竜ヶ崎竜之介のスマホ閲覧で通勤通学を有意義にするプログ

アクアリウムを中心として、他にもホラーやパソコンなどの趣味や仕事、他に日常の出来事について好き放題書いていこうと思います。虎ノ門虎之助でメダカのプログを書いていますが、他のことも書きたくなりましたので新しいプログを立ち上げました。

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カテゴリ: スポーツ

※2023.09.11改題(旧題:【サッカー日本代表のレベルが変わった試合の歴史】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.09.12改題(旧題:【サッカー日本代表が新たな次元に突入した試合を振り返る】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)
※2023.10.22改題(旧題:【まだ途上:サッカー日本代表が史上最強になるまで】ドイツに4-1快勝!初のW杯優勝経験国に2連勝!)

【日本代表】ドイツに4-1快勝!伊東、上田、浅野、田中がゴール!初のW杯優勝経験国に2連勝(2023年9月10日(日) 5:36)

<国際親善試合:ドイツ1-4日本>◇9日(日本時間10日)◇フォルクスワーゲン・アレーナ
日本代表(2023.09.10)その2
 サッカー日本代表(FIFAランキング20位)がドイツ代表(同15位)と対戦し、FIFAワールドカップ(W杯)優勝経験国に対しては日本史上初となる2連勝を成し遂げた。

昨年11月のW杯カタール大会1次リーグ初戦に続く4-1で返り討ちにした。伊東純也、上田綺世、浅野拓磨、田中碧が決めた。途中出場の久保建英も2アシストした。

森保一監督(55)は「選手もスタッフも厳しい試合になると覚悟した上で準備を日々やってこられて良かった。高い目標を持ちながらチームを積み上げていること、準備期間の中でやれたこと、勝利は別としてチャレンジできたことがすごく良かったかなと思います」と納得した。

先発はGKに大迫敬介、DFラインは左から伊藤洋輝、板倉滉、冨安健洋、菅原由勢。2ボランチはリバプール遠藤航と守田英正が組んだ。2列目は右に伊東純也が入り、トップ下に鎌田大地、左に三笘薫。1トップに上田綺世を置く4-2-3-1の陣形でスタートした。

開始から出足鋭いプレスとコンパクトな守備で、ドイツの攻め上がりを許さない。完全敵地でペースを握ると、前半11分に伊東がいきなり先制した。菅原の右からの高速クロスにニアサイドへ走り込み、レアル・マドリードDFリュディガーの鼻先で合わせ、右足ワンタッチで流し込んだ。

その8分後にドイツFWサネに同点弾を許したが、わずか3分後の22分に上田のゴールで勝ち越した。

再び菅原の右クロスに伊東が右足で合わせる。これはミートできず、こぼれたが、そのボールを上田が左足ダイレクトで合わせた。急にボールが来ても決める嗅覚にSNSも興奮となった。

ドイツは自国で、まだサポーターが格下と見ているだろう日本を相手に、連敗など許されない。その中で反対に森保ジャパンが、リードだけでなく複数回の決定機を決め切る展開となった。センターバックでは初の先発コンビ結成となった冨安と板倉も奮戦。前半終了時には、スタジアム内にドイツ代表に対する猛烈なブーイングが響く異様な空気に包まれた。

後半に入ると、さらにチャレンジした。守備時に三笘がウイングバックに下がる3バックに布陣を変更。前半、右サイドから攻め込んできたサネを抑えにかかった。13分には上田に代えてFW浅野拓磨、鎌田に代えてDF谷口彰悟を投入。昨冬W杯で決勝点を挙げたジャガーも登場した。20分には、その浅野がロングパスに抜け出して1対1の決定機。GKテアステーゲンの好セーブに防がれたものの、ゴールに迫り続けた。

28分には、ドイツで現役最多122試合目の出場となったFWミュラーが送り込まれたが、日本が追加点を許さず。後半終了間際には浅野、田中碧が追加点。久保建英の2アシストだった。W杯で「ドーハの歓喜」と呼ばれた歴史的金星を挙げた日本が、今度は敵地でW杯優勝4度の強豪に真っ向勝負を挑み、勝ち切った。W杯制覇国からの連勝は日本サッカー史上初の快挙となった。

森保監督「3バックだけでなく可変で、難しい戦術変更の中でも選手たちがこなしてくれたと思います。いい守備からいい攻撃を忘れることなく、守備の強度を高くやってくれました。日本で応援してくださった皆さん、早朝からの応援が力になりました。スタジアムの日本の皆さんとも喜びを共有できてうれしいです」

伊東「(菅原)由勢からニアにボール来るかなと思って、うまく触ってゴールになって良かったと思います。うまく連携の中から裏に抜け出してクロスに行く場面が多かった」

上田「はね返りを詰めた形でしたけど、常に準備していたので取れたゴールだと思います。もう2つ自分なりに決めなければいけない場面があったので課題はありましたけど、初めて日本代表に貢献できたんじゃないかなと思います、多少」

冨安「まずはしっかりと勝てたことは大きいですし、ゲームをうまく進める。追加点は取りに行くよ、という指示は森保さんから出ていたので、後半3点目、4点目も取れて、狙い通りの戦いはできたんじゃないかなと思います。W杯とは違った勝利。次につながる。もっともっと期待してほしいですし、次の3年後のW杯でベスト8の壁を破っていきたい」


【セルジオ越後】ブラボーだね! 日本はW杯より成長していた ドイツ監督は解雇されるだろうな(2023年9月10日(日) 6:50配信)

日本代表(2023.09.10)その1
 情報戦の勝利だね。相手左サイドバックはボロボロだった。その情報が事前に入ったから、日本は右MF伊東、DF菅原が集中的に攻めて、前半2得点。後半もMF久保がそのサイドから2アシストと、4点すべてが日本の右サイドから生まれた。それを修正できなかった相手監督は解雇されるだろうな。

日本はW杯の時より間違いなく成長していた。前半は互角以上に戦ってリードして、後半5バックに変えたのは、何かを試す狙いではなく単純に勝ちたかったからだと思う。その戦術がはまってカウンターも決まった。一方で、ドイツの衰退時代はしばらく続くね。足元ばかりで、裏が取れない。選手層が薄いし、点が取れるFWもいなかった。

日本は、システマチックに戦う欧州チームには対抗できることが証明された。今後の課題は南米のチームだ。W杯でベスト8の壁を越えるには、南米勢にも勝たないといけない。欧州は戦術で得点を狙うが、南米は個人で突破してくる。

この日、唯一苦しんだのも、MFサネの個人突破だからね。サネのような選手は南米に何人もいる。日本が苦手とする相手をどう克服するか。今回はドイツに完全アウェーで勝ったが、南米勢との完全アウェー戦は過去3戦全敗、通算0得点8失点だ。次のステージに上がるためには、克服してほしい。

今回の欧州遠征で日本はドイツ、トルコと、普段はあまり組めない欧州勢と2試合を組んだ。今後、欧州遠征時には南米の強豪とのマッチメークを考える必要がある。ほとんどの選手が欧州でプレーしているので体調もいいはず。3月に日本へ呼んだウルグアイ、コロンビアはコンディションがあまり良くなかったが、それでも日本は勝てなかった。

アルゼンチンやブラジルと欧州で試合を組めば、何十億円もの金がかかるのだろう。だが、それこそ「新しい景色」への投資だ。3年後のW杯(FIFAワールドカップ北中米大会)で必ず返ってくる。日本サッカー協会(JFA)は今、経済的に苦しいかもしれない。それでも極端な言い方をすれば、その投資ができるか、できないかでW杯の成績が決まると思う。

とにかく今日はドイツに勝って、早起きしたかいがあったね。試合後、選手は誰も言わなかったけれど「ブラボー」だったよ。(日刊スポーツ評論家)


「本当に素晴らしい」 本田圭佑、ドイツに4発快勝の森保ジャパンを祝福「日本は次のレベルに達したと思う」(2023年9月10日(日) 8:00配信)

日本代表(2023.09.10)その3
 森保一監督率いる日本代表は、現地時間9月9日(日本時間10日未明)に敵地ヴォルフスブルクで行われた強豪ドイツ代表との国際親善試合で、4-1と完勝した。ワールドカップ(W杯)出場3回を誇るMF本田圭佑は、自身の公式X(旧ツイッター)で「日本は次のレベルに達したと思う」と綴った。

カタールW杯のグループリーグで対戦し、日本が2-1とドイツを撃破。それ以来の再戦となったなか、MF伊東純也とFW上田綺世のゴールで前半を2-1で折り返し、後半には途中出場のFW浅野拓磨とMF田中碧もゴールを奪い、日本が4-1と完勝した。

直近の対戦では2連勝、通算の対戦成績でも日本は2勝1分1敗と勝ち越した。試合後に本田は自身の公式Xで「日本は昨年のW杯からドイツ相手に連勝。本当に素晴らしい! 日本は次のレベルに達したと思う。おめでとう、日本」と祝福のメッセージを送っていた。

1993年5月15日に日本でのプロリーグ『Jリーグ』が開幕しました。その前身である日本サッカーリーグから長くサッカーを見てきました。

プロリーグが出来て、念願だったW杯に初めて出場、2002年には日本でW杯が開催されて、W杯に出るのが当たり前のようになって、今では強くなったことでW杯予選がつまらなくなってしまって、W杯でベスト16に進まないと失敗みたいな、ベスト8、そしてW杯優勝というのが目標になりました。

それでも・・・結局ドイツには負けるんだろうなって思っていました。

朝3時に起きました。そしてTVを点けましたが、ドイツが2点とったところで寝ようと思っていました。

相手チームの状況が悪い?監督の采配が悪くて解任論がでている?直前の2試合は負けている?・・・いやいや、そんなの関係ありません。だって、あのサッカー大国、W杯優勝4回のドイツですよ。

2022年W杯では相手が油断していたから奇跡的に勝てたものの(試合全体のボール支配率はドイツが65%、日本は24%。パス本数もドイツが820本のうち743本を通して日本ゴールに迫ったのに対し、日本は3分の1の261本)、本気で立ち向かってきたならば、こんな大国に勝てるわけが無い・・・。

でも、今の日本の若き代表選手は、きっとそんなこと誰も思って無かったのですね。

本当にサッカーは時代が変わりました。どんな大きな試合よりも、この親善試合では、それを衝撃と共に感じたのです。

朝3時でドイツに2点とられたら、すぐに寝ようと思っていたのですが、日本代表のプレーに魅了されて90分間見てしまいました。

本田圭祐さんの『日本は次のレベルに達したと思う』というのが、昔からの日本代表を見ているミーハーなサッカーファンの感じたことだと思います。

古くから見ているミーハーなサッカーファンでも、『次にレベルに達したと思う』というきっかけは肌で感じます。そんなきっかけとなった試合をご紹介します。

1985年FIFAメキシコW杯アジア最終予選(韓国戦)・・・プロ化に向けて
1985年10月26日、メキシコW杯アジア予選が、1993年『Jリーグ』のプロ化される前に最もW杯に近づいた予選でした。当時のW杯のアジア出場枠はわずか2ヶ国でして、1枚はイラクが出場権を勝ち取っており、残る1枚を日本と韓国のホーム&アウェイによる最終決戦だったのです。

この韓国戦に勝てば初の本大会出場でした。しかし、1985年10月26日の国立競技場での第1戦は、韓国に2点先行された前半43分に、FKのチャンスをゴール正面約25メートルでえます。FKの名手・10番 木村和司が右足でカーブをかけたボールはゴール左上隅に吸い込まれました。この時は歓喜に沸く国立競技場でした。だが、あと1点が遠かったのです。FKが直接決まって1点差に迫ったものの1ー2黒星でした。
メキシコW杯韓国戦FK決めた
1985年11月3日のアウェー第2戦も0ー1で敗れ、悲願を逃したのです。W杯出場の夢をかなえるために、日本はその後、12年の月日を費やしたのです。

それまで日本では「W杯は欧米のプロ選手が出場する大会。プロがない日本にW杯は夢舞台で五輪が現実的な目標」でした。W杯はフランスのプラティニ、ブラジルのジーコ、アルゼンチンのマラドーナなどのスーパースター含めてTVで見るものでしたが、あと一歩で手が届くところまで来たことは大きかったW杯予選でした。

この試合には、6万2000人の観衆が詰めかけました。当時はまだまだマイナーであったサッカーが、これほどまで大歓声を受けたのは初めてでした。日本サッカーの大一番に日本中が盛り上がったが、夢はかなわいませんでした。新聞の紙面には「W杯へ日本手痛い黒星」「62000観衆絶叫、タメ息」など厳しい見出しが躍りました。

そして敗れはしたものの、日本代表の強化を本気で考える機運が生まれたのです。韓国は一足早く1983年にプロリーグ(Kリーグ)をつくり選手を強化していました。プロとアマの差は大きく「日本でもプロを」の声が次第に大きくなったのです。

森孝慈監督は「これからが、我々の真価を発揮するときだ」と言っていたが、雪辱を期した第2戦も敗れましたし、石井義信監督が率いた2年後のソウル五輪もあと一歩で中国に敗れました。しかしながら、敗れたことが逆にプロ化の機運を一気に高めたのです。

