へむけての記者会見前のわずかな時間を縫って、恋人と誕生日を過ごしていたものと思われます。

しかし当時は免許停止中。さらにあろうことか、松坂が車を停めた場所は文京区の駐車禁止区域の路上。1時間半の逢瀬を終え、松坂さんがマンションから出て来た時にはすでに車はレッカー移動されていました。
松坂と柴田倫世
すでに無免許運転、駐車違反と罪を重ねていたわけですが、さらに驚くことに事態を重く見た球団幹部の黒岩彰課長が身代わり出頭します。

黒岩彰課長はカルガリー冬季五輪スピードスケート500メートルの銅メダリストで有名な方です。

当初警察は黒岩の駐車違反としていましたが、松坂と柴田の交際をスクープしたフライデーが報道したため、改めて二人に事情聴取をし道路交通法違反の疑いで松坂選手を、犯人隠避の疑いで黒岩彰課長を書類送検しました。

松坂は
「違反は申し訳ない。黒岩さんの出頭は後で知った」
黒岩彰課長は
「車が球団所有で自分が管理しているため出頭した」
と語り、その結果略式起訴により松坂選手は罰金19万5000円、黒岩課長は罰金10万円の略式命令が下されました。

当時の球団社長の小野賢二および黒岩は責任を取って辞表を提出する事態になり、松坂は当時埼玉県警察から交通安全キャンペーンのイメージキャラクターに起用されていたこともあり、この件は世間から激しく批判されました。球団側は松坂を無期限の自宅謹慎処分としたものの、謹慎処分は1か月足らずで解除されました。

山川は不起訴処分【2023.11.15】追記

【西武】不起訴処分の山川穂高 離婚、別居もせず…夫人の〝バックアップ〟姿勢に驚きの声(2023/8/30)

 東京都港区のホテルで知人女性に性的暴行をしたとして、強制性交の疑いで書類送検されていた西武・山川穂高選手(31)が、29日に嫌疑不十分で不起訴処分となった。東京地検は理由を明らかにしていないが、今後は民事訴訟の可能性もあるため、まだまだ「一件落着」というわけではなさそうだ。その一方、これだけ大ごとになった不倫騒動で気になるのが山川の夫婦関係。周囲では山川夫人の〝スタンス〟に驚きの声も上がっている。

昨年11月に山川から性的暴行を受けたとして、女性が被害届を提出し警視庁麻布署が捜査。5月23日に書類送検していた。同署は起訴を求める「厳重処分」ではなく、判断を検察に委ねる「相当処分」の意見を付けていた。

示談は成立していないようで、当初から処罰感情が強いとされる女性側が検察審査会への申し立てをする可能性はある。そこで起訴相当となれば裁判員裁判となり、この問題はさらに長期化するかもしれない。民事訴訟の可能性もあり、現時点ではまだ予断を許さない状況は続いている。

球団は事実関係を確認中で、親会社の西武ホールディングスと連携を取りながら、慎重に山川への処分を決定していくことになりそうだ。

いずれにしても、プロ10年目の今季は出場17試合で打率2割5分4厘、0本塁打、5打点のまま終了する可能性が濃厚。書類送検以降の3か月間、三軍で練習はしているものの、二軍戦、三軍戦とも出場はなく、実戦カンが圧倒的に不足しており、いきなり一軍クラスの投手の球を打つことは難しい。

また、不起訴とはなったが、起こした騒動が周囲の賛同を得にくい不倫問題がらみであることからファン感情も考慮し、球団は慎重な判断をせざるを得ない。

11月に32歳となる山川にとっては、長くない選手生命の貴重な1シーズンを棒に振ってまで「合意の有無」に関して徹底抗戦の構えを崩さなかったことになるが、その裏では、これだけの不倫騒動が公になりながら山川を全面支援しているといわれる夫人の存在も大きかったようだ。

通常この手の不倫が公になった場合、夫婦関係が崩壊しても何ら不思議ではない。しかし、問題が表面化してから書類送検による登録抹消、約3か月間の三軍幽閉中も山川が夫人、子供と別居、離婚の方向性となっているという話は周囲から聞こえてこない。

そればかりか「奥さんは完全に山川の味方。不倫を許しているわけではないようですが、相手の女性に対しては全面的に山川の言い分を信じて支持しているようです。普通は考えられないですが、そういう身内のバックアップがないと本人も普通にしていられないでしょう」(近い関係者)というから驚きだ。

山川夫人は富士大の1年先輩でソフトボール部出身。「決して表に出てくることはなく、自身も野球に詳しいはずなのに、一方的に話をする山川の話をうんうんと聞いて、受け止められる姉さん女房」というのが周囲の夫人評だ。

山川がプロ入りし4年目の2017年に結婚するまでの道のりも、決して平坦ではなかったという。もちろん、これがすべてを言い表しているわけではないが、夫婦の形は千差万別のようだ。

西部ライオンズの山川穂高選手は8月29日に嫌疑不十分で不起訴処分になりました。そして、11月14日に、今季取得した国内フリーエージェント(FA)権を行使することを球団を通じて発表されました。まだ、民事訴訟の可能性はありますが、来シーズンはどこの球団でプレーするのか?見守っていきたいと思います。



※最後に
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