竜ヶ崎竜之介のスマホ閲覧で通勤通学を有意義にするプログ

アクアリウムを中心として、他にもホラーやパソコンなどの趣味や仕事、他に日常の出来事について好き放題書いていこうと思います。虎ノ門虎之助でメダカのプログを書いていますが、他のことも書きたくなりましたので新しいプログを立ち上げました。

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カテゴリ: 凶悪事件データベース


◆ドキュメント
作成日付:2024/10/12
更新日付:2024/10/14

<目次>








広島少女集団暴行殺害事件(野村美輝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 広島市の専修学校の女子生徒 黒瀬恵利華さん(当時16歳)が2013年6月28日未明に少年少女ら7人に暴行された末に殺害、遺棄された事件。

広島県広島市の専修学校の女子生徒 黒瀬さんが、無料通信アプリ「LINE」で書き込んだメッセージに友人の少女 野村美輝(主犯格、当時16歳)が立腹。仲間ら少年少女合計6人と共謀して2013年6月28日、黒瀬さんを集団暴行の末に殺害。遺体を同県呉市にある灰ヶ峰に遺棄した。
広島少女集団暴行殺害事件(相関関係図)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
◆2013年
10月15日 広島家裁は、荒当葉月(当時16歳)、河野那奈(当時16歳)の2人を中等少年院送致する事を決定。
10月17日 広島家裁は、主犯格 野村美輝(当時16歳)、成田奶哉(だいすけ・当時16歳)、持田竜也(当時16歳)の3人を逆送致する事を決定。
10月30日 広島家裁は、持田竜也(当時16歳)を中等少年院送致する事を決定。
◆2014年
10月24日 広島地裁は、瀬戸大平(当時21歳)に懲役14年の判決。
10月24日 広島地裁は、主犯格 野村に懲役13年の判決。
12月3日 広島地裁は、に成田に懲役10年の判決。
◆2015年
3月26日 広島高裁は、瀬戸の控訴を棄却。
3月30日 広島高裁は、主犯格 野村の控訴を棄却。
6月30日 広島高裁は、成田の控訴を棄却。

❖出所予定(年齢)
 荒当葉月・・・2016年10月頃すでに退院、19歳(中等少年院で最も長い3年と仮定)
 河野那奈・・・2016年10月頃すでに退院、19歳(中等少年院で最も長い3年と仮定)
 野村美輝(主犯格)・・・2027年10月頃、29歳(懲役13年)
 瀬戸大平・・・2028年10月頃、35歳(懲役14年)
 成田奶哉・・・2024年10月頃、86歳(懲役15年)
 持田竜也・・・2016年10月頃すでに退院、19歳(中等少年院で最も長い3年と仮定)

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広島タクシー運転手連続殺人事件(日高広明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1996年(平成8年)4月18日 - 9月14日に広島県内(広島市およびその近郊)で女性4人が相次いで殺害された連続殺人事件。
広島タクシー運転手連続殺人事件(日高広明)

◆A事件(第1の事件)事件発生:1996年4月18日22時50分ごろ(殺害時刻)
 日高広明(当時34歳)は勤務中の1996年4月18日20時に流川・薬研堀一帯をタクシーで流し、売春・援助交際のメッカとして知られていた新天地公園を通りかかった際、公園で呉市の定時制高校1年の宮地里枝さん(当時16歳)を見つけ「遊ばないか?」と声を掛けた。

宮地さんが料金2万円で応じたため、日高は宮地さんをタクシーに誘い乗車させるとコンビニエンスストアで缶ビールを購入し、21時ごろに広島駅付近のラブホテルに入った。そのまま2人で缶ビールを飲み、日高はAに2万円を渡したが、宮地さんは身の上話として「行方不明になった父親の借金を返済するため大阪から広島まで働きに来た。あと10万円返せば完済できる。今日はその返済日だから10万円を用意して、広島駅から呉駅(呉市)に行く」と話した。

日高はこの話を聞いて内心「やられた」と思いつつも「なんか(セックス)するのは悪いね」と言って宮地さんに呉市まで送っていくことを約束し、宮地さんをタクシーの助手席に乗せ、呉市(広島市中心街から約20 km先)方面へタクシーを走らせた。

22時50分、宮地さんが身をかがめて後部座席に回ったところ、日高はネクタイを緩めて運転席を降り、背後から宮地さんに忍び寄るとネクタイを宮地さんの首に巻き付けて絞めつけ、宮地さんを窒息死させて絞殺した。

◆B事件(第2の事件)事件発生:1996年8月13日0時50分ごろ
 1996年8月12日夜、日高は「自分と接点のない売春婦を殺害して所持金を奪おう」と計画した上で、再び新天地の繁華街をタクシーで流しながら次の標的として「男から声を掛けられるのを待つ売春婦」を物色した。「ホテルを出てから殺せばセックスもタダでできる」と考えていた日高は新天地公園で見つけた古月理江さん(当時23歳)に声を掛け乗車させた。

車中で現金3万円を渡して安心させた上でラブホテルに入ったが、古月さんは「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した。日高は「それは怖いね」と返しながら古月さんと性行為をし、翌日(1996年8月13日)になって2人でラブホテルを出るとコンビニに立ち寄り缶ビール・軍手を購入した上で山道に入った。

1996年8月13日0時50分ごろ、日高は「太田川橋」付近で突然タクシーを停車し、A事件の時と同じく燃料切り替えスイッチの操作でエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Bを油断させた。

その上で古月さんに「(この車は)よく故障するんだよ」と言って床のシートをめくるよう頼み、軍手を嵌め古月さんの背後からネクタイで古月さんの首を絞めた。古月さんは咄嗟に自分の首とネクタイの間に右手を差し込んで抵抗し、「さっきの『父親がヤクザだ』という話は嘘だ。金は返すから許して」と命乞いしたが、日高はそれを聞き入れずに古月さんの首を絞め続けて古月さんを絞殺した。

◆C事件(第3の事件)事件発生:1996年9月7日23時50分ごろ(殺害時刻)
 1996年9月7日、日高は22時30分を過ぎても運賃収入が30,000円止まりで目標とした運賃収入50,000円に届かなかったため、不足分の運賃収入を補い、遊興費も稼ぐ目的で売春婦を殺害して金を奪うことを決意した。

 23時ごろ、日高は広島市南区内の路上でいつも客待ちしていた藤山万里子さん(当時45歳)をタクシーに誘い入れ、藤山さんに「どこか遠くで遊ぼうか」と提案して3万円を渡し「タクシーの中でしてもいいかな?」と提案して承諾を得ると、途中でコンビニに立ち寄って藤山さんに缶ビールを買わせた。しかし日高は以前から遺棄現場として考えていた加計町方面へ向かった一方、なかなか藤山さんと性行為をする気にはならなかった。

1996年9月7日23時50分ごろ、日高は真っ暗な山道にタクシーを停車して藤山さんに「俺は後ろからするのが好きだ。四つん這いになってくれ」と後背位で性行為をするよう求めた。

日高からの申し出を承諾した藤山さんは後部座席で背を向け、下着を脱いで腰を突き出したが、日高はネクタイ・ズボンのベルトを緩めて唸り声を上げながら藤山さんにのしかかった。藤山さんは危険を察知して振り返り、日高に「何をするの!」と叫んだが、日高はベルトを引き抜いて被害者Cの首に回して絞め上げ、激しい抵抗にも躊躇せずCを絞殺した。

◆D事件(第4の事件)事件発生:1996年9月14日2時10分ごろ(殺害時刻)
 C事件から1週間が経過した1996年9月13日22時ごろ、日高は「3人殺そうが4人殺そうが大して変わらない」などと考えつつ、広島市中区内でタクシーに(ロマンス洋子さん(当時32歳)とは別の)女性客を乗車させた。

一方で洋子さんは同じく22時ごろに中区銀山町の路上で目撃された後、14日0時前後に近所の知人女性へ封筒に入れた現金数万円を「物騒だから預かってほしい。朝には受け取りに来る」と預けていた。日高は前述の女性客を約2時間待った末に見逃してしまったために売上金が少なく、目標の運賃収入に届かなかったため「今日中に売春婦を殺して金を奪いたい」と決意し、偶然見かけた洋子さんを新たな標的に決めた。

日高は一度洋子さんに声を掛けてタクシーに乗車させ、停車した車内で10分ほど話をしたが、缶ビールを購入するためにいったん車外に出てから車に戻ると洋子さんが姿を消していた。日高は「逃げられた」と舌打ちしたが、日付が変わった1996年9月14日0時すぎにホテルの前で再び洋子さんと邂逅し、4万円を提示して洋子さんから性行為をする了承を得ると、「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」とタクシーを発進させ、殺害現場へ向かう途中でコンビニに立ち寄って洋子さんに缶ビール・つまみを購入させた。そして日高は洋子さんを交通量がほとんどない佐伯区のダム付近で殺害することを決意し、その近くのラブホテルで性行為をした。

日高は1時50分ごろに洋子さんとともに2人でホテルを出ると、タクシーの後部座席にDを乗車させて廿日市市方面へ向かい、1996年9月14日2時すぎに人気のない田舎道(殺害現場)でタクシーを停車した。その上でA・B両事件の時と同じく燃料切り替えスイッチでエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Dを油断させ、洋子さんに「足元のシートをめくってほしい」と申し出た。

そして洋子さんが屈みこんでいる間にネクタイをほどいたところ、洋子さんが顔を上げて「なんか怖い」と言ったため、日高は洋子さんに笑みを浮かべながらネクタイを座席に掛けた。しかし洋子さんが「一人で帰る」と言い出してタクシーのドアを開けて車外へ飛び出したため、日高は「警察に駆け込まれたら終わりだ」と思ってタクシーを急発進させ、洋子さんを追いかけながら「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けたが、洋子さんは走って逃げながらショルダーバッグから1万円札4枚(現金40,000円)を取り出し「もうお金はいらないから」と叫びながら日高に投げつけた。

これに逆上した日高はタクシーを加速させて洋子さんの前に回り込むと、車外に出て洋子さんの行く手を塞ぎ、立ちすくんでいた洋子さんの襟首を掴み、売春婦を脅すためにあらかじめ準備していた果物ナイフ(刃渡り約11 cm)を洋子さんに突き付けた。そして洋子さんを後部座席に連れ込み、右拳でDの顔面を計10発近く殴りつけて失神させると、洋子さんの首をネクタイで絞めて殺害した。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2000年(平成12年)2月9日に判決公判が開かれ、広島地裁(戸倉三郎裁判長)は検察側(広島地検)の求刑通り被告人Hに死刑判決を言い渡した。

死刑判決を言い渡す際は判決主文を後回しにして判決理由から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は異例の冒頭主文宣告を行った。広島地裁は主文言い渡し後に朗読した判決理由にて以下のように厳しく各情状を指摘した上で、量刑については「被告人Hは反省の情を示しているが刑事責任は極めて重い。死刑が人の命を奪う究極の刑罰であることを十二分に考慮しても、もはや極刑で臨むしかない」と結論付けた。

被告人Hは控訴期限の2000年2月24日0時までに広島高裁に控訴する手続きを取らなかったためそのまま死刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2006年12月25日に法務大臣長勢甚遠の発した死刑執行命令により収監先・広島拘置所で死刑囚H(44歳没)の死刑が執行された。

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工事中

 

※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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◆ドキュメント
作成日付:2023/12/10
更新日付:2024/05/20
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.12.10改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート6))

<目次>






名古屋立てこもり放火事件(別府昇元)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)9月16日に愛知県名古屋市東区東大曽根町本通(町名は事件当時)で発生し3人が死亡・41人が負傷した殺人・現住建造物等放火・強盗・人質強要・銃刀法違反などの事件。

2003年9月16日午前10時ごろ、運送会社「軽急便」の賃金不払いに抗議した社員 別府昇元(当時52歳)が愛知県名古屋市東区東大曽根町本通(2004年の町名変更により、同区矢田一丁目)の大曽根駅前に位置する「第一生命大曽根駅前ビル」4階にある軽急便名古屋支店名古屋営業事務所センター(当時女性社員22人・支店長と男性社員8人の31人在室)に出刃包丁・ポリ容器を持って侵入した。男は男性社員と揉み合いになり軽傷を負わせた後、女性社員22人と負傷した男性社員1人を解放した一方で店内にガソリンを撒き、支店長 吉川邦男さん(当時41歳)以下男性社員8人を人質に取って支店内に立てこもった。

その上で男は支店長以外の社員7人を解放した一方で13時ごろまでに残るポリタンクを倒して中身を撒き散らし、支店長に命じて軽急便本社(名古屋市中区錦)に電話をかけさせ「7月から9月分までの現金25万円を指定した銀行口座に振り込め」と電話させ、12時10分ごろに要求金額通りの現金を振り込ませた。

事件発生を受けて愛知県警察は加害者の説得に当たった一方、警察庁では事件発生の第一報が入った直後から応援部隊を派遣する準備を始め、大阪府警察の刑事部捜査第一課特殊犯捜査係(MAAT)に出動を準備するよう指示し、県警特殊部隊(SAT)に待機命令を出した。だが、現場の室内には揮発したガソリンが充満していたため、加害者の制圧に銃器や閃光弾を使用することができない状況であった。

警察はさらに加害者の説得を続けたが、最終的に加害者は支店長を残し人質7人を解放した直後の13時10分ごろにライターでガソリンに火をつけ自決した。この際に発生した爆発で加害者と人質の支店長が死亡し、加害者を制圧・逮捕するため現場階段付近にて待機していた県警の機動捜査隊隊員 村瀬達哉さん(当時31歳、巡査長)が一酸化炭素中毒で殉職したほか、ビル3階にいた警察官3名が熱風などで重傷を負い、ビルの外では爆発によって飛散したガラス片などで警察官・消防隊員・報道陣・通行人ら38名が軽傷を負った。

加害者・支店長の死因はいずれも焼死で、2人はそれぞれ出入り口から入った場所・事務所南東近くにて仰向けで倒れていた。
名古屋立てこもり放火事件(放火現場)
名古屋立てこもり放火事件(別府昇元)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 県警(捜査一課および東署)は2004年1月15日、殺人・現住建造物等放火・強盗・人質強要・銃刀法違反などの容疑で死亡した被疑者の男を名古屋地方検察庁へ被疑者死亡のまま書類送検した。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺害事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年(平成9年)5月4日に奈良県添上郡月ヶ瀬村(現:奈良市月ヶ瀬嵩)で発生した殺人事件。

1997年(平成9年)5月4日、奈良県添上郡月ヶ瀬村の中学2年生 浦久保充代さん(当時13歳)の女子生徒Aが卓球大会の帰りに行方不明となった。

村人、警察が通学路を捜索していると、浦久さんのスニーカーが発見され、道路にはタイヤ痕、ガードレールには血痕が付着していた。近くの西部浄化センターの公衆トイレでは切り裂かれた浦久さんのジャージと、血だらけのダウンベストが発見された。

警察は浦久がひき逃げや事件に巻き込まれた可能性があるとして捜索を開始した。警察が聞き込み調査をしたところ、無職の丘崎誠人(当時25歳)が浮上した。丘崎は四輪駆動車三菱・ストラーダを乗り回しており、警察やマスコミは丘崎をマークし始めた。

7月25日、奈良県警は浦久さんに対する略取誘拐の容疑で丘崎を逮捕した。丘崎は当初容疑を否定していたが、犯行後に売却した丘崎の車の後部座席に被害者の血液、DNAなどが発見された事や、切り裂かれたジャージからは丘崎の車のタイヤ痕が発見され、それらを追及すると犯行を認めた。

丘崎は動機について、偶然見かけた浦久さんに”家に送ってあげる”と声をかけたが無視されたのがきっかけだった。加えて、村八分のストレスが原因で被害者を山中で首を絞めて石で撲殺したと供述した。

遺体を三重県御斉峠付近で捨てたと供述し、その供述をもとに、警察が付近を捜索したところ白骨化した遺体が発見された。

丘崎の両親は共に日本人と朝鮮人のハーフでした。

丘崎とその家族は、月ヶ瀬村で30年以上生活していたが、村八分にされていた。ずっとよそ者として扱われ、差別や嫌がらせを近所・集落の人から受けてきた。

月ヶ瀬村は自然に囲まれた小さな村で人の出入りがほとんどない状態でした。ただでさえ外部の者の出入りに敏感に反応する社会でしたが、そこに外国の血の入った人間が引っ越してきたのです。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺害事件(丘崎誠人)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2000年6月14日、大阪高等裁判所は無期懲役の判決を下しこれが確定したが、丘崎は服役中の2001年9月4日に収監先の大分刑務所でランニングシャツを紐状にして窓枠にかけて首を吊って自殺している。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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奈良自宅放火母子3人殺人事件(少年)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2006年(平成18年)6月20日の朝の5時頃、奈良県田原本町で少年(16歳)が自宅に放火して自宅を全焼させ、継母と異母弟妹を焼死させた事件である。

少年は、父(47歳)と、父の再婚相手である少年にとっての継母(38歳)、父と継母との間に生まれた異母弟(7歳)妹(5歳)の一家5人で生活していた自宅に放火し、継母と異母弟妹が焼死した。父は仕事の都合で自宅に不在だった。 少年は全焼した住宅に住んでいたが、焼け跡からは少年は発見されなかった。少年は放火後に自宅を脱出し行方がわからず電話連絡も通じない状況だったが、6月22日に京都市内で警察官に発見され、放火を認めたので逮捕された。

少年の父は、妻(少年の実母)に対する身体的または精神的なドメスティックバイオレンス、少年に対する身体的または精神的な児童虐待の常習者だった。少年の実母は、夫(少年の父)からの暴力に心身ともに耐えられなくなり、少年の実妹(当時3歳)を連れて別居し、少年が小学校1年の時に離婚が成立し、少年の親権と養育権は父、少年の実妹の親権と養育権は少年の実母が得た。実父母の離婚後は、実父の考えにより、少年は実母と実妹とは交流も連絡も遮断され、一度も会っていない。

少年の父は少年の実母と離婚後、同じ職場で働いていた医師と再婚した。少年は継母や異母弟妹とは円満な関係だった。少年は父との関係については、父の期待に応えて医師になろうとする気持ちと、父から医師になることを強要され、学校の試験の成績が父の要求よりも低いと身体的・精神的な虐待を受けることに苦痛や恐怖や屈辱を感じる気持ちの、両方の感情を抱いていたが、成長するにつれて苦痛や恐怖や屈辱を感じる気持ちが大きくなっていった。そして、ついには父が仕事で不在であることは分かっていながら、この苦痛や恐怖や屈辱にはもう耐えられない、自分の生活環境をすべて破壊してこの状況から脱出したいという感情により、自宅に放火した。
奈良自宅放火母子3人殺人事件(少年)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年(平成18年)10月26日、奈良家庭裁判所は、少年の精神鑑定により先天性の発達障害と異なる虐待による後天性の広汎性発達障害と診断されたこと、および、少年の生育環境や生活状況から、この事件の根本的原因は少年の父の考え方や言動が少年を精神的に追い詰めて、その状況に精神的に耐えられなくなった少年がその状況から脱出しようとして放火したものと認定し、少年の更生には刑事処分よりも保護処分が適切と判断し、少年を中等少年院に送致する処分を決定した。

❖出所予定(年齢)
 2009年10月頃、19歳(中等少年院で最も長い3年と仮定)

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習志野市茜浜女性殺害事件(楊暁春)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2013年(平成25年)6月23日夜に千葉県習志野市の遊歩道脇で発生した殺人事件。

2013年6月24日午前10時40分ごろ、千葉県道千葉船橋海浜線遊歩道脇の緑地帯内において、谷津在住で人材派遣会社社員の広畠かをりさん(当時47歳)が倒れているのを清掃員が発見し110番通報した。

広畠さんの首には圧迫された痕があり、激しく争った形跡もあることから千葉県警習志野警察署は殺人事件と断定、同署に捜査本部を設置した。

事件発生から3年近くが経過した2016年3月3日、捜査本部は別の窃盗事件で府中刑務所に服役していた中国籍の楊暁春(当時50歳)が本事件に関与した可能性が高まったとして、男の出所当日に殺人容疑で逮捕した。

県警によると周辺の防犯カメラの画像の解析や遺留物の分析などを続けてきた結果、楊が浮上。また、広畠さんの体に付着していた微量のDNA型が楊のDNAと一致したため、逮捕に踏み切った。楊は事件当時現場近隣に住んでいたが、事件後に転居していた。楊と被害者の女性との間に面識は無かった。前述の通り財布から現金が盗まれていたため、捜査本部は強盗の容疑でも男を追及している。事件解決までには延べ5万6千人の捜査員が投入されていた。
習志野市茜浜女性殺害事件(楊暁春)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2014年3月24日、楊を処分保留で釈放するとともに、在留資格が切れているとして身柄を東京入国管理局に引き渡した(中国に退去強制)。千葉地検は処分保留とした理由について「起訴に至るまでの証拠が集まらなかった」としており、6月には嫌疑不十分で不起訴処分となった。

❖出所予定(年齢)
 不起訴(無罪放免)

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奈良小1女児殺害事件(小林薫)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)11月17日に日本の奈良県で発生したわいせつ目的の誘拐殺人事件。

犯人の小林薫(事件当時35歳)には本事件前にも、女児への強制わいせつ致傷事件などを起こして懲役刑に処された前科があった。2004年11月17日、小林は奈良市内で帰宅途中の女児A(事件当時7歳:市立富雄北小学校1年生)を強姦目的で誘拐し、生駒郡三郷町の自宅マンションで殺害した。その後、小林はAの遺体から歯をえぐり、遺体を生駒郡平群町内に遺棄したほか、女児の携帯電話を使って女児の両親に対し「次は(女児の)妹だ」などと脅迫メールを送信した。

奈良県警捜査本部(奈良西署)は、被害者女児の携帯電話から発信された複数回のメール・電話などの記録を解析した。その結果、すべて河合町周辺の基地局経由での発信であることを把握し同町周辺を重点捜査していた。また「犯人は奈良県西部の土地勘のある人物」として聞き込み捜査などを行った結果、「犯行に使用された乗用車は加害者が借りていた緑色のトヨタ・カローラIIである」「加害者は犯行当日、週1回の休日(水曜日)で事件当時のアリバイがない点」「小林が飲食店で被害者女児の写った携帯電話の画像を客らに見せるなどしていた点」などが判明した。

そのため、12月30日の、捜査本部は被疑者小林を西和警察署に任意同行して事情聴取を行った。また、小林宅を家宅捜索したところ、被害者女児のランドセル・携帯電話などが見つかり、同日中に小林を誘拐容疑で逮捕した。取り調べに対し、小林は殺害・死体遺棄などについて容疑を認め、Aの母親へ遺体写真を送信した理由について「結果を知らせてやりたかった」と供述した。

2005年(平成17年)1月19日には殺人・死体遺棄の容疑で再逮捕されたほか、奈良地方検察庁により同日付でわいせつ目的誘拐の罪により起訴された。
奈良小1女児殺害事件(小林薫)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年6月5日、奈良地裁(奥田哲也裁判長)にて論告求刑公判が開かれ、検察官は被告人小林に死刑を求刑した。同日の公判中、小林はあくびをして傍聴人を驚かせた。

2006年9月26日、判決公判が開かれた。奈良地裁(奥田哲也裁判長)は奈良地検の求刑通り被告人小林に死刑判決を言い渡した。判決宣告前、小林はガッツポーズや、ほくそ笑む態度をとった。

弁護人は判決を不服として大阪高等裁判所に即日控訴したが、2006年10月10日正午過ぎ、小林(奈良少年刑務所在監)が自ら控訴を取り下げ、控訴期限の切れる2006年10月11日0時をもって死刑が確定した。

2013年(平成25年)2月21日、法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令を受け、収監先である大阪拘置所にて死刑が執行された(44歳没)。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2013年(平成25年)2月21日、大阪拘置所で死刑執行(当時44歳没))

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成田ミイラ化遺体事件(高橋弘二)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1999年(平成11年)11月11日、千葉県成田市のホテルで発生した殺人・保護責任者遺棄致死事件。

自己啓発セミナー団体であるライフスペースの高橋弘二(年齢不詳)は、頭部を手で軽く叩く「シャクティパット」と呼ぶ方法で病気を癒すことができると喧伝していた。これを信じた男が、高齢の家族を病院から連れ出し、成田市のホテルで高橋によるこの治療法を試みた。この家族はそのまま死亡したが、高橋はこの家族はまだ生きていると主張し、男をはじめとした周囲もこれを信じた。

1999年11月11日、ホテルから「4ヶ月以上も宿泊している不審な客がいる」と通報を受けた成田警察署署員が、ホテルの部屋を捜索してミイラ化した遺体を発見した。

事件の異常さや、高橋が記者会見で「定説」として「(被害者は)司法解剖されるまで生きていた」などと主張したことから、ワイドショーなどで大きく報道された。
成田ミイラ化遺体事件(高橋弘二)
成田ミイラ化遺体事件(ミイラ)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判でライフスペース側は無罪を主張して争ったが、高橋は2001年9月28日に懲役2年6月・執行猶予3年の判決。高橋は、裁判でも「定説」を訴えて争ったが、1審で懲役15年、2審では不作為犯と認定され懲役7年の判決を受けた。高橋は上告したが、最高裁判所は2005年7月4日に上告を棄却し、懲役7年の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2012年7月頃、年齢不詳(懲役7年)

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南幌町家族殺害事件(女子高生)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年10月1日に北海道空知郡南幌町で発生した、女子高生が母親と祖母を殺害した事件。

2014年10月1日深夜1時、地元の薬局に勤める長女(当時23歳)が帰宅した際に、1階の寝室で佐竹和美さん(母親、当時47歳)が、2階の寝室で佐竹須三代さん(母方の祖母、当時71歳)が寝間着姿のまま死亡しているのを発見した。和美さん(母親)は喉仏から頸動脈まで切り裂かれ、須三代さん(祖母)は頭と胸を中心に7か所刺され、二人とも失血性ショック死だった。警察の事情聴取に対し、三女(当時17歳)は「寝ていたのでわからない」と答えたが、のちに犯行を認めた。凶器は台所の包丁で、軍手や衣類とともに、自宅から5km離れた公園内の小川で発見された。この証拠隠滅には姉も関わっていた。

取り調べに対し、少女は犯行の動機を「しつけが厳しく、逃れたくて殺した」としている。

報道されている虐待の目撃談は以下のとおり。

・頻繁に雪かきや草むしりをさせられていた。
・祖母の飼っている犬の散歩をするため、毎日夕方5時までに帰るよう命じられており、学校から走って帰っていた。
・冬に車庫の前に立たされていた。
・少女だけ表玄関の使用を禁じられ、勝手口を使っていた。
・生垣の手入れを全部させられていた。祖母は窓から杖で指示していた。
・小学生時代、ランドセルを買ってもらえず、風呂敷で通っていた。
・少女だけ、二段ベッドの置かれた離れで寝起きしていた。
・裸で屋外にほうり出され、祖母から頭から水をかけられては笑われていた。
・少女はこれに加え裁判で「生ごみを食べさせられていた」と証言している。

同級生の親らが減刑のための署名(嘆願書)を1万以上集め、同年11月に札幌地方検察庁に提出した。
南幌町家族殺害事件(佐竹須三代さん(母方の祖母)、佐竹和美さん(母親))
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2015年1月、三女は札幌家庭裁判所で責任能力を認めた上で被害者による虐待が動機に影響しているとされて、医療少年院送致とする保護処分を決定した。

 2016年2月に長女への懲役3年執行猶予5年の判決が下り、検察、被告人とも控訴せず判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 長女(当時23歳)・・・2021年2月頃、27歳、執行猶予完了
 三女(当時17歳)・・・2016年2月頃、18歳、すでに退院(医療少年院は12ヶ月が標準期間)

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新潟小2女児殺害事件(小林遼) 
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年(平成30年)5月7日に新潟県新潟市西区にて小学2年生の女児が殺害され、線路に遺棄された事件である。

会社員の小林遼(はるか、当時23歳)は仕事帰りに乗っていた軽自動車で、新潟市立小針小学校2年生の大桃珠生さん(当時7歳)に意図的に衝突させ、転倒した女児Aを軽自動車の後部座席に乗せた。

小林は電気工事士として働いており、周囲の人らからによると「優しくて明るい子」という評判で、学生時代からアニメ好きの友人らと交流する「オタク」として知られていた。反面、ネットで知り合った未成年者と性交に及ぶなど小児性愛の気質もあった。

大桃さんは「頭が痛い、お母さんに連絡したい」と泣いたが、小林は首を絞めて気絶させた。その後、海岸沿いの広場に大桃さんを連れて行った小林は、大桃さんに対して下半身を触れるなどわいせつな行為を行ったが、大桃さんが意識を取り戻したため5分に渡り首を絞め、大桃さんを殺害した。

大桃さんの死体を自宅に持ち帰った小林は、大桃さんの死体への性的暴行を行った後、東日本旅客鉄道越後線小針~青山駅間の線路内にAの遺体を遺棄。22時30分頃に走行した普通電車にその遺体を轢過させ、頸部を切断させた。遺体発見現場は、小針駅から北東方向に約500mほどの地点にある住宅街を通る線路上で乗客約170人に怪我はなかったが、この事故で上下線計7本が運休・遅延し、約1400人に影響が出た。
新潟小2女児殺害事件(小林遼)
新潟小2女児殺害事件(小林遼の倒錯スナップ)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2022年3月17日に開かれた判決公判で、東京高裁(大善文男裁判長)は、一審の無期懲役の判決を支持して検察側と弁護側双方の控訴を棄却した。

弁護側は有期刑が相当として、2022年3月22日に上告した。一方で、2022年3月31日、東京高等検察庁は「判決内容を十分に検討したが、適法な上告理由が見いだせなかった」として上告を断念することを明かした。刑事訴訟法の規定により、死刑が言い渡される可能性が消滅した。

❖出所予定(年齢)
 2052年3月頃、57歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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西鉄バスジャック事件(谷口誠一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)5月3日に発生した当時17歳の少年 谷口誠一によるバスジャック事件である。

本件は西鉄高速バス乗っ取り事件や佐賀バスジャック事件と呼ばれたが、ほかにもインターネット掲示板の2ちゃんねるに犯行予告の書き込みが残されていたことからマスコミに注目され、その書き込み時のハンドルネームからネオむぎ茶事件(ネオむぎちゃじけん)とも呼ばれた。

2000年5月3日発車後の13時35分ごろ、佐賀第二合同庁舎(佐賀県佐賀市)発西鉄天神バスセンター(福岡県福岡市中央区)行きの西日本鉄道の高速バス「わかくす号」(西鉄バス佐賀営業所所属車両、登録番号:佐賀22き258、車番8544、型式はU-RU2FTAB、1991年(平成3年)式)車内にて、九州自動車道の太宰府インターチェンジ付近、谷口誠一(当時17歳)が運転手に牛刀を突きつけて「天神には行くな、このバスを乗っ取ります」「おまえたちの行き先は天神じゃない。地獄だ」と言いながらバスを乗っ取った。

谷口誠一は乗客としてバスに乗車しており、乗客をバスの後方に移動させます。この時に、疲れて寝ていてバスジャックに気づかなかった乗客の高取千佳さん(当時34歳)を牛刀で斬りつけます。

谷口は西鉄天神バスセンターに行かずに九州自動車道をしばらく走行するように運転手を脅し、乗客に対して様々な指示を繰り返した後、最後にカーテンを閉めるように指示。その後、山口県の山陽自動車道に達するまでに乗客3人を切りつけた。

金融機関や航空機、タクシーなどと異なり、当時のバスには内部の異常事態を密かに外部に知らせる仕組みやマニュアルがなかった。

この頃、西鉄佐賀自動車営業所では西鉄天神バスセンターに到着しない当該バスに対し、所内から何度も無線で当該バスに応答を求めていたが、応答がなかった。無線は門司区辺りまでが交信可能エリアだったため、山口県に入ってしまうと無線が途切れる可能性が高かった。西鉄は15時30分ごろ、本社内に対策本部を設置して約20人が情報収集に当たったが、この時点ではまだ何も分からず、さらに乗っ取られた高速バスのわかくす号は予約制ではないため、乗客の身元の確認に時間がかかった。

バスは、九州自動車道から関門橋を通り中国自動車道に入った。この時点では山口県警察に事件は周知されており、高速道路交通警察隊がバスを追尾していた。

バスは山口ジャンクションから山陽自動車道に入り、下松市の下松サービスエリア付近では警察車両に行く手を阻まれ、減速したバスから身を乗り出した乗客1人が、警察に救出された。この頃にはマスコミ各社も事件の報道を開始しており、この男性乗客が救出される瞬間はテレビでも中継された。警察は山口県での解決を断念して封鎖を解除し、バスを広島方向へ走らせた。

バスは走り続け、本州の山口県へと繋がる関門橋の手前に差し掛かった14時30分から40分頃、平野運転手が「乗客をトイレに行かせてほしい」と提案する。これを受けて谷口誠一はバスを路肩に停めさせ、1人ずつトイレに行く事を許可し「1人でも逃げ出したらここにいる全員を殺す」と脅した。

1人目に降りたのは子犬をケージに入れ連れていた当時40歳の女性でしたが、バスから降りた途端に一目散に逃亡した。これに谷口誠一は激昂し「裏切りやがった。絶対に許さない殺してやる」などと叫んで再びバスを発進させ、「僕は約束を守ります。見せしめに1人殺します」と宣言すると、近くにいた当時50歳の山口由美子さんの首を何度も牛刀で突き刺した。

山口由美子さんが通路側に崩れるように倒れおびただしい血を流した。谷口誠一は足で山口さんを突くようにし「生きてるか?」と尋ね、山口さんは「はい」と答えた。そして谷口誠一は「連帯責任なんだから逃げれば何度でも刺す」と乗客らを改めて脅しつけた。

15時35分、本州に入り、中国自動車道に入った「わかくす号」を山口県警の警察車両が確認し追跡を開始する。この直後、当時30歳の女性客が走行中のバスの窓を開けて脱出、怪我を負ったものの警察車両によって保護された。

谷口誠一は女性が逃げ出した事にはしばらく気がつかず、その後、窓が開いている事を見つけ、近くに座っていた塚本達子さん(当時68歳)を「逃げ出そうとしているのか」と問い詰め、首のあたりを何度も牛刀で刺した。

16時15分頃、山口県警は、下松サービスエリア付近でバリケード封鎖を行いバスの停止を試みたが、犯人を刺激する事を恐れたのか封鎖はすぐに解除され、バスは再び発進する。しかしこのタイミングで、当時52歳の男性が窓から飛び降りて脱出に成功した。

再び人質の逃亡を許した谷口誠一は激昂し、倒れていた塚本達子さんをさらに刺しついに絶命させた。

バスは広島県に入り、広島市安佐南区の武田山トンネル付近で男性客全員を解放した後、東広島市の奥屋パーキングエリアに入り数時間停車した。ここで警察の説得によって谷口は差し入れを提供するという条件で負傷した人質3人を解放したが、2人が負傷し、1人は既に失血死していた。日本のバスジャック事件において人質が死亡した初めての事件となった。

膠着状態が続いた後、谷口はバスをそこから次のサービスエリア・パーキングエリアである小谷サービスエリアまで向かわせたが、ここでも長い膠着状態となった。

事件発生から15時間半後の4日午前5時すぎ、小谷サービスエリアで停車中に警察官による説得中に「手袋を路面に落とす」という突入の合図を受けた15名の隊員の突入により、Aは銃砲刀剣類所持等取締法と人質による強要行為等の処罰に関する法律違反で逮捕された。突入の際、フラッシュバンが使われた。国内の人質事件で初めて使用され、以後、立てこもり事件などの際に使用されることになった。この突入で機動隊員1名が、谷口に左足を切り付けられて負傷した。この様子はテレビで生中継された。
西鉄バスジャック事件(谷口誠一)バスジャック
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 谷口が「ネオむぎ茶」の固定ハンドルネームを用いて、犯行前にインターネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込みを行っていたことや、SATが出動したことで話題となった。

その後、谷口に対しては佐賀家庭裁判所で医療少年院への送致が決定した。2006年2月1日、谷口が同年1月中に仮退院していたと報道された。谷口は社会復帰への訓練を始めたとされる。

❖出所予定(年齢)
 2006年2月1日、23歳、すでに退院(医療少年院にて長期間の医療的処置)

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二丈町立てこもり殺人事件(川村忠)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年(平成14年)9月14日に福岡県糸島郡二丈町(現:糸島市)で発生した人質・殺人事件である。

2002年(平成14年)9月14日14時半ごろ、福岡県糸島郡二丈町吉井の防水加工業の中田安彦さん(当時37歳)宅に川村忠(当時36歳)が押し入り、中田初江さん(中田安彦さんの母、当時64歳)と中田志歩ちゃん(中田安彦さんの娘、当時9歳)を人質に取り男性宅に立てこもった。

川村は中田安彦さんの姉(当時41歳)の夫で、行方が分からなくなっている妻(事件後に離婚成立)と子供との面会を要求した。男性が同日20時ごろに帰宅した際に初江さんと志歩ちゃんに包丁を突き付けていることを知り、警察に110番通報した。初江さんは翌9月15日昼に解放されたが、志歩ちゃんは9月16日未明に睡眠中に腹部を刺され死亡した。

その後の調べで、志歩ちゃんは福岡県警察が突入に踏み切る約20分前に殺害されていたことがわかり、県警が事件後に謝罪している。

また、9月15日の23時30分ごろに川村の妻(中田安彦さんの姉)と子供に合わせると約束したが、親族との打ち合わせや詰めの説得に手間取り当初予定より約50分も遅れ、その間に刺殺したことも明らかとなった。

さらに、安彦さんは川村から事件前に川村の妻(中田安彦さんの姉)と子供を捜すように脅迫電話を受け警察に相談したものの、取り合ってもらえなかったという。

川村の妻(中田安彦さんの姉)は川村からのDVに怯えており、暴力から逃れるために川村のもとから逃げていた。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2002年5月26日の判決公判で、福岡地裁(谷敏行裁判長)は被告人が姪に対する確定的な殺意を抱いていたことなどを認定した上で、犯行動機の身勝手さ、犯行の残虐性などを考慮し、求刑通り被告人を無期懲役とする判決を言い渡した。判決後、被告人は弁護人と接見した際に判決への不満を訴えた上で、「一日も早く仮出所したい。おれが出てきたら大変なことになる」と述べ、被害者遺族や自身の親族に対するお礼参りをほのめかしたが、先述の養父から「いかなる判決でも受け入れ、亡くなった子供の供養をしていくように」という手紙を受け取ったことを明かし、控訴しない意向を表明。控訴期限の同月6月9日までに控訴せず、6月10日0時をもって無期懲役の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2032年6月頃、66歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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日系ブラジル人姉妹殺害事件(ラ・ロサ・ビテ・エドガルド・アントニー)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2015年(平成27年)12月30日の14時頃、ブラジル国籍の姉妹(マリリア・マルヤマ・キンベルリ・アケミさん(妹、当時27歳)と、ミシェリさん(姉、当時29歳)
)がペルー人のラ・ロサ・ビテ・エドガルド・アントニー(逮捕時34歳)に首を絞められて殺害された事件である。

2015年(平成27年)12月30日の14時頃、愛知県半田市の県営住宅で妹の元内縁の夫・ペルー人が姉妹の首を絞めて殺害しその後室内を放火した、殺人・放火事件である。

遺体の周辺が激しく焼け、姉妹の首には圧迫痕があり、室内には5リットルのガソリン缶が空の状態で見つかった。

県警は、半田警察署に捜査本部を設置。防犯カメラや近所の住民に聞き込みをした結果、元内縁の夫が火災直前に車で事件現場から逃走するのが確認された。

県警は、名古屋市内で運転していた内縁の夫を道路交通法で同日に逮捕。車には、殺害された妹の子ども2人が乗っていた。

2020年(令和2年)12月8日県警は、現住建造物等放火の疑いで再逮捕。同月28日には、殺人の容疑で再々逮捕された。
日系ブラジル人姉妹殺害事件(ラ・ロサ・ビテ・エドガルド・アントニー)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2021年1月18日、名古屋地方検察庁は元内縁の夫を、殺人と現住建造物等放火、死体損壊の罪で名古屋地方裁判所に起訴した。

❖出所予定(年齢)
 公判中(地裁に起訴)

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沼津OL強姦殺人事件(松井健一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)11月7日に発生した殺人事件。

2004年(平成16年)11月7日17時30分、静岡県沼津市で実家に帰省していた望月敏子さん(OL、当時25歳)が愛犬を連れて散歩に出かけた。15分後に犬だけが実家に帰り、望月さんは行方不明となった。2日後の11月9日13時頃、実家から1キロほど離れた山林で望月さんの遺体が発見された。右と左の首筋に刃物で切られたような傷があり、首を鋭利な刃物でほぼ1周切られていた。現場付近からカッターナイフの折れた刃2枚が、約200メートル離れた山林ではナイフ本体が発見された。刃には望月さんの血液が付着しており、捜査本部はこれが凶器と判断した。着衣には乱れがあった。家から300メートルほど離れた場所で、望月さんの懐中電灯が発見された。

2007年(平成19年)6月29日に有力情報の提供者に懸賞金が支払われる警察庁の捜査特別報奨金制度が適用されたが、2008年6月29日に期限が切れた。

2009年(平成21年)5月20日、犯人のDNAと一致したため、沼津市の建設作業員の松井健一(当時43歳)が逮捕された。松井は当初は容疑を否認していたが、追及を受けるうち容疑を認めた。
沼津OL強姦殺人事件(松井健一)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判員制度の対象事件であるため、2010年2月に公判が開かれ、検察側は被害者が全く落ち度もなく命を奪われたことや過去2回の性犯罪の繰り返し、再犯の可能性が高いとして無期懲役を求刑。弁護側が不遇な成育歴を理由に懲役18年が相当と主張した。2010年2月4日、静岡地裁は松井に無期懲役判決を言い渡し確定した。

❖出所予定(年齢)
 2040年2月頃、73歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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寝屋川市中1男女殺害事件(山田浩二)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2015年(平成27年)8月13日に大阪府寝屋川市に住む中学1年生の男女2人が誘拐され、それぞれ殺害されて発見された事件である。

2015年8月12日午後9時ごろ、BがAに会いに行くと母親に告げて外出。午後9時半ごろ、平田奈津美さん(当時13歳)と星野凌斗さん(当時12歳)らしき男女が2人の自宅近くのコンビニエンスストアで目撃されていた。

8月13日未明、京阪本線寝屋川市駅前のアーケードを歩く2人の姿が防犯カメラの映像として残されており、午前5時ごろに防犯カメラに映ったのを最後に2人の足取りが途絶える。午前5時11分と午前5時17分に、山田浩二(当時45歳)の軽ワゴン車(三菱・初代eKワゴン)が走行するのを近くの防犯カメラが捉えていた。

8月13日午後11時半ごろ、高槻市の物流会社駐車場で平田さんの遺体が発見された。遺体は粘着テープで縛られ、左半身を中心に30箇所以上の切り傷があった。司法解剖により死亡推定時刻は午後7時半ごろ、死因は窒息と判明。この遺体発見の直前である午後10時34分から11時10分ごろまで不審な車が停車しているのを現場近くの防犯カメラが捉えている。

同日午後0時39分、後に発見された星野さんの遺体遺棄現場から1.5 km離れたコンビニエンスストアで粘着テープ2本を購入する山田の姿が防犯カメラに残されていた。この時に購入された粘着テープは被害者の遺体に巻かれたものと酷似していた。

捜査本部は防犯カメラの映像などから、不審な車の所有者が山田であることを特定。山田は男子中高生らに対するわいせつ行為目的の監禁を行った前科があり、2014年10月に出所したばかりだった。

8月21日午前1時15分ごろ、大阪府警は大阪市北区の駐車場で山田の車を発見し追跡を開始、午前中に山田が数分間だけ立ち寄った柏原市の竹林を捜査員が捜索したところ、Bの遺体を発見し、夜になって星野さん本人と確認。午後8時20分ごろ、大阪市城東区の路上で平田さんに対する死体遺棄の容疑で山田を逮捕。
寝屋川市中1男女殺害事件(平田奈津美さんと星野凌斗さん)
寝屋川市中1男女殺害事件(山田浩二)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 山田が殺人などの罪で逮捕・起訴され、2018年12月19日に大阪地裁で死刑判決を受け控訴するも、2019年5月18日に自ら控訴を取り下げ、死刑判決は一度確定した。だがその後、弁護側が控訴取り下げの無効を訴え、大阪高裁が2019年12月17日にこれを認める、検察がこれに異議を唱える、この係争中に山田が2度目の控訴取り下げを行うなど、異例の展開を見せた。およそ2年の審理の末、最終的には2021年8月25日に山田の死刑が再び確定した。

山田は死刑が確定した直後に公表した手記で、今後再審請求することを明かしている。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(大阪拘置所収監中、死刑未執行)

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寝屋川市立中央小教職員殺傷事件(岡本悠)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年(平成17年)2月14日 15時10分頃、本校の南門からこの学校の卒業生である岡本悠(当時17歳)が侵入し、教職員の鴨崎満明(かもざき・みちあき)教諭(当時52歳)と女性2人の腹などを刺した。15時20分頃、警察官が少年を取り押さえ、殺人未遂容疑で岡本を現行犯逮捕した。鴨崎教諭は16時過ぎに死亡、女性教諭と女性栄養士は重傷を負った。事件を受け、本校は2月15日から17日の3日間を臨時休校とした。

岡本は小学校時代にいじめられた経験があり、その復讐のために来校したとのことである。しかし、殺害された男性教諭はじめ3人の教職員は、岡本が通っていた時この学校を担当していた事はなく岡本との関係はなかった。
寝屋川市立中央小教職員殺傷事件(岡本悠)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 岡本には2007年(平成19年)11月、懲役15年の実刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2022年11月頃、34歳(出所)

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八王子通り魔事件(菅野昭一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2008年(平成20年)7月22日に東京都八王子市のショッピングセンター内で発生した通り魔事件。

2008年(平成20年)7月22日午後9時40分頃、東京都八王子市の京王線京王八王子駅の駅ビルである京王八王子ショッピングセンターの9階啓文堂書店にて、会社員の菅野昭一(当時33歳)が文化包丁を用いて、中央大学文学部4年生でアルバイト店員をしていた中央大4年斉木愛(まな)さん(当時22歳)と当時21歳の女性来店客を刺した。その後、菅野はエレベーターで1階に下りて外に逃亡。斉木さんは死亡し、来店客は全治3か月の重傷を負った。事件現場には現金や身分証明書が入った財布が、エレベーターには凶器の包丁が放置されていた。

同日午後10時頃、菅野は事件現場300メートル離れたJR八王子駅北口近くの路上で、警察官に職務質問された際に自身を犯人と認め、八王子ターミナルビル1階に所在する八王子駅北口交番にて目撃者の立証が取れたため緊急逮捕された。パトカーや警察用自転車(いわゆる白チャリ)を用いて20人近くの警察官が事件現場と逮捕現場である交番前に集結し、周囲は騒然となった。

菅野は「仕事でうまくいかず、親が相談にのってくれなかったため、無差別で人を殺そうと思った」、凶器の包丁は八王子市内の100円ショップで買ったと供述した。

菅野の父親は自宅に来た報道各社の取材に応じた。また菅野はフリーターとして職を転々とし、いわゆるパラサイト・シングルであったとされる。

2008年(平成20年)8月12日に菅野は殺人罪と殺人未遂罪と銃砲刀剣類所持等取締法違反で起訴された。
八王子通り魔事件(菅野昭一)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2009年(平成21年)2月12日に初公判が行なわれた。9月10日の論告求刑公判で、検察側は無期懲役を求刑した。10月15日に東京地裁立川支部は求刑通り無期懲役の判決を下した。被告は控訴し、2010年(平成22年)4月14日に東京高裁は一審の無期懲役判決を破棄し、懲役30年を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2039年2月頃、64歳(懲役30年)

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廿日市(はつかいち)女子高生殺害事件(鹿嶋学)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)10月5日に広島県廿日市市に住む女子高生が自宅で刺殺され、その祖母が重傷を負わされた事件。

2004年10月5日午後3時ごろ、広島県廿日市市上平良の住宅にて、一家の長女(北口聡美さん(当時17歳、以下、長女))が若い男に刃物で刺された。

 ・長女は高校から帰宅後、自宅離れ2階の自室で仮眠を取っていた。
 ・長女の悲鳴と階段を駆け下りる音を聞き、長女の祖母と次女が駆けつけた。離れ玄関先で長女が刺され、大量の血があった。
 ・長女の部屋の枕元の音楽機器に接続されていたイヤホンが外れており、長女はあわててベッドを離れたと思われる。
 ・離れ1階で男は祖母にも襲いかかり、背中や腹を10か所ほど刺して逃走した。
 ・次女は裸足のまま、30m離れた近所の園芸店に助けを求めた。
 ・長女と祖母は重体に陥って病院に運ばれた。長女はまもなく出血多量で死亡、祖母はその後回復した。

事件直後、広島県警察捜査一課は廿日市警察署に捜査本部を設置して犯人の男の行方を追った。被害者を1階の玄関まで追って刺すという凶悪性の高い犯行であったが、長女は学校内でのトラブルなどもなく、犯人の動機などは不明であった。そのため、被害者である次女と祖母以外の目撃者や有力情報などもないまま、長らく未解決事件となっていた。

事件発生から14年間にわたり犯人が逮捕されず、父親はブログで事件の風化せぬよう、非常に熱心に呼びかけを続けていた。2008年3月には、犯人逮捕につながる有力情報の提供者に最高300万円の懸賞金を支払う捜査特別報奨金制度対象事件ともなったこともあり、報道や難事件を扱うテレビ番組などで未解決事件として取り上げられるようになった。

2010年には、殺人事件における公訴時効(15年)が廃止されたものの、まったく捜査の進展が見られなかった。

2018年4月13日、別の暴行事件で任意捜査対象であった山口県宇部市の35歳の会社員 鹿嶋学容疑者(事件当時21歳、逮捕当時35歳)のDNA型・指紋が、当時現場で採取されたDNA型・指紋などと一致したため、本件の殺人容疑で逮捕された。
廿日市女子高生殺害事件(鹿嶋学)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2020年3月3日、広島地方裁判所で開かれた裁判員裁判において、鹿嶋は起訴事実を認めた。

2020年3月10日に論告求刑公判が開かれ、検察官は身勝手な動機、長期間逃亡していることから再犯が懸念されることなどを挙げ、鹿嶋に無期懲役を求刑した一方、鹿嶋の弁護人は最終弁論で「殺害は突飛的な行動だった」として量刑の減軽を求め、結審した。3月18日、広島地裁(杉本正則裁判長)は検察官の求刑通り被告人を無期懲役とする判決を言い渡した。検察側・被告人(鹿嶋)側の双方とも控訴しなかったため、2020年4月2日付で無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)

 2050年4月頃、65歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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羽曳野(はびき)発砲事件(杉浦泰久)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年(平成22年)1月12日に大阪府羽曳野市で発生した銃発砲による殺人事件である。杉浦泰久(当時49歳)の男がライフル銃を発砲し、犯人を含め4人が死亡した。

事件当日、羽曳野市河原城にある居酒屋にて離婚について容疑者と元羽曳野市議の田中美子さん(当時66歳、義母)と話し合いをしていたが、激高して店を出た後に猟銃を持ち戻って発砲した。義母とアルバイト店員の福井達也さん(当時23歳)が死亡し、居酒屋の大家である上原浩人さん(当時49歳)は重体となっていたがその後死亡した。犯人は直後に自殺した。

当時、犯人は妻に暴力をふるうなどの問題を起こし離婚調停中で、娘の親権をめぐってトラブルになっていた。また、犯人は猟銃(ライフル銃)と散弾銃合わせて5丁所有していた。2008年11月の銃刀法改正で、配偶者等暴力をした者の猟銃の所持を認めないことになっていたが、2009年6月に銃の所持許可を更新した際に大阪府警の調査において妻らは「問題はない」と回答したとしている。
羽曳野(はびき)発砲事件(杉浦泰久)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被疑者死亡で大阪地検堺支部に書類送検した。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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浜名湖連続殺人事件(川崎竜弥)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2016年(平成28年)に静岡県の浜名湖周辺で2人の遺体が発見された事件。

2016年(平成28年)1月25日 - 浜松市北区の宅地建物取引士 川崎竜弥(当時34歳)、元同僚 須藤敦司さん(当時62歳)の自宅マンションaのポストから鍵を持ち出し不正に合鍵を作る。

28日 - 23時24分、マンションの防犯カメラに須藤さんが自動車で帰宅する姿が映っていた。これ以降、須藤さんが出入りする姿は映っていない。また、須藤さんは2月以降それまで毎日のように通っていたスーパーに姿を現さなくなり、2月3日に予約をしていた歯医者を受診せず、2月16日に畳店従業員が須藤さんの部屋に畳を搬入したが須藤さんの姿はなかった。

29日 - 午前2時から2時30分ごろにかけて 、マンションの防犯カメラの映像で川崎の姿が確認されている。

30日 - 午前3時半ごろ 、川崎がマンションから白いカバーで覆った段ボール様の物を台車で搬出するのが防犯カメラの映像に映っていた(7月14日の家宅捜索で川崎の実家から須藤さんのDNA型と矛盾しないと判断された血痕が付着した台車が発見された)。同日午前10時ごろ 、川崎はaの畳の新調を業者に依頼。その際古い畳は川崎が自分で処分すると申し出た。

31日 - マンションから血痕のようなものが付着した畳を川崎が搬出するのがマンションの防犯カメラに映っていた。

4月21日 - 川崎は「先生」と呼ぶ知人と会い、マンション売買の契約日の時点で須藤さんはすでに死んでおり、「バラバラにして捨てた」ため、「死体が出てこないから」「殺人では警察は持って行けない」と言い、また須藤さんの死体を焼いたことを話す。

6月ごろまで - 川崎は覚醒剤所持事件で京都刑務所に服役中に知り合った出町優人さん(当時32歳男性)と手紙で、出町さんの出所後はLINEで継続的にやりとりをしていた。川崎は再三、出町さんに浜松に来るよう要求し、川崎が出町さんの服役中に預かっていた出町さんの荷物を「7月3日に静岡にいなければ処分する」と圧力をかけていた。

7月8日 - 浜名湖で「右脚を発見した」という警察への通報があり、その後の捜索で約3キロの範囲で左脚、頭部、胴体が相次いで発見され、DNA鑑定の結果この人物が出町さんであることが判明した。出町さんの死因は右側腹部刺切損傷による肝臓損傷及び血気胸であるとされた。

14日 - 須藤さんのキャッシュカードで20万円を引き出した窃盗容疑とAの口座から454万円を不正に別口座に移した詐欺容疑で川崎は逮捕された。同日、川崎の実家の家宅捜索で印鑑、財布、キャッシュカード、保険証などの出町さんの所持品が発見され、出町さんの携帯電話が川崎の車から発見された。また、この日実家で差し押さえられた車から出町さんのDNA型と一致する血痕が発見された。

8月20日 - 川崎の隣の房に留置されていた者が、川崎の逮捕から1週間が経ったころに川崎に話しかけた際に川崎から聞いた話として、「おじさんを殺したあと若い子を殺した」と話していたことを警察官に伝え、供述調書をとられた。「おじさん」は「マンションを取るために殺した」、死体は2人とも「浜名湖周辺の同じところに捨てた」と聞いたとDは供述。また、「若い子を殺した」話については、「先生」の家に泥棒に入ったので許せなくて殺した、「施設育ちのポン中だったから殺されても警察はいちいち相手にしない」、「急ぎ仕事だったからちょっといろいろあった」、死体は浜名湖に捨てたが大雨が降ったので思った以上に流れている、海水に何週間も浸かっているのでもうDNAは出ないと話していたと供述した。

31日 - 浜名湖で須藤さんの骨の一部などが発見された。

9月22日 - 静岡県警細江署の捜査本部は7月8日に発見された出町さんの死体損壊と死体遺棄容疑で川崎を再逮捕した。

12月8日 - 須藤さんへの強盗殺人・死体遺棄などの容疑でKは再逮捕された。
浜名湖連続殺人事件(川崎竜弥)
浜名湖連続殺人事件(相関関係図)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2021年2月13日、同月15日に最高裁判決を控える中、川崎は東京拘置所所長に上告を取り下げる書面を提出、川崎の死刑が確定した。川崎は15日に面会に訪れた弁護士に「刑が執行されることに納得した」と話したという。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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浜松市老女絞殺事件(松島重男)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2008年(平成20年)4月に浜松市中区で発生した殺人事件。

2008年(平成20年)4月30日、一人暮らしの今田かね子さん(当時83歳)が殺されているのを女性ホームヘルパー(当時39歳)が発見した。今田さんは家電コードで絞殺された後があった。

現場から「キャビンマイルド」の吸い殻数本が見つかっている。今田さんは喫煙の習慣がなかったため犯人が残したものとみている。

2009年(平成21年)8月9日、容疑者として浮上した印刷業の松島重男(当時79歳)を逮捕した。今田さん宅にあった吸い殻と首に巻き付いていた家電コードのDNAが一致したことが決め手となった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2010年(平成22年)10月29日、静岡地方裁判所浜松支部は松島に対し、懲役13年(求刑・懲役18年)の判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2023年10月頃、92歳(出所)

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浜松幼児変死事件(河合利彦)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年に静岡県浜松市で起きた殺人事件である。

1991年8月23日にAが「五歳の次男Bが布団の中でうつ伏せになって死んでいる」と119番があったことから発覚した。死亡原因が溺死と分かると、家の中で溺死するのは風呂の中以外は考えられない、布団の中で死んでいるのはおかしいとして警察は殺人事件として捜査。

密室での殺人事件として当時家の中にいた子供(長男)を除く、AとAの交際相手の男 河合利彦(当時32歳)を事情聴取。河合は事件とは無関係と容疑を否認。しかし、Aが「私は殺していない。殺したのは河合ではないか。」という趣旨の供述をした。

この供述により、警察は本人否認のまま8月24日に河合を殺人容疑で逮捕。9月1日に一旦「Bを殺したのは私です。Aは関係ありません。」と自白した。しかし、その後再び否認。自白と否認を繰り返す中、検察は本人否認のまま起訴した。
浜松幼児変死事件(河合利彦)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 検察は裁判の冒頭供述で殺害の動機を「子供の存在がAとの結婚の邪魔になった」とした。また、次男Bに対して被告が様々な嫌がらせをしたと主張。これに対して弁護側は被告がBを可愛がっていなかったとは言えず、また、Aの供述の矛盾を主張した。ほとんど物的証拠がなく、争点はAと河合のどちらの供述の信用性があるかだった。1995年6月30日、 静岡地裁浜松支部(岩垂正起裁判長)は懲役10年の有罪判決を下した。判決では鑑定書の死亡時刻8月22日午後9時20分から翌日午前3時20分となっており、Aの供述の方が信用性が高いとした。

その後、被告は控訴。1996年1月19日の東京高裁で岡田良雄裁判長は「Aが犯行に少なからず関わっていた可能性がある」として1審判決より減刑して懲役7年とした。その後、最高裁に上告したが1998年4月10日、藤井正雄裁判長は上告を棄却した。

検察が証拠として提出していなかった録音テープに、「Aの殺害をした」と自白していると思われる供述があることが裁判後に判明している。

弁護側は、死亡推定時刻に関する新鑑定書を裁判に提出し、再審請求を行ったが、2008年1月に東京高裁によって再審請求は棄却されている。

河合利彦(当時45歳)は2005年3月に刑期満了で出所している。現在、実名を公表して再審請求中。

❖出所予定(年齢)
 再審請求中(2005年3月頃、45歳(出所))

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比叡山女子大生殺人事件(大田正雄)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1989年(平成元年)8月31日、京都を一人旅していた早稲田大学第二文学部5年の女子大生 山敷工女さん(事件当時25歳)が、京都市左京区八瀬秋元町の比叡山中で、現場近くの杉林でテント生活を送っていた大田正雄(犯行当時48歳)に強姦され、殺害、金品を強奪された事件である。

1989年8月31日、山敷さんは京都の宿をチェックアウトし、バス、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継いで、比叡山延暦寺を訪れた。根本中堂などを見学後、東海自然歩道を歩いて横川へ向かった。東海自然歩道は週末でも30人程度、平日は1日に10人ほどしか利用しない往来の少ない道であった。

所持金が少なくなっていた大田は、金をたかるか奪う標的となる観光客を物色していた。昼下がりに、根本中堂から横川方面への東海自然歩道を歩いていた山敷さんと出会う。大田はしばらく山敷さんと並んで歩き、地元住人を装って油断させ、旅の目的や予定を聞き出したうえで、横川駐車場でいったん別れている。犯人は1人で自然歩道の十字路に戻り、ビールを飲みながら山敷さんが戻ってくるのを待った。山敷さんは横川中堂や秘宝館を見学。午後2時過ぎ、職員が目撃したのを最後に山敷さんは消息を絶った。予約した名古屋の宿にも山敷さんは現れなかった。

山敷さんは東海自然歩道を歩いて帰る途中、大田と再会する。大田は観光客がよくこの十字路を通過することを熟知しており、山敷さんが戻ってくるのを待ち伏せしていた。すでに叡山ロープウェイやケーブル比叡駅がある比叡山頂行きの最終バスの時間は過ぎており、今後の行程の時間を気にした山敷さんに対して、大田は近道を案内するふりをして「けもの道」に山敷さんを誘い入れた。

東海自然歩道から300メートルほど入ったところで、山敷さんを先に歩かせ、大田がその背後に回る。突然、首を後ろから右腕で締め付けて山敷さんを気絶させると、衣服をはぎ取って強姦に及んだ。さらに山敷さんのリュックサックの口ヒモと自分(大田)が持っていた包帯を使って絞殺した。殺害後、大田は現金10万円やカメラなどを強奪して逃走した。

9月11日、近畿管区警察局は京都・滋賀両府県にまたがる特異な事件として「管内指定4号事件」に指定。計103人の合同本部体制を組んだ。犯行現場が土地勘がある者しか知らない「けもの道」の奥であることより、捜査本部は現場の地理に詳しい人間の犯行を疑い、早い段階より殺害現場の南1kmの杉林でテント生活をしていた大田が容疑者として浮上した。

9月12日、大田は大津警察署の顔見知りの署員に「比叡山の山中でウエストバッグをもらった」と電話し、自ら山敷さんのウエストバックを持って大津署に出頭した。捜査に協力するふりをして、捜査網から逃れようとしたと見られる。しかし、事情聴取で供述は二転三転する。嘘発見器でもクロと判定されるなど供述に不審な点が多く署員が追及したところ、9月13日に強姦目的での女性殺害を自供。殺人の疑いで逮捕された。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1989年10月4日、大田は京都地方検察庁から強盗殺人罪で起訴された。1990年3月6日に検察は無期懲役を求刑。大田は初公判では起訴事実をほぼ認めたものの、その後は「飲酒が犯行を誘った」「女性が勝手についてきた」「電話は遺体の早期発見を願ってのこと」「警察への出頭は自首にあたる」などと主張。しかし、1990年3月30日、一審の京都地方裁判所はこれらの主張を退け、「動機に同情の余地はなく、学業半ばで亡くなった山敷さんの無念さは想像に余りあり、社会へ与えた影響も大きい」として、求刑どおり無期懲役を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2019年10月頃、78歳(出所(無期懲役で仮釈放30年と仮定))

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日置市5人殺害事件(岩倉知広)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年(平成30年)4月6日に鹿児島県日置市東市来町湯田で発覚した親族間の殺人事件。

岩倉知広(事件当時38歳・無職)は事件当時、父親 岩倉正知さん(当時68歳、以下、正和さん(父))と祖母 岩倉久子さん(当時89歳、以下、久子さん(祖母))が暮らしていた実家(事件現場)から徒歩約10分の場所に位置するアパートに住んでいた。