1992年AFCアジアカップ広島大会・・・アジアで初めて頂点に!
まだ、1993年に『Jリーグ』がプロ化される前年の大会です。

AFCアジアカップ1992広島大会は、1992年10月29日から11月8日まで日本の広島県で開催された10回目のAFCアジアカップでした。この大会の開催国である日本は2大会連続2回目の出場にして初めてフル編成のA代表で参加し、初優勝に輝いたのです。

日本代表は翌年の1994年アメリカ・ワールドカップ(W杯)出場を目指し、1992年3月に史上初の外国人監督としてハンス・オフト氏が就任しました。

日本代表はタレント揃いで、三浦知良、中山雅史、高木拓也、北沢豪、福田正博、ラモス瑠偉、柱谷幸一、都並敏史などヴェルディ川崎(1993年のJリーグ開幕時のチーム名称、現東京ヴェルディ1969)中心のメンバーに2023年日本代表監督の森保一もおりました。

1992年8月には韓国、中国、北朝鮮と争ったダイナスティカップで初優勝を飾るなど、成果が表れつつありました。そんな中、1992年10月末から11月にかけて広島でアジアカップが開催されました。

日本の報道陣はこぞって好成績を期待したが、オフト監督は「私の仕事と、われわれの目標は、来年のW杯予選」と語り、この大会も「W杯予選へのプロセス」と言い続け、チーム強化の一環という姿勢を崩していませんでした。

決勝の相手は大会2連覇中で、当時アジア最強と目されていたサウジアラビアです。日本は中国戦で退場処分を受けた松永に加え、中盤の要だった森保一も警告累積で出場停止でした。

そうするうちに前半37分、左サイドで都並敏史からパスを受けたカズがセンタリング。これを高木琢也が胸トラップから、落ち際を左足ボレーで合わせて先制しました。

後半は追加点こそ奪えなかったものの、そのまま1-0でタイムアップを迎え、ついにアジアの頂点に立ちました。
1992年アジアカップ広島大会
試合後、柱谷は「気が付いたら決勝に来て、優勝していた」と、無心での戦いだったと振り返っていました。オフト監督が語った「W杯予選へのプロセス」という意識の影響もあったでしょうが、貴重な経験に加えて結果も出るという、収穫の多い大会となりました。

当初は広島県内でも、大会が行なわれていることを知らない人がいたほどでしたが、決勝は5万人の大観衆で埋まり、日本中の注目を集めました。翌年(1993年)5月の『Jリーグ』開幕を控えていた日本サッカー界が、現在まで続く新しい時代の扉を開いた初優勝でした。

1994年FIFAアメリカW杯アジア最終予選『ドーハの悲劇』
1993年に『Jリーグ』がプロ化されてから初めて臨んだW杯予選でした。

最終予選が独特で、進出した6チームが、カタール・ドーハでの集中開催方式で1順の総当たり戦を行う。上位2チームが本大会出場権を得るものでした。要は一発勝負だったんです。

1992年のアジアカップ広島大会の優勝や1993年に開幕したプロリーグ『Jリーグ』の開幕で、サッカーファンのみならず世間的にも『W杯に行ける(かも)』と注目度は高く、もうマイナーとは呼ばせないというところまできました。
ドーハの悲劇その1
そんな期待を抱いていた1993年10月15日の初戦のサウジアラビア戦は0-0引き分け、次の1993年10月18日のイラン戦は1-2で敗戦となり、いきなりW杯出場が崖っぷちのピンチとなります。

しかしながら、ここからが不屈の精神で、北朝鮮戦で3-0の勝利、そしてなんと韓国戦を1-0の勝利でW杯出場を手繰り寄せます。
1994年W杯第5戦前の第4戦までの勝ち点
最終第5戦前は日本とサウジアラビアが勝ち点5で、この2ヶ国が出場権内にいたのです。しかしながら、3位の韓国から5位のイランまで勝ち点4点ですので僅差となっており予断は許しません。

第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきましたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催されました。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送りました。

試合は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知良がヘディングで押し込み、日本が早々と先制します(1-0)。前半は1-0のまま終了しました。

他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』で、このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなります。

後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いつきました。他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となります。

イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず、逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドポジションぎりぎりから中山が右角にシュートを決めて、2-1と勝ち越しに成功した。

89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイド(バックスタンド側)からコーナーキックのチャンスを得ると、このキック前に90分を経過してロスタイムに突入します。

ここでキッカーのライス・フセイン=シハーブはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。

意表を突かれた日本は三浦知良が対応しますが、ハラフ・ムフシンに振り切られセンタリングを上げられます。これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となりました(90分17秒)。

イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込みました。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審の セルジュ・ムーメンターラー(スイス)の笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となりました。
ドーハの悲劇その2
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は下表の通りとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得し、得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃しました。
ドーハの悲劇第5戦後の勝ち点
「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれました(韓国では『ドーハの歓喜』)。

1993年10月28日は後に日本サッカー史上最大の悲劇として語り継がれてきた「ドーハの悲劇」が起きた日になりました。ただし、この失敗があるからこそ、日本はアジアサッカーのリーダーとしての地位を確立しています。

TVで次のフランスW杯アジア予選途中と本選の監督に就任した岡田武史監督が言っていた言葉を、今でも覚えています。

『今の日本のチームは、アジアで戦えば10回中、5回は勝っていけるチームです。ただ、今初めて5回勝てるチームになったんですよね。』

『今まで、僕らのときは3回しか勝てないチームが何とか出ようとしたんですけど、今ようやく同じレベルになって初めて同じレベルになっていきなり出ようとは甘いよと。』

『ワールドカップはそんな簡単なものではないよ。今はじめて同じレベルになったんだろ。その中で運があったりなかったり、いろんなことがあってでてくる。なんか言われている気がしましたけど。』

『ここまで5回勝てる力まできているのは間違いないです。今回出れなかったんですけど、ここまでオフトはじめ彼らが5回勝てるところまでもってきて、最後の最後で運がなかったというか、でも我々はこれから次に向かってやっていかないといけないと思うんですよね。また3回の世界におとしてはいけないんですよね。僕らだけでなく、カタールまで応援、日本で応援している方と一緒になって次のフランスに向けてしなくてはいけない。』

『きっとね、W杯は今日の日本のプレーヤーが力がなかったというわけではなかったんですよ。イラクが上ではないんですよ。同じ力だったんだけど、W杯に出た国と1回も出なかった国の差なんですよ。きっと。』

『ようやく同じレベルになれたんだから。次はきっと。きっと出れるように・・・。』

1998年FIFAフランスW杯アジア最終予選『ジョホールバルの歓喜』
FIFAワールドカップ・フランス大会の出場国数は前回アメリカ大会の24から32へと拡大され、アジア地区の出場枠も2から「最大3.5」に増やされました。

アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、A・B各組1位の2ヵ国は本大会出場権を獲得となりました。A・B各組2位の2ヵ国は第3代表決定戦(AFCプレーオフ)を行ない、この勝者が3番目の本大会出場権を獲得。決定戦の敗者はアジア4位(0.5枠)としてオセアニア地区1位(0.5枠)と大陸間プレーオフを行ない、その勝者が本大会出場という方式でありました。

フランスW杯を目指した日本代表にとっては「アジア予選突破」が至上命題でした。なぜなら、すでに2002年大会は日本開催(日韓共催)が決まっていましたが、W杯出場経験のない国が開催国となった例は(第1回、第2回大会を除いて)ひとつもなかったからです。
ジョホールバルの歓喜その1
苦しみ抜いて本大会切符を手にした過去の最終予選でした。とりわけ、初出場を果たした1998年フランス大会の最終予選は、ホーム・日韓戦の逆転負け、加茂周(解説者)監督の解任と岡田武史(FC今治)監督の電撃昇格、自力2位の消滅、イランとの第3代表決定戦(ジョホールバルの歓喜)・・・と、数々の紆余曲折の末に出場権をつかむという奇跡的なものでした。

1997年9月7日に初戦・ウズベキスタン戦は三浦知良の4ゴールなどで6-3の勝利しました。守りの乱れこそ懸念されたものの、白星発進となり、加茂監督らスタッフも胸をなでおろしました。

1997年9月19日のアウェイ・UAE戦(アブダビ)は酷暑でのゲームです。それをスコアレスドローで乗り切ったのは日本にとって、ここまでは悪くない序盤でした。

歯車が狂い始めたのは、1997年9月28日の第3戦・韓国戦(東京・国立)です。汗ばむような陽気の中、後半22分に山口素弘(解説者)の芸術的ループシュートで先制点決まった場面は国立競技場は歓喜の渦でした。

しかしながら、韓国がFWの切り札・金大義を投入した直後、加茂監督は日本国籍を取得してこの試合で代表デビューしたFW呂比須ワグナー下げてDF秋田豊を投入。この守備的采配で日本の勢いが止まり、守りを混乱させる結果となり、そして徐正源と李敏成にゴールを奪われ、1ー2の逆転負けとなりました。

この敗戦を境に中田英寿と名波が報道陣に対して口を閉ざすようになるなど、チームにこれまでにない緊張感が漂いました。

1週間後の1997年10月4日のアウェイ・カザフスタン戦(アルマトイ)で秋田豊の先制点でリードしながらラスト1分のところで追いつかれ、1-1のドローに終わったことで、日本サッカー協会幹部は監督交代を決断し、岡田武史コーチを昇格させました。
ジョホールバルの歓喜その0
Jリーグはおろか、実業団でも指揮を執ったことのない指導者を抜擢するのは常軌を逸していました。それでも日本は新たな一歩を踏み出すしかないほど追い込まれていました。

岡田体制初陣となった1997年10月11日のアウェイ・ウズベキスタン戦(タシケント)は中田英寿や呂比須ワグナーらここまでの主力を外し、森島寛晃と城彰二を先発起用しましたがゴールが遠く、後半31分に失点してしまう苦境に陥りました。

しかし残り1分、後半から出場していた呂比須がロングボールをヘッド。これがDFのミスを誘って幸運な同点弾が生まれます。この1点がなければ、日本は敗退していた可能性もありました。

実際、この時点で日本は勝ち点6の3位。1位・韓国は同13、2位・UAEも7を稼いでいて、自力2位もなくなっており、日本の試合がなかった1997年10月18日にUAEがカザフスタンに勝っていれば、絶望的な状況になるはずでしたが、UAEはカザフスタンに0-3でまさかの敗戦で、1997年10月26日のUAEとの直接対決に勝てば2位再浮上というかすかな希望が見えてきました。

極めて重要となった東京・国立でのUAE戦は、開始3分には呂比須ワグナーが豪快なシュートで先制しましたが、前半のうちに同点に追いつかれます。

特にエースである三浦知良の不調は深刻だった。実は9月の韓国戦で崔英一に徹底マークを受け、尾てい骨骨折のアクシデントに見舞われていましたが、まだ情報が公になっておらず、彼は批判の矢面に立たされ続けていました。

結局、このUAE戦は1ー1のドロー。試合後、スタジアムから出てきた三浦知良が、正門前に陣取ったサポーターから「お前なんかやめちまえ、腹を切れ」と罵倒され、イスを投げつけられるという前代未聞の事件も起きました。

当時を知らない人にしてみれば、日本代表の戦いに人々がここまで一喜一憂したこと自体、信じられないかもしれません。当時の選手たちが凄まじい重圧を感じながら世界への扉をこじ開けようとした事実があります。

3位に沈んだままの日本とは対照的に、韓国はこの時点で1位通過が決定した1997年11月1日のアウェイ・韓国戦(ソウル・蚕室)は彼らにとっては消化試合でした。しかしながら、日本にとっては絶対に勝ち点3を手にしなければならない大一番でした。

試合はモチベーションの差が明白に出まして切迫感を前面に押し出す日本は開始3分、相馬直樹のクロスから名波が先制。後半37分には再び左の相馬の折り返しを呂比須がゴール。2-0とリードを広げました。

後半に入ると韓国ペースになり、金度勲に度重なる決定機を作られる。岡田監督は一歩も引かず、北澤豪に代えて平野孝を起用し「下がって守りたいのを我慢して前へ前へという意識を持たせるようにした」と加茂監督とは正反対の采配を見せました。これで日本は2ヶ月ぶりの勝利、またソウルで13年ぶりの白星を挙げ、やっと長く険しいトンネルを抜け出しました。

三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止となった11月8日のカザフスタン戦(東京・国立)では、代表復帰した中山雅史(沼津)と高木琢也(長崎監督)が爆発し、5-1で圧勝。最終的にUAEをかわして2位を奪回し、11月16日のイランとの第3代表決定戦に進みました。

ジョホールバルのラルキンスタジアムで1枚の切符を手にするためのイランとの第3代表決定戦。三浦知良と中山雅史が2トップが先発し前半40分に中田のスルーパスを受けた中山雅史が先制点を挙げました。

しかし、後半1分、茶番劇を見せたアジジに同点弾を決められ、ダエイにも逆転ゴールを奪わました。そこで岡田監督は2トップの2枚代えを決断。これまで代表戦で一度も途中交代したことのなかった三浦知良と中山雅史を下げ、城と呂比須を同時投入します。

その城が2点目を叩き出し、試合は延長へ。そしてご存知の通り、日本の飛び道具・岡野雅行がゴールデンゴールを挙げ、日本はアジアの壁をついにこじ開けたのです。
ジョホールバルの歓喜その2
ジョホールバルの歓喜その3

