元世界王者・桃田賢斗(29)が日本代表引退会見「再び世界のトップを目指すのは体力面、精神面において限界」現役は続行(2024年4月18日)
バドミントンの男子シングルス元世界王者の桃田賢斗(29、NTT東日本)が18日に会見を開き、日本代表から退くことを発表した。
この日、黒のスーツで会見に出席した桃田は冒頭で「今月末のトマス杯を最後に日本代表引退を決意したこのタイミングで、自分の口から感謝の気持ちを伝えたいと思い、このような場を設けさせていただきました」と話した。
これまでを振り返り、「2020年の1月の交通事故から苦しいこともたくさんありましたし、自分の中で思うようなプレーだったり、自分なりに試行錯誤はこうやってきたつもりではいたんですけど」としみじみした表情を見せた。「充実した代表人生だったかなと思います」。
引退理由を「気持ちと、体のギャップというか、そういうのが続いていく中で、このままその世界一をまた、目指そうというところまで行けないなと判断した」と話した。
今月末に発表される五輪ランキングでパリ五輪出場者が内定するが、桃田の出場はほぼ絶望的となっている。「再び世界のトップを目指すのは体力面、精神面において限界と感じ、決意をしました」とし、日本代表は引退するが、所属するNTT東日本で競技は続行するという。
桃田は中学生で全日本総合選手権に初めて出場し、2015年に初優勝を果たした。その後は2018年、19年、20年で3連覇、22年、23年と6度、日本の頂点に立った。2018年の世界選手権で日本男子初の世界王者になると2019年も優勝し、連覇を達成。2019年は国際大会で歴代最多の年間11回の優勝し、ギネス世界記録も認定された。
しかし世界のトップを走り続けた、その裏で2016年には東京都内の違法カジノ店で賭博をしていたことが発覚し、日本バドミントン協会から無期限の競技会出場停止処分を受けた。当時、世界ランク2位とリオ五輪のメダル候補だったが、その夢は閉ざされた。
さらに2020年1月、マレーシアマスターズ優勝後に空港への移動中に交通事故に遭遇。運転手が死亡し、桃田も顎、唇、眉間などを裂傷、全身打撲の怪我を負った。その後、目の不調でシャトルが二重に見えたため、精密検査の結果、右眼窩底骨折で全治3カ月を要することが判明した。
バドミントンの男子シングルス元世界王者の桃田賢斗(29、NTT東日本)が18日に会見を開き、日本代表から退くことを発表した。
この日、黒のスーツで会見に出席した桃田は冒頭で「今月末のトマス杯を最後に日本代表引退を決意したこのタイミングで、自分の口から感謝の気持ちを伝えたいと思い、このような場を設けさせていただきました」と話した。
これまでを振り返り、「2020年の1月の交通事故から苦しいこともたくさんありましたし、自分の中で思うようなプレーだったり、自分なりに試行錯誤はこうやってきたつもりではいたんですけど」としみじみした表情を見せた。「充実した代表人生だったかなと思います」。
引退理由を「気持ちと、体のギャップというか、そういうのが続いていく中で、このままその世界一をまた、目指そうというところまで行けないなと判断した」と話した。
今月末に発表される五輪ランキングでパリ五輪出場者が内定するが、桃田の出場はほぼ絶望的となっている。「再び世界のトップを目指すのは体力面、精神面において限界と感じ、決意をしました」とし、日本代表は引退するが、所属するNTT東日本で競技は続行するという。
桃田は中学生で全日本総合選手権に初めて出場し、2015年に初優勝を果たした。その後は2018年、19年、20年で3連覇、22年、23年と6度、日本の頂点に立った。2018年の世界選手権で日本男子初の世界王者になると2019年も優勝し、連覇を達成。2019年は国際大会で歴代最多の年間11回の優勝し、ギネス世界記録も認定された。
しかし世界のトップを走り続けた、その裏で2016年には東京都内の違法カジノ店で賭博をしていたことが発覚し、日本バドミントン協会から無期限の競技会出場停止処分を受けた。当時、世界ランク2位とリオ五輪のメダル候補だったが、その夢は閉ざされた。
さらに2020年1月、マレーシアマスターズ優勝後に空港への移動中に交通事故に遭遇。運転手が死亡し、桃田も顎、唇、眉間などを裂傷、全身打撲の怪我を負った。その後、目の不調でシャトルが二重に見えたため、精密検査の結果、右眼窩底骨折で全治3カ月を要することが判明した。
また、五輪で金メダル確実と言われていた選手が何一つメダルを取れないまま引退となりました。
一言で言いますと、運のない人でした・・・。
選手としてこれから旬という時に不祥事(東京都内の違法カジノ店にて賭博)により、2016年のリオ五輪に出場できませんでした。