岩倉知広は2018年(平成30年)3月31日、事件現場となる実家へテレビを見に行ったところ、久子さん(祖母)に小言を言われたことに激怒してトラブルになった。岩倉知広は同日 - 4月1日ごろ、正和さん(父)と久子さん(祖母)の2人をそれぞれ左腕で首を絞めるなどして窒息死させ、死体を近くの山中(現場となった実家から400 m離れた山林)の空き地に埋めて遺棄した。

同年4月6日には岩倉知広の伯父(被害者である正和さん(父)の兄)が正和さん(父)の職場から「正和さん(父)が出勤してこない」と連絡を受け、12時30分ごろに正和さん(父)と久子さん(祖母)の安否確認を妻 岩倉孝子さん(加害者 岩倉知広の伯母・当時69歳、以下、孝子さん(叔父の妻))に依頼した。

孝子さん(叔父の妻)は姉 坂口訓子さん(当時72歳、以下、叔父の妻の姉)と共に現場に赴いたが、13時30分 - 15時9分ごろに岩倉知広によって絞殺された。

その後、伯父は孝子さん(叔父の妻)・訓子さん(叔父の妻の姉)と連絡が取れなくなったことから、知人男性 後藤広幸さん(当時47歳/岩倉知広と同じアパートの住人、以下、後藤広幸さん(知人))に安否確認を依頼し、日置警察署(鹿児島県警察)にも通報した。後藤広幸さん(知人)は15時9分ごろに日置署に電話し、警察官が到着するまで待機するよう指示されていたが、同時刻ごろ - 15時27分ごろに岩倉知広により絞殺された。

日置署員が最後に殺害された後藤広幸さん(知人)からの連絡を受け、正和さん(父)宅を捜索したところ、15時45分ごろに孝子さん(叔父の妻)・訓子さん(叔父の妻の姉)・Eの3被害者の死体を発見。18時55分ごろに現場から約1.5 km離れた市道で捜査員が岩倉知広を発見して鹿児島西警察署へ任意同行し、翌4月7日に被害者Eへの殺人容疑で岩倉知広を逮捕した。
日置市5人殺害事件(岩倉知広)
日置市5人殺害事件(相関関係図)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2020年12月11日の判決公判で、鹿児島地裁(岩田光正裁判長)は岩倉知広が完全責任能力を有していたと認め、鹿児島地検の求刑通り岩倉知広に死刑判決を言い渡した。

岩倉知広は判決主文宣告後、検察官に飛びかかろうとして刑務官に取り押さえられた。弁護側は同日中に福岡高等裁判所宮崎支部へ控訴した。

控訴審を控え、岩倉知広の弁護人は2021年7月に独自の精神鑑定を行う予定と報じられたが、事件から5年、第一審判決から2年以上が経過した2023年(令和5年)4月時点でも控訴審の日程は未定のままである。

❖出所予定(年齢)
 再審請求中

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東大阪集団暴行殺人事件(小林竜司ら8人(少年2人除く))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)

❖加害者と被害者
●加害者

・小林竜司(当時21歳) 実行犯・無職
・広畑智規(当時22歳) 首謀犯・大阪府立大学3年生
・岡田浩次(当時32歳) 従犯・小林の知人、暴力団関係者
・徳満優多(当時21歳) 発端者・東大阪大学短大卒、アルバイト従業員
・佐藤勇樹(当時21歳) 従犯・東大阪大学3年生
・白銀資大(当時22歳) 従犯・大阪商業大4年生
・佐山大志(当時21歳) 従犯・東大阪大学短大卒無職
・後輩の少年(当時16歳)従犯・小林の知人

●被害者
・藤本翔士(当時21歳) 発端者・生き埋めで死亡・東大阪大学4年生
・岩上哲也(当時21歳) 巻き添え・生き埋めで死亡・東大阪大学短大卒、無職

 2006年6月15日、藤本翔士さん(当時21歳、被害者)と徳満優多(当時21歳、加害者)が東大阪大学1年生の女性をめぐる喧嘩に発展する。その喧嘩の原因は被害者の交際していた女性に3度ほど、メールを送ったというものであった。翌16日、被害者の彼女の東大阪短期大学1年の女子にメールを送ったということで、東大阪市内の公園で徳満優多と佐藤勇樹(当時21歳)の2人が暴行を受ける。

2006年6月16日夜から17日午前5時まで、後に加害者となる徳満優多と佐藤勇樹はファミリーレストランで暴力団の名前などで脅迫され、6月19日までに現金50万円を支払うことを約束させられる。

6月17日夕方、佐藤勇樹が小中時代の同級生だった実行役リーダー 小林竜司(当時21歳)に電話で相談し、泣きながら「10万円貸してくれ。渡さないとヤクザに埋められる」と述べる。居酒屋にいた小林竜司はのちに事件の発案者となる別の同級生 広畑智規(当時22歳)に電話をさせ、広畑智規は「被害届を出せ」と答える。佐藤勇樹はその日のうちに東大阪市の布施警察署に被害届を出す(この被害届は事件後、小林竜司及び発案者 広畑智規の指示で取り下げられた)。

また小林竜司は小中学校時代にいじめを受けていたが、自身もかつての同級生や実弟から「普段は優しい感じだが、怒ったら何するかわからず、とにかく怖い」と言われている。

広畑智規は「暴力は苦手だから、自分では手出しはせん」と言っていたが、中学時代は校内で不良グループを結成しており、そのリーダー格だったという。小林竜司とはもともとあまり親密な仲ではなかったが、事件の1年程前に一緒に海外旅行に行ったのがきっかけで関係が深まったという。

6月19日、小林竜司と広畑智規は脅迫を受けた徳満優多と佐藤勇樹の身を守るためには藤本翔士さんらを殺すしかないと判断し、暴力団関係者 岡田浩次(当時32歳)や徳満優多、佐藤勇樹を含む9人の仲間を集め被害者達を呼び出した。

被害者 藤本翔士さん、岩上哲也さん(当時21歳)と同伴した21歳会社員男性(以下、社員男性)の3人に山陽自動車道・岡山インターチェンジ付近や玉野市の深山公園で集団で暴行した後、午前4時半ごろ小林竜司が以前勤務していた玉野市の建設会社の資材置き場がある岡山県岡山市灘崎町(現在の岡山市南区)奥迫川の山中に3人を連行。藤本翔士さんを生き埋めにして殺害し、社員男性を「警察に行ったら家族を皆殺しにする。50万円支払え」と脅迫したうえで解放した。

岡田浩次との間で「借金漬けにするから連れて行く」という約束があった岩上哲也さんを岡山市の実行役リーダーの自宅マンションに連れ込もうとするが、岩上哲也さんの状態を知った岡田浩次から「それでは金は取れん。連れてこなくていい」と言われて灘崎町の山中に戻り、岩上哲也さんも同様に生き埋めにして殺害した。

6月22日、解放された社員男性が、東大阪市の布施警察署に届け出る。

6月23日、小林竜司は大阪から母親に「俺が2人殺した。逃げた1人を殺してから自首する」と電話する。

6月24日早朝、加害者ら9人は小林竜司のマンションに集まって「4人でやったことにする」として自首を協議する。午前中に、加害者側の3人が岡山南警察署に出頭して逮捕される。

6月25日午前1時ごろ、小林竜司が玉野警察署に母親らと次男夫婦の車で出頭し逮捕される。

6月27日生き埋めにされた2人の遺体が発見された。いずれの遺体も顔が腫れ上がるなど損傷が激しい状態であった。

28日未明、主犯ら9人全員が逮捕された。なお、当初は小林竜司が事件の主犯格と見られていたが、実際はあくまで殺人にエスカレートさせた人物であり、事件自体の主犯は広畑智規であることが判明する。
東大阪集団暴行殺人事件(小林竜二)
東大阪集団暴行殺人事件(相関関係図)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2007年3月27日、小林竜司は先に暴行・恐喝を受けたのは自分の仲間の方だったものの、暴行を被害者殺害に至るまでエスカレートさせたことが要因となり、死刑を求刑される。

5月22日、大阪地裁(和田真裁判長)は、被告の反省と更生の可能性を認めながらも、責任は重いとして小林竜司に求刑通り死刑を言い渡した。被告は控訴。

2008年5月20日、大阪高裁(若原正樹裁判長)は1審の死刑判決を支持、小林竜司の控訴を棄却した。

なお、発案者 広畑智規は無期懲役、広畑智規と終始行動を共にしていた白銀資大(当時22歳)は懲役18年、トラブルの発端となった徳満優多は懲役11年、岩上哲也さんを連れてくるよう指示した暴力団関係者岡田浩次は懲役17年がそれぞれ最高裁で確定(岡田浩次は藤本翔士さんが殺害された後に小林竜司の電話によって加担したため、藤本翔士さんへの殺人罪には問われていない)。

小林竜司に最初に電話で相談していた佐藤勇樹は懲役9年、見張り役の佐山大志(当時21歳)は懲役7年、小林竜司と終始行動を共にし、ユンボの操作も担当していた被告は(未成年だったが)懲役15年が2審でそれぞれ確定している。また、深山公園で合流してきた少年2人がいたが、この2人は家庭裁判所送致となった(この2人および徳満優多や佐藤勇樹、見張り役は藤本翔士さん殺害後に帰宅していたため、岩上哲也さんへの殺人罪には問われていない)。

2011年3月25日、最高裁判所(千葉勝美裁判長)は小林竜司の上告を棄却し、同被告の死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 ・小林竜司・・・死刑判決(大阪拘置所収監中、死刑未執行)
 ・広畑智規・・・2038年5月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 ・岡田浩次・・・2025年5月頃、49歳(懲役17年)
 ・徳満優多・・・2019年5月頃、32歳(出所)
 ・佐藤勇樹・・・2017年5月頃、30歳(出所)
 ・白銀資大・・・2026年5月頃、40歳(出所)
 ・佐山大志・・・2015年5月頃、28歳(出所)
 ・後輩の少年・・・2023年5月頃、31歳(出所)

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東仙台交番襲撃事件(相沢悠太)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年9月19日に宮城県仙台市宮城野区で発生した警察官襲撃事件である。襲撃された警察官1名、および犯人1名が死亡した。

2018年9月19日の午前4時頃、仙台市宮城野区東仙台二丁目の宮城県警仙台東署東仙台交番に 東北学院大3年、相沢悠太(当時21歳)は家族の使っていた自転車を使い訪れた。白いマスクと手袋を着用し、迷彩柄と灰色の二個のウエストポーチを身につけ、黒の半袖シャツに青いジーンズ姿で現れ、「現金を拾いました」と千円札を一枚差し出した。拾得物の手続きは一人で行うことになっていたことから、見張り室で勤務中だったA巡査長が一人でXに対応した。

その直後Xはマシンガン型の連射式エアガンを使用し清野(せいの)裕彰巡査長(当時33歳)の顔面に向けてプラスチック製BB弾を多数発射したとみられ、清野巡査長が咄嗟に身を翻したところをXは刃渡り約20センチの剣鉈状の刃物で背後から左脇腹を刺し、さらに胸、腕、頭、肩をめった刺しにし、10カ所の刺し傷をつけた。そのうち左脇腹からの傷が心臓に達しておりこれが致命傷になった。

怒鳴り声と「パンパンパン」という銃声のような音を聞いて異常事態に気づき、奥側の執務室にいた別の男性巡査部長が見張り室に入ったところ、A巡査長は血を流してうつ伏せに倒れており、床は血にまみれ数十発のBB弾や刃物の鞘、千円札の入った青いポリ袋が散乱していた。相沢はこのとき、左手に刃物を、右手にエアガンを持っていた。

巡査部長が「刃物を捨てろ」と警告したが、相沢はエアガンを構えて向かってきたため巡査部長は拳銃を3発発砲。弾丸は左右上腕と左脇の下に命中し、左肺損傷によりXは失血死した。

通報を受けた仙台東署職員が現場に急行すると、そこには凄惨な光景が広がっており、壁には鮮血の飛沫が散り、血糊が付着したエアガンと刃物が転がっていた。また、清野巡査長はエアガンで撃たれたことにより顔が赤く腫れあがり、10カ所以上の皮下出血があった。

相沢の両親は清野巡査長が刺殺されたことを報道で知り、「交番を襲ったのは息子かもしれません。アウトドア用のナイフが家からなくなっていて胸騒ぎがしました」と取り乱した様子で、19日午前中に仙台東署を訪れた。後に両親からの相談を受けて歯型の鑑定を行い、相沢悠太(当時21歳)本人と断定された。
東仙台交番襲撃事件(相沢悠太)
東仙台交番襲撃事件(清野(せいの)裕彰巡査長)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被疑者死亡のまま書類送検

❖出所予定(年齢)
 死亡(射殺)

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東広島市女性暴行死事件(50代男性)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)5月4日に広島県東広島市の短期賃貸アパートで、女性の変死体が見つかった事件。

2007年(平成19年)5月4日、山陽新幹線東広島駅の近くにある2階建て短期賃貸アパートの一室で、何者かに頭部や顔面を中心に執拗に殴打された末に死に至ったとみられる女性会社員(当時33歳)の遺体が発見される。

女性は、5日前の4月29日より行方がわからなくなっており、家族は前日の5月3日に東広島警察署に捜索願を出していた。被害女性は、このアパートを4月26日から二週間の契約で借りていたが、家族は誰もそのことを知らなかった。

女性の遺体は、頭部を執拗に殴打されており、水のたまった浴槽に頭から上半身を突っ込んだ状態で発見されたことから、警察は当初、顔見知りによる怨恨からの犯行を疑っていたと報じられていた。

事件発覚から2週間後の5月17日、殺人の容疑で逮捕されたのは、隣の広島市でコンビニを経営しながら副業で探偵業を営んでいた50代男性だった。男性は、探偵業の業務として、女性が行方不明になる一週間前から女性の交際トラブルの相談にのっていたとされる。
東広島市女性暴行死事件(短期賃貸アパート)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 男性は現在、山口刑務所で服役中だが、2012年5月に再審無罪を求めて広島高裁に再審請求書を提出した。

❖出所予定(年齢)
 再審請求中

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東村山市ホームレス暴行死事件(少年X、少年Y、中学生3人)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年(平成14年)1月25日に東京都東村山市美住町で発生した少年犯罪。中高生の少年らが意趣返しを動機に、ホームレス男性に対し執拗な暴行を加え死亡させた事件である。

被害者の鈴木邦彦さん(当時55歳)は、事件の現場となった東村山市美住町1丁目の「美住町ゲートボール場」[注釈 1]敷地内の休憩施設に寝泊まりしながら、同市立富士見図書館に出入りするホームレスであった。同図書館は加害者のうちの中学生グループの溜まり場にもなっていた。

中学生グループは、2001年夏ごろより同図書館へ来館しては絵本コーナーに陣取り、時には「声高に談笑したり、携帯電話で大声で話をしたりするなど」の迷惑行為を繰り返していたものの、職員から注意を受ければ従っていた。

事件発生の前日1月24日15時ごろ、中学生3人が来館すると閲覧机に座って以前からの迷惑行為を再開させ、地区館長が再三注意するも従わなかったため、そのうち1人を館長自らが腕をつかんで外へ連れ出したが、すぐに館内へ戻ってきて17時の閉館まで過ごしていた。この際に鈴木さんが口添えをするかたちで中学生グループと館長との間を取り持っていたとされるが、鈴木さんは中学生1人に対し顔面を殴打する体罰を加えており、最初に手を出した事実があった。

事件発生に先立つ当日の1月25日午後、中学生グループの1人が街で偶然見かけた鈴木さんを尾行、居場所を突き止めることに成功したため、2度にわたる襲撃を行った。

その後、22時18分ごろから3度目の襲撃を再開していたところ、中学生グループが通う市立中学校の卒業生で都立高校生の少年X(当時17歳)が22時30分ごろ事件現場をたまたま通りかかり、鈴木さんへの集団暴行に加わる。

さらに少年Xは、鈴木さんのホームレス仲間である2人の男性に叩き割った一升瓶を示しながら「カネを出せ」と凄み、男性B(当時48歳)から1,000円、男性C(当時54歳)から250円を脅し取った。少年Xは「面白いぞ」などと少年Y(当時17歳)を携帯電話で呼び出し、22時50分ごろ事件現場に到着し合流すると、パイプ椅子で身体を殴打、一升瓶で頭部を殴打、石油ストーブを投げつける、頭髪にライターで火をつける、などの暴行を楽しむようにエスカレートさせた。

ついには鈴木さんがもたれて座り込んでいた金属製ロッカーごと倒して、「乗れ」と号令をかけ加害者全員で上に乗って押しつぶした。最後に背中に木の棒を突っ込み両端から吊り上げて運ぶと、臀部を木の棒で突いたりしたあと鈴木さんを発見現場に放置し、少年らは23時10分ごろに犯行を終えた。

ホームレス仲間によると「われわれをごみ扱い」と感じたといい、「ぶらぶらして、何やっているんだ。仕事でもしろ」などと言葉を浴びせられているのも聞こえたという。鈴木さんは1月26日0時8分ごろ、市内の病院で外傷性ショックによる死亡が確認された。

鈴木さんの死亡を報道で知った中学生4人は、同年1月26日午後から夜にかけて、それぞれ保護者に伴われるなどして東村山警察署に出頭した。警視庁少年事件課と同署は4人をすでに特定済みであったとして自首扱いにすることなく、翌1月27日までに傷害致死容疑で14歳の中学2年生3人を逮捕、刑事責任を問えない13歳の中学2年生1人を補導し児童相談所に通告した。


中学生らが出頭し犯行の一部始終を供述したため、警察は17歳の少年2人に対しても取り調べを行ったが、2人は容疑をおおむね否認した。しかし、少年Xが少年Yに、自分たちは中学生らの意趣返しに同調はしたものの、暴行には加わっていないことにしよう、との責任逃れの口裏合わせを持ち掛けていた疑いが強まり、同年1月29日、警察は2人の逮捕に踏み切った。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 当時、前年4月の改正少年法施行によって刑事処分可能年齢が16歳以上から14歳以上に引き下げられ、この事件で中学生グループの中の14歳に達している3人の加害者が、改正後逆送致適用の初のケースとなるかが世間の大きな注目を浴び、やがては衆議院特別委員会でも取り上げられた。同年2月15日、東京地検八王子支部は逆送致を求める意見書を提出するが、3月13日、東京家裁八王子支部(猪俣和代裁判長)は、改正少年法の適用を見送り、初等少年院送致の保護処分を言い渡した。なお、刑事責任を問えない13歳の少年らは児童自立支援施設送致の保護処分になった。

東京地裁八王子支部は、2003年1月31日に少年Y(当時17歳)を懲役2年6月以上5年以下の不定期刑に処す判決を、同年2月4日には少年X(当時17歳)を懲役3年以上5年6ヶ月以下の不定期刑に処す判決をそれぞれ言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 少年X・・・2008年1月頃、22歳、すでに出所(不定期刑で最も重い懲役の5年と仮定 )
 少年Y・・・2008年8月頃、22歳、すでに出所(不定期刑で最も重い懲役の5年6ヶ月と仮定 )
 中学生3人・・・2003年3月頃、15歳、すでに退院(児童自立支援施設にて2年の保護処分)

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光市母子殺害事件(大月孝行)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1999年(平成11年)4月14日に山口県光市室積沖田の「新日鐵沖田アパート」で発生した殺人・強姦致死・窃盗事件。

加害者の少年 大月孝行(事件当時18歳)は事件当時、実父・継母・弟2人・祖母と6人暮らしだった。大月は幼少期から実母とともに実父から暴力を受け、中学時代には実母が自殺。それ以前から母親に精神的に深く依存していたことから、母の自殺後、少年鑑別所の総合所見によれば「見捨てられたと感じ、心の支えを失った状態になった」とされている。実父は若い外国人女性と再婚し、本事件の約3か月前には異母弟が生まれていた。

大月は中学3年生のころから性行為に強い興味を持つようになり、ビデオや雑誌を見て自慰行為にふけったり、友人とセックスの話をしたりしていたが、次第に性衝動をうっ積させ、早く性行為を経験したいとの気持ちを強めていた。

少年 大月は1999年4月14日午後、「美人な奥さんと無理矢理にでもセックスをしたい」と思い、同じアパート群の自宅から約200 m離れた、事件現場となったアパート(「沖田アパート」:新日本製鐵光製鐵所社宅)の3棟に向かった。この時、Fは「強姦によってでも性行為をしてみたい」という気持ちになっていた一方、「そのようなことが本当にできるのだろうか」と半信半疑に思いつつも、布テープ・こて紐などを携帯し、アパートの10棟から7棟にかけ、排水検査の作業員を装って戸別に訪ね、呼び鈴を鳴らすなどして、若い主婦が留守を守る居室を物色して回った。

その行動を誰からも怪しまれなかったことから、大月は次第に「本当に強姦できるかもしれない」などと自信を深めていった。そして14時20分ごろ、アパート7棟の被害者宅を訪れ、排水検査を装ったところ、本村弥生さん(事件当時23歳)に部屋へ招じ入れられたことなどから、室内に上がりこんだ。

大月は弥生さんを「若くてかわいい女性だ」と思ったことから、「強姦によってでも性行為をしたい」という気持ちを抑えきれなくなり、トイレなどで排水検査をしているふりをしながら様子を窺い、14時30分ごろに弥生さんを強姦しようと企てて背中から抱き着いた。その上で弥生さんを仰向けに引き倒し、馬乗りになるなど暴行を加えたが、大声を出されて激しく抵抗されたため、殺害を決意。仰向けに倒れた弥生さんに馬乗りになった状態で、弥生さんの首を絞めて殺害し、強姦した。

同日15時ごろ、弥生さんの長女 夕夏ちゃん(事件当時生後11か月)が激しく泣き続けたため、犯行の発覚を恐れるとともに、夕夏ちゃんが泣き止まないことに激昂。夕夏ちゃんの首に所携の紐を巻き付け、強く引っ張ることで絞殺した。

事件後、帰宅した被害者 弥生さんの夫である本村洋さんが妻 本村弥生さんの遺体を発見し、本村からの110番通報を受けて駆けつけた山口県光警察署の署員が押入れの上の棚で長女 本村夕夏ちゃんの遺体を発見した。これを受け、山口県警察本部刑事部捜査第一課は光警察署に捜査本部を設置して捜査し、事件から4日後の1999年4月18日に殺人容疑で被疑者として少年 大月孝行を逮捕した。
光市母子殺害事件(大月孝行)
光市母子殺害事件(本村弥生さんと夕夏ちゃん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2000年(平成12年)3月22日 - 山口地裁(渡辺了造裁判長)は無期懲役判決を言い渡した。山口地検は3月28日付で広島高等裁判所へ控訴した。

2002年(平成14年)3月14日 - 広島高裁(重吉孝一郎裁判長)は第一審・無期懲役判決を支持して検察の控訴を棄却する判決を言い渡した。広島高検は同判決を不服として、同月27日付で最高裁へ上告した。

2008年(平成20年)4月22日 - 差し戻し控訴審の判決公判が行われ、広島高裁(楢崎康英裁判長)は弁護側主張を全面的に退け死刑回避理由にはあたらないとして死刑判決を言い渡した。弁護側は判決を不服として即日上告した。

2012年(平成24年)3月14日 - 大月の弁護団は最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)に上告審判決訂正の申し立てを行っていたが、3月14日付で申し立てを棄却する決定がなされた。このため、同月16日付で大月の死刑が確定した。犯行当時18歳1か月での死刑確定は最高裁が把握していた1966年以降の少年事件で最年少だった。

第1次再審請求は2012年10月29日に提起され、法医学者や心理学者による鑑定結果などが新証拠として提出された。請求の要旨は、殺害行為と殺意および強姦致死の故意について争うほか、犯行時は脳機能障害の影響で心神喪失状態にあった合理的な疑いがあるとするものであった。しかし2015年(平成27年)10月30日、広島高裁第1部(高麗邦彦裁判長)は「証拠には新規性がない」として、大月の再審請求を棄却する決定を出した。弁護団は同年11月2日付で異議を申し立てたが、それも2019年(令和元年)11月7日付で広島高裁(三木昌之裁判長)が棄却する決定を出した。

2020年(令和2年)、弁護団は第2次再審請求を提起し、新証拠として報告書など9点を提出した。

広島高裁(伊名波宏仁裁判長)は2022年3月31日付で、「Fに完全責任能力があったことは明らか」として、請求を棄却する決定を出した。弁護団は同決定を不服として、同年4月5日付で広島高裁に異議を申し立てたが、同高裁(西井和徒裁判長)は2023年3月29日付で、弁護側による異議申し立てを棄却した。弁護側は同決定を不服として、4月3日付で最高裁へ特別抗告したが、同年12月11日付で最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)が特別抗告を棄却する決定を出したため、第2次再審請求も棄却決定が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(広島拘置所収監中、死刑未執行)

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日立妻子6人殺害事件(小松博文)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年(平成29年)10月6日に茨城県日立市田尻町二丁目で発生した殺人・非現住建造物等放火事件。

被害者は、小松博文(当時36歳、加害者)の妻 小松恵さん(当時33歳)・長女 夢妃(むうあ)ちゃん(当時11歳)・長男 幸虎(たから)ちゃん(当時7歳)・次男 龍煌(りゅあ)ちゃん(当時5歳)と、双子の三男 頼瑠(らいる)ちゃん、および四男 澪瑠(れいる)ちゃん(ともに3歳)の計6人である。起訴状によれば、小松は2017年10月6日4時40分ごろ、自宅和室で、柳刃包丁(刃体の長さ約22 cm)を用い、就寝中の妻 恵さんや子供5人をそれぞれ複数回刺した。その後、玄関付近にガソリンを撒いた上で、ライターで着火した紙片を、ガソリンを撒いた床に落とすことで放火し、6人を死亡させたとされている。

火災は5時48分に鎮火したが、焼け跡(寝室として用いられていた和室)から、妻 恵さんと息子4人 (幸虎(たから)ちゃん・龍煌(りゅあ)ちゃん・頼瑠(らいる)ちゃん・澪瑠(れいる)ちゃん) が、それぞれ遺体で発見された。同所から発見され、意識不明状態で病院に搬送された長女 夢妃(むうあ)ちゃんも、6時54分ごろ、搬送先の病院(日立市内)で死亡した。死因は、母親 恵さんと長男 幸虎(たから)ちゃんが、それぞれ多発鋭器損傷と急性一酸化炭素中毒の競合によるもの、長女 夢妃(むうあ)ちゃんは多発鋭器損傷による失血が主因、一酸化炭素吸引が従因である。次男Dは肺動脈損傷による心嚢内血腫(心タンポナーデ)、三男Eは急性一酸化炭素中毒、四男Fは失血と急性一酸化炭素中毒の競合である。

小松は犯行後、ガソリンをかぶって自殺することを考えていたが、犯行直後に下半身の着衣に引火。その熱さに耐えきれず逃げ、他の方法で自殺を考えて公園に行ったものの、最終的には何もできなかった。同日5時ごろ、小松は日立警察署(茨城県警察)に「家族を殺して自宅に放火した」と自首。病院に搬送された恵さんの体に複数の刺し傷・切り傷が確認されたことから、日立署は小松を 恵さんへの殺人容疑で逮捕(緊急逮捕)した。その後、10月26日には妻と残る子供4人(計5人)への殺人容疑と、現住建造物等放火容疑でも再逮捕されている。
日立妻子6人殺害事件(小松博文)
加害者の小松博文
日立妻子6人殺害事件(小松博文に殺された)
一番右、妻 小松恵さん
日立妻子6人殺害事件(小松博文に殺された子供たち)
右から、長女 夢妃(むうあ)ちゃん(当時11歳)・長男 幸虎(たから)ちゃん(当時7歳)手前・次男 龍煌(りゅあ)ちゃん(当時5歳)と、双子の三男 頼瑠(らいる)ちゃん、および四男 澪瑠(れいる)ちゃん(ともに3歳)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
2021年6月30日の判決公判で、水戸地裁(結城剛行裁判長)は小松に求刑通り死刑を言い渡した。

小松は判決を不服として、2021年7月1日付で東京高裁へ控訴した。

2021年4月21日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁(伊藤雅人裁判長)は原判決に対する小松の控訴を棄却する判決を言い渡した。弁護側は判決を不服として、同日付で最高裁へ上告した。

同高裁は小松の記憶喪失を認定した一方、物事の理解力や判断力、意思疎通能力は障害されておらず、小松は弁護人から援助を受ければ裁判を受けることができる状態にあったと判断し、弁護側の「小松は記憶喪失のため、訴訟能力が認められない」という法令違反の主張を退けた。また、弁護側が同時に展開していた事実誤認・量刑不当の主張も退け、犯行には一定の計画性があったと認定。動機についても、妻と懇意にしていた男性に家族を取られたくないというものだったと認定し、犯行の残虐性や動機の身勝手さ、結果の重大性などから、死刑を回避すべき事情は認められないと判断した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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日野OL不倫放火殺人事件(北村有紀恵)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1993年(平成5年)12月14日、東京都日野市で発生した放火殺人事件であり、幼児2人が焼殺された事件である。

1993年(平成5年)12月14日、東京都日野市に在住する原田幸広は、出社するために妻が運転する自動車で鉄道の最寄駅に向かった。原田幸広の職場の部下で原田幸広の不倫相手だった北村有紀恵(当時27歳)は、そういった原田幸広の通勤経路・時間帯を熟知していた。事件当日、北村有紀恵は保有していた原田幸広宅の玄関ドアの鍵を使用して、原田幸広夫妻の不在時間帯に原田幸広の自宅に侵入。原田幸広宅の室内で就寝中だった原田幸広の長女(当時6歳)と長男(当時1歳)にガソリンを散布して放火し、幼児2人を殺害。原田幸広の自宅を全焼させた。

原田幸広と元不倫相手 北村有紀恵との不倫関係は、原田幸広の妻に関係が発覚した後に終了していた。しかし、元不倫相手 北村有紀恵の原田幸広に対する恋愛感情や、北村有紀恵と原田幸広夫妻との間に発生した紛争から、警察は北村有紀恵は原田幸広に対して怨恨感情を持っていたと推測。北村有紀恵が真犯人の可能性が高い被疑者と推定していた。しかし、警察は公判を維持し有罪判決を獲得するために必要で十分な証拠を集積できず、北村有紀恵の逮捕に踏み切れない状況だった。が、北村有紀恵は父親に説得され、警察の捜査が身辺に迫ったことを察知して、翌年の1994年(平成6年)2月6日午後、警察に出頭。
日野OL不倫放火殺人事件(北村有紀恵)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1996年1月19日、東京地裁は北村有紀恵に対して、検察の主張を全面的に認定して、検察の求刑どおり無期懲役の判決を下した。被告人と弁護人は、裁判所が検察の主張を全面的に認定したのは被告人の精神的及び肉体的被害が考慮されておらず、量刑が過重であると言う理由で6日後に控訴した。

1997年10月2日、東京高裁は地裁の判決を維持し、被告人・弁護人の控訴を棄却した。被告人と弁護人は、裁判所が検察官の主張を全面的に認定したのは被告人の精神的及び肉体的被害が考慮されておらず、量刑が過重であると言う理由で上告した。

2001年7月17日、最高裁は地裁の判決を維持し、被告人・弁護人の上告を棄却。北村有紀恵の無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2031年7月頃、65歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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姫路2女性殺害事件(高柳和也)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年1月9日に兵庫県姫路市で発生した2女性殺人・死体損壊事件である。

2005年1月20日、当時23歳の女性会社員(以下、畠藤未佳さん)と、畠藤さんの高校時代からの友人である23歳の女子専門学校生(以下、谷川悦美さん)が失跡した。畠藤さんの室内には現金がそのまま残されていたため、事件性を感じた畠藤さんの両親が姫路警察署に捜索願を出した。畠藤さんの両親は連日姫路警察署に相談しに行ったが、担当の刑事は「年間1200人もの捜索願が出ているので、相手できない」と相手にせず、捜査に動こうとしなかった。

1月22日、姫路警察署ではまともな捜査が行われないと考えた畠藤さんの両親は、知人のつてを頼り兵庫県警警察官の飛松五男巡査部長と接触。畠藤さんの両親は飛松に対し、畠藤さんが失踪する少し前に、畠藤さんが「ウエダ」と名乗る男を彼氏として連れてきたこと(以下、男を高柳和也)、高柳は29歳で資産家の息子だと言っていたことを伝え(実際は39歳)、高柳の調査を依頼した。飛松は「ウエダ」の車のナンバーから高柳の本名と住所を突き止め、高柳を張り込むのと同時に姫路警察署に通報した。

1月29日、飛松の調査結果に基づき、姫路警察署は署員2名を高柳和也の自宅へ向かわせた。署員は高柳の同意を得て室内に入り調査したところ畠藤さんはおらず、代わりに手錠をかけられて意識がもうろうとした別の少女(以下C)を確認した。署員がCに質問したところ、Cが「帰らへん」「ここにおる」と答えたため、また、高柳に任意同行を求めたが断られたため、そのまま引き上げてしまった。

姫路警察署の対応に納得がいかなかった畠藤さんの両親は再び飛松に応援を求めた。飛松が高柳の自宅前にてTを尋問したところ、高柳が覚醒剤を打っているような反応を示したために、飛松は高柳を問い詰めた後に相生警察署へ通報した。通報から1時間半後に相生警察署が駆けつけ男を連行しCを保護、翌日の1月30日に覚醒剤取締法違反により男は緊急逮捕された。

逮捕から3か月後の4月12日、高柳は畠藤さんとその友人谷川さんを殺害し、遺体をバラバラにして海や山に捨てたことを自供した。

また、高柳についての前科も報じられた。高柳は事件を起こす4年前に車の追突事故を起こし、27歳の主婦と2歳次女を死亡させ、4歳長女にも重傷を負わせた。高柳は1年2か月の実刑判決を受け服役、仮出所から2か月余りしか経過していなかった中での殺害事件であった。

2009年5月10日、兵庫県警は男を死体遺棄容疑で再逮捕。5月20日には殺人罪で再逮捕した。また被害者の遺体の一部が発見された。
姫路2女性殺害事件(高柳和也)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2010年3月17日、神戸地方裁判所姫路支部で死刑判決が下された。男は即日控訴したが、2010年10月15日、大阪高等裁判所は被告側控訴を棄却した。その後上告したが、2013年11月25日に最高裁判所第1小法廷により上告が棄却され、死刑が確定した。

2021年現在、男は大阪拘置所に収監されている。一方、頭部などの被害者の遺体は未だに発見されていない。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(大阪拘置所収監中、死刑未執行)

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平塚5遺体事件(岡本千鶴子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2006年(平成18年)5月1日から同月2日にかけ、神奈川県平塚市のアパートで新生児を含む計5人の遺体が見つかった事件。

1984年(昭和59年)12月28日、神奈川県平塚市で自身の子供 利英くん(行方不明当時6歳)が自宅前で遊んでいるのを最後に行方不明となる事件が発生。母親 岡本千鶴子(当時32歳)は「買い物から帰ったら利英くんが行方不明になっていた」と周囲に話し、捜索願を提出。岡本千鶴子はテレビに出演し、大々的に捜索を呼びかけたが成果はなかった。2002年頃から岡本千鶴子は周囲に「利英は北朝鮮に拉致された」と主張するようになった。

2006年5月1日午前11時頃、岡本千鶴子が住んでいた神奈川県平塚市のアパートから、男性 山内峰宏さん(岡本千鶴子の前夫(故人)の連れ子・当時35歳)と女性 利加香(りかこ)さん(岡本千鶴子と前夫の実娘・当時19歳)(山内峰宏さんと利加香さんは異母兄妹)の遺体を、山内峰宏さんの実母が発見。当初は無理心中と思われたが、捜査を進めていくうちに、翌日段ボール箱に乳児2人の遺体と男児1人の遺体が見つかり、計5人の遺体が確認されることになった。

遺体発見時、山内峰宏さんのすぐそばに「死にたい。利加香さんと一緒になりたい」という内容の遺書らしきものがあった。そのため、「近親相姦の末による自殺」という筋書きが推理できないわけでもなかった。だが同時に、室内には母親 岡本千鶴子が書いたと思われる「娘を殺してしまった」というメモが発見され、これにより事件は急展開を見せる。

同年5月3日、2006年3月以降に神奈川県平塚市のアパートから行方を晦ましていた岡本千鶴子(当時54歳)が、利加香さんに対する殺人容疑で逮捕される。利加香さんは2005年10月12日以降の目撃証言がなく、mixiの日記の更新も途絶えたことから、この時期に殺害されたと推測される。

10月12日以降、利加香さんの知人がメールを送った際、利加香さんの携帯から「入院していた」旨の返信が複数あったが、これらは岡本千鶴子の生存偽装工作であると考えられた。残り3人の遺体も岡本千鶴子の子供である可能性が高まり、5人の遺体は全員が岡本千鶴子に殺害されたのではないかという疑いも持たれた。

しかし、山内峰宏さんに関しては遺書があったため2006年3月に自殺したと認定された。また、残り3人の遺体に関しては死後20年近く経過しているがすべて岡本千鶴子の子供であり(乳児2遺体は利加香さんが生まれた前後に生まれている)、男児1人の遺体は1984年に捜索願が出されていた長男の利英くんであることが判明。

この3遺体に関して母親である岡本千鶴子による犯行嫌疑の側面から捜査をしたが、公訴時効の壁(殺人罪は15年・死体遺棄罪は3年)があったため、岡本千鶴子は利英くんと乳児2人の死に関しては刑事訴訟で裁かれることはなかった。また、山内峰宏さんの死体遺棄罪については、山内峰宏さんの自殺前から岡本千鶴子がアパートを出た後に立ち入っていた形跡が確認できないとして、岡本千鶴子の起訴はされなかった。

岡本千鶴子は知人らに多額の借金の返済を迫られており追い詰められた状況にあったという。いずれにせよ生き残っているのが岡本千鶴子のみである以上、関係者の証言としては岡本千鶴子の証言が第一に取り上げられるという問題があった(岡本千鶴子には元夫と内縁の夫がいたものの、2人とも事件発覚時には死亡している。なお元夫は自然災害に巻き込まれ災害死、内縁の夫は容疑者と関わっている最中に病没)。
平塚5遺体事件(岡本千鶴子)
平塚5遺体事件(相関関係図)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年7月23日、横浜地方裁判所は「遺体を長期間放置し、周囲に利加香さんの生存を装うなど不自然。母親としての情愛を感じられない冷血な犯行。山内峰宏さんに利加香さんを殺害する動機はない」として懲役12年の判決が言い渡された。

殺害を仄めかすメモが重要な証拠となって有罪となったが、動機も不審死の真相も分かっていない状況である。岡本千鶴子(当時54歳)は控訴したが、2008年(平成20年)10月23日に東京高等裁判所は控訴を棄却。

❖出所予定(年齢)
 2020年8月頃、66歳(出所)

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平野区母娘殺害事件(文青児)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年(平成23年)6月24日に大阪府大阪市平野区のマンションで発生した在日韓国人の母娘に対するストーカー殺人事件。

文青児(当時36歳)は被害者母 金玉香さん(当時61歳)、次女(娘)の裕美さん(当時27歳)の元交際相手で以前に勤めていた会社の同僚だった。事件前には娘の顔面を殴打する事件を起こすなど、裕美さんに執拗に付きまとっていた。裕美さんにはそのことが原因で仕事を辞めている。知人にストーカーの存在を明らかにしていた。また、裕美さんの携帯電話には文青児から大量の嫌がらせメールが送りつけられていた。事件当時には被害者宅の固定電話は元交際相手の文青児からの着信を拒否する設定がなされていた。事件前日の6月23日には男が娘に接触を図ろうとしたが避けられていた。

2011年(平成23年)6月24日、母娘が住むマンションに文青児が押し入り、執拗に刃物でめった刺しにするとそのまま逃亡し母娘を死に至らしめたとされている。司法解剖によって24日午前中に事件が起きたと推定されている。

2011年7月8日、大阪府警察本部は金裕美さんの元同僚・交際相手だった在日朝鮮人の文青児の身柄を確保した。
平野区母娘殺害事件(文青児)
平野区母娘殺害事件(金玉香さん、裕美さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)

 警察は容疑者が事件直前に軍手などを購入していることから計画的犯行であったとしている。しかし男は事件への関与を否定。7月29日、大阪地検地方検察庁は男を殺人罪・住居侵入罪で大阪地方裁判所へ起訴。2012年(平成24年)5月23日、大阪地方裁判所(遠藤邦彦裁判長)は被告に対して求刑通り無期懲役を言い渡した。検察、弁護側共に控訴せず判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2042年5月頃、67歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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平野区市営住宅殺人事件(未公表)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年(平成23年)7月25日に大阪府大阪市平野区で当時42歳の引きこもり状態の男が実姉を殺害した事件。一審判決では精神鑑定でアスペルガー症候群と診断された男に対する判決が波紋を呼んだ。

男は小学校高学年の頃から不登校になり、以後約30年間引きこもるようになった。転校することなどを聞き入れなかったのを全て姉のせいだと思い事件にいたった。

2011年(平成23年)7月25日、自宅に生活用品を届けに来た姉(当時46歳)を刺殺し逮捕された。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 弁護側は精神鑑定で男にアスペルガー症候群があり心神耗弱状態だったとして保護観察付きの執行猶予を求めていた。一方で検察側は懲役16年を求刑した。

2012年(平成24年)7月30日、大阪地方裁判所は「家族が同居を望んでいないため社会の受け皿がなく、再犯の可能性が心配される。許される限り刑務所に収容することが社会秩序の維持にも役立つ」とし、検察側の求刑より重い懲役20年を言い渡した。

弁護側はこの判決を不服として控訴し、2013年(平成25年)2月26日の大阪高等裁判所は「一審判決はアスペルガー症候群の影響を正当に評価していない」「十分に反省を示せないのは同症候群の影響。それなりの反省を深めつつあり、再犯可能性を推認させる状況でない」として、1審判決を破棄し懲役14年の判決を言い渡した。

2013年7月22日、最高裁判所は被告の上告を棄却する決定を行い、これにより2審判決が確定した。


❖出所予定(年齢)
 2028年7月頃、58歳(懲役14年)

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平野母子殺害事件(未解決事件)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 大阪府大阪市平野区で2002年(平成14年)4月14日に発生した殺人・放火事件。

2002年(平成14年)4月14日、大阪府大阪市平野区のマンションで、主婦 森まゆみさん(当時28歳)が犬の散歩用のひもで首を絞められて殺害され、長男 瞳真ちゃん(当時1歳)は浴槽に沈められて水死。その後にマンションの部屋が放火された。
平野母子殺害事件(森健充被告・・・未解決事件)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 捜査の過程で、森健充(たけみつ)被告(当時59歳)は被害者夫婦の借金の連帯保証人となっていたこと、森健充被告が被害女性に夫婦の生活に干渉したり脅迫したりするメールを送っていたことが判明。恋愛感情が受け入れられなかったことや連帯保証した借金を滞納して夫婦が行方をくらましたことに憤り、母子を殺害して証拠隠滅のために放火したことが犯行動機とされた。しかし、森健充被告が犯行を否認し、直接証拠がなかったため、公判では間接証拠の信用性と評価が最大の焦点となった。

検察側は、

マンション階段の灰皿にあった吸い殻のだ液成分と森健充被告の血液のDNA型が一致する。
犯行時間帯に森健充被告の車を複数の住民が目撃している。
犯行時間帯に携帯電話の電源を切るなど森健充被告が不可解な行動をしている点。
犯行日に妻を迎えに行くという約束を果たしていない。
などを挙げ、森健充被告が犯人であると主張した。

一方、弁護側は、

マンションには行ったことはなく、被害者宅の住所は知らなかった。
森健充被告は被害者に携帯灰皿を渡した事があり、そこに残っていた吸い殻が被害者の手によってマンション階段の灰皿に捨てられた可能性がある。
犯行時間帯にマンション近くに駐車したことは認めるが、行方をくらませた被害者を探していたためである。
と主張し、無罪を主張した。

2011年(平成23年)12月5日、差し戻し審の大阪地方裁判所(水島和男裁判長)で、検察側はあらためて死刑を求刑したが、2012年3月15日に無罪判決が言い渡された。これに対し、検察側は控訴した。凶器となった犬のリードなど、複数のDNA鑑定が新たに実施された為、控訴審が中断されていたが2016年に再開された。2017年3月2日に大阪高裁(福崎伸一郎裁判長)は検察の控訴を棄却した。検察側は上告せずに森健充被告の無罪が確定した。確定の時に森健充被告は59歳であり定年に達していなかったため起訴休職を解かれ刑務官として法務省に復職した。

❖出所予定(年齢)
 無罪

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広島・岡山独居老人強盗殺人事件(片岡清)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)9月に広島県比婆郡東城町(現:庄原市)で一人暮らしの女性が、2004年(平成16年)12月に岡山県井原市で一人暮らしの蕎麦屋店主男性が殺害された事件。

2003年(平成15年)9月28日、無職の片岡清(当時71歳)は、広島県東城町に住む一人暮らしで裕福なお年寄りがいるとの情報を聞きつけ家を探したが、名前を忘れたため勘違いをして女性 村田ミサオさん(当時91歳)が一人暮らししている家に侵入した。部屋を物色中、村田さんに目撃されたため首を両手で絞殺して逃走した。広島県警は当時片岡を二度にわたって事情聴取したが、自供を得られず、証拠も無かったため立件を見送った。

翌年12月10日、片岡は岡山県井原市の蕎麦店主の男性 片山広志さん(当時76歳)をバールで殴って撲殺し、現金5万円などを奪って逃走した。その4日後の同月14日、片岡は広島市内で無免許運転の現行犯で逮捕され、警察の取調べで、岡山と広島の殺害事件を自供したため、再逮捕された。
広島・岡山独居老人強盗殺人事件(片岡清)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 片岡はその後の公判で「脅して金を借りようと思っただけで、殺すつもりはなかった」と主張を変えて殺意を否定した。検察は広島の事件について「首を絞めた後、ビニールひもで縛り、布団をかけて発見されるのを防いだ」として殺意を指摘、岡山の事件についても犯行後にもバールなどを購入していたことを挙げて「人命軽視の傾向が見られ、第3、第4の事件が起きていたかもしれない」と再犯の可能性を示した。さらに「犯罪史上まれに見る凶悪事件」と犯行の残忍性を指摘し、死刑を求刑した。松野裁判長は広島の事件について「被害者を一時的に気絶させるつもりだった」として強盗致死罪と認定し無期懲役とした。検察は量刑不当を理由に控訴した。

控訴審においては「被告は自己に有利なように供述を変遷させており、一審での供述は信用性に欠ける」として広島の事件について強盗致死罪とした一審の判決が破棄され、強盗殺人罪と認定し死刑判決が下された。弁護側の上告は最高裁により棄却され片岡の死刑が確定した。

片岡は広島拘置所に収監されていたが、上告中の2008年10月、アルツハイマー病と診断され、死刑確定後には嚥下性肺炎などを併発した。再審請求手続きの弁護人に選任された弁護士が準備し再審請求を行っていたが、本人は認知症が進行していた。2016年1月、意識不明の重体となり、治療のため拘置所外の病院に入院したが、同年2月14日、アルツハイマー病に伴う摂食障害と老衰のため病院にて死亡した。84歳没。

❖出所予定(年齢)
 死亡(病没)

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広島小1女児殺害事件(ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年(平成17年)11月22日に広島県広島市安芸区矢野西で帰宅途中の女子児童がペルー人の男によって強制わいせつのうえ、殺害された事件。

11月22日午後、下校途中の女子児童 木下あいりちゃん(当時7歳)が学校を出てから行方不明となり、同日17時頃に空き地に放置されていた段ボール箱の中から遺体となって発見された。

この日は来春に入学する児童の就学前検診のために午前で授業が終わり、12時30分頃には下校だった。普段は一緒に下校している友達が早退していたため、あいりちゃんは一人で下校していた。

死因は絞殺による窒息死で、推定死亡時刻は13時から14時。

広島県海田警察署の捜査により、遺体が入れられていた段ボール箱から東広島市のホームセンターで売られていたガスコンロを購入した顧客が割り出された。これを受けて29日夜、事件現場の近所に住んでいた自称・ペルー人の男 ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ(当時30歳と自称していたが、後に33歳であることが判明)が指名手配され、この男は翌30日に三重県鈴鹿市内の親族宅で逮捕された。
広島小1女児殺害事件(ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 やり直し第二審が行われた広島高裁では、2010年7月28日、ホセに殺意があり猥褻目的による犯行であり、刑事責任能力が事件当時あったことを認めた上で、殺害人数が1人であること、計画的犯行でなかったこと、十分ではないが反省の態度を示していることなどから「一審判決が軽すぎるとはいえない」、犯罪の性質や動機、犯行態様の残忍性から「弁護側の主張を考慮しても一審判決が重すぎるとはいえない」として、無期懲役を言い渡した一審判決を支持し、検察側・弁護側の各控訴を棄却した。この判決に対し検察側は最高裁への上告を検討したが、判例違反であると上告するのは困難であるとして断念した。またホセ側も上告しなかったため無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2040年4月頃、63歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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◆ドキュメント
作成日付:2023/10/26
更新日付:2023/12/10
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート5))

<目次>






東京・山梨連続リンチ殺人事件(松井知行・紙谷惣)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)5月から同年9月にかけて、東京都新宿区と山梨県北都留郡丹波山村で発生した殺人・死体遺棄・死体損壊事件。

犯行グループは男女11人だがうち男9人は以前からクレジットカードを使った振り込め詐欺を繰り返していた。

2003年9月頃から元飲食店経営者 古川信也さん(当時26歳)を含む数人を埼玉県戸田市のアパートに監禁し、9月19日に山梨県北都留郡丹波山村親川地区にて、古川さんの交際相手であった当時19歳の女に古川さんの首を絞めさせ、更に主犯の男とその共犯者たちも同じく首を絞め、古川さんの首にロープを巻き付け綱引きをするように引っ張るなどして殺害した。また古川さんをいったん解放した後に、殺害したことが判明している。当時17歳の少女はこの殺害には関与はしていなかったが、主犯 松井知行(当時39歳)より死体遺棄に無理やり加担させられた。

2003年10月4日に東京都西多摩郡奥多摩町の町道で人の右腕が落ちているのを猟友会のメンバーが発見した。司法解剖の結果、身元は古川さんと判明した。

その後、2004年(平成16年)1月8日までに未成年者2人を含む男女8人が古川さんに対する逮捕監禁容疑で逮捕された。後に殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で再逮捕されている。その後、容疑者らの供述により小菅村で白骨化した古川さんの頭蓋骨が発見された。但し、後述の南アフリカに逃亡した男3人以外は無理やり犯行に加担させられていた。

また8人のうち数人が別の事件に関与した疑いが強まり、追及したところ、別の男性に暴行を加えて死亡させ、死体を埼玉県秩父郡長瀞町に遺棄したとも供述した。1月12日に長瀞町の山中を捜索したところ、人の胴体が発見された。身元は元スナック店経営者の長沼正司さん(当時38歳)と判明。長沼さんは、2003年5月27日に新宿区歌舞伎町から行方がわからなくなり、家族が捜索願を出していた。その後の捜査で5月27日に犯行グループらがBを歌舞伎町のホテルで暴行して死亡させ、翌日、長瀞町に遺体を遺棄していたことがわかった。

古川さんの事件について、共犯者の残りの3人がすでに南アフリカ共和国へ逃亡しており、国際刑事警察機構を通じて国際手配された。2004年4月12日に警視庁は主犯格の男を含む逃亡中の3人に対し、逮捕状を取り、長沼さんに対する殺人・死体遺棄・死体損壊容疑で指名手配した。3人のうち2人は古川さんの事件でも国際手配されている。

古川さんに対する殺人罪等で国際手配されていた3人のうち1人は、2004年6月4日にクレジットカード不正利用でアメリカハワイ州の刑務所に服役していたが、刑期を終えたために、警視庁がアメリカ政府に身柄の引き渡しを求め、アメリカ政府がそれに応じ、日本に強制送還され、その後逮捕された。

2011年(平成23年)11月1日、警視庁は古川さんの殺害容疑で国際手配されていた事件当時19歳だった女を逮捕した。女は、逃亡先の南アフリカ共和国から、知人を通じて出頭するために帰国する意向を告げ、成田空港で身柄を拘束された。同年11月23日に女は共謀や殺意の面で立証が困難として、嫌疑不十分で不起訴処分となり釈放された。

2020年(令和2年)8月下旬、南アフリカに逃亡していたうちの別の1人 紙谷惣(当時46歳)が南アフリカの日本大使館に出頭し「日本に帰りたい。金がなくなり逃げられなくなった。奥多摩の事件は自分がやった」と話し、9月3日日本に帰国し成田空港でPCR検査を受けた後に逮捕された。

3人のうちリーダー格とされる最後の一人 松井知行(当時50歳)については、2016年(平成28年)12月頃に南アフリカの海岸で木から首をつって死亡しているのが発見されており、自殺と見られている。なお、2022年7月24日に指紋が照合されたため、警視庁の捜査員が南アフリカに派遣され、遺体が松井のものと矛盾はないという結果が出た。同年10月3日、警視庁は、容疑者死亡のまま書類送検し、この事件の捜査を終結したと発表した。
東京・山梨連続リンチ殺人事件(松井知行・紙谷惣)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年9月15日に東京地裁(合田悦三裁判長)は2人の被告にそれぞれ懲役14年・懲役12年の判決を言い渡した。

2006年(平成18年)3月7日に東京地裁(合田悦三裁判長)は、事件当時17歳の少女に対し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。その後少女が控訴したが、2007年8月に東京高裁は、前述の判決を支持し、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を言い渡した。

2023年(令和5年)3月7日に東京地裁(浅香竜太裁判長)は、南アフリカに逃亡していたうちの1人 紙谷惣(当時46歳)に対し懲役13年の判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 松井知行・・・死亡(自殺)
 紙谷惣・・・2036年3月頃、59歳(懲役13年)

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徳之島兄家族殺傷事件(名古圭志)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年(平成14年)8月16日に鹿児島県の徳之島(大島郡伊仙町)で発生した殺傷事件である。『南日本新聞』では伊仙町母子殺傷事件と呼称される。

2002年8月16日午前11時ごろ、鹿児島県伊仙町在住の団体職員 名古博文さん(当時42歳)の住居において、名古さんの妻 名古和美さん(当時40歳)、長女 千尋さん(当時17歳)、次男(同13歳)の3人が、博文さんの弟である名古圭志(当時32歳)に包丁で刺され、和美さん・千尋さんの2人が死亡、次男が重傷を負った。

本件の犯人 名古圭志(当時32歳)は、1970年(昭和45年)5月7日生まれ。出生と同日に母親が死亡し、施設に預けられた。その後、伊仙町に戻り、父親、兄博文さん、姉、大叔母らと暮らすようになった。高校卒業後、1989年(平成元年)に伊仙町を出て、一時期は関西地方のスーパーや精肉店で働いていたが、やがて暴力団員として活動するようになった。

圭志は2002年2月に父親の病死を契機に暴力団を脱退し伊仙町に帰郷。博文さん方に同居していたが、やがて同じ敷地内にある父親の住居を改築し住みはじめた。同年5月頃から圭志が和美さんや千尋さんに対し干渉するようになり、みかねた博文さんが「自分たち(博文さんと圭志)は兄弟でも、(博文さんの)家族は赤の他人なのだから干渉しないように」と指摘すると、それをきっかけに、圭志は自分が博文さんから無視されていると邪推するようになった。

その後は兄弟の絆を確認しようと思い、自分の住む家の壁を壊すなどの行動に出たが、博文さんは叱ることはなかったため、圭志は博文さんに対し、より強い不信感を抱くようになった。

同年6月ごろ、圭志は夏祭りの準備作業について知人男性とトラブルになり、その際に兄 博文さんが仲裁に入ったが、圭志は博文さんが一方的に男性をかばったと思い込み、博文さんに対する怒りを爆発させ、家族を皆殺しにして博文さんを悲しませようと決意した。

2002年8月16日11時ごろ、圭志は博文さん宅に行き、庭にいた次男の胸を刺身包丁で刺して重傷を負わせた。屋内に入ると、居間で和美さんの胸を一突きにして失血死させた。さらに千尋さんの脇腹などを刺し、さらに完全に絶命させようと千尋さんの胸や背中をメッタ刺しにして殺害した。圭志は犯行の約40分後に徳之島警察署へ出頭し、殺人などの容疑で逮捕された。
徳之島兄家族殺傷事件(名古圭志)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年6月18日に判決公判が開かれ、鹿児島地裁(大原英雄裁判長)は被告人 名古圭志(当時32歳)を求刑通り死刑とする判決を言い渡した。同地裁で言い渡された死刑判決は39年ぶりで、判決理由では「犯行態様が悪質、残虐である、動機に酌むべき余地がない」とされている。圭志は一度は福岡高裁宮崎支部へ控訴したが、同年8月26日付で控訴を取り下げ、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2008年2月1日、福岡拘置所で死刑執行(当時37歳没))

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所沢母子殺害事件(大谷竜次・佐久間義明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年2月8日に埼玉県所沢市の母子が自宅で殺害され浴槽に遺棄された事件。

2018年2月8日埼玉県所沢市西所沢の住宅の浴槽で、この家に住む 入江富美子さん(当時76歳)とその次男 大崎欣孝さん(当時53歳)の遺体が発見された。遺体は水を張られた浴槽の中に富美子さんの遺体の上に欣孝さんの遺体が重ねられていた。司法解剖の結果、死因は富美子さんが溺死、欣孝さんが肺などを刺されたことによる失血死であった。富美子さんには目立った外傷はなかったが現場の状況から浴室内で殺害されたと推定された。

同月12日、欣孝さんの中学時代の同級生で富美子さん方に同居して富美子さんの介護を手伝っていた住所不定、無職 佐久間義明(当時53歳)と佐久間の知人で富美子さん方にも出入りしていた大谷竜次(当時42歳)が欣孝さんの遺体を放置したとして死体遺棄の容疑で埼玉県警所沢署に逮捕されたが、処分保留となり、大谷と佐久間は富美子さんのキャッシュカードで現金を引き出した窃盗容疑で逮捕・起訴された。

大谷と佐久間は上記容疑で公判中の2019年7月1日に欣孝さんへの殺人容疑で逮捕された。さいたま地方検察庁 は大谷を殺人、死体遺棄、窃盗で起訴し、佐久間を死体遺棄で起訴し、殺人に関しては処分保留とした。

2020年12月3日、佐久間と大谷は富美子さんへの殺人容疑で再逮捕された。

佐久間は、殺人容疑については処分保留となり起訴されず、起訴された死体遺棄罪について実刑判決が確定し、大谷の一審判決が下された2022年3月18日時点で既に刑期を終えていた。
所沢母子殺害事件(犯行現場)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 佐久間は、殺人容疑については処分保留となり起訴されず、起訴された死体遺棄罪について実刑判決が確定し、大谷の一審判決が下された2022年3月18日時点で既に刑期を終えていた。

さいたま地方裁判所第5刑事部で行われたXの裁判員裁判(小池健治裁判長、事件番号 令和元年(わ)第854号等)にて、判決は3月18日に下され、大谷に懲役28年(求刑無期懲役)が言い渡された。

大谷側は判決を不服として控訴したが、2審の東京高等裁判所は1審判決を支持し控訴を棄却。最高裁判所第3小法廷は2023年(令和5年)9月26日付で大谷側の上告を棄却する決定をした。

❖出所予定(年齢)
 佐久間義明・・・2022年3月頃、57歳(処分保留のまま刑期終了)
 大谷竜次・・・2051年9月頃、60歳(懲役28年)

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栃木兄弟誘拐殺人事件(下山明宏)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年9月11日、栃木県小山市で兄弟(4歳と3歳)が誘拐され後日、遺体で発見された事件。

被害者家族が同居していた家の家主の男が逮捕された。

知人宅に子供二人を連れて居候しており、その知人男性がどうやら連れ出したようであったが、家に戻っていないとのことだった。
知人の名は、下山明宏(当時39歳)。小学6年生の娘と、小学1年生の息子がいる男だった。

2004年9月11日に小林一斗(こばやしかずと)ちゃん(当時4歳)と隼人(はやと)ちゃん(当時3歳)の兄弟の誘拐事件が発生。

2004年9月13日に男(40歳)が未成年者誘拐の容疑で逮捕される。男は被害者家族と同居しており、家主はこの男である。男は2人を連れまわしたことを1度は認めるが「わからない」と供述が一変する。
2004年9月14日に被疑者が2人の殺害を認めた。その供述通り、思川で弟の遺体が発見される。2004年9月16日に兄の遺体も同じ川で発見される。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年6月4日に被告人が東京拘置所で病死。

❖出所予定(年齢)
 死亡(病没)

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栃木小1女児殺害事件(勝又拓哉)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年(平成17年)12月1日、栃木県今市市(現:日光市)に住む小学1年生の吉田有希ちゃん(当時7歳)が行方不明となり、翌日(2日)に茨城県常陸大宮市の山林で刺殺体となって発見された事件。

2005年12月1日、栃木県今市市(現:日光市)の大沢小学校に通う小学1年生の有希ちゃんが、下校途中に行方不明となった。
有希ちゃんは午後2時50分ごろ、自宅から約1キロ離れた今市市土沢の市道を徒歩で下校途中、三叉路で友人と別れた。現場は雑木林の間に一般住宅が点在し、人通りの少ない場所だった。

家族が駐在所に捜索願を提出した。捜索が開始されたが、発見にいたらなかった。

三叉路から120メートル行った砂利道に曲がる前の場所で地面に残った有希ちゃんの体の匂いが消え、警察犬が反応を示さなくなったため、この辺りで連れ去られたものと考えられる。

2005年12月2日、栃木県警察が公開捜査を開始。午後2時ごろ、有希ちゃんの自宅から60km離れた茨城県常陸大宮市の山林で、野鳥観察をしていた老人3人が遺体を発見。遺棄現場周辺は人通りが少なく、人目につかない場所であった。

2014年6月3日、栃木・茨城両県警察の合同捜査本部は、別件の商標法違反容疑で逮捕され、事件への関与をほのめかす供述をした無職の勝又拓哉(当時32歳)を逮捕した。
栃木小1女児殺害事件(勝又拓哉)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2020年3月4日、最高裁判所第二小法廷(三浦守裁判長)が上告棄却決定。同月17日付で被告人Kの無期懲役が確定。

❖出所予定(年齢)
 2050年3月頃、77歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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栃木女性教師刺殺事件(平田守(13歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1998年(平成10年)1月28日に栃木県黒磯市(現那須塩原市)で発生した中学校内での生徒 平田守(当時13歳)による教師刺殺事件。少年は腰塚佳代子教諭(当時26歳)に授業に遅刻したことを注意された際、カッとなって刺したという。

1998年1月28日午前、栃木県黒磯市内の中学校に登校した加害少年 平田守は、2時間目の国語の授業が終わると保健室に行った。朝から気分が悪かったためとしたが、養護教諭が体温を測定しても異常がなかったため、教室に戻るように促した。

3時間目は、彼が科目も担当の腰塚佳代子教諭も嫌いな英語の授業だった。教室に戻る途中にトイレに寄って友人と雑談していたため、およそ10分ほど遅れて教室に入り、腰塚佳代子教諭から平田守は注意された。その後ノートを開いたと思うと、芯を出さないままシャープペンシルで何か滅茶苦茶にノートに書き、ノートを破り捨てた。さらに席が近い友人の生徒に漫画の話をしていたため、腰塚佳代子教諭に再び注意を受けた。少年 平田守は腰塚佳代子教諭を眼光鋭く睨み付けたが無視された。プライドを傷つけられたと解釈した少年 平田守は、授業が終わる寸前「ぶっ殺してやる!」と口走った。友人は「やめろ、殺すな」と制止した。