1998年フランスW杯本戦『第1戦:アルゼンチン戦』
1998年FIFAワールドカップ・フランス大会。本大会初出場を果たしたサッカー日本代表は初戦でアルゼンチン代表と激突し、世界を知ることとなりました。
フランスW杯本戦
記念すべきサッカー日本代表のワールドカップ(W杯)初戦の相手は1998年フランス大会のグループH組で南米の強豪であり、W杯過去2度の優勝を誇るアルゼンチンとの試合でした。破壊的な攻撃力をもつ強豪を相手にディフェンシブな姿勢で臨んだ日本のゴールを守るのは川口能活、3バックは主将の井原正巳を中心に秋田豊と中西永輔。中田英寿、名波浩らが中盤に入り、前線の2トップは城彰二、中山雅史という布陣でした。大会前に急遽調整した3バックのシステムで耐え凌ぎカウンターによる攻撃に活路を見出したのです。

日本は山口素弘がシュートを打つなど序盤から積極的に動きます。だが、前半28分に先制したのはアルゼンチンでした。日本にとっては不運な失点だった。オルテガが短いドリブルからシメオネに渡し、ゴール前に飛び込んでリターンパスを受けようとして、スルー。これが、マークしていた名波の足に当たり、ゴール前に詰めようとしていた身長1メートル85の大型FWバティストゥータへの絶好の“パス”になってしまいました。バティストゥータは冷静に浮き球でシュート、足元に飛び込んで来たGK川口能活の上を抜いて技ありのゴールを決めました。
フランスW杯本戦アルゼンチン戦
日本は後半、中山に代えて呂比須ワグナー、相馬直樹に代えて平野孝を投入、攻勢をかけました。しかし、終了間際の中西の折り返しをダイレクトで放った呂比須のシュートが、相手DFにブロックされるなど、アルゼンチンの厚い守りを破ることは出来ずに0-1の敗戦となりました。日本には重く、そして遠い1点でした。

初戦を落とした日本は、第2戦のクロアチア(0-1)、第3戦のジャマイカ(1-2)とグループリーグ3連敗で、初めてのW杯を終えました。
フランスW杯本戦中山雅史ゴール

世界との差がはっきりしたことになって、『Jリーグ』で活躍している選手たちが世界、特に欧州のリーグを目指す選手が増えるきっかけになった試合でした。

2002年FIFA日韓W杯本戦『第1戦:ベルギー戦』
W杯は4年に一度開催される世界で最も大きいスポーツの祭典であることは明白だが、2002年のW杯は、史上初めてアジアで日韓開催されるという点で世界から大きな注目を浴びていました。

日本は1998年のフランス大会で初出場を決めたばかりの新鋭でしたが、その大会では3戦3敗という結果で大会を去っており、当然2002年大会では、これを上回る成績が期待されていました。

大会規定により予選が免除されて本大会からの出場となった日本は、1998年9月にフランス人監督のフィリップ・トルシエ監督が就任して以降、W杯での初勝利とグループ予選突破を目標にチームを構築してきました。

日本はグループ分けでベルギー、チュニジア、そしてロシアと同組のグループHに振り分けられた。そして日本全体の視線は、開幕戦であるベルギー戦に集まることになります。

特にW杯開催国はグループステージ敗退なしという神話(その後、2010年の南アフリカ、2022年のカタールはグループステージ敗退)があり、開催国がグループステージで敗退するのは不名誉な記録であり、当時の弱小アジアの開催では、日本がグループステージ敗退の可能性があり、危ぶまれていました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその1
そんな中で2002年6月4日、超満員の埼玉スタジアム2002で、日本代表は2度目のワールドカップを迎えました。日本中がサッカー一色に染まった地元開催の大会であり、入場シーンだけでも鳥肌が立つほどの大歓声が起こるこのスタジアムで、日本は強豪ベルギー相手に、ファンの期待に応える試合を披露します。

序盤から臆することなく積極的な姿勢を見せる日本代表でした。屈強なフィジカルを誇るベルギーの選手相手に果敢にデュエルを挑み、前半をスコアレスで折り返します。

そして、数年経った今でも色褪せないゴールはいくつもありますが、これは日本サッカー史上、一生ファンの記憶と記録に残り続けるゴールの1つだろうと思われるシーンが何と2つも見ることができます。

0-0で迎えた後半、日本は次第にベルギーのプレッシャーに押し込まれていき、57分にベルギーのヴィルモッツにゴールを奪われ、1点のリードを許す展開になりました。それでも、諦めない日本を、埼玉スタジアムに駆けつけた5万人を超えるファンの応援が後押しします。

そして直後の59分、小野伸二のロングフィードに抜け出した鈴木隆行がつま先でボールをネットに押し込み、同点ゴールを奪ってみせました。会場のボルテージは一気に最高潮になします。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその2鈴木隆行
そしてそこから10分もしない、67分、中盤のハイプレスからボール奪取に成功した日本は、そのボールを稲本潤一がドリブル突破で運び、相手フィフェンダーを強引にかわして強烈な左足シュートを叩き込んだ。日本はこのゴールで逆転に成功し、W杯で初めてリードを奪いました。
2002年日韓W杯日本vsベルギーその3稲本潤一
超満員の埼玉スタジアムに歓喜の渦が巻き起こった。自国開催のW杯初戦という歴史的価値も含め、大きな意味のあるゴールとなったことは間違いない。4年前はわずか1得点しかできなかった、数年前まで極東のサッカー後進国に過ぎなかった日本が、ヨーロッパの強豪国を土俵際まで追い詰めたのです。

日本にとって、残念ながらこの試合は、その後追いつかれ試合は2-2の引き分けで終わりました。

ベルギーに先制された瞬間、フランスW杯が頭をよぎりました。いくらアジアカップを制覇しても、コンフェデ杯で準優勝しても、やっぱり世界の舞台ではまた負けるのかと思ってしまったのです。しかしそのすぐ後、鈴木隆行のゴールが全部吹き飛ばしてくれました。とにかく入れるという強い執念、粘りが生んだ、華麗では無いけどめちゃくちゃかっこいいゴールでした。

本当に鈴木隆行のゴールは今見ても目頭が熱くなりますね。このゴールだけで『フランス』とは違う、日本はW杯で戦えると思ったゴールだったんです。

そして、このゲームから日本も完全に世界で戦えるという自信を監督、選手、日本国民全体で持てたと思うのです。

2006年FIFAドイツW杯本戦『第1戦:オーストラリア戦』
ジーコ監督率いる日本代表は、2004年のアジアカップを制し、ワールドカップ・アジア予選も順当に勝ち上がるなど、アジアにおいては抜きん出た強さを示していました。円熟期を迎えた中田英寿選手をはじめ、中村俊輔選手、稲本潤一選手、高原直泰選手ら海外でも活躍するタレントを多数擁し、前回日韓大会のベスト16以上の成績を目指して、このドイツ大会に臨みました。

グループステージの相手は、オーストラリア代表、クロアチア代表、ブラジル代表の3チーム。まずは初戦のオーストラリア代表に勝利し、幸先良いスタートを切りたいところでした。

日韓ワールドカップでのベスト16進出を経て、4年間で日本は多くの選手が欧州で実績を積み、「集大成になる」と期待を寄せられていた。代表23人の欧州組選手の数は、前回の4人から6人に増加していました。
2006年ドイツW杯その1
日本は3-5-2のフォーメーションで、オーストラリア戦に臨みました。GK川口能活選手を最後尾に、3バックには坪井慶介、宮本恒靖、中澤佑二が入ります。中盤の底では中田英寿と福西崇史がコンビを組み、両サイドには駒野友一と三都主アレサンドロを配置。そしてトップ下には初のワールドカップに臨む中村俊輔が入り、高原直泰と柳沢敦が2トップを形成しました。

日本は強靭なフィジカルを誇るオーストラリアのシンプルな攻撃に苦しめられましたが、コンパクトな守備陣形を保ち、まずは守りからリズムを掴んでいきました。

そして26分、右サイドから中村俊輔がクロスを入れると、これがそのままネットに吸い込まれて、日本が先制に成功します。幸運な形でゴールを奪った日本が、1点をリードして試合を折り返しました。

後半に入るとロングボールが増えてきた相手の攻撃にもしっかりと対応し、リズムを渡しません。しかし、オーストラリアを率いるフース・ヒディンク監督は、積極的な選手交代で日本に揺さぶりをかけてきます。53分にティム・ケーヒル選手、61分にジョシュア・ケネディ選手、さらに75分にはジョン・アロイージ選手と次々に攻撃の選手を送り込み、半ば強引に日本のゴールに襲い掛かってきました。

それでも何とか耐え凌いでいた日本でしたが、84分、ロングスローから最後はケーヒル選手に押し込まれると、89分に再びケーヒル選手に強烈なミドルを突きさされ逆転されてしまいます。さらにアディショナルタイムにも失点した日本は、わずか8分あまりの間に3点を奪われ、屈辱的な逆転負け。ノックアウトステージ進出に向け、いきなり苦しい状況に追い込まれました。
2006年ドイツW杯その2
どちらにもあった幸運。日本には「プラン」が欠けていた。勝負を嗅ぎわける感覚、戦術眼、精神力、体力、采配・・・。日本にとって、とてつもなく長く感じられた最後の8分間のなかに、微妙なズレから生じた敗因がそこかしこに散りばめられていました。

日本はこの敗戦を引きずって、第2戦でクロアチアにはスコアレスドロー、第3戦でブラジルには1-4で粉砕され、早々と敗れ去りました。大会後に中田が引退を発表し、ひとつの時代が終わりました。

浮かれていた日本サッカーは、頬を平手でひっぱたかれて、戦いの原点に立ち戻る必要がありました。果たして屈辱的な敗北から生まれ変われるか。そんな大会でした。
2006年ドイツW杯その3中田英寿

2018年ロシアW杯本戦『ラウンド16:ベルギー戦(ロストフの14秒)』
2018年に行なわれたロシアW杯、準々決勝進出をかけた一戦で、日本代表は世界ランキング3位(当時)の強豪・ベルギー代表を相手でした。後半立て続けに2ゴールを決めた日本は73分までリードを続け、初のベスト8進出という歴史的な瞬間への期待値はかつてなく高まります。

しかし、その思いは一気に失意へと変わり終戦となりました。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その1
初のベスト8進出を懸けて日本とベルギーが激突した一戦は、一進一退の攻防で0-0のまま前半を折り返すと、後半一気にゲームが動きます。後半3分、自陣でボールを奪ったMF乾貴士がMF柴崎岳につなぎ、右サイドを駆け上がったMF原口元気にスルーパス。原口は追いすがる相手DFを背負いながらも、シュートフェイクを入れて右足を振り抜き、ファーサイドに自身W杯初得点となる先制ゴールを突き刺しました。

さらに日本は後半7分、ゴール正面でセカンドボールを拾ったMF香川真司がタメを作ると乾にパス。フリーの乾は狙いすました右足ミドルをゴール右隅に突き刺し、リードを2点に広げました。

しかし、ベルギーも後半24分にDFヤン・フェルトンゲンの一撃で1点を返すと、途中出場のMFマルアン・フェライニのヘディング弾で同点に追いつきます。そして、後半アディショナルタイムにドラマが生まれました。

MF本田圭佑の左CKを難なくキャッチしたベルギーGKティボー・クルトワのスローイングから高速カウンターが発動。MFケビン・デ・ブライネがドリブルで持ち込み、右サイドを駆け上がったDFトーマス・ムニエが中央にグラウンダーのクロス。ゴール正面に飛び込んだFWロメル・ルカクがフィニッシュするかと思われたが意表をつくスルー、最後は飛び込んできたMFナセル・シャドリが値千金の逆転弾を決めました。直後にタイムアップの笛が鳴り、ベルギーが3-2と鮮やかな逆転勝利を収めたのです。
2018年ロシアW杯ロストフの悲劇その2
クルトワがボールをキャッチしてから日本のネットを揺らすまで、わずか14秒。ベルギーの完璧な高速カウンターは世界中で話題となりました。

『もしかしたら、ベスト8に行かるかももしれない。』と試合をしていた選手たち、応援していたサッカーファンは、失意のどん底を味わうことになりました。

2022年カタールW杯『第3戦:スペイン戦』
ドイツとスペイン、優勝経験国2つが同居するグループEに入った日本。下馬評では突破は難しいとされていたが、2度のジャイアントキリングで世界を驚かせました。

初戦ではドイツと対戦しました。前半は防戦一方の展開となり、33分には先制を許しました。だが苦しい中でも前半を1失点で我慢すると、日本は後半に勝負をかけました。三笘薫、堂安律、浅野拓磨、南野拓実と攻撃的なカードを切ると、この交代が実ったのです。75分に堂安律が同点ゴールを奪うと、83分には浅野琢磨が逆転弾。見事初戦でドイツを撃破し、大番狂わせを起こしてみせました。

しかしながら連勝を期したコスタリカ戦に落とし穴が待っていました。このグループで最も力が劣るチーム相手に、低調なパフォーマンスに終始、終盤に決勝ゴールを許し、勝点を落とす結果となりました。
2022年カタールW杯スペイン戦その1
ここで、サッカーファンは日本の実力に疑心暗鬼になります。『強いのか?』『弱いのか?』よくわかりません。そして、第3戦の最終戦は優勝候補のスペインでしたので、グループステージ敗退もありえたのです。