それでもそこから巻き返して2018年に男子シングルの世界ランキングのトップまで上り詰めて、2020年の東京五輪で金メダルの最有力でしたが、今度は2020年に交通事故(クアラルンプール国際空港へ車で移動中、桃田等を乗せた白いバンがトラックに衝突する事故が発生し24歳の運転手が死亡し、桃田選手も顎、唇、眉間の計3か所を裂傷、全身打撲の怪我を負い、クアラルンプールの病院に入院した)に遭って、東京五輪がコロナで1年延びても万全の状態で出場できずに敗退でした。
それでも日本のバドミントン界に大きな希望を与えてくれた功績は後々まで語られるでしょう。
瀬古利彦(男子マラソン)
1978年12月の福岡国際マラソンで2:10:21で優勝(当時世界歴代10位)を皮切りに1979年04月ボストンマラソンは2位でしたが、当時世界歴代9位、そして1979年12月の福岡国際マラソンで優勝でモスクワ五輪代表権獲得しましたが、1980年のモスクワ五輪はソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はなりませんでした。
その後、1983年12月の福岡国際マラソンまで五連勝負けなし敵なし(1983年02月の東京国際マラソンでは2:08:38で優勝し当時世界歴代3位)で臨んだ、ロス五輪では、まさかまさかの14位の失速で、優勝もしくはメダル獲得どころか、入賞にすら入らない成績となります。いろいろと敗因理由がありますが、その当時の五輪のメダル獲得期待といったら尋常ではない盛り上がりでしたので、これは相当なプレッシャーになったと思います。
その後、1988年03月のびわ湖毎日マラソンで2:12:41の優勝でソウル五輪代表権獲得をしましたが、平凡なタイムでした。
ソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていましたが1987年12月の福岡国際マラソンを負傷のため欠場しました。マスメディアでは、ライバルの中山が「這ってでも出てこい!」と発言もありました
1988年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となるも、この代表選出については、瀬古さんに対する救済策ではないかという意見が当時多く出されました。
この代表選考の不透明さは瀬古さんの責任ではありませんが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになりました。
この当時から2019年開始されたMGCのような一発勝負(MGCも実際は代表枠3名中2名決定)のような議論がされておりました。
そして、ソウル五輪では9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わりました。
その後、1983年12月の福岡国際マラソンまで五連勝負けなし敵なし(1983年02月の東京国際マラソンでは2:08:38で優勝し当時世界歴代3位)で臨んだ、ロス五輪では、まさかまさかの14位の失速で、優勝もしくはメダル獲得どころか、入賞にすら入らない成績となります。いろいろと敗因理由がありますが、その当時の五輪のメダル獲得期待といったら尋常ではない盛り上がりでしたので、これは相当なプレッシャーになったと思います。
その後、1988年03月のびわ湖毎日マラソンで2:12:41の優勝でソウル五輪代表権獲得をしましたが、平凡なタイムでした。
ソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていましたが1987年12月の福岡国際マラソンを負傷のため欠場しました。マスメディアでは、ライバルの中山が「這ってでも出てこい!」と発言もありました
1988年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となるも、この代表選出については、瀬古さんに対する救済策ではないかという意見が当時多く出されました。
この代表選考の不透明さは瀬古さんの責任ではありませんが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになりました。
この当時から2019年開始されたMGCのような一発勝負(MGCも実際は代表枠3名中2名決定)のような議論がされておりました。
そして、ソウル五輪では9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わりました。
上村愛子(女子フリースタイルスキー・モーグル)