授業終了後、腰塚佳代子教諭は授業中に会話を交わした少年 平田守と友人を廊下に呼び出して注意を与えた。

腰塚佳代子教諭が注意していると、少年 平田守はポケットからバタフライナイフ(刃渡り10cm)を取り出して、脅して見せた。

腰塚佳代子教諭がひるまず言い返すと、少年 平田守は教諭の腹部にナイフを突き刺した。

「ギャーッ」と腰塚佳代子教諭の悲鳴が廊下に響いたが、さらに胸、背中と少なくとも7ヶ所を刺された。少年 平田守は最初に腹部を刺したところまでは覚えているが、後は夢中で覚えていないと供述している。なおも少年 平田守は倒れこんだ腰塚佳代子教諭の身体を内臓が破裂するほど蹴り続けたが、これに驚いた友人の通報で隣の教室から飛び出してきた別の教諭に取り押さえられ、通報で駆けつけた警察に補導された。

腰塚佳代子教諭は直ちに病院に搬送されたが、すでに心肺停止状態で、1時間後に出血多量による死亡が確認された。胸に刺された一突きが致命傷だったと思われる。凶器のバタフライナイフは、2,3週間前に黒磯市で買ったものだった。
栃木女性教師刺殺事件(平田守(13歳))
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 黒磯署は少年 平田守を補導した。県北児童相談所は少年 平田守を宇都宮家裁に送致し、少年法にもとづく処分が適用された。

遺族は1999年4月、1億3800万円の損害賠償を求めて少年 平田守の両親を提訴。原告側は、少年に責任能力は無く、賠償責任は両親が負うべきと主張した。被告側は、少年 平田守に不法行為の責任能力は無かったとは言えず、現場にいなかった両親に監督義務はないとして、請求棄却を求めた。2004年9月15日に宇都宮地裁は少年 平田守の責任能力を認め、少年 平田守の両親にも共同不法行為責任があると認定し、8200万円の賠償命令を下した。

❖出所予定(年齢)
 1999年1月頃、14歳、すでに退院(医療少年院は12ヶ月が標準期間)

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栃木リンチ殺人事件(萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1999年12月4日に栃木県で発覚した複数少年らによる拉致・監禁・暴行・恐喝・殺人・死体遺棄事件。

無抵抗な被害者を加害者少年らが連れまわして暴行を加え多額の金銭を奪い、被害者家族が警察に相談していることを知ると被害者を殺害に及んだという凶悪・凄惨な少年犯罪である。また被害者の両親から9回もの捜査依頼を受けながらそれを拒絶し続けた栃木県警察の不手際も世論に衝撃を与え、桶川ストーカー殺人事件とともに一部国民の警察不信の一因となった事件。事件発覚後、栃木県警は世論および裁判所から厳しく批判された。

萩原克彦(主犯・当時19歳)は日頃から、日産自動車社員の梅沢昭博(当時19歳)・無職の村上博紀(当時19歳)から金銭を巻き上げていたが、やがて梅沢は会社の同期で性格がおとなしい須藤正和さん(当時19歳)を身代わりにたてることを思いついた。そして1999年9月29日、梅沢が須藤さんを電話で呼び出すと、萩原らは須藤さんを拉致し、サラ金から次々と借金をさせて、自分たちの遊興費にあてた。

須藤さんがサラ金から借金を拒絶されるようになると、今度は須藤さんの知人や友人から金を借りさせ、およそ2ヶ月にわたって須藤さんを連れまわした。その間、須藤さんをホテルなどに監禁し、最高温度のシャワーをかける「熱湯コマーシャル」、殺虫スプレーにライターで火をつけ浴びせかける「火炎放射器」などのリンチを加え、須藤さんを散々にいたぶった。それにより須藤さんの肌は焼けただれ、顔ははれあがった。

死体を検死した段階では皮膚の8割が火傷を負い、「たとえ絞殺されなくともいずれ死亡したと思われる」ほどに酷い外傷であったにもかかわらず、病院に一度連れて行ったきり(しかもAらが診察室までついて入り須藤さんに心理的圧迫を加え、腕の火傷しか見させなかった)で何の治療も施さず、火傷した皮膚にさらに90℃以上のポットの熱湯をかけ風呂場に連れ込んで熱湯シャワーをかけ(「熱湯コマーシャル」は日常化していた)、抵抗すると殴り続けるなどのリンチを加えていた。

須藤さんの失踪に不審を抱いた須藤さんの両親は栃木県石橋警察署(現・下野警察署)に捜査を依頼するが、応対した担当官は「お宅の息子さんが悪いんじゃないの」「仲間に金を分け与えて、面白おかしく遊んでいるんだろう」「麻薬でもやっているんじゃないの」「警察は事件にならないと動かないんだよ」などと須藤さんの両親を突き放し、まったく取り合おうとはしなかった。

やがて、須藤さんから両親のもとに、たびたび金を無心する電話がかかるようになり、両親は須藤さんの安全のために金を振り込み続けた。その金を銀行に下ろしに来た須藤さんの姿が銀行の防犯ビデオに映っていた。ビデオに映っていた須藤さんの外見は、髪を丸坊主にされ眉をそり落とされ、更に火傷や殴られた跡があり失踪前とかなり異なっていた。

銀行の関係者は「須藤さんの後ろに複数の男たちがついていました。いつでもビデオを証拠として提出する用意があるので警察に相談してください」と須藤さんの両親に勧め、須藤さんの両親は再び石橋警察署を訪れ、ビデオテープを証拠品として銀行から取り寄せるよう依頼した。

しかし、石橋警察署の署員は「裁判所の許可もないのにそんなことできない」と再び突き放した(署員の発言は令状のことを指したものと思われるが、銀行関係者の発言から任意の提出に応じた可能性はある)。その際、須藤さんから両親の携帯電話に電話がかかってきた。

須藤さんの父親は事態が逼迫していることを理解してもらうべく「お父さんの友人がいるから」と友人に見立て、警察官に携帯電話を渡した。しかし、その警察官が「石橋署の警察官だ」と名乗ってしまい、電話は切られた。警察官は「あ、切れちゃった」と言って、携帯電話を父親に返したという。

一部では、萩原らはこの出来事によって警察の捜査が自分たちに迫っていると考え、須藤さんの殺害を決意したのではないかという見方がされている。のちにこの刑事の不用意な発言が須藤さんの殺害計画のきっかけとなったことが裁判で認定された。殺害の理由としては他に、あまりにも壮絶なリンチを加え続けたがゆえに、須藤さんの身体には既に不可逆的な傷が残されており、須藤さんを生かしていたら事件発覚は免れないと判断したからだという。

1999年12月2日、犯行に途中から加わった高校生のD(当時16歳)とともに萩原らは、須藤さんを紐で首を絞め殺害した。そして市貝町の山林に埋め、死体を埋めた穴にコンクリートを流し込んだ。死体を埋めるコンクリートやベニヤ板、スコップ、砂利を調達するのに使われたのは、須藤さんの最後の給料だった。このとき須藤さんは退職扱いとなっていた。

死体を隠した後、萩原らは「十五年逃げ切ればいい(当時の殺人罪の公訴時効が15年であるため)」と、『追悼花火大会』と称して花火で遊ぶなどしていた。しかし、良心の呵責に耐えられなかったDが12月4日、警視庁三田警察署に自首し、事件が発覚した。警視庁は早速、三田警察署内に捜査本部を設置し、Dの証言にもとづいて須藤さんの遺体を発見。翌日警視庁は萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀(全員当時19歳)を逮捕した。
栃木リンチ殺人事件(左:梅沢昭博、中央:萩原克彦・主犯、右:村上博紀)
左:梅沢昭博、中央:萩原克彦・主犯、右:村上博紀

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 自首によって事件解決のきっかけをつくったDは酌量が認められ少年院送致となった。萩原・梅沢・Cも事件当時、未成年だったが、東京家庭裁判所は刑事処分相当として逆送し、宇都宮地方検察庁は殺人・死体遺棄罪で萩原らを起訴した。須藤さんの遺族は強盗殺人罪で起訴するよう宇都宮検察審査会に陳述書を提出したが、棄却されている。

2000年6月1日、宇都宮地方裁判所は、「犯行は計画的で凶悪。極めて自己中心的で酌量の余地は全くない」として萩原・梅沢に求刑通り無期懲役、村上に求刑通り懲役5~10年の判決を下した。萩原は控訴したが、2001年1月29日、東京高等裁判所は控訴を棄却。その後上告も棄却され、萩原の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 萩原克彦(主犯)・・・2031年1月頃、50歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 梅沢昭博・・・2030年6月頃、49歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 村上博紀・・・2010年6月頃、29歳(懲役10年、すでに出所)

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鳥取連続不審死事件(上田美由紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)から2009年(平成21年)にかけて鳥取県で、上田美由紀(逮捕時35歳、スナックの元ホステス)の周辺で起こった6件の連続不審死事件である。

捜査の結果、上田による強盗殺人2件、自殺2件、事故死1件、病死1件とされた。

2009年4月発生のトラック運転手の溺死事件(後述の第4の事案)に関し、鳥取県警察はスナックの元ホステスの上田の捜査を開始した。

2009年10月には上田の周辺で2件の不審死事案(第5・第6の事案)が発生した。鳥取県警は2009年11月2日に別件の詐欺容疑で上田を逮捕し、強制捜査に乗り出した。また上田周辺での過去の不審死事案3件を含めて「鳥取連続不審死」として改めて捜査することとなった。

警察による捜査の結果、うち2件が強盗殺人として上田を逮捕。その他の事案は自殺2件、事故死1件、病死1件とされた。

◆第1の事案(自殺)
 1999年に鳥取に赴任した新聞記者の古川司さん(当時42歳)は、2001年ごろ上田が勤めるスナックで上田と出会い、2003年には妻子があるにもかかわらず上田と交際・同棲するようになる。また、その時期には古川さんは周囲に借金してまわる様になった。そんななか、2004年5月13日、鳥取市内のJR・因美線で古川さんの轢死体が発見された。周囲には段ボールの破片が散乱しており、段ボールを被るか、段ボール箱の中に入る状態だったと推察された。段ボールには「上田に出会えてよかった。本当の愛を知った」と走り書きがあり、また勤務先の新聞社には「迷惑をかけた」との遺書らしきものが残されており、警察は「自殺」と判断し、司法解剖なども行われなかった。

◆第2の事案(事故死)
 警備員として警備会社勤務の古田新一さん(当時27歳)は、2001年ごろ女Uが勤めるスナックで上田と出会い、古田さんの実弟も含め上田と遊び友達になると、2005年ごろには上田宅に居候し、上田の子供の面倒を見るなどしていた。2007年8月18日、古田さんは上田家族とともに鳥取砂丘近くの海辺に貝採りに出かけ、沖合約200メートル水深約2メートルの地点の海底に沈んでいるのが発見された。救助後に病院に搬送されたが、同年8月27日に蘇生後脳症で死亡した。警察および病院は特に疑念を抱かず、事故として処理された。

◆第3の事案(自殺)
 鳥取県警刑事の藤田格さん(当時41歳)は、2007年ごろ捜査の一環として上田が勤めるスナックを訪れたのをきっかけに、同スナックの常連となり、妻子がありながら上田と交際するようになった。2008年2月、鳥取県内の山中で首を吊った状態で発見された。警察は自殺と判断し、司法解剖なども行われなかったとされる。

◆第4の事案(上田による強盗殺人)
 トラック運転手の矢部和実さん(当時47歳)は、2008年2月ころより上田と交際をしており、上田に対し300万円ほどの金銭も渡していた。2009年4月11日、鳥取県北栄町の沖合約600メートル水深約3メートルの海底で矢部さんが全裸の水死体で発見され、司法解剖の結果、死因は溺死、体内から睡眠導入剤が検出されるとともに、通常の溺死では普通見られない肺からの砂が検出された。2010年3月3日に鳥取県警は強盗殺人容疑で上田を逮捕した。

◆第5の事案(上田による強盗殺人)
 鳥取市内で電器店を経営する円山秀樹さん(当時57歳)は、2009年夏ごろに上田および上田の交際相手で同棲中の安東儀導(当時46歳)に対して100万円を超える家電製品を掛け売りで納品していた。2009年10月7日、鳥取市の摩尼山中腹の摩尼川にて、円山さんが顔に傷、うつ伏せの状態で水死しているのが発見された。司法解剖の結果、睡眠導入剤が検出された。状況証拠などから、2010年1月28日に鳥取県警は強盗殺人容疑で上田を逮捕した。

◆第6の事案(病死)
 上田宅の近隣のアパートに住む田口和美さん(当時58歳)は、ホテル従業員だったが、2009年に脳梗塞を患い、以後、職を失い生活保護を受けて生活していた。朝日新聞によると関係者の証言として「同年10月26日夕刻、男Gの意識が混濁し、上田が田口さんに錠剤を服用させていた」。翌27日朝には病院に救急搬送されるも死亡が確認された。遺体は司法解剖され、体内から睡眠導入剤が検出された。県警は、上田との関連を捜査するも、男Gは心臓に持病があったこと、死亡と睡眠導入剤との因果関係が不明なことなどにより最終的には病死と判断した。
鳥取連続不審死事件(上田美由紀)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年6月29日に開かれた上告審弁論では、弁護側は強盗殺人2件について、2件とも「睡眠導入剤により意識が朦朧とする被害者を誘導・入水させる行為は上田には不可能」と無罪を主張し、検察側は「犯行は十分可能」と上告棄却を求め、結審した。

2017年7月27日、最高裁第1小法廷は「第1審・控訴審の過程で憲法違反無し。各種の状況証拠・動機は合理的な疑義を払拭する程度に証明済で、上田が犯人であるとする第1審・控訴審の判決は正当。犯行経緯・動機・計画性などから第1審・控訴審での死刑との量刑も已む無し」として、上告を棄却した。

弁護側は最高裁判所に対し上告棄却判決の訂正申し立てを行ったが、最高裁判所は2017年8月23日に棄却の決定を出した。これにより、上田の死刑判決が確定した。

2023年(令和5年)1月15日、法務省は、広島拘置所に収容されていた上田死刑囚が、前日14日の午後4時すぎ、拘置所の自室で食べ物を喉に詰まらせ、窒息死したと発表した。

❖出所予定(年齢)
 死亡(事故)

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富岡八幡宮殺人事件(富岡茂永・富岡真里子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年(平成29年)12月7日に東京都江東区の富岡八幡宮近郊と敷地内で起こった連続殺人事件である。

2017年12月7日、富岡八幡宮第21代宮司  富岡長子さん(当時58歳)が、神社近郊の路上で前々任の第20代宮司であった実弟 富岡茂永(当時56歳)に日本刀で斬りつけられ、殺害された。富岡長子さんが搭乗していた車の運転手も、共謀していたと思われる富岡茂永の妻 富岡真里子(当時49歳)などに追跡され、傷害を負ったが命に別状はなかった。その後、富岡茂永はYを神社敷地内で殺害した後、自殺した。

1995年、富岡茂永は、実父である第19代宮司(以下、19代目)から、地位を受け継ぎ、同神社の第20代宮司に就任した。富岡茂永は参拝者を広く呼び込むために、勧進相撲発祥地であり、横綱力士碑が建立されていることなどを利用し、新横綱の土俵入りを記念する興行などを神社で行い、来訪者を集めていた。その一方で富岡茂永は、神社の賽銭などを使って、銀座などのクラブで飲み歩いたり、ラスベガスのカジノで賭博を日常的に行ったりするなどの放蕩行為が問題視されていた。

これを見兼ねた19代目の意向を受け、2001年には富岡茂永の宮司の職階が解かれ、19代目が宮司に復帰した。この頃から、富岡茂永は、解任されたことへの逆恨みから、怪文書を送りつけるようになり、2006年には「積年の恨み。地獄へ送る」と脅迫的な内容の葉書を実姉である富岡長子さんに送付したことで、警視庁に逮捕された。

2010年、19代目は高齢のため宮司の職を退き、後継者として禰宜であった富岡長子さんを指名したが、神社本庁からの返答はなく、事実上宮司就任拒否の状態が続いたため、長期にわたって宮司が存在しない空位になった。富岡長子さん側も弁護士を介入させ、就任拒否に抗弁するも突き返されるなど、話し合いが一向に進展しないことに業を煮やし、2017年9月28日、同神社の責任役員会は、神社本庁より脱退した。

2017年12月7日の夜更け、富岡長子さんが八幡宮に帰宅し、車から降りようとしていたところを、物陰に隠れていた富岡茂永と富岡真里子は日本刀を振りかざし、富岡長子さんと車の運転手の両名を襲撃した。富岡茂永は、逃走する富岡長子さんの背後から後ろ首を斬りつけ、次に胸へ日本刀を突き刺した。

思い切り刺したせいで、日本刀は破損し折れた。富岡真里子はスーパーマーケットまで逃げた運転手の右肩から右腕にかけて斬りつけるも、「お前だけは許してやる」と吐き捨てて、逃走した。富岡茂永と富岡真里子は2人で敷地内まで逃げた末、富岡茂永は境内にてサバイバルナイフで富岡真里子の胸や腹を刺して殺害した後、自身の左胸を刺して富岡茂永は自殺した。
富岡八幡宮殺人事件(左が富岡長子さんと右が富岡茂永)
左が富岡長子さん、右が富岡茂永(犯人)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被疑者死亡のまま殺人容疑などで書類送検

❖出所予定(年齢)
 富岡茂永・・・死亡(自殺)
 富岡真里子・・・死亡(富岡茂永による殺害)

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富山市奥田交番襲撃事件(島津慧大)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年(平成30年)6月26日に富山県富山市久方町にある富山中央警察署奥田交番で発生した警察官襲撃事件。

2018年6月26日午後2時10分頃、富山県富山市久方町に所在する富山中央警察署奥田交番裏口をノックする音が聞こえた。交番には所長である稲泉健一警部補(事件当時46歳)と交番相談員1名が勤務についており、稲泉警部補が裏口を開けたところを突如、島津慧大(当時21歳)が襲い掛かってきた。稲泉警部補は全身約30か所を刺され貸与されていた拳銃を奪われた。

島津は拳銃を所持したまま逃走し交番相談員が交番向かいの美容室に助けを求めたことから事件が発覚した。さらに島津は逃走の途中富山市立奥田小学校正門付近で誘導警備にあたっていた警備員 中村信一さん(当時68歳)に向け拳銃を発砲うち2発が中村さんに命中した。中村さんは病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。島津はなおも奥田小学校の敷地内に侵入したが、駆け付けた警察官が島津に向けて警告をしたのち拳銃を発砲。左腹部に被弾し身柄を確保された。
富山市奥田交番襲撃事件(交番)
富山市奥田交番襲撃事件(島津慧大)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2022年3月24日に控訴審判決公判が開かれ、名古屋高裁金沢支部(森浩史裁判長)は強盗殺人罪の成立を否定した上で無期懲役を言い渡した第一審・富山地裁の判決を破棄し、審理を同地裁に差し戻す判決を言い渡した。同高裁は判決理由で「島津は警官が拳銃を所持していることを意識しており、拳銃を奪う目的で交番を襲撃したと考えるのが自然な見方だ」と指摘して、強盗殺人罪の成立を前提として審理をし直すように命じ、一審判決に事実誤認があったとした。

2022年4月4日、弁護側は「(本判決は)憲法違反がある」と主張した上で、差し戻し判決を不服とし最高裁判所に上告した。

❖民事訴訟
 2021年6月11日、中村信一さんの妻は、富山県警察の初動対応が不十分だったなどとして、犯人 島津慧大と富山県に約2600万円の損害賠償を求める訴訟を、富山地方裁判所に提訴した。

訴状によると、「島津が交番を襲って銃を奪い逃走しているのに、県警本部通信指令課は近隣住民や通行人らを避難させるよう指示せず、現場に到着した警察官らも行動を怠り、このため中村さんは危険を認識できず、至近距離から撃たれて死亡した。通信指令課が現場の警察官に指示を出し、付近住民や通行人にパトカーの拡声器などで警告を発していれば、被害者の生命の危険は回避できた」などとしている。

2022年3月23日、富山地裁(松井洋裁判長)は原告側(中村さんの妻)の主張を認め、島津に約2600万円の賠償を命じる判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 公判中(最高裁判所に上告)

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豊川市一家5人殺傷事件(岩瀬高之)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年4月17日に愛知県豊川市で、無職の男が自分の両親など一家5人を殺傷した事件である。

2010年4月16日午前2時40分頃、豊川市伊奈町前山に住む58歳の男性宅で、長男 岩瀬高之(当時30歳)が父親 岩瀬一美さん(当時58歳)と三男夫婦の長女 金丸友美ちゃん(当時1歳)を殺害し、また母親 正子さん(当時58歳)と三男 文彦さん(当時22歳)と三男の内縁の妻(当時27歳)に怪我を負わせ、自室の布団に火をつけて家を半焼させた。長男はその後、近所の葬儀場の敷地で現行犯逮捕された。

長男は中学校を卒業後、製菓工場に勤めるも1年ほどで退職。以後は職に就かず、十数年の間引きこもりの状態で、インターネットオークションで200万 - 300万円の借金を抱えていた。借金が原因でインターネットを解約されたことに激怒し一家を殺傷したのち、自宅の布団に火をつけた。事件前たびたびパトカーが駆けつける騒ぎになっていた。

2010年5月7日、長男は自宅への放火容疑で再逮捕された。警察は岩瀬高之の精神鑑定を行なった。
豊川市一家5人殺傷事件(岩瀬高之)
豊川市一家5人殺傷事件(家族構成)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 精神鑑定では岩瀬高之に中程度の知的障害と自閉症があるという鑑定結果が出された。2011年11月30日の名古屋地裁での公判で検察側は無期懲役を求刑。12月7日に懲役30年の実刑判決が言い渡された。2012年11月19日、最高裁判所第二小法廷(小貫芳信裁判長)は上告を棄却した。

❖出所予定(年齢)
 2042年11月頃、60歳(懲役30年)

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豊川市主婦殺人事件(少年)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)5月1日に日本の愛知県豊川市で発生した少年による殺人事件。

少年(当時17歳)が主婦 筒井喜代さん(当時64歳)を40ヶ所刺して殺したうえに、夫 筒井弘さん(当時67歳)にも軽傷を負わせた。その後、前もって竹藪に隠してあった服に着替えて逃走したが、竹藪に自分の鞄を置き忘れていった。

豊川市の住宅で、妻が血だらけで倒れているのを帰宅した夫が発見して通報。妻は金槌で殴打されたうえ、包丁で首などを刺され死亡した。その直前に少年が家から飛び出したのを夫が目撃し、格闘したが首などを刺されて軽傷[要出典]を負った。

少年は近くの高校の制服であるブレザーを着ていた。逮捕後の供述によると、その日たまたま家の前を通りかかり、玄関が少し空いていたのと表札から年寄りと思い、家の中に侵入した。事件を起こしたあと、最寄り駅まで逃走し、公衆トイレで一夜を過ごしたあと、「寒くて疲れた」ため交番に自首した。
豊川市主婦殺人事件(殺害現場)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 犯人は、動機として「殺人の体験をしてみたかった(人を殺してみたかった)。」「未来のある人は避けたかったので老女を狙った」と供述していたが、学校内ではソフトテニス部に所属し、後輩からの信頼も厚く、しかも極めて成績優秀であると見られていたため、その評判と犯罪行為との乖離が疑問とされた。そのため精神鑑定がなされ、1回目の鑑定では「分裂病質人格障害か分裂気質者」と出されたが、2回目の鑑定では「犯行時はアスペルガー症候群が原因の心神耗弱状態であった」という結果が出され、2回目の鑑定を認定し、2000年12月26日に名古屋家庭裁判所は医療少年院送付の保護処分が決定した。2回目の鑑定医師団には児童精神医学の専門医が鑑定団の一人として加わっていた。

アスペルガー症候群は先天性の発達障害であり、知能と言語能力に問題のない自閉症の一種である。対人関係の構築に困難があるため、二次的な障害として社会生活に対する不適応がみられることがある。この事件は、文部省(当時)に広い範囲における高機能自閉症児に対する早期の教育支援が必要であることを認識させ、後に特別支援教育として制度化されることになった。

❖出所予定(年齢)
 2008年12月頃、25歳、すでに退院(医療少年院にて最大25歳収容と仮定)

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豊田2人刺殺事件(実名未公表x)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1995年(平成7年)5月3日に日本の愛知県豊田市越戸町で発生した殺人事件。

被告人が統合失調症と認定されたため公判停止となり、17年後の2014年(平成26年)に公判が再開された。第一審では公訴棄却の判断が示されたが、控訴審では審理差し戻しの判決が言い渡されため、弁護側が上告したところ、最高裁判所は「被告人の訴訟能力に回復の見込みがない場合、検察の(公訴)取り消しの有無にかかわらず裁判所が裁判を打ち切ることができる」という判断を初めて示した。

1995年5月3日正午過ぎ、愛知県豊田市越戸町の神社「天満宮」の境内で、無職の男性X(当時52歳・以下「加害者」または「被告人」)が男性 塚田鍵治さん(当時66歳)と、彼の孫である男児 翔輝ちゃん(当時1歳)の2人を刺殺し、駆け付けた愛知県警察の警察官に現行犯逮捕された。加害者Xは当初「朝起きたときからむしゃくしゃしていた」と話して容疑を認めていたが、意味不明な供述も多かった。Xは20歳代のころに数年ほど精神病院に入院していた過去があった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 名古屋地方検察庁岡崎支部は4か月間の鑑定留置(精神鑑定)の後、「加害者Xには刑事責任能力がある」として、Xを1995年9月に起訴した。名古屋地方裁判所岡崎支部で公判が7回開かれたが、被告人Xは1997年(平成9年)3月に統合失調症と鑑定されたため、同地裁支部は弁護側の「被告人Xは病気で訴訟能力がない」という主張を認めて公判停止を決定した。被告人Xは公判停止後に医療施設に措置入院となったが、ほとんど会話が成立せず、介護が必要な状態なほど病状が悪化した。

2014年(平成26年)3月に名古屋地裁岡崎支部は17年ぶりに公判を再開する意向を示し、弁護側は公訴棄却を求めた一方、検察側は公判継続の意見書を提出した。

2016年(平成28年)12月19日に最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は「形式的に裁判が継続しているに過ぎない状態を続けることを刑事訴訟法は予定していない。被告人Xに訴訟能力が回復する見込みがなければ、検察が起訴を取り消したかどうかに関わらず、裁判所は裁判を打ち切ることができる」との初判断を示し、審理を続行させる判断をした二審判決を破棄自判して、裁判を打ち切る公訴棄却とする一審判決が確定した。被告人Xは73歳になっていた。

❖出所予定(年齢)
 一審判決未公表につき不明

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豊橋小2女児誘拐殺人事件(浦山裕司)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1989年10月11日に愛知県豊橋市で発生した身代金誘拐殺人事件である。

1989年10月11日16時頃、豊橋市西山町で小林美幸子(みさこ)ちゃん(当時8歳)が行方不明となる。
同日18時過ぎ、美幸子ちゃんの家に三河訛りの男の声で身代金1000万円を要求する電話があり、父親が110番通報。19時15分、愛知県警はNTT豊橋支店へ美幸子ちゃん宅に掛かる電話の逆探知を依頼する。この後も数回電話があり、女児が出たこともあった。

21時1分、犯人は身代金の金額を500万円に半減する電話を掛けてきた。

犯人はこの日、22時39分までに合計12回の電話を掛けてくるが、ここから約8時間連絡が途絶えた。
犯人は朝「現金を持参して二川駅から電車で浜松まで行き、駅前の喫茶店で待て」と父親を浜松市に向かわせ、「11時43分浜松発豊橋行東海道線の最後尾左側に乗り、ピンクの傘が見えたら金を落とせ」と指示を出す。

直後の11時46分、警戒中の警察官が、浜松市篠原町(現在・浜松市西区篠原町)にて狭い踏切を無理やり通過した不審車両(クレスタ・スーパールーセント白色「豊橋55 す21-22」)を発見し、追跡するも振り切られた。男が1人で乗車していた。

この後も愛知・静岡両県境付近で手配車両を追いつめる機会が複数回あったものの、犯人は車ごと捜査車両に体当たりし、狭路でも車体をこすりつけながら猛スピードで逃走を繰り返したため逃げられてしまう。

14時40分、静岡県湖西市白須賀の山中にて、静岡県警の警察官が脱輪状態で放置されている手配車両を発見し、近くにいた浦山裕司(当時27歳)に任意同行を求める。

10月13日未明に浦山の自宅や経営していた店に家宅捜索が入り、浦山を身代金目的誘拐容疑で逮捕するとともに朝から美幸子ちゃんの捜索を始める。午後、山中に埋められていた美幸子ちゃんが遺体で発見された。

美幸子ちゃんは誘拐された直後に車のトランクに入れられ衰弱していたところを男に殴打され、生き埋めにされたのが死因であった。

浦山は住宅ローンを始め友人や知人、サラ金からも合わせた借金の総額は2430万円に及んでいた。
サラ金への返済期限が迫っていたが金の工面が出来ず、身代金目的誘拐で金を得て返済しようと企てたものであった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1994年9月、名古屋地裁豊橋支部で無期懲役の判決となった。

❖出所予定(年齢)
 2024年9月頃、57歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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ドラム缶女性焼殺事件(野村哲也・川村幸也・牧田晃和・牧田光希・白沢秀樹・池田浩市)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)4月4日未明、愛知県名古屋市千種区振甫町2丁目の路上で女性2人が拉致され、同県瀬戸市北白坂町の山中で焼き殺された強盗殺人・死体損壊事件である。

◆登場人物

・加害者
 野村哲也(当時33歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行
 川村幸也(当時38歳)主犯格、2009年1月29日に死刑執行

 牧田晃和(当時40歳)牧田光希の兄、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
 牧田光希(当時37歳)牧田晃和の弟、死刑求刑に対し無期懲役判決が確定
 白沢秀樹(当時45歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定
 池田浩市(当時28歳)懲役15年求刑に対し懲役12年判決が確定

・被害者(負傷者1人、死者2人の合計3人)
 深谷茂樹さん(当時56歳)愛知県名古屋市で喫茶店を経営し、個人で金貸し業も営む
 深谷洋子さん(当時65歳)深谷さんの妻
 高橋勝子さん(当時59歳)洋子さんの実妹で、男性経営の喫茶店の従業員として働く
ドラム缶女性焼殺事件(野村哲也・川村幸也)
左が川村幸也、右が野村哲也の主犯格の2人

◆事件の背景
 事件の4か月ほど前の12月初旬。野村哲也(犯行当時33歳)の父親が経営する金融会社が、名古屋市内の喫茶店経営・深谷茂樹さん(事件当時56歳)に貸し付けた240万円(手形)が焦げ付いており、父親は野村に対してその取り立てを任していた。
しかし、取り立ては難航。12月13日、なんとか深谷さんと接触し、手形の支払い、もしくは深谷さんが乗るクラウンマジェスタの引き渡しなどを求めた。

深谷さんは所有する不動産を売却して支払うという念書は書いたが、それ以上の事には応じられないと言った。

何の進展もないままに4月に入り、しびれを切らした野村の実父は、手形の取り立てについて野村を叱責した。焦った野村は、川村に相談し、自分らの取り分60万円を差し引いた180万円を早急に実父に渡す必要があると考え、2月に失敗した深谷さんの拉致計画をもう一度実行することを決めた。

◆犯人たちの関係性
 犯人全員は愛知県春日井市の運送会社で一緒に働いていた時期があった。川村幸也(犯行当時38歳)はその後退職し、春日井市内で中古車販売業を営んでいた。

1999(平成11)年、川村は野村に対し、休眠会社を買い取って別会社を設立し、商品を買って売り抜けた後計画的に倒産させる、という方法で商品代金の支払いを免れる「引き屋」と呼ばれる商売を持ち掛けた。完全な詐欺であるが、もともと暴力団関係に近い父親の存在があった野村はそれを承諾し、川村も野村の同意を得たことから牧田光希(当時37歳、以後弟)・牧田光希(弟)・白沢秀樹(当時45歳)・池田浩市(当時28歳)らも誘い込んだ。

牧田らはすでにかなりの額の借金を抱えていたこともあって、川村と野村の儲け話を鵜呑みにし、さらには4人の中で唯一ブラックリストに載っていなかった牧田兄を社長に据えた。
首謀者であったはずの川村と野村は、万が一のことを考えて自分たちの名前は表に出さないように仕組んでいた。

詐欺会社を設立したのち、当初はそうでもなかった男らの立ち位置というものが次第にはっきりしてくる。社長はあくまで牧田兄であったが、事実上のリーダーは川村と野村であり、特に川村は、右足の膝下がなく、それについて「以前ヤクザともめて切られた」「背中一面に入れ墨がある」などと吹聴していたことから、野村以外の4人は川村に対して一目置いていた。

4人とて、言われるがままに最初から服従していたわけではなかった。
牧田兄は役員に据えられていたものの、相当な出資もさせられており、会社を辞めたい旨を漏らしていた。しかしそのたびに、川村と野村から家族に危険が及ぶかのようなことを言われたり、暴行を加えられるなどし、さらには妻の借金問題などで形式上の離婚もするなど、相当に追い詰められていた牧田兄は、平成12年2月に自殺を図るが、失敗に終わる。

同じく取り込み詐欺の会社に嫌気がさしていた池田は、平成11年の年末から翌12年の1月にかけて、実家に身を隠すなどして川村と野村から離れようと試みている。しかし、川村と野村はすぐさま実家を探り当て、池田に対して「事業の遂行に努力し、違約の場合はいかなる処罰や処分も甘受する」というとんでもない念書を作成させられ、連れ戻された。

このような状態を断ち切るために野村は、会社を受取人とする生命保険を4人にかけた。災害死亡で6,000万円、それ以外の死亡時には5,000万円が会社に入るもので、何かあるたびに川村らは、「誰が死ぬんだ。死ぬとしたら事故死だ。」などと言って4人を黙らせた。4人にはもはや、逃げ出す手段を考える力さえも、残っていなかった。

◆事件概要
・最初の凶行と拉致監禁
 犯行日2000年4月4日、池田浩市(当時28歳)の運転するクラウンに乗車した野村哲也(犯行当時33歳)・川村幸也(犯行当時38歳)両名は深谷茂樹さん(事件当時56歳)の経営する喫茶店付近に到着し、深谷さんらが喫茶店から出てくるところを見張った。

池田の運転するクラウンに乗車した野村・川村両名は深谷さんの経営する喫茶店付近に到着し、深谷さんらが喫茶店から出てくるところを見張った。一方で牧田光希(当時37歳、以後弟)が運転するスペクトロンに乗車した牧田光希(弟)・白沢秀樹(当時45歳)両名は助手席に牧田晃和(当時40歳、以後兄)だけを残し千種区内の深谷さん宅車庫付近の路上で帰宅を待ち伏せた。

野村・川村・池田の3人は被害者深谷さんが閉店後、妻の深谷洋子さん(事件当時65歳)・喫茶店従業員の義妹 高橋勝子さん(事件当時59歳、深谷さんの妻 深谷洋子さんの妹)とともにサウナに向かうところを確認した。

2000年4月4日午前0時30分頃、深谷さんはマジェスタを運転して自宅前に到着した。

マジェスタのトランクを開けて荷物を取り出そうとした。その直後、角材を持った白沢が深谷さんの背後に走り寄り、深谷さんの頭部などを角材で数回殴打して全治約2週間の頭部挫傷・挫滅創・右前腕打撲などの怪我を負わせた。深谷さんは助けを求めようと近くの知人宅に逃げ込んだため、白沢はその後を追ったが途中で見失った。

クラウンに乗車して深谷さんのマジェスタを追尾していた野村・川村・池田の3人は、深谷さん・妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんの3人がマジェスタから降車した直後、白沢が深谷さんを襲撃したことを確認したため、川村は野村・池田両名に対し、「何をしてる。あいつら(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢)だけじゃやりきれないから早く行け」などと怒鳴り、深谷さん・妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんの3人を全員監禁するように指示した。

牧田晃和(兄)がスペクトロン車内のBの左側に乗車してドアを閉め、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者をスペクトロン車内に監禁した。

野村・川村両名はその後、犯行現場付近にあるナゴヤドーム(名古屋市東区)付近で川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・池田の4人と合流したが、その時に池田が「奪ったマジェスタの残り燃料が少ない」と申し出たため、野村は池田に「ガソリンスタンドで給油した後、集合場所に指定した愛知県瀬戸市内の自動車学校に来て合流しろ」と指示した。

・思わぬ任意同行
野村から指示を受けた池田はガソリンスタンドでマジェスタに給油後、野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人と落ち合うため瀬戸市内の自動車学校に向かおうとしたが、池田が自分の携帯電話を川村が運転するクラウン車内に置き忘れたことに気付き、白沢と互いに「他のメンバーとどう居場所を連絡し合おうか?」と相談しながら走行していた。その途中の2000年4月4日午前1時17分頃、Aからの110番通報を受けて緊急配備についていた愛知県警察の警察官らが「被害車両のナンバープレート情報と一致するマジェスタ」を発見した。

乗車していた白沢・池田は現場から北東約6km離れた千種区香流橋2丁目の県道交差点で信号待ちのため停車していたところ、警察官から職務質問を受けて愛知県警千種警察署に任意同行された。白沢・池田両被疑者は千種署にて「深谷さんを襲撃してマジェスタなどを強取した強盗致傷容疑」「妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を拉致して監禁した逮捕・監禁容疑」で取り調べを受け、前者については認めたが後者については否認したまま、同日午前3時頃に強盗致傷罪の被疑事実で緊急逮捕された。取り調べの当初、白沢・池田両被疑者は「自分たち2人でやったことだ」と話して共犯者の野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人の存在を秘匿し、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の安否についても話さなかった。

一方で野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人は集合場所の自動車学校に到着して白沢・池田両名を待ち、その間に牧田晃和(兄)が妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の両足をガムテープで緊縛したが、前述のように警察に取り押さえられた白沢・池田両名は自動車学校にやってこなかったため、野村・川村両名はクラウンを走行させて付近を捜したが、2人を見つけることはできなかった。

そのため野村・川村両名は自分たち残った4人で犯行計画を続行することに決め、川村が運転して野村が同乗するクラウンが先頭を走り、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を監禁した状態で牧田光希(弟)が運転し牧田晃和(兄)が同乗したスペクトロンがクラウンに続く形で自動車学校を後にし、殺害場所を探した。

野村・川村両名は2000年4月4日午前2時30分頃、愛知県瀬戸市北白坂町内にある「東京大学大学院農学部生命科学研究科附属演習林 愛知演習林」内まで移動したところ、林内にある山道の途中に自動車を駐車できる空き地を見つけ、その場所を殺害場所とすることを決めた上でそこにクラウンを駐車し、続いてWもスペクトロンを同所に駐車した。

・生きたまま焼き殺してチェーンソーで解体、証拠隠滅
野村・川村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の4人はスペクトロンから積載してあったドラム缶2缶を下ろし、空き地に並べておいて蓋を開けると、野村が牧田晃和(兄)に「風呂にでも入ってもらえ」などと言い、スペクトロン車内で助けを求めるように唸り声を上げていた妻の洋子さんを牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名にドラム缶の中へ運び入れさせて立たせた。

野村はその後、ドラム缶内で立っていた妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を座らせるよう指示し、これを受けたW・X両名は妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の頭・肩を手で押し込んでドラム缶内に座らせた。すると川村がスペクトロン車内に積載されていた約4リットルのガソリン混合油の入ったエンジンオイル缶を持ち出して野村に渡し、野村がその缶の蓋を開けて義妹(妻の妹)の勝子さんの頭から約1リットルのガソリン混合油をかけ、続いて妻の洋子さんにも頭から約1リットルのガソリン混合油をかけた。

妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんはこれから自らの身に起ることに気づき、懇願した。
「助けて!ちょっと私の話を聞いて!」「お願いします!!」
しかし、その懇願も届かないと悟ったのか、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さんは静かになり、そして念仏を唱え始めた。

野村は妻の洋子さんの入ったドラム缶の蓋を閉め、さらにWが義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶の蓋を閉めた。野村はさらにドラム缶の蓋が開かないよう、牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名に角材・重石に使う石を持ってくるよう命じ、牧田光希(弟)が付近にあった石を妻の洋子さんの入ったドラム缶の蓋の上に載せ、牧田晃和(兄)がスペクトロン車内から角材を持ち出して野村に手渡し、野村がその角材を義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶の蓋にかませることで、それぞれ蓋が開かないようにした。

野村はその後、牧田晃和(兄)に命じてドラム缶に点火するための新聞紙をスペクトロン車内から持ってこさせ、牧田晃和(兄)から丸めて筒状にさせた新聞紙を受け取った。さらに野村は川村に簡易ライターを出させて牧田光希(弟)に手渡させたが、牧田光希(弟)が野村の持つ新聞紙にライターで点火しようとしたところ、野村は「俺が火を点けろってことか?」と自ら点火することを拒否するような発言をしたため、川村は牧田光希(弟)に「お前が点火しろ」と命令した。そのため牧田光希(弟)は同日午前2時40分頃、川村から手渡されたライターで野村から受け取った新聞紙に点火し、妻の洋子さんが入ったドラム缶に近づいて缶下部の通気口に火の点いた新聞紙を近づけた。
ドラム缶女性焼殺事件(ドラム缶)
すると「ボッ」という音とともに火がガソリン混合油に引火して妻の洋子さんの入ったドラム缶が燃え上がり、直後に義妹(妻の妹)の勝子さんの入ったドラム缶内のガソリン混合油にも引火し、それぞれのドラム缶内にいた妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者は断末魔のうめき声を発しながら焼死した。

野村・川村両名は妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者を殺害後、依然として白沢・池田両名から連絡がなかったことから2人を探しに行くことを決め、川村が牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名に「ドラム缶の火を消さずに遺体を燃やし続けろ。義妹(妻の妹)の勝子さんのハンドバッグなど証拠になりそうなものも遺体と一緒に燃やせ」などと指示した上でクラウンに乗車し、殺害現場を離れたY・池田を再び探しに向かったが、結局発見できなかったために同日午前5時頃に殺害現場に戻った。その間、牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両名は川村から指示された通り木切れなどを集めてドラム缶に投入し、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体を焼却し続け、証拠になりそうな物品類を燃やして証拠隠滅工作を図った。

野村・川村・牧田晃和(兄)の3人はその後、傘・木の棒などでドラム缶内の妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体の塊を突いて燃えやすいようにした上、野村・牧田光希(弟)両名は金槌を、牧田晃和(兄)はタイヤレンチをそれぞれ使用してそれぞれドラム缶内の大きな骨片を粉砕した。その頃、川村は便意を催したために付近で排便し、便が証拠になるのを防ぐためにビニール袋に入れて野村・牧田光希(弟)らのいる場所に持ち帰ったが、牧田光希(弟)は義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体が入ったドラム缶にそのビニール袋を投げ入れた。その後、牧田光希(弟)がドラム缶内にあった被害者Bの遺体をチェーンソーで切断することを提案し、ドラム缶内に水を注いで消火した後、自らチェーンソーをドラム缶内に入れて妻の洋子さんの遺体を切断した。

野村・牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)の3人は妻の洋子さんの遺体が入ったドラム缶を空地の下の沢に落とし、牧田光希(弟)は野村・川村両名の指示を受けてドラム缶内から外に飛び出した妻の洋子さんの遺体の塊をチェーンソーで切断し、野村・川村両名がドラム缶内から外に飛び出した骨片などを付近に投げ捨てるなどして妻の洋子さんの遺体を遺棄した。同日午前6時ごろ、野村・川村・牧田光希(弟)の3人は水を注いで消火した義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体が入ったドラム缶を空き地の下の沢に落とし、妻の洋子さんの場合と同様にWがチェーンソーで遺体を切断し、野村・川村両名が骨片などを付近に投げ捨てるなどして義妹(妻の妹)の勝子さんの遺体を遺棄した。このようにして両被害者の遺体を損壊・遺棄したあと、川村は遺体の骨片を粉砕する用途で利用した金槌を投棄したり、Wに命じて遺体を切断するのに利用したチェーンソーを投棄させるなどして証拠隠滅を図った。野村・川村両名はすり鉢をスペクトロンに積んで現場まで持ち込んだが、チェーンソーで遺体が灰のように粉々になったため、結局はすり鉢を使用せず灰を周囲に捨てた。

・緊急逮捕と指名手配、そして逃亡と身代わり出頭
事件発生直後、愛知県警千種署は深谷さんから110番通報を受けて緊急配備し、午前1時20分頃になって現場から北東約6km離れた千種区香流橋2丁目の県道交差点で信号待ちをしていた深谷さんの車を発見、乗車していた白沢・池田両被疑者を職務質問の上で任意同行した。千種署で取り調べたところ、白沢・池田両被疑者は「妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両名を拉致・監禁した逮捕・監禁容疑」は否認したものの、「深谷さんを襲撃してマジェスタなどを強取した強盗致傷容疑」を認めたため、同日午前3時頃になって2人を強盗致傷罪の被疑事実で緊急逮捕した。

2000年4月5日、捜査本部は女性2人の実名・当時の服装などの特徴を公開し、一般からの情報提供を呼び掛ける公開捜査を開始し、指名手配された被疑者 牧田光希(弟)の行方を80人態勢で追った。一方で逃走中の野村・川村両名は5日になって指名手配された牧田光希(弟)の処遇について相談した結果、「牧田光希(弟)を警察署に出頭させ、『深谷さんら被害者3人を襲撃した犯行は牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢・池田の4人だけで計画・実行したものであり、妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者はナゴヤドーム付近で解放した』とする虚偽の供述をさせる」ことで合意した。

野村はこの時、自分が取り込み詐欺会社で使用していた偽名(「上杉宏次郎」)を牧田光希(弟)に名乗らせることで「俺が『上杉宏次郎』の偽名を使って取り込み詐欺に関与していたことが隠蔽できる」と考え、牧田光希(弟)に命じて東濃信用金庫坂下支店の「上杉宏次郎」名義の銀行口座に残っていた預金18万円を引き出させ、この時に牧田光希(弟)の顔を防犯カメラに撮影させた。さらに野村・川村両名は牧田光希(弟)に対し「お前が警察署に出頭して『この犯行は自分たち4人(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢・池田)でやりました』と言って来い」と命令するとともに、「社長のお前が『上杉宏次郎』(野村の偽名)と本名を使い分けて取り込み詐欺をやっていたことにしておけ。お前らの家族の面倒は見てやるから、俺たちのことは絶対に話すな」などと口止めした。

牧田光希(弟)は取り調べの当初、野村・川村両名の存在を隠していたが、警察官から追及されたことで嘘をつき通すことができなくなり、共犯者として関与した野村・川村両名の存在を自供するとともに、2000年4月7日までに妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者をドラム缶で焼き殺した強盗殺人などの事実を自供した。

・遺体発見
2000年4月8日午前、捜査本部は藤岡町・瀬戸市境の山中で本格的な捜索を開始し、焼けて炭化した(後に妻の洋子さん・義妹(妻の妹)の勝子さん両被害者の遺体と判明する)遺体の一部(被害者女性2人の顎・脚とみられた骨)と、遺体を焼いた痕跡のあるドラム缶2缶を発見したため、強盗殺人・死体損壊などの事実が発覚した。現場山中捜索では骨以外にも、2人の所有物とみられるネックレスが発見されたほか、女性用とみられる腕時計2個が林道脇の空き地と道路を挟んだ向かい側の山側に転がっていた。また、空き地から数十メートル下の崖にドラム缶2缶とチェーンソーが転がっているのを発見した。

・主犯格2人出頭
逃亡を続けていた野村・川村両名は牧田光希(弟)を身代わり出頭させた後、野村の実父の知人を頼って東京都から埼玉県・栃木県・群馬県と関東地方一帯を逃げ回り続けたが、その途中で自分たちも指名手配された事実を知るなどしたため「これ以上はもう逃げきれない」と考え、「警察署に出頭した上で『自分たちは強盗殺人などの犯行に関係ない』と言い張ろう」と嘘の供述をして口裏合わせをすることを決めた。そして野村・川村両名は2000年4月10日、2人合わせて約10万円の所持金を持ってそれぞれ愛知県警千種署に出頭した。

2000年4月10日午後6時頃、それまで指名手配されていた野村・川村両被疑者が千種署に出頭してきたことから、特捜本部は同日付で両被疑者を手配容疑の強盗致傷容疑で逮捕した。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2003年6月19日、名古屋高裁(小出錞一裁判長)で牧田光希(弟)ら共犯4被告人の控訴審判決公判が開かれた。名古屋高裁は第一審の判決(牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両被告人は無期懲役、白沢・池田両被告人は懲役12年)をいずれも支持し、検察・弁護人側双方の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した。

牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢の3被告人は一・二審判決を不服として、それぞれ最高裁に上告した。一方で検察側・被告人 池田はともに上告期限の2003年7月3日までに上告せず、被告人 池田は懲役12年の一・二審判決が確定した。

最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は2004年(平成16年)2月3日付で、一・二審判決を不服として上告していた牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)・白沢の3被告人について、いずれも一・二審判決を支持して上告を棄却する決定をした。

この決定により牧田光希(弟)・牧田晃和(兄)両被告人を無期懲役、被告人 白沢を懲役12年とした判決が確定した。

2006年6月9日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は上告審判決公判で、一・二審の死刑判決を支持し野村・川村両被告人の上告を棄却する判決を言い渡した。

この判決により野村・川村両被告人に対し一・二審の死刑判決が確定することとなり、2006年7月6日付で判決訂正申立書棄却決定により正式に死刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 野村哲也(主犯格)・・・2009年1月29日に死刑執行(享年39歳)
 川村幸也(主犯格)・・・主犯格、2009年1月29日に死刑執行(享年44歳)
 牧田晃和(牧田光希の兄)・・・無期懲役(2034年4月頃、70歳(仮釈放30年と仮定))
 牧田光希(牧田晃和の弟)・・・無期懲役(2034年4月頃、67歳(仮釈放30年と仮定))
 白沢秀樹・・・懲役12年判決が確定(2015年8月頃、57歳(出所))
 池田浩市・・・懲役12年判決が確定(2018年8月頃、40歳(出所))

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長崎・佐賀連続保険金殺人事件(外尾計夫・山口礼子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1992年(平成4年)と1998年(平成10年)に佐賀県と長崎県で発生し、1999年(平成11年)に発覚した連続保険金殺人事件である。

◆佐賀事件
 山口礼子(当時33歳)の夫が佐賀県のホステスと不倫関係に陥った。ホステスの夫であったマスターは逆恨みし、山口に迫り、全裸写真を撮影する。さらにマスターは写真で山口を脅迫し、愛人関係を持つに至った。その後、山口はマスターが経営するスナックで働き始め、そこで客であった外尾計夫(ほかおかずお、当時45歳)と出会い、これと愛人関係になる。外尾はマスターとの関係を清算する代わりに、山口に夫に保険金を掛けて保険金殺人をするよう迫った。1992年(平成4年)9月10日、山口は夫(当時36歳)に睡眠導入剤を混入したカレーライスを食べさせた上、佐賀県藤津郡太良町の大浦海岸で転落させて水死させ、約9,000万円の保険金を騙し取った。

◆長崎事件
 1998年(平成10年)10月26日、山口は当時高校生だった山口の次男(当時16歳)を夜釣りに誘い出し、睡眠薬を飲ませる。そして翌日(10月27日)未明、山口は外尾と共に寝ている次男を長崎県北高来郡小長井町(現:諫早市)の海に突き落とした。睡眠薬の効き目が切れたのか次男は泳いで岸までたどり着くが、山口は岸辺にしがみつく次男の頭を押さえつけて水死させた。次男には約3,500万円の保険金がかけられていたが、保険金の支払いは保留されたため、2人は保険金を得られなかった。
また、外尾・山口両名はこれに先立つ同年9月29日20時ごろ、佐賀県鹿島市内の知人(当時75歳)宅に押し入り、現金約137,000円やネックレスなど6本(自家合計約120万円相当)、普通預金通帳1冊を強奪した。

◆逮捕
 長崎県警察(捜査一課・諫早警察署)は1999年8月30日、外尾計夫(ほかおかずお、当時52歳)と山口礼子(当時40歳)を、殺人容疑で逮捕。その後、9月18日には長崎・佐賀両県警が2人を佐賀事件の殺人容疑で再逮捕し、諫早署に150人態勢の合同捜査本部(本部長・小賦義一長崎県警刑事部長)を設置した。その後の捜査で、山口の長男(当時19歳)や長女(当時10歳)にもそれぞれ4,000万円と2,500万円の保険金を掛けており、長女には何回か睡眠薬を飲ませていたことが発覚した。
長崎・佐賀連続保険金殺人事件(山口礼子・外尾計夫)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2003年(平成15年)1月31日、長崎地裁(山本恵三裁判長)は被告人2人に死刑判決を言い渡した。山口の弁護団は即日控訴し、外尾も同年2月14日付で控訴した。

2004年(平成16年)5月21日の控訴審判決公判で、福岡高裁(虎井寧夫裁判長)は第一審判決のうち、山口に関する部分を破棄自判し、山口を無期懲役とした一方、外尾に関しては第一審判決を支持し、控訴を棄却する判決を言い渡した。

2005年(平成17年)10月25日付で、最高裁第一小法廷(島田仁郎裁判長)が山口の上告を棄却する決定を出したため、山口は無期懲役が確定した。なお、山口は獄中結婚し、「M」姓に改姓している。

外尾は2008年(平成20年)1月31日に最高裁第一小法廷(涌井紀夫裁判長)で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定した。

2020年(令和2年)9月27日時点で、外尾(現在76歳)は死刑囚(死刑確定者)として、福岡拘置所に収監されている。

❖出所予定(年齢)
 外尾計夫・・・死刑判決(福岡拘置所収監中、死刑未執行)
 山口礼子・・・2035年10月頃、76歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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長崎市長射殺事件(城尾哲弥)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)4月17日に当時長崎市長の伊藤一長(当時61歳)がJR九州長崎駅近くの歩道で山口組系暴力団幹部の男に銃撃され、死亡した事件。

2007年(平成19年)4月15日、第16回統一地方選挙後半戦の市長選などが告示され、長崎市長選挙は22日の投開票日に向けて、4選を目指す現職の伊藤と新人3人の合わせて4人が出馬した。働き盛りの61歳だった伊藤はそれまでの選挙でも挑戦者を全く寄せ付けず2選、3選を果たしており、今回も新人3人が伊藤に及ばないのは明らかで無風、無関心の選挙戦となっていた。

告示2日後の4月17日午後7時51分、遊説をしていた伊藤がJR九州長崎駅付近にあった長崎市大黒町の自身の選挙事務所前に到着。事務所前に集まっていた記者たちと会見を開く予定であったため、スタッフが記者らに市長が帰ったと告げた直後の午後7時51分45秒ごろ、伊藤は城尾哲弥(当時59歳)に銃撃された。

使用された拳銃は5連発式の回転式拳銃で、城尾は伊藤の背後から2発を発射し、2発とも伊藤の背中に命中した。伊藤は救急車で長崎大学医学部・歯学部附属病院に搬送されたが、心臓と肺が裂けてすでに心肺停止状態に陥っていたため、心臓血管外科江石清行教授を中心とした医療チームが人工心肺を用いて治療するも、翌4月18日午前2時28分、胸部大動脈損傷による大量出血のために死亡した。

城尾は現場で選挙事務所関係者らに取り押さえられ、駆けつけた警察官に殺人未遂の現行犯で逮捕された(のちに容疑を殺人に切り替え)。

城尾は指定暴力団山口組系水心会の会長代行で、逮捕時20発ほどの弾丸を所持していた。報道によると、市が発注する公共工事をめぐって市を恨んでいた、あるいは自身の運転する車が市の発注した道路工事現場で事故を起こした際に車両保険が支払われなかったためと報道されている。
長崎市長射殺事件(城尾哲弥)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2012年1月16日、最高裁判所第3小法廷(寺田逸郎裁判長)は、検察と城尾双方の上告を棄却する決定を下して、無期懲役が正式に確定した。

城尾は2020年1月22日、収監先の大阪医療刑務所にて72歳で病死した。

❖出所予定(年齢)
 死亡(病没)

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長崎ストーカー殺人事件(筒井郷太)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年(平成23年)12月に長崎県西海市で発生した殺人事件。

2010年9月に筒井郷太(当時27歳)は会員制のインターネットサイトを通じて女性と知り合って交際を始め、2011年5月から千葉県習志野市で同居を始めたが、筒井は交際女性のメールを先にチェックする、勝手に家族や友人たちと連絡を取らせない、勤務先の出来事について10~15分おきにメールや電話で報告させるなど厳しく束縛した。2011年6月下旬以降、連絡や帰宅が遅れたという理由で交際相手の頭や顔を殴る蹴る等の暴行を加えた。交際相手は勤務先の無断欠勤・早退が増加。女性の親族は、女性の異変は筒井の虐待等が原因と理解し、2011年10月30日、警察などと共に女性を助け出し、署員が筒井を任意同行し「二度と近づかない」との誓約書を書かせて帰した。女性は親族の手助けにより、長崎県西海市の実家に帰った。

筒井は交際相手が戻るように仕向けることを考え、脅迫メールを交際相手の友人らに送信した。2011年12月、元交際相手は千葉県習志野署に傷害の被害申告をした。筒井は習志野署に出頭した際に、交際相手に近づかないよう注意され、三重県の実家に戻った。筒井は交際相手の家族らに脅迫メールを送り、交際相手が実家に連れ戻されたと信じ込み、交際相手の家族への憤りを増幅させた。 2011年12月14日、筒井は実家で父親を殴って、警察が呼ばれたために逃走し、被害届を提出しないように父親に頼んだが拒まれ、「親にも見放された。自分には交際相手しかいない」と思い、交際相手を取り戻すために、長崎県西海市の交際相手の実家へ向った。

2011年12月16日、筒井は長崎県西海市にある交際相手の山下誠さん(当時58歳)方に侵入し、出刃包丁で交際相手の祖母 山下久江さん(当時77歳)と母 山下美都子さん(当時56歳)を殺害した。その間に宅配業者が訪ねてきたが、筒井は家人を装って宅配業者から荷物を受け取った。

その後、帰宅した親族が2人の死体を発見した。家族らの説明から女性の交際相手であった筒井が浮上。12月17日に筒井郷太(当時27歳)を殺人、住居侵入容疑で逮捕した。2012年1月4日、筒井を鑑定留置し、4月26日に殺人、住居侵入、窃盗罪で起訴された。その後、筒井は傷害罪や脅迫罪で逮捕、起訴された。
長崎ストーカー殺人事件(筒井郷太)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2013年6月14日、長崎地方裁判所は「(捜査段階において容疑を認める供述について)不当な取り調べが行われた事実はない。供述内容は臨場感に満ち、秘密の暴露も含まれる」として自白の任意性・信用性を認め、その上で被告が所持していた包丁や着衣から被害者2人のDNAが検出されたことを挙げて被告が犯人であるとし、また責任能力について「犯行は計画的で、完全責任能力が認められる」とし、求刑通り、筒井に死刑判決を言い渡した。

筒井は上告するも、2016年7月21日に最高裁判所で死刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)

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長崎男児誘拐殺人事件(松田雄一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)7月1日に長崎県長崎市で発生した、男児が誘拐され殺害された事件。

2003年(平成15年)7月1日午後7時頃、長崎市内の大型家電量販店を家族で買い物に訪れ、一人でゲームコーナーで遊んでいた種元駿君(当時4歳)に対して加害者の当時中学1年の松田雄一(当時12歳)が「お父さん、お母さんに会いに行こう」と騙して連れて行く。路面電車に無賃乗車し、商店街を連れ回した後、長崎市万才町の築町パーキングビル屋上で男児を全裸にし、腹などに殴る蹴るの暴行を加えた。さらに、はさみで性器を数箇所切り付けた。しかし、防犯カメラが設置されていることに気づいてパニックになり、泣き叫んでいた駿君を「何とかしなければ」と思い、駿君を抱え上げて手すり越しに、屋上から約20メートル下の通路に突き落として殺害した。

犯行後から補導されるまで、少年は通っていた中学校で、事件について冗談を交えて話したり(同級生証言)、駿君と出会った電器店でゲームソフトを購入していた。

犯行現場に近い繁華街に設置されていた防犯カメラにより、7月9日に加害者の松田少年が補導される。松田少年は事件当時12歳であったため、逮捕することができず補導という形であった。この事件以前にも松田少年は、この事件と類似した異常性欲が顕著に見られる事件を20件以上引き起こしていた。なお、この事件に関しては、イギリスで1993年に起きたバルジャー事件との類似性についても多く報道された。

また、松田少年は小学3年の頃に友人に股間を蹴られ病院に行っており、この頃から男性器への執着が生まれていったとされる。2003年8月6日付けの『週刊新潮』では「ボクは、ずっと前におなじことされたもん。裸にされて怖い思いしたから。それでも、じっと黙っとったもん」「怖かったけど、変な気持ちになった。だから、ボクも中学生になって、同じことをしてもいいと思ったからね」という話が載せられている。

加害者(松田少年)が中学1年の少年であったため、凶悪な少年事件として国内を震撼させた。加害者の少年(松田少年)は、「男児の性器に対する拘りを払拭することは出来ない」と述べており、児童自立支援施設を退所できないまま、中学校を卒業した。
長崎男児誘拐殺人事件(ビル屋上)
長崎男児誘拐殺人事件(松田雄一)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 長崎家庭裁判所は、審判にあたり専門家チームによる2か月間の精神鑑定を実施した。

その結果、松田少年の特質として
・パニックになりやすい
・対人共感性、対人コミュニケーション能力が乏しい
・母親を異常に恐れている
と分析。一方で、学校の成績は学年トップクラスで、なおかつ12歳でありながらすでに三国志を読破しているなど、知能面での障害がないことから、松田少年をアスペルガー症候群であると診断した。

家裁は児童自立支援施設への送致と1年間の強制措置(鍵付きの部屋に入れられる)を認め、松田少年は2003年9月、国立武蔵野学院(埼玉県さいたま市緑区)へ入所した。強制措置については、入所後1年ごとに再検討が行われており、2006年9月に3度目の延長がなされたが、4度目の延長はなされず、2007年9月に解除された。

❖出所予定(年齢)
 2007年9月頃、16歳、すでに退院(児童自立支援施設にて4年の保護処分)

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中津川一家6人殺傷事件(原平)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 岐阜県で2005年(平成17年)に発生した家族内の大量殺人事件である。裁判では一家心中として極刑を回避した。

◆登場人物

・加害者
 原平(当時57歳)

・被害者

 原チヨコさん(当時85歳)・・・犯人の母(死亡)
 原正さん(当時33歳)・・・犯人の長男(死亡)
 藤井こずえさん(当時30歳)・・・犯人の長女(死亡)
 藤井孝平ちゃん(当時2歳)・・・犯人の孫(死亡)
 藤井彩菜ちゃん(当時生後3週間)・・・犯人の孫(死亡)
 藤井孝之さん(当時44歳)・・・犯人の娘婿(怪我)
中津川一家6人殺傷事件(原平)

2005年(平成17年)2月27日午後2時ごろ、岐阜県中津川市坂下町で、男性が腹を刺されているとの通報があった。警察は彼を保護したが全治2週間の怪我をしていた。同じ頃中津川市職員 原平(加害者、当時57歳)の自宅で、大勢の人が倒れているとの通報があった。警察と救急隊員がかけつけたところ原平の長女 藤井こずえさん(当時30歳)が2歳の男児 藤井孝平ちゃんと生後3週間の女児 藤井彩菜ちゃんを抱えて倒れており、そばのソファのうえで原平の母 原チヨコさん(当時85歳)が倒れており、原平の整体業の長男 原正さん(当時33歳)も2階で倒れていた。5人全員が原平の手で絞殺されていた。

原平は首に包丁を突き刺した状態で空の浴槽の中に隠れているところを発見された。腹を刺されていた原正さんは原平の娘婿で被害者の2児の父親であった。原平は5人の殺害のほか、中津川警察署から調教を嘱託されていた警察犬2頭も殺害していた。原平は全治三週間の重傷で退院後の3月12日に娘婿に対する殺人未遂で逮捕され、4月2日に5人に対する殺人罪で再逮捕された。