最終戦である第3戦は優勝候補のスペインと激突しました。前半スペインに先制されるが1失点で抑えると、森保一監督は後半立ち上がりにかけていた。堂安律と三笘薫を投入し攻撃的に出ると、この2人が得点に絡み6分間で逆転しました。その後はスペインの猛攻を凌ぎきったまたも逆転での勝利(1-2)となりました。日本はグループステージでドイツとスペイン相手に白星を挙げ、見事に首位通過を果たしたのです。
2022年カタールW杯スペイン戦その2
2022年カタールW杯スペイン戦その3
初のベスト8へ4度目のラウンド16に臨む日本の相手は、前回準優勝のクロアチアでした。日本が前半43分にセットプレーから均衡を破りました。しかし後半に入るとクロアチアも反撃に出ます。すると55分、アーリークロスからイヴァン・ペリシッチが強烈なヘディングシュートでネットを揺らし同点となりました。

試合は息詰まる重い展開が続き、延長戦に突入しましたが120分でも決着はつきませんでした。ベスト8の行方はPK戦に委ねられます。先攻を取った日本だったが、1人目の南野拓実と続く三笘薫が失敗。さらに4人目の吉田麻也も決められず惜敗を喫した日本は、またしても準々決勝のピッチにたどり着くことはできませんでした。

W杯ベスト8は、指先には触れていた。だが近いようで遠い「まだ見ぬ新しい景色」は、今回も我々の前に広がることはありませんでした。それでも、世界と互角に戦った今大会の日本代表は、その重い扉を開く「未来」のための「新時代」を間違いなく見せてくれたのです。

「4年後こそ」。この言葉が、今回で最後になると信じましょう。



※最後に
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トータルテンボス藤田 野球人口の減少に「入り口はママさんが握っている」ネットより情報が速い(2023年9月5日)

 高校野球大好き芸人のトータルテンボス・藤田憲右(47)が浦和学院の森士元監督のYouTube「森士チャンネル」に出演。深刻な野球人口の減少について意見を交わした。

藤田の子供が小学3年生で学童野球を始めたとき、夫人がママ友から「何で野球なの?」と驚かれたという。

お金がかかる、場所もない、送りもしないといけない、当番ルールもある、面倒くさい。

それがママ友の学童野球に対するイメージ。藤田は「入り口はママさんたちが握っている。親がやらせたい(スポーツに子供が流れる)」と母親の野球に対するネガティブイメージが野球人口に影響していると指摘した。

藤田は「ママコミュニティーはネットより(情報が)速い」と笑った。

森氏も4000校を越えていた高野連加盟校が3400校台に落ちていることを懸念し、「なでしこ(JAPAN)見てサッカーやった母親のお子さんはサッカーをやる。高校野球は(甲子園で)ボール渡している女子にも(グラウンドに)入るんじゃないとか。最近ようやく開かれてきたが遅れている」と指摘した。

それでも森氏、藤田ともに近年の学童野球には女子が増えており、WBC優勝効果と合わせて野球人口にも復活の兆しが見えると声をそろえた。

2022年の出生数が80万人割れをした日本の出生数です。子供はどんどん減っております。平均年収が『400万円』から30年上がらない日本、経済の低迷や景気の横ばいが続いている『失われた30年※1』とありますが、この出生数も1990年の『1.57ショック』から30年は有効な対策を打ち出せないまま、何でも後ろ倒しの政治により、現在の状況を迎えているのです。

1990年の1.57ショックとは、前年(1989(平成元)年)の合計特殊出生率が1.57と、「丙午(ひのえうま)」という特殊要因により過去最低であった1966(昭和41)年の合計特殊出生率1.58を下回ったことが判明したときの衝撃を指しています。

※1失われた30年とは、バブル崩壊後の90年代初頭から現在までの期間を指す。 この30年間は高度経済成長期や安定成長期のような成長が見られず、経済の低迷や景気の横ばいが続いている。 

※2干支(えと)の一つ。 万物は5種類の元素からなるという五行説の思想に基づき、「丙」も「午」も火の性質があることから、丙午生まれの女性は気性が激しく夫を早死にさせる、との迷信が生まれたとされ出生数は激減する。60年に一度巡ってくる(前回は1966年で次回は2026年)。

幼稚園や学校も減っていますが、他にも子供の産業は右肩下がりになりますし、子供だけじゃなく、全ての産業が「人口が右肩上がり」のモデルの収益構造となっているので転換を迫られます。いわゆる「パイの奪い合い」の状態が激しくなるのです。

スポーツも例外でなく「パイの奪い合い」が激しくなります。日本においては「野球」と「サッカー」がメジャーであり、人気のあるスポーツですが、この2大スポーツも子供の減少に悩まされることになります。

「野球」と「サッカー」を比べますと、「野球」は野球場が必要になります。昭和の頃は近所に空き地があって、そこで野球をやれましたし、公園でも「野球」ができました。それが令和の今はどうでしょう。近所に空き地が少なくなりましたし、もしあっても私有地で侵入禁止となっていますし、公園は球技禁止となっています。学校も休日は「野球」と「サッカー」の校庭使用予約の取り合いです。

それでも「サッカー」は河原でもできますし、ちょっとした空き地があれば、玉一つあれば遊びでもできます。「野球」はどうでしょうか。「サッカー」に比べて、大きい空き地が必要でして、ホームベース、ファースト、セカンド、サードの4つのベースのある内野と、外野という空間が必要ですし、軟式、硬式なんてボールは使用できません。ぜいぜいゴムボールとカラーバットぐらいかと思います。

まず「野球」をやる人間が少なくなってきていると思います。今や「サッカー」「テニス」「陸上」、そして最近W杯で日本が活躍した「バスケットボール」など、色々なスポーツがありますので、それだけで野球人口が少なくなっていると思います。

次に「野球」はバット、ボール、グローブ、ユニフォームなど道具を揃えるのに多額の出費が必要なんですよね。それも使い回しの出来る様な物では中々無くて、かなりの物が個人で揃えなければいけない様な物です。

そして、母親の「野球」人気のなさですね。一番注目を浴びるプロ野球は未だに「昭和感」から脱却できない応援歌だったり、選手の私服や髪形などのセンスの悪さですね。

そして「野球」は、監督コーチの負荷が大き過ぎるので、保護者がお茶当番、テント設営、応援という名で拘束されますし、試合の日は配車登板もあります。

我が家も子供をスポーツの「少年野球」の評判をきいて『昭和から運営が変わってねー。忙しいので、拘束されるのは、とても無理!』と除外しました。

日本の少年野球界は、ボランティア活動で成り立たそうとしているところが一番の問題だと思います。

監督もコーチもボランティアでやっていただているので、月謝を払うシステムが必要なのではと思います。それでも負担は多いので、運絵スタッフにも月謝が必要なんだと思います。

しかしながら、高額になりますと、今の日本は30年給料が上がらずに非正規雇用が増えるばかりでステルス増税が追い打ちをかけて収入が少ない中で、子供を通わせることができまくなりますので非常に難しい問題となります。

私は「大谷翔平」選手のようなスーパースターは二度と現れないと思います。大谷選手が「野球界」のシステムで育てて出てきたも選手ではなく、いくつかの奇跡が重なって出てきた稀有な存在なんだと思っています。



※最後に
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※2023.5.24改題(旧題:【いばらの道か、修羅の道か?】西武・山川穂高選手を書類送検 当時20代の知人女性に強制性交等の疑い 警視庁)
※2023.11.15更新(2023年8月29日の不起訴処分の追加)

【速報】西武・山川穂高選手を書類送検 当時20代の知人女性に強制性交等の疑い 警視庁(2023年5月23日)

 プロ野球・埼玉西武ライオンズの山川穂高選手(31)が東京都内のホテルで女性にわいせつな行為をした疑いで、23日朝、警視庁が書類送検したことがわかった。

捜査関係者によると山川穂高選手は2022年11月、東京・港区のホテルで、知人女性(当時20代)に対してわいせつな行為をした強制性交等の疑いがもたれている。

知人女性が被害届を提出したことを受け、警視庁は、女性と山川選手の両者から任意で事情を聴くなど慎重に捜査していたが、きょう23日、書類送検に踏み切った。

山川選手は昨シーズン、パ・リーグのホームランと打点の2冠を達成。今年3月のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックでは、侍ジャパンのメンバーとしてチームの優勝に貢献した。

現在、西武の出場選手登録は抹消されている。
山川穂高
※書類送検とは
  書類送検とは、刑事手続において,司法警察員が被疑者を逮捕せず,また逮捕後,釈放した後に身柄を非拘束のまま,事件を検察官に送致することをいいます。したがって,書類送検された場合,基本的には身柄非拘束のまま検察官からの捜査を受けていくことになります。

書類送検とは、被疑者(犯罪の疑いのある人)で、身体拘束されていない者の事件記録や捜査資料を検察官に送る手続のことをいいます。書類送検された場合は、身柄非拘束のまま検察官からの捜査を受けていくことになります。

一方逮捕は,罪証隠滅のおそれや逃亡のおそれ等を理由に身柄を拘束される手続です。

書類送検されると検察官が被疑者を起訴するか不起訴にするかを決めます。起訴されてしまうと有罪率の極めて高い刑事裁判にかけられますので、前科を避けることは極めて難しいと言わざるを得ません。

西部ライオンズの山川穂高選手が書類送検されました。この時点では、まだ起訴されたわけでも有罪か無罪かを判断されたわけではありませんので、事態を見守るしかないと思います。

書類送検は、警察での捜査が終了したので、捜査書類を検察庁に送るだけの手続きであり、刑事裁判として起訴されたわけでも、有罪と判断されたわけでもありません。それはこれから検察官が起訴するかどうかを決めることです。弁護士としては、認めであれば、示談して不起訴にできないか行動する時期なのです。

西武ライオンズという球団から、度々聞こえてくる「書類送検」という言葉。西部ライオンズは教育機関ではありませんが、何か一般社会の人間と常識がかけ離れている感じがします。

過去、西部ライオンズで「書類送検」されて、起訴、不起訴となった選手たちをご紹介します。

東尾修(1987年・不起訴)
現在は娘の東尾理子や娘婿の石田純一、孫の理汰郎くんとイベントに出演することもあるなど、良いおじいちゃんというイメージが定着している東尾修さん。その東尾さんが賭け麻雀で問題となったのは、現役時代の1987年オフのことでした。

西武ライオンズに所属していた37歳の東尾は、同年に「15勝9敗・防御率2.59・85奪三振」といった成績を残しチームの3年連続パ・リーグ優勝、2年連続日本一に貢献。リーグMVPも受賞するなど、個人、チームともに最高のシーズンを過ごしていました。
東尾修
しかし同年オフ、東尾が無免許営業の雀荘で賭け麻雀をしていたことが発覚。東尾は東京・麻布十番にあったヤミ雀荘に通っていたようです。レートは1000点1000円の〝デカピン〟で、約3時間で10万円ほど負けたことがあったそうです。

東尾は書類送検され不起訴にはなったものの、球団からは「半年間の出場停止+2500万円の減俸」という重い処分を受けたのです。

なお、東尾はこの件について会見を開き「全て私の不徳の致すところ」と謝罪しているが、その中では暴力団関係者が同卓していたことも明かしています。
賭けマージャン
処分を受けた東尾は心を入れ替えたのか、オフシーズンは例年欠かさずに行っていたゴルフを絶ち、自主トレ先の沖縄で走り込みを重ねるなど徹底的にトレーニング。しかし、慣れない調整で調子が狂ったのか、翌1988年シーズンは「6勝9敗・防御率4.85・30奪三振」と成績が大幅に下落。同シーズン限りで現役を引退したため、賭け麻雀が引退の引き金を引いた形になりました。

引退後、東尾は野球解説者として活動した後西武(1995-2001)の監督を務め、在任中に2度のリーグ優勝を達成。2010年には野球殿堂入りを果たしたが、当時は賭け麻雀問題がなければもっと早く殿堂入りできていたのではとの見方もありました。

前身球団も含めライオンズ(1969-1988)一筋で20年間の現役生活を送り、「251勝247敗・防御率3.50・1684奪三振」といった通算成績を残しました。しかし、賭け麻雀をしていなければ、もう少し長く現役生活を送れていたのかもしれなかったのです。

❖東尾修の小話「球界初の1億円プレーヤー」

 「1億円プレイヤー」といえば、1980年代の野球選手にとって最高のステータスでした。打者で初は落合博満(中日)、投手は東尾修(西武)です。

1986年、2年連続三冠王を達成した落合博満(ロッテ)はオフに中日へのトレードが決まりました。このときの年俸1億3000万円(推定)が「日本球界最初の年俸1億円超え」と言われています。

東尾の場合、1億円に到達した1986年の契約更改で、球団から最初に提示された額は9800万円でした。それに対して、「200万円は自分で払うから1億円と発表したい。俺にもプライドがある」と交渉。その意気や良しとして、当時の球団代表・坂井保之が1億円で再提示、合意した経緯があります。

相内誠(2020年・証拠不十分で処罰なし)
2012年ドラフト2位の相内誠は相内誠はプロ8年で、通算0勝7敗。ケガもあって大成できない選手でした。そしてトラブル続きの野球人生でした。