1998年、弱冠18歳にして上村自身初めての冬季オリンピック・女子モーグル日本代表出場となし、1998年長野オリンピックでは、2月8日の予選を13位(21.82点)で通過。3日後・2月11日の決勝本番でも大きなミスなくまとめて、いきなり7位入賞(23.79点)の好成績を残しました。
なお、同女子モーグル日本代表の里谷多英が、日本女子史上初の冬季五輪金メダルを獲得する快挙を達成しまして、最初は上村さんがマスコミには注目されていましたが、里山さんが話題を一気にかっさらっていった感があります。
22歳の2002年、自身2度目の冬季五輪出場となるソルトレークシティオリンピックに出場しました。
2月10日、予選では日本女子トップの4位(23.82点)で通過。決勝ではメダル獲得が期待されたが、わずかにエアの着地が乱れ、滑走のスピードも伸びずに6位入賞(24.66点)に留まりました。
再び、里谷さんは冬季五輪2大会連続メダルとなる銅メダル獲得したため、またしても五輪後の注目は里谷さんに集まりました。
再び、里谷さんは冬季五輪2大会連続メダルとなる銅メダル獲得したため、またしても五輪後の注目は里谷さんに集まりました。
26歳の2006年、トリノオリンピックへ自身冬季五輪3度目の出場となりました。試合前から膝を負傷するハンデを背負いながらも、2月11日の予選では日本女子首位の5位(24.20点)で通過。同日の決勝では、世界女子選手でも稀な大技エア「コークスクリュー(空中で縦方向と横方向の両方に身体を回転させる、3Dエア)」を成功させるも、得点は伸びずに5位入賞(24.01点)に終わりました。
3大会連続して入賞は果たすも、五輪メダルを再び獲得できなかった同大会終了後のインタビューにおいて、上村さんは薄っすらと悔し涙を浮かべながら、「一体どうすればオリンピックの表彰台に乗れるのかが…ナゾです…」とコメントしました。3度目の正直でとりたかったでしょうね。
2010年にワールドカップ前半戦未勝利のまま、30歳となる4度目の冬季五輪出場となるバンクーバーオリンピックに臨みました。
2010年2月13日、女子モーグル競技に出場。予選では日本女子トップの5位で通過(24.31点)し、期待された決勝では自身冬季五輪最高順位となる4位入賞を果たす(24.68点)。自身冬季五輪では4大会連続入賞を達成するも、又しても五輪メダル獲得はなりませんでした。
競技終了後のインタビューにおいて上村は、全力を出し切ったことに対する満足感を述べつつも、メダル及び表彰台を逃した事については「何で、こんなに一段一段(7→6→5→4位)なんだろう、と思いましたけど……」と思わず泣きながら、無念な心情を口していました。
長期休養を経て2014年、上村さん自身34歳となった5度目の冬季五輪日本代表に選出され、ソチオリンピック本番に出場すします。
2014年2月8日に行われた女子モーグル決勝(12名勝ち抜け)の1回目では、20.43点を出して9位で再び通過。決勝2回目(6名勝ち抜け)は21.15点で6位となり、際どく決勝3回目に進んだ。そして最後は6人によるメダルを賭けての決勝3回目では、1番スタートで20.66点を出して残り3人までトップをキープしたが、最後の3人に抜かれて前回バンクーバー五輪と全く同じ4位入賞となりました。
冬季五輪では5大会連続入賞という快挙を成し遂げたものの、自身の悲願だった五輪メダル獲得には惜しくも届きませんでした。
冬季五輪では5大会連続入賞という快挙を成し遂げたものの、自身の悲願だった五輪メダル獲得には惜しくも届きませんでした。
それでも、競技終了後のインタビューで上村さんは「こんなに何本も滑るオリンピックは初めてで、決勝ではメダルが獲れなかったけど、とても清々しい気分です。3本共に全力で滑れたことで、点数も見ずに泣いてました」「ソチを目指そうとした時、又(メダルが)取れないとか取れるとか、そういう場所に戻る自信は持てなかった。最高の滑りをしたら獲れるかもという所まで来れたのが、凄く嬉しい」と、目を潤ませながらも笑顔を浮かべました。
また、自身の五輪出場はこれが最後と示唆しつつ「今回の五輪は良い想い出で終われるんじゃないかと。メダルは無いんですけどね(苦笑)。そこは申し訳ないとしか言いようがないんですけど、頑張ってよかったなぁと思っています」と、悔い無く完全燃焼出来た事を強調していました。
いやー。メダルをとらせてあげたかったです。
また、自身の五輪出場はこれが最後と示唆しつつ「今回の五輪は良い想い出で終われるんじゃないかと。メダルは無いんですけどね(苦笑)。そこは申し訳ないとしか言いようがないんですけど、頑張ってよかったなぁと思っています」と、悔い無く完全燃焼出来た事を強調していました。
いやー。メダルをとらせてあげたかったです。
※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。