2005年(平成17年)7月1日の初公判の検察による冒頭陳述によれば、事件の背景は次のようなものであるとした。長野県出身のAは1970年に坂下町(2005年2月に中津川市に編入合併)の公立病院に採用され、事件当時は老人保健施設の事務長をしており、近所では仲良し家族との評判であった。

しかしAと母の二人の間は深刻な確執があった。原平は厳格な母親を小学生の時から嫌っており、中学生の時には口を聞かなくなっていたが、数年前から同居するようになった。しかし原平の母は原平の妻(当時54歳)を泥棒呼ばわりするなどしたため、母に対する嫌悪感が積もる反面、妻に対し申し訳ないと思った。事件の直前の1月27日に母名義の郵便貯金の預け替えが必要であることから郵便局長が手続きの説明をしたが、郵便局長をなじったことから、母に対する嫌悪が爆発することになった。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 名古屋高裁は2010年(平成22年)1月26日に双方の控訴を棄却し第一審・無期懲役判決を支持する判決を言い渡した。

名古屋高検・被告人双方が最高裁に上告していたが、最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は2012年(平成24年)12月3日に双方の上告を棄却する決定を出したため、無期懲役判決が確定することとなった。

❖出所予定(年齢)
 2042年1月頃、92歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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長野・愛知4連続強盗殺人事件(西本正二郎)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)1月13日から同年9月7日にかけて、愛知県春日井市および長野県飯伊地域(飯田市・下伊那郡高森町)で連続して発生した強盗殺人事件。春日井市でタクシー運転手1人が、長野県では高齢者3人が相次いで殺害された。


交通事故がきっかけで失業した西本正二郎(当時27歳)は、2004年1月、仕事を探しに愛知県名古屋市に出るものの求職に失敗し、所持金が尽きたところでタクシーの襲撃を計画、同県春日井市内でタクシー運転手の湊保雄さん(当時59歳)を首を切って殺害し売上金を奪った。

その後、故郷である長野県飯田市に帰省した西本は、4月26日に同市大王路の独居高齢女性 島中実恵さん(当時77歳)を絞殺、8月14日には飯田市と隣接する下伊那郡高森町出原在住の独居高齢男性 加藤仁さん(同69歳)を、9月7日には同町吉田在住の独居高齢女性 木村あい子さん(同74歳)をそれぞれ刺殺、いずれも金品を奪った。加藤仁さんは事件の約10年前に息子を、7年前に妻をそれぞれ亡くしており、事件当時は一人暮らしだった。

西本は同年9月13日、飯田市下久堅の民家へ空き巣に入った。この家は西本の元同僚の家で、元同僚は何度も被害に遭っていたことから警察に自動通報される防犯センサーを設置しており、西本が窓ガラスを割って鍵を開けたところでセンサーが作動した。西本は何も取らずに逃走したが、通報を受けて駆けつけた飯田署員に職務質問されて住居侵入と窃盗未遂容疑で逮捕され、後に木村あい子さん事件の強盗殺人容疑で再逮捕された。後に島中実恵さん・加藤仁さんの両事件や、愛知県で発生した湊保雄さん事件についてもそれぞれ自供した。
長野・愛知4連続強盗殺人事件(西本正二郎)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 第一審の公判は長野地裁(土屋靖之裁判長)で開かれ、2006年(平成18年)2月8日の論告求刑公判で、長野地方検察庁は西本に死刑を求刑。長野地裁は同年5月17日、西本に死刑判決を言い渡した。

2007年(平成19年)1月22日に控訴審判決公判が予定されていたが、同月11日付で西本が自ら控訴を取り下げたため、死刑が確定した。

判決確定から2年後の2009年(平成21年)1月29日、西本は東京拘置所で死刑を執行された(32歳没)。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2009年(平成21年)1月29日、東京拘置所で死刑執行(当時32歳没))

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中野区中国人留学生殺害事件(陳世峰(チェンシーフォン))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 東京都中野区で2016年(平成28年)11月3日未明に発生した殺人事件。

法政大学の大学院生で中国籍の女性 江歌さん(ジャンガ―・当時24歳)を、中国籍の男 陳世峰(チェンシーフォン・当時25歳)がアパートの前で所持していたナイフにより複数回刺して殺害。現場には、加害者の元交際相手で被害者と同居中であった劉鑫(リュウシン・当時24歳)性がいた。

事件の数日後に、詳細についての報道がまだ不十分な際、被害者の母 江秋蓮(ジャンチウィエン)は「親友を庇い殺された」とのいきさつを新浪微博に明らかにしていたことで、中国においても国民の強い関心を集めていた。事件発生以来の1年近く、母は現場にいた同居女性およびその家族の個人情報を明らかにしており、相手が事件の道徳的義務を果たしていないと非難し、「国内外の大衆に向けて署名募集活動を行い、日本の司法に犯人の死刑を求刑を望む」と述べた。2017年11月、事件が発生した翌年、インタビュー番組「局面」で、被害者の母とその同居女性の声明が発表され、中国国内の世論に新たな関心を集めた。
中野区中国人留学生殺害事件(陳世峰(チェンシーフォン))
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年12月、陳は東京地方裁判所で殺人罪で検察の求刑通りの懲役20年の刑が下されている。

❖出所予定(年齢)
 2037年5月頃、55歳(懲役20年)

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長野市一家3人殺害事件(松原智浩・池田薫・伊藤和史・斎田秀樹)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年(平成22年)3月に長野県長野市で発生した一家殺人事件。この事件が発覚するきっかけとなった貸倉庫内にあったワゴン車から遺体が見つかった。

2010年4月10日、長野市若宮の貸倉庫内にあったワゴン車から、宮城浩法(当時37歳)が頭蓋内損傷で亡くなっているのが見つかった。見つかったのは、別の ”家族失踪事件” に伴う捜査の過程で得られたある証言によるものだった。

この証言をした伊藤和史(逮捕時31歳)は、2005年7月頃に宮城と知り合っていた。当時、大阪の風俗店で働いていた伊藤は、この宮城に目を付けられたことで、それまでの生活が一変することになる。

伊藤は自宅の鍵を取り上げられ、ビールジョッキで頭を殴られたり、包丁で足を刺されるなど、激しい暴行を受けた。家族や知人らの個人情報も把握され、逃げることもままならない状態。命じられるままに養子縁組をして、姓を変えては消費者金融から金を借りて宮城に渡すことを強要された。

2005年8月頃からは、長野市にある「オリエンタルグループ」と称する会社の金文夫会長と、その長男で専務の金良亮のもとで、建築関係の営業や現場作業等を担当する従業員となった。ここでは朝から晩までこき使われ、休みはほとんどなく1ヶ月フルに仕事してもほぼ無給。そのため夜も働いて稼ぐしかなく、毎日3~4時間しか寝られない過酷な生活だった。

宮城は、沖縄県浦添市出身の元暴力団員だった。金良亮(当時30歳)の暴走族時代からの先輩で、暴力団時代には兄貴分だった。しかし、宮城がある犯罪で服役することになった時期から、金良亮と宮城の関係はぎくしゃくし始めていた。

兄貴分である宮城は、金良亮に犯罪で得た金を多く渡すように言い、暴力に出ることもしばしばだった。やがて、金良亮は「宮城と縁を切りたい」「殺す」などと愚痴を言うようになった。

宮城が出所した2008年7月20日。刑務所を出所した宮城を、金良亮は伊藤らを従えて迎えに行った。そして兵庫県警・尼崎警察署のすぐ側の車内で宮城を射殺。伊藤が車外に出ている間のできごとだった。

宮城の遺体は、長野市若宮の貸倉庫内に車ごと放置されるが、この殺人の一部始終を知る伊藤は、金良亮や金文夫(当時60歳)会長に対する恐怖が一層強まった。実際、事あるごとに「お前も宮城のようになりたいか?」と脅されたという。そしてこの事件以降、伊藤は金親子の支配下に置かれることになった。

事件に絡み、貸倉庫を使用している会社の実質的な経営者の男などから事情聴取を進めた。

その後本事件について、3月下旬から行方不明となっていて、親族が捜索願を出していた長野県長野市在住の一家3人について遺体を埋めたと自供した。

伊藤は、自分の妻子に危害がおよぶことを、伊藤は何より恐れていた。極悪な生活からの逃亡をあきらめたのも、妻子を守るためである。逃げたら妻子が危険な目に遭うかもしれず、助けを求めるべき長野県警には金親子と懇意にしている刑事がいて、警察はあてにならないと考えていた。

そうしてまで守ってきた家族を引き込もうとする金親子に対し、伊藤の心の中には殺意が芽生えていった。彼は松原に金親子の殺害について持ちかけたが、同じ気持ちを抱いていた松原智浩(逮捕時39歳)はこれに同意。さらに同じ境遇の池田薫(逮捕時34歳)も引き入れ、犯行は3人で行うことにした。

犯行後の遺体の運搬については、オリエンタルグループと取引のあるプラスティック販売業者・斎田秀樹(逮捕時51歳)に100万円の報酬で依頼して了承を得た。

2010年3月24日午前8時50分頃、2階の夫婦の寝室隣の居間において、伊藤が有紀子の背後から、いきなりロープを首に巻き付ける。そして転倒した有紀子の首のロープを伊藤・松原・池田の3人が代わる代わる絞め付けて殺害した。

午前9時10分頃、次に寝室で寝ている良亮の首にロープを巻き付け、伊藤と松原が両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けた。良亮は窒息により死亡。2階物置から現金約281万円を強取した。

金文夫会長(62歳)は2階の居間にあるリクライニングソファーで眠っていた。午前9時25分頃、伊藤と池田は彼の首にロープを巻き付け、両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けて殺害。その後、池田が金文夫会長の持つ現金約135万円を奪った。

供述に基づいて捜索したところ、2010年4月14日に愛知県西尾市南奥田町の資材置き場に遺棄されているのが発見された。

金文夫(当時60歳)、金良亮(当時30歳)、楠見有紀子(26歳)の3人はいずれも窒息死だった。

長野県警長野中央警察署は殺人事件として捜査して4月15日に松原智浩(逮捕時39歳)・池田薫(逮捕時34歳)・伊藤和史(逮捕時31歳)・斎田秀樹(逮捕時51歳)の4人を死体遺棄の疑いで逮捕、2010年5月5日に強盗殺人容疑で4人を再逮捕した。そのうち3人の容疑者 松原・池田・伊藤は韓国籍男性の会社の従業員である。
長野市一家3人殺害事件(伊藤和史・松原智浩)
左が伊藤和史、右が松原智浩
長野市一家3人殺害事件(金文夫・金良亮・楠美有紀子)
被害者の3人、でもこちらも鬼畜・・・。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 第一審を担当した長野地裁は松原(2011年3月25日)・池田(2011年12月6日)・伊藤(2011年12月27日)に求刑通り死刑・殺害行為に加担していない斎田には松原・池田・伊藤との共謀を認めた上で懲役28年(求刑・無期懲役)をそれぞれ言い渡した。

控訴審を担当した東京高裁では、池田(2014年2月27日)を従属的だったとして無期懲役・池田を強盗殺人幇助罪にとどまるとして懲役18年に減刑したものの、松原(2012年3月22日)・伊藤(2014年2月20日)の死刑判決は維持。最高裁では全被告の上告を棄却(松原は2014年9月2日・池田は2015年2月9日・伊藤は2016年4月26日・斎田は2013年9月30日)し、松原・伊藤の死刑、池田の無期懲役、斎田の懲役18年の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 伊藤和史・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
 松原智浩・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
 池田薫・・・2045年4月頃、64歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 斎田秀樹・・・2031年9月頃、69歳(懲役18年)

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中村橋派出所警官殺害事件(柴嵜正一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1989年(平成元年)5月16日未明に東京都練馬区中村北で発生した強盗殺人・公務執行妨害・銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反事件。

元陸上自衛官の柴嵜正一(事件当時20歳)が銀行強盗などのために拳銃を奪取しようと警視庁練馬警察署「中村橋派出所」を襲撃し、勤務していた警察官2人(山崎達雄巡査(当時30歳、事件後に警部補に特進)、小林利明巡査部長(当時35歳、事件後に警部に特進))をサバイバルナイフで刺殺したが、被害者らの抵抗に遭い拳銃強奪は未遂に終わった。

1989年(平成元年)5月16日午前2時50分前頃、山崎巡査が、派出所正面入り口前で一時的に保管していた遺留品のバイクを派出所裏手の遺留自転車等保管場所へと移動させる作業に移ったのを確認。

柴嵜は背後から山崎巡査に接近し背中をサバイバルナイフで突き刺しました。山崎巡査は刺されながらも振り向いて抵抗してもみ合いになり、柴嵜はさらに山崎巡査の胸部などを突き刺して致命傷を負わせた。

柴嵜は山崎巡査に致命傷を負わせた後、山崎巡査が腰に携帯していた拳銃を奪おうとするが、山崎巡査は致命傷を負いながらもなおも抵抗したため奪う事ができなかった。

そこへ、異常を察知して派出所内から小林巡査部長が駆けつけ、警棒を構えながら「おい!」と声をかけた。

柴嵜は咄嗟に「このままでは捕まる、この警察官(小林巡査部長)を殺害して拳銃を奪い逃げよう」と考え、小林巡査部長が振り上げた警棒を左手で払い除けながら、右手に持ったサバイバルナイフで小林巡査部長の胸部を突き刺した。小林巡査部長は刺されながらも怯まずに抵抗して路上に転倒したままもみ合いとなるが、柴嵜はさらに小林巡査部長の胸部などを複数回にわたって刺し、致命傷を負わせた。

柴嵜はその上で小林巡査部長の拳銃を奪おうとするが、これも小林巡査部長の必死の抵抗に遭って失敗。小林巡査部長はそのまま拳銃を抜いて反撃に出ようとするが、それを見た柴嵜は逃走。小林巡査部長は逃げる柴嵜に3発の威嚇射撃している。

そして、小林巡査部長は瀕死の重傷を負いながらも、派出所内へと戻り事件の発生を本部に通報している。

通報を受けた警視庁はすぐに周辺に規制線を張り、現場となった「中村橋派出所」周辺の通りには、パトカー、鑑識や機動捜査隊、捜査一課の車両がひしめき、捜査員や警備のための警察官が周囲に溢れて騒然とした状況となった。

被害者の警察官2名は、小林巡査部長が同日午前3時55分頃に、山崎達査が同日午前4時18分頃に亡くなった。(共に死因は失血死)
中村橋派出所警官殺害事件(柴崎正一)
中村橋派出所警官殺害事件(山崎達雄巡査・小林利明巡査部長)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1998年(平成10年)9月17日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人 柴嵜正一・弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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流山女性殺害事件(橋詰雄介)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年(平成9年)5月18日に千葉県流山市鰭ケ崎のマンションで発生した強盗殺人・強盗強姦などの事件。

当時17歳の少年 橋詰雄介(2012年1月18日逮捕当時32歳)が、女性会社員 田島由美さん(当時24歳)を強姦して殺害し、キャッシュカードを奪った少年犯罪である。

事件直後、実際には無実だった被害者の親族が、千葉県警察によって誤認逮捕される冤罪事件が発生。事件発生から、2012年(平成24年)1月に真犯人Xが逮捕される(事件解決)までに15年を要した。

2012年11月21日に判決公判が開かれ、千葉地裁(齊藤啓昭裁判長)は検察官の求刑通り、懲役15年の判決を言い渡した。

橋詰は2014年(平成26年)に懲役15年が確定し、2020年(令和2年)3月に出所したが、出所後に窃盗3件(未遂1件を含む)などの事件を起こし、2021年(令和3年)に懲役4年の実刑判決を受けた。
流山女性殺害事件(橋詰雄介)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2012年11月21日に判決公判が開かれ、千葉地裁(齊藤啓昭裁判長)は検察官の求刑通り、懲役15年の判決を言い渡した。

弁護人側は判決を不服として、同月27日付で東京高等裁判所に控訴したが、東京高裁(村瀬均裁判長)は2013年(平成25年)7月18日に「橋詰の供述通り、凶器とみられる刃物が発見されており、犯行を認めた捜査段階の供述は信用できる」「弁解は信用できない」として、原判決を支持して控訴を棄却する判決を宣告した。2014年(平成26年)2月12日付で、最高裁判所第三小法廷(木内道祥裁判長)が被告人 橋詰側の上告を棄却する決定を出したため、懲役15年の判決が確定している。

◆出所後
橋詰は2014年(平成26年)に懲役15年が確定し、2020年(令和2年)3月に出所したが、出所後に窃盗3件(未遂1件を含む)などの事件を起こし、2021年(令和3年)に懲役4年の実刑判決を受けた。

❖出所予定(年齢)
 2020年3月頃、40歳(本件では出所)

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名護市女子中学生拉致殺害事件(柳末盛・上野勝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1996年(平成8年)6月21日に沖縄県(沖縄本島)で発生した、わいせつ略取・強姦・殺人・死体遺棄・窃盗事件。

犯人の男2人組(本文中「柳末盛(当時38歳)」および「上野勝(当時37歳)」)は同日夕方、名護市伊差川の農道で、帰宅途中の女子中学生 伊地美香さん(当時15歳:市立羽地中学校3年生)をワゴン車(白いワンボックスカー)で拉致した。その後、2人は2回にわたって伊地さんを強姦した上で、犯行の発覚を免れるため、Aを殺害して死体を遺棄することを決意し、同日夜に国頭郡国頭村の山中で、伊地さんの首をロープで絞めて殺害し、死体を国頭村楚洲の山中に遺棄した。2人は犯行後、約半年間にわたって逃亡を続けていたが、同年12月に犯行車両を盗んだとして指名手配されていた犯人の柳が自首し、伊地さんを殺害して遺棄した旨を自供したことで、1997年(平成9年)1月1日に伊地さんの遺体が発見され、残る(上野)も同月に逮捕された。
名護市女子中学生拉致殺害事件(柳末盛・上野勝)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は1999年9月30日、2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡した。福岡高裁那覇支部 (1999) は判決理由で、「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、最高裁判例が示す死刑適用基準に沿って検討すると、殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があり、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば、極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた。

同判決に対し、福岡高等検察庁那覇支部は上告するか否か検討したが、判例違反などの上告理由を見い出せなかったため、同年10月13日、上告を断念することを決めた。弁護人も上告しなかったため、2人とも無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 柳末盛・・・2029年9月頃、68歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 上野勝・・・2029年9月頃、67歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件(武藤恵喜)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年(平成14年)3月14日未明に愛知県名古屋市中区栄4丁目で発生した強盗殺人事件。

武藤恵喜(当時52歳)は本事件前の2002年2月8日午後9時頃から2002年3月5日午後10時30分頃までの間、前後9回にわたり、名古屋市中区内のスナックバーなど計8か所で無銭飲食をし、店主らの隙を突いては売上金などを盗んで逃げるなどし、ビール22本ほか26点の飲食物(代金合計7万1300円相当)・席料・カラオケ使用などの利便(合計1万9000円相当)を騙し取った。

これに加え、2002年2月8日頃から2002年3月6日頃までの間の前後9回にわたり、前述のスナックなど計8か所で現金計約35万2300円・かばん5個ほか約159点(時価合計約16万650円相当)を窃取した。

刑務所を出所してから2か月後の2002年3月12日、武藤は52歳の誕生日を迎えたが、翌2002年3月13日にはいつものように所持金が尽き、夜の繁華街をぶらついていた。

そこで武藤は、「さらに別の飲食店に入って売上金などを盗もう」と考え、ホテル・携帯電話販売店に立ち寄り、飲食店主らを信用させるための小道具にする名刺・サンプルの携帯電話を手に入れた上、適当な飲食店を物色していた。その上で「人が少ないところがいい」と考えたBは、名古屋市中区栄4丁目の、雑居ビル3階に位置する現場スナックバーに来店した。

このスナックバーの店主は千葉春江さん(当時61歳)で、武藤が入店したのは閉店時間(午前0時)直前の午後11時だった。

武藤は日付が変わるまで店内で飲み続け、金を盗む隙を窺っていたが、千葉さんには全く隙がなく、武藤がトイレに立ったときでさえ、ドアを半開きにして武藤の動きをうかがっていたという。

途中、武藤は「タバコがなくなった」として、千葉さんにたばこを外へ買いに行くように仕向けたが、千葉さんは軽くいなし、腰を上げなかった。武藤が「仲間を迎えに行ってくる」と言い、店から逃げようと表へ出ても、後をつけてきた女性に引き戻された。

翌2002年3月14日午前3時頃、所持金がなかった武藤は「被害者に嵌められた」と感じ、いらだちを募らせていたところ、トイレから出てきた千葉さんが武藤の隣りに座り、「私のこと、何とかしようと思って掛けたんじゃないでしょうね」などと答えたことを契機に、「このままでは無銭飲食で刑務所戻りになる」と恐れた武藤は強盗することを決意し、千葉さんを椅子ごと引き倒した。

床に仰向けに転倒した千葉さんは、「初めからおかしいと思ったんだ」などと大声で叫んで抵抗し、武藤に左掌で口を押さえつけるように塞がれても、なおも暴れて抵抗した。

武藤は被害者の犯行を抑圧しようと、被害者の口を塞いだまま立たせたが、左手親指・人差し指の付け根付近を思い切り噛みつかれ、その手を伸ばして引き抜くと、千葉さんが再び大声で叫び始めた。

そのため武藤は、千葉さんの背後からその首に左腕を回し、自身の左手首付近に右腕を十字に重ねて数分間思い切り引き、千葉さんの首を絞めた。千葉さんは初めこそ叫んで抵抗していたものの、武藤が首を絞め続け、さらにそのままの体勢で千葉さんの体を持ち上げて約1分間経過すると、おとなしくなったので、武藤は千葉さんを床に寝かせた。

武藤が千葉さんの息を確認したところ、息は感じられなかったが、千葉さんを確実に殺害しようとした武藤は、その首に店内にあったカラオケのマイクコードを二重に巻き付けた上、コードの両端を思い切り引っ張り、千葉さんの首を再び強く絞め付けて殺害した。

千葉さんの内縁の夫は事件発生時刻の午前3時頃、妻の帰りが遅いのを心配し、妻の携帯電話にかけたが、誰も出なかった。そのため夫は午前7時半頃、現場スナックバーが入居する雑居ビルの管理者に連絡した。夫からの連絡を受け、ビル管理者の長女が午前8時40分頃に鍵を開けて店内に入ったところ、店内奥のカラオケコーナー付近の床で千葉さんが倒れているのを発見し、愛知県警察に110番通報したが、千葉さんは既に死亡していた。遺体の首にコードが2,3回巻かれていたことから、愛知県警は中警察署に捜査本部を設置し、殺人事件として捜査を開始した。

翌2002年3月16日午後4時半頃、金山駅北口付近の路上を捜索していた捜査員が路上を歩いている武藤を発見し、特別捜査本部が設置された中署に任意同行した。

中署は既に前述の窃盗容疑での逮捕状も用意していたが、取り調べで殺人事件について追及したところ、武藤は「金を奪う目的で客を装い店内に入ったが、口論となったことから千葉さんを殺害した」と供述し、容疑を認めたため、武藤を強盗殺人容疑で逮捕した。
名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件(武藤恵喜)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年3月22日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(才口千晴裁判長)は控訴審の死刑判決を支持し、被告人 武藤の上告を棄却する判決を言い渡した。

この判決により、被告人 武藤の死刑判決が確定した。

2013年(平成25年)2月21日、法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令により収監先・名古屋拘置所で死刑囚 武藤の死刑が執行された。62歳没、死刑確定から5年10カ月が経過していた。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2013年(平成25年)2月21日、東京拘置所で絞首により死刑執行(当時62歳没))

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名古屋小6受験殺人事件(佐竹憲吾)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
2016年(平成28年)8月21日に、愛知県名古屋市北区のマンションで、佐竹憲吾(父親、当時48歳)が小学6年の長男(当時12歳)を包丁で刺し、死亡させた日本の教育虐待・殺人事件である。

2016年8月21日、名古屋市北区の自宅マンションで、父親が当時小学6年の息子(12歳)の胸を包丁で刺し、失血死させる事件が発生した。

当時、父親は息子に対し中学受験をさせており、2019年6月に行われた初公判で検察側は「指示通りに勉強しないと怒鳴ったり、暴力を振るったりした」と説明している。また2016年1月からは、脅しとして刃物を使用し、事件1、2日ほど前は父親が息子の足を切りつけるなどの傷害を加えていた。
名古屋小6受験殺人事件(佐竹憲吾)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2019年(令和元年)7月19日、名古屋地方裁判所は、父親に対し殺人の罪で懲役13年の実刑判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2032年7月頃、61歳(懲役13年)

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名古屋市連続通り魔殺傷事件(伊田和世)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)に名古屋市北区(3月30日)と千種区(4月1日)で起こった連続通り魔事件。2件の犯行で1名が負傷し、もう1名が死亡した。

2003年3月30日、名古屋市北区東水切町四丁目の路上で、菅谷悦子さん(当時22歳)が伊田和世(当時38歳)に包丁で刺される。このとき、菅谷さんは伊田に「ニシオオゾネ(西大曽根?)は、どこですか?」という意味不明な質問をされて注意を引きつけられたときに刺されたという。菅谷さんは自力で自宅まで逃げ帰ったが、腹部の刺し傷が15センチも達していたことから、4月1日に多臓器不全で死亡した。
2003年4月1日、名古屋市千種区日進通一丁目で伊田が女性B(当時22歳)を襲い、バッグを奪って逃走。Bは傷は負ったが、命には別状無かった。
2003年8月28日深夜、伊田が窃盗事件で現行犯逮捕される。翌日、家宅捜索でBのバッグが発見され、2件の通り魔事件を自供。殺人・殺人未遂容疑で再逮捕。
名古屋市連続通り魔殺傷事件(伊田和世)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年2月24日、名古屋地裁で伊田に無期懲役の判決が下された。弁護側・検察側共に控訴せず、刑は確定した。

❖出所予定(年齢)
 2036年2月頃、68歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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名古屋大学女子学生殺人事件(大内万里亜)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年(平成26年)12月7日に愛知県名古屋市で名古屋大学の女子大生が、宗教団体のセミナーに勧誘されたことで知り合った森外茂子さん(当時77歳)を殺害した殺人事件である。

2014年(平成26年)12月7日、名古屋大学の女子大生 大内万里亜(当時19歳)は、宗教の勧誘で知り合った名古屋市千種区在住の森外茂子さん(当時77歳)と宗教団体の集会に2人で参加した。集会が終了した昼ごろ、「聞きたいことがたくさんある」と持ち掛け、セミナーに参加した大内は信仰に関心を持ったかのように装い森外さんを名古屋市昭和区の自宅アパートに誘い込んだ。用意していた斧で数回殴り、マフラーで首を絞めるなどして殺害。

遺体に服を着せ、マフラーを首に巻かせた状態で風呂場の洗い場に横たわらせ、「実験結果として記録を残すため」に森外さんの写真を4、5枚撮った。事件当日に自身のTwitterアカウントで「ついにやった」と書き込みを行った。翌日に宮城県仙台市の実家に帰り、自宅アパートに遺体を1ヶ月以上放置した。
名古屋大学女子学生殺人事件(大内万里亜)

◆余罪
 殺人事件の捜査の過程で、高校時代に同級生の男子生徒及び中学時代の同級生だった女子生徒に硫酸タリウムを飲ませた事件、大学時代に帰省していた仙台市の実家近くの住宅を放火しようとした事件がそれぞれ発覚した。最終的に以下の罪状で、名古屋地方検察庁から起訴された。

 2012年5月27日 - 仙台市のカラオケ店で、劇物の硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、中学時代の同級生だった女子生徒に飲ませた殺人未遂罪

 2012年5月から7月 - 通っていた仙台市の高校で、硫酸タリウム(I)を飲み物に混ぜ、同級生の男子生徒に飲ませた殺人未遂罪

 2014年8月29日 - 30日 - ペットボトルで製造した火炎瓶に点火し、仙台市の住宅の縁側に置き、熱で窓ガラスを割ったとする火炎瓶処罰法違反と器物損壊罪

 2014年12月7日- 名古屋市で宗教勧誘で知り合った女性を誘って、斧で殴ってマフラーで絞めたとする殺人罪(本事件)

 2014年12月13日 - 仙台市の住宅(前述と同じ)の郵便受けに、引火性の高いジエチルエーテルを流し込んで火をつけたとする殺人未遂罪と現住建築物等放火未遂罪

なお加害者は2015年12月時点で名古屋大学を退学している。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2018年3月23日、名古屋高裁(高橋徹裁判長)は第一審・無期懲役判決を支持して被告人・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡した。高橋徹裁判長は、各事件時の精神状態は、躁鬱病の軽そう状態にとどまり、発達障害が動機に影響しているものの限定的だったと指摘して、一審同様に完全責任能力を認めた。

硫酸タリウム事件については、混入時に周囲の状況を確認するなど冷静に行動しているほか、致死量の知識もあったことから「被害者が死亡する可能性を十分認識しながら犯行に及んだと推認される」と述べた。被告人側は判決を不服として2018年4月5日付で最高裁へ上告した。

2019年(令和元年)10月15日付で最高裁判所第三小法廷(林景一裁判長)は被告人・元名大生の上告を棄却する決定を出したため、2019年10月22日付で無期懲役とした一・二審判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2049年10月頃、49歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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◆ドキュメント
作成日付:2023/10/12
更新日付:2023/10/28

◆はじめに

未解決事件とは、容疑者が検挙、または判明・発覚などが一切できていない刑事事件のことです。

捜査または捜索等が行き詰まった場合、または公訴時効が成立して未解決となった事件は、完全犯罪が成立することを意味し、また「迷宮入り」とも言われます。なお英語では通称コールド・ケースとも言われています。

長期間に逃走した犯人が逮捕された後に身柄が判っているものも原則、「犯人がわかっている未解決事件」として表現される場合もあります。

警察庁はこの他、令和改元(2019年5月1日)以降にも、未解決の殺人・(児童の)失踪・窃盗などの事件が多く相次いで発生していることから、長期捜査中も含めた該当する未解決事件の謝礼金及び懸賞金または報奨金等を用意して、事件の解決、または解明に向けての有力な情報に提供を呼び掛けています。
 
未解決事件というと時効という言葉がセットで思い浮かびますが、現在では「死刑に当たる罪」については公訴時効が廃止されたため、時効が成立することはありません(これ以外は公訴時効の期間があります)。

<目次>






青ゲットの殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1906年(明治39年)に発生した殺人事件である。殺人罪としての時効を過ぎた為に未解決事件の一つとして扱われている。

午前5時頃、青いゲット(毛布)をかぶった35歳くらいの男が問屋を訪ね、番頭の加賀村吉(30歳)に「近所の叔母が病気になったので来てくれ」と言った(当時はもちろん防犯カメラも無かった為、容姿はよく分かっていない)。村吉はこの時大雪であったことなどから男を信用し、付いて行った。

その後、同様の手口で村吉の自宅から母・キク(59歳)を連れ出し、さらにその後、村吉の妻・ツオ(25歳)も連れ出した。男は村吉の次女(2歳)も連れ出そうとしたが、妻が連れ出される前に隣家の女性に留守番と子守りを頼んでおり、男との応対をした女性が次女の連行を拒否。そのため次女は助かった。長女は子守りとして他家に居たため、留守だった。

青ゲットの男に連れ出された3人は、その後いつまでたっても戻らず、調べると新保村の親戚には誰も病人など出ておらず、使いの者を頼んだ事実もないことが分かった。

三国警察署に置かれた捜査本部は、九頭竜川一帯の大掛かりな捜索を行い、村吉家裏手の竹田川に係留してあった小船の船べりに、血痕が付着しているのを発見した。

そして小船から少し下流の川底で妻ツオの遺体が沈んでいるのが見つかった。さらに翌日には母キクの遺体が九頭竜川の河口付近に沈んでいるのが発見され、引き上げられた。

しかし、村吉の遺体はその後の捜索でもついに発見することはできなかった。

捜査本部は男が一家を次々に連れ出して残忍に殺害していることから、村吉に強い恨みを抱いた者の犯行であると推理した。しかし村吉は真面目で酒も飲まず、良く働き、若くして番頭に取り立てられるなど大変評判は良かった。結局村吉を恨んでいる者は見つけることが出来ないまま、捜査は暗礁に乗り上げた。

そのまま捜査は進展することなく、1921年にはついに時効を迎え、迷宮入りとなってしまった。
1906年青ゲットの殺人事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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悪魔の詩訳者殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年7月11日に発生した殺人事件である。2006年7月11日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

1991年(平成3年)7月12日、筑波大学助教授の五十嵐一が同大学筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見された。司法解剖の結果、11日の午後10時頃から12日の午前2時頃までの間に殺害されたものと断定された]。遺体の首には、左に2カ所、右に1カ所の傷があり、いずれも頸動脈を切断するほどの深さで、「イスラム式の殺し方」とされる。また、右側の胸や腹など3カ所に及んだ刺し傷は、一部肝臓にまで達していた。また、現場からO型の血痕(五十嵐の血液型とは一致しないため、犯人のものとされた)や犯人が残したとみられるカンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。

犯人はエレベーターの使用を避け、階段で3階まで降りて非常階段から逃走しており、その後の消息は杳として知れなかった。

五十嵐は、1990年(平成2年)にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語訳している。1989年2月にイランの最高指導者、ルーホッラー・ホメイニーは、同書が反イスラーム的であるとして、ラシュディや発行に関わった者などに対する死刑を宣告するファトワーを発令していたため、事件直後からイラン政府との関係が取り沙汰されていた。

15年後の2006年(平成18年)7月11日、真相が明らかにならないまま殺人罪の公訴時効が成立し、未解決事件となった。外国人犯人説が有力な当事件では、実行犯が国外逃亡したと仮定した場合、公訴時効は成立していないことになるが、茨城県警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を五十嵐の遺族に返還している。
悪魔の詩訳者殺人事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・2006年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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旭川日通事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1981年に北海道旭川市で起きた日通社員が殺害された事件である。

起訴された被告も違法捜査が発覚して求刑をしないまま無罪判決が確定するという異例の展開をたどり、未解決事件となった。

事件は1981年10月31日の朝に日通(日本通運株式会社)旭川支店近文営業所の当直室で被害者Aが殺害されているのが発見されて発覚した。

司法解剖の結果30日~31日にかけて頸動脈などが切断されて出血死したと判明。警察は怨恨と物取りの両面から捜査していたが、物的証拠がなく捜査は難航した。

事件があった年に北海油脂株式会社において、同社社員Bが被害者Aと組んで大豆を横流しして殺害されるまでの三年間の間に約二千八百万円を横領したと社長に報告した後、1981年11月6日に自首した。同社は事件を穏便に済ましたいということもあって司法警察員面前調書を作成して不問となったことがあった。

捜査が難航する中、警察は被害者AとBが大豆横領で仲違いがあったのではないかとみて1982年8月17日に一度は不問にした業務上横領の罪で逮捕した。再逮捕、勾留、勾留延長となりその後に、業務上横領の罪で起訴した。一か月近くの取り調べの末、9月14日に殺人事件を自白。二十四通の自白調書が取られた後、10月7日に殺人罪で起訴された。

裁判の中で自白調書は違法な勾留、逮捕の中で作成されたものだとして証拠能力はないと判断した。これに対して検察は殺人事件の事実関係について意見を述べず、求刑も行わないという異例の展開となった。

1985年3月20日、旭川地裁は、被告人と犯行を結び付ける物証は何一つないこと、アリバイが成立すること、自白調書は別件逮捕での長時間にわたる違法な取り調べによって得られたものだとして無罪判決を下した。検察は控訴せずに無罪判決が確定した。

❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1996年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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足利事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1990年(平成2年)5月12日、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から父親がパチンコをしていたところ当時4歳の女児が行方不明になり、翌13日朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件。

栃木県警察は当初は前述の目撃証言を元にした捜査を行っていたが、わずか数か月(1990年(平成2年)5月 - 12月ぐらいまで)でその方面の捜査を取りやめている。

その後、警察は「独身男性で子供が好き」というプロファイリングに則り、聞き込みなどの地取り捜査方針に切り替える。そして、そのプロファイリングに合致する人物として、菅家利和という人物が捜査線上に浮かび、彼の身辺捜査を開始する。ちなみに、その時点での菅家利和に前科・前歴はなかった。

この警察の採用した「プロファイリング」の捜査手法は、即、犯罪性のある人物像に繋がるわけでもなく、それに合致しただけの菅家利和の単なる生活習慣も、即、不審人物視、不審行動に繋がるわけではない。その上、その情報提供者である住民の証言が菅家利和を明確に不審視する旨の証言だったのかどうかも不明である。また、同じ時期、警察はより確実性の高い前科・前歴から数人の男の行動調査をしている。

1991年(平成3年)12月2日に栃木県警察本部は同市内に住む菅家 利和(すがや としかず、当時45歳)を、猥褻目的誘拐と殺人の容疑で逮捕する。
逮捕の決め手は「女児の下着に付着していた体液のDNA型と菅家のDNA型とが一致した」ことである。しかし、1991年(平成3年)の時点におけるDNA型鑑定の技術では、別人であっても、1000人に1.2人の確率でDNA型も血液型も一致する可能性があった。

警察が任意同行を求めた理由とされる菅家利和のDNAサンプルは、先に菅家利和が指定ゴミ収集場に捨てたゴミ袋より収集した体液の付いたティッシュペーパーから検出したものであった。その時のゴミ収集が菅家利和や市町村役所の環境保全課などのゴミ回収を担当する管轄部署への令状発行、許可などの履行を行った上での活動だったのかは不明。

菅家利和の父親は息子の逮捕後まもなくショックで亡くなった。無実を信じていた母親も釈放の2年前(2007年(平成19年))に亡くなった。逮捕前々日の11月30日に栃木県足利市の実家で一緒に過ごしたのが最後となった。菅家利和は釈放後、「亡くなったと聞かされ、本当に胸が詰まった。事件が、家族も、自分の人生もばらばらにした」と語った。

菅家利和は、刑事裁判で有罪(無期懲役刑)が確定し、服役していたが、遺留物のDNA型が、2009年(平成21年)5月の再鑑定の結果、彼のものと一致しないことが判明し、彼は無実の冤罪被害者だったことが明らかとなった。

服役中だった菅家利和はただちに釈放され、その後の再審で無罪が確定した。菅家利和の無罪が確定するまでの間、長らく日本弁護士連合会が再審を支援していた。また、この事件は真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件でもある。当事件を含めて、足利市内を流れる渡良瀬川周辺で遺体が発見された3事件は足利連続幼女誘拐殺人事件とされている。
足利事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・真犯人が検挙されず、公訴時効が完成した未解決事件
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・2009年4月20日公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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厚真猟銃事件(あつまりょうじゅうじけん)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年2月4日に北海道勇払郡厚真町の山林内で、林業作業中の男性(当時45歳)がライフルで撃たれ死亡した事件。犯人と見られる二人組の男は事件後現場から逃走したとみられる。

2021年2月に業務上過失致死傷罪の公訴時効が成立したが、2023年現在は殺人事件として捜査は継続されている。

事件当日、この事件の被害者となった男性を含めた林業会社従業員は、午前7時頃から間伐作業等のため厚真町字桜丘の山林内に入った。

同日午前9時半頃、被害者男性の同僚の男性が銃声を聞いたため「危ない」と叫んだ。その直後、同僚の男性が約200メートル離れた町道上にオレンジ色の上着を着用したハンター風の二人組の男らを発見したが、男らはすぐさま青色のRV車に乗り込み、現場から立ち去った。

約30分後、同僚の男性が数十メートル離れた山の斜面で木材を引き上げるブルドーザー上で倒れている被害者男性を発見し、119番通報したが、被害者男性の左脇腹から右胸にかけてライフルの銃弾が貫通しており、即死だったと見られる。

苫小牧署は、被害者男性の死因をライフル銃の銃弾に当たったものと断定。ハンターの誤射による業務上過失致死事件とみて捜査を開始した。被害者男性の体を貫通したライフル銃の弾頭の捜索に延べ二千人を投入し、付近の土壌をスコップで掘り返しふるいに掛けるなどして捜索したものの見つからず、弾頭の捜索は事件から10ヶ月後の同年11月に打ち切られた。一方、道内外の猟銃所持者約6300人への聞き込みも行なったが、有力な情報は得られなかった。 事件発生から10年、苫小牧署はハンターの誤射の可能性が高いとみて捜査してきたが、業務上過失致死罪の公訴時効が2021年2月4日、成立した。
厚真猟銃事件
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 ・人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもの(死刑に当たるものを除く)・2021年公訴時効(10年)・業務上過失
 ・人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・公訴時効なし・殺人

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綾瀬母子殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1988年(昭和63年)11月16日、東京都足立区綾瀬で発生した母子強盗殺人事件である。

誤認逮捕され家庭裁判所に送致された3人の被疑者は少年審判で不処分(刑事裁判の無罪に相当)の決定を受けた。

1988年11月16日に東京都足立区綾瀬で母(36歳)と子(7歳)が殺害され金品が強奪された。警視庁は翌年の1989年4月25日に、事件現場である被害者の自宅の近所に在住する(または事件当時に在住していた)A(当時16歳)・B(当時15歳)・C(当時15歳)の3人を被疑者として逮捕した。

誤認逮捕された少年3人は、事件後に好奇心から事件現場である被害者の自宅を見物に行き、聞き込み捜査中の刑事から被疑者に関する情報を知っているかと質問された時に、他人に注目されたいという動機で、事件現場である被害者の自宅で不審な人物を見たと虚偽の供述をした。

警察官は少年3人の不審人物に関する供述が不自然であったため、事件当時は不登校の状態で犯行現場での不在証明が無いという理由で母子強盗殺人犯人であるとして少年3人を被疑者と見なした。

警察官は被疑者と見なした少年3人に警察署への任意同行を求め、少年の保護者への連絡も無く、警察署内で深夜まで尋問した。警察官は被疑者の少年3人母子を殺害し強盗をしたとの供述を誘導・強要した結果、被疑者3人に母子強盗殺人をしたとの自白をさせ、警察官の意向に合致した供述調書を作成するとともに、被疑者の少年3人を逮捕した。

1989年5月16日、検察官は、Aは主導的立場の殺人実行犯と見なして逆送致による刑事処分、Bは従属的立場の殺人実行犯と見なして長期の少年院送致、Cは従属的立場の幇助犯と見なして短期の少年院送致が適切な処遇であるとの意見を付けて、3人を家庭裁判所に送致し、3人の身柄は警察の留置場から少年鑑別所に移管された。

1989年9月12日、東京家庭裁判所はA・B・Cの3人に対して、物証が不一致であることと、被疑者3人が事件当時に事件現場に不在だった証明により、検察官の主張は証拠能力が無く、供述の任意性も信用性も無く、真実ではないと判断し、A・B・Cと付添人の弁護人の主張のとおり、少年3人は無実であると判断して、刑事裁判の無罪に相当する不処分の決定をした。

逮捕と家裁送致により、警察はその後は捜査を行わなかった。結局、その後、捜査機関は再捜査を行われず、母子強盗殺害事件の真犯人を発見することなく、2003年11月16日に公訴時効が成立している。
綾瀬母子殺人事件(新聞)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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荒川区路上男性会社員刺殺事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年11月28日夜に東京都荒川区で発生した殺人事件。警視庁による正式な呼称は東日暮里三丁目先路上刃物使用殺人事件。

2012年11月から捜査特別報奨金(300万円)対象事件となっている。

2011年(平成23年)11月28日午後10時25分頃、荒川区東日暮里三丁目28番先路上でタクシー運転手がスーツ姿の若い男性が背中から出血しているのを発見し、110番通報した。男性はタクシーを呼び止め、「病院に連れて行ってほしい」と話し、運転手が「どうしたんですか」と尋ねると「刺された」と言い倒れたという[1]。

被害者の傷は心臓近くに達しており、病院に搬送された時には既に心肺停止の状態でそのままの形で亡くなった。手などで身を守る際にできる防御創は無く、背中をいきなり刃物で刺されたとみられている。

その後の警察の調べで、被害者は近所に住む当時24歳の会社員であることが判明した。現場は被害者の自宅まで僅か数十メートルのところであった。

その後最も事件解決の手掛かりとなりそうな物証が見つかった。現場付近の防犯カメラに、犯行時刻頃に現場に近づく男、及び事件後現場から全力で走り去る不審な男が映っていた(2名は服装から同一人物のようにも見受けられるが、警視庁は断定していない)。男は犯行現場から南の方角、JR鶯谷駅方面に向かったことがわかっている。

警視庁はこの男(ら)が事件に関して何らかの事情を知っているとみて情報を求めている。
荒川区路上男性会社員刺殺事件(動画)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 捜査中

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荒川連続自転車通り魔殺傷事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1959年(昭和34年)1月に発生した連続通り魔殺傷事件である。

1974年に犯人特定・逮捕には至らないまま公訴時効が成立し、未解決事件となった。

1959年1月27日の夕方、東京都荒川区内において、黒っぽい皮のジャンパーを着て自転車に乗った、15,6歳と見られる少年による連続通り魔事件が発生した。被害者は追い抜かれざまに刃物で胸を刺されていた。この日のおよそ1時間の間に、8歳の女児を含む10名の若い女性が被害にあい、そのうちの16歳の少女が死亡した。

そしてこの捜査の過程で、1月21日ごろから当日に至るまでに、同一の手口で襲われた被害者がさらに10名ほどいることが判明した。

警察による厳重な警戒の中、1月30日にも同種の事件が発生し、さらに、被害者宅に「あまり騒ぐな」と脅迫する手紙が送りつけられていたことが明らかになると、近隣の住民らは恐怖におびえ、個人行動を避けたり自警団を組織するなどの自衛策をとる者もいた。

犯行時間は、いずれも午後5時から8時前であった。また目撃者の証言から、犯人は黒っぽいジャンパーを着た16歳前後の就労している少年のようであったとの情報を得たため、同地区の有職者で非行歴のある少年に的を絞って聞き込み調査を開始。さらに近所にこのような手配書を配って情報提供を求めた。

その中で、自営業の三男(当時17歳)が捜査線上に浮上し、2月5日未明、重要容疑者として取り調べを受ける。しかし、その日の早朝にはシロと断定された。商店の人がただ配達をしているだけで、「あいつではないか」と噂したに過ぎない程度の情報も多かった。自営業の三男と同姓の少年が通り魔と疑われ、帰郷する汽車の中で自殺未遂を図っている[1]。

結局、犯人特定・逮捕には至らないまま、1974年に公訴時効を迎えた。
荒川連続自転車通り魔殺傷事件(新聞)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 人を死亡させた罪であって死刑に当たる罪・1921年公訴時効(15年・~2004年)・殺人

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池袋駅構内大学生殺人事件
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1996年4月11日午後11時30分頃に東京都豊島区の東日本旅客鉄道(JR東日本)池袋駅構内で発生した殴打による殺人事件。

法の再改正を求めている両親の要望により、異例としては初めて長期捜査に至らなかった殺人事件でもある。

法により、捜査は継続していたが、警視庁池袋警察署捜査本部は、事件の犯人を捜しても出頭または現れなかったため、2012年4月16日に、警察庁での遺族の会見にて要望した上で長期捜査からは解消し、事件解決に繋がらなかった長期未解決事件でもあった。

また事件は大勢に目撃されており、現場となった池袋駅には目撃者の証言などを基に作成された容疑者とみられる似顔絵が貼られていた。

1996年4月11日午後11時30分頃、池袋駅の山手線外回り7・8番線ホームで当時立教大学の学生であった男性(当時21歳)が会社員風の男に絡まれ、顎を殴られ転倒した際に後頭部を強打し、5日後に入院先の病院で死亡した(のちに病院側の処置に落ち度があったとして損害賠償請求訴訟を起こし、病院側が約6500万円を支払うことで和解した)。男は事件直後、男性を介抱する別の乗客の背後に無言で立っていたが、現場に留まるよう求めた別の乗客を恫喝すると、23時37分発の山手線で日暮里駅方面に向かったという。男のその後の足取りは不明となっている(同駅までの乗車は目撃されているが、この駅で降車したのかどうかは不明)。

当初は傷害致死事件として扱われていたが、2002年7月に被害者の父親が3万5000人分の署名と公訴時効延長を求める嘆願書を法務省に提出した。その結果、傷害致死罪の公訴時効(当時7年)成立直前の2003年3月に容疑が殺人罪(当時15年)に切り替えられた。

2010年4月に殺人罪の時効が撤廃されると同時に警察庁の捜査特別報奨金制度対象事件となった(遺族の希望で2012年度より指定を辞退)。

遺族の両親が法の再改正、もしくは捜査打ち切りを求めており、警視庁は2020年12月11日に殺人容疑について容疑者不詳のまま書類送検した。一方で失踪事件など、他の長期未解決事件の捜査と同様に警視庁は引き続き事件の情報提供を呼び掛け、容疑者が特定されれば逮捕する方針。

容疑者のイメージ画
池袋駅構内大学生殺人事件(容疑者)
❖公訴時効(罪の種類・時効期間・具体的な罪)
 遺族が法の再改正か、捜査打ち切りの意向により、警視庁は2020年12月11日に殺人容疑について容疑者不詳のまま書類送検。容疑者が特定されれば逮捕する方針。

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工事中



※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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◆ドキュメント
作成日付:2023/08/06
更新日付:2023/10/25
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート4))

<目次>






品川医師射殺事件(野本正巳)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1994年10月25日午前8時頃、東京都・品川区の京浜急行電鉄京急本線青物横丁駅の二階改札口近くで、病院医長 岡崎武二郎さん(当時47歳)が後ろから元会社員の男に拳銃で撃たれた。被害者は病院に運ばれるも死亡し、撃った男はスクーターで逃亡した。10月29日に野本正巳(当時37歳)が逮捕された。

野本は1993年6月に、被害者執刀の手術で体調の不調を訴え、岡崎さんの勤務先の病院に出向いて抗議をするなどしており、診療をめぐるいざこざが動機であった。野本は1994年9月中旬頃にたまたま通りかかった暴力団事務所に入り初対面の国粋会系暴力団 根岸組組員(当時29歳)に拳銃購入を持ちかけ、10月に暴力団組員を通じてトカレフ型拳銃と実弾7発を計140万円で購入した。暴力団組員は11月1日に逮捕された。

野本は精神科に通院していたが、東京地検は責任能力はあるとして起訴した。
品川医師射殺事件(野本正巳トカレフ)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1997年8月12日、東京地裁は野本に対し、「入手した拳銃の試射や逃走用スクーターの用意等から被告は犯行時に沈着冷静に行動していた」として心神耗弱を認定して懲役12年(求刑、懲役15年)を言い渡した。1998年8月6日に被告の控訴を棄却した。

一方で拳銃を譲り渡した暴力団組員の刑事裁判では1995年2月2日に東京地裁で懲役6年罰金80万円(求刑、懲役7年罰金100万円)の有罪判決を言い渡された。

❖出所予定(年齢)
 2009年8月頃、52歳(出所)

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品川同性愛者殺害事件(前田優香)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年に東京都品川区で発生した殺人事件である。

前田優香(当時41歳)が同性愛者だった鈴木友幸(ゆうこ)さん(当時39歳・女性)を東京都品川区のマンションで殺害した。新聞配達を止めさせるなどの偽装工作を施した上でMは逃亡し、鈴木さんの遺体は2005年4月19日に腐乱した状態で発見された。状況などから警察はMを指名手配した。Mは逃亡中、11の偽名を使い、4人の男性と交際して生計を立てたといわれる。このため、マスコミなどから「第2の福田和子」とまでいわれた。

◆偽名一覧
 前田 優香(ゆか)
 前田 由子(ゆうこ)
 鈴木 友幸(ゆうこ)
 鈴木 友子(ゆうこ)
 鈴木 由子
 鈴木 由香
 谷川 優香
 植田 友子
 前田 由香 
 大原 志麻
 (通称)しまちゃん

被害者の鈴木さんとは同性愛の関係にあった。ところがそのために鈴木さんは前田から性病をうつされてしまい、さらに前田が別の愛人と付き合いをしていたことから、激怒して品川のマンションに監禁。これを機に前田と鈴木さんは不仲になって衝突しあうようになり、殺害に至ったという。

2007年3月、東京都北区の健康ランドに前田がいたところを知り合いに発見され、警察に通報されて逮捕された。そのときの所持金は950円で、警察の質問には素直に答えたという。
品川同性愛者殺害事件(前田優香)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年10月22日、懲役15年の判決が下される。

❖出所予定(年齢)
 2022年10月頃、56歳(出所)

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新発田市女性連続殺人事件(喜納尚吾)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2013年(平成25年)8月から翌2014年1月にかけて新潟県・新発田市で5人の女性がわいせつ目的で襲われ、うち2人が殺害された事件。

2013年8月2日・3日、新発田市の女性B(当時30代)と女性C(当時10代)が強姦の被害に遭う事件が発生した。その3か月後の11月22日、同市の女性E(当時22歳)が行方不明になった(2014年4月7日に遺体で発見)。翌月の12月6日、同市の女性F(当時20代)が男に連れ去られそうになる事案が発生した。年が明けた2014年1月15日、同市の女性A(当時20歳)が行方不明になった。

女性Aの遺体は2014年4月3日に竹藪の下にある小川で発見された。発見された当時、着ていた服はめくりあがり、ブラジャーはなく乳房が露出していた。女性Aは成人式を終えた直後で、車の中から「ずっと女手ひとつでここまで育ててくれてありがとう。今日、無事に成人式を迎え、人生に一度きりの行事に参加することができました」などと書かれた母親への手紙も見つかった。

一連の事件の共通点として、ほとんどの被害者が車の運転席に座っていた女性だったことが挙げられる。犯人の喜納尚吾(当時39歳)は車に近づいて運転席ドアを開け、刃物を見せて脅したうえで女性を助手席に移動させ、自身が運転席に乗り込んだ。刃物を見せたり首を絞めたりしながら、「服を脱げ」「言うこと聞かねえと、殺すっけなあ」「港連れてけや」などと脅したという。
新発田市女性連続殺人事件(喜納尚吾・無期懲役)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1回目の裁判は、2013年の4件(女性B,C,E,F)と2014年の逃亡未遂に関して行われた。2015年12月に新潟地裁で無期懲役(求刑:同)の判決が下され、2018年3月に最高裁で無期懲役が確定した。

2回目の裁判は、2014年の1件(女性A)に関して行われた。本件についても「同種事案と比較した際に犯行の悪質性が突出しているとは言えない」と結論づけられ、2022年11月に新潟地裁で無期懲役(求刑:死刑)の判決が下された。新潟地検と被告人Kの双方が一審判決を不服として同月中に東京高裁に控訴した。

これらの事件は半年間に連続して起きた事件であるが、事件によって逮捕・起訴のタイミングが異なった。そのため裁判も2回に分かれて行われた。2回目の裁判では、1回目の裁判の結果が影響するかどうかが注目された。検察は「刑の重さを判断する際に事情として考慮することは許される」として死刑を求刑したが、「二重処罰の禁止」を踏まえて2回目の裁判でも無期懲役の判決が下された。

❖出所予定(年齢)
 2052年11月頃、69歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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渋谷区短大生切断遺体事件(武藤勇貴)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)1月3日に東京都渋谷区で発生した殺人・死体損壊事件。取り調べにより兄が妹を殺害したことが判明した。

2006年12月30日午後、歯科医師の両親と大学生の長男が帰省中となり東京都渋谷区の自宅の中で予備校生の次男 武藤勇貴(当時21歳)と短大生の長女 武藤亜澄さん(当時20歳)が二人きりとなっていた。二人は家族や生活態度などについて1時間に渡り話し続けたが、亜澄さんの「兄さんには夢がないね」という言葉で逆上し、勇貴は木刀で被害者の頭を殴りつけた後にタオルで首を絞め殺害。さらにのこぎりで亜澄さんの体を首や腕、脚の各関節部分を中心に15カ所でバラバラに切断した。

翌日12月31日に次男 武藤勇貴は予備校合宿に参加していたが、出発前に帰省していた父親 武藤衛(当時62歳)に「友人からもらった観賞魚のサメが死んだので、においがしても部屋を開けないで」と話すなど事件の隠蔽工作をしていた。2007年1月3日午後9時ごろ、母親(当時57歳)が自宅3階の部屋で袋詰めのの亜澄さん遺体を発見。午後10時半ごろ、父親が警視庁代々木署に届け出た。1月4日になり、勇貴が死体損壊の容疑で逮捕された。1月15日に殺人の容疑で再逮捕された。
渋谷区短大生切断遺体事件(武藤勇貴)
渋谷区短大生切断遺体事件(武藤亜澄さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2009年5月9日、2審判決を不服として、弁護側が最高裁判所に上告、2009年9月16日、最高裁判所で2審判決を支持、上告を棄却、懲役12年が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2021年5月頃、33歳(出所)

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島根女子大生死体遺棄事件(矢野富栄)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2009年(平成21年)11月6日に発覚した死体遺棄事件。

浜田事件、浜田学生遺棄事件、島根女子大生殺害事件、島根女子大生バラバラ殺人事件と記載されることもある。

2012年10月26日の死体遺棄罪単体での公訴時効成立後も容疑を殺人罪に切り替えて捜査が行われていた。長らく未解決であったが事件から7年が経った2016年12月、捜査機関は事件直後に事故死していた矢野富栄(やのよしはる)(当時33歳)が被疑者であると特定した。

2009年11月6日、広島県と島根県の県境に近い広島県山県郡北広島町の臥龍山(がりゅうざん)山頂付近で、女性の頭部が発見された。DNA鑑定の結果、島根県浜田市で10月26日から行方不明になっていた広島県の山中で島根県立大1年、平岡都さん(当時19歳)と確認された。

死亡時期は約1週間前から2週間前。広島県警・島根県警は合同捜査本部を設置して残りの遺体発見、被疑者特定などの捜査を開始。11月7日に左大腿骨の一部、11月8日に両手足の無い胴体部分、11月9日に左足首、11月19日に爪が発見された。
島根女子大生死体遺棄事件(矢野富栄)

◆犯行の状況
 ・死亡推定時期は2009年10月26日から31日。
 ・遺体状況から連れ去りに近い時間に死亡。
 ・頭部に殴打された跡。
 ・首を絞められた可能性が高い。
 ・遺体損壊に鋭利な小型の刃物を使用。

捜査は難航していたが、2016年の頭から過去に性犯罪歴のある人物を捜査し直していた所で事件当時益田市に在住していた矢野富栄(やのよしはる)(当時33歳)が浮上。矢野は事件から5年前の2004年に通りかかった女性にわいせつな行為をしようとしてけがをさせるなど3つの事件を起こし、懲役3年6ヶ月の判決を受けていた。

矢野と平岡都さん(当時19歳)との間に接点は無かった。矢野は遺体が見つかった2日後の2009年11月8日に山口県内の高速道路で事故死したが、遺品であるデジタルカメラとUSBメモリから死亡直前に削除されていた画像を復元し、行方不明後の被害者の遺体や包丁など57枚の画像が確認された。

被疑者の特定に至った決定打とされる画像は複数枚あるが、中でも被疑者宅の壁や風呂場を背景に被害者が撮影されていた画像データが揺るがぬ証拠となった。
島根女子大生死体遺棄事件()
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2016年12月20日、島根県警察・広島県警察合同捜査本部は、被疑者を殺人・死体損壊・死体遺棄罪で、松江地方検察庁に事件を送致。

2017年1月、松江地検が被疑者死亡で不起訴処分。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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下郷町連続殺人・死体遺棄事件(星久宏(兄)、星賢二(弟))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年に福島県福島県南会津郡下郷町湯野上で発覚した連続殺人死体遺棄事件。

2007年8月頃に発生した男性失踪事件を発端に、暴行や監禁などの虐待で死亡した2名の被害者が確認されている。

加害者である無職の星久宏(兄、当時39歳)が、2007年8月頃に半沢拓也さん(当時37歳)を福島市北中央のアパートで胸部を拳で複数回強打し死亡させ、2016年6月7日には監禁時状態同然の松田昭浩さん(当時42歳)を宇都宮市下岡本町の自宅アパートで喉を右拳で5回殴り殺害した事件。

死亡した被害者は、加害者の出身地である福島県南会津郡下郷町湯野上に運ばれ、半沢さんは山林に松田さんは阿賀川河原の近くに遺棄された。その際に両件とも加害者は弟である大工の星賢二(弟、当時35歳)に協力を要請している(後に賢二(弟)は死体遺棄容疑で逮捕)。

久宏(兄)は2017年10月15日に松田さんに対する恐喝未遂容疑で福島県警察福島北警察署に逮捕され、翌月6日には傷害容疑で再逮捕、9日に半沢さんとCに対する死体遺棄容疑で再逮捕(供述通りの場所から松田さんの遺体が同日13時50分ごろに発見され同20日に半沢さんが発見される)された。

更に2018年1月17日に半沢さんに対する殺人容疑で再逮捕され、2月9日に松田さんの家族に対する詐欺容疑で再逮捕、同19日に公文書毀棄でも再逮捕されている。
下郷町連続殺人・死体遺棄事件(星久宏(兄)・懲役30年、星賢二(弟)・懲役2年6月・執行猶予5年)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2018年12月14日、福島地方裁判所は星久宏(兄、判決時40歳)に対し懲役30年(求刑無期懲役)を言い渡した。

その後、検察・弁護側共に控訴せず2019年1月4日までに判決は確定した。

また、星賢二(弟、判決時36歳)に対しても2018年3月8日、福島地方裁判所(宮田祥次裁判官)は懲役2年6月・執行猶予5年(求刑懲役2年6月)を言い渡し、こちらも一審で判決は確定した。

❖出所予定(年齢)
 星久宏(兄)・・・2048年12月頃、70歳(懲役30年)
 星賢二(弟)・・・2014年3月頃、41歳、執行猶予完了

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下館事件(タイ人女性3人)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年(平成3年)9月に茨城県下館市(現:筑西市)でタイ人女性が殺害され現金約700万円の入ったバッグなどが持ち去られた強盗殺人事件である。

1991年(平成3年)9月29日朝、茨城県下館市のアパートの一室で、スナックを実質的に切り盛りするタイ人女性(当時28歳)が首などを刃物で刺されて殺害され、現金約700万円の入った被害者のバッグなどが奪われた。茨城県警察は、同居していたタイ人女性3名の行方を追い、同日午後に千葉県市原市のホテルに投宿していた3人に任意同行を求めて下館警察署(現:筑西警察署)に連行し、強盗殺人の容疑で逮捕した。

取り調べで3人は、「工場やレストランで働くと言われて来日したが、被害者から350万円の借金があると言われて、スナックの客を相手に売春を強要された。パスポートなどは取り上げられ、外出や母国の家族への国際電話も自由にさせてもらえず、日常的な暴言や暴力で被害者に従わせられた。こうした境遇から逃れるために被害者を殺害して逃走した」旨を供述した。3人は、同年10月21日に強盗殺人の罪で起訴された。

この事件では、犯人とされたタイ人女性3名はむしろ人身売買の被害者であるとして、逮捕直後から様々な団体や個人がネットワークを形成して3人を支援した。1992年(平成4年)12月には「下館事件タイ三女性を支える会」(支える会)が発足して組織化された。

支援活動は、差し入れや面会に始まり、拘置所内での処遇改善を求める申し立て、3人を日本に連れてくるのに関与したブローカーらに対する告発状提出、スナックの日本人経営者に対する未払い賃金請求訴訟の支援、さらには講演会やシンポジウムの開催、事件を描いた演劇の上演、3人の手記をもとにした書籍の出版などの啓蒙活動を広く行った。

裁判支援と啓蒙活動を両輪で進める支援活動は当時珍しく、支える会の活動は、下館事件の前後に、道後(愛媛県)、新小岩(東京都)、茂原(千葉県)、桑名(三重県)、市原(千葉県)、四日市(三重県)などで相次いだ同様の事件での支援活動のモデルとなった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1996年(平成8年)7月16日、東京高裁で控訴審判決が言い渡された。松本時夫裁判長の言い渡した判決は、「原判決を破棄する。被告人3名をそれぞれ懲役8年に処する。被告人らに対し、原審における未決勾留日数中各八〇〇日をそれぞれの刑に算入する」であった。

控訴審判決後、3人は上告せず懲役8年とした控訴審判決が確定した。3人は服役し、刑期を終えて出所するとタイに帰国した。

支える会は控訴審判決を受けて3人に上告の意思がないことを確認すると活動を停止。事実上解散した。ただし、この時の支援者同士のつながりはその後も継続されている。

❖出所予定(年齢)
 加害者A(事件当時25歳)・・・2004年8月頃、36歳(出所)
 加害者B(事件当時25歳)・・・2004年8月頃、36歳(出所)
 加害者C(事件当時30歳)・・・2004年8月頃、41歳(出所)

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下関通り魔殺人事件(上部康明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1999年(平成11年)9月29日に山口県下関市の西日本旅客鉄道(JR西日本)下関駅において発生した通り魔事件である。

1999年9月29日午後4時25分頃、加害者である運送業の男Uがレンタカーの乗用車に乗ったままJR下関駅東口駅舎のガラスのドアを突き破って駅構内の自由通路に車ごと侵入、そのまま売店や多数の利用客などの存在する駅構内を約60m暴走して7人をはねた。その後車から降り、包丁を振り回しながら改札を通過し、2階のプラットホームへと続く階段を上る途中で1人に切りつけ、プラットホームに上がってからさらに7人に無差別に切りつけた。Uは駅員に取り押さえられ山口県警察鉄道警察隊に現行犯逮捕された。

上部康明(当時35歳)のこれらの行為により、5人が死亡、10人が重軽傷を負った。

逮捕後、上部は「社会に不満があり、だれでもいいから殺してやろうと思った」「池袋事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」と供述している。

また、上部は逮捕後、「神の指示」などと意味不明の発言を繰り返し、時に奇声を上げて廷内で暴れるなど奇行が目立ち始める。こうした行動が罪逃れのための演技であるか確かめるため、上部の精神鑑定が行なわれた。
下関通り魔殺人事件(上部康明)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1999年12月より行われた山口地方裁判所下関支部での刑事裁判の中で、弁護側が上部の精神鑑定を請求。弁護側の申請した鑑定医による精神鑑定の結果、上部には妄想性パーソナリティ障害(パラノイア)があり、事件発生当時心神喪失に近い心神耗弱状態にあったとの鑑定を行った。

一方、検察側が証人として申請した鑑定医は、上部には完全責任能力があるとの判断を下した。このように精神鑑定の結果が分かれる中、2002年9月20日に山口地裁下関支部(並木正男裁判長)は上部の完全な責任能力を認め、求刑通り上部に死刑判決を言い渡した。

上部は控訴したが、控訴審の広島高等裁判所(大渕敏和裁判長)による2005年6月28日の判決も、死刑を支持し、控訴を棄却した。その後、上部は最高裁判所に上告したが、2008年7月11日に最高裁第2小法廷(今井功裁判長)も二審の死刑判決を支持し、上部の上告を棄却、これにより上部に対する死刑判決が確定した。

2012年3月27日、小川敏夫法務大臣が死刑執行命令書への署名を行い、翌々日の3月29日に広島拘置所で上部の死刑が執行された。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2012年3月27日、広島拘置所で絞首により死刑執行(当時48歳没))

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首都圏連続不審死事件(木嶋佳苗)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて発生した連続不審死事件。

婚活(結婚活動)を利用した事件であることから、「婚活殺人事件」、「婚活大量殺人事件」、「婚活連続殺人事件」などとも呼ばれている。

2009年(平成21年)8月6日、埼玉県富士見市の月極駐車場内にあった車内において会社員 大出嘉之さん(当時41歳)の遺体が発見された。死因は練炭による一酸化炭素中毒であったが、自殺にしては不審点が多かったことから、埼玉県警察の捜査が始まった。

その結果、大出さんは被疑者の住所不定・無職の女、木嶋 佳苗(きじま かなえ、1974年〈昭和49年〉11月27日生まれ、逮捕当時34歳)と交際していたことがわかり、捜査していくにつれて、木嶋には他にも多数の愛人がおり、その愛人の何人かも不審死を遂げていることが分かった。埼玉県警は木嶋が結婚を装った詐欺をおこなっていたと断定し、9月25日に木嶋を詐欺の容疑で逮捕した。

❖不審死を遂げた被害者

・リサイクルショップ経営の男性(当時70歳)不審死事件
 2007年8月、千葉県松戸市の自営業の男性(当時70歳)が自宅の風呂場で死亡。死因不明。木嶋に貢いだ金額は約7380万円。千葉県警が再捜査をしていたが、練炭や七輪なども発見されず、死因は病死、「木嶋の関与はなかった」と断定した。

・寺田隆夫さん(当時53歳)不審死事件(起訴事案)
 2009年1月30日から1月31日に東京都青梅市の会社員 寺田隆夫さん(当時53歳)が死亡し、2月4日に発見。死因は寺田さんを眠らせたうえで複数個の練炭を燃焼させたことによる一酸化炭素中毒死。死亡直前に寺田さんの銀行口座から木嶋の銀行口座に計1700万円が振り込まれていた。

・安藤建三さん(当時80歳)不審死事件(起訴事案)
 同年5月15日に千葉県野田市の男性B(当時80歳)が自宅で死亡。安藤さん宅から出火して全焼。木嶋は安藤さんに睡眠薬を飲ませて眠らせた。そして部屋で練炭複数個を燃焼させて、一酸化炭素中毒で殺害。

この時、練炭は火災を起こし家は全焼した。安藤さんの父は著名な画家であり、木嶋は安藤さんの家の絵を盗んで高価な値段で売っていたが、安藤さんは父の絵が無くなったことについて木嶋を疑わず、親族を疑っていた。死亡直後に、木嶋は安藤さんの銀行口座から約190万円を引き出した。

・大出嘉之さん(当時41歳)不審死事件(起訴事案)
 2009年8月6日に東京都千代田区の会社員 大出さん(当時41歳)が埼玉県富士見市の駐車場にとめたレンタカー内で死亡。木嶋は大出さんに睡眠薬を服用させて眠らせ、埼玉県富士見市の月極駐車場内に停めた車の中で練炭を燃焼させた。大出さんは一酸化炭素中毒で死亡。木嶋は大出さんに対して結婚する気があると装って、約470万円を受け取っていた。

2010年(平成22年)1月までに、木嶋は7度におよぶ詐欺などの容疑で再逮捕されている。警察は詐欺と不審死の関連について慎重に捜査を継続。2月22日に木嶋は大出さんに対する殺人罪で起訴された。窃盗罪や詐欺罪などですでに起訴されており、併せて6度目の起訴となる。10月29日には、東京都青梅市の寺田隆夫さん(当時53歳)を自殺に見せかけて殺害したとして、警視庁に再逮捕された。ただし、被害者男性の遺体は、当時は「自殺」と断定されて解剖されていない例もあり、死因に関する資料が乏しい中での、極めて異例の殺人罪の立件となった。

木嶋は「19歳で初めて愛人契約を男性と結び、一般の女性とは違うセックスでの異なった世界を男性に与えることができるとわかり、性の奥義を極めたいと思うに至り、受け取る額も付き合う男性もクラスが上がるようになった。男性に癒しや活力を与えることが自分では仕事と感じるようになり、一般の女性にできないことなら、受け取る報酬は正当で当然と思うようになった」など、自分には特別な性的魅力があり、そのために男性からお金を受け取るのが当然で金銭をだまし取ることに罪悪感はなかったと主張。木嶋はテクニックよりも本来持っている機能が高いなどと自分自身を評価している。
首都圏連続不審死事件(木嶋佳苗)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年(平成29年)4月14日、最高裁判所第2小法廷(小貫芳信裁判長)は「殺害は計画的で極めて悪質。被告人は不合理な弁解で、反省の態度を全く示しておらず、死刑はやむを得ない」として、木嶋の上告を棄却する判決を言い渡した。これにより、木嶋の死刑が確定することとなった。裁判員裁判で審理された被告人の死刑確定は15人目で、女性としては初めてであった。

2017年5月9日、最高裁は上告棄却の判決に対する木嶋の訂正申し立てを棄却し、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

❖木嶋佳苗は3回獄中結婚していた!