有名なのが、2012年ドラフト2位で指名されたときです。ドラフト2位指名後は児童養護施設出身であることが話題になりましたが、大騒ぎになったのがドラフト指名直後の12月に起こした事件です。高速道路でスピード違反で捕まり、無免許運転だったことが発覚。前代未聞の『入団凍結』という処分になりました。

相内は8年間に5度の不祥事を起こしてしまうのです。

そして、2020年は1軍登板はなく、イースタンでは13試合登板、0勝0敗、防御率2.13でした。
相内誠
2020年4月12日、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、球団が全チーム関係者に自宅待機および不要不急の外出禁止と定めていた期間中にも関わらず、チームメイトの佐藤龍世が運転する車に乗り、千葉県内のゴルフ場でゴルフをするために外出しました。

そ法定速度60キロの首都高速道路中央環状線山手トンネル内を、89キロオーバーの149キロで走行し、速度違反取り締まり装置により検知されました。2人はその後、ゴルフ場でプレー。5月に佐藤のもとへ違反通知が届き、警視庁による事情徴収を受けました。

球団への報告は2020年8月17日になってからでした。8月18日に佐藤、8月19日に相内からヒアリングをし詳細を確認し、8月20日に佐藤とともに球団から無期限の対外試合出場禁止およびユニホーム着用禁止の処分を受けました。

9月28日に開かれた佐藤に対する東京地方裁判所の初公判で、佐藤が「同乗していた先輩の相内さんの指示に従った」と語っていたことが10月1日に報じられ、それに反応してか、2日未明に自身のInstagramのストーリー機能に、真っ暗な背景で「あきれる。」とだけ書いた投稿を行いました。意味はわかりません。そして11月3日に戦力外通告を受けました。
2015年に2軍イースタンの最多勝に輝きましたが、その翌年に右ヒジを痛め、ブレイクのチャンスを失ったのが大きかったです。その後も、2軍ではそこそこのピッチングをするものの、1軍に上がると制球が定まらず、四球でランナーをためて、勝負所で打たれることの繰り返し。本業で結果をだしていないうえに、トラブル続きとあって、いくらドラフト2位入団でも、高卒8年目で0勝は我慢の限界となり、戦力外通告を受けたと思われます。

❖佐藤龍世内野手の小話

2020年10月8日に佐藤龍世内野手(23)はスピード違反の裁判で懲役3か月、執行猶予2年の判決の有罪判決を受けました。
しかしながら、謹慎のあけた後は埼玉西武ライオンズ (2019 - 2021)、北海道日本ハムファイターズ (2021 - 2022)でプレーした後に、埼玉西武ライオンズ (2023 - )に復帰しています。

松坂大輔(2000年・身代わり出頭)
1998年ドラフト1位指名の松坂大輔です。

西武時代は「平成の怪物」と呼ばれました。21世紀初の沢村栄治賞受賞者でもあります。ゴールデングラブ賞をパ・リーグ投手最多記録となる7回受賞し、3年連続ベストナインにも輝きました。そして2006年と2009年のWBCではエースとして日本代表に貢献しました。
東尾修と松坂大輔
松坂は、2000年8月に愛車『セルシオ』で、制限60km/hの首都高速を134km/hで走行し、期間2カ月の免停処分を科せられていました。

その免停中にもかかわらず2000年9月13日にハンドルを握って当時交際中だった元日本テレビアナウンサーの柴田倫世さんのマンションに密会しに行ってしまいます。当日は松坂の20歳の誕生日で翌日にシドニー五輪への出発を控えていました。五輪へむけての記者会見前のわずかな時間を縫って、恋人と誕生日を過ごしていたものと思われます。

しかし当時は免許停止中。さらにあろうことか、松坂が車を停めた場所は文京区の駐車禁止区域の路上。1時間半の逢瀬を終え、松坂さんがマンションから出て来た時にはすでに車はレッカー移動されていました。
松坂と柴田倫世
すでに無免許運転、駐車違反と罪を重ねていたわけですが、さらに驚くことに事態を重く見た球団幹部の黒岩彰課長が身代わり出頭します。

黒岩彰課長はカルガリー冬季五輪スピードスケート500メートルの銅メダリストで有名な方です。

当初警察は黒岩の駐車違反としていましたが、松坂と柴田の交際をスクープしたフライデーが報道したため、改めて二人に事情聴取をし道路交通法違反の疑いで松坂選手を、犯人隠避の疑いで黒岩彰課長を書類送検しました。

松坂は
「違反は申し訳ない。黒岩さんの出頭は後で知った」
黒岩彰課長は
「車が球団所有で自分が管理しているため出頭した」
と語り、その結果略式起訴により松坂選手は罰金19万5000円、黒岩課長は罰金10万円の略式命令が下されました。

当時の球団社長の小野賢二および黒岩は責任を取って辞表を提出する事態になり、松坂は当時埼玉県警察から交通安全キャンペーンのイメージキャラクターに起用されていたこともあり、この件は世間から激しく批判されました。球団側は松坂を無期限の自宅謹慎処分としたものの、謹慎処分は1か月足らずで解除されました。

山川は不起訴処分【2023.11.15】追記

【西武】不起訴処分の山川穂高 離婚、別居もせず…夫人の〝バックアップ〟姿勢に驚きの声(2023/8/30)

 東京都港区のホテルで知人女性に性的暴行をしたとして、強制性交の疑いで書類送検されていた西武・山川穂高選手(31)が、29日に嫌疑不十分で不起訴処分となった。東京地検は理由を明らかにしていないが、今後は民事訴訟の可能性もあるため、まだまだ「一件落着」というわけではなさそうだ。その一方、これだけ大ごとになった不倫騒動で気になるのが山川の夫婦関係。周囲では山川夫人の〝スタンス〟に驚きの声も上がっている。

昨年11月に山川から性的暴行を受けたとして、女性が被害届を提出し警視庁麻布署が捜査。5月23日に書類送検していた。同署は起訴を求める「厳重処分」ではなく、判断を検察に委ねる「相当処分」の意見を付けていた。

示談は成立していないようで、当初から処罰感情が強いとされる女性側が検察審査会への申し立てをする可能性はある。そこで起訴相当となれば裁判員裁判となり、この問題はさらに長期化するかもしれない。民事訴訟の可能性もあり、現時点ではまだ予断を許さない状況は続いている。

球団は事実関係を確認中で、親会社の西武ホールディングスと連携を取りながら、慎重に山川への処分を決定していくことになりそうだ。

いずれにしても、プロ10年目の今季は出場17試合で打率2割5分4厘、0本塁打、5打点のまま終了する可能性が濃厚。書類送検以降の3か月間、三軍で練習はしているものの、二軍戦、三軍戦とも出場はなく、実戦カンが圧倒的に不足しており、いきなり一軍クラスの投手の球を打つことは難しい。

また、不起訴とはなったが、起こした騒動が周囲の賛同を得にくい不倫問題がらみであることからファン感情も考慮し、球団は慎重な判断をせざるを得ない。

11月に32歳となる山川にとっては、長くない選手生命の貴重な1シーズンを棒に振ってまで「合意の有無」に関して徹底抗戦の構えを崩さなかったことになるが、その裏では、これだけの不倫騒動が公になりながら山川を全面支援しているといわれる夫人の存在も大きかったようだ。

通常この手の不倫が公になった場合、夫婦関係が崩壊しても何ら不思議ではない。しかし、問題が表面化してから書類送検による登録抹消、約3か月間の三軍幽閉中も山川が夫人、子供と別居、離婚の方向性となっているという話は周囲から聞こえてこない。

そればかりか「奥さんは完全に山川の味方。不倫を許しているわけではないようですが、相手の女性に対しては全面的に山川の言い分を信じて支持しているようです。普通は考えられないですが、そういう身内のバックアップがないと本人も普通にしていられないでしょう」(近い関係者)というから驚きだ。

山川夫人は富士大の1年先輩でソフトボール部出身。「決して表に出てくることはなく、自身も野球に詳しいはずなのに、一方的に話をする山川の話をうんうんと聞いて、受け止められる姉さん女房」というのが周囲の夫人評だ。

山川がプロ入りし4年目の2017年に結婚するまでの道のりも、決して平坦ではなかったという。もちろん、これがすべてを言い表しているわけではないが、夫婦の形は千差万別のようだ。

西部ライオンズの山川穂高選手は8月29日に嫌疑不十分で不起訴処分になりました。そして、11月14日に、今季取得した国内フリーエージェント(FA)権を行使することを球団を通じて発表されました。まだ、民事訴訟の可能性はありますが、来シーズンはどこの球団でプレーするのか?見守っていきたいと思います。



※最後に
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西武・山川穂高はどうなる? プロ野球界「強制わいせつ」過去2例は逮捕即解雇(2023年5月14日)

 再びプロのグラウンドでプレーする姿は見られるのか──。ホームラン王を3度も獲得し、3月のWBCでは侍ジャパンの一員として世界一に貢献した西武の主砲・山川穂高(31)に強制わいせつ致傷疑惑が持ち上がっている。5月11日配信の文春オンラインの記事によれば、昨年11月に20代の女性と都内で食事をした後、ホテルで女性を無理やり押し倒し、下半身から出血する怪我を負わせたという。警察は強制わいせつ事件として被害届を受理し、山川はWBC終了直後に事情聴取を受けた。文春の取材に対し、山川はホテルに行って女性に怪我を負わせたことは認めたものの、無理やり行為に及ぼうとしたことは否定している。

(中略)

山川の行為が事実だと認定されれば、この件よりも重く、解雇になる可能性は十分あるでしょう。もちろん被害者の心情を考えると、事件の程度に大小はありません」(野球担当ベテラン記者)

解雇の根拠は、統一契約書の第17条にあるという。

〈第17条 (模範行為) 選手は野球選手として勤勉誠実に稼働し、最善の健康を保持し、また日本プロフェッショナル野球協約、これに附随する諸規程ならびに球団の諸規則を遵守し、かつ個人行動とフェアプレイとスポーツマンシップとにおいて日本国民の模範たるべく努力することを誓約する。

(中略)

別に山川は運が悪かったわけではない。自らの行為を猛省しなければならない。

捜査の行方がどうなるかまだわからないが、山川の野球人生が今後も続くのかどうか、大きな岐路に立っていることは間違いないだろう。
山川穂高選手

野球どころじゃなかったのだと思います。

2023年の今シーズンは開幕から不調が続き、17試合出場で打率.254、ホームラン0本でした。

西武ライオンズの山川穂高選手が「強制わいせつ」の容疑がかけられております。警察による捜査中ですので、容疑がどうなるかは静観するしかないと思いますが、プロ野球選手としてプレー続行は容疑が晴れたとしても、少なからず影響を受けると思います。

2022年は2冠王で、今年2023年にFAを取得する予定でしたので、そうなると争奪戦は必至でして国内でもソフトバンクや巨人が参戦して30億、40億ともいわれるお金が動くと言われていましたから、お金だけではありませんが、これを棒に振ってしまったことで、何とも残念な容疑であります。

山川穂高選手の野球人生が大きな岐路にたっておりますが、地位も名誉も経済力も全て棒に振ることになりますので、繰り返しますが何とももったいない事件であります。

過去にも「強制わいせつ」事件を起こしてしまった野球選手は2人おり、その2人とも即解雇されております。世間的にも非常に冷たい目をみられることから、再就職もままなりません。

横浜大洋ホエールズ 中山裕章選手
1986年にドラフト1位で大洋に入団した中山裕章選手です。

最初のころはプロの厳しさからかなかなか勝ち星に恵まれなかったもののプロ入り3年目に10勝6敗24セーブと大きく飛躍します。

そして事件を起こした1991年までの6年間で算32勝53敗44セーブの成績を残す大活躍を見せるのです。そして1990年と1991年には球団からの期待もあり開幕投手に抜擢されていた当時のエースでした。
中山裕章選手
1991年シーズン後の11月12日午後、神奈川県横須賀市内の球団練習所から車で帰宅途中、 横浜市金沢区の11歳の小学5年生の少女のスカートの上から体を触り、その直後にも帰宅途中の6歳の幼稚園女児に、下着を脱がせるなどのわいせつな行為をしました。

神奈川県警が11月12日の事件を同一犯人の仕業と見て張り込み捜査を続けていたところ、2日後になって高級外国車に乗った中山が女子に声をかけるなどの不審な挙動を獲ったため追跡捜査し、ナンバーなどから中山選手とわかりました。

12月25日朝から警察の任意同行を求められ追及を受け、11月12日の事件を2件とも自供したため神奈川県警捜査一課と金沢署は12月25日夕、強制わいせつなどの疑いで中山を逮捕しました。住宅地は練習場から車での帰宅路に当たり、「小さい女の子なら自分の顔を知らないと思った」と供述したそうです。

球団側はセ・リーグ連盟へ「中山を無期限謹慎処分に処した上で、著しい反省の色・社会情勢の変化などを見て処分を有期限に緩和する」案を打診しました。

これは当時の須藤監督自身が中山の更生を望んでいたことに加え、大洋球団にとっても中山は「故障が治れば2桁勝利(10勝)できる投手」だったため、試合に出場できない身分の中山に対し月額約53万円の保留手当を支払うことになってでも、将来的に復帰させることを目論んでいたためでした。しかし連盟は「球団の処分は甘すぎる。社会的な償いを受けることは避けられない」として処分差し戻しを求め、須藤監督も最終的には連盟の対応に従い、中山の契約解除に至りました。

婚約者の女性(事件当時22歳)は事件後、「健気に中山を支えた」として一部マスメディアから「美談」として報道さました。しかし1992年2月6日付で、婚約者は中山に「婚約不履行となった場合は慰謝料5,000万円を支払う」という内容の書面を書かせたほか、中山が後述のように運送会社で働き始めて以降は次第にすれ違うようになり、別居するようになりました。

当時婚約していた婚約者とは泥沼の裁判劇に発展しました。中山選手の自業自得とはいえ、婚約者側の「手のひら返し」の方が有名だったのではと思います。

1992年5月ごろ、中山選手が電話で婚約者と会話していた際に「こちらに来てくれないなら別れよう」と言ったところ、婚約者の母親が電話に出て「別れるなら慰謝料を払え」と迫り、6月には婚約者側が横浜市内の中山選手宅を売買できないよう、仮処分申請を出しました。その後も中山選手側・婚約者側双方の対立は続き、同年11月には婚約者側が東京地方裁判所へ「婚約不履行」を主張して中山選手を提訴しました。

この民事訴訟合戦は1993年末になって中山選手側が2,500万円の慰謝料を支払う形で和解しました。中山選手の知人は『週刊新潮』記者からの取材に対し「本来なら離婚訴訟でさえ慰謝料の相場は500万円程度だが、中山は『裁判が長引くのは困るし、彼女に持ち逃げされた500万円・ベンツなど計約5,000万円の被害はなかったことにする』として和解金額2,500万円を提示した」と証言した一方、元婚約者は1994年8月に同誌記者からの取材に対し「自分の尻ぬぐいさえ満足にできないような中山が再びマウンドに立ったことだけは許せないし、自分も信じられない思いだ。事件の被害者・家族は見ていられないだろう」とコメントしたそうです。

しかし野球の神様はまだ中山選手を見捨ててはいませんでした。

横浜市内の財界人グループ・中山の母校である高知商高のOBらが「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成し、1993年1月7日から中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始しました。
1993年3月には当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が解雇直後に声明でNPB全12球団に中山選手との無期限契約回避を申し出ていた川島セ・リーグ会長に手渡されて、復帰に向けて球界が動き始めます。

1993年12月16日午前、川島は渋沢良一セ・リーグ事務局長・児童心理学専攻の大学教授とともに横浜市内のホテルで中山と面接し、現在の心境・生活状態などを聴いた上で、中山選手の球界復帰を承認することを決定しました。

声明解除が正式に通達されたことを受け、以前から中山に関心を示していた中日ドラゴンズ(監督:高木守道)は中山との契約に向けて動き出し、1993年12月27日には中山を打撃投手(球団職員身分・1年契約)として採用したことを発表しました。

中継ぎとして1991年10月10日以来の一軍登板を果たし、1イニング1被安打0失点に抑えました。中山選手本人は前日から野次を飛ばされることを覚悟していましたが、中山選手が登板した際には多少の野次こそあったものの、拍手や声援が多かったそうです。

1996年にはセ・リーグ代表監督・野村克也(当時・ヤクルト監督)の推薦によりサンヨーオールスターゲーム全セ(オールセントラル・リーグ)に選出され、大洋時代の1989年以来7年ぶりの代表選出を果たしました。

そのオールスターゲームでは第3戦(7月23日・富山市民球場アルペンスタジアム)で先発投手・斎藤隆(横浜)の後を継ぎ、3回表に二番手投手として登板。イチロー(オリックス・ブルーウェーブ)・村松有人・秋山幸二(ともに福岡ダイエーホークス)・清原の計4人と対戦し、同回の先頭打者(1番打者)イチローに右中間三塁打を打たれると、続く2番打者・村松の中犠飛で球宴初失点(1点)を喫しましたが、2死で迎えた清原を145 km/hの速球で空振り三振に打ち取り、1回1被安打2奪三振1失点の成績を残しました。

そして2001年までに中日でプレーしたものの、戦力外通告を受けて12球団合同トライアウトには計2回参加しましたが、獲得に手を挙げるNPB球団はなかったため、台湾プロ野球・韓国のKBOリーグへの移籍を視野に現役続行を目指しました。

そして台湾プロ野球の中信ホエールズ に現役引退となりました。

復帰した中日では1994年から2001年まで中継ぎやリリーフとして活躍、通算で19勝18敗18セーブという成績を残しました。

多くの人に支えられて復帰、更生したプロ野球人生だったのです。

読売ジャイアンツ 杉山直樹選手
1987年のドラフト会議で読売ジャイアンツから6位で指名され、1988年に入団した杉山直樹選手です。

1995年には大久保博元、吉原孝介の不調もあり、村田真一に次ぐ2番手の捕手として一軍に定着。この頃、13歳年上の女性と結婚して話題となりました。1996年には最多の66試合に出場しました。特に1995年はルーキー河原純一、1996年は新外国人バルビーノ・ガルベスの専属捕手として、勝利に貢献した将来を嘱望された捕手でした。

2000年には読売ジャイアンツがリーグ優勝を決めた試合で先発マスクを被るなど、長嶋茂雄監督など首脳陣からの評価も高かったのです。
杉山直樹選手
2000年10月25日、日本シリーズに備えて宮崎で行ったミニキャンプ中、宮崎市内のスナックで同席した女性の胸を触ったほか、近くの路上で無理やりキスをし、「いい加減にして」などと言われたことに腹を立てて、履いていた靴で女性の頭を3回殴り5日間のけがをさせたとして、強制わいせつ致傷の疑いで逮捕されました。

プロ野球の現役選手が逮捕された事例は当時、1991年に横浜大洋ホエールズ(2000年当時は「横浜ベイスターズ」)の所属選手だった中山裕章(2000年当時は中日ドラゴンズ所属)が強制わいせつ・公然わいせつ容疑で逮捕された事件以来でした。その後、被害者女性とは示談が成立し、社会的制裁を受けていることもあって、起訴猶予となりました。

逮捕に際しては、逮捕当日の午前中、「プロ野球選手のまま逮捕されるのは嫌だ」という杉山の意向もあって、事情聴取される直前に球団に退団願が提出され、それを受けて球団が解雇しました。そのため、日本テレビ『NNNきょうの出来事』、『読売新聞』や『朝日新聞』は、元プロ野球選手、元巨人として報道されました。

巨人の私設応援団が復帰嘆願の署名を集めましたが、約2万人でした。中山さん選手の10分の1であり、これは選手の実力、知名度と世論の後押しがあるかないかで復帰できるかできないかの異なる例になります。



※最後に
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西武・山川穂高が登録抹消…知人女性とトラブルと文春報道(2023年5月12日)

 西武の山川穂高内野手(31)が12日、出場選手登録を抹消された。球団は抹消理由について、「総合的に判断してコンディション的に抹消」と説明している。山川については「文春オンライン」が11日、知人女性とのトラブルを報じている。

11日にベルーナドームで行われたロッテ戦後、山川は報道陣に対し、「僕から言えることはありません」と答えた。同ドームで行われた12日の楽天戦前の練習には姿を見せなかった。

山川は3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表メンバー。今季は17試合で打率2割5分4厘、0本塁打、5打点にとどまっている。

■知人とのトラブル
『文春オンライン』によると、山川選手は2022年に知り合いの20代女性・A子さんを都内のホテルに連れ込み、下半身などから出血するケガを負わせたという。警察は強制わいせつ致傷容疑でA子さんの被害届を受理し、山川選手に事情聴取を行うなど捜査中だと報じられた。記者の直撃に対して、山川選手は「弁護士をつけているので詳しいことは話せない」としつつ、「絶対に無理矢理ではない」と繰り返している。
山川穂高どすこい

西武ライオンズの山川穂高選手に強制わいせつ容疑がかけられてニュースが飛び込んできました。

過去3度のホームラン王と日本球界のホームランアーチストとして実績は十分ですし、2023年のWBCにも選ばれるぐらいの日本を代表する選手であることは間違いありません。

被害者の方からの被害届を警察が受理していますので、山川穂高選手に事情徴収を含めて捜査中ですので、事態を見守るしかありません。

ただし、選手生命がピンチになっているのは間違いなく、不起訴でも長期間の出場停止、起訴されれば選手生命が経たれてしまうでしょう。

2022年はホームラン王、打点王の2冠で選手として脂ののった時期でありますし、まだ年齢は31歳です。そして今年FA(フリーエージェント)の資格を得る予定でしたので、これだけの選手であれば、年俸はマネーゲームでかなりの高騰をすることは間違いありませんでしたので、非常に残念な結果になってしまいました。

過去にも選手が女性とのトラブルで選手生命が絶たれてしまった選手がいましたので紹介します。

こんなことでキャリアが絶たれてしまうなんて非常に残念です。

千葉ロッテマリーンズ 清田育弘選手
これは近年なので覚えていると思います。千葉ロッテマリーンズが2021年5月23日、清田育宏外野手の契約を解除した件です。

清田選手は2020年9月末からの札幌遠征中に不倫相手の女性と連日会食に繰り出して不貞行為に及んだことを写真週刊誌に報道され、コロナ禍で内規違反を犯していたにもかかわらず〝隠蔽工作〟を行うなど極めて姑息で悪質な愚行が発覚しました。

2021年1月15日付で無期限謹慎処分となった後、2021年5月1日付で解除され二軍戦にも出場しましが、再び同じ写真週刊誌によって21日に今度は違う女性との不倫疑惑を報じられました。

千葉ロッテマリーンズは、今度ばかりはもうさすがに庇えないと判断したようで決断は早かったです。

何せ前回に下した無期限謹慎処分は決定から僅か3カ月半で解除されており、結局名ばかりの大甘ペナルティが清田の無自覚を増長させていたとみられても仕方がないですし、一度ならず二度までも背信行為を繰り返しながらズルズルと契約を結んだままであればチーム全体に悪影響を与え、球団はもちろんのことロッテ本社のイメージダウンも避けられなくなります。

2021年2月で35歳となった清田選手はプロ12年目でした。2015年には打率3割1分7厘、15本塁打、67打点をマークし、ベストナインに選出された経歴を誇ります。2020年もシーズン終盤に4番を任されるなどベテランながらも主力としてチームで存在感を見せていたのです。

清田選手の契約解除発表は写真週刊誌による2度目の不倫疑惑報道から、たったの2日後の2021年5月23日でした。異例の「スピード解雇」には、批判覚悟で一度は手を差し伸べたにもかかわらず、その恩をアダで返された球団側の激しい怒りがにじみ出ているとみられています。

清田選手は2021年11月、新型コロナウイルス禍で不要不急の外出をしたことなどを理由に契約を解除されたことについて「処分は違法で無効」として、球団選手としての地位確認や計約9700万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしました。

そして、清田選手は2023年2月8日、契約解除をめぐり裁判で争っていた元所属先の千葉ロッテマリーンズ球団と円満和解したことを自身のInstagramアカウントで発表しました。清田選手が訴訟を取り下げ、裁判外で和解しました。和解内容は公表されていません。

訴訟の取り下げですので契約解除の無効は主張しないということになり、清田選手のロッテ復帰は完全になくなりました。
真面目に生きていれば千葉ロッテマリーンズで引退し、コーチになれたものを・・・。
清田育宏

横浜DeNAベイスターズ 綾部翔選手
横浜DeNAベイスターズの 綾部翔選手ですが、未成年と付き合っていたことは問題ですが、それ以上に注目を集めたのが、付き合っていた人数です。

横浜DeNAベイスターズは2019年7月16日、綾部翔(当時22歳)選手が神奈川県の青少年保護育成条件に抵触する可能性があるとして、同投手の無期限の謹慎処分にしたと発表しました。

球団によりますと、綾部選手は2017年12月にインターネットを介して知り合った女子高校生と不適切な関係を持ったといい、本人も相手が高校生と認識していたとのことです。

綾部選手は2015年秋のドラフトでDeNAから5位指名を受けて、茨城 霞ヶ浦高校から入団しました。

プロ2年目の2017年10月3日の中日戦(横浜)でプロ初登板初先発し、5回4安打無失点でプロ初勝利をマーク。将来を嘱望されましたが2018年からは右肩手術の影響から1軍での登板はありませんでした。プロ通算登板は1勝0敗、防御率0.00です。

綾部選手はSNSを介してDeNAファンだった女子高生にメッセージを送り、知り合ったといいます。これをリークしたのが妻のA子です。

そのA子さんの証言ですと
「昨年、彼が複数の女性と不倫していることが分かり、11月末に女性の名前を問いただしたところ、当時高校生だった少女の名前もあがりました。

彼は会った当時、少女が18歳未満だったことを認め、『2017年12月にホテルに行った』と肉体関係も認めました。

その後、『法に触れることと触れないことの区別はつくと思う』と追及しても、うなだれるだけで言葉を返しませんでした。女子高生と関係を持った時期は、私の妊娠がわかって2カ月後の入籍に向けて婚約中でした」