 2015年3月2日、支援者の1人である東京都内の不動産会社勤務の60代のサラリーマンと獄中結婚したが、2016年に離婚。その後、逮捕前から知り合いだった男性と再婚し、元夫とは養子縁組した。

2018年1月には週刊新潮の編集部員と3度目の獄中結婚をして、「井上」姓となった。彼はそれまでの妻と離婚して木嶋と結婚したという。「”取材対象者” として接しているうちに、思いが募っていった」とのこと。

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少女スーツケース詰め殺人事件(長谷部泰輔)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年5月2日、宮城県加美町一本杉の日焼けサロン店員の林瑞枝さん(当時19歳)が千葉県松戸市のフリーターの長谷部泰輔(当時23歳)に絞殺された。長谷部は、自称フリーターでパチンコなどから借金を重ねていた。事件の2年前にも埼玉県の女性をホテルに連れ込んでキャッシュカードを奪って現金7万円を引き出すという、今回と同じような事件を起こしていた。このときは女性との間に示談が成立して起訴猶予となる。

そして今回、長谷部はJR新宿駅東口で林さんと知り合い、被害者の女性を自宅に誘い込み、キャッシュカードを奪って暗証番号を聞き出そうとしたが、林さんに抵抗されたために殺害し、現金1万2000円の入った財布を奪った。警察は5月7日に長谷部を死体遺棄罪の容疑で逮捕。長谷部の自供から、柏市名戸ヶ谷の水田に遺棄されたスーツケースの内部から林さんの遺体が発見された。長谷部は強盗殺人罪の容疑でも再逮捕された。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判で被告は起訴内容を全面的に認めた。裁判では無期懲役が求刑され、2005年11月10日、東京地裁で小川正持裁判長は、「パチスロで金に窮し、声をかけて親しくなった女性から金をせびろうと考えた。思い通りにならず殺害して金品を奪ったという動機はあまりに身勝手で愚かしい」とし、求刑通り無期懲役の判決を下した。

❖出所予定(年齢)
 2035年11月頃、53歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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新宿・渋谷エリートバラバラ殺人事件(三橋歌織)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2006年12月16日、東京都新宿区西新宿の路上で、ビニール袋に入った上半身だけの遺体が見つかる。当初、歌舞伎町に近い新宿という土地柄、被害者を外国人と断定し、暴力団関係者・中国系マフィアなどによる犯行(抗争事件)という見方が強かった。

同年12月28日、東京都渋谷区内の空民家の庭で下半身のみの切断遺体が発見される。この下半身遺体と、西新宿で見つかった上半身遺体のDNAが一致し、この遺体は会社員 三橋祐輔さん(当時30歳)と判明した。被害者の男性は外資系不動産投資会社に勤務し、かなりの収入を挙げていたため、「エリート殺人事件」と称されるようになった。

最初の遺体発見から約1か月経った2007年1月10日、死体遺棄容疑で女を逮捕。逮捕されたのは、被害者の2歳年上の妻である三橋歌織(当時32歳)あった。逮捕後、東京都町田市の芹ヶ谷公園で頭部を発見。「手首はゴミと一緒に捨てた」と供述している。

夫妻は2002年11月頃に知り合い同年12月より同棲を始め、翌年(2003年)3月に結婚する。裁判では、出会いから結婚までの期間を“いろいろあった末に結婚”と表現されているが、歌織は妊娠を期に結婚したが、当時は法律事務所のアルバイトで経済力のない祐輔さんと家庭を持つことに不安を感じ、同年3月上旬に堕胎している。

夫妻は結婚後数ヶ月で不仲になったとされ、歌織は祐輔さんからドメスティックバイオレンス(DV)を受け、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したと供述。歌織は一時期、祐輔さんの暴力から逃れるためシェルターと呼ばれる保護施設に避難した。また、互いに不倫相手がいたとも供述している。

2006年12月12日早朝、歌織は就寝中の祐輔さんをワインボトルで殴り殺害。自宅で遺体を切断し、事件の2日後にタクシーを使い上半身を東京都新宿区の路上へ遺棄。持ち運びに疲れ下半身を東京都渋谷区の民家に遺棄、バッグに頭部を入れ町田市の公園に遺棄するなど杜撰な面もあった一方、自宅をリフォームするなど計画性も伺えた犯行であった。
新宿・渋谷エリートバラバラ殺人事件(三橋歌織)
新宿・渋谷エリートバラバラ殺人事件(三橋祐輔さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2008年4月28日、東京地方裁判所(河本雅也裁判長)は動機が明瞭で計画性もあり、また犯行後死体遺棄や隠蔽工作を行っており、精神状態は犯行の手助けにしかなっていないと完全責任能力を認め、歌織に懲役15年の判決を言い渡した。歌織側の弁護人はこの判決を不服とし同年5月9日に控訴した。

2010年5月、東京高等裁判所で控訴審公判最終弁論が開かれ弁護側は心神喪失による無罪を主張、検察側は精神鑑定の信用性の高さを主張し控訴棄却を求め結審した。同年6月22日に控訴審判決公判が開かれ出田孝一裁判長は東京地方裁判所判決(1審)を支持し被告側の控訴を棄却した。同年6月29日までに上訴権を放棄したため懲役刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2025年5月頃、53歳(懲役15年)

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新城市会社役員誘拐殺人事件(後藤浩之、久米克幸)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)4月に愛知県新城市で発生した身代金目的の誘拐殺人事件。

新城市の建設会社役員(当時39歳・元新城JC理事長)松井紀裕(としひろ)さんは、2003年4月17日、社団法人 新城青年会議所(新城JC)が主催した新城市長選挙公開討論会後に行方不明となる。

翌4月18日朝、建設会社役員の家に中年男の声で身代金誘拐の電話がかかり、家族に身代金1億円を要求。犯人は受け渡し場所を次々と変更。建設会社役員の妻はその都度タクシーで移動をした。最終的に東名高速道路から身代金を投下するよう犯人は指示したが、警察が現金投下をやめたため受け渡しに失敗。午後9時16分に「取引は停止だ」と通告し、連絡が途絶える。

4月20日午前6時半頃、愛知県額田郡額田町(現、岡崎市)の国道近くの山中で、被害者の死体が遺棄されているのが発見された。遺体には左目付近に打撲傷があり、暴行の上で殺害されたものと思われた。

事件発生当初から警察は、犯人が被害者の行動を知っている顔見知りと見て捜査。被害者と同じ新城JC会員で飲食会社役員 後藤浩之(当時38歳)が浮上。後藤は4月22日フィリピンへ逃亡を謀ったが入国拒否の上で強制送還され、帰国後逮捕された。

後藤は17日午後10時10分頃、討論会会場の駐車場で松井さんを殺害し、所持していた現金と携帯電話を奪取。その後に身代金を要求しており、4月19日には死体を遺棄していた。動機は「フィリピンパブで知り合ったホステスとの結婚資金などを得るため」というものであった。

また、後藤の逃亡を助けたとして飲食会社元従業員 久米克幸(当時37歳)も犯人隠避罪で逮捕された。後藤は自分も誘拐されたことにして逃亡しようと、久米に依頼して後藤の自宅へ虚偽の身代金要求の電話をかけさせていた。
新城市会社役員誘拐殺人事件(松井紀裕さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 後藤は強盗殺人罪と恐喝未遂、死体遺棄の罪で起訴。2005年5月24日、名古屋地裁は後藤に無期懲役判決(求刑死刑)。双方が控訴したが2006年12月15日、名古屋高裁は地裁の判決を支持、双方控訴せず刑が確定した。久米も懲役2年執行猶予4年の判決を受けている。

❖出所予定(年齢)
 後藤浩之・・・2035年5月頃、70歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 久米克幸・・・2009年5月頃、44歳、執行猶予完了

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新橋ストーカー殺人事件(林貢二)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2009年(平成21年)8月3日に東京都港区西新橋で発生したストーカー殺人事件。被害者の職業から「耳かき店員殺害事件」とも称されている。

2009年8月3日8時50分頃、東京都港区西新橋の民家で、耳かき専門店の女性従業員 江尻美保さん(当時21歳)とその祖母 鈴木芳江さん(当時78歳)が襲われる事件が発生。2人は顔や首などを刃物で刺され、鈴木芳江さんはその場で死亡、江尻美保さんは意識不明の状態で病院に搬送されたが1ヶ月後の9月7日に死亡した。事件発生当時に現場にいた会社員の林貢二(当時41歳)が逮捕された。

被害者の江尻美保さんは秋葉原(東京都千代田区)の耳かき専門店で働く、いわゆる耳かき嬢であった。勤務していた店舗でナンバー1の人気嬢であり、多い時は1ヶ月に65万円の収入を得ていた。一方、林は2008年2月からこの耳かき専門店に通い始め、この女性従業員を指名し続けて店に通う頻度が上がり、最終的に同店で少なくとも200万円以上を費やした。

2009年4月5日、林は女性従業員に店外で会うことを要求したとして店を出入禁止となり、その後、江尻さんにストーカー行為をするようになった。江尻さんが拒否を続けることで、林の江尻さんに対する愛情が憎悪に変わり、8月3日、林は、果物ナイフ・包丁・ハンマーを準備してAの自宅を訪れ、応対したBを1階の玄関先で刺した後、2階にいた江尻さんを刺した。
新橋ストーカー殺人事件(林貢二)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 東京地方裁判所における公判前整理手続は、2010年(平成22年)1月8日から開始された。その後、同年5月6日の第5回公判前整理手続において、被告人 林の精神鑑定を実施することが決定された。鑑定の結果、林には完全責任能力があるとされた。

同年10月25日の第5回公判で、論告求刑公判が開かれ、検察官は「永山基準」を引用した上で、被告人 林に死刑を求刑した。その後、弁護人が最終弁論で死刑回避を訴え、林は被害者2人に対する謝罪の弁を述べた。

その後、26日から11月1日午前まで、裁判官と裁判員による評議が行われ、同年11月1日15時30分から判決公判が開かれた。開廷直後、若園裁判長は冒頭で「被告人を無期懲役に処する。押収してあるハンマー1本、果物ナイフ1本及びペティナイフ1本をいずれも没収する」という主文を読み上げた。

東京地検は同月12日、本件に関して控訴しない方針を発表。同月15日付で判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2040年1月頃、73歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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杉並親子殺害事件(志村裕史)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年1月に発生した殺人事件。

2007年1月25日、東京都杉並区の家で親子2人 無職 野元富恵さ ん(母親86歳)と建設設計会社社員 新一郎さん(長男61歳)が殺害され、現金約4万7千円やクレジットカードが奪われる事件が発生。3日後の1月28日に事件が発覚した。

1月25日に被害者のカードから現金を引き出そうとして暗証番号が違っていたため引き出せなかった大学生 志村裕史(当時22歳)を2月10日に逮捕。志村は被害者宅の裏手にある家に住んでいた。親子の殺害を認め、金が欲しかったと供述している。志村の供述からサバイバルナイフを購入し、黒い戦闘服に目出し帽、黒の登山靴で侵入し強盗殺人に及んだと判明。盗んだ金は遊興費に消えていた。
杉並親子殺害事件(志村裕史)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 公判において精神鑑定が2度行われたが、その2回では責任能力の有無について、正反対の結果が出ている。検察は動機が明確で責任能力もあり、更生の余地も見られないとして、死刑を求刑したが、犯行の計画性が乏しいことや、犯人であるSの年齢が犯行当時21歳と若く、十分な更生の余地があるとみなしたことにより、2009年7月15日に東京地裁は志村に無期懲役判決を言い渡した。検察側・弁護側共に控訴したが、2審東京高裁も無期懲役判決を支持した。結局検察は上告を断念し、被告も自ら上告を取り下げて判決は確定した。

❖出所予定(年齢)
 2039年7月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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逗子ストーカー殺人事件(小堤英統)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2012年11月6日に神奈川県逗子市で、度重なるストーカー被害の末に女性が殺害された殺人事件。

ストーカー被害が把握されていたにもかかわらず事件を防止できなかったこと、行政や警察からの個人情報漏洩が問題視された。またストーカー行為等の規制等に関する法律の不備が指摘され、同法の改正につながった。

2012年11月6日、逗子市のアパート1階居間でフリーデザイナーの三好梨絵さん(当時33歳)が刃物で刺殺され、犯人の東京都在住の元交際相手の小堤英統(当時40歳)が、同じアパートの2階の出窓に紐を掛けて首吊り自殺した。

東京都内に住む2人は2004年頃から交際を始めたが、2006年に小堤の納得を得られないまま三好さんから別れた。それ以降、小堤から嫌がらせのメールが送られ始め、警察に相談した。

三好さんは2008年夏に別の男性と結婚し逗子市へ転居し、小堤には新しい名字や住所は隠していた。三好さんが新婚生活を度々SNSに投稿していたことから、2010年4月頃に三好さんの結婚を知った小堤から嫌がらせの電子メールが届くようになった。メールは次第にエスカレートし、2011年春には「刺し殺す」などと三好さんを脅すメールが1日に80通から100通送りつけられたため、三好さんは再び警察に相談し緊急通報装置を貸与され、翌々月の6月に脅迫容疑で小堤が逮捕された。同年7月にはストーカー規制法に基づく警告が出され、9月に懲役1年・執行猶予3年の有罪判決が確定。同年9月には被害女性の家に防犯カメラが設置された。

2012年3月下旬から4月上旬にかけて、三好さんは計1,089通に上る嫌がらせメールを小堤から送りつけられた。メールには「結婚を約束したのに別の男と結婚した。契約不履行で慰謝料を払え」などと書かれていた。三好さんは警察に相談するが、神奈川県警察は違法行為に該当しないとして立件せずに捜査を一旦終えた。4月上旬以降はメールが届かなくなり、三好さんから警察に「静観したい」との申し出を受けたが、自宅周辺で頻繁にパトロールを実施した。

また事件直前の2012年11月には、探偵事務所に三好さんの居場所を調べてほしいと依頼し、探偵事務所から所在確認の連絡を受けたことも判明している。

嫌がらせが収まっていたこともあり、三好さんは借りていた防犯カメラを返却したが、その直後の2012年11月6日に殺人事件が起こった。

小堤は無施錠だった1階窓から侵入して犯行に及んだとみられる。
逗子ストーカー殺人事件(小堤英統)
逗子ストーカー殺人事件(三好梨絵さん)

◆問題点

・市役所による個人情報漏洩
 2014年1月24日、加害者の男が依頼した興信所から、さらに調査依頼を受けた興信所の実質的経営者が、調査に不正な手段を用いたとして有罪判決を受けている。この人物は被害女性の住所を聞き出すため、事件前日の2012年11月5日に被害女性の夫を装って逗子市役所に電話をかけ「家内の税金の支払いの請求が来ているが、住所が間違っていないか」などと質問し、応対した市役所職員に被害女性の住所情報を調べるための不要なコンピューター操作をさせた偽計業務妨害容疑で逮捕された。

同年2月13日に同罪で起訴。また、ガス会社の契約者情報2件を2013年6月に不正に入手した不正競争防止法違反(営業秘密侵害)罪でも起訴され、2015年1月20日に懲役2年6月執行猶予5年(求刑、懲役3年)の有罪判決が言い渡された。

・警察による個人情報漏洩
 被害女性は結婚して名字が変わっており、また加害者の男から逃れるために住所を変更していた。しかし2011年6月に神奈川県警察が脅迫罪の逮捕状を執行する際、記載された被害女性の結婚後の名字や、転居先の市名などを加害者の前で読み上げていた[21]。

上述のとおり、加害者の男は逮捕前の2010年12月までの段階で、探偵事務所を使って被害女性が逗子市在住であることを把握していた可能性が高いことが判明している。さらに逮捕状執行の際に、警察が加害者に被害女性の結婚後の名字や正確な居住住所を知らせたことが殺人事件につながった可能性がある。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2012年12月28日に被疑者死亡として不起訴処分となった。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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スナックママ連続殺人事件(西川正勝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年(平成3年)12月に兵庫県・島根県・京都府で発生した連続殺人事件。

少年時代に殺人を犯し懲役刑に処された前科のある西川正勝(事件当時35歳)がスナック経営者の女性4人を相次いで殺害し、被害者の金品を奪った。

加害者の男Nは連続殺人4件(強盗殺人事件3件・殺人および窃盗事件1件)を起こした後、翌1992年(平成4年)1月に逃亡先の大阪府大阪市天王寺区内で逮捕されたが、その直前には強盗殺人未遂1件(被害者は女性落語家・桂花枝)を起こした。逮捕前から一連の連続殺人4件は警察庁により、広域重要指定119号事件に指定され、逃走中の強盗殺人未遂事件も広域事件として追加指定されている。

◆姫路事件(A事件)正木久美子さん
 西川は1991年12月12日夜、兵庫県姫路市坂元町26番地のスナック「くみ」にて同店経営者女性 正木久美子さん(当時45歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / A事件)、現金6,000円などを盗んだ。事件直後(当日夜 - 翌日未明)にはJR山陰本線・城崎駅(現:城崎温泉駅)付近の線路脇で正木さんのクレジットカードなどが入ったポーチが発見され、後にポーチからは西川の指紋が検出された。

◆松江事件(B事件)高橋文子さん
 1991年12月21日12時 - 13時ごろ、西川は松江市寺町204番地のスナック「鍵」にて同店経営者 高橋文子さん(当時55歳)の首を手で絞めて殺害し(死因:窒息死 / B事件)、現金約20万円を奪った。B事件直後の13時ごろ、西川は松江駅前からタクシーに乗車して松江市を離れ、同日15時ごろには鳥取県米子市内でポーチを購入したほか、17時ごろには同県倉吉市内のスナックを訪れ、店の女性経営者に高橋さんの血液が多量に付着したジャンパーが入った袋を預けた。同日3時30分ごろ、西川は高橋さんの車で京都市へ向かったが、その後は店に1回電話をしたきりで戻らなかった。

◆京都事件(C事件・D事件)原田京さん、村上紀子さん
 西川は1991年12月26日未明、「まき」にて同店経営者 原田京さん(当時55歳)の左首を刃物で刺して殺害し(死因:失血死 / C事件)、現金5,000円を奪った。遺体は12月27日13時に発見され、左首2か所・左胸1か所に傷があったほか、首を絞められた痕も確認され、京都府警察刑事部捜査第一課は殺人事件と断定して五条警察署(現:下京警察署)に捜査本部を設置していた。

同日(27日)夜、西川は「まき」周辺で捜査員が聞き込みをしている中で「まき」の上階にある先述のスナックを訪れ、C事件を話題にしながら閉店時(28日2時)まで店にいたが、飲食代3万円を請求されると「後で銀行に振り込む」と言い、売上金をもって帰宅する経営者がタクシーに乗車しようとすると「一緒に乗せてくれ」と強引に乗り込んだ。そしてタクシーが付近のホテル(八坂神社近く)前で「親父がこのホテルに泊まっている。金を払う」と下車したが、経営者は「銀行振り込みでいい」と誘いに乗らず、西川だけが下車した。

西川は1991年12月28日朝、C事件現場から200m離れた京都市中京区河原町通三条下る二丁目東入「京都観光ビル」地下1階のスナック「なかま」にて同店経営者 村上紀子さん(当時51歳)の心臓を刃物で一突きにして殺害し(死因:失血死 / D事件)、金1万数千円を奪った。

その直後(6時40分ごろ)、西川は村上さんが血だらけで倒れた店内にてレジのそばで金を物色していたところを村上さんの長男E(事件当時25歳)に発見されたが、Eの顔をビール瓶で殴って軽傷を負わせた上で逃走し、同日から大阪・天王寺の旅館に2泊した。Dは同日8時ごろに搬送先の病院で死亡し、遺体の首には強く抑えた痕が確認された。同事件についても京都府警捜査一課は強盗殺人事件として五条署に捜査本部を設置して捜査したが、C事件と現場がほとんど離れていなかったことから2事件の関連性が指摘された。

1992年1月6日19時ごろ、西川は大阪市天王寺区大道二丁目のマンション5階の部屋を訪れ、住人の会社員女性X(当時31歳)に対し「(同じマンションの近くの部屋に住んでいる)母と義父の仲が険悪なので、しばらくいさせてほしい」と持ち掛け、これを信用したXは西川を部屋に入れた。

西川は逮捕まで16時間近くX宅で過ごし、Xと2人暮らししていた長男Y(当時7歳・大阪市立聖和小学校1年生)と2人でテレビを観たり、Xが注文した丼物を食べるなどしていたが、西川はXから何度も帰るように諭されても腰を上げようとせず、やがてXは西川をいぶかしく思うようになった。

Yが寝入った翌日(1992年1月7日)1時過ぎ、西川は台所に水を汲みに行こうとしたXの首を突然両手で絞めた。しかしXが臆せずに「何をするの!」と大声を上げ、叫び声に反応して目覚めたYが泣き叫んだためにいったん手を放した。しばらくして西川は再びXの首を(1回目より強く)絞めたが、この時も長男の泣き声で思い留まった。

西川はXの首から手を放して自らの名を名乗り、「つまらないことをした。悪かった」と謝罪した上で身の上話をし、何度も「人を殺してきた。もう自殺するしかない」と言っていたが、Xから「自分が警察に付き合うから自首しなさい」と繰り返し説得されたことで朝になって「自首する」と言った。

10時40分ごろ、XはYを近くの学童保育所に連れて行くため西川と一緒に家を出たが、西川は母子とは同行せず、約1時間後に逮捕されるまでマンション5階廊下に残っていた。その後、付近の天王寺大江学童保育所へYを送っていったXは同所指導員に対し「殺人犯のNが家に来ている」と訴え、指導員は近くの派出所へこのことを知らせた。警察官がXの居宅マンションへ駆けつけたところ、5階廊下に居残っていたNを発見して「西川だな」と声を掛けた。西川は抵抗せず、11時46分に逮捕された。 
スナックママ連続殺人事件(西川正勝)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2005年(平成17年)6月7日に最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、被告人西川(当時金田姓)の弁護人は一連の事件のうち、強盗殺人3件(B・C・Dの各事件)について「被告人は犯人ではない」と無罪を主張して死刑回避を求めた一方、検察官は死刑の維持を求めた。2005年6月7日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人西川の上告を棄却する判決を言い渡したため、西川の死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2017年7月13日、大阪拘置所で死刑執行(当時61歳没))

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仙台アーケード街トラック暴走事件(大友誠治)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年(平成17年)4月2日に宮城県仙台市青葉区の商店街「中央通り」(アーケード街)にトラックが侵入、暴走し、歩行者7人が死傷した無差別殺人事件。

2005年(平成17年)4月2日午前9時05分、歩行者専用となっている仙台市青葉区の商店街「クリスロード」と「ハピナ名掛丁」に、レンタカーのいすゞ・フォワードトラックが侵入し、時速40~50キロの速度で暴走した。

目撃証言によると、トラックは歩行者を追いかけるように蛇行運転しており、付近の歩行者7名を次々とはね、約550メートル進んだところで、別のトラックに衝突し停止した。被害者のうち3名が死亡、4名が負傷した。 運転者である大友誠治(当時38歳)は焼身自殺しようと、着用していた服に灯油を掛け発炎筒で点火し燃え上がらせ、服を車のダッシュボードに放置したのち近くの仙台駅前交番に出頭し、業務上過失致死傷及び道路交通法違反(救護義務違反、報告義務違反)容疑で緊急逮捕された。

【死亡】
仙台市青葉区米ケ袋2丁目、会社員 高橋和香子さん(当時44歳)
青葉区国見4丁目、会社員 関根健二さん(当時24歳)
宮城野区五輪1丁目、会社員 林淳子さん(当時42歳)
【重傷】
名取市高舘熊野堂岩口南、会社員桜井恵子さん(当時48歳)
宮城県亘理町逢隈、会社員 大友猛さん(当時42歳)
【軽傷】
仙台市青葉区桜ケ丘7丁目、予備校生島田英宇(ひでたか)さん(当時28歳)

大友は、逮捕後の取り調べで「死にたいと思い故郷の仙台に来た、自殺を図ったが、死に切れなかった」「天の声が聞こえた」「信号無視をし、最初にはねた2名を避けようとして、アーケード街に入ってしまった」などと供述した。 現場検証では、最初に歩行者と衝突した現場からはブレーキ痕が発見されているが、アーケード街内部にはブレーキ痕がみられなかった。
仙台アーケード街トラック暴走事件(犯行現場)
仙台アーケード街トラック暴走事件(大友誠治)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 一審の仙台地裁では被告の責任能力を認めたが、未必の故意と長年にわたって幻聴に悩まされ統合失調症だった可能性とそれゆえに離婚や転職を繰り返していたという情状を酌み、2007年(平成19年)3月15日に懲役28年の有罪判決が言い渡された。双方、量刑不当を理由に控訴。

2007年(平成19年)11月20日の控訴審初公判で検察側は残虐性と身勝手さを主張し、再び無期懲役を求刑した。被告側は統合失調症により正常な判断が出来ず心神喪失か耗弱状態であったとして減刑を主張した。

2008年(平成20年)3月7日の判決公判で一審の未必の故意については確定的殺意があったと認定、統合失調症だった可能性はあるが正常な判断は出来たはずとして一審判決を支持、被告側の主張する事件当時の状態の主張を退けた。そして現地住民、地域社会に与えた影響は大きいとして一審判決を破棄し無期懲役判決を言い渡した。被告は上告せずに刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2038年3月頃、71歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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仙台高校教諭殺害事件(松本美代(妻)、松山哲士、梅原啓)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年4月に私立高校教諭が殺害された事件である。保険金詐欺を企てたとして妻と知人の男が起訴された。

2010年4月30日、宮城県仙台市泉区で退院したばかりの私立高校教諭 松本秀夫さん(当時56歳)が自宅で血を流して倒れていたところを長男によって発見された。頭や顔を鈍器のようなもので何度も殴られており、鑑定の結果、死因は頭蓋骨骨折などによる脳挫傷であった。近くに凶器と見られている金属バットが落ちていた。また、周りの道路に犯人のものと見られる血痕が付いた足跡が残されていたのが確認された。尚、被害者は事件の二か月前にも謎の大怪我を負い、入院していた。

宮城県警の捜査により、2010年8月8日に殺人容疑で被害者の知人の男 松山哲士(当時39歳)、梅原啓(当時28歳)を逮捕。そして8月12日に松山、梅原の「妻が犯行を知っていたはず」などの供述から被害者の妻 美代(当時45歳)が殺人事件に関与した疑いがあるとして逮捕した。その後、松山が梅原に指示して頭や顔を鈍器で何度も殴るなどしたとして起訴。2010年6月7日に他の被告らと保険金2810万円をだまし取ろうとしたとして、妻 美代も殺人と詐欺未遂罪で起訴された。
仙台高校教諭殺害事件(松本美代(妻))
仙台高校教諭殺害事件(松本美代(妻)、松山哲士、梅原啓相関図)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 妻 美代の弁護側は、妻 美代の殺害に多少は責任はあるが殺害計画を知らず実行役でもないとして、殺人ほう助罪の適用を主張。殺人罪を求める検察と対立した。2011年9月27日に仙台地裁は懲役11年(求刑懲役20年)の実刑判決。川本清巌裁判長は判決で松山が主導したとして積極的に殺害を企てたとまではいえないとしながらも「被告が嫌いな夫が亡くなることは妻にとって利益があり、妻は殺害に加担した行為は手助けにとどまらない」と認定した。検察、弁護側の双方が控訴せずに懲役11年の実刑判決が確定した。

妻の交際相手の松山には2011年10月20日に仙台地裁(川本清巌裁判長)で懲役23年(求刑懲役30年)の判決が言い渡された。判決では動機については保険金目的ではなく、怒りが爆発して殺害を決意したもので詐欺未遂はほう助にとどまるとした。弁護側はこの判決を不服として控訴した。2012年6月28日、仙台高裁(飯渕進裁判長)は一審判決を支持し、検察側の控訴を棄却した。判決では、保険金目的を動機の1つと認定した上で、「関係証拠を総合しても事実誤認とまでは認められない」とした。弁護側は判決を不服として上告した。

実行役の梅原に対しては、2011年11月24日に仙台地裁(鈴木信行裁判長)は懲役18年(求刑懲役20年)の判決を言い渡した。弁護側は男 松山にマインドコントロールを受けていたと主張していたが、判決では殺害をやめることは不可能でなかったとした。判決理由では、「強い殺意を持ち、金属バットで殴って殺害しており極めて悪質だ」とした。

❖出所予定(年齢)
 松本美代(妻)・・・2023年9月頃、57歳(出所)
 松山哲士・・・2034年10月頃、62歳(懲役23年)
 梅原啓・・・2029年11月頃、47歳(懲役18年)

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高崎小1女児殺害事件(野木巨之)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)3月11日に群馬県高崎市北久保町の北久保県営住宅で発生した殺人事件。

群馬県高崎市で、小学校1年の浜名愛ちゃん(当時7歳)が、県営住宅の同じ階に住む野木巨之(のりゆき)(当時26歳)に殺害された。

男は「いたずらしようとしたら騒がれそうになったので殺した」と供述。2005年12月9日に、前橋地方裁判所高崎支部にて男に対し無期懲役の判決が言い渡され、その後、検察側・弁護側双方とも控訴せず刑が確定した。

男はこの日、16時からの勤務で、仕事に行こうと家を出たところ、エレベーターを降りた女児を見つけた。

エレベーター内の防犯カメラには14時26分、女児が10階でエレベーターを降りる姿が映っていた。

エレベーターで同級生と別れた後、行方が分からなくなり、女児の母親 浜名祐子さん(当時36歳)が15時30分頃、「子供が帰ってこない」と110番通報した。

行方を捜していた捜査員が18時30分ごろ、女児と同じ階に住む男の部屋を訪れた際、男は不在で母親が対応した。

その後、母親が仕事先にいた男に電話で「女の子がいなくなったらしいが、何か知らないか」と尋ねたところ、「家に戻る」と言い、19時20分頃に男が帰宅。

捜査員が事情を聴いたところ「自分がやった」と自供。

女児は男の部屋で、布団に仰向けで横たわった状態で見つかった。

男は女児の遺体の前で泣き崩れた。

男の母親は部屋で女児が死亡していたことは知らなかった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 前橋地裁高崎支部は2005年12月9日、殺人罪などに問われていた元会社員の男に、求刑通り無期懲役を言い渡した。

公判中の被告人質問では、被告は殺害の動機を「性的な欲求はあったが、その欲求は職場でのストレスがたまって生じた」。

女児を強姦して殺害することを「犯行の2週間前から想定していた」と述べた。

続いて行われた検察側の質問で、検察官に「被告の作った『フィギュア』を被害者の遺族は取り上げたいと言っている。放棄しますか」と迫られると、「端から見れば汚い人形だが、自分を支えてくれた大切なもの」と言って泣き出し、「遺族の気持ちも分かるが、私が被害者を殺害してしまったように、相手から大切なものを奪ったら後悔するだろう。そんなことしてほしくない」などと頭を抱えて叫んだ。

このやり取りを傍聴していた女児の母親は、男の態度にいきどおった様子で、傍聴席から駆け足で退出した。

最終的に人形の放棄を承諾した男は「くそっ」と漏らしたままうつむき鳴咽した。

閉廷直前、裁判長は「人が命を落とすことの重大性が分かりますか。その人はもう帰ってこないということです」と男をさとした。

❖出所予定(年齢)
 2035年12月頃、56歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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竹田母親殺害事件(無罪につき不明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年に大分県竹田市の自宅で男が母親を殺害した事件である。

2010年1月27日、当時大分県竹田市竹田の自宅に引きこもり状態だった男(当時49歳)が同居していた母親(当時78歳)を首や胸などを金属製の缶切りや箸で何度も突き刺して殺害する事件が発生した。当時、男は慢性の統合失調症を患っていたが、検察は精神鑑定の結果責任能力があると判断。殺人罪で起訴した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判では事実関係は争われず、当時の被告に責任能力があったのかどうかが争われた。引きこもり生活への葛藤や不満が蓄積したことが動機で心神耗弱状態ではあったが責任能力があったと検察側は主張したが、弁護側は事件当時は被告は心神喪失だったとして無罪を主張していた。2011年2月2日、大分地方裁判所(西崎健児裁判長)は懲役3年、保護観察付き執行猶予5年(求刑・懲役6年)の判決を言い渡した。判決では、急所を執拗に狙っていたとして行動を制御する能力は残っていたとした。弁護側はこの判決を不服として控訴した。

2011年10月18日、二審福岡高等裁判所(川口宰護裁判長)は、一転して逆転無罪判決を言い渡した。判決では事件当時の男は重症の統合失調症だったと認定し、凶器が缶切りや金属製の箸といった通常は殺人には使わない道具でありそれを使って約1時間も執拗に攻撃する行動は奇妙だと指摘。動機についても疑問を指摘して限定的に責任能力を認めた一審判決を破棄して責任能力がなかったとした。最高検によると裁判員裁判で一審の有罪判決を破棄して全面無罪判決とするのは初。検察側は上告を断念し、2011年11月2日に無罪が確定した。

❖出所予定(年齢)
 無罪

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館林ストーカー殺人事件(永井隆央)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年2月に群馬県館林市で発生した殺人事件である。

トラック運転手 永井隆央(当時39歳)が元交際相手の鈴木千尋さん(当時26歳)にストーカー行為を繰り返したのち射殺した。鈴木さんは3歳の子供の母親であった。

2014年2月19日午後3時頃、群馬県館林市のディスカウントストアの駐車場に駐車されていた軽乗用車の運転席で鈴木さんの射殺体が発見された。車のドアには鍵がかかっておらず、鈴木さんの携帯電話や財布や買い物をした商品が車内で残されていた。司法解剖の結果、午後2時50分に鈴木さんは頭を撃ち抜かれて射殺されたものとみられたが、車内から銃は発見されなかった。

鈴木千尋さん(当時26歳)がストーカー被害を訴えていたことから、警察は怨恨による殺人の可能性を視野に元交際相手でトラック運転手の男 永井隆央(当時39歳)を対象に捜査をし、2月20日には殺人容疑で逮捕状を取った。しかし、2月21日に永井は栃木県鹿沼市の山中で停車されていた軽自動車の中で射殺体として発見された。車内には死亡した永井のすぐそばに鈴木さん射殺にも使われたと思われる回転式拳銃があり、自殺したものと判断された。

永井は鈴木さんの家族の車にGPSを取り付け、家族が鈴木さんと接触をしたことによって、2月19日の数日前に鈴木さんの居宅を突き止め、さらに鈴木さんの車にも別のGPSを取り付けた。永井はこのGPS情報を基に被害女性の居場所を掴んで、鈴木さん射殺という犯行に及んだものとみられた。
館林ストーカー殺人事件(永井隆央)
館林ストーカー殺人事件(鈴木千尋さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被疑者死亡のまま書類送検

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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武富士弘前支店強盗殺人・放火事件(小林光弘)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2001年(平成13年)5月8日午前10時49分、青森県弘前市田町五丁目に所在していた消費者金融会社「武富士」弘前支店(事件後に閉店)で発生し、従業員5人が死亡・4人が負傷した強盗殺人・放火事件である。

2001年(平成13年)5月8日午前10時49分頃、男Kが武富士弘前支店に強盗目的で押し入った。店舗は3階建てのテナントビルの3階にあり、1階・2階にはレンタルビデオ店が入居していた。

小林光弘(当時43歳)はカウンター越しに混合油を撒き、「金を出さねば火をつける」と脅迫したが、支店長に拒否され青森県警察に110番通報されたため激怒して店内に放火し逃走した。火災は店内に一気に広がり、店延べ約96平方メートルをほぼ全焼した。支店は3階にあり、小さな窓しかないという建物の構造も災いし、同支店の社員 田沢伸治さん(当時36歳)、太田はるかさん(当時20歳)、葛西志保里さん(当時22歳)、笹森容子さん(当時46歳)、福井貴子さん(当時30歳)の5人が炎に囲まれて脱出不能となりそのまま死亡。偶然、近くの店舗のガラス清掃業者がはしごを持って駆けつけたため救出され、辛うじて脱出した4人も重傷を負う惨事となった。

弘前支店が県警弘前警察署に110番通報した際、住所を言い間違えたため警察官がそちらに出動した後に現場に到着したり、招集日であったため緊急配備までに時間を要したことなどから初動が遅れ、犯人の逃走を許した。作成されたモンタージュの似顔絵と現場から逃走した車両から重要参考人として小林が浮上していたものの、被疑者Kが逃走中にアリバイの偽装などを行っていたため捜査は難航した。その後放火に用いた新聞紙(後述)などが決め手となり、青森県警捜査本部(捜査一課・弘前署)は2002年(平成14年)3月4日に被疑者Kを強盗殺人・現住建造物等放火容疑で逮捕した。

小林は仲人の女性から頼まれて消費者金融から借金をし援助をしたが、それが借金地獄への転落の一因であった。女性一家4人が2000年(平成12年)4月に岩手県宮古市の宮古港で自殺したことを新聞報道で知り、精神的にますます追い詰められ、事件に至っている。直接の動機はギャンブルによる借金苦であった。

小林は事件現場店舗で借金はしていなかったが、「利用したことがない店だから顔が割れていない」という理由により同店舗で犯行に及んだ。
武富士弘前支店強盗殺人・放火事件(小林光弘)
武富士弘前支店強盗殺人・放火事件(燃えている武富士)
武富士弘前支店強盗殺人・放火事件(ポケットティッシュ)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年3月27日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人 小林の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑判決が確定することとなった。

被告人 小林の国選弁護人・小川原優之は同年4月2日付で同小法廷に判決の訂正を申し立てたが、同小法廷が同月12日付で申し立てを棄却したために同日付で正式に死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2014年8月29日、宮城刑務所仙台拘置支所に隣接する宮城刑務所にて死刑執行(当時56歳没))

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館山市一家4人放火殺人事件(高尾康司)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)12月18日未明に千葉県館山市八幡で発生した現住建造物等放火・殺人事件。民家が放火されて全焼し住民の一家4人が死亡した。

高尾康司(逮捕当時40歳・土木作業員)は本事件から6年前の1998年(平成10年)2月11日未明に千葉県館山市北条のキャバレーを放火して全焼させ、住み込みで働いていた従業員男性(事件当時65歳)を焼死させる放火事件を起こした。

高尾は本事件以前から市内で放火を繰り返しており、特に5年前の1998年(平成10年)2月11日には館山市内でキャバレーを全焼させる火災を起こして住み込みの従業員男性1人を死亡させていた。市内で繰り返された一連の連続放火事件では5人の人命が奪われ、数年にわたり市民を不安にさせたことから『千葉日報』の回顧記事では「地域社会に大きな衝撃を与えた事件だった」と報道された。

高尾は2003年12月18日3時15分ごろ、根津隆次郎さん(事件当時56歳・無職)一家が住んでいた千葉県館山市八幡822番地1号の住宅(木造亜鉛メッキ鋼板葺2階建て・延べ床面積約80㎡)を見つけると「屋内でその居住者らが就寝しており、放火すれば住人らが死亡する可能性がある」と認識しながらあえて玄関付近の板壁に接着して置かれていた新聞紙の束に持っていたライター(平成16年押第47号の1)で点火し、その火を住宅に燃え移らせて全焼させたほか、隣接していたほか5人の居宅など6棟(延べ床面積合計約386㎡)にも燃え移らせて全焼させた(現住建造物等放火罪)。

出火当時の館山市内は平均で風速4-6m、最大で10m超の強い西風が吹いていたため、火は強風にあおられて広範囲に燃え広がり、根津さん宅を含めた木造平屋・2階建て住宅計5棟に加え、千葉県宅地建物取引業協会南総支部の事務所1棟を含めた計6棟の民家467㎡が全焼し、当時根津さん宅内で就寝していた無職・根津隆次郎さん(56歳)、妻・初枝さん(52歳)、長男・英吾さん(27歳)、次男・昌吾さん(25歳)の親子計4人が焼死した(殺人罪)。。ほかにも同居する家族はいたのだが、三男(当時23歳)は仕事で不在、根津さんの母親(当時80歳)は入院中のため、難を逃れた。

いずれの家も原形を留めないほどに焼け落ちたが、中でも最も焼け方が激しかった根津さん宅は柱まで焼け落ちて瓦礫のように変わり果て、焼け跡から発見された遺品は焼け落ちた硬貨数枚のみだった。

高尾康司(事件当時40歳)は12月18日6時ごろに館山市船形付近の市道でトラックを飲酒運転していたが、左右にふらつきながら走るなど飲酒運転を行うドライバーに特徴的な挙動だったため、船形地区を警戒していた館山警察署員により発見された。

署員がアルコール検査を実施したところ、呼気から酒気帯び相当量のアルコールが検出されたため、署員は道路交通法違反(酒気帯び運転)容疑で高尾を現行犯逮捕したが、高尾のセーター・ズボンに燃えた跡とみられる穴が開いているなど不審な点がみられたほか、高尾の体からも「火災現場特有の焦げ臭いにおい」が漂っていたため「放火していないか?」と確認したところ、高尾は「ダンボールなどに放火した」と供述したほか、(犯行に使用したとみられる)100円ライターを所持していた。現行犯逮捕現場は一家4人焼死火災現場から北に約2kmあまり離れた高尾宅近くの路上で、同現場に沿う市道と同じ市道だったほか、直後に発生した不審火4件の現場にも近かった。

館山署員が署内で高尾を追及したところ、高尾は「ストレスがありイライラしていた。帰宅途中に所持していた使い捨てライターで放火した」と供述し、同日に発生した5件の不審火(一家4人焼死火災・スーパーマーケット放火事件など)への関与を認めたため、千葉県警捜査一課・館山署はスーパーマーケットへ放火した非現住建造物等放火容疑で同日夜に被疑者Tを逮捕した。
館山市一家4人放火殺人事件(高尾康司)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2010年9月16日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人Tの上告を棄却したため、死刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)

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多摩市パチンコ店強盗殺人事件(王剛勇・陳代偉・何力)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1992年(平成4年)に東京都多摩市の雑居ビルで発生した強盗殺人事件である。犯人の3人のうち、従犯2人は逮捕され死刑判決が確定したが、主犯が国外逃亡しており一部未解決である。

1992年(平成4年)5月30日、中華人民共和国福建省出身の男3人 (王剛勇(読み不明)・陳代偉(チェン・ダイウェイ)・何力(フー・リー)) が閉店後のパチンコ店Mから売上金を強奪する計画を実行した。事件は王剛勇(当時29歳)が「簡単に金がとれるパチンコ店がある」と陳代偉(当時31歳)、何力(当時28歳)に話を持ちかけ、事前にパチンコ店を下見したり、犯行の予行演習までしていた。王剛勇はハンティングナイフ、陳代偉はバタフライナイフ、何力は木の棒を持参し、店員が抵抗したら殺害してもかまわないと決意していた。

閉店後の午後11時20分ごろ、パチンコ店の従業員甲(当時39歳)と乙(当時43歳)の二人が、1階の店舗から4階の事務所に売上金の現金1500万円が入った袋を台車に載せて移動するためエレベーターに乗った。それを確認し王剛勇が1階から、陳代偉と何力が2階からエレベーターに乗り込んだ。従業員2人に対して王剛勇と陳代偉はナイフで何箇所も刺し、何力も棒で頭部を殴打して殺害した。エレベーター内部は血の海になっていた。

エレベーターが4階で止まると陳代偉は散乱した現金のなかから約234万円を鷲掴みにして逃げようとしたが、そこへ異変を察知した同店の店長兼常務の丙(当時36歳)がかけつけ、王剛勇らと鉢合わせした。王剛勇は丙を刺殺し、丙は3人目の犠牲者となった。

その後、陳代偉が1992年(平成4年)10月に東京都内のスナックに窃盗目的で侵入したところを警視庁巣鴨警察署に逮捕され、指紋から多摩市の強盗殺人事件の犯人と判明した。不法入国で渋谷警察署に逮捕されたCも関与が明らかになり再逮捕された。主犯格の王剛勇はすでに出国しており、国際手配されたが現在も逃亡中である。

右が陳代偉(チェン・ダイウェイ)、左が何力(フー・リー))
多摩市パチンコ店強盗殺人事件 (右は陳代偉・左は何力)

真ん中は王剛勇(読み不明)
多摩市パチンコ店強盗殺人事件 (真ん中は王剛勇)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判では王剛勇が主犯であり陳代偉と何力は従ったにすぎないと認定したが、犯行態度が悪質極まりないとして1審(東京地方裁判所八王子支部・1995年〈平成7年〉12月)、2審(東京高等裁判所・1998年〈平成10年〉1月)とも死刑が宣告され、最高裁判所も2002年(平成14年)6月に上告を棄却して死刑が確定した。2021年(令和3年)現在、2名とも東京拘置所に収監されている。

❖出所予定(年齢)
 王剛勇(読み不明)・・・国際指名手配中
 陳代偉(チェン・ダイウェイ)・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
 何力(フー・リー)・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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筑後リサイクル店事件(中尾伸也・中尾知佐)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 福岡県筑後市のリサイクルショップの従業員らが2004年(平成16年)から2006年(平成18年)にかけて経営者の中尾伸也(逮捕時47歳)・中尾知佐(逮捕時45歳)夫婦の暴行により死亡した事件である。

2003年(平成15年)に福岡県筑後市にリサイクル店を開業した伸也・知佐の夫妻は従業員に対して体罰を含む厳しい管理をおこなっていた。中でも日高崇さん(事件当時22歳)とB(事件当時19歳)に対する伸也・知佐の指導は厳しく、同年12月には日高さんとBさんは 伸也・知佐夫妻のアパートに居住することになった。

日高さんとBさんはこれにより日常的に暴力を受けることとなり、時には食事を抜かれることもあったため日を追うごとに衰弱していった。2004年(平成16年)5月下旬から6月上旬の間に、Bさんが体罰により死亡する。そして6月下旬、伸也が自宅アパートで日高さんにいつもの体罰を加えたところ、倒れた日高さんはそのまま死亡。7月に日高さんの遺族は行方不明となっていた日高さんの捜索願いを出していた。

2006年(平成18年)には知佐の妹 栄江(事件当時36歳)とその夫 冷水一也さん(事件当時33歳)も伸也・知佐夫妻のリサイクル店で働くようになったが、しばらくしてCは伸也・知佐夫妻により他の従業員と隔離され事務所の一室に住まわされた上で靴べらやゴルフクラブによる暴行を受けた。また、日高さんの時と同様、互いに暴力を振るうようにも指示されて、お互いに体罰を加えた。

8月に知佐の妹 栄江が生活の過酷さからひとりで九州から逃げ出し、知佐の元を離れると、伸也・知佐夫妻は冷水一也さん・栄江夫妻の息子の大斗ちゃんを自宅アパートに住ませるようになった。やがて中尾夫婦は、自分たちの意に沿わない態度をとる大斗ちゃんに食事も満足に与えず、さらに頭や顔を殴るなどの暴行をくり返したために、10月中旬頃、大斗ちゃんは死亡する。

冷水さんも2006年9月下旬から店内の倉庫に監禁されるようになっていた。冷水さんは約5平方メートルの倉庫にヒモでつながれ、十分な食事も与えられず、殴る蹴るの暴行を受け続けた。次第に衰弱していった冷水さんは、10月下旬頃に死亡した。

冷水さん親子の死から7年半後の、2014年(平成26年)4月11日、知人名義の消費者金融カードで不正に現金を引き出したとして、伸也・知佐2人を窃盗容疑で逮捕。

6月16日、中尾伸也の「元従業員の遺体を実家の庭に埋め、白骨化した骨を砕いて川に捨てた」の供述に基づき捜索した結果、中尾伸也の実家の庭から発見された骨の一部のDNAが 日高崇さんと一致。日高崇さん殺人容疑で伸也と知佐は再逮捕された。

知佐の妹 栄江(事件当時36歳)も、夫の冷水さん殺害に関わった疑いがあるとして傷害致死容疑で逮捕された。栄江は冷水さんへの暴行罪を適用されたが、公訴時効(3年)が成立したとして不起訴処分となった。
筑後リサイクル店事件(中尾伸也・中尾知佐)
筑後リサイクル店事件(相関図)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年(平成29年)1月27日、福岡高等裁判所で中尾知佐の控訴審判決。検察・弁護側双方の控訴を棄却。検察が主張した日高崇さんに対する未必の殺意については「体罰を続けることによる日高崇さんの死亡の可能性については認識できたにしても、認識した可能性の程度が、未必の殺意を肯定できる程度まで高いものであったと言える証拠はなく、(中略)被告人が、日高崇さんの死亡の結果を受け入れてまで、日高崇さんに体罰を加え続けようとしていたとは言えないから、被告人に未必的なものであるにしても、日高崇さんに対する殺意を肯定することはできない」とした。検察、弁護側とも上告せず、中尾知佐の懲役30年の刑が確定した。

2017年(平成29年)3月27日、福岡高等裁判所で中尾伸也の控訴審判決。3人とも傷害致死に当たるとして懲役28年を言い渡した福岡地方裁判所での一審判決を支持し、検察・弁護側双方の控訴を棄却。高裁は日高崇さん事件について日高崇さんは逃げ出すことも可能だったとして中尾伸也の日高崇さんへの殺意は肯定できないとした。中尾伸也は上告せず4月11日に懲役28年が確定した。

❖出所予定(年齢)
 中尾伸也・・・2045年3月頃、75歳(懲役28年)
 中尾知佐・・・2047年3月頃、75歳(懲役30年)
 冷水栄江・・・不起訴(無罪放免)知佐の妹

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千葉小3女児殺害事件(渋谷恭正)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年(平成29年)3月24日に千葉県松戸市で小学3年生の女児が行方不明になり、翌々日に同県我孫子市で遺体で見つかった事件。

2017年3月24日、松戸市立六実第二小学校の3年生女子児童 レェ・ティ・ニャット・リンちゃん(当時9歳、ベトナム国籍)が、登校のため自宅を出たまま行方不明になり、同月26日の朝に我孫子市北新田の排水路脇の草むらにおいて絞殺体で発見された。また、遺体発見現場から約20km離れた茨城県坂東市の利根川河川敷で、リンちゃんのランドセル及びリンちゃんのものとみられる衣服が見つかった。

警察は殺人・死体遺棄事件として捜査し、同年4月14日にリンちゃんが通っていた同小学校の保護者会元会長の渋谷恭正(当時49歳)を死体遺棄容疑で逮捕した。現場の遺留品のDNAの型が渋谷のものと一致したことなどが逮捕理由とされた。
千葉小3女児殺害事件(渋谷恭正)
千葉小3女児殺害事件(リンちゃん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2018年6月4日、裁判員裁判による初公判が、千葉地方裁判所(野原俊郎裁判長)で開かれ、2018年7月6日、同地裁で判決公判が開かれ、同裁判長は無期懲役を言い渡した。

2021年3月23日、控訴審判決公判が開かれた。東京高裁は無期懲役とした一審判決を支持し、検察側とBの控訴をいずれも棄却した。

渋谷は東京高裁の有罪判決(無期懲役)を不服として、即日、最高裁判所へ上告した。

一方、リンちゃんの遺族は、東京高等検察庁に渋谷の死刑を求めて上告するように求めたものの、東京高等検察庁は「判例違反などの上告理由を見いだせない」として、最高裁判所への上告を断念した。これにより、渋谷に死刑判決が言い渡される可能性はなくなった。

上述の通り渋谷側のみが上告していたが、2022年5月11日付けで、最高裁判所第一小法廷が被告の上告を棄却する決定を下し、無期懲役とした二審までの判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2052年5月頃、79歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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千葉少女墓石撲殺事件(石橋広宣)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)10月1日に千葉市若葉区の墓地で発生した殺人事件である。

2003年10月1日の午前7時10分頃、千葉市若葉区の墓地駐車場で、ジョギングしていた男性が遺体を発見した。遺体は、若葉区千城台東の飲食店アルバイトだった千葉市若葉区千城台在住の石橋裕子さん(当時16歳)であった。遺体は頭を鈍器で強く殴られて殺害された後、焼かれていた。

千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である石橋広宣(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。

少女はカラオケ店で働いたものの、給料面などから不満を持っており、水商売で働こうと考えていた。しかし18歳未満という年齢では働くことは不可能である。そこで男は自分との結婚を持ちかけた。結婚すれば成人として扱われるからである。ただし民法の上では成人扱いになるが、風俗営業法による規制から16歳で就職することは禁じられている。そして2人は2003年7月に婚姻届を提出し、少女はキャバクラで働き始めた。

ただし両者の間には恋愛感情は無く、2人の利害が一致したためでの偽装結婚に過ぎなかった。男は消費者金融に300万円に及ぶ多額の借金を抱えており、以前も別の女性と偽装結婚していた。女性の苗字を名乗って名前と戸籍を変更することで、消費者金融の借金を踏み倒そうとしていたのである。

しかし男は少女に結婚した見返りとして上納金を要求する。少女は初めこれに応じたが、次第に金銭トラブルを引き起こすようになり、遂に少女は偽装結婚を警察に通報すると言い出す。男は以前に起こした詐欺の事件で執行猶予中であった。

これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロ程度の墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。そして少女の遺体にオイルを10数本かけて火をつけて逃走した。後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。
千葉少女墓石撲殺事件(石橋広宣)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2005年2月23日、千葉地裁で判決公判が開かれ、「暴行は想像を絶する残虐さ」、「自己中心的で幼稚極まりなく、動機に酌むべき点は無い」、「確定的殺意に基づく極めて残虐な犯行で、矯正は不可能」として、求刑通り無期懲役となる。4月19日に控訴を取り下げて刑は確定した。

また、未成年の少年らも、殺害と遺体損壊に加わった3人を5年から10年の不定期刑に、遺体損壊に加わらなかった1人を3年半から7年の不定期刑に処して確定した。こちらも「残虐な犯行」、「遺体損壊に対する悔悟の念が感じられない」とされた。

❖出所予定(年齢)
 2035年2月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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中央大学教授刺殺事件(山本竜太)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2009年1月14日に中央大学で発生した殺人事件。

2009年1月14日午前10時15分頃、東京都文京区の中央大学後楽園キャンパス内の校舎1号館4階男子トイレで同大学理工学部の高窪統(たかくぼはじめ)教授(当時45歳)が刃物で胸や背中や腹などを刺されて倒れているのが発見された。高窪教授は同日午前11時30分に搬送先の病院で死亡した。

死因は背中、胸、腹の刺し傷による失血死。傷は体の上半身を中心に40ヶ所に上り、両腕には攻撃を防ぐ際についたとみられる傷もあった。

現場のトイレ近くで目撃された「30歳くらい、ニット帽、黒いコートの男性」が犯人像として浮上した。

同年5月21日、高窪の遺体の手の爪に残っていた微物のDNA型が一致したため、山本竜太(当時28歳)が殺人容疑で逮捕された。山本は中央大学理工学部のOBで、高窪教授の元教え子であった。凶器には、刈り込みばさみ(刃渡り約27cm)を分解したものを使用したという。

山本は理系科目が得意だったといわれ、現役で中央大学理工学部に進学。しかし周囲になじめず孤立がちだったという。そんなときに親しく接してくれたのが高窪教授であった。山本は高窪教授と別れたくなかったのか、高窪教授に大学院に進学する旨を相談したが、高窪教授は山本が人付き合いが苦手なことからむしろ社会に出てコミュニケーションスキルを上げることをすすめた。

高窪教授の助言を得て山本は大手食品会社に就職するが、わずか1ヶ月で退社。その半年後くらいに就職した電子機器会社でも試用期間中で打ち切られ、電子メーカーでも自ら自主退社した。2007年頃から山本は1人暮らしを始め、ホームセンターに就職した。だがそこでも客や同僚とのトラブルが絶えず、それが原因で高窪教授を逆恨みして凶行に至ったのではないかとされている。

なお、山本は動機に関しては黙秘を続けているが、「卒業前の忘年会で高窪教授に話しかけてもらえなかった」「翌日の記念写真の撮影会に食あたりで出席できず、疎外されていると感じた」など高窪教授に対する不満を述べている。

山本竜太
中央大学教授刺殺事件(山本竜太)

高窪統教授
中央大学教授刺殺事件(高窪統教授)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 東京地方検察庁は、2009年6月から3か月半かけて山本を鑑定した結果、責任能力ありと判断し、同年10月2日に殺人罪で山本を起訴。翌2010年11月24日の初公判で山本被告側は起訴内容を認めた。また、冒頭陳述では、検察側・弁護側双方が「被告は妄想性障害にかかり、心神耗弱だった」と主張した。

2010年12月2日、東京地方裁判所の今崎幸彦裁判長は山本に対して懲役18年(求刑懲役20年)を言い渡した。検察と弁護側の双方が期限である12月16日までに控訴しなかったため、判決が確定。

❖出所予定(年齢)
 2028年12月頃、47歳(懲役20年)

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つくば妻子殺害事件(野本岩男)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1994年(平成6年)10月29日に発生、翌11月に発覚した殺人・死体遺棄事件。茨城県つくば市に住む総合病院医師 野本岩男(当時29歳)が妻 映子(当時31歳)と長女 愛美ちゃん(同2歳)、長男(同1歳)の妻子3人を殺害し、3人の遺体を横浜港(京浜運河)に遺棄した事件である。

1994年11月3日、神奈川県横浜市鶴見区の横浜港(京浜運河)からビニール袋に入れられ重しがつけられた女性の遺体が発見され、続いて幼児の遺体が2体発見された。その後、遺体の身元は茨城県つくば市に住む31歳女性とその長女(当時2歳)、長男 優作ちゃん(当時1歳)と確認された。3人については、女性の夫であり子供2人の父親でもある総合病院医師の野本岩男(当時29歳)から捜索願が出されていた。

野本から事情を聞くにつれ、野本の右の手の甲に小さな傷があることを捜査員が見つけた。野本は飼い犬に噛まれた傷と主張したが、捜査を続けていくにつれて、夫婦間のトラブルがあったことが判明した。

11月25日、野本は殺人及び死体遺棄罪で逮捕された。遺体を遺棄した当日、高速道路に設置されていたNシステムの映像に野本の乗用車のナンバーが記録されており、車が横浜方面に向かっていたことも判明、これが事件解決の決め手になった。

野本の自供によると、10月29日午前5時、愛人問題等でかねてから夫婦仲が悪くなっていた妻と口論になった。妻は包丁とロープを持ち出し「いっそのこと私を殺せばいい」と口走り、自分の首にロープを巻きつけソファーから飛び降りて見せたり、病院長に愛人のことを訴えると言い出したためロープで首を絞め、両手で鼻と口を塞いで窒息死させた。子供2人も父が殺人者となり残されることを不憫に思い殺害した。
つくば妻子殺害事件(野本岩男)
つくば妻子殺害事件(野本映子さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 刑事裁判で、検察官は被告人野本に死刑を求刑したが、1996年(平成8年)2月22日に横浜地裁第3刑事部(松浦繁裁判長)は犯行は計画的なものではなく衝動的だったなどとして、野本を無期懲役とする判決を言い渡した。

検察官・野本ともに同判決を不服として控訴したが、1997年(平成9年)1月30日、東京高裁(佐藤文哉裁判長)は双方の控訴を棄却する判決を言い渡した。検察官・野本の弁護人とも量刑には不服の意を示していたが、量刑不当は適法な上告理由とならないため、上告を断念した。野本は上告期限となる同年2月14日付で上告したが、同月28日付でこれを取り下げたため、無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2027年1月頃、59歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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対馬市父娘殺害放火事件(須川泰伸)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2016年12月6日から7日にかけて長崎県対馬市で発生した、殺人・放火事件。

2016年12月6日から7日にかけて、須川泰伸(当時40歳)は、古川敬氏さん(当時65歳)から依頼された漁船の修理を巡って古川さんとトラブルになり、対馬市内の古川さん宅で、古川敬氏さん(当時65歳)を鈍器のようなもので殴り殺害。古川さんの次女である聖子さん(当時32歳)も同様に殺害し、ガソリンや灯油をまいて古川さん宅に火をつけ、全焼させたとされる。
対馬市父娘殺害放火事件(須川泰伸)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 捜査段階から殺人と放火の容疑を否認。刑事裁判では無罪を主張するも、死刑を求刑され、一審で無期懲役の判決を受け、控訴するも棄却され、さらに最高裁に上告するも2019年12月19日に棄却されて無期懲役が確定。

❖出所予定(年齢)
 2049年4月頃、70歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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土浦連続殺傷事件(金川真大)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2008年(平成20年)3月19日と同23日に、茨城県土浦市で発生した通り魔事件。

金川真大(犯行当時24歳、2013年に死刑執行)が、持っていた刃物で相次いで人を刺し、2人が死亡、7人が重傷を負った。

金川は高校3年の時から「この世に生きていても仕方ない」という想いに捉われていたが、自殺は痛くて無理だから、人を殺して死刑になりたいと考えていた。

2008年(平成20年)3月19日、朝起きたがまたしても妹はいなかった。小学校襲撃を決めてマウンテンバイクで向かったが、丁度終業式で大人が多かったため、失敗を恐れて回避した。中学校や高校も同様であると想定して向かわず、ターゲットを探して住宅街を走らせた。住宅街のうちの一軒のインターホンを押し、出てきた三浦芳一さん(72歳)に自転車の空気入れを借りた。三浦さんから空気入れを受け取った金川真大(当時24歳)は、三浦さんが家の中に戻るために背中を向けたその隙に首筋に包丁を突き刺した。

服に返り血がついていたため一旦自宅へ戻り、自宅で着替えたあと荒川沖駅から常磐線で東京へ向かい、秋葉原の理髪店で丸坊主にし、ビジネスホテルにチェックインした。当日の夕方のニュースで被害者が死亡したのを知り、「死んで良かった」と思ったという。

当初はオズの魔法使いで気に入っていた「OZ」のマークを、連続殺人だとわかるように現場に残す予定であったが、動転して忘れてしまったため、自宅の部屋の壁に赤ペンで描いた。

一方、被害者の側では娘がすぐに通報し、現場のマウンテンバイクから金川が被疑者として浮上した。Kの自宅に踏み込んだ捜査員は、血染めの服、壁に描かれた「OZ」の模様、携帯電話の犯行声明などから犯人であると断定するに至る。

2008年(平成20年)3月20日、金川はスーツ姿で電気街へ行き、この日発売のゲームソフトを購入、ホテルの部屋で一日中ゲームをして過ごした。体力を消耗しており、すぐに次の殺人を起こす気にはならなかったためである。

2008年(平成20年)3月21日、安否を心配した母からのメールを確認し、警察を挑発する返信を送る。このメールが決定打となり、県警により指名手配された。金川はこの日も秋葉原で過ごし、自身が指名手配されたことをニュースで知る。

2008年(平成20年)3月22日、土地勘のある常磐線ひたち野うしく駅から荒川沖駅に向かって歩いたが、殺害できそうな通行人がいないため断念。

2008年(平成20年)3月23日、金川は「人が多すぎず、少なすぎない、知っている場所」として、荒川沖駅を襲撃することにした。黒い上着に黒いニット帽を被り、午前11時過ぎに下車、西口から東口にかけて手当たり次第に、その場にいた通行人の首をナイフで狙って襲撃した。丁度その場所で張り込んでいた警察官は襲撃されるまで金川に気付かず、自身も大量出血で取り押さえることが出来なかった。他の捜査員も確保に失敗し、金川はそのまま現場を離脱した。

第2の現場では警官を含めて8人が襲撃され(5人は駅改札近く、2人はさんぱる前、1人は通路を降りた所で刺された)、通路を降りた阿見町の山上高広さん(当時27歳)が死亡した。金川は自首して捕まるべく交番へ向かって歩き、途中複数の通行人とすれ違ったが、駅での凶行で体力を消耗したため手を出さなかった。駅からおよそ200m離れた荒川沖地区交番に到着したが不在だったため、備え付けてある呼び出し電話機から「私が犯人です」と自ら通報した。駆けつけた警察官には抵抗せずに現行犯逮捕されたが、その時点で金川は自分が死刑になる確証が得られていないことにイライラしていた。
土浦連続殺傷事件(金川真大)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2009年12月18日に判決公判が開かれ、水戸地裁は検察側の求刑通り被告人 金川に死刑判決を言い渡した。

金川は判決直後のメディアとの面会において、「完全勝利といったところでしょうか」と満足そうに話した。一刻も早い死刑執行を望む主張は変わらなかったが、取材記者が今後、金川が更生する可能性に懸けて、確定死刑囚となった後も面会を続けることを求めると、金川は応じて面会希望者に記者の名前を書いた。弁護人は東京高等裁判所に即日控訴したが、金川は12月28日に控訴を取り下げる手続きをし、一週間後の2010年(平成22年)1月5日に死刑判決が確定した。

事件発生から5年となる直前の2013年(平成25年)2月21日、法務省(法務大臣:谷垣禎一)が発した死刑執行命令により収監先・東京拘置所にて金川の死刑が執行された(当時29歳没)。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2013年(平成25年)2月21日、東京拘置所にて死刑執行(当時29歳没))

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津山小3女児殺害事件(勝田州彦)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)9月3日に岡山県津山市総社で発生した殺人事件。

事件発生後14年間の長期にわたり未解決であった。事件発生から約14年後の2018年(平成30年)5月に別の殺人未遂事件で服役していた勝田州彦(当時43歳)が被疑者として逮捕され、2023年(令和5年)9月に無期懲役が確定することとなった。

2004年9月3日、下校してきた被害者の姉が、小学3年生だった妹(当時9歳)の遺体を発見。岡山県警察の捜査により、犯行時間は帰宅直後の15時15分から約20分と見られている。しかし、第一目撃者の証言などから、犯行時間については不明な点がある(#事件当日の経過参照)。なお、自宅の鍵や窓は壊されていなかった。

遺体の傷は、すべて正面からの刺し傷で、抵抗の跡はなかった。手や腕、背後に傷はなかった。刺し傷は深いもので数センチあり、内臓に達しているものもあった。2004年9月4日の司法解剖で死因が「窒息・失血」の疑いであると判明。告別式は同月7日に営まれた。

2018年5月30日、津山警察署は別の殺人未遂事件で服役していた勝田を殺人などの罪で通常逮捕した。勝田は、「刃物で刺したというところ以外は、僕がやったことに間違いありません」と容疑を一部否認。女児とは面識はなく「偶然見かけて、かわいいと思った」と供述。勝田は「女の子の痛がる顔を見ると、性的に興奮する」という嗜好の持ち主であった。

しかし、同年8月6日に岡山簡易裁判所(小林正明裁判官)で開かれた勝田の勾留理由開示の法廷では、「(殺害行為は)ありません」と容疑を否認した。なぜ、警察の取り調べ段階で認めたのかの理由を問われると、「弁護士に死刑になる可能性を知らされて怖くなり、認めれば(情状酌量で)死刑にならないと考え、うその供述をした」と述べた。
津山小3女児殺害事件(勝田州彦)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2022年1月6日に岡山地方裁判所(倉成章裁判長)で判決公判が開かれ、同地裁は勝田に無期懲役(求刑:同)の判決を言い渡した。

2023年(令和5年)9月7日付で最高裁第一小法廷(深山卓也裁判長)が上告棄却の決定を出した。勝田は同決定を不服として異議申し立てを行ったが、2023年(令和5年)9月20日付で棄却されたことで一、二審判決による無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2053年9月頃、73歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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テレクラ放火殺人事件(中井嘉代子・坂本明浩)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)3月2日早朝、神戸市中央区の新宿ソフト系列のテレホンクラブ「リンリンハウス」の元町店と神戸店で発生した放火殺人事件。4人が死亡し、4人が重軽傷を負った。

3月2日午前5時頃、リンリンハウス神戸店内に自動車で乗り付けた男が侵入。一升瓶による火炎瓶を投げつけたが、幸いにも従業員が消し止め、負傷者1名に留まった。続いて10分後、男は近接する元町店に侵入、気がついた従業員が火炎瓶を男に投げ返すも炎上、4人が死亡、3人が重軽傷を負う被害を出した。

元町店の存在したビルにかつて同様のテレホンクラブを出店していたライバル店の経営者 中井嘉代子(当時66歳)は、ビル側とのトラブルにより撤退を余儀なくされた。ところが撤退後に開店した同業他社が盛況ぶりを見せたことから、不満を抱いた中井は、広島の麻薬密売グループ会長の坂本明浩(当時47歳)に対し1000万円の謝礼金を持って妨害工作を画策、坂本明浩(当時47歳)は実行犯である佐野和幸(当時44歳)・亀野普也(当時29歳)・堀健一(当時41歳)に対し放火を指示した。

犯行の際に、元町店の従業員が投げ返した火炎瓶で佐野が大火傷を負っており、熱傷の名医として知られている広島県広島市の長崎病院に入院したことが手がかりとなり、後に実行犯 佐野・亀野は逮捕された。指名手配を受けた堀は、8年間逃亡していたが、2008年(平成20年)7月28日未明に、愛媛県新居浜市で逮捕された。
テレクラ放火殺人事件(中井嘉代子・坂本明浩)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年11月16日、最高裁はCとDの上告を棄却、無期懲役が確定した。
 2010年8月4日、Eの控訴、Eに対する検察官の控訴をいずれもを棄却。その後Eも検察官も上告せず、懲役20年が確定した。
 2010年8月25日、中井嘉代子(当時66歳)の上告を棄却、無期懲役が確定した。
 2011年5月24日、一部の限度で検察官の控訴を認容し(死刑を求める検察側の主張は退け)、一審判決を破棄した上で改めて坂本明浩(当時47歳)に無期懲役判決。坂本は上告した。検察側は上告せず。
 2013年7月8日、坂本の上告を棄却、無期懲役が確定した。
 この他、中井と坂本を仲介した人物に懲役6年の判決が下されている。
 客が死亡することを予見していたとして、いずれの被告人にも未必の故意が認定されたが、積極的殺意はなかったとして、中井・坂本・佐野・亀野には無期懲役、堀には関与の度合いの低さや反省なども考慮されて懲役20年の判決が言い渡された。

❖出所予定(年齢)
 中井嘉代子・・・2040年8月頃、96歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 坂本明浩・・・2041年8月頃、77歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 佐野和幸・・・2043年7月頃、??歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 亀野普也・・・2043年7月頃、??歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 堀健一・・・2033年7月頃、??歳(懲役20年)

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戸井田和之選挙事務所襲撃事件(設楽啓一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年12月12日の茨城県議会議員選挙投開票日当日に立候補者である戸井田和之さん(当時46歳)の選挙事務所にトラックが突入したテロ事件である。

2010年12月12日10時35分頃、2010年茨城県議会議員選挙に石岡市選挙区から無所属で出馬した元自民党茨城県議会議員の戸井田さんは投票を終え選挙事務所に集まっていた。すると事務所の北西方向から白い保冷車が近づいているのが見えたが、戸井田さんは「宅配便かな」と思ってしばらく眺めていた。

すると保冷車はバックで急加速、事務所に二度衝突し、フェンスや壁を破壊した。そのまま保冷車は逃走しようとしたため事務所にいた戸井田の叔父 利雄さん(当時62歳)が「何やってるんだ!! やめろっ!!」と保冷車のサイドミラーにしがみついたが保冷車は彼を振り落として左側の車輪で戸井田さんの叔父 利雄さんの腹部を轢き、さらに路地で別の乗用車と正面衝突しながらそのまま八郷方面へ逃走した。

戸井田さんはすぐに警察へ通報。叔父 利雄さんは救急車で石岡市内の病院に搬送、その後ドクターヘリで水戸市の病院に搬送されたが死亡が確認された。

2011年1月15日に実行犯として山口組系暴力団幹部 設楽啓一(当時43歳)を器物損壊罪と窃盗罪の容疑で逮捕。犯行に使用された保冷車からは容疑者の指紋が検出され、また設楽は戸井田さんと面識のある人物であった。設楽は犯行を否認したが、2月4日に起訴された。2月5日には殺人罪の容疑で再逮捕され、2月25日に殺人罪で追起訴された。このほか共謀したとされる暴力団組員3人が窃盗罪容疑で逮捕されたが、不起訴処分となった。
戸井田和之選挙事務所襲撃事件(保冷車)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2011年12月22日、水戸地方裁判所は設楽に対し殺人などの罪で懲役20年の有罪判決を言い渡した。設楽は判決を不服として控訴したが、2012年7月11日、東京高等裁判所は一審判決を支持し棄却した。

❖出所予定(年齢)
 2031年12月頃、63歳(懲役20年)

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東海大学安楽死事件(徳永医師)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 病院に入院していた多発性骨髄腫という血液の末期がん症状の患者 藤原政次さん(当時58歳)に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手 徳永雅仁医師(当時34歳)が殺人罪に問われた、平成3年(1991年)の刑事事件。裁判で医師による安楽死の正当性が問われた。

藤原政次さんは多発性骨髄腫のため、東海大学医学部付属病院に入院していた。病名は家族にのみ告知されていた。1991年(平成3年)4月13日、昏睡状態が続く藤原さん患者について、妻と長男は治療の中止を強く希望し、助手の徳永医師は、患者の嫌がっているというフォーリーカテーテルや点滴を外し痰引などの治療を中止した。長男はなおも「早く楽にしてやってほしい」と強く主張。医師はこれに応じて、鎮痛剤、抗精神病薬を通常の二倍の投与量で注射した。

しかしなおも藤原さんは苦しそうな状態は止まらず、長男から「今日中に家につれて帰りたい」と求められた。そこで助手の徳永医師は殺意を持って、塩酸ベラパミル製剤を通常の二倍量を注射したが、脈拍などに変化がなかったため、続いて塩化カリウム製剤20mlを注射した。藤原さんは同日、急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡させられた。翌5月にこのことが発覚し、助手の徳永医師は塩化カリウムを注射したことを問われ、殺人罪により起訴された。なお、藤原さん自身の死を望む意思表示がなかったことから、罪名は刑法第202条の嘱託殺人罪ではなく、第199条の殺人罪とされた。 
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判において、徳永雅仁医師(当時34歳)は公訴権の乱用として、公訴棄却もしくは無罪の決定・判決を求めた。

❖出所予定(年齢)
 無罪

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2018年東海道新幹線車内殺傷事件(小島一朗)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年(平成30年)6月9日に、神奈川県を走行中の東海道新幹線「のぞみ265号」車内で発生した殺人事件。

2018年(平成30年)6月9日21時42分、のぞみ265号は新横浜駅を定刻どおりに発車した。それから間もなく、12号車の後方の2列シートの左側に座っていた小島一朗(犯行当時22歳)が立ち上がり、右隣の席に座っていた旅客B(女性)を鉈で切りつけた。そののち、小島は止めに入ろうとした梅田耕太郎さん(当時38歳、男性、兵庫県尼崎市在住)ともみ合いになり、旅客Dが転倒したすきに通路を挟んで左隣にいた旅客C(女性)を切りつけた。梅田さんは切りつけられた2人を後方に避難させ、小島に立ち向かったが、小島に馬乗りになられて幾度も切りつけられた。

12号車での事件を聞いて駆けつけた車掌は、外したシートの座面やキャリーバッグを盾のようにして構えながら旅客Cに刃物を振り下ろしている小島に近づき、説得した。列車は非常用ボタンの作動により綾瀬市内で緊急停止した後、22時3分に小田原駅に緊急停車し、小島は駅で待機していた警察官に殺人未遂の現行犯で逮捕された。

また、負傷した旅客は小田原市内の病院に搬送された。

梅田さんは搬送時すでに心肺停止となっており、まもなく死亡した。旅客Bと旅客Cの2人は重傷を負った。
2018年東海道新幹線車内殺傷事件(小島一朗)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2019年12月18日、横浜地方裁判所小田原支部は求刑通り無期懲役を言い渡し、控訴せず翌2020年1月に確定した。

❖出所予定(年齢)
 2049年12月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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東金市女児殺害事件(勝木諒)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2008年9月に千葉県東金市で発生した女児殺人事件。

2008年9月21日午後0時25分頃、千葉県東金市東上宿の東金南公園近くの路上で成田幸満(ゆきまろ)ちゃん(女児、当時5歳)が全裸で倒れているのを通行人が発見し、病院で死亡が確認された。司法解剖の結果、死因は鼻と口を圧迫したらしい窒息死であり、目立った外傷はなく、左腕に強くつかまれたあざと出血があった。死因は被告人が逮捕された後、溺死へと変更される。

現場から約100メートル離れたマンションの屋外駐車場では、車の下部から幸満(ゆきまろ)ちゃんが身に着けていたTシャツ、半ズボン、下着、靴が入ったレジ袋2つが発見された。レジ袋は地元スーパーの物であった。

正午直前に幸満(ゆきまろ)ちゃんは母親が勤務する病院にいたとする目撃証言があったことから、犯行時間は正午から午後0時25分までの「25分間」とされた。また午後0時10分頃は現場に異常がなかったとする2人の通行人の証言もあり、幸満(ゆきまろ)ちゃんが遺棄されたのは午後0時10分から午後0時25分までの「15分間」とされた。起訴状では、11時40分ごろ病院近くの路上で幸満(ゆきまろ)ちゃんを拉致し、抱えて330メートル離れた自宅に連れ帰ったとされた。

12月6日、現場近くのマンションに住む勝木諒(当時24歳)が死体遺棄容疑で逮捕された。証拠としては幸満(ゆきまろ)ちゃんの衣服が入れられていたレジ袋について、付着していた指紋が一致していたことや勝木の母親の髪の毛が入っていたことなどがあげられた。
東金市女児殺害事件(勝木諒)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2011年9月27日、二審の東京高裁は、勝木は軽度の知的障害を抱えているため、「裁判官」や「黙秘権」の意味も理解できず訴訟能力がなく、責任能力は限定的であるとする弁護側の主張を退けて1審千葉地裁判決を支持し、勝木の控訴を棄却して懲役15年を言い渡した。弁護側はこの判決を不服として上告した。

2012年3月27日、最高裁は被告人の上告を棄却する決定を出した。懲役15年とした1、2審判決が確定。

❖出所予定(年齢)
 2027年3月頃、39歳(懲役15年)

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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1988年(昭和63年)から翌1989年(平成元年)にかけて日本の関東地方(埼玉県・東京都)で相次いで発生した4件の誘拐殺人事件。警察庁により、広域重要事件117号に指定された。

1988年8月22日、埼玉県入間市春日町で女児A(当時4歳)が行方不明になり、両親が「娘が帰ってこない」と埼玉県警察に通報した。翌23日以降、所轄の狭山警察署や入間市消防本部などによる大規模な捜索が行われ、周辺の聞き込みから県警は誘拐事件も視野に捜査を進めたが、犯人からの連絡はなく、Aの生死・行方は不明のままだった。その後、同年10月3日に同県飯能市下赤工で市立原市場小学校1年生の女児B(当時7歳)が行方不明になり、12月9日には同県川越市古谷上で女児C(当時4歳)が相次いで行方不明になった。

3事件の現場はいずれも半径10キロメートル圏内の入間川沿いで、失踪した時間が夕方であることなど共通点が多かったため、埼玉県警は3件連続の幼女誘拐事件の可能性があるとみて捜査した。同月15日、同県入間郡名栗村上名栗新田1289-2の「県立名栗少年自然の家」に近い杉林でCの他殺体が発見された。同事件を捜査していた県警捜査一課と飯能・川越の両警察署は誘拐殺人・死体遺棄事件と断定、県警刑事部長・友川清中を本部長とする「Cちゃん誘拐・殺人事件合同捜査本部」を設置した。

1989年2月6日、女児Aの自宅玄関前に段ボール箱が置かれており、中には焼かれた人骨片と歯が入っていた。埼玉県警は箱に入っていた歯の鑑定を東京歯科大学に依頼し、一度は女児Aのものではないと発表したが、後に女児A本人のものと断定した。2月10日と11日に「今田勇子」の名で、朝日新聞東京本社と女児A宅に犯行声明と女児Aが写ったインスタント写真が郵送された。

犯人は犯行声明の中で女性であると称しており、内容は段ボール箱に入った骨は全て女児Aの骨である、と主張するものだった。朝日新聞社に添付された写真が女児A本人と確認され、当時女児Aが履いていたサンダルの絵柄など犯人しか知りえない事実が記載されていることから、同県警は声明文を犯人が書いたものと断定した。

1989年6月6日、東京都江東区東雲二丁目で保育園児の女児D(当時5歳)が行方不明になった。警視庁捜査一課と深川警察署が事件・事故の両面で捜査したが、6月11日、飯能市宮沢170-1にある宮沢湖霊園の駐車場北西側にあった簡易トイレ裏で、頭部と両手足首が切断された女児の遺体が発見され、同月12日に埼玉県警は発見された遺体が女児Dのものと断定した。

警察庁によればバラバラ殺人事件は1949年(昭和24年)以降、それまでに全国で77件が発生していたが、死体の持ち運びのために切断した事例が多く、被害者はほとんどが大人だったという特徴があるため、Dはバラバラ殺人の被害者としては最年少でもあった。また1984年(昭和59年)以降、12歳以下の児童が犠牲となった誘拐殺人事件はD事件が14件目だった。同日、警察庁は一連の誘拐事件を広域重要事件捜査要綱に基づき、警察庁広域重要指定事件広域重要指定事件に次ぐ重要事件として同庁が捜査の指導・調整に乗り出す「準指定第4号事件」に指定した。

1989年7月23日、宮崎勤(犯行当時26歳)が、東京都八王子市美山町で、幼い姉妹を標的として妹の方の全裸写真を撮るというわいせつ事件を起こしているところを被害女児の父親に見つかり偶然近くをパトロールしていた警官に引き渡され(私人逮捕)、八王子警察署に現行犯逮捕された。

東京地検八王子支部は8月7日、宮崎をわいせつ誘拐、強制わいせつ罪で起訴し、同月9日に宮崎は女児Dの殺害を自供。翌10日、自供通り奥多摩町梅沢地区の山中で女児Dの頭蓋骨が発見され、11日に宮崎を未成年者誘拐、殺人、死体遺棄の容疑で再逮捕した。この後、唯一被害者の安否が不明だったB事件についても宮﨑は自身がBを誘拐・殺害したことを自供し、その自供通り9月6日、五日市町戸倉の小峰峠付近の山中(東京電力新多摩変電所の裏)でBの白骨化した遺体が発見された。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年1月17日、最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)が宮崎の上告を棄却する判決を宣告した。最初の事件(A事件)発生からこの判決までに17年5か月が経過していた。宮崎の弁護人は判決訂正申立を行ったが、同年2月1日付で同小法廷から申立を棄却する決定が出された。翌2日に決定書が宮﨑へ送達され、同日付で正式に死刑が確定した

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2008年6月17日、東京拘置所で死刑執行(当時45歳没))

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※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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◆ドキュメント
作成日付:2023/04/17
更新日付:2023/08/03
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.05改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート1))
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(目次き(一部)、こ~し))

<目次>






京都日整学園女性理事長殺害事件(上野剛)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年に京都市の日整学園・日本整容専門学校の女性理事長が殺害された事件である。

1997年3月21日に京都市南区において美容専門学校を運営する学校法人日整学園・日本整容専門学校の学園理事長 永田綾子さん(当時66歳)が駐車場で刃物で刺されて殺害された事件である。この事件で逮捕した無職 上野剛(当時63歳)に対して検察は親族と取り組んでいた中国古美術品「兵馬俑」の転売を巡るトラブルに絡み、Aが関係者の依頼を受けて理事長を殺したとして起訴した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2005年12月7日、最高裁第3小法廷の上田豊三裁判長は、懲役12年とした高裁判決を支持して上告を棄却した。

❖出所予定(年齢)
 2017年12月頃、75歳(出所)

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京都伏見介護殺人事件(片桐康晴)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2006年(平成18年)2月1日、京都府・京都市伏見区の桂川の河川敷で、当時54歳の男Aが生活苦から親子心中を図って認知症患者の86歳の母親を殺害した介護殺人事件。

2006年(平成18年)2月1日、母親(当時86歳)の介護で生活苦に陥った片桐康晴(当時54歳)が、母親の首を絞めて殺害した。男自身も包丁で自殺を図ったが未遂となった。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年7月21日、京都地方裁判所での判決公判において、裁判官は「母親の同意を得たとは言え、尊い命を奪った刑事責任は軽視できない。」とした上で、それまでの経緯や献身的に介護をしていたことなどを酌量し、「母親は、恨みなどを抱かず、厳罰も望んでいないと推察される。

自力で更生し、母親の冥福を祈らせることが相当」と述べ、片桐に懲役2年6ヶ月、執行猶予3年を言い渡した。また、「自分を殺めることはしないようにして、お母さんのためにも幸せに生きてください。」と諭し、「裁かれているのは日本の介護制度や行政であり、とりわけ生活保護の相談窓口の対応が問われていると言っても過言ではない。」と指摘した。

片桐は裁判の後、滋賀県に転居し1人暮らしを始め、木材加工会社で働いていたが、2013年(平成25年)に会社をクビになったと親族に伝えたきり音信不通となった。

親族が警察に行方不明者届を出したが、2014年(平成26年)8月1日に遺体で見つかった。遺体付近には小さなポーチが残されており、ポーチの中にはお金が入っていたが、この時の所持金は”わずか数百円”だった。さらにメモが残されており、そこには「母と一緒に焼いて欲しい」というメモ書きと一緒に母親と自分の”へその緒”が、セットで見つかった。
京都伏見介護殺人事件(片桐康晴)
❖出所予定(年齢)
 2009年1月頃、57歳、執行猶予完了(その後、自殺)

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京都猟銃発砲事件(山本秀平)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年9月20日に京都市で発生した猟銃による殺人事件である。

2003年9月20日午後8時ごろ、京都市山科区大塚野溝町、自営業、岡本充弘さん(当時35歳)の
自宅前路上で、岡本さん宅の向かいに住む無職、山本秀平(当時63歳)。が岡本さんに向けて至近距離から散弾銃を数発発砲した。
岡本さんは頭を撃たれ即死。男は近くの自宅に戻り、同じ銃で胸を撃ち自殺した。
1年以上前から、道にはみ出すように駐車する岡本さんに不満を持っていたという。

この日も帰宅してガレージに車をとめた岡本さんに「またそこに入れるのか」と文句を付けて口論になり、自宅から散弾銃を持ち出して威嚇射撃した後、岡本さんを撃った。

山本容疑者は犯行後「人を殺した」と自分で110番し、直後に妻の目の前で自殺した。
京都府警は容疑者死亡のまま、殺人容疑などで山本容疑者を書類送検する方針。山本は京都府公安委員会から散弾銃2丁の所持許可を受け、犯行に使ったのはそのうちの1丁とみられる。
近所の人によると、山本容疑者は約20年前から住み、岡本さんは数年前に引っ越してきた。
京都猟銃発砲事件(猟銃の種類)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 京都府山科署は容疑者死亡のまま、殺人容疑などで山本容疑者を書類送検。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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筋弛緩剤点滴事件(守大助・無期懲役)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年(平成12年)に宮城県・仙台市泉区のクリニックで発生した患者殺傷事件。仙台筋弛緩剤事件などとも呼ばれる。

1999年から2000年までの間に、宮城県仙台市泉区のクリニックで不審死した事例が20人に上る事件が発生した。この事件の発生は、同クリニックに勤務していた准看護士の守大助(当時29歳)が勤務し始めた時期と符合した。

2000年10月31日に入院した11歳の女児に対して、抗生物質を点滴する処置を取ったが容態が急変。女児は病院を転送され一命は取りとめたが、大脳に障害が残り植物状態になった。女児の血液を採血し分析した結果、筋弛緩剤「ベクロニウム」の成分が検出された。なお、この女児は2018年に29歳となったが、意識は戻っていない。

クリニック側は、守が担当する患者に容態が急変し、重態したり死亡したりする事例が目立ったため不審を抱く。12月4日、私物を取りに病院へ行った守は、医療廃棄物を処理するために箱を廃棄小屋に捨てようとした際、私服警官に呼び止められた。赤い箱の中身を点検すると、筋弛緩剤ベクロニウムの空アンプルが見つかり、更に筋弛緩剤の在庫を確認したところ、守がベクロニウム20アンプルを発注する一方で、23アンプルが使途不明だったことが判明。1件の殺人と4件の殺人未遂の被疑事実で、守が宮城県警察に逮捕された。いずれも容疑は、点滴液へ筋弛緩剤を混入して窒息死させた被疑事実。筋弛緩剤は脳からの信号を遮断して、筋肉の動きを弱める薬で、人工呼吸器を着けずに投与し、呼吸不全を引き起こしたとした。 マスコミは守が担当する患者に容態の急変が頻発することになぞらえて急変の守と呼ぶ報道を繰り返したほか、患者に対して「先は長くない」等の発言を行ったと報じた。
筋弛緩剤点滴事件(守大助)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2008年2月25日、最高裁判所は守の上告を棄却。無期懲役が確定した。

守は現在、千葉刑務所に収監されている。2012年2月10日に仙台地裁に再審請求を行ったが、2014年に棄却。弁護側は仙台高裁に即時抗告したが、2018年2月28日、即時抗告は棄却された。弁護側は同年3月5日付けで決定を不服として最高裁に特別抗告を申し立てたが、2019年11月13日付で最高裁は特別抗告を棄却した。

❖出所予定(年齢)
 2038年2月頃、59歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)(少年A)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年(平成9年)2月 - 5月にかけて兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件(少年犯罪)。男子中学生(事件当時14歳:神戸市立友が丘中学校3年)が相次いで小学生5人を殺傷した。犯人の少年が酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗っていたことから、「酒鬼薔薇事件」「酒鬼薔薇聖斗事件」とも呼ばれる。
神戸長田区小1女児殺害事件(酒鬼薔薇聖斗)
本項では事件を起こした少年の仮名を、後述するのちに本人が出版した著書などの名義である「少年A」をもとにして表記する。

◆事件
 1997年の2月から5月にかけ、5人の小学生が被害を受け、2人が死亡し、2人が重軽傷を負った。犯人は事件当時、神戸市立友が丘中学校に在学していた中学3年生の少年A(当時14歳)で、殺人・殺人未遂などの容疑で神戸家裁へ送致され、同家裁(井垣康弘裁判官)の決定により関東医療少年院へ長期収容されたが、関東地方更生保護委員会から「約6年半の矯正教育により、事件の要因となった性的サディズムなどは改善され、再犯のおそれはなくなった」と判断されたため、逮捕から約6年9か月後の2004年(平成16年)3月10日に仮退院を認められ、社会復帰した。事件現場は以下のように、須磨ニュータウン(神戸市営地下鉄西神・山手線:名谷駅の南方)に集中していた。

第一事件 - 
1997年2月10日16時35分ごろ、須磨区中落合一丁目1番の「落合第3団地」402号棟南側路上(座標)で、市立南落合小学校6年生の女児2人(いずれも当時12歳)の後頭部をそれぞれ金槌で殴り、うち1人に全治1週間の怪我を負わせた(傷害罪・暴行罪)。

第二事件 - 
1997年3月16日12時25分ごろ、須磨区竜が台二丁目1番の神戸市住宅供給公社35号棟西側路上(座標)で、市立竜が台小学校4年生 山下彩花さん(当時10歳)の後頭部をハンマー (1.5 kg) で殴り、1週間後(3月23日)に脳損傷で死亡させた(第二-1事件:殺人罪)。またその10分後(12時35分ごろ)、須磨区竜が台五丁目20番の竜が丘公園(座標)北側路上で、同校3年生女児(当時9歳)の腹部をくり小刀(刃体の長さ約13 cm)で刺し、全治2週間の怪我を負わせた(第二-2事件:殺人未遂罪)。

第三事件 - 
1997年5月24日昼過ぎごろ、市立多井畑小学校付近の路上で、同校6年生 土師淳(はせじゅん)君(当時11歳)と偶然出会い、須磨区友が丘9丁目22番地の「タンク山」山頂にあったケーブルテレビ中継アンテナ基地付近(座標)まで誘い出した上で、14時ごろに自分の履いていた運動靴の紐で絞殺。翌25日13 - 15時ごろに基地内で遺体を頭部と胴体部とに切断、胴体部分を基地局舎の床下に、頭部は27日未明に友が丘中正門前(座標)にそれぞれ遺棄した(殺人罪、死体損壊・遺棄罪)。

通り魔的犯行や遺体の損壊が伴った点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与え、少年法改正(2000年)のきっかけとなった。

兵庫県警察は聞き込み捜査の結果、少年Aが動物虐待行為をたびたび行っていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、捜査は極めて慎重に進められた。

❖第三事件
 酒鬼薔薇事件の象徴である第三の事件をピックアップする。

●1997年5月24日
 少年Aは人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために昼過ぎに自転車に乗って家を出た。町内を約10分くらい自転車を走らせた後、多井畑小学校の北側の道路の歩道を東から西に自転車を走らせていたところ、Aとは反対に西から東に1人で歩いてくる土師淳(はせじゅん)君(当時11歳)を偶然見つけた。

土師淳(はせじゅん)君は同地区に住む放射線科医師の小学5年生の11歳の次男であった。土師君は祖父の家に行くといって午後1時40分頃自宅を出ていた。Aが男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、Aが5年生の頃小学校のなかに身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後男児がAの家に遊びに来るようになった。これはAが直接知り合ったわけではなく、Aの一番下の弟が同級であったためである。その際にAの家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。
神戸連続児童殺傷事件(土師淳さん)
咄嗟に「土師君なら、僕より小さいので殺せる」と思い男児の方へ近づいた。Aは土師君に対し「向こうの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」と「タンク山」と呼ばれている高台に誘い出し、山頂手前にあるケーブルテレビアンテナ施設の入り口付近まで連れて行きその場で絞殺して遺体を隠した。

殺害は絞殺であったが、これは当初から首を手で絞めて殺してみたいという願望があったためである。指紋が付くことを怖れ手袋をしたあと、土師君の真後ろからいきなり右腕を男児の首に巻き付け、力いっぱい男児の首を締め上げた。土師君は大きな声を出し、泣き叫び手をバタバタさせた。

Aはこのままでは到底土師君を殺せないのではないかと思い、土師君を倒して締め上げれば殺せるのではないかと考えた。土師君を前に倒しA自身も土師君に覆い被り首を絞め上げた。それでも土師君はなかなか死ななかったため、今度は土師君を仰向けにし男児の腹の上に馬乗りになって両手で男児の首を力任せに締め付けた。しかし、両腕の上腕部付近が張ってきて、筋肉痛のような感覚を覚える。Aはナイフで殺害しようと考えるがナイフを忘れたことに気付く。そこですぐ横に埋まっていた石で撲殺しようと思い、石を持とうとするが土に埋まっていたため動かなかった。

Aは自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、紐を首にかけうつ伏せになった土師君の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げた。しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。しかし、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスなどに結びつけ締め続けた。その後、土師君の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。

供述では、なかなか死なない土師君に腹を立てたりしているが、同時に土師君を殺しているという緊張感や怒りも含め、殺していること自体を楽しんでいたこと、また、最終的には土師君が死んだと分かった時に、Aは土師君を殺すことができ、土師君が自分だけのものになったという満足感でいっぱいになったと話した。

また、「その満足感はそれまで僕が人を殺した時のことを考えて、得られるであろうと思っていた満足感よりももっと素晴らしいものでした」と話した。

さらに「確かに僕は、3月16日に須磨区竜が台で、2人の女の子を殴ったりナイフで刺したりしたし、後日、僕がハンマーで殴った女の子は死んだということを知りましたが、この時は一瞬のことであり、大した満足感は感じませんでした。しかし、土師君の場合は、殺すのになかなか時間がかかったので、それだけ満足感が得られたのです。土師君を殺したことによって感じた満足感は、あまり長続きはせず、死体をどこに隠そうかなどと考え始めたときには、満足感は消えていました」と続けた。

土師君を殺害したAは、死体の処理をどうするか考えできるだけ発見を遅らせたいと思った。あたりを見回すとアンテナ施設の中の鉄の建物の床下に草が生えており、フェンス越しなら床下が見えにくいと思い、床下に死体を隠すことを考えたが、入り口には南京錠がかかっていたため、施設内には入ることができなかった。 しかしAは南京錠を壊そうと考え、南京錠を壊すための糸ノコギリと、南京錠を壊しただけでは不審に思われることから、壊した南京錠に代わる新たな南京錠を入手する必要を感じた。

土師君をそのままにしてAはコープリビングセンター北須磨店へ向かった。そこで糸ノコギリ(後に供述調書は金ノコに修正された)と南京錠を万引きした。南京錠と糸ノコギリを万引きした理由については、お金がなかったこと、お金を出して買えば店員に顔を覚えられる可能性があったためと供述している。

Aは再び土師君の元へ行き、入り口に掛けられている古い南京錠を金鋸で切り、両手を土師君の脇の下に入れ土師君を引きずって施設の中へ入れた。ところが、鉄の建物と施設の入り口との間にアンテナが置かれており、邪魔であったためアンテナを向って右にずらした。 Aは土師君の死体を引きずって建物の中へ入り、そこから床下に土師君の死体を蹴り込むようにして押し込んだ。その際、建物付近に土師君の運動靴が1個落ちていることに気付き、拾い上げ死体のそばに置いた。金鋸を落ち葉の下に隠し、入り口に新しい南京錠を掛け替えて山を下りた。

その後Aは友達と遊び、午後6時過ぎに家に帰った。Aの母が「土師君がおらんようになったみたいよ」と言うと、Aは「ふうーん」と返事をした。Aは夕食を食べずに寝たが元々よく夜中に目覚めており、この夜も夜中に目覚め、1日のことを振り返った。南京錠の切断に使った糸ノコギリを施設内に隠していることを思い出した所、糸ノコギリで頭を胴体から切り離してみたい、その時に手に伝わってくる感覚や、切った後の切り口を見てみたいという衝動に駆られた。Aはそれまでに何十匹もの猫を殺し、首を切り落としていたが、猫だとナイフ1本で簡単に切れるため、人間を切ってみたいと思った。そこで、明日は再びタンク山に向かい、隠している糸ノコギリで土師君の首を切ろうと考え再び眠りについた。

午後8時50分に土師淳(はせじゅん)君の家族より兵庫県須磨警察署に捜索願が提出された。

●1997年5月25日
 Aはいつものように起床し、土師淳(はせじゅん)君の首を切るために自宅を出た。Aは人間の首を切る際には大量の血が出て、現場に血を残すと足が付きやすくなると考え黒色のビニール袋を2枚用意した。また金鋸を運び出すために、学校で使用している補助カバンや、くり小刀を1本持ち出した。

検事調書では、「ママチャリに乗って、直接「タンク山」へと向かいました」と言っているが、Aの父親によれば正午前後にコープ北須磨の自転車置き場で出会っており、ビブロスの方向に走って行ったという。タンク山はビブロスと反対方向にあるが、ビブロス方向に走って行ったことに関して、父親は「よく思い出せません」とも話している。

Aは遺体の元へ行き土師君の死体を床下から引っ張り出した。Aは「ただ、土師君の首を切りたい」とだけしか思っていなかったため、特にワクワクするといった気持ではなかった。土師君はあおむけの状態で、眼は見開いていた。このとき、取調官はAに「土師君の死体の目や顔を見ながら、その首を切るのに抵抗はなかったか」と尋ねたのに対しAは「別にありませんでした。僕が殺した死体であり、いわば僕の作品だったからです」と答えた。

黒いビニール袋の上に置いた土師君の遺体を、糸ノコギリで一気に左右に2回切ると切り口が見えた。Aは左手で土師君の額のあたりを押さえながら首を切った。この時、Aは「現実に人間の首を切っているんだなあと思うと、エキサイティングな気持ちになった」と供述している。その後、土師君の髪をつかんで首の皮を引っぱり、頭を胴体と引き離した。Aはしばらく頭部を地面に置き、正面から鑑賞しながら「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感に浸り射精した。

しかしAは死体にまだ魂が残っていると考え、魂を取り出すため、また眠たそうな土師君の目が気に入らなかったため、小刀で男児の両目を突き刺した。さらに、2、3回ずつ両方のまぶたを切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」を持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直のためできなかった。さらに、ビニール袋に溜まった土師君の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。血を飲んだ理由として、「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められると思ったからです。幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです」と供述している。

Aはその後入角ノ池へ行き、土師君の首を隠す場所はないかと見回しところ池の方に木が生えだしたところがあり、その木の近くにちょうど首が入るほどの穴があった。穴を見つけると、補助カバンから土師君の首を入れたビニール袋を取り出し、袋に入れた状態で首全体が見えるようにした。

至近距離から土師君の首を鑑賞し、新たに誰もいない場所で土師君の首を鑑賞すれば、何か新しい感動が得られるのではないかと期待したが、大した感動はなく「ああ、こんなものか」と思った程度だったため、2,3分眺めてから再びビニール袋にもどし、木の根元の穴の中に隠した。首の切断に使った金鋸は、友が丘西公園のとなりにある向畑ノ池に投げ捨てた。

取調官から、「君は当初、男児の首を切断したり、土師君の首を別のところへ移動したのは、土師君の首には指の跡などが付いており、それが分かれば、自分が犯人と疑われるからだと話していたが、その点はどうか」と聞かれ、「それは、単なる理屈付けを話したのです」と答えた。

その日の夜もAは目が覚め、物思いにふけった。その際、Aは人間の死体が時間とともにどう変化するのかに非常に興味を持ち始めた。Aは明日も土師君の首を見るために入角ノ池へ行こうと思った。取調官は、「胴体を置いているタンク山へは行こうと思わなかったのか」と尋ねたのに対し、Aは「考えませんでした。それは土師君の胴体部分は、服を着ていて、死体の変化を見るためには、服を脱がせたりしなければならないからです。それが面倒くさかったからです。それにタンク山だと、人が登ってくる可能性があったからです」と答えた。

●1997年5月26日
 土師淳(はせじゅん)君の行方不明事件として、午前11時40分に須磨警察署が公開捜査を開始。兵庫県警察、PTA、消防団合わせて150名が捜索にあたった。

Aはこの日もいつものように生活し、昼過ぎに「首をじっくり鑑賞したい」と自転車で入角ノ池へ向かい、穴から取り出して至近距離で5,6分見た。この時は鑑賞ではなく観察したと供述している。観察の結果、色が前日に増して青白くなっていたこと以外には取り立てて変化があるようには思えず、がっかりし興味を失ったため、土師君の頭部を家に持ち帰った。

遅かれ早かれ日本の警察ならどこに隠そうと胴体も頭部も発見されるだろうと考えたAは、自分から土師君の首をあえて晒すことで、警察の捜査から自分を遠ざけようと考えた。

土師君の頭部を放置する場所をどこにするか考えた結果、自分が通っている神戸市立友が丘中学校が警察にとっては一番盲点になるのではないかと考えた。Aは、まさか中学校に通う生徒が自分が通う学校に首を置くはずがないと思うだろうし、そうなれば捜査の対象がA自身から外れるだろうと考えた。さらにもう一つの理由として幼少期から親に「人に罪をなすりつけては駄目だ」と言われて育てられたことから、一方では男児を殺した自分自身に対して嫌悪感があったので、何とか責任逃れをしたいという気持ちもあった。

しかし、人に罪をなすりつける訳にはいかないので、自分自身を納得させるために、学校が土師君を殺したのであり、僕が殺したわけではないと思いたかった。それは単に、学校に責任をなすりつけるための理由であり、実際に学校に対する恨みや学校の教育によって、こんな僕ができてしまったと思っていたわけではないと供述している。

頭部の置き場は一番目立つ場所がいいと考え正門に置くことにした。Aは土師君の首をビニール袋に入れ、自転車の前カゴに入れて帰宅した。家には誰もいなかった。

帰宅途中、土師君の首を洗うことを思い付き、帰宅後土や木の葉で汚れた頭部を風呂場でタライに入れホースを使い15分ほどかけて丁寧に洗って、自分の部屋の天井裏に隠した。Aは首を洗った理由を「理由は二つ。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱなどを洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらう訳ですから、血で汚れていたので『せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれ。君の初舞台だよ』という意味で、顔を綺麗にしてやろうと思ったのです」と供述している。Aは首を洗った時も興奮して勃起し、髪の毛にクシを入れながら射精した。

Aは土師君の首を校門に置くだけでは、警察の目を自分から逸らすには物足りない。さらに捜査をかく乱する方法はないかと考えた。そこで、首に何かを添えるのであれば、土師君の口が開いているので男児の口に手紙を咥えさせようと考えた。「偽りの犯人像」を表現するには、手紙がいちばんだと思った。その日の夜、手紙の文章を考えた。

これまで読んだ本などから、覚えている言葉や自分で頭に浮かんだ文章などを思い浮かべたものの、さらにインパクトがある表現が必要だと感じた。そこで部屋にあった漫画に目が止まり、『瑪羅門の家族』第3巻の目次の「積年の大怨に灼熱の裁きを」を見て「積年の大怨」ということになれば、長年積もり積もった恨みを持った者の犯行だと読んだ人は思い、ある程度歳のいった人間が犯人だと思われるのではないかと考え引用することにした。また別の本で覚えていた言葉を組み合わせて手紙を書き上げた。原文の「灼熱の裁きを」という部分は、土師君の頭部を焼いたわけではないので「流血の裁きを」との表現に改変した。
神戸連続児童殺傷事件(手紙)
1997年5月27日早朝、神戸市須磨区の友が丘中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものと判明した。耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。

神戸連続児童殺傷事件(校門前)

❖神戸新聞社宛ての手紙
 6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。投函したのは6月3日の午後だったため、手紙を書いたのは6月2日の夜だったとAは供述している。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復するとしたものだった。また自身を「透明なボク」と表現し、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯したと記載している。

この声明文には発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は文章を一部修正した形で報道されたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文は修正前と同じ文章だった。具体的には文章の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。Aは声明文を書くにあたって、次のような犯人像をイメージして書いた。

高校時代に野球部に所属したことがある三十歳代の男。父親はおらず、母親からは厳しいスパルタ教育を受けながら、学校では相手にされず孤立している。学校関係の職場で働いていたが解雇され、今は病身の母親と二人暮らし。学校時代にいじめにあったので、自分を「透明な存在」と思うようになり、そんな自分を作り出した義務教育を怨んでいる。被害妄想と自己顕示欲が人一倍強く、社会を憎み、密かに復讐を考えている。

しかし、Aは「はっきり言って調子づいてしまった、新たに手紙を書けば、僕の筆跡が警察に分かってしまうと思ったが、僕自身、警察の筆跡鑑定を甘く見ていた。『あれで捕まるんやないか、失敗したなぁ』と思ったが、どうしようもなかった」と供述している。捜査関係者によると「もともと、数多く著作からの寄せ集めだから、原本は簡単に割り出せなかったが、Aが浮上して彼の作文などを調べたら、すぐに同一人物の筆致だと分かったよ。特に『懲役13年』という作文は大いに参考になった」という。

また、用紙の余白に「9」という数字を書いたことについては「僕が1番好きな数字が9であり、切のいい数字が10だと思っているので、その一つ前がいいからだ」と供述しているが、Aが浮上した段階で間接証拠の一つとして使われていた。なお、Aの作文と二つの犯行声明文の筆跡鑑定を行ったが、鑑定結果は「類似した筆跡が比較的多く含まれているが、同一人の筆跡か否か判断することは困難である」というものだったため逮捕状を請求出来なかったという。

Aの供述では、「本当は僕が男児を殺したり、男児の首を正門前に置いていたにも関わらず、あたかも僕の他に犯人がいるとして、その犯人像を僕がイメージして、その犯人像になり切って手紙を書くことにした」、従って「僕が書いた手紙の内容は、あくまでも僕がイメージした犯人像が持っている動機を書いたものであり、いわば僕の作文であって、僕が土師君を殺した理由とは全く異なっている」。神戸新聞社への手紙を書くにあたっては、あらかじめ下書きをしてから書き進めた。下書きを書いたノートは後に燃やしている。
神戸連続児童殺傷事件(神戸新聞社への声明文)
神戸新聞社へ(全文)

この前ボクが出ている時にたまたま、テレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた

人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも、謎かけでも当て字でもない。嘘偽りないボクの本名である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない

だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない
そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。

しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性さがとしか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

最後に一言

この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

———— ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている ————

1997年6月28日、現場近くに住むAに朝から任意同行を求め、事情を聞いていたところで犯行を自供。Aは当初犯行を否認していたが、取調官が第一の犯行声明文のカラーコピーを取り出して、「これが君の書いたものであるということは、はっきりしている。筆跡が一致したんや」と突きつけると、声を上げて泣き出し、自供を始めた(前述のように実際にはAの筆跡が一致したという証拠はなかった)。午後7時5分、殺人及び死体遺棄の容疑でAを逮捕。同時に、通り魔事件に関しても犯行を認めた。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院、中等少年院、医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。

Aは小学5年生の時から動物に対する殺害を始め、最初はなめくじやかえるが対象だったが、その後は猫が対象になった。A自身が友人に、全部で20匹ぐらいの猫を殺したと語っている。標準的な人は性的な発育が始まる以前の段階で、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、Aは性的な発育が始まった時点で性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず(鑑定医はその状態を未分化な性衝動と攻撃性の結合と表現した)、動物に対する暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していた。

性的な発育過程にある標準的な感覚の男子は、自分の周囲の同年代の女子や少し年上の女性を、性欲を発散する対象として想像しながら自慰をして(または生身の女性と現実の性交をして)性欲を発散し、性的な経験を積み重ねながら肉体的・精神的な成長をして行くのだが、Aは動物を殺害して遺体を損壊することに性的な興奮を感じるようになり、猫を殺して遺体を損壊する時に性的な興奮や快楽を感じて性器が勃起し射精した。

Aはその性的な興奮や快楽の感覚や要求が、人を殺害して遺体を損壊することによって、猫の殺害と遺体損壊よりも大きな性的な興奮や快楽を得たいとの欲求へとエスカレートし、それが自分の運命と思い込むようになり、この事件を行ったのであり、殺人の動機の類型としては快楽殺人である。また、Aの言動を危惧した両親は、中学入学後の1995年11月に精神科の病院に通院させ、診断テストや脳の検査を受けさせた。その結果、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断を受けている。

Aは鑑定医から被害者を殺害したことについて問われると、自分以外は人間ではなく野菜と同じだから切断や破砕をしてもいい、誰も悲しまないと思うと供述した。被害者の遺族の悲しみについて問われると、あの時あの場所を通りかかった被害者が悪い、運が悪かったのだと供述した。女性に対する関心はあるかと問われて、全く無いと答えた。

精神鑑定結果は、Aに完全な責任能力はあるが、成人の反社会性パーソナリティ障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、Aの性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。事件前に診断し告知された「注意欠陥・多動性障害」についての言及は、審判や精神鑑定においては触れられていない。

1997年(平成9年)10月13日に神戸家庭裁判所はAを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移された。その後、治療が順調であるとの判断から、東北少年院(中等少年院)に移った。2004年(平成16年)3月10日 に成人したAは少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。そして2005年(平成17年)1月1日にAの本退院が認可された。

❖出所予定(年齢)
 2005年1月1日、22歳、すでに退院(医療少年院にて長期間の医療的処置)

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神戸長田区小1女児殺害事件(君野康弘)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年(平成26年)9月に兵庫県神戸市長田区の小学校1年生の生田美玲さん(当時6歳)が行方不明となり、殺害された事件。

2014年9月11日 に生田美玲さん(当時6歳)行方不明になり、母が長田署に捜索願を出した。兵庫県警が公開捜査。生田さんの持ち物と思われるリュックサックの写真も併せて公開した。生田さんの後ろを歩く容疑者が防犯カメラに映っていたことから、容疑者 君野康弘被告(当時49歳)宅を捜査員が訪問し、任意で君野宅を調べる。

9月23日夕方、捜索していた捜査員が女児の遺体の腐乱臭に気付き、雑木林に放置してあったビニール袋から腐敗が進んだ生田さんの遺体の肉片とたばこの吸い殻と君野名義の診察券を発見した。

9月24日に 兵庫県警捜査本部設置。酒に酔い雑木林の方へ向かう遺体遺棄現場から30メートルに住む君野を捜査員が発見し、任意同行をもとめ、前日発見されたビニール袋に中にあった吸い殻とDNAが一致したため逮捕。警察の家宅捜査で生田さんのリュックサックが君野宅から発見。

10月14日に君野を殺人容疑で再逮捕。10月21日に君野が殺害を自供した。
神戸長田区小1女児殺害事件(君野康弘)
神戸長田区小1女児殺害事件(生田美鈴さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2017年3月10日、大阪高等裁判所は神戸地裁の死刑判決を破棄し、無期懲役が言い渡した。樋口裕晃裁判長は、君野に計画性はなかったとし、「生命軽視の姿勢が強くうかがえるとは言えず、罪は軽減されるべき」と指摘。控訴審でも否認したわいせつ目的誘拐罪を認定したが「殺害はその発覚を恐れた自己保身のためで、一審は動機の身勝手さを過大に評価している」と述べた。

さらに「性的な目的で被害者1人が殺害された場合、同種前科のない被告には死刑が選択されない傾向がある」と説明し「公平の観点から死刑は許容されない」と減刑に踏み切った理由を述べた。検察側は判決を不服として最高裁に上告した。

2019年7月3日、最高裁第1小法廷(山口厚裁判長)は7月1日付で、検察側の上告を棄却する決定をした。

裁判員裁判で審理された一審神戸地裁の死刑判決を破棄し、無期懲役とした二審大阪高裁判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2049年7月頃、82歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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神戸大学院生リンチ殺人事件(佐藤高行)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年3月4日、日本の神戸市西区で発生した殺人事件。法廷で初めて警察の職務怠慢が認定された事件であった。

2002年3月4日の午前3時過ぎ、神戸商船大学大学院に通っていた浦中邦彰さん(当時27歳)が友人を車で県営団地に送った際、山口組系の暴力団「西脇組」内「末原組」組長の佐藤高行(当時38歳)とスナック経営で組長情婦の谷京子(当時35歳)と駐車場のスペースを巡ってトラブルになった。

この県営住宅は200戸あるにもかかわらず駐車スペースが120しかなく、日頃から住民の間で問題視されていた。

最初は口論だったものの、佐藤が手を出し、格闘技経験のある浦中さんが応戦して殴り合いに発展。そこへ2人を止めようとして、浦中さんの友人が仲裁に入った。

浦中さんと佐藤を仲裁しようとした友人ともみ合いとなり、浦中さんが警察へ通報した。しかし浦中さんの携帯電話を谷が取り上げ、さらに谷が形成が振りであったため、末原組に連絡し組員を呼び寄せた。河原典之(当時30歳)、阿部盛靖(当時36歳)、冨谷利幸(当時37歳)の組員が駆けつけ、男性とその友人に殴る蹴るの暴行を加えた。意識がほとんど無くなった浦中さんとその友人を組員らは自分らの車の後部座席に押し込んだ。

警察への通報から16分後に神戸西警察署管轄の井吹台交番の47歳の巡査部長、31歳の巡査、神戸西警察署のパトカーから33歳の巡査部長、29歳の巡査の4名が駆けつけた。さらに通報から20分後に事件現場から一番近い有瀬交番から39歳の巡査部長、27歳の巡査が駆けつけた。浦中さんの友人は意識がもうろうとしたまま血だらけの状態で車から飛び出し、駆けつけた警官らに必死になって助けを求め、友人が車に乗せられているかもしれないと告げた。

しかし警官らは、浦中さんの友人が血だらけであり組長や組員らにも血が付着しているという状態にもかかわらず、組員らの車のナンバーを控えるのみで組長や組員らの身体検査や車を検めず、組長らが後日出頭すると言う言葉を信じ事件は解決したとその場を立ち去ってしまった。

なお警察への通報は他に2件あったものの、警官が仮眠していたという理由から通報から到着が16分、最寄りからは20分掛かったと説明している。また浦中さんは母親と同居であったため、警官が母親に男性が帰宅しているかの確認をし、浦中さんが帰宅していないことが判明したにもかかわらず確認を怠っていた。さらには浦中さんが押し込められた車の窓はスモークガラスでなかったため、目視で車内の確認をすれば浦中さんの姿が分かるにもかかわらずそれも怠っていた。

警官が立ち去った後、組長と組員と32歳組員など計6人が2km離れた空き地に浦中さんを連れ込み、浦中さんの体を縛った上に殴る蹴るの暴行を加えた。失神した浦中さんに水を掛けて意識を戻させさらに暴行を加えるなど拷問のような手口だった。

浦中さんは瀕死の状態で宝光芒川の浅瀬に放置され、翌日3月5日16時20分頃、遺体となって発見された。遺体の肋骨はほとんど折られ、右後頭部が割れクモ膜下出血で意識を失った形跡もあったが、死因は凍死だった。

浦中さんは組長らが立ち去ってから数時間生存していたと見られている。なお、リンチを行った後、37歳の組員が有瀬交番に出頭するも1時間ほどの事情聴取を行っただけで帰してしまった。

浦中さんの遺体発見から4日後の3月9日に組長らが逮捕、3月26日に事件に関与した9人目が逮捕された。
神戸大学院生リンチ殺人事件(佐藤高行)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年3月26日、神戸地検は組長 佐藤に無期懲役、他の組員ら6人に懲役21年を求刑、同年8月5日に組長 佐藤に懲役20年、河原、阿部、冨谷ら組員に10年から14年、谷に懲役3年、執行猶予4年を神戸地裁が言い渡した。

なお、兵庫県警は2002年4月4日に遺族に対し謝罪したが、警察内の処分が減給3ヶ月や訓戒など軽微な処分だったために苦情が殺到、2003年4月17日、遺族が管轄元の兵庫県や組長らを相手に1億4000万円の損害賠償訴訟を起こした。これを受けた兵庫県警は一転して、捜査は適切だったと主張するが、2004年12月22日、神戸地裁が「警察が適切に職務を果たせば男性は死なずに済んだ」と指摘、兵庫県や組長らに合わせて9736万円の賠償金支払いを命じた。兵庫県は不服として最高裁まで上告するが棄却された。

❖出所予定(年齢)
 佐藤高行・・・2034年3月頃、70歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 河原典之・・・2018年3月頃、46歳(出所(具体的懲役不明、最大14年と仮定))
 阿部盛靖・・・2018年3月頃、52歳(出所(具体的懲役不明、最大14年と仮定))
 冨谷利幸・・・2018年3月頃、51歳(出所(具体的懲役不明、最大14年と仮定))
 谷京子・・・無罪放免(懲役3年、執行猶予4年)

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国勢調査員殺害事件(犯人の男(当時25歳)・懲役18年)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1990年(平成2年)実施の第15回国勢調査において、非常勤の国家公務員として働いていた主婦が訪問先で殺害された事件である。

総務庁国勢統計課(当時)によると、1920年(大正9年)に国勢調査が始まって以来、国勢調査員が調査訪問先で殺害された事件は初めてのことであった。これに対して、国勢調査員に対する所管官庁の安全対策が不十分であるとの批判が起こり、その後の国勢調査では、国勢調査員に対してさらなる安全対策が講じられるようになった。

1990年10月8日に、広島県広島市安佐南区で国勢調査員として働いていた被害者(女性 当時36歳)が農道脇の竹やぶで死亡しているのが発見された。当初は外傷も無く滑落による事故死と思われていたが、司法解剖の結果、絞殺であることが判明した。翌日になり犯人の男(当時25歳)が出頭し逮捕された。供述によれば10月7日に男が家で一人でいるところに被害者が訪問したため衝動的に殺害したもので、深夜になり遺体を遺棄したというものであった。
国勢調査員殺害事件(国勢調査)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被告人になった男に対し、広島地裁は1991年4月26日に懲役18年を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2009年4月頃、43歳(出所)

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埼玉愛犬家連続殺人事件(関根元、風間博子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1993年(平成5年)に日本の埼玉県熊谷市周辺で発生した殺人事件。

●ペットショップの経営実態
一連の事件の首謀者は、犬猫販売業者の関根元(逮捕当時53歳)と、彼の元妻である風間博子(当時37歳)の2人である。2人は、埼玉県大里郡江南町(現:熊谷市)板井に在住し、風間がペットショップ「アフリカケンネル」の社長を務めていた。「アフリカケンネル」は、詐欺的な商売を繰り返しており、顧客らとの間でトラブルが絶えなかった。例として「子犬が産まれたら高値で引き取る」とうたい、犬のつがいを法外な価格で販売し、子犬が店に持ち込まれると、難癖を付けて値切るなどというものであった。

関根と風間は、アラスカン・マラミュートのブリーダーとして名が知られていた。しかし、バブル崩壊後の売り上げの減少に加え、豪華な新犬舎兼自宅の建設などにより、借金がかさみ、店の経営に行き詰まっていた。

●第一の事件
行田市に住む産業廃棄物処理会社役員 川崎昭男さん(当時39歳)は、犬を買うために「アフリカケンネル」を訪れたことからSと知り合い、親交を深めるようになっていった。当時、兄が経営する会社が傾いていたことから、新商売を模索していた川崎さんは、関根が勧める犬の繁殖ビジネスを手掛けることになり、「アフリカケンネル」からローデシアン・リッジバックのつがいを計1100万円で購入、うちメス犬を入手した。ところが、知人から犬の相場が数十万円であることや、高齢で繁殖に適さないことを知らされ、関根に騙されたことに気づいた。また、メス犬が逃げ出し、繁殖が不可能になったことから、残るオス犬のキャンセルと代金の返還を求め、トラブルとなった。当時、「アフリカケンネル」は金銭的に窮しており、関根と風間は川崎さんに金は返せないと判断し、謀議の上、川崎さん殺害を決意した。

1993年4月20日夕方、「金を返す」と言って熊谷市内のガレージに呼び出した川崎さんと、大型ワゴン車内で談笑中に、関根が硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽って飲ませ、殺害した。その後、ガレージに戻った同社役員 志麻永幸(当時38歳)に対し、関根は遺体を見せつけた上、「お前もこうなりたいか?」「子どもは元気か? 元気が何より」などと、志麻やその家族に危害を加えることを示唆して脅し、片品村の志麻方に遺体を運び込ませた。関根はそのまま遺体の解体作業に取り掛かる一方、志麻に対しては、ガレージに残された川崎さんの車を、都内に運ぶよう指示した。

志麻は熊谷に戻った後、関根と合流して2台の車で東京へ向かい、川崎さんの車を東京駅の八重洲地下駐車場に放置、川崎さんが自ら失踪したかのように偽装した。この偽装工作の最中、風間は志麻に対し「うまくいったの?」「あんたさえ黙っていれば大丈夫」などと言い、事情を全て知っているような素振りであった。

熊谷で風間と別れた後、再び志麻が片品に戻ると、既に川崎さんの遺体は解体されており、原型をとどめていなかった。21日早朝、関根の指示で骨や所持品をドラム缶で焼却。肉片などを川場村の薄根川に、焼いた骨灰や所持品を片品村の国有林に遺棄した。

一般に、一連の事件の動機は「犬の売買をめぐるトラブル」と言われるが、それが直接の動機になったのはこの川崎さんの事件だけである。

●第二の事件
江南町に住む稲川会系暴力団の組長代行 遠藤安亘(当時51歳)は、関根と親交を有し、「アフリカケンネル」で顧客とトラブルが発生した際に仲裁役を務めるなど、関根の用心棒的な存在であった。川崎さんの失踪後、関根に疑惑を向けた川崎さんの家族との会議に同席した際に、関根が川崎さんを殺害したのではないかと察知し、関根に多額の金銭などを要求するようになった。やがて、新犬舎の土地建物の登記済証を要求された関根と風間は、このままでは全財産を取られてしまうと危惧し、遠藤を殺害することを決意した。その際、遠藤と常に行動を共にしている運転手の和久井奨(当時21歳)も、口封じのために殺害しなければならないとの結論に達した。

1993年7月21日夜、関根と風間は志麻の運転する車で遠藤方を訪れた。関根と風間が遠藤方に上がり、志麻は遠藤方前に停めた車の中で待機していた。遠藤方内では、関根と風間が遠藤の要求に応じる振りをし、登記済証を遠藤に渡して油断させた上、硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽って遠藤と和久井に飲ませた。遠藤は間もなく倒れたが、和久井はしばらく薬効が現れなかったので、関根らは時間稼ぎのために「救急車を呼ぶ」と言って、和久井を誘導のために表通りに走らせた。その後、関根と風間はYの車に乗り込み、さらに表通りにいた和久井を乗せ、「遠藤が女を呼んでいる」と言って志麻に車を出させた。江南町内の荒川堤防沿いの人けのない道路を走行中、突然助手席の和久井が苦しみだし、フロントガラスにひびが入るほど激しく苦悶した後、絶命した。

遠藤方に戻って遠藤の遺体を車に積んだ後、3人は2台の車に分乗し、片品村の志麻方へ向かった。志麻方に運び込まれた遺体は、風呂場で遠藤、和久井の順に解体された。関根と風間が共同で解体し、志麻は包丁を研ぐなどして協力した。関根は志麻に解体作業を見せつけて脅し、また、風間は演歌を鼻歌交じりに歌いながら解体していたという。22日早朝、解体が終わると、風間は熊谷へ戻り、関根と志麻が骨や所持品の焼却に取り掛かった。肉片や骨灰などは、川場村の薄根川、片品村の塗川や片品川に遺棄した。
埼玉愛犬家連続殺人事件(人間の内面と筋肉, 筋肉組織の写真背景画像素材)

●第三の事件
行田市に住む主婦 関口光江さん(当時54歳)は、次男が「アフリカケンネル」で働くようになったことから関根と知り合い、親密な関係になった。しかし、新犬舎の建設や、稲川会系暴力団の組長代行 遠藤安亘(当時51歳)の強請などにより、「アフリカケンネル」が経営難に陥っていたことから、関根は自分に信頼を寄せる関口さんに「アフリカケンネル」の株主になるよう持ちかけ、出資金を詐取することを画策した。だが、いずれ株主話の嘘は露見し、そうなれば出資金ばかりでなく、過去に販売した犬の代金(アラスカン・マラミュート6匹、計900万円)の返還をも求められかねないことから、金を詐取した後で関口さんを殺害することを決意した。また、関口さんとの交際を煩わしく思うようになっていたことも、動機の一つとされる。

1993年8月26日午後、関根は行田市内で関口さんを車に乗せ、出資金の名目で、当時の関口家のほぼ全財産である270万円を詐取した後、硝酸ストリキニーネ入りカプセルを服用させ殺害した。関口さんは最後まで関根を信じていたという。関根から(川崎さん事件と同じ熊谷市の)ガレージに呼び出された志麻は、後から車で現れた関根にまたしても遺体を見せつけられ、迫られて遺体を片品村の自宅に運搬した。関根は川崎さんらと同様に関口さんを解体したが、志麻の著書によれば、その際、関根は屍姦を行ったという。解体後は骨や所持品を焼却。27日未明、全て同村の塗川に遺棄した。

この事件では、全面自供した志麻には関口さんと面識がなく、遺体となった際に関口さんと初めて対面した。そのため、志麻が被害者と面識があり、殺害の直前・直後に現場に居合わせた川崎さん事件、遠藤・関口さん事件と比較すると、立証が難しかった。また、風間が関与していた疑いは強いものの、志麻の目撃証言などからは立証できず、関根の単独犯行とされた。

●遺体なき殺人
一連の事件で特筆されるのは、関根が「ボディを透明にする」と呼んだ残虐な遺体の処理方法である。被害者4人の遺体は志麻方の風呂場で解体された。骨・皮・肉・内臓に分けられた上、肉などは数センチ四方に切断。骨はドラム缶で衣服や所持品と共に、灰になるまで焼却され、それらは全て山林や川に遺棄された。関根は、遺体を埋めても骨は残ることから、焼却してしまうことを考案。しかし、遺体をそのまま焼くと異臭が発生するため、解体して骨のみを焼却したという。燃え残りが出ないよう、1本ずつじっくり焼く念の入りようであった。

このことについて志麻は、関根が『面白い・楽しい』と語っていたと供述している。
埼玉愛犬家連続殺人事件(風呂場)
1994年1月、大阪愛犬家連続殺人事件の被疑者を逮捕。本事件とは無関係であるが、埼玉でも同様に愛犬家が失踪しているとの噂が流れ始めた。2月からはマスコミが取り上げるようになり、事件が表面化。関根が身の潔白を主張する一方、行方不明となった犠牲者の家族は事件性を訴え続けた。同年12月、志麻の証言を基に被害者の遺骨や遺留品を発見。1995年1月5日、関根と風間は逮捕された。
埼玉愛犬家連続殺人事件(関根元)
埼玉愛犬家連続殺人事件(風間博子2)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 物的証拠が極めて乏しい事件である上、関根・風間元夫婦が互いに罪をなすり付け合い、関根・風間・検察が三者三様の主張をした結果、公判は長期化した。また、捜査段階で全面自供し、事件解明に協力した志麻が、検察との密約を供述した上、関根・風間の公判で証言拒否の態度を示すなど、波瀾の展開となった。

1995年12月15日、志麻に懲役3年の実刑判決。Yが従属的な立場であったことは認められたものの、暴力や監視を受けていたわけではなく、口頭で脅されていたに過ぎず、警察に駆け込むなどの手段があり、期待可能性はあったとした。脅されたにせよ、自らの意思で犯行に及んだと認定。一連の事件での役割の重要性、結果の重大性を踏まえ、実刑判決となった。志麻は控訴したが、1996年6月7日、東京高裁が控訴を棄却。上告せず懲役3年が確定した。

志麻は懲役3年の実刑判決が確定し、服役。1998年8月28日に満期出所している。

2003年12月5日、東京高裁で控訴審初公判が開かれ、関根・風間の弁護側は一審判決の事実誤認を主張した。控訴審でも出所後の志麻が証人出廷したが、検察や弁護人への批判、裁判制度への疑問を呈したほかは、曖昧な証言に終始した。また、志麻は以前から風間の無罪を証言しているが、その具体的根拠は述べていない。2005年2月14日、控訴審第16回公判では、風間が遠藤・関根さん事件の死体損壊について、一部関与を初めて認めた。同年7月11日、東京高裁は元夫婦の控訴を棄却する判決を宣告した。両名とも上告したが、2009年6月5日、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は上告を棄却する判決を宣告。同月22日付で両被告人の判決訂正申立を棄却する決定がなされたことにより、2人とも死刑が確定した。

2016年11月、関根死刑囚が拘置所内で心臓発作を起こし、外部の病院に救急搬送された。その後、拘置所内で治療を受けていたが2017年3月27日、収容先の東京拘置所で死亡。享年75歳。

❖出所予定(年齢)
 関根元・・・死刑判決(死亡(病没))
 風間博子・・・死刑判決(未執行)
 志麻永幸・・・1998年8月、43歳(出所)

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埼玉県警察浦和警察署警察官による資産家強盗殺人事件(中野翔太)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2015年(平成27年)9月3日に埼玉県・朝霞市で発生した強盗殺人事件である。犯人が埼玉県警察の警察官 巡査部長 中野翔太(当時31歳)だったため、世間に大きな衝撃を与えた。

2015年(平成27年)9月4日、朝霞市根岸台の民家からの119番通報が入った。救急隊が到着したところ、1階居間で背もたれを倒した座椅子の上で、あおむけに横たわった寺尾俊治さん(当時58歳)を確認し死亡が判明した。第1発見者は、連絡がつかないことを不審に思い、訪問した寺尾さんの弟だった。

司法解剖の結果、死因は頸部圧迫による窒息死。体内からはエタノールが検出され、抵抗した形跡はなかった。また、1階の耐火金庫にあった筈の現金100万円も無くなっており、臨場した捜査員は「誰がどう見ても殺人事件」と思う現場だった。

殺人事件と断定した埼玉県警察は、朝霞警察署に捜査本部を設置。捜査本部は現場検証で、被疑者とみられる男の遺留物の採取に成功。また寺尾さん宅のインターホンには、留守かどうかを確認するためか、前日の3日にチャイムを複数回押す男の姿の画像が残されていた。その後「3日に寺尾さん方そばの月極駐車場に、1台の乗用車が止まっていた」という目撃情報が寄せられた。

インターホンの画像を調査したところ、浦和警察署地域課に勤務する中野巡査部長に酷似していた。また、目撃情報から割り出した乗用車の所有者は、中野の親族の自動車だった。捜査本部は、浦和署で勤務中だった中野を任意同行させ事情聴取を開始。最終的にDNAも任意で採取し、現場で遺留してたた物と一致したため、捜査本部は中野を殺人容疑で逮捕した。事件当日の9月3日、中野は宿直明けの非番で、4日以降は8月末に予め申請済みだった夏休みを取っていた。
埼玉県警察浦和警察署警察官による資産家強盗殺人事件(中野翔太)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2018年10月3日、埼玉県朝霞市の無職、寺尾俊治さん(当時58歳)が2015年(平成27年)9月、自宅で殺害された事件で、強盗殺人などの罪に問われた元県警浦和署巡査部長(懲戒免職)、中野翔太被告(34歳)について、最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)は、被告側の上告を棄却する決定をした。

❖出所予定(年齢)
 2048年10月頃、64歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(渡辺剛)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2013年1月28日に埼玉県久喜市で2012年12月末より行方不明であったスイス在住の51歳投資ファンドマネージャーの資産家の霜見誠さん(当時51歳)と妻の美重さん(当時48歳)の死体が見つかった事件。

この夫婦は2012年11月に日本へ帰国、会社の同僚に栃木県日光市で行われるパーティーに参加すると伝え、12月7日に東京都中央区銀座のマンションを出たのを最後に連絡が途絶えた。このパーティーには福山雅治も参加するとされていたが、実際にはパーティーすら実施されておらず、夫婦は嘘の話で誘い出された。

夫婦は、東京・銀座のマンションを出て主犯格の渡辺剛(当時43歳)の用意したワゴン車に乗り込んだ。そして車の中で用意されていた睡眠薬入りのシャンパンを飲み、眠ってしまう。渡辺は2人の首をロープで絞めて殺害。クレジットカード入りの財布など計8点、29万円相当を奪った。

埼玉県久喜市佐間の元農地に設置された囲いの中で、深さ約2mの穴に誠さんと美重さんの2人が埋められていた。誠さんにはビニールに入れられた粘土のようなもので殴られた痕があった。2人の遺体には首を絞められた痕があり、架空のパーティーに車で誘い出された後殺害され、同地に遺棄されたものと思われる。

死因は首を絞められたことによる窒息死であった。

渡辺は、誠さんと美重さんが遺棄された土地を犯行の前月に130~200万円で購入、重機を使用して男数人で穴を掘り、青いビニールシートで穴を覆っていた。渡辺は自己が所有する黒のワゴンタイプの外車(アメ車)で被害夫婦を連れ出し、犯行後遺棄現場に車を放置していた。

2014年1月29日に死体遺棄容疑で逮捕された無職・桑原隆明(当時41歳)とともに、沖縄県宮古島市に逃走していた渡辺剛(当時43歳)が潜伏先の宮古島で洗剤を飲んで自殺を図り、同市内の病院に搬送されたが生命に別条はなかった。
埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(霜見誠さんと美重さん)
埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(構図2)
埼玉資産家夫婦死体遺棄事件(死体遺棄場所2)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2014年9月19日、東京地方裁判所の田辺三保子裁判長は、渡辺に対し、強盗殺人罪を適用して、死刑を言い渡した。2018年12月21日、最高裁判所第2小法廷の鬼丸かおる裁判長は、元会社役員の渡辺の上告を棄却、死刑が確定した。2023年現在、東京拘置所に収監されている。

元部下・桑原は、殺害に関与した事実はないとされ、詐欺未遂罪のみでの起訴となった。
詐欺未遂罪に問われた無職・桑原隆明(当時41歳)に東京地裁は2013年8月9日、懲役2年、執行猶予4年(求刑懲役2年)の判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 渡辺剛・・・死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)
 桑原隆明・・・無罪放免(懲役2年、執行猶予4年)

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堺市通り魔事件(北口誠)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1998年(平成10年)1月8日に大阪府堺市で起こった殺人事件である。

1998年(平成10年)1月8日8時50分ごろ、大阪府堺市宮下町および堺市津久野町3丁の路上で上半身裸になった無職 北口誠(当時19歳)が、登校中だった女子高校1年生 脚ノあいさん(当時15歳)の服をつかみ、背中など4か所を所持していた包丁で刺した。男は逃亡する女子高生を追いかけ、現場から約100m離れた路上で幼稚園の送迎バスを待っていた女児 大国加奈ちゃん(当時5歳)と母親の佳美さん(当時36歳)背中を刺した。女児は死亡、女子高生と母親は重傷を負った。大阪府西堺警察署は、現場近くの空き地にいた男を、殺人未遂容疑で緊急逮捕した。

男はシンナー中毒であり、事件当日も吸引して幻覚状態に陥っていた。1997年(平成9年)11月には、家の中で暴れて、家族の申し出で西堺署が保護したことがあった。
堺市通り魔事件(大国加奈)
堺市通り魔事件(北口誠)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 男はシンナーによる幻覚状態であったとして、刑事裁判では心神喪失を理由に無罪を主張したが、2000年(平成12年)2月24日、大阪地方裁判所堺支部は、犯行当時の精神状態を心神耗弱と判断し、懲役18年(求刑無期懲役)を言い渡した。加害少年は心神喪失を主張し、控訴・上告したが、いずれも棄却された。2002年(平成14年)2月14日、加害少年に懲役18年の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2020年2月頃、40歳(出所)

❖新潮社による実名報道
 1998年(平成10年)2月18日発売の、新潮社の月刊誌『新潮45』3月号は、ノンフィクション作家の高山文彦による全16頁に及ぶ「『幼稚園児』虐待犯人の起臥」のルポルタージュを掲載した。その中で、少年の生い立ちから犯行に至る経緯、家族関係に加え、中学校卒業時の顔写真並びに実名を掲載した。さらに記事の後には、実名報道と顔写真を掲載した、新潮45編集部の見解も記した。

少年の弁護団は「重大な人権侵害行為」であり、販売中止と回収を求める抗議声明を出した。東日本キヨスク、西日本キヨスク、一部書店では少年法に違反する、として販売を中止した。

4月30日、少年と弁護団は、少年法61条に抵触した記事で名誉を傷つけられたとして、新潮45の編集長と記事を書いた高山文彦を、名誉毀損の疑いで告訴状を大阪地方検察庁に提出した。また同日、2名と新潮社を相手取り、2,200万円の侵害賠償などを求めて大阪地方裁判所に提訴した。少年法61条違反をめぐる告訴・提訴は、日本で初めてとなった。

1999年(平成11年)6月9日、損害賠償訴訟について大阪地方裁判所は、実名を報道した新潮45の記事が少年法に違反し、記事に公益性がないと指摘。さらに新潮社の写真週刊誌『FOCUS』が神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年の顔写真を掲載するなど、過去に法務局から再発防止の勧告を受けていたケースを挙げて実名報道したのは悪質であると判断。慰謝料に200万円、弁護士費用に50万円を算定し、計250万円の支払いを命じた。謝罪広告掲載の請求は棄却した。

2000年(平成12年)2月29日、大阪高等裁判所は少年法61条について、罰則を規定していないことなどから、表現の自由に優先するものではなく、社会の自主規制に委ねたものであり、表現が社会の正当な関心事で不当でなければ、プライバシーの侵害に当たらない、と条件付きながら実名報道を容認する判断を示した。そして今回の記事について違法性はなく、少年の権利侵害には当たらない、そして男性の更生の妨げになることを男性側は立証していないとして、賠償を命じた一審・大阪地裁判決を破棄し、男側の訴えを棄却した。加害者が未成年であっても、場合によっては実名報道出来る初めての判決となった。

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堺市連続強盗殺人事件(西口宗宏)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年(平成23年)11月から翌12月にかけて大阪府堺市で発生した連続殺人事件。

2011年11月15日、大阪府堺市南区に住む歯科医師の妻・田村武子さん(当時67歳)が買い物帰りに失踪し、翌日ATMで主婦の口座から現金が引き出された。12月1日、同市北区の象印マホービン元副社長の尾崎宗秀さん(当時84歳)の自宅で尾崎さんが結束バンドで拘束され顔に食品用ラップが巻かれた状態で発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。自宅からは所有マンションから集金した家賃計74万円が無くなっていた。

12月6日、主婦の口座から現金を引き出した容疑で同市に住む西口宗宏(当時50歳)を窃盗罪で逮捕した。取り調べで西口は2人を殺害し、主婦の遺体を焼却して河内長野市の山中に遺棄し、それぞれ現金を奪ったことを認めたため、大阪府警察は翌2012年2月14日に西口を強盗殺人罪、死体遺棄・損壊罪で起訴した。3月15日には尾崎さんに対する強盗殺人罪でも起訴された。
堺市連続強盗殺人事件(西口宗宏)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2019年2月12日、最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して被告人西口とその弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人西口の死刑が確定することとなった。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(大阪拘置所収監中、死刑未執行)

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佐賀入院患者射殺事件(今田文雄)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)11月8日に佐賀県武雄市で、整形外科病院に入院中の男性が暴力団組員に射殺された事件。一般市民が暴力団抗争に巻き込まれ、人違いで殺害された。武雄入院患者射殺事件、武雄事件とも呼ばれる。

2007年11月8日7時40分ごろ、佐賀県武雄市の整形外科病院の2階個室に入院していた板金業の宮元洋さん(当時34歳)が、指定暴力団道仁会(福岡県久留米市)系の組員の今田文雄(当時61歳)に拳銃で撃たれ、間もなく死亡した。その後、組員の男は白いセダンで逃走した。

宮本さんは、10月上旬にラグビーの試合でアキレス腱を断裂し、入院していた。その後は順調に回復し、退院を目前にしていた。

11月25日、今田が福岡県大野城市で回転式拳銃を所持していたとして銃刀法違反の疑いで佐賀県警察に逮捕された。事前に佐賀県警が犯行への関与を特定し、22日に逮捕状を取って行方を探している最中だった。車から降りた今田を自動車警ら隊員が職務質問をして揉み合い後、そこで回転式拳銃を取り出し上空に向けて1発撃った所で取り押さえられ逮捕された。今田は、女(当時44歳、後に共犯として逮捕)と共に事件を計画したが、誤情報により、被害者の病室に以前入院していた九州誠道会関係者と間違えて射殺したこと、同年8月には福岡県福岡市路上で起きた3代目道仁会会長殺害に対しての報復として実行したことを自供している。
佐賀入院患者射殺事件(今田文雄)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)も2010年(平成22年)3月8日付で上告を棄却する決定を出したため、無期懲役が確定した。2014年(平成26年)8月13日、今田文雄は大阪医療刑務所で病死した(享年67歳)。

❖出所予定(年齢)
 死亡(病没)

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相模原障害者施設殺傷事件(植松聖)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2016年(平成28年)7月26日未明に神奈川県相模原市緑区で発生した大量殺人事件。

神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員であった植松聖(うえまつ さとし、事件当時26歳)が、同施設に刃物を所持して侵入し入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。殺人などの罪で逮捕・起訴された加害者・植松は、2020年(令和2年)3月に横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を言い渡され、自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した。

殺害人数19人は、当事件が発生した時点で第二次世界大戦(太平洋戦争)後の日本で発生した殺人事件としては最も多く、事件発生当時は戦後最悪の大量殺人事件として日本社会に衝撃を与えた。相模原殺傷事件、相模原障害者殺人事件、相模原障がい者施設殺傷事件 、津久井やまゆり園事件などとも呼ばれる。

2016年7月26日午前2時38分、相模原市緑区千木良の知的障害者施設「神奈川県立津久井やまゆり園」から神奈川県警察・相模原市消防局にそれぞれ「刃物を持った男が暴れている」との通報があった。事件に気づいた施設の当直職員が、非番の男性職員にLINEを使って「すぐ来て。やばい」と連絡を取り、連絡を受けた男性職員が電話で確認のうえ警察に通報した。現場に駆けつけた医師が19人の死亡を確認し、重傷の20人を含む負傷者26人が6か所の医療機関に搬送された。

死亡したのは、いずれも同施設の入所者の男性9人(年齢はいずれも当時41歳 - 67歳)、女性10人(同19歳 - 70歳)である。死因は19歳女性が腹部を刺されたことによる脾動脈損傷に基づく腹腔内出血、40歳女性が背中から両肺を刺されたことによる血気胸、残り17人が失血死とされ、遺体の多くは居室のベッドの上で見つかっていたことから、植松が寝ていた入所者の上半身を次々と刺したとみられる。

また、負傷したのは施設職員男女各1人を含む男性21人、女性5人で、うち13人は重傷を負った。入所者24人の負傷内容は全治約9日 - 約6か月間の胸への切り傷や両手の甲への打撲などとされる。被害者の名前について、神奈川県警は同26日、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしている。

これについて「日本では、すべての命はその存在だけで価値があるという考え方が当たり前ではなく、優生思想が根強いため」と説明する被害者家族、本人が生きた証として名を公表する遺族、匿名であるため安否が分からず自分なら公表してほしいとする入所者の友人、根底に障害者差別があるとするなど様々な意見がある。

午前3時すぎ、現場所轄の津久井警察署に加害者の男、植松聖(犯行当時26歳、元施設職員)が「私がやりました」と出頭し、午前4時半前、死亡した19歳の女性入所者に対する殺人未遂・建造物侵入の各容疑で緊急逮捕された。

犯人の植松聖。
相模原障害者施設殺傷事件(植松聖)
事件のあった「神奈川県立津久井やまゆり園」。事件の後に新しく建て替えられた。
相模原障害者施設殺傷事件(旧・神奈川県立津久井やまゆり園)
亡くなられた19人の方々。ご冥福をお祈り申し上げます。
相模原障害者施設殺傷事件(亡くなった19人の方々)
新しく建て替えられた「神奈川県立津久井やまゆり園」。
相模原障害者施設殺傷事件(新・神奈川県立津久井やまゆり園)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 判決公判は2020年3月16日に開かれ、横浜地裁(青沼潔裁判長)は被告人(植松聖)の完全責任能力を認定した上で、求刑通り植松に死刑判決を言い渡した。植松は閉廷宣言直後に挙手して裁判長に発言機会を求めたが認められず、閉廷後に『神奈川新聞』記者との接見で「『世界平和のためにマリファナが必要』と伝えたかった」「重度障害者の家族は病んでいる。『幸せだった』という被害者遺族は不幸に慣れているだけだ」などと発言した。

また「死刑に値する罪とは思わないが控訴はしない。弁護人が控訴しても自分で取り下げる」と意思表明していたが、弁護人は2020年3月27日付で判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。しかし植松自身が控訴期限となる2020年3月30日付で東京高裁への控訴を取り下げる手続きを行い、横浜地検も控訴しなかったため、控訴期限を過ぎる2020年3月31日0時(日本標準時)をもって死刑が確定した。

一方、植松の弁護人は2020年4月2日付で控訴取り下げの無効を求める書面を横浜地裁に提出した。しかし、この異議申し立てについては東京高裁から2022年(令和4年)5月および9月に棄却決定(控訴取り下げは有効と判断する決定)が出され、同年12月12日付で最高裁第三小法廷(長嶺安政裁判長)が弁護側の特別抗告を棄却する決定を出したため、高裁決定が確定している。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)

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佐世保小6女児同級生殺害事件(辻菜摘)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)6月1日、長崎県佐世保市立大久保小学校で発生した殺人事件である。

2004年6月1日正午過ぎ、長崎県佐世保市立大久保小学校において小学6年生の御手洗怜美さん(当時12歳)が同級生の辻菜摘(当時11歳)にカッターナイフで切り付けられて死亡した。

事件を発見した担任は止血を試み、教頭は119番通報をした。駆けつけた救急隊員が教師に対し現場状況について尋ねたところ、教師が現場付近にいた辻を連れてきた。隊員が御手洗さんがなぜ怪我をしているのか尋ねると、「私がカッターで切りました」と答えたため、警察は辻を佐世保警察署に移動させ事情聴取を行った。
佐世保小6女児同級生殺害事件(御手洗怜美さん)
佐世保小6女児同級生殺害事件(辻菜摘)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年6月8日、長崎家庭裁判所佐世保支部が少年審判を開くことを決定。14日に精神鑑定留置を認め、8月14日までの61日間鑑定留置された。

9月15日、長崎家庭裁判所佐世保支部で最後の少年審判が開かれ、加害者を児童自立支援施設送致とし、2004年9月15日から向こう2年間の強制的措置を取れる保護処分を決定した。

❖出所予定(年齢)
 2006年9月頃、14歳、すでに退院(児童自立支援施設にて2年の保護処分)

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佐世保女子高生殺害事件(徳勝もなみ)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年(平成26年)7月26日、長崎県佐世保市で発生した殺人事件である。

2014年(平成26年)7月26日の夜、長崎県佐世保市島瀬町のマンションで友人の家に遊びに出かけた女子高校生  松尾愛和さん(当時15歳)が殺害された。

松尾さんは以前から徳勝もなみ(当時15歳)に「会いたい」と誘われており、26日午後3時頃、家族に友人と遊ぶと伝えて徳勝の家(マンション)へ遊びに出かけた。2人は佐世保市内の繁華街で買い物を楽しんだ後、徳勝のマンションに戻った。

午後6時40分頃、松尾さんの母親宛に「7時ごろに帰る」とメールが届いたがその後帰ってこなかった。そのため数日前に遊びに行くと聞いていた両親は徳勝に電話をした。これに対して徳勝は「午後6時半くらいに別れた」と答えている。その後両親は午後11時頃に捜索願を提出した。

午後8時ごろ、松尾さんの後頭部を工具で複数回殴り、リードで首を絞めるなどして殺害した(徳勝が供述)。被害者の死因は頸部圧迫による窒息死であった。

27日午前3時20分ごろ、行方を探していた警察官が徳勝のベッドで仰向けに寝かされて死亡している松尾さんを発見した。マンションの入口付近にいた徳勝は当初は松尾さんについて「知らない」と答えていたが、その後、殺害を自供したため緊急逮捕された。

遺体は、仰向けの状態で頭と左手首が切断されており、胴体部分に刃物で切ったとみられる複数の傷と腹部が大きく切り開かれていた。

徳勝は「体の中を見たかった」「人を殺して解体してみたかった」などと供述しているが、2人の間の具体的なトラブルなどは確認できなかったとしている。そのため長崎県警察は7月29日午前に「2人の間にトラブルがあったとみられる」と公表していたが、同日午後には「間違いだった」と訂正している。取り調べに「殴ってから首を絞めた。すべて私が1人でやりました。誰でも良かった。」と犯行を認めるものの、受け答えは淡々と様子で応じていた。

10月5日、徳勝の父親が自宅で首を吊った状態で死亡しているのが発見された。発見したのは父親の知人で、遺書はなく、自殺とみられる。
佐世保女子高生殺害事件(徳勝もなみと父親)
佐世保女子高生殺害事件(松尾愛和さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2015年(平成27年)7月13日、長崎家庭裁判所は徳勝に対し、医療少年院(第3種少年院)送致とする保護処分の決定を出した。平井健一郎裁判長は「ASD(自閉症スペクトラム障害)が見られるものの、それが非行に直結したわけではなく、環境的要因の影響もあった」との趣旨のことを述べた。

❖出所予定(年齢)
 不明(2024年説があるが真偽不明)(第3種少年院にて保護処分中)

◆第3種少年院とは
 保護処分の執行を受ける者であって、心身に著しい障害がある、おおむね12歳以上26歳未満の者が対象です。改正前の医療少年院に相当します。

◆小さい頃からサイコパスの片鱗を見せる

 小学6年生時の2010年頃には、同級生の給食に薄めた洗剤や漂白剤、ベンジンを混入するいたずらをくり返すなどの問題を起こしていた。中学生の頃から医学書を読んだり動物の解剖に熱中しており、その頃から猫を解体したりしていた。

2013年(平成25年)10月に実母がガンで亡くなっている。以降は、不登校が続いていた。

2014年(平成26年)3月に寝ていた父親を金属バットで殴打した事から、精神科に通院している。医師から「同じ家で寝ていると命の危険がある」と助言された父親は、事件現場となるマンションにて4月から加害者に一人暮らしをさせていた。高校でも不登校が続き、1学期のわずか3日のみ出席していた。

5月、父親が再婚する。幼馴染によると、加害者は「(父と継母とは)一緒に住みたくない」と言っていたという。

7月23日、加害者は継母との会話の中で、猫を殺して楽しいことや「人を殺したい」などとする願望を打ち明けていた。そのため診療で殺人願望を医師に伝えていだが「今日は時間がない」としてその日の診療を終わっている。後に書面上で父親が医師に切迫感がないと指摘している。(ただし、弁護士は「あくまで父親本人が書いていることだ」として病院側は確認していないとしている。)

事件前日の25日に両親が病院と入院の協議をしたが、病院からは「入院は施設の事情で即日の入院ができない」「個室はあるがその一つを独占することになる」と言われ実現しなかった。

事件の20日前には警察への相談を打診したが事件前日の話し合いで見送り、児童相談所に連絡を取ることで意見がまとまった。その日に児童相談窓口のある『佐世保こども・女性・障害者支援センター』に電話相談したものの、勤務時間外であり担当者が不在だったため、職員から「今日はサマータイムで終わった。月曜日(28日)にしてくれ」と断られていた。

その翌日26日に事件が起こる。
佐世保女子高生殺害事件(徳勝もなみ)

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札幌光星学園神父刺殺事件(中村勝彦修道士)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年3月7日、当時のカトリック教会マリア会の日本管区長であった神父 吉村新一郎さん(当時60歳)は、年度末巡礼で札幌光星学園を訪れていた。その時に札幌光星学園の修道院の前で、この訪れていた吉村神父が腹から血を流して倒れているところが発見される。修道院には部外者は入れないため、これは内部の者による犯行ではないかと思われ関係者を集めたところ、札幌光星学園の修道士 中村勝彦(当時63歳)の姿が無かった。この中村修道士は吉村神父を刺殺した後、修道院の自室で内側から鍵を掛けて、包丁で腹を刺して自殺していた。

犯行の2時間前に吉村神父と中村修道士が図書館で話しをしていた。この様子はかなり剣呑(けんのん、危険を感じている様子や不安を感じている様子)であった。自殺をした中村修道士の部屋にはメモが残されていた。これには人事異動に対する不満と、吉村神父を許せないことと、自身はしてはならないことをしてしまったことが書かれていた。自殺した中村修道士は元々は刺殺された吉村神父よりも上の立場にいる人間であった。だが1990年に刺殺された吉村神父は日本管区長に選出されたことから立場は逆転していた。刺殺された吉村神父は自殺した中村修道士に東京の修道院への異動を強く迫っていた。

自殺した中村修道士の救急車での最後の言葉は「札幌が好きだった」であった。

後日、中村修道士と吉村神父の救いを祈るレクイエムのミサが札幌光星学園の聖堂で催され、暁星学園卒業の教え子も参加した。
札幌光星学園神父刺殺事件(吉村新一郎神父と中村勝彦修道士)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 死亡(自殺)

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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札幌准看護婦殺人事件(50代男性患者)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年12月21日深夜に北海道札幌市の精神病院で、50代男性患者が病院を抜け出そうとして、シーツで破った帯状の布で准看護婦の両手足を縛り、口と鼻を布などでふさぎ、首を絞めて窒息死させる事件が発生した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 検察官は被疑者が犯行当時心神喪失状態だったとして不起訴処分とした。

不起訴処分に対し、被害者の遺族が審査申し立てを行った。札幌検察審査会は法律上は被害者の遺族に申立権はないとして申立は却下する一方で、職権により審査を開始した。被疑者の男性は1993年1月21日に、脱院時に詰所の電話線を切断したり、自分の布団にヤカン等を入れて寝ているように見せかけたり、脱院後に立ち寄ったコンビニで購入したビール等の代金を友人から借りて支払ったりしていた。このことから、心神喪失状態であったと断定するのは大いに疑問があるとして、1993年1月21日に不起訴不当の議決をした。

この議決を受け、検察官は再捜査の結果、被疑者の男性を起訴した。弁護士側は責任能力はなく殺意はなかったと主張したが、1995年3月22日に札幌地裁は「帯状の布を被害者の鼻に巻き付け、絞殺時にも手加減を加えていないこと等から殺意は推認できる」「著しい精神障害はなく、善悪を判断することができた」として被告人の殺意と責任能力を認めた上で、懲役10年の判決を言い渡した。被告人は控訴して殺意の有無が争点になるも、1995年10月26日に札幌高裁は殺意を認定して控訴を棄却して刑が確定した。

懲役10年は検察審査会が議決した後で検察官が起訴した事件の中で最も刑が重いものである。

❖出所予定(年齢)
 2005年10月頃、60代?(出所)

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札幌両親強盗殺人事件(安川奈智)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年11月22日に北海道札幌市北区で発生した強盗殺人事件。実の娘が男と共謀して両親を殺害した事件である。

犯人の男 安川奈智(当時24歳)と池田真弓(当時19歳)は、1991年の5月下旬頃に知り合った。イベントコンパニオンのオーディションに池田が応募したのだが、その時の面接を担当したのが安川だった。

池田は採用となったが、仕事が始まる前に札幌市中央区の安川の自宅(兼事務所)を訪れた。その際、睡眠薬を飲まされ、眠っている間に強姦される。本来ならこれは犯罪で大騒ぎとなるところだが、このことをきっかけに2人は交際を始めた。

当時の池田には高校時代からの恋人がいて、彼女はこの男性の子を妊娠していた。ところが安川との交際から2か月後の7月、真弓は堕胎している。

その後8月から安川の部屋で同棲を始める。安川はイベント会社社長、池田は大学1年生であった。ほどなくして安川の会社経営は行きづまり、当面の生活費にも困るようになる。安川はほとんど仕事をせず、池田のホステスとしての収入で生活していたという。

後に法廷で、「安川と知り合わなければ、このようなことにならなかった」と真弓は語った。結果から見ればまったくその通りだが、2人は惹かれ合っていった。

2人でいるときは、どこに出かけるでもなく、1日に5、6回も、安川は真弓の体を求めた。安川は、尋常でない性癖の持ち主だった。

真弓を縛り、ガムテープで口を塞ぎ、性器に、ナスビやキュウリ、カラオケのマイクさえも入れる。一晩中、SMの道具で吊して弄んだり、自分の尿を真弓に飲ませることもあった。

アザができるほど殴られることもしばしばあり、"なぜ離れなかったのか?"と疑問に思うが、真弓は当時の心境を法廷で語っている。

「私は両親がいくら心配していようと、奈智さんと生活できればよかった。別れることなんてできないし、あの人を手伝わなければならない。そう思うようになっていた」

その後、池田の父親 池田勝明さん(当時45歳)と母親 泰子さん(当時45歳)に二人の居所を突き止められたため、強盗目的に加え邪魔な存在を消すため、安川は池田真弓に両親の殺害を提案。池田もこれに同意し、11月22日未明 池田さん宅に侵入し、勝明さんと泰子さんを包丁で刺すなどし殺害。

1992年1月6日まで(裁判では1991年12月17日までと認定された)に保険金を解約したり、勝明さんと泰子さんの自宅にあったものを売り払う等で計680万円(裁判では458万円余と認定された)を得ている。また、12月1日にはAとB遺体を車ごと燃やし東区中沼町の湿地帯の地中に遺棄し、自殺に見せかけるため偽の遺書を作る等隠蔽工作を行ったが、1992年1月26日に勝明さんと泰子さんの遺体が発見されその日の夜に安川と池田は逮捕された。
札幌両親強盗殺人事件(安川奈智)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 札幌地方裁判所は池田側の無罪主張を退け、池田真弓に対し無期懲役(求刑・無期懲役)を言い渡した。

池田は判決を不服として札幌高等裁判所に控訴した(検察側は控訴しなかった)が、後に安川の無期懲役判決に対し検察側・安川側の双方が控訴した(後述)ことにより池田と安川が同一裁判体(統一公判)で審理されることになった、両親(勝明さんと泰子さん)に償いをしたい、などの理由から、池田が自ら控訴を取り下げ、1994年3月29日に無期懲役の一審判決が確定した。

そして最高裁判所は死刑を求めた検察側の上告を棄却。1999年(月不明)に安川奈智の無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 池田真弓・・・2024年3月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 安川奈智・・・2029年(月不明)頃、62歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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座間9人殺害事件(白石隆浩)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年(平成29年)10月30日に行方不明になっていた田村愛子さん(当時23歳)を捜査する過程で発覚し、翌31日までに9人の遺体が見つかった死体遺棄事件であり、その後、犯人の男 白石隆浩(逮捕当時27歳)の逮捕後尋問にて白石が単独実行したことが発覚した連続殺人事件である。

2017年10月31日にSは逮捕され、以降、S自身の供述および司法解剖の結果、さらに複数人の殺人・死体遺棄容疑で再逮捕された後、9人に対する強盗・強制性交等罪、強盗殺人罪、死体損壊・遺棄罪で起訴された。

白石隆浩(逮捕当時27歳)は2017年2月6日には職業安定法違反(有害業務の職業紹介)の疑いで茨城県警生活環境課と鹿嶋警察署に逮捕され、2月に起訴された。2017年3月に保釈された白石は、実家で父親と2人暮らししながら倉庫会社でアルバイトをするが、その際に「父親のもとを早く離れたい」「女性のヒモになりたい」と考え、スカウト業の経験から、自殺志願者は言いなりにしやすいと思いつく。2月15日、白石はTwitterアカウントを開設して「自殺したい」などと嘘のツイートをするようになり、Twitterを利用して自殺願望を持つ女性たちと交流することを開始している(後述)。この時期からSはインターネットで自殺に関する知識を得ており、自身の知識が増えると共に自身の(自殺に関する)話に興味を持つ相手が増えたことも供述している。

白石は被害者を誘い出す口実にも「一緒に死のう」と呼びかけてはいたが、実際に自分も共に自殺するつもりはなかった。

解体に用いた道具としてのこぎりなどを準備しており、これをアパート入居前に遺体の解体準備として事前に購入していた。遺体の切断方法についてもスマートフォンを利用して検索し調べていた。

その後、白石は2017年8月22日に同アパートに入居して以降、Twitterでメッセージを送った女性らを自宅に招き入れ、睡眠薬・酒を飲ませた後に殺害した。殺害方法は、ロフトから垂らしたロープで首を吊って絞殺した。

最後の被害者となった八王子市内の田村愛子さん(事件当時23歳)は、10月21日に勤務先の福祉作業所の同僚が女性宅を訪れて面会したのを最後に行方不明となっていた。10月23日にJR八王子駅と、Sが賃貸したアパートに近い小田急小田原線相武台前駅の防犯カメラに2人が共に撮影されている。

10月24日に被害者の兄が警視庁高尾警察署に捜索届を提出し、これ以降同署は捜査を開始していた。この際に後述のTwitterで、逮捕時に囮役を行った女性が兄へ白石の情報を提供している。

10月30日になり、兄に情報提供した女性が警視庁のおとり捜査に協力。白石をJR町田駅に誘い出し、行けなくなりましたと連絡。移動を始めた白石を捜査員が尾行し、自宅アパートの特定に至った。異臭が漏れるアパートに捜査員が踏み込むと、室内で遺体の一部が入っていた多数のクーラーボックスを発見。警視庁捜査一課は翌日31日にSを死体遺棄容疑で逮捕し、事件発覚直後には高尾署に捜査本部を設置した。
座間9人殺害事件(白石隆浩)

◆被害者
 上段(何件目・発生日・被害者(年齢))
 中段(住所・職業)
 下段(経緯)

 1~2件目:強盗・強制性交等殺人、体損壊・死体遺棄罪
    3件目:強盗殺人死体損壊・死体遺棄罪
 4~9件目:強盗・強制性交等殺人、死体損壊・死体遺棄罪

・1件目 2017年8月23日ごろ 三浦瑞季(みうらみずき)さん(当時21歳)
 神奈川県厚木市・人材派遣会社
 「アパートの入居費に充てるため」に三浦さんから借りた現金36万円の返済を免れる目的で三浦さんの殺害を決意し、三浦さんに性的暴行を加えた上、自宅アパートにて女性をロープを使用して首を絞めて殺害し現金数万円を奪った。

・2件目 2017年8月28日ごろ 石原紅葉(いしはらくれは)さん(当時15歳)
 群馬県邑楽郡邑楽町・群馬県立西邑楽高校高校1年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・3件目 2017年8月30日ごろ 西中匠吾(にしなかしょうご)さん(当時20歳)
 神奈川県横須賀市・障害者支援施設に就職・バンドマン
 自宅アパートにてロープで首を絞めて殺害し、現金数千円を奪った。殺害動機は「男性と面識があった厚木市の女性が殺害されたことが男性に発覚するのを恐れたため」だった。

・4件目 2017年9月16日ごろ 更科日菜子(さらなしひなこ)さん(当時19歳)
 埼玉県所沢市・実践女子大学の大学2年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数百円を奪った。

・5件目 2017年9月24日ごろ 藤間仁美(ふじまひとみ)さん(当時26歳)
 埼玉県春日部市・職業不明
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・6件目 2017年9月28日ごろ 須田あかり(すだあかり)さん(当時17歳)
 福島県福島市・福島県立安達高校の高校3年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・7件目 2017年9月30日ごろ 久保夏海(くぼなつみ)さん(当時17歳)
 埼玉県さいたま市・上尾南高校の高校2年生
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数千円を奪った。

・8件目 2017年10月18日ごろ 丸山一美(まるやまかずみ)さん(当時25歳)
 神奈川県横浜市・コンビニバイト
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数百円を奪った。

・9件目 2017年10月23日ごろ 田村愛子(たむらあいこ)さん(当時23歳)
 東京都八王子市・職業不明
 自宅アパートにて性的暴行を加えた上、ロープで首を絞めて殺害し現金数百円を奪った。
座間9人殺害事件(被害者9人)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2020年12月15日に判決公判が開かれ、東京地裁立川支部(矢野直邦裁判長)は「被害者は殺害を承諾していなかった。また犯行時、被告人 白石隆浩(逮捕当時27歳)は刑事責任能力を有していた」と認定し、求刑通り被告人 白石に死刑判決を言い渡した。

被告人 白石は仮に死刑判決を受けても控訴しない意向を表明していたが、弁護人(主任弁護人:大森顕)は判決を不服として、12月18日に東京高等裁判所へ控訴する手続きを取った。しかし、被告人 白石が12月21日付で東京高裁への控訴を取り下げたため、控訴期限の翌2021年(令和3年)1月5日0時をもって、白石の死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(拘置所収監中、死刑未執行)

◆事件現場のアパートは?

 事件現場となったのは「シーバスハイム205」です。住所の「座間市緑ヶ丘6丁目16-15」を検索すると、事件現場のアパートの画像や物件情報を今でも閲覧できます。

こちらには現在、千葉県から移住してきた男性が暮らしているそうです。

男性は家賃がなんと月に1万1,000円だと話しています。住宅街のアパートの家賃としては、かなり破格の値段です。
座間9人殺害事件(アパート)

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JT女性社員逆恨み殺人事件(持田孝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1997年(平成9年)4月18日夜に東京都江東区大島六丁目の団地で発生した殺人事件。

1989年(平成元年)12月に強姦致傷事件などを起こし、懲役7年の刑に処された持田孝(本事件当時54歳)が、同事件の被害者である鹿沼京子さん(本事件当時44歳:日本たばこ産業 (JT) の社員)が被害を警察に届け出たことを逆恨みし、出所後に鹿沼さんを刺殺した事件である。本事件はマスメディアにより「逆恨み殺人事件」「お礼参り殺人事件」などとして大きく報道され、近隣住民に恐怖感を与えるとともに、一般社会にも大きな不安感・衝撃を与えた。

持田孝(当時47歳)は1989年12月19日午前1時頃、江東区大島六丁目のバス停付近でタクシーを待っていたところ、タクシーから下車する女性を見かけた。女性は日本たばこ産業(JT)の社員・鹿沼京子さん(当時37歳)で、酒に酔っているようだった。

持田が鹿沼さんを飲みに誘ってみると、彼女は酔った勢いなのかこれに応じ、2人は大島六丁目団地から徒歩2、3分の距離にある飲食店で酒を飲んだ。

持田はこの時の会話から、鹿沼さんの仕事や大島六丁目団地でひとり暮らししていることを知った。

午前2時頃に店を出ると、持田は鹿沼さんをホテルに誘った。しかし彼女はこれを断りつつ、警戒して自宅とは別方向に歩いたが、持田はつきまといながらしつこく誘い続けた。そして、鹿沼さんが団地脇の暗がりに差し掛かったところで、突然抱きついてキスを迫った。

鹿沼さんは腕を振り払って逃げようとしたが、持田は首を両手で絞めつけて失神させた。さらに性的快感を高めるため、落ちていた電気コードで首を強く絞め、鹿沼さんを強姦した。この暴行で鹿沼さんは首に全治約2週間の怪我を負った。

鹿沼さんを襲ったあと、持田は彼女の財布などが入ったショルダーバッグを盗み、半裸で失神した状態の鹿沼さんをそのまま放置して逃走した。その後、鹿沼さんは現場で倒れているところを通行人に発見されたが、意識が回復してからも「自分が強姦されたかどうか」もわからない状態だった。

ショルダーバッグに入っていた手帳から鹿沼さんの電話番号を知った持田は、数日後、彼女に電話した。用件は、「強姦された」ことをネタに金を強請ることだった、「そっちの出方次第では、強姦されたことを会社の人にバラす」「警察に言えばどんな目に遭うかもしれないぞ」などと脅して10万円を要求、12月29日10時に大島駅(都営地下鉄新宿線)の改札口付近で現金を受け渡すよう指定した。

鹿沼さんは被害に遭ったことを家族にさえ打ち明けていなかったが、勇気を出して警視庁城東警察署に被害届を出した。持田は約束の日時に指定場所に現れたところを、張り込んでいた捜査員によって逮捕された。

この事件で強姦致傷・窃盗・恐喝未遂の罪に問われた持田は、1990年3月13日、東京地裁で懲役7年が言い渡され、同月28日付に確定。札幌刑務所に収容された。

持田は逮捕されて以降、表面上は反省の態度を見せていたが、実際には逮捕直後から、「(鹿沼さんが)警察に届けないという約束を破ったせいで捕まった」と逆恨みしていた。そして鹿沼さんに激しい憤りを覚えるとともに、「自分の言葉が脅しではないことを思い知らせなければならない」と考え、出所したら鹿沼さんを殺害して恨みを晴らす決意した。

7年間の服役中、持田は計13回の懲罰を受け、服役中の大半を独居房で過ごした。その辛さもあってか、”鹿沼さんを殺害する決意” は、出所まで一貫して持ち続けた。

1997年2月21日、持田は札幌刑務所を満期出所となった。

1997年4月18日21時過ぎごろ、Mは団地内の広場付近を1号棟に向かって歩いてくる鹿沼さんの姿を見つけたため、エレベーターに乗って1階まで下りた。1階に到着すると、開いたドアの先に鹿沼さんが立っていたため、持田は「殺害するのに良い機会だ」と考え、エレベーターに乗ったまま、鹿沼さんが乗り込んでくるのを待った。そして、エレベーターに乗った鹿沼さんに「何階ですか」と声を掛け、「4階をお願いします」という返答に応じて4階のボタンを押した。

エレベーターが上昇を始めると、持田は「鹿沼さんですか」と尋ね、彼女が鹿沼さん本人であることを確認した後、「俺のことを覚えているかい」と話し掛けた。鹿沼さんは思い出しかねる様子で、首を傾げながら持田の顔を見ていたが、持田は隠し持っていた包丁の柄を右手で掴み、鞘からゆっくり引き抜きつつ、「7年前の事件のことは覚えているか」と低い声で脅した。これに対し、鹿沼さんは悲鳴を上げながら、突然持田に飛び掛かり、持田の右手から包丁を奪い取った。エレベーターが4階に到着してドアが開くと、鹿沼さんは持田から奪い取った包丁を手にしたままエレベーターから降り、「助けて、殺される」などと大声で叫びながら、4階エレベーターホール北側の壁際まで後ずさりしていった。

このような鹿沼さんの思わぬ抵抗に動揺した持田だったが、「鹿沼さんを殺害する機会は今しかない。少しくらい怪我をしてでも殺害しよう」と考え、自分を近づけまいと小刻みに包丁を突き出すなどしていた鹿沼さんに飛びつき、エレベーターホール北側の壁に抑える蹴ると、その左手から包丁を奪い返した。そして、包丁で鹿沼さんの左下腹部・腹部中央部・右胸・左胸を続けざまに力いっぱい突き刺し、心臓に達する致命傷を負わせた。
JT女性社員逆恨み殺人事件(持田孝)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年10月13日の上告審判決公判で、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)はM側の上告を棄却する判決を言い渡した。持田は同判決を不服として、第二小法廷に判決訂正申立をなしたが、それも同年11月10日付の決定で棄却され、同日付、もしくは11日付で死刑が確定した。

死刑囚(死刑確定者)となった持田は2008年(平成20年)2月1日、鳩山邦夫法務大臣が発した死刑執行命令により、収監先の東京拘置所で死刑を執行された(当時65歳没)。死刑確定から執行までの期間は3年2か月だった。なお同日には、大阪・福岡の両拘置所でも、それぞれ死刑囚1人の刑が執行されている。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2008年(平成20年)2月1日、東京拘置所で死刑執行(当時65歳没))

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滋賀医科大学生母親殺害事件(桐生のぞみ)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年に発生した尊属殺事件である。30代の看護学生が母親を殺害後に遺体を解体して遺棄した。

2018年1月9日夜に、滋賀医科大学看護学科4年生で桐生のぞみ(当時31歳)が、母親である桐生しのぶ(当時58歳)を殺害した。母親にせがまれて身体をマッサージしていると入眠したため、包丁を取り出して首を切りつけて殺害した。

殺害後、Twitterに「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と投稿し、死体の傍らでテレビドラマ「BG〜身辺警護人〜」を視聴して眠り、解体して滋賀県内の河川敷へ遺棄する。

3月に遺体が発見され、滋賀県警察は6月に、滋賀県内の病院で看護師として勤務する女性を死体遺棄と死体損壊の容疑で逮捕し、9月に殺人容疑で再逮捕する。
滋賀医科大学生母親殺害事件(桐生のぞみ)

◆教育虐待(母親「桐生しのぶ」と娘「桐生のぞみ」)

 桐生のぞみ(以下、のぞみ)は、高校卒業後の2005年に国立大学の、医学部保健学科を受験しますが不合格となります。

ところが母親 桐生しのぶ(以下、しのぶ)は、その事実を認めずにあろうことか、親族には医学部に合格したという嘘をつき、娘ののぞみにもつじつまを合わせるよう命じます。

9年の浪人生活の中、のぞみは母親しのぶからの束縛から逃れるため就職も考えたのですが、未成年で同意を得られずに終わります。

母親しのぶは彼女を集中させるため、のぞみの携帯電話を取り上げたり、自由な時間を与えないため一緒に入浴しようとしたといいます。そうした母親しのぶからの強要生活に耐え切れず、のぞみは3回にわたる家出も試みますが、母親しのぶの方も諦める事なく探偵を雇うなど異常な執着心で、のぞみの自由や願いを聞き入れません。

何度か、のぞみの精神の限界状態は突発的な家出などの行動など態度にも表れるも、母親しのぶはその都度力で押さえつける。強引にも家に連れ戻されるなど、戦慄の束縛生活を不本意にも継続する生活が続きます。

そのようなやり取りや母親しのぶとの話し合いの合意点として、のぞみに将来助産師になることを条件に滋賀県医科大学医学部看護学科を受験させ、やっと2014年4月に入学を果たしました。

のぞみは、9年もの長きに渡る受験生活を経て、無残にもその夢が断たれて自分の限界も知り、現実的な就職先も医師でもなく助産師でもなく、看護婦でいいと言いますが、母親のしのぶは、のぞみの、そうした現実からの諦めや妥協を一切許しません。

強引に医師がダメなら最低でも助産師に、と望む母親しのぶの願いを受け入れ一旦はまたも大学に入学し、母親の望む助産師を目指しましたが、のぞみは、やがて「手術室看護師」になる夢を抱きます。手術看護師とは手術執刀医にメスを手渡したり、患者の体位変換や記録を付ける看護師を指します。

のぞみは大学4年生の2017年には滋賀医科大付属病院において、看護師の内定を得ますが母親の反対にあっており反感を持っていたようです。母親しのぶは医大の附属病院の就職を辞退して、助産師学校への進学を迫り、受験に失敗しても看護師にならず再受験をするという誓約書まで書かせていました。

こうした幾度の、のぞみの受験失敗や勉学への挫折、自らのレベルを思い知り絶望に落とされながらも強制的な勉強を強いられた、のぞみは、どれほど頑張っても母親しのぶの望む道は程遠い事、自分のレベルには看護師でも充分だと言う現実を理解します。

その事実の理解を母親しのぶに求めるも一向に、諦めてくれません。

常軌を期した娘のぞみへの期待と、人生を賭けた医学界への強要は、この辺りで娘のぞみの限界を超えた状態だったのでしょう。

自分の望む事と、それが叶う能力があるか否かは、自らが経験すれば通常誰もが分かる所です。

しかしながら、母親しのぶは、それ以上を常に諦める事を許さず、自らの高い理想を娘に強要しました。

もう、桐生のぞみの精神状態は限界だったのでしょう。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 桐生のぞみは犯行を否認するが検察は懲役20年を求刑し、2020年3月に大津地方裁判所は、懲役15年と判決する。被告は判決を不服に控訴するも、控訴審で一転して犯行を認める。2021年1月に大阪高等裁判所は原判決を破棄し、懲役10年と判決して確定する。

❖出所予定(年齢)
 2031年1月頃、44歳(懲役10年)

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滋賀県長浜市園児殺害事件(谷口充恵)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2006年(平成18年)2月17日に滋賀県長浜市相撲町の田んぼの中にある市道の路上で幼稚園児2名が刃物でめった刺しにされ、殺害された事件。

2006年2月17日9時5分頃、長浜市の水田の中を通る市道上に、幼稚園児と思われる佐野迅ちゃん(当時5歳)と武友若奈ちゃん(当時5歳)が血だらけで倒れているのを通行人が発見し、119番通報した。武友若奈ちゃんはすぐに死亡が確認され、佐野迅ちゃん(当時5歳)は搬送先の長浜赤十字病院で亡くなった。

2人は近くの幼稚園に通う共に5歳の園児と判明。滋賀県警では、2人の体に十数カ所以上の刺し傷があったことから殺人事件と断定し県内全域に緊急配備を敷いた。

その後、11時頃現場から遠く離れた大津市内の湖西道路の真野インターチェンジで、大津北警察署が敷いた検問に不審な白い車がひっかかり、車内を捜索したところ車内は血の海となっており、血の付いた包丁が落ちていたことから、運転していた女に事情を聞いたところ、2人を殺したことを認めたため、殺人の疑いで緊急逮捕した。逮捕されたのは、死亡した2人の園児の同級生の母親である鄭永善(当時34歳、中国人、日本名・谷口充恵、以下、谷口充恵)だった。

谷口は取り調べに対し、自分の子が園内でいじめられていると思い犯行を決意したと動機を供述した。
滋賀県長浜市園児殺害事件(谷口充恵)
滋賀県長浜市園児殺害事件(佐野迅ちゃんと武友若奈ちゃん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年9月18日 検察側が死刑を求刑。
 2007年10月16日 死刑求刑に対し、統合失調症の影響による心神耗弱を認め無期懲役判決が言い渡された。弁護側は量刑不当として即日控訴。
 2009年2月20日 大阪高裁で二審の判決。一審の無期懲役判決を支持し、検察・被告双方の控訴を棄却。
 2009年3月9日 検察・被告とも上告せず、被告の無期懲役の判決が確定。

❖出所予定(年齢)
 2039年4月頃、67歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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自殺サイト殺人事件(前上博)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年(平成17年)8月2日に行方不明であった長元美智子さん(当時25歳)の遺体が大阪府河内長野市にある河川敷にて発見されたのを発端として発覚した殺人事件。8月5日に当時堺市に住んでいた前上博(当時36歳)が、大阪府警察に逮捕された。

当初、殺害容疑は長元さん1人だけだったが、容疑者の供述によりいじめ被害者とされる男子中学生や男子大学生の殺害も発覚。その後の捜査でこの2名の遺体が山中で発見された。

自殺系サイトに目をつけた前上は、多重債務やいじめなどを苦にした自殺志願者を「集団自殺しませんか」と言葉巧みに騙し、なぶり殺しにすることで自殺を「手伝い」、自らは死刑になる形で後を追う、という「無理心中目的の説得ずくの快楽殺人」という手口に及んだ。

前上の手口は巧妙で、自分へ警察の捜査が及ばないように被害者を騙して自殺サイトの使用履歴をパソコン上から削除させたり、「玄人(=自殺未遂経験者)からの助言」として遺族宛てに遺書を書かせたりし、殺害についても被害者を苦しめるために何度も被害者の口を塞いで失神させては蘇生させたり、ラップフィルムやゴム手袋を利用して証拠を残さないようにしていたりと悪質であると言われている。

失神と蘇生の繰り返しの間に何が起こるかというと被害者の命乞い、そして衰弱していき、脱糞し、体の痙攣が起き、動かなくなる。

その死にゆくまでの過程を前上は欲情していた。欲情を抑えられなくなった前上は死にゆく永元さんを強姦している。

前上は、人を窒息させて苦しめることと、白いスクールソックスに異常なほどの性的興奮を覚える人間だった。彼は小学校時代から数え切れないほどの犯行を重ね、ついには立て続けに3人の命を奪った。

更には被害者を殺害する様子を写したビデオテープや、被害者の苦しむ声が録音されたテープも自宅倉庫から押収された。
自殺サイト殺人事件(前上博)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年2月、大阪地方検察庁は死刑を求刑したが、その際に被害者遺族も求刑に参加できるようにする、という初の試みがなされており、また前上自身も最終弁論において死刑になることを望んでいる。同年3月28日、大阪地方裁判所で、前上は求刑通りの死刑判決を受けた。

弁護側は即日控訴したものの、前上が2007年7月5日付けで弁護人の控訴を取り下げたため、死刑が確定した。

2007年7月7日、控訴取り下げの無効を求める審理開始の弁護人の申し立てを大阪高等裁判所は受理した。

2009年7月28日、森英介法務大臣(当時)の執行命令書捺印により、前上の死刑が執行された。死刑確定から2年という早さでの執行であった。同日には大阪姉妹殺害事件の死刑囚他1名の死刑も執行されている。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2009年7月28日、大阪拘置所で絞首により死刑執行(当時40歳没))

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静岡2女性殺害事件(桑田一也)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年と2010年に女性が殺害された事件である。

2005年の終わりごろから日比野かおりさん(当時22歳)に家族が連絡が取れなくなり行方不明になった。家族は2006年に捜索願を静岡県警察本部御殿場警察署に提出。日比野さんと不倫していた桑田一也(当時43歳)は妻と別れて久松紘子さん(当時26歳)と再婚。しかし、2010年2月に紘子さんも行方不明となり、紘子さんの家族が静岡県警察本部大仁警察署に捜索届を提出。2010年3月5日に振り込め詐欺の手口で女性から100万円近くを騙し取ったとして詐欺容疑で桑田が逮捕された。その後、桑田は詐欺罪で起訴された。