奥さんを裏切った代償がリークというわけです。

そして、綾部選手は未成年者との不適正な関係以外にも18人との関係をもっていました。交際範囲が広く、球団職員、主婦や艶系女優さんらがいたそうです。

横浜DeNAベイスターズをトライアウトを受けてプロ野球界に復帰しようと試みましたが、主催者側に混乱になるとのことで断られました。

当時は「流石!DNAのエース」と揶揄されたものです。
綾部翔



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カタールワールドカップが開幕しました。

初戦は開催国カタールと南米予選4位のエクアドルとの対戦でしたが、結果はご存知とおり、エクアドルが2点を挙げての勝利でした。

開催国カタールは開催国初戦黒星がワールドカップ史上初という汚名を負いました。

もともと開催国での出場として初出場でしたので実力が危ぶまれておりましたが、この一戦で見事にホスト国の実力不足が露呈してしまいました。

国をあげてサッカー代表の強化プロジェクトを立ち上げてワールドカップに向けてやってきましたし、2019年にはアジアカップの王者となりました。

しかしながら、アジアカップの王者も3年前の話ですし、何と言ってもワールドカップのアジア予選を突破して出場したことのない国でしたので、ちょっと厳しかったのかもしれません。

カタールのいるグループAは、エクアドルの他に、オランダ、セネガルがいますので、残り2戦も厳しい戦いになると思います。

先制された後にガッカリ肩をおとすカタールイレブン
前半エクアドルに先制されて肩をおとすカタールイレブン
かつては2002年の日韓ワールドカップで、ホスト国の日本が、ホスト国で初出場は世界の恥だということで、必死に戦って1998年のフランスワールドカップで初出場をはたしたのを覚えています。

その1998年のフランスワールドカップは、世界に出たばかりの日本は厳しい洗礼を浴びて3連敗でした。

1勝もできずに迎えた2002年日韓ワールドカップですが、初戦のベルギー戦では何とか前半を0ー0で折り返しますが、後半57分にベルギーのヴィルモッツ選手にオーバーヘッドキックをきめられて先取点をとられます。

この瞬間から埼玉スタジアムに流れる嫌な空気、「もしかしたら勝てないじゃないか?」「まだワールドカップに出るレベルじゃないかも?」というイレブンはともかく、埼玉スタジアム、そして日本中が疑心暗鬼になりかけたと思います。

しかしながら、ここで後々語り継がれる伝説となる「鈴木隆行」選手のゴールが生まれます。

先制されたからのたった2分後の後半59分、小野選手の裏を狙った縦パス1本が、ベルギーのゴールキーパーと「鈴木隆行」選手の中間に落ちます。「鈴木隆行」選手は足先を伸ばしてボールをとりにくるキーパーより前につま先で触り、ゴールキーパーの横を抜けてゴールにボールが吸い込まれていくのです。

「今回はいける!」「互角に戦える!」と日本中が確信した瞬間でもあります。

カタールを見ていて思ったのが、このような自らを振るいたたしてくれるゴールが必要なのではということです。
日韓W杯ベルギー戦鈴木隆行選手
カタールは国家規模でアスリート育成機関「アスパイア・アカデミー」を立ち上げ、2014年から本格強化。その強化費用は年間約50億円にものぼり、2019年には日本を破ってアジアカップ初制覇を果たしました。
難点はワールドカップに挑むカタール代表のほとんどが、国内クラブチームのアルサッドとアルドゥハイルの2チームで構成され連携はバッチリですが、海外経験が少ないところです。

しかしながら、ワールドカップが盛り上がるためにはホスト国の躍進が必要ですので、ぜひ2戦目、3戦目は盛り返してほしいところです。



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いよいよお待ちかねの『カタールワールドカップ』が近づいてまいりました。

日本のいるグループリーグEは、言うまでもないですが、ドイツ、スペイン、コスタリカと優勝国2か国が入りましたので、ラウンド16にいくのは至難の業と言われております。

コスタリカだけには一勝ということも、直前に行われたカナダとの一戦を見る限り、何だか怪しくなってきました。

11月23日(水)にドイツ戦がありますが、勝てる要素がなかなか見当たりません。10回やって運よく1回勝てる程度の実力の差です。

現に日本は同じく優勝候補のブラジルと過去12回対戦していますが、2分10敗と未勝利です。 5得点34失点と、通算スコアでも力の差を見せつけられています。

ちなみにドイツと過去2回対戦し、0勝1分1敗で2得点し5失点です。スペインとは過去1回対戦し、0勝0分1敗です。今まで1勝もしていない相手に本番で勝つのがいかに難しいか数字の上でもわかると思います。

何か、強豪国に勝てる要素、何でもいいんですがあるのでしょうか?

振り返りますと、前回2018年のロシア大会の初戦のコロンビア戦のように前半6分でコロンビア1人退場でPKを1点とる、他に1996年アトランタオリンピックで「マイアミ奇跡」でアウダイールとGKとの衝突が起点となる1点など、ハプニングが起きない限り難しい状況となっています。

しかしながら、とても他力ですが勝てる要素が1つありました。

それは、カタールの異常なまでの蒸し暑さ(気温と湿度)です。

ドイツ、日本とも同じ条件なので意味がないかもしれませんが、アジア人種の方が蒸し暑さに慣れていますので味方になってくれるかもしれません。

開催地のカタールでは今月(11月)上旬に37.2℃を記録して、11月の国内最高気温に匹敵する暑さだったそうです。11月の平均気温は29℃ですので、東京でいえば、初秋くらいの陽気だそうですから、暑さはなんとか収まります。しかしながら、11月は雨季の始まりでもあり、湿度が高くなるのです。

大多数の試合会場は冷房を完備しており、空調温度は22度に保たれるそうです。ピッチ脇や観客席の足元に設けられた送風孔から涼やかな風が吹き出し、暑さを和らげますが、ピッチ上はそうはいかないと思います。
Goal_WC_Draw_Costa_Rica

2002年の日韓ワールドカップを思い出してください。

前回(1998年)大会優勝のフランスがグループステージ敗退、死のグループに入ってしまってことはありますが優勝候補のアルゼンチンの敗退や、前評判の高かったポルトガルの敗退がありました。

審判の誤審も問題となりましたが、韓国と対戦したスペイン、イタリアの決勝トーナメント敗退など、アジアの地で初めて開催されたワールドカップは、6月であり気温25℃前後、温度65%で、蒸し暑い中でのパフォーマンスは、強豪国、特に欧州の強豪国は軒並み低調でした。

いくら誤審とはいえ、欧州の強豪チームが通常のパフォーマンスを発揮すれば、韓国は勝ててないと思うのです。

とても他力本願ですが、カタールでも、もしかしたら・・・と思うのです。この温度と湿度、そしてハプニングがあれば、強豪国ドイツ、スペインを撃破する場面がみれるかもしれません。
カタールFIFAワールドカップ決勝戦会場ルサイル・スタジアム



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フィギュアスケート年齢制限ミラノ五輪は17歳 ISU総会で段階的引き上げ可決(2022年6月7日)

国際スケート連盟(ISU)は7日、タイで行われている総会で、フィギュアスケートの年齢制限を段階的に17歳に引き上げることを可決した。投票の結果は賛成が100、反対が16。3分の2を満たした。

これまではシーズンに入る7月1日までに15歳に達することが条件だった。来季の22~23年シーズンは15歳とし、23~24年は16歳、24~25年は17歳に引き上げる。

スピード、ショートトラック、シンクロナイズドスケーティングにも適用され、新シーズンが始まる7月1日より前に17歳に達していることが条件となる。

低年齢の選手に対する心身の負担が大きな理由。ISU選手委員会が加盟国・地域を対象に20年12月と21年1月に実施した調査では、86・2%が引き上げに賛成していた。この日の会議でも、各国から「選手の健康を守ることが最優先されるべき」「特に女子の選手寿命が短すぎる」などの声があがった。

北京五輪で15歳だった女子のカミラ・ワリエワ(ロシア)にドーピング問題が発覚。世界反ドーピング機関(WADA)の規定で16歳未満の「要保護者」に該当し、スポーツ仲裁裁判所(CAS)が出場継続を認めた判断が物議を醸した。

女子で4回転ジャンプを跳ぶ注目の13歳、島田麻央(木下アカデミー)は26年ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪に出場できないことになった。

※シンクロナイズド・スケーティング(Synchronized skating)は、フィギュアスケートの一種で氷上におけるシンクロ競技にあたる。男子シングル、女子シングル、ペア、アイスダンスに続く新たな競技として生まれた。1チーム16人で演技を構成する。

フィギュアスケートの年齢制限が15歳から17歳に引き上げられます。北京五輪のカミラ・ワリエワ(ロシア)のドーピング問題から発した問題は、年齢制限の引き上げで幕引きとなります。

ドーピング検査で陽性反応を示しながら出場を認められたカミラ・ワリエワ(ロシア・オリンピック委員会=ROC)は、ショートプログラム(SP)こそ1位でまとめたもののフリーで大きく崩れ、「4位」にとどまりました。

ここが一番の問題でして、本来であれば、陽性反応が出た段階でワリエワ選手は出場できないと判断すべきだと思います。

そのまま出場させてしまいますと、ドーピング陽性の選手と陰性の選手が競うことになり、公平性の観点から、大きく逸脱してしまうことになります。

ワリエワ選手は15歳でした。彼女は周りの選手から、『ドーピングをやったかもしれない』という冷たい目に加え、『なぜ、あなただけ特別扱いなのか』という2つの目で見られるところが気の毒です。そういう環境に彼女を置くこと自体が間違いで、出場させないことが、彼女の健康や将来の為にも良かったと思います。

選手を周りの好奇な目や疑惑の目から保護するためにも出場停止にすべきだったのです。

そして、ロシア勢の4回転ジャンプに象徴される、フィギュアスケート界のジャンプ偏重の採点に問題もあるかと思います。

2022年4月4日に米スタンフォード大学で東アジア研究を専門とする元フィギュアスケート選手のナンシー・ハミルトン氏が、国際スケート連盟が規定する現行のフィギュアスケートの採点システムを批判し、4回転ジャンプを重視せず芸術性をより高く評価するよう提言しました。

米紙「スタンフォードデーリー」はハミルトン氏のコラムを掲載。現在の採点システムでジャンプばかりが高得点を獲得し、特に女子のロシア勢で身体的負担が顕著になっていることを危惧しています。

採点システムに関しては、何らかの変更が必要ですが、フィギュアスケート界のロシアとアメリカの覇権争いもあります。

そもそも、オリンピックに年齢制限はあるのでしょうか?

これはオリンピック憲章第5章42(2021年版)「オリンピック競技大会」にて『オリンピック競技大会では競技者の年齢制限はない。』と明記されています。

❖オリンピック憲章(75ページ)

第5章 オリンピック競技大会

42 年齢制限

42 オリンピック競技大会では競技者の年齢制限はない。ただし、IFが競技規則でそれを定め、IOC理事会より承認されている場合は、その限りではない。

オリンピック憲章(電子ブック)

「ただし、IFが競技規則でそれを定め、IOC理事会より承認されている場合は、その限りではない。」と書かれておりますね。


IFとは「国際競技連盟(こくさいきょうぎれんめい、International Federations)」のことで、競技ごとにルールや大会などを統括する国際機関のことです。

各国の競技団体を国際的に統括する非政府組織。略称IF。各IFはオリンピックや世界選手権などでそれぞれの競技の運営にあたると同時に、国際的に適用する大会参加規定や競技規則(ルール)を独自に制定する。

国際オリンピック委員会(IOC)が2020年のオリンピック憲章で夏季オリンピック大会の実施競技として公認しているIFは世界陸連、国際サッカー連盟、国際柔道連盟など28団体で、冬季オリンピック大会としては国際スキー連盟、国際スケート連盟など7団体がある。

国際競技連盟が出場者に関する年齢制限を定め、IOC理事会に承認されている場合には、該当する競技に年齢制限が設けられます。

つまり、オリンピック全体に統一された年齢制限は設けられていないものの、競技ごとに年齢制限が存在する場合があるという答えになります。

制限がある理由として、選手の健康面に配慮するためです。

身体がまだ出来上がっていない状態で過度な練習を繰り返すことは、ケガや故障につながる恐れがあます。

また、種目によっては大人の中で競技を行う危険性も大きいです。

このようなリスクを避けるため、年齢制限を設ける競技も少なくありません。

年齢制限のある競技はどんなものでしょうか?

❖年齢制限のあるスポーツ(一部)

・サッカー
 男子はオリンピック前年の12月31日時点で23歳未満。女子は年齢制限なし。
・ボクシング
 競技者の年齢は17〜34歳。
・競泳、飛び込み
 15歳以上。
・新体操
 16歳以上。
・体操
 男子16歳以上、女子15歳以上。

一番有名なのはサッカー男子の23歳未満ですよね。よくオリンピック代表のことをしばしばU-23代表と言っている場合がありますし、本大会に限り前年の12月31日時点で23歳以上の選手を最大3人まで加えることができるオーバーエイジ枠があり、誰が選ばれるんだろう?なんて議論の対象になりますよね。

他にも東京オリンピックの陸上競技の年齢制限は以下のとおりです。

❖2020年東京オリンピックの陸上競技
 20歳以上(~2001年生まれ)    全ての種目
 18~19歳(2002~2003年生まれ) マラソン、50km競歩を除く種目
 16~17歳(2004~2005年生まれ) 投擲競技、十種競技/七種競技、10000m、マラソン、競歩を除く種目
 16歳未満(2006年以降の生まれ) 参加資格なし

本来は、オリンピック憲章に謳っている通り『オリンピック競技大会では競技者の年齢制限はない。』でいいと思うんですが、その時々の政治的な判断で決められてしまうことが多いです。結果的に、門を閉ざされた選手が一番の被害者なんですけどね。



※最後に
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サッカーワールドカップの2022年カタール大会のグループステージの抽選会が行われました。

サッカー日本代表はスペイン、ドイツ、大陸間プレーオフ勝者(コスタリカorニュージーランド)と強豪がひしめくE組に入りました。

最初の頃は現実路線の論調で「どれくらい通用するのか楽しみ!」「スペイン、ドイツの2強状態」「日本にとって死の組」などでしたが、時間が経つにつれて、何と言っても自国ですし、どうしても夢を見たくなりますので徐々に「日本がグループステージ突破するにか初戦のドイツに勝つこと」「日本がドイツ(スペイン)に1敗、プレーオフ勝者に1勝、ドイツ(スペイン)に引き分けで1分でグループステージ突破」などの決勝トーナメント進出する為の論調に変わってきています。悪くても「3連敗はない」「ドイツ、スペインのどちらかに引き分けは可能」などの論調もあります。

もちろん、日本が強豪国に勝ってグループステージを突破するのがうれしいのですが、現実的には3連敗となる可能性が高いです。


❖1998年のフランス大会に似てる

日本が一番最初に出場した1998年のフランス大会は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同じグループHでしたが、下馬評では、アルゼンチン、クロアチアの2強、日本とジャマイカの2弱でした。

日本は、初戦のアルゼンチン戦、2戦目のクロアチアのどちらかに引き分け或いは勝利して、ジャマイカは勝てそうだといった予想が大方の見方でした。

1戦目のアルゼンチン、2戦目のクロアチアに善戦はするものの、どちらも1対0で敗戦。ジャマイカには初得点はあげましたが、2点をとられて敗戦ということで3連敗でした。

とりあえず、日本としては4年後の2002年の日韓大会があり、ホスト国が過去にワールドカップに出ていないことはないといった汚名だけは免れた大会ではありました。


❖強豪国に勝っていない

過去、日本はFIFAランキング上位の国には、まともに勝っておりません。前回のロシア大会でコロンビアにジャイアントキリング(大物喰いの番狂わせ)を達成しましたが、開始早々にコロンビア側のハンドによる退場でコロンビア川が10人となりましたので、ジャイアントキリングのカウントに入っているか微妙です。

あとは、1996年アトランタオリンピックのマイアミの軌跡と呼ばれるブラジルに勝利した試合ですが、あれはフル代表ではありませんのでカウントに入りません。

日本は過去に強豪国にガチで11人同士で90分戦って勝利したことが1回もないのです。


❖1戦目で負けると2戦目、3戦目で挽回できるメンタルがない

過去の大会でも1戦目で負けると100%の確立でグループステージ敗退です。逆にいいますと1戦目で勝利すると100%の確立でグループステージ突破です。

顕著な例は、2006年ドイツ大会です。1戦目の名将ヒディング率いるオーストラリアにクロスボールがそのままゴールに吸い込まれる1点をとりますが、その後追加点を奪えずに、後半パワープレイに持ち込まれて疲弊して3失点で大敗します。

1戦目をひきづって、2戦目の1998年フランス大会よりは弱いクロアチアにスコアレスドローとなります。これは3戦目のブラジル戦があるからでして、1戦目のオーストラリア戦を落とした時点で、3戦目も1敗となりますと、2敗となり、グループステージ突破がもう難しいと頭で想像してしまったからだと思っています。

❖まとめ

この記事が誤りであることを祈ります。この記事どおりにならずにグループステージを突破してくれうことを祈っております。



※最後に
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サッカーワールドカップの2022年カタール大会のグループリーグの抽選がありました。日本は、スペイン、ドイツ、コスタリカとニュージーランドの大陸間プレーオフの勝者の組に入りました。

過去に優勝したことのあるチームであるスペインとドイツがおりますので、この2チーム中心にグループステージの戦いが繰り広げられることになります。

1993年に始まりましたJリーグとともに1994年アメリカ大会のドーハの悲劇から見始めたミーハーな人間ですが、1998年あたりのフランス大会含めて、予選を見ていて、まだ1対1でもガンガン抜かれていく日本代表でしたので、ディフェンダーが抜かれて突破されるのをヒヤヒヤしながら見ておりました。

2002年の日韓大会を挟んで、徐々にレベルが上がってきたのと、本大会のアジア枠が増えたこともあって、アジア予選のドキドキ感がなくなっていきます。ワールドカップの連続出場を重ねていく中で本大会のグループステージが、以前のアジア予選のドキドキ感を味わえる場所になっていくのです。

以前であれば、本大会のグループリーグで、強豪国のブラジル、アルゼンチン、ドイツ、イタリア、フランス、スペイン、イングランドあたりは当たってほしくない、決勝トーナメントに行くにはできるだけ弱い国(実際は1ヶ国もないのです)との組み合わせを望んでいましたが、それは前回のロシア大会でコロンビア相手に勝利して決勝トーナメントに進出してベスト16に敗れはしましたが、再び見方が変わりました。

それは、コロンビアに勝利したといっても前半早くにコロンビア側が1人退場しての棚からぼた餅的な勝利、1勝1敗1分での決勝トーナメント進出、そして決勝トーナメントでベルギーに最初2点を奪い勝利を期待させた後の逆転勝ちといったことからきていると思います。

そこで2022年カタール大会で強豪国のスペイン、ドイツとの組み合わせです。これはとても楽しみであり、ワールドカップで強豪国とガチンコ勝負ができる為、ワクワク感しかありません。

過去の大会で強豪国は2006年ドイツ大会でのグループステージ第3戦のブラジルであり、この時は4点取られての大敗(ブラジル 4対1 日本)でしたが、あの頃とは違い、今の日本代表は外国のリーグでもまれている精鋭達でありますので『どれくらい戦えるのか?』『もしかしたら勝てるかも?』という期待と、外国のリーグでもまれているもののレギュラーである選手は一部であり、まだまだ世界との差があるので『ぼろ負け?』『前線しての敗退』という複雑な心境であります。

2022年カタール大会で日本の入ったグループを「死の組」と呼ばれておりますが、「死の組」とは実力が拮抗してどこのチームが決勝トーナメントに進出するのかわからない状態のことであり、日本のグループは2強(スペイン、ドイツ)2弱(日本、プレーオフ勝者)というのが現実的だと思います。

たぶん、日本にとっての『死の組』という言い方なんですね。

実際は2022年カタール大会は「死の組」はないとの見解が大方の見解となっています。

「死の組」自体は各ワールドカップの大会で存在しますが、私自身が実際に「死の組」を感じたのは1994年アメリカ大会のグループEです。

1994年アメリカ大会グループE

❖アメリカ大会とは
FIFAがアメリカでの新たなサッカー市場を開拓するために開催されたのが、このアメリカ大会です。

アメリカは「サッカー不毛の地」と呼ばれていました。

「ペレ」「ヨハン・クライフ」や「ベッケンバウアー」などスーパースターを掻き集めて鳴り物入りで立ち上げられたアメリカの北米サッカーリーグ(プロ・リーグ)は不人気で早々と崩壊しました。

サッカーがメジャーリーグ(野球)、アメリカン・フットボール、バスケット、アイスホッケーの人気に対抗できなかったのには、いくつもの理由が考えられます。

 ・アメリカのスーパースターがいなかった(育たなかった)
 ・45分間CMを入れられずテレビ向きとはいえない
 ・引き分けや1~2点しか点が入らない盛り上がりの少ない
 ・メジャーリーグ(野球)、アメリカン・フットボール、バスケット、アイスホッケーが最高のスポーツである国民の意識。

しかし、FIFAにとってアメリカの巨大市場にどうしても参入したくなるほど魅力的なものでした。1990年代のアメリカはIT産業を中心に好景気だったこともありました。

なんとかアメリカでのサッカー人気を盛り上げようと、様々な条件を持ち出して開催にこぎつけました。FIFA側が招致を誘導して、数々の条件を譲歩する大会は非常に珍しい大会だったといえます。

北米リーグの失敗や前回イタリア大会の反省も生かし、アメリカの観客が楽しめるように大きなルール改正がされました。それは予選リーグでの勝ち点の変更です。前回のイタリア大会、勝ち点を確実に確保するために引き分け狙い(グループFが6試合中5試合引き分け)の試合が激増しました。そのため、ワールドカップ史上最も面白くない大会と言われることになりました。

そこでこの大会から、勝ったチームに与えられる勝ち点はそれまでの2から3に変更されました。そうなると、引き分け2試合では勝ち点2にしかなりませんが、1試合勝てばそれで勝ち点3となるので、引き分けを狙うより勝ちを狙う方が予選リーグでは有利になるのは明らかでした。

この変更に対応し各チームもこの大会では常に勝利を目指すようになり、前回イタリア大会に比べこの大会は総得点が大幅に増える(※)ことになりました。

※1990年イタリア大会 総得点115点(1試合平均 2.21点)
 1994年アメリカ大会 総得点141点(1試合平均 2.71点)

当然、試合内容も面白くなり、その結果としてこの大会の観客数もまた大きく伸びることになりました。最大で10万人を収容できるローズボウル・スタジアムをはじめ、野球やアメフト用の巨大スタジアムを使用したせいもありますが、平均で7万人の観客を動員できたのは明らかに成功だったといえるでしょう。

そして、アメリカ代表チームの躍進も大会を盛り上げた一つの要因となりました。
それまではホスト国で予選リーグ敗退は一度も前例がないのですが、実力が劣っていると前評判では決して期待されておらず、大会前は盛り上がりに欠けておりました。

しかしながら、知将ボラ・ミルティノビッチを招聘したアメリカ代表はグループリーグで強豪コロンビアを退け、開催国のノルマである決勝トーナメント進出に成功しました。アレクシー・ララスやトニー・メオラのような人気選手も生まれ、国民の声援も高まっていきました。決勝トーナメント1回戦では7月4日の独立記念日に王国ブラジルと対戦し、0-1で敗れるも善戦しました。

この大会の成功をステップにして、1996年には新たなプロリーグ、メジャーリーグサッカー(MLS)が創設された次第です。

❖グループE
1994年アメリカ大会のグループEは、準優勝のイタリア、メキシコ、アイルランド、ノルウェーの4ヶ国です。どちらかというと結果的な感じな「死の組」という感じもしますが、全チーム勝ち点4であり、紙一重であったことがわかります。

先に言った結果的なということと、まだ当時は24チームでしたので、グループステージ3位のチームでも6チーム中4チームが決勝トーナメントに進出と、グループ2位以上の12チームとワイルドカードの4チームの16チームがファイナル16に進めた時代で、準優勝のイタリアはワイルドカード6チーム中4位とギリギリでファイナル16に進めたわけです。

準優勝のイタリアは名将サッキ監督のもと、GKジャンルカ・パリュウカ、リベロで主将のフランコ・バレージ、左サイドバックのパオロ・マルディーニ、右ウイングバックのロベルト・ドナドーニ、終盤の指揮官デメトリオ・アルベルティーニ、そして前年のバロンドール受賞者でありトップ下で輝きを放つワールドカップで最後のスーパースターといっていいFWロベルト・バッジョと、いずれも世界的な名手が揃っていました。

1994年アメリカ大会のイタリア代表
1994W杯グループEイタリア

ワールドカップでの最後のスーパースター「ロベルト・バッジョ」
1994W杯グループEイタリア_バッジョ

メキシコはFWもできる伝説的なGKカンポス中心とした守りのチーム、伝説的な闘将で問題児ロイ・キーンのいるアイルランド、中盤でハードワークを見せながら、チームで数少ない、テクニックでアクセントをつけられる存在としても期待され、本大会の初戦では優勝候補イタリア相手のジャイアントキリング達成に貢献しました。ノルウェーはオルセン監督率いられて、1994年、1998年と連続出場した黄金世代(以降はヨーロッパ予選敗退)でした。

メキシコ代表ゴールキーパーの「ホルヘ・カンポス」
1994W杯グループEメキシコ_カンポス

この後、イタリアは決勝トーナメントでも苦労しながら、なんとか不屈の精神で勝ち上がり、決勝戦のブラジル(イタリア 0対0(PK2対3)ブラジル)でPK戦の上に敗戦となります。

優勝したブラジル代表。ワールドカップトロフィーを持っているのは「ドゥンガ」。
1994W杯ブラジル

❖ワールドカップらしい最後のワールドカップ
自分が生きている時代もありますが、ワールドカップらしさが残っていたのは「1994年アメリカ大会」が最後となりました。特にFWやMFのスーパースター、いわゆる「10番」が中心となって輝きを放っていました。

イタリア「ロベルトバッジョ」、アルゼンチン「マラドーナ」、ブルガリア「スト一コフ」、メキシコ「カンポス」、ドイツ「マテウス」、そしてブラジル「ロマーリオ」「ベベット」の最強2トップ。「マラドーナ」は大会中のドーピング検査に引っかかって失格となり、その後、アルゼンチンは失速して16強で敗退しました。

スーパースターたちの競演があった大会は、むろん、この後の大会でもありますが、古きよきワールドカップは、この大会が最後だったと思います。

アルゼンチン代表「マラドーナ」。
1994W杯アルゼンチン_マラドーナ



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