桑田が起訴された後、静岡県御殿場市萩原にある物置小屋で青いビニールシートで包まれた紘子さんの遺体が発見された。そして、桑田を紘子さんの殺人、死体遺棄罪で追起訴した。その後、沼津市東原の空き地にあったドラム缶から、青いビニールシートにくるまれ一部が白骨化していた日比野さんの遺体が発見された。このため、地方検察庁は強盗殺人罪で桑田を追起訴した。
静岡2女性殺害事件(桑田一也)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
2014年12月2日、最高裁判所第3小法廷(大谷剛彦裁判長)は上告棄却の判決を言い渡し、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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※最後に
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※2023.04.02更新(ルーマニア女子大生殺人事件)
※2023.04.10改題(旧題:【美人薄命・女性シリアルキラー】未解決事件、連続殺人事件簿)
※2023.06.11更新(目次を付けました)

世の中に『美人は得だ』という言葉があります。「人間は見た目じゃないよ!中身が大事だよ!」とも反論がありますが、実際に第一印象で得をするのが事実でありまして、人の第一印象はものの3秒で決まると言われていますし、人を見た目で判断するのは8割程度の人がいますので、見た目が大事なことがわかります。

しかし、女性でいいいますと、見た目がいい、いわゆる美人と言われる方は、良くも悪くも目立ってしまい、決して得をするというわけではなさそうです。特にセキュシャルな対象にされてしまうこともありますし、それが「犯罪をおこすような人」であった場合は、狙われてしまう場合もあるのです。

ある日突然に人生の終わりを迎えてしまう、または忽然と消えてしまい、周囲の人を悲しませる事件も後をたちません。

また、その逆で、なぜこんな美人が?という犯罪に手に染めてしまった方もおります。美人であっても決して幸福な人生を歩まないといったことを教えてくれます。


北海道室蘭市女子高生失踪事件
2001年に発生した北海道室蘭市の女子高生失踪事件です。未だに行方不明となっています。

失踪した女子高生の方は、才色兼備でしたので、とても有名になってしまった事件でもあります。

2001年3月6日、北海道室蘭市の繁華街で1人の女子高生が突如行方不明になりました。

当時高校1年生だった千田麻未さんは、自宅からアルバイト先であるパン屋へ向かう途中で姿を消し、22年経った現在(2023年現在)も発見には至っていません。

人通りの多い繁華街で白昼に起きた失踪事件は謎が多く、不可解な点もあったため、全国で大きな話題となりました。

事件が起きた当日は公立高校入試日だったため、千田麻未さんの通っていた北海道立室蘭栄高校を含め、周辺の高校は全て休校でした。

千田麻未さんは普段、自宅からほど近いパン屋でアルバイトをしていましたが、この日は自宅から7kmほど離れたパン屋の本店でコーヒーの講習を受ける予定だったと言います。

パン屋の本店で13時過ぎにオーナーと会う約束をしていて、ジーンズにベージュのブレザーで、バーバリーのマフラーに緑色の革靴姿で自宅を出ました。

しかし、13時46分に千田麻未さんは交際相手とPHSで会話をしたのを最後に、消息を絶ったのです。

自宅を出発しパン屋の本店へ向かうまでの間、千田麻未さんは数々の不可解な行動をとっていたことや、これだけの繁華街にも関わらず、有力な目撃情報もなかったことなどから捜査は難航しました。

事件に巻き込まれたのか、家出だったのか、真実は分からないまま、そして千田麻未さんの行方も安否も分からないまま、捜査は幕引きとなりました。

千田さんが行方不明になった当時の特徴や服装は以下の通りです。

 ・身長・体格 身長153センチくらいのやせ型
 ・血液型 O型
 ・身体的特徴 右頬に小さなほくろ、左右の耳にピアスの穴、二重まぶた
 ・髪型 黒色で首筋まで伸ばしたストレート
 ・服装 ベージュ色ブレザー、紺色ジーパン、ベージュ色チェック柄マフラー、23.5センチくらいの革靴

千田麻未さん(当時の写真1)
千田麻未さん(当時1)
千田麻未さん(当時の写真2)
千田麻未さん(当時2)
千田麻未さん(当時の写真3)
千田麻未さん(当時3)
37歳になった千田麻未さんの容貌を推定した画像
千田麻未さん(現在)

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ルーマニア女子大生殺人事件
2012年8月17日に当時20歳だった日本人の女子大生・益野友利香さん(当時20歳)がルーマニアで遺体となって発見された事件は世間に衝撃を与えました。

事件の内容を知れば知るほど「どこかで防げた事件なのではないか?」と思いますし、『ノー』と言う断る勇気があればと「タラレバ」論に行きついてしまいます。

益野友利香さんは、成田空港からオーストリアのウィーン経由で、ルーマニアの首都のブカレストに向かいました。

国際学生団体「NPO法人アイセック・ジャパン」の仲介で、海外インターンシップの一環として南部クラヨバで日本語を教える学生インターンシップに参加するためでした。

ただし、本来は慣れない現地の空港で「出迎えがある」はずでしたが、直前になって「出迎えなし」に変更になってしまいました。それでも海外インターシップの話はすすんでしまったのです。

そして、ルーマニアのブカレスト空港に到着したのは現地時間の20時頃でした。若い女性が1人で外国の空港に夜に降り立った・・・この時点で危険であることは間違いありません。

益野友利香さんは当初空港から夜行バスでブカレスト北駅まで移動し、その後電車で移動する予定でした。しかしバスのチケットを買いに行ったところ、すでに最終バスが出てしまっていたようです。バスが出ていて呆然とする益野友利香さんの姿を目撃されています。

タクシーを探していると、現地の20代と見られる男性がタクシー探しを手伝うと装って声をかけ、益野さんはその男性と一緒にタクシーに乗り込む様子が、空港の防犯カメラに映っていました。

その男性こそが、今回の犯人ニコラエ・ブラッド(当時25歳)でした。

益野友利香さんを殺害したブラッド・ニコラエ(当時25歳)は他にもルーマニア人2人を殺害しており、後期高齢者ばかりを狙った犯行から精神鑑定を受けていました。

ニコラエ・ブラッドはタクシーを探すのを手伝うと言って近づき、クラヨバ行きの電車が出る駅とは反対方向にタクシーを走らせました。

ニコラエ・ブラッドと一緒にタクシーに乗り込むところが防犯カメラの映像に残っていたからです。

ルーマニアでは海外旅行者を狙って空港で客引きする犯罪が横行しており、このブラッド・ニコラエもそうしたギャング組織のメンバーで、英語が離せないタクシードライバーに代わって旅行客を客引きし、法外な金額を脅し取っていました。

益野友利香さんは美人だったこともあり運悪くブラッド・ニコラエに強盗・性暴行目的で目をつけられてしまったのです。

ブカレスト国際空港から車で約5分の、両側を森に囲まれた人気の無い幹線道路で益野友利香さんと一緒にタクシーを降りました。

ブラッド・ニコラエは強引に益野友利香さんを道路から5メートルほど入ったところまで連れて行き、性的暴行を加えた上で絞殺しました。

ブラッド・ニコラエは益野友利香さんの金品や携帯電話を持ち帰っていたことから、GPSを追跡して自宅での逮捕に繋がりました。

ルーマニアでは死刑を廃止しているため、ブラッド・ニコラエは終身刑の実刑判決を受けています。
今回益野友利香さんに対してルーマニアへのインターンを紹介した団体は「NPO法人アイセック・ジャパン」といいます。

国際学生団体「NPO法人アイセック・ジャパン」は1948年に設立され、107の国と地域にネットワークを持ち、海外インターンシップ事業を展開しています。

この団体の特徴としては学生が運営している「学生団体」であることです。若者同士が交流を広げることでより広く世界に浸透できたといえるのでしょうが、渡航の際の安全面の配慮や運営面での責任の所在などあいまいだった可能性もあります。
ルーマニア女子大生殺人事件(益野友利香)

容疑者ニコラエ・ブラッド(25)

❖ツイートでは「リスク」を感じていた・・・

2012年8月15日の1度目や2度目のツイートでは自身の危険を感じていました。

 ・2012年8月15日に、今回の行程を聞かされた。少なくとも、それ以前に聞いていた話や約束した話と、今回に聞いた話が全然違うという可能性が高い。

 ・本人は十分以上に危険性を理解、把握していて、命の危険すら感じている

 ・それを、「NPO法人アイセック・ジャパン」が強引に説得して彼女を危険地帯に送り出したという流れなことがわかります。なにしろ「「NPO法人アイセック・ジャパン」のメンバーが来てなかったら、今絶対リジェクト(拒否)してた」そうです。

国際学生団体「NPO法人アイセック・ジャパン」のホームページには『渡航前の安全管理サポート』として「渡航先の情報収集のサポートと現地到着時の出迎えの手配」があり、

現地へのフライトについての情報は渡航の15日前までにアイセックと保護者様に共有していただき、渡航先のアイセック現地支部の担当者による空港までの出迎えを準備しております。万一出迎えができない場合には、外部の送迎サービスの利用をしていただいております。また、緊急時でも迅速な対応が可能になるように、現地の緊急連絡先、近隣の病院・警察署の情報などを事前に調べた上で渡航をしていただいております。

また、『渡航中の安全管理サポート』として、「24時間対応窓口」があります。

アイセック担当マネージャには定期的にインターンの報告をしていただき、困ったことがあれば適宜ご相談いただけます。 しかし、病気・怪我・自然災害・政変による情勢悪化等の緊急対応が必要な事態に遭遇した場合、危機管理提携企業の24時間対応可能な窓口もご利用頂けます。病院のご案内や、取るべき手段のご紹介が可能です。また、伝言サービスにより日本にいる保護者の方にもメッセージを確実にお届けすることができます。

このようなサポート体制が、この事件の前にあったのか、後にあったのかはわかりませんが、今回のような事件が二度と起きないことを祈ります。

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黒崎愛海さん行方不明事件(2016年)
フランス・ブザンソン市で21歳の筑波大学生・黒崎愛海さんが行方不明になったのは2016年12月4日のことでした。

あれから5年と4カ月、遺体も自白もないまま、2022年4月12日、ニコラス・セペダ(判決当時31歳)に計画性のある意図的な殺人罪で28年の禁錮刑の判決が下りました。

ニコラス・セペダは、チリ出身で、チリ随一の高級住宅街に実家があり、チリ・サンティアゴ大学で助手職についていたインテリでした。日本語もフランス語も堪能で、2014年春から2015年夏までの約1年3か月、筑波大に留学していました。

一方、黒崎さんは、国際バカロレアコースを作るなど、インターナショナルで先進的な高校として知られている東京都立国際高等学校を卒業後、筑波大学国際総合学類に進学します。

黒崎さんとニコラス・セペダと大学の語学サークルで出会っています。男性のSNSにはふたり一緒に写った仲睦まじい写真も投稿されていたそうです。

捜査関係者が注目しているのは、筑波大への留学期間が終わっているはずの2016年にこの男性が日本に長期間滞在している点だ。

ニコラス・セペダは、2016年4月に入国し、ビザなしで滞在できる3か月間ぎりぎりの期間を日本で過ごし、7月に1度チリに帰国しました。その直後に再び日本を訪れ、10月まで滞在しました。

その間、黒崎さんのアパートに転がり込んで暮らしていたようです。ところが、2度目の滞在途中の9月、ふたりの間に“何か”が起きたそうです。黒崎さんのフェイスブックのデータが外部の何者かによって消去され、黒崎さんがフランスに語学留学をしたんです。

冒頭の6畳一間のアパートで半年ほど一緒に暮らしていたそうですが、黒崎さんは、その後逃げるように2016年8月末にフランスに留学しました。この時点で二人は破局していたと思われます。

しかし、ニコラス・セペダは諦めきれず、SNSで監視しつづけました。

黒崎さんに大量のメッセージも送っており、2016年9月6日には、「彼女は自分がしたことの代償を払わなければならない。責任を負わなければならない」と愛海さんを脅迫する「最後通牒ビデオ」をDailymotionで送り付けた。

セペダ被告は2016年11月30日、チリから空路と鉄道でフランスのディジョンに着き、レンタカーを借りた。深夜、大学のキャンパスの愛海さんの住む学生寮近くの駐車場に駐車し、車内で一夜を過ごした。

2016年12月4日の午後4時ごろ、趣味のダンスのレッスンを終えた黒崎さんは、ニコラス・セペダと食事に出かけた。ニコラス・セペダは、「数日前に偶然に出会ったので約束していたのだ」と供述している。

なぜ、ブザンソンに来たのかという問いに対してニコラス・セペダは法廷で「私の将来をはっきりさせるため、フランスに住めるかどうか見るためです」と答えたそうです。しかし、彼は事情聴取では「観光に来ました」といい、従兄弟には「ジュネーブで病欠した教師の代用として来た」と語っています。

そして、日付が変わって2016年12月5日の未明、苦し気な叫び声が学生寮に響いたそうです。法廷では「2分間の恐怖の叫び声が3回、引き続き最後の喘鳴(呼吸時に出るぜいぜい・ひゅうひゅうという音)」と述べられています。あまりにも恐ろしくリアルで、学生たちは、様子を見に部屋の外に出ることもできなかったそうで、この時近くの部屋の学生が発したSNSで午前3時20分と特定されています。

2017年1月30日、フランスがチリにニコラス・セペダの引き渡しを申請した。2020年の3月には愛海さんの母も直接チリの判事に手紙を出して、ニコラス・セペダのフランスへの引き渡しを懇願しました。だが、チリ・フランス間には犯罪者引き渡し条約はありません。

フランス警察が容疑をかけたと知ったニコラス・セペダはチリ警察に自主的に出頭。事件への関与を否定していました。遺体はまだ発見されていませんし、犯罪者引き渡し条約もありません。ニコラス・セペダの家は裕福で最高の弁護士も雇っています。だから自白さえしなければ無罪放免になる、と踏んでいたのでしょう。

しかし、チリの最高裁判所は2020年5月18日犯人引き渡しを承諾しました。セペダ被告は2020年7月24日にフランスに到着し、すぐにブザンソン刑務所に拘置され、予審が開始されました。そして、2021年2月2日、起訴が決定されたのです。
黒崎愛海さん

黒崎愛海さんとニコラス・セペダ

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美人犯罪者は・・・。
該当なし・・・です。

ここに載せるのには以下の条件を定めていました。

1.身内(親兄弟姉妹などの親族)以外の者を殺した事件であること。
2.自分が主犯であること(遺棄を手伝うはなし)。
3.美人であると世の中(当時のニュース、現在のSNSなど)が認めていること。

もちろん女性の殺人犯は結構います。
美人の定義にもよりますが、殺人犯の中に美人がおりません。

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※最後に
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◆ドキュメント
作成日付:2022/10/17
更新日付:2023/01/31(目次あ~お)
更新日付:2023/07/08(目次お~こ)
更新日付:2023/08/03(目次き(一部)、こ~し)
更新日付:2023/10/25(目次し~と)
更新日付:2023/12/10(目次と~な)
更新日付:2024/05/20(目次な~ひ)
更新日付:2024/10/12(目次ひ~更新中
※事件数が多くなりましたので、プルダウンメニューに対応しました。
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。


◆はじめに

最近、Youtubeで犯罪や事件などの紹介動画をよく見るのですが、動画の中やコメントで結構な確率で言われているのが『犯罪者の刑期が短い!』というものです。罪の内容によって大きく左右されるのですが、私自身も「えっ」と思うような懲役刑の判決結果があります。

動画の中でもよく警告しており『〇〇は早くて〇〇年には出所する』ということ語っています。

罪を償って世の中にでてくるわけです。

もちろん罪を償って改心された人もいるでしょう。でも怖くありませんか?

全員が全員、そんな人間ではありません。

そして、もしかしたら自分の隣に住んでいる、偶然に遭遇してしまう、なんてことがあるかもしれません。

満期出所者のうち、およそ2人に1人は再び犯罪を犯し、刑務所に再入所しているデータもあるぐらいです。

最悪の例として、三菱銀行人質事件(1979年(昭和54年)1月26日)があります。三菱銀行北畠支店に猟銃を持って押し入り、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質・猟奇殺人事件)の梅川昭美みたいな極悪人もおります。銀行員2名、警察官2名が死亡したのです。

梅川昭美は、殺人(大竹市強盗殺人事件)を当時15歳でおこしましたが、当時16歳になるまで2ヶ月ほどを残していた梅川は未成年に当たったため、少年法が適用されて少年院送致となり、僅か1年半で退院となったのです。

そして、収監した少年院は梅川の性格を「このような資質の少年を社会に放任することはきわめて危険であり、積極的に規制する必要がある。この病的な人格はすでに根深く形成されており、矯正は困難であり、些細なことで反社会的行動や犯罪に結びつきやすく、累犯の可能性が極めて高い」と鑑定しているのにも関わらず、再び世に解き放たれて、予想通りに前出の人質・猟奇殺人事件をおこすわけです。

アメリカのミーガン法(ミーガンほう、英:Megan's Law)は、性犯罪者の情報公開がされています。内容は各州によって差がありますが、出所(仮釈放)時や転入・転出に際して、住居周辺の住民への告知が行われるのです。

ミーガン法は性犯罪者の情報公開ですが、日本はどうでしょうか?

そんな犯罪者の情報公開を行う制度はまったくありません。

あくまで被害者の方などが、検察庁に申出をすれば、犯人の出所の予定時期などを事前に通知してくれるぐらいです。

一般人は、隣人や知人が凶悪犯罪を犯しているとしても、それを知る術はないのです。

※以下の事件は除外としています。
 ・未解決事件
 ・指定暴力団殺人事件
 ・公訴時効
 ・不起訴処分
※以下の書き方をしています。
 ・無期懲役は仮釈放30年と仮定
 ・冗長になるのを避ける為、事件背景は書かず、犯罪内容と判決内容を記載
  (ただし、犯罪内容だけだと意味不明になる場合は、事件背景は記載)
 ・主犯を主に記載(共犯者多い場合は省略)
 ・主犯を実名で記載

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※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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◆ドキュメント
作成日付:2023/01/31
更新日付:2023/07/08
※事件数が多くなり、文字数制限を越えましたので分割しました。
※2023.08.05改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(パート2))
※2023.08.09改題(旧題:犯罪者・犯人・被告人の出所予定データベース(目次お~こ))

<目次>







岡山金属バット母親殺害事件(少年17歳)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 少年が母親を金属バットで撲殺した事件。殺人の動機としては、高等学校の部活動で後輩部員からいじめを受けていたのが背景にあるといわれている。

2000年(平成12年)6月21日、岡山県内の公立邑久高校の野球部員の少年(当時17歳・高校3年生)(以下、少年A)が練習中にそばにいた後輩部員4人を突然バットで殴り逃走。少年Aは自宅に戻った後、居間でテレビを見ていた母親(当時42歳)をバットで殴打し逃亡。母親はほぼ即死状態だった。

少年Aは去年の秋から日常的に後輩集団に自身の動作のまねをされたり、所属の野球部でからかわれるなどのいじめを受けていた。事件当日は雨天のため高校の武道場で部活を行っていた。少年Aは、普段から自身をからかうなどしていた後輩ら四人をバットで殴打し、重軽傷を負わせた。

その後、自宅において別のバットで母親を殴打し殺害した。また母親を殴打・殺害したのは、自分が野球部員の少年を殺して殺人者になったと早合点し、そのまま母親が生きていれば不憫であると思ったためであるという。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 岡山家裁(新井慶有裁判官)は8月31日、少年Aを特別少年院へ送致する保護処分を決定した。
新井裁判官は「(男子生徒は)円滑な対人関係を築く能力に乏しく、長期の専門教育を受けるべきだ」とし、「2年ないし2年半の専門教育が必要」との処遇勧告をつけた。

❖保護観察処分「詳細」

 決定によると、新井裁判官は「重大犯罪であり、社会に与えた影響は大きい」としながらも、男子生徒が昨年秋ごろから、複数の後輩にからかいや嫌がらせを受け、事件前日の6月20日、後輩の1人から受けた(丸刈りにしないことで責め、殴るなどの)言動が限度を超えたため、抑えてきた感情が爆発したと認定。母親殺害については「自分が殺人犯になると、母がつらい思いをする。それが自分には耐えられないという自己中心的な思考によるもの」とした。

さらに「被害者(後輩)側は厳罰を求める姿勢を示していない」「男子生徒の父親は今後も被害弁償や慰謝の措置をできる限りすることを誓っている」と述べた。

その上で、「男子生徒は生活態度もまじめで、これまで非行歴もない。知的能力は高いが情緒性が未発達で、円滑な対人関係を築く能力に乏しい。感情の表し方が不得手で、人格に問題性がある」とし、「長期の専門的教育が必要」とした。。

❖出所予定(年齢)
 2003年2月頃、19歳、すでに退院(特別少年院2年半の保護処分)

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岡山元同僚女性バラバラ殺人事件(住田紘一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年(平成23年)9月30日に岡山県岡山市北区で発生した強盗強姦・強盗殺人などの事件。

住田紘一(事件当時29歳)は2009年11月にある女性と交際を始めたが、翌年6月頃に破局した。その後、住田は女性が別の男性と交際したことを知り、その男性の殺害を計画したが実行することはできなかった。

交際相手に関係を絶たれたことでフラストレーションが溜まっていたSは、それを解消する手段として誰かを強姦した上で殺害することを企てた。住田は自身が居住していたマンションの隣人女性を襲うことを計画したが、それも失敗に終わった。その後、住田は勤務先であるシンフォームの同僚の中から自身の好みである女性3人を候補に選び、その中から1人を襲うことを決意した。

住田は2011年9月20日付でシンフォームを退社し、2011年9月30日に岡山市内の自宅アパートを引き払った。住田は同日夜に社員証の返却という名目で岡山市北区の同社を訪れた際に、3人の中で最初に同社から出てきた被害者・同社派遣社員の派遣社員の加藤みささん(当時27歳)に「見てもらいたいものがある」と話しかけ、加藤さんを社内の倉庫に呼び出すことに成功した。

住田は倉庫の鍵を掛けるなり加藤さんを殴り倒した。そして所持していた手錠で手を縛った上で、加藤さんを強姦した。その際住田は、住田さんから現金24,000円・バッグを奪い取った。加藤さんは「誰にも言わないから助けて」と命乞いをしたが、住田はそのような懇願を無視し、バタフライナイフでAの胸を10回以上刺した。しかしなかなか絶命しなかったため、頸動脈をかき切って加藤さんを殺害した。

その後、住田は、加藤さんの遺体を自身の車に積んで「実家のある大阪で頑張りたい」と両親と妹がいる大阪市住吉区の実家に帰宅した。住田は証拠隠滅を図るため、加藤さんから奪った現金で実家近くにガレージを借り、毎日遺体を解体した。骨を細かく手で折り、肉片は大和川や近所のゴミ捨て場などに遺棄した。

事件翌日の2011年10月1日、被害者加藤さんの家族が「娘が帰宅しない」と岡山県警赤磐警察署に捜索願を届け出した。同6日、会社の防犯カメラに一緒に歩く加藤さんと住田が映っていたことから、住田を割り出し、大阪府警住吉署に任意同行して取り調べたところ、住田が殺害を自供したため岡山県警は住田を逮捕した。
岡山元同僚女性バラバラ殺人事件(住田紘一・加藤あいさん)
左が加害者の住田紘一、右が被害者の加藤あいさん。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2013年2月14日、岡山地裁(森岡孝介裁判長)は被告人住田に求刑通り死刑判決を言い渡した。裁判長は判決理由で「被害者が1人でも性的被害を伴っており、結果は重大だ」と指摘した。当時、裁判員裁判の死刑判決は16人目で、1人殺害のケースでは3人目だった。裁判員制度下で前科がなく、1人殺害の場合では初の死刑判決だった。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2017年(平成29年)7月13日に広島拘置所で死刑を執行(34歳没))

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沖縄うるま市強姦殺人事件(シンザト・ケネフ・フランクリン)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2016年(平成28年)4月に沖縄県のうるま市で発生した強姦致死、殺人および死体遺棄事件である。

うるま市に住む被害者の島袋里奈さん(当時20歳)は、2016年4月28日午後8時ごろにウォーキングに出発したが、翌日になっても帰宅しなかった。同居人が捜索願を出したものの消息はわからなかった。女性のスマートフォンの位置情報は、翌29日午前2時40分ごろ、自宅から1-2キロ離れたうるま市州崎で途絶えていた。記録が途絶えていた付近の防犯カメラにて、警察捜査員が周辺地域を通過した262台の車の所有者を特定し聞き取りを行った。そのうちの1人として米軍関係者が乗るシンザト・ケネフ・フランクリン(当時32歳)のナンバーの男の車が映っていた。

5月18日に在沖米軍のシンザト・ケネフ・フランクリンが被疑者として浮上。重要参考人として任意聴取し、その供述に基づく捜索により翌19日に遺体を発見、男は死体遺棄容疑で逮捕された。遺体の大部分は白骨化していた。

事件当日、シンサド・ケネス・フランクリン容疑者は自分の車(Yナンバー)で、2~3時間、米軍嘉手納基地近くを走られ、信じられないことに、強姦暴行できる女性を探していた。そこで目に入ったのが、島袋里奈さんだった。

後ろから、島袋里奈さんの頭を棒で殴り、近くの草むらで強姦(レイプ)した。激しく抵抗する島袋里奈さんを刺し首を絞め殴り殺害し、スーツケースに包み、恩納村の雑木林に島袋里奈さんの遺体を捨てた。
沖縄うるま市強姦殺人事件(シンザト・ケネフ・フランクリン)
沖縄うるま市強姦殺人事件(島袋里奈さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 一審、二審で無期懲役判決を受けた被告が、最高裁判所へ上告しなかったため、2018年10月5日に無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2048年10月頃、62歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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桶川ストーカー殺人事件(主犯:小松和人)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 桶川ストーカー殺人事件(おけがわストーカーさつじんじけん)は、女子大学生 猪野詩織さん(当時21歳)が元交際相手の男 小松和人(当時26歳)を中心とする犯人グループから嫌がらせ行為を受け続けた末、1999年(平成11年)10月26日に埼玉県桶川市の東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎線桶川駅前で殺害された事件。警察捜査上の名称はJR桶川駅西口女子大生路上殺人事件。桶川事件とも呼ばれる。本件の発生が契機となり、2000年に「ストーカー規制法」が制定された。

事件はどこにでもあるような男女の出会いから始まる。
平成11年1月6日、埼玉県内のゲームセンターで友人と一緒にいた被害者の猪野詩織さん(21歳)が、小松和人(当時26歳)に声をかけられたことがきっかけで交際がスタート。

当時「和人」は本名を隠して「誠」と名乗り、年齢も23歳と偽っていたほか、実際は東京池袋で実兄 小松武史(元消防庁職員 当時32歳)と共同経営で複数の風俗店を経営していることも隠し、自動車販売などを手がける青年実業家を騙っていた。

3月に入り和人の住むというマンションに遊びに行くが、室内にビデオカメラが隠されていたことに気づきこれ詩織さんが問いただすと、詩織さんの顔スレスレに壁を何度も殴りつけるなど激怒。

こういったことから徐々に和人の暴力的な恐ろしい面を知ることとなり、詩織は和人と別れることを決意するが、別れを告げる詩織に対し和人は「俺に逆らうな」「俺から逃げられると思うな」などと脅し、交際の継続を強要。

詩織さんはこの後も機会を見て何度も別れを切り出すが、和人はその度に脅迫して交際の継続を強要。

ついには和人と兄の武史、柳直之(当時29歳)の三人でしおりさんの自宅に押しかけ、でっち上げた話で金銭を要求。詩織の父親が毅然として追い返し事なきを得た。

この特の様子をこっそり録音していた詩織は翌日上尾署にテープを持参して相談に訪れるが、対応した署員は「民事ギリギリだね」「これは事件にはならない」と、事件として対応しなかった。

和人は兄の武史に詩織さんの殺害を相談。

10月26日、武史に詩織さん殺害を依頼された実行犯の久保田祥史を含む3人が桶川に向かった。

10月26日午前8時ごろ、殺害実行役の風俗店の店主・久保田祥史(当時34歳)、久保田の輸送役の伊藤嘉孝(当時32歳)、見張り役の川上聡(当時31歳)は池袋に集合したのち、2台の車に分乗して午前9時ごろに桶川市へ到着した。

そして午後0時53分ごろ、桶川駅西口前の商業施設「マイン」前の路上において、大学へ向かうため駅前に自転車を駐めた詩織さんは、右背部を久保田にナイフで突き刺され、更に振り返ったところを左前胸部を刺された。

被害者は悲鳴をあげて倒れ、久保田はその場から逃走した。その後詩織さんは上尾中央総合病院へ搬送されたが、午後1時30分に死亡が確認された。死因は肺損傷に基づく大量出血によるショック死で、死亡推定時刻は事件が発生した午後0時50分とされた。

犯行グループで最初に逮捕されたのは実行犯の久保田で、12月19日のことであった。さらに翌20日は兄 武史、伊藤、川上がいずれも殺人容疑で逮捕、4人は翌2000年1月6日に起訴された。同16日には新たに8人が名誉毀損容疑で逮捕され、先に逮捕されていた4人も同容疑で再逮捕された。和人は同日に名誉毀損容疑で全国に指名手配された。

兄 武史の弁護人によれば、逮捕された兄 武史は事情聴取において和人が北海道にいると供述し、さらに和人に「死に癖がある」ことや異常な人間性を繰り返し伝えていたが、捜査員は「死ぬ死ぬといって死んだためしはない。お前が弟を狂人にしているだけ」と取り合わなかったとされる。

そして2000年1月27日、和人は北海道の屈斜路湖において水死体となって発見され、警察により自殺と断定された。和人が残した2通の遺書(1通は実家へ郵送、1通は遺品のバッグから発見)には、いずれも被害者と家族、マスコミへの怨嗟の言葉が並べ立てられ、自身の冤罪を主張する一方で、自身の家族には事前に自らにかけていた生命保険金を老後資金として役立てて欲しい、との言葉が綴られていた。

和人の名誉毀損容疑については、2月23日に被疑者死亡のまま起訴猶予処分となり、和人が責任を問われることはなくなった。
桶川ストーカー殺人事件(主犯:小松和人)
桶川ストーカー殺人事件(猪野詩織さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2001年7月から2002年3月にかけて、殺人実行犯 久保田祥史(当時34歳)には懲役18年、輸送役の伊藤嘉孝(当時32歳)、見張り役の川上聡(当時31歳)にはそれぞれ懲役15年の判決が下された。

 2005年12月20日、東京高裁は地裁判決を支持し控訴を棄却した。実兄 小松武史(元消防庁職員 当時32歳)は即日上告したが、2006年9月5日、最高裁第2小法廷は上告を棄却し、無期懲役が確定した。

❖警察の杜撰な捜査で殺人防げず

目を疑いたくなるような警察(埼玉県警)の不始末と改竄・隠蔽工作、杜撰な捜査でありました。

また、報道被害もすさまじく、事件発生からしばらくは犯人についての情報が乏しかったことから、マスコミの注目は被害者の私生活へと向けられた。そして週刊誌を中心として、被害者について「ブランド狂いだった」「風俗店に勤務していた」といった情報が次々と報道された。しかしこうした情報は正確性を欠いたものであった。

名言『捜査一課長代理ですから、厳しい質問がないようにお願いします。』はあまりにも有名。時折笑顔で会見するのは、もはや感覚が麻痺していんでしょうね。
桶川ストーカー殺人事件(捜査第一課長代理)

❖出所予定(年齢)
 主犯 小松和人・・・死亡(自殺)
 主犯 小松武史・・・2035年12月頃、62歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 実行犯 久保田祥史・・・2019年7月頃、52歳(出所)
 輸送役 伊藤嘉孝・・・2016年7月頃、47歳(出所)
 見張り役 川上聡・・・2016年7月頃、46歳(出所)

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お台場フィリピン人バラバラ殺人事件(野崎浩)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 お台場フィリピン人バラバラ殺人事件とは、2008年(平成20年)4月3日に東京都・港区台場一丁目のマンションで発覚した殺人・死体損壊・遺棄(バラバラ殺人)事件。

加害者 野崎浩(当時48歳)はマンションで同居していたフィリピン人女性 ラティリアさん(事件当時22歳)を絞殺して死体を切断・遺棄したほか、9年前の1999年(平成11年)4月22日にも当時住んでいた神奈川県横浜市神奈川区のマンションで別のフィリピン人女性 ヨネダ・ロンガキット・エルダさん(事件当時27歳)の首に布団を押し付けて窒息死させた。野口は被害者ラティリアさんの死体を損壊・遺棄したとして2000年(平成12年)に死体遺棄・損壊罪などで懲役3年6月の刑に処されたが、当時は被害者Aの死亡経緯が不明だったため殺人罪では立件されず、刑務所出所後に被害者B殺害事件で逮捕された際にヨネダ・ロンガキット・エルダさん殺害も認めたため、2人に対する殺人罪で起訴された。
お台場フィリピン人バラバラ殺人事件(野崎浩)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2012年(平成24年)12月14日、最高裁判所第二小法廷(小貫芳信裁判長)は上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人 野崎の死刑が確定した。判決理由で同小法廷は「関係が悪化し、自分の思い通りにならないことに激怒して殺害し、遺体を解体しており、残忍で悪質極まりない」と事実認定した上で「以前にも同様の事件で服役し反省の機会があったにもかかわらず、再び犯行に及んだことなどから矯正可能性が認められず、死刑はやむを得ない」と述べた。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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香川・坂出3人殺害事件(川崎政則)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 香川県・坂出市で女性とその孫の幼児姉妹2人の計3人が2007年11月16日未明に殺害され、死体が遺棄された事件である。

幼児姉妹 姉の茜ちゃん(当時5歳)と妹の彩菜ちゃん(当時3歳)は11月15日の18時頃に隣の祖母 三浦啓子さん(58)の家に泊まりに行き、翌日の16日の朝に母親が迎えに行ったところ3人ともいなくなっていた。香川県坂出警察署捜査本部は11月16日未明から早朝までに何らかのトラブルがあったと見方を強め、捜査を行った。

父親によれば、寝室や玄関、浴室に血痕があり、さらに寝室のカーペットはL字形に切り取られ、血はカーペットの下の畳まで染みこんでいた。

捜査本部の任意取調べに対し、祖母の義弟(祖母の妹の夫。妹は事件当時既に故人)である義理の大叔父 川崎政則(当時61歳、三浦さんの妹の夫)が、27日までに「3人を殺害し、山中に遺体を捨てた」と犯行を認める供述をし、11月27日夜に死体遺棄容疑で逮捕された。11月28日には、当初の供述通りに山中に向かったところ、Kが「本当は港に捨てた」と一変し、捜査員らがその港に向かったところ、祖母と幼児姉妹の遺体が発見された。

祖母は借金の返済に追われており、その関係上、川崎の妻(自分の妹)から金を借りており、その怨恨と見られる。最終的に単独犯と断定される。
香川・坂出3人殺害事件(川崎政則)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2012年7月12日に最高裁判所は上告を棄却し、川崎の死刑が確定した。
2014年6月26日、大阪拘置所で川崎の死刑が執行された。確定から1年11ヶ月と、比較的早い執行だった。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2014年6月26日午前、大阪拘置所で絞首により死刑執行(当時63歳没))

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架空請求詐欺仲間割れ殺人事件(主犯:清水大志)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)10月に東京都で発生した架空請求詐欺グループの仲間割れによる殺人事件である。

主犯の男 清水大志(当時26歳)は2004年5月頃から、友人の男 伊藤玲雄(れお)(当時31歳)らと共に広告関係の会社を設立した。しかし経営がうまくいかず、たちまち資金繰りが悪化した。このため、清水は伊藤らと共謀して融資保証金詐欺を始めた。

清水は詐欺が次第に大きくなると、新たなメンバーを加え出した。これは一説に万一摘発を受けた際、自らの罪を軽くするためだったともされているが、清水は詐欺で得た莫大な金の大部分を自らの会社の運営費やテレビ番組のスポンサーになるなど、実業家としての表の顔のために使い込んでいた。そのため、一部の詐欺グループ構成員が次第に自らの待遇などに不満を抱き出した。そして、そのひとり男 西村徳也(当時25歳)は詐欺グループ構成員の3人 飯村修一(当時31歳)、横山佳史(当時34歳)、山口泰崇(当時22歳)と共謀して清水を殺害して金を奪うという計画を立てる。

だが、事前に計画を察した清水は伊藤や元暴力団員の友人 渡辺純一(当時28歳)らの支持者らと共に2004年10月13日22時20分、JR船橋駅近くで西村ら4人を襲撃して拉致し、事務所で凄絶なリンチを行なって計画の全貌を吐かせた。そして清水をはじめ伊藤や渡辺など清水に近いメンバーの大半を殺害しようと計画していたことが発覚したため逆上し、西村らを徹底的にリンチにかけた後、事務所に監禁した。

清水らは都内の高級ホテルでルームサービスを囲みながら、渡辺の伝手を頼って暴力団員 阿多真也(当時27歳、無期懲役)も巻き込んでの西村ら4人の殺害を計画。そして10月16日未明から午後にかけて西村ら4人を殺害し、報酬を渡すことで暴力団員に死体の始末を依頼した。後に2005年6月18日に茨城県小美玉市で4人の遺体が見つかるが、その遺体は脛から下がちぎれているなど凄惨なものだったとされる。

2013年1月29日、清水の上告審で最高裁判所第3小法廷(岡部喜代子裁判長)は上告を棄却し死刑が確定した。同日、渡辺の上告も棄却され死刑が確定した。理由について裁判長は、「4人の命が失われた結果は重大。事件の中で重要な役割を果たしており、死刑はやむをえない」などと述べた。同年2月28日、伊藤の上告審でも最高裁判所第1小法廷(桜井龍子裁判長)により上告が棄却され、死刑が確定した。
架空請求詐欺仲間割れ殺人事件(清水大志)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2013年1月29日、清水の上告審で最高裁判所第3小法廷(岡部喜代子裁判長)は上告を棄却し死刑が確定した。同日、渡辺の上告も棄却され死刑が確定した。理由について裁判長は、「4人の命が失われた結果は重大。事件の中で重要な役割を果たしており、死刑はやむをえない」などと述べた。同年2月28日、伊藤の上告審でも最高裁判所第1小法廷(桜井龍子裁判長)により上告が棄却され、死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 主犯:清水大志・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
 主犯:伊藤玲雄(れお)・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
 主犯:渡辺純一・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
 実行犯手伝い:阿多真也・・・2033年1月頃、57歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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加古川7人殺害事件(藤城康孝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)8月2日に兵庫県加古川市西神吉町大国で発生した大量殺人事件。無職の男 藤城康孝(犯行当時47歳、加害者被害者ともに藤城姓である為、以後は康孝)が両隣に住む親類ら2家族の男女8人を刃物で刺して7人を殺害、1人に重傷を負わせた。

藤城康孝(当時47歳)は、まわりから邪魔者扱いされていると感じており、恨みを抱いていた。それは少年時代から続く根深いものであり、恨む対象は本家の人間やその周辺だった。

母親はこの土地に嫁いできた当初から、本家にいじめられていたという。しかし、それを考慮しても、藤城の恨みの深さは異常だった。

2004年8月2日午前3時頃、康考は予め用意していた刃渡り約15cmの大型牛刀2本と金槌のうち[7]、牛刀1本と金槌を持って自宅の東隣にある藤城とし子さん(当時80歳)宅母屋に、隣接する離れのトイレの屋根伝いに脚立を使って2階から侵入し、最初にとし子さんの次男 藤城義久さん(当時46歳)を牛刀で刺殺し、とし子さんを金槌で殴りつけた。

直後にいったん自宅に戻り、座布団の下に直前に使用した包丁と金槌を隠し、新しい包丁に持ち替えた後、とし子宅から自宅を挟んで西に60m離れた藤城利彦さん(64歳)宅に向かった。玄関の横の窓が開いていたため、そこから利彦さん宅に侵入して就寝中の利彦さん、妻 澄子さん(当時64歳)、長男 伸一さん(当時27歳)、長女 緑さん(当時26歳)の一家4人を次々と刺殺した。

その後、いったんは自宅に戻ったが、とし子が助けを求める声を聴いたため、再度とし子さん宅に侵入した。騒ぎを聞いてとし子さん宅に駆け付けたとし子さんの長男 勝則さん(当時55歳、とし子さん宅の東隣に夫婦で住んでいた)と、勝則さんの妻(当時50歳)夫婦を襲い勝則さんを殺害、勝則さんの妻にも一時意識不明の重体となる重傷を負わせ、逃げようとしたとし子さんを刺殺した。
加古川7人殺害事件(藤城康孝)
加古川7人殺害事件(藤城とし子さん宅)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)は2015年5月25日に開かれた上告審判決公判で一・二審の死刑判決を支持して被告人Fの上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑判決が確定することとなった。

被告人 藤城康孝(当時47歳)は上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)へ判決訂正申立書を提出したが2015年6月10日付で棄却決定がなされたことで正式に死刑判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2021年(令和3年)12月21日、大阪拘置所で絞首により死刑執行(当時65歳没))

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柏市連続通り魔殺傷事件(竹井聖寿)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2014年3月3日に千葉県・柏市で発生した通り魔による殺人・傷害・強盗事件。

2014年3月3日午後11時34分頃、千葉県柏市の市道で通り魔による連続事件が起こる。最初に襲われたのは帰宅途中の女性で「すいません、ちょっと」と竹井聖寿(当時24歳)に声をかけられる。女性は「気持ち悪い」と感じて駆け足で逃げた。次に同36分頃、自転車に乗っていた男性(当時25歳)がナイフのような刃物を突き付けられて脅された。男性は「何ですか?お金ですか?」と質問し、男性は左手で払いのけた際に切られて軽傷を負った。

続いて同時刻、事件現場の近くに住む会社員の男性 池間博也さん(当時31歳)が襲われ、ナイフのような刃物で刺された。次に同40分頃、近くに停車中の車に乗っていた男性D(当時44歳)に対して「金を出せ。もう人を殺している」と脅して財布を奪った。同44分頃、車を運転していた別の男性(当時47歳)が倒れていた池間さんを発見して車を降りた隙に男に車を奪われた。池間さんは首や背中の複数個所を刺されており、病院で死亡が確認された。

司法解剖の結果、池間さんの死因は出血性ショックで、抵抗した形跡は無くほぼ即死だったという。

3月5日午前7時25分頃、柏署は殺人容疑で池間さんと同じマンションに住む竹井聖寿(当時24歳)に任意同行を求める。その際、竹井は「チェックメイト」と呟いたという。同日午後5時50分頃、柏署捜査本部は竹井を立ち合わせて自宅を家宅捜査し、凶器とみられる刃物を押収した。
柏市連続通り魔殺傷事件(竹井聖寿)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2016年10月11日、最高裁判所第三小法廷は被告側の上告を棄却し、一審・二審での無期懲役の判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2046年10月頃、56歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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神奈川県警女性隊員殺害事件(岡部伸次)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2000年に神奈川県警察の女性隊員 貝塚しのぶさん(当時28歳)が刺殺された事件である。

2000年12月4日、女性の悲鳴が横浜市旭区のマンションに響いた。悲鳴に隣人が駆けつけると、女性の胸に刃渡り17cmものサバイバルナイフが突き刺さっていた。その後、救急隊が駆け付けるも死亡が確認された。被害者は神奈川県警察警察音楽隊の女性隊員であった。そして、被害者の部屋で同音楽隊のメンバーの岡部伸次警部補(当時42歳)が首をつって自殺していた。

県警監察室は事件の前、事情聴取をしていて、女性隊員は「交際を迫られ、困っている」と相談していたという。男はあらかじめ遺書を上司などに残していたことから最初から自殺するつもりだったと見られた。警部補が自殺しているため、2000年12月26日に横浜地方検察庁に書類送検した。神奈川県警は殺人を犯したとみられる警部補に対して退職金を支給したため、非難が殺到した。これに対して県警は地方公務員法に基づき被疑者死亡のため懲戒免職にできず支給せざるを得ないとした。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2001年3月5日に横浜地検は警部補を被疑者死亡で不起訴処分とした。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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金沢市夫婦強盗殺人事件(少年(17歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2004年(平成16年)9月13日に石川県金沢市の民家で発生した強盗殺人事件(少年犯罪)。

2004年9月13日午前3時20分頃、石川県金沢市神野2丁目の民家に強盗目的で少年(当時17歳)が勝手口の窓ガラスを割って侵入したが、家主の男性神後武雄さん(当時66歳)と妻 信子さん(当時64歳)に気づかれ、抵抗されたためサバイバルナイフ(刃渡り約30cm)や鉄製の杭(刃渡り約10cm)で全身を刺して、夫婦を出血性ショックで死亡させた上、現金3700円とカードが入った財布を奪った。妻からの110番通報を受け、石川県警金沢西署の署員が現場に急行すると、ナイフを持って立ちつくす少年を発見し、少年が「人を刺した」と供述したため、同署員は少年を現行犯逮捕した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2006年12月18日、金沢地裁(堀内満裁判長)は検察の求刑通り、元少年に無期懲役を言い渡した。判決理由で裁判長は、元少年が「凶器を複数用意していたこと、返り血が目立たない服に着替えたこと、通報を阻止するために電話線を切断したこと」を挙げ、完全責任能力があったと認定した。その上で「死刑を選択すべき事案であるが、少年法第51条の規定が適用される」と結論付けた。遺族は判決後の会見で「年齢に関係なく死刑が適用できるように少年法の見直しをお願いしたい」と発言した。

❖出所予定(年齢)
 2036年12月頃、47歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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鹿沼市職員殺害事件(主犯:曽根正志)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2001年に廃棄物行政に絡み栃木県・鹿沼市役所の職員 小佐々守さん(当時57歳)が廃棄物処理業者社長 曽根正志(当時61歳)の不当要求に応じず逆恨みされ、帰宅途中に拉致されて殺害され、群馬県内の山中に遺棄された行政対象暴力事件。

鹿沼市と産業廃棄物処理業者との癒着を正そうとした職員が逆恨みされ、殺された。実行犯4人(高木誠(当時52歳)、田村好(当時62歳)、吉田義雄(当時61歳)、佐々木京一(当時48歳))は逮捕されたが、犯行を依頼した産業廃棄物業者は、逮捕される前に自殺した。また、癒着に深く関わっていたと思われる鹿沼市幹部職員も自殺した。被害者の遺体は発見されていない。

❖廃棄物処理業者「鹿沼環境美化センター」

 社長 曽根正志         営利目的略取誘拐などの疑いで逮捕状取得後自殺
 役員 佐々木京一        小佐々さん営利目的略取容疑などで逮捕
 役員 現職市幹部の実弟の妻   元市議会議長が自宅を訪れ、役員への就任を依頼
 役員 元鹿沼市市幹部      清掃事務所長や廃棄物行政担当の民生部長
 役員 現職国会議員の実弟
 役員 元鹿沼市議会議長(故人)

鹿沼市役所(鹿沼環境美化センターではありません)
鹿沼市職員殺害事件(市役所)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 実行犯にはそれぞれ懲役14年から18年の判決が確定している。

 佐々木京一 懲役18年(2004年9月判決)
 吉田義雄  懲役17年(2004年6月控訴棄却)
 高木誠   懲役14年(2004年9月判決)
 田村好   懲役18年(2004年5月編決)

❖出所予定(年齢)
 主犯:曽根正志・・・死亡(自殺)
 実行犯:佐々木京一・・・2022年9月頃、66歳(出所)
 実行犯:吉田義雄・・・2021月6月頃、78歳(出所)
 実行犯:高木誠・・・2018年9月頃、66歳(出所)
 実行犯:田村好・・・2022年5月頃、80歳(出所)

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川口強盗強姦殺人事件(清田龍也)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年10月30日に埼玉県・川口市で起こった強姦・強盗殺人事件。

2007年10月30日、川口市柳崎のアパート2階で、会社員女性 渡辺沙織さん(当時26歳)が川口市源左衛門新田の自称配管工 清田龍也(当時39歳)に強姦された上で殺され、現金8000円とキャッシュカード3枚、運転免許証を奪われた。

11月1日、女性の無断欠勤が続くことを心配した会社の同僚が訪ねてきたことから事件が発覚。警察は、女性が殺害される前後に女性のキャッシュカードから現金を引き出そうとしている男の姿(割と有名な姿)がカメラに映っていたことから捜査を進め、犯人の男は強盗殺人や住居不法侵入などの容疑で逮捕された。また当初は本事件の3か月前に本事件現場と同じアパートの別の部屋で起きた強盗事件での逮捕であった。
川口強盗強姦殺人事件(清田龍也)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 清田は強盗殺人や強姦罪などで起訴され、2008年11月12日に無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2038年11月頃、69歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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川崎市中1男子生徒殺害事件(舟橋龍一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2015年(平成27年)2月20日に、神奈川県・川崎市川崎区港町の多摩川河川敷で13歳の中学1年生の上村遼太さんが殺害された上に遺体を遺棄され、事件から1週間後に少年3名(舟橋龍一(当時18歳、以下X)、Y、Z)が殺人の疑いで逮捕された少年犯罪。

2月20日午前2時頃に上村遼太さんが死亡したと推定される。

被害者の死因は首を刃物で傷つけられたことによる出血性ショック。上村遼太さんの遺体に着衣はなく、首の後ろから横には鋭利な刃物により切り傷が集中し31カ所に達していた。顔や腕にも切り傷があり、少年の全身に刻まれた作業用カッターによる切創は43カ所であった。数本の拘束バンドが殺害現場から発見されており、手足を縛られて激しい暴行を受けた可能性あり。

2月27日午前11時、捜査本部は母親と弁護士と共にタクシーで川崎署に出頭してきたリーダー格とされる当時18歳の無職の男Xを(この際、弁護士がXは死亡推定時刻当時に家にいたという旨を捜査本部に述べてから出頭させている)、午後0時30分に自宅で当時17歳の男Yを、午後1時30分に同じく当時17歳の男Zを署内でそれぞれ殺人容疑で逮捕した。

被害者の上村遼太さん。
川崎市中1男子生徒殺害事件(上村さん)
主犯の舟橋龍一(当時18歳)。SNSで実名を暴かれる。
川崎市中1男子生徒殺害事件(舟橋龍一)
左から少年Y(当時17歳)、中央が舟橋龍一(当時18歳)、右が少年Z(当時17歳)。
川崎市中1男子生徒殺害事件(舟橋龍一、Y、Z)

❖屑の親の発想

 舟橋龍一の両親のしつけは暴力を使ったもので、父親は「2回言うことを聞かなければ殴る」ということを実行しており、言うことを聞かない舟橋龍一を殴ったり、顔を足で蹴ったり、6時間も正座をさせることもあり虐待をしていました。

また、フィリピン人の母親もそれを止めることは無く、むしろ自らもハンガーなどで舟橋龍一を殴りつけていました。

事件後、取材を受けた父親が「話、無いっつーの」と軽く記者をあしらっていた態度からも、どうしようもない責任能力の無い男だということが分かりました。
川崎市中1男子生徒殺害事件(舟橋龍一の親)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2016年2月10日、横浜地裁は舟橋龍一(X)に懲役9年以上13年以下の不定期刑を言い渡し、検察側・弁護側共に控訴期限までに控訴せず、刑が確定した。
 2016年3月14日、横浜地裁はYに懲役4年以上6年6ヶ月以下の不定期刑を言い渡し、検察側・弁護側共に控訴期限までに控訴せず、刑が確定した。
 最高裁第2小法廷(山本庸幸裁判長)は2017年1月25日付で上告の棄却を決定し、Zを懲役6年以上10年以下の不定期刑とした一審・二審判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 主犯:舟橋龍一(X)・・・2029年2月頃、31歳(不定期刑で最も重い懲役の13年と仮定 )
 少年Y・・・2022年9月頃、24歳、すでに出所(不定期刑で最も重い懲役の6年6ヶ月と仮定 )
 少年Z・・・2027年1月頃、27歳(不定期刑で最も重い懲役の10年と仮定 )

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河瀬駅前交番警察官射殺事件(大西智博)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年(平成30年)4月11日夜に滋賀県彦根市南川瀬町の滋賀県彦根警察署河瀬駅前交番で発生した殺人事件。

勤務中の警察官(大西智博、犯行当時19歳巡査、逮捕後に懲戒免職)が貸与された拳銃で上司の警察官(井本光(あきら)当時41歳、事件当時41歳巡査部長、事件後に警部へ2階級特進)を射殺した。

警察庁によれば「警察官が貸与された拳銃で同僚を射殺した事件は初めて」であり、この「前代未聞の不祥事」は日本社会に大きな衝撃を与えた。

❖密室のやり取り、果たして・・・。

 井本巡査部長の厳しい指導の裏に隠された部下の成長を願う気持ちと、それを苦痛に感じていた元巡査の心のすれ違い?があったことも公判で明らかにされた。

それは大西智博巡査が警察学校を卒業し、初めて彦根署河瀬駅前交番に配属されてから約2週間たった2018年4月11日の夜のことでした。

「おまえがアホなんは親がアホやからちゃうんけ」

同僚であり厳しい指導役でもあった井本巡査部長が、夕食のお弁当を電子レンジで温めていた大西智博巡査に対して聞こえよがしに吐き捨てた言葉です。

この言葉は、やっとのことで保っていた、当時19歳だった大西智博巡査の心の中の一本の糸を断ち切りました。

大西智博巡査は、そのまま交番内の別の部屋へ移動し、上司に悟られぬよう拳銃の撃鉄を起こします。

そして、再び井本巡査部長がいる部屋に戻ると、パソコンの前で作業していた上司の背後に立ち、目をつむったまま引き金を引いたと言います。

至近距離から後頭部に1発。そして、机に突っ伏した井本巡査部長の背中めがけて、さらに1発。

その後、駆けつけた署員に発見された井本巡査部長は、同市内の病院に緊急搬送されるも、22時過ぎに死亡を確認。

その後の司法解剖の結果、井本巡査部長の死因は頭部を撃たれたことによる脳幹部損傷で、ほぼ即死の状態でした。

上司を撃った大西智博巡査。
河瀬駅前交番警察官射殺事件(大西智博)t

部下に撃たれた井上光巡査部長。
河瀬駅前交番警察官射殺事件(井本光さん)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 被告人・元巡査 大西の弁護人は控訴期限となる2019年2月22日までに大阪高等裁判所へ控訴するための控訴状を大津地裁に提出しなかったため、2019年2月23日付で懲役22年判決が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2041年5月頃、41歳(懲役22年)

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河内長野市家族殺傷事件(少年(18歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年に大阪府河内長野市で発生した事件である。

2003年11月1日午前2時頃、大阪府河内長野市の会社員から 「息子がいきなり切りつけてきた」との119番通報があり救急隊が駆けつけると、1階で会社員の妻が首などを切られ倒れており(搬送先の病院で死亡)、2階で寝ていた次男や、長男を取り押さえようとした会社員も刺され重傷を負っていた。

大学生の長男(当時18歳)は会社員の車で逃走したが、午前3時過ぎ、緊急配備中のパトカーに発見され緊急逮捕された。凶器の包丁は、犯行2、3日前にホームセンターで購入したと供述。同日、車に同乗していた高校1年の少女(当時16歳)が、自分も家族を殺そうと思い包丁を買ったと供述したため、殺人予備容疑で逮捕された

調べでは、少年と少女は幼なじみで、9月ごろから交際を始めた。2人は10月初めごろから、お互いの家族を殺害する話を始め、頻繁に会って打ち合わせを重ねていたという。計画を実行に移す時期については事件当日前後に絞っていたという。2人が親密に話す姿は少年が通う大学構内や自宅近くの私鉄の駅、少女の自宅周辺で、たびたび目撃されていた。

これまでの供述によると、少女は「2人で暮らしたかった。それにはそれぞれの両親が邪魔だった」と話し、事件後は「住まいを確保して一緒に暮らしても、事件を起こした以上、長続きしないことはわかっていた。最後は2人で死のうと考えた」と明かしている。少年は事件直前に家族とトラブルを起こしていなかったという。「1人で自殺するのが怖かったので家族を道連れにしようと思った」などと供述している。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年3月18日、大阪家庭裁判所はいずれも医療少年院送致とする保護処分を決定。

❖出所予定(年齢)
 保護観察処分(※)

※保護観察とは、犯罪をした人または非行のある少年が、社会の中で更生するように、保護観察官及び保護司による指導と支援を行うものです。 刑務所等の矯正施設で行われる施設内での処遇に対し、施設外、つまり、社会の中で処遇を行うものであることから、「社会内処遇」と言われています。

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吉祥寺女性刺殺事件(飯塚浩輝(当時17歳)、今井アレックス(当時17歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2013年2月28日に発生した強盗殺人事件。

2013年2月28日午前1時50分頃、東京都・武蔵野市吉祥寺の路上で帰宅途中のアルバイト女性 山田亜理沙さん(当時22歳)が少年2人 飯塚浩輝(当時17歳)、今井アレックス(当時17歳)に襲われ、背後から刃物で刺されて財布などを奪われる事件が発生した。被害女性は病院に搬送されたが、背中の傷2か所のうち1か所は肺にまで達しており、ほぼ即死であった。

少年2人 飯塚と今井は犯行直後に殺害現場近くのコンビニエンスストアで被害女性のキャッシュカードから現金を引き出そうとするも失敗したうえ、路上で警察官から職務質問を受けて逃走した。

当日朝になり、ルーマニア国籍の少年 今井アレックス(当時17歳)は他人名義の銀行通帳を所持していた占有離脱物横領容疑で逮捕され、翌3月1日には強盗殺人容疑で再逮捕された。

もう1人の日本国籍の少年 飯塚浩輝(当時18歳)は当日こそ身柄を拘束されなかったものの、防犯カメラを解析した結果、駅から電車を乗り継いで立川方面に向かっていたことが判明した。日本国籍の少年は3月2日夜に出頭し、翌3月3日に強盗殺人容疑で逮捕された。

飯塚浩輝(当時17歳)
吉祥寺女性刺殺事件(飯塚浩輝(当時17歳)

今井アレックス(当時17歳)
吉祥寺女性刺殺事件(今井アレックス(当時17歳))
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2014年1月から3月にかけて東京地裁で裁判員裁判が開かれた。少年2人は殺意を否認したが、東京地裁は強盗殺人罪を認定し、求刑通り無期懲役判決を言い渡した。その後、少年2人は控訴したが棄却され、無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2044年1月頃、47歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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旧清川村強盗殺人事件(伊東順一)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2005年3月に大分県・大野郡清川村(現:豊後大野市)で起きた強盗殺人事件である。

大分県清川村(現豊後大野市)で2005年3月19日に山口範子さん(当時61歳)の顔が判別できない程殴打された状態の遺体が自宅裏庭で見つかった。乗用車が奪われていた。

大分県警は、2007年2月、被害者と顔見知りでこの事件とは別の窃盗罪により服役中だった伊東順一(当時61歳)を強盗殺人、窃盗、住居侵入の罪で逮捕した。

当初は容疑を否認していたが、数日後に容疑を認めた。検察はこれを受けて2005年3月8日に被害者宅に侵入して現金13万円を盗んだうえに、同14日に山口さん宅に侵入してコンクリートの塊で被害者を殴り倒してビニール紐で首を絞めるなどして殺害した後に乗用車や商品券を奪った容疑で逮捕していた伊東を起訴した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2015年10月6日、最高裁で無期懲役判決。確定した。

❖出所予定(年齢)
 2045年10月頃、91歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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京田辺警察官殺害事件(少女(当時16歳))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年9月18日に京都府・京田辺市で、当時16歳の少女が警察官(京都府南警察署勤務)である父親を殺害した事件。

2007年9月18日午前4時頃、少女は自宅2階の寝室で寝ていた父親の首を手斧(刃渡り11cm、柄約30cm)で切りつけて失血死させた。午前4時40分頃、少女の母親が「父親が首を切って自殺した」と119番通報。消防からの連絡で田辺署員が駆け付けたところ、2階の寝室のベッドで血塗れで死亡していることが確認された。1階キッチンに手斧が落ちており、側にいた少女の服に返り血が付いていたため、署員が事情を聞いたところ犯行を認めたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
京田辺警察官殺害事件(少女(当時16歳)・中等少年院送致)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2008年1月23日、京都家裁の決定で裁判長は動機について、厳しいしつけをしてきた父に女性関係があって、生理的な嫌悪感や不快感を抱いていたが、そんな父親に専門学校進学の許諾を得なければならなかったことに強い屈辱感を持ったためとし、6月頃には殺害を計画したとした。

そして、犯行が残忍で計画性が認められる重大事案として、原則検察官に送致すべき事件としつつも、少女の、こだわりが強いという特性や潔癖を願う気持ちが強い性格により、抑うつ症状が強まっていたとして、保護処分とする特段の事情があると結論。

謝罪する気持ちがあることや家族の処罰感情が強くないことも考慮し、長期間の矯正教育を施して更生を図るべきだとして、中等少年院送致の保護処分を決定した。異議はなく、そのまま確定した。

❖中等少年院

中等少年院とは、心身に著しい故障のない、おおむね16歳以上20歳未満の者を収容する少年院です。少年院送致を言い渡された少年は、ほとんどが中等少年院に送致されます。

少年院の処遇課程には、特修短期処遇(4か月以内での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、一般短期処遇(6か月以内程度での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、長期処遇(12か月以内程度での仮退院を目指す矯正教育メニュー)、超長期処遇(12か月以上かけて矯正教育を授けるメニュー)があり、これらの処遇課程の振り分けは、短期処遇については、家庭裁判所の処遇勧告に従うのが原則とされ、長期処遇については、比較的長期(18か月程度)や相当長期(24か月以上)などの勧告を尊重することとされています。

❖出所予定(年齢)
 2011年1月頃、19歳(中等少年院で最も長い3年と仮定)

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京都・神奈川親族連続殺人事件(松村恭造)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年1月に京都府・神奈川県で発生した連続殺人事件。

2007年1月16日、犯人 松村恭造(当時25歳)は京都府・長岡京市在住の叔母 岩井順子さん(当時57歳)を襲って殺害し、現金およそ2万円とキャッシュカードを強奪して逃走した。京都府警察は1月20日、犯人を特定して全国に指名手配(非公開)する。

松村はその頃には東京都に逃走しており、奪った金で風俗店で遊びまわって使い果たしてしまっていた。金に困った松村は、1月22日に神奈川県・相模原市在住の大叔父を頼って金を無心したが断られた。宿泊を頼み込んで認められたが、1月23日の深夜、松村は大叔父 加藤順一さん(当時72歳)が就寝しているところを鈍器で滅多打ちにして殺害。遺体を押入れに隠し、現金およそ1万円と携帯電話を盗んで逃走した。大叔父の遺体は早朝に発見された。

松村は1月23日の夕方、東京都・練馬区内を歩いていたところを京都府警の捜査員に発見され、叔母 岩井さんに対する強盗殺人で逮捕された。2月21日には大叔父 加藤さんに対する強盗殺人の容疑で再逮捕された。
京都・神奈川親族連続殺人事件(松村恭造)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判でも松村は傍若無人な発言を繰り返した。初公判では「人殺しくらいやって当然」と述べた。さらに「2人の冥福を祈るつもりは全くない」などとも述べた。

2008年3月17日、京都地方裁判所で裁判長の「犯行を認めますか」という罪状認否に対して、「俺が2人を殺した。俺は人殺しという大仕事を冷静に成し遂げた。俺は自分をほめてやりたい」と発言した。動機に関しても、「人生がうまくいかない。どうせ死ぬのなら恨みがあるやつを殺してからにしようとした」と発言した。

また、自身を勘当した父親を憎んでか、父親に対して「事件はてめえの責任」と述べるなど、不規則発言を繰り返した。また、自分を馬鹿にしたとして同級生を3人目の殺害対象にしていたとも証言した。

これらの不規則発言から反省の意思がまったくないとして、3月28日に京都地裁は「事件の責任は重大。被告人の反省の態度が見られず、更生を期待するのは極めて困難」として松村に死刑判決を言い渡した。

弁護側は大阪高等裁判所に即日控訴したが、松村が自ら取り下げて4月8日に死刑が確定し、2012年8月3日に大阪拘置所で松村の死刑が執行された。奇しくも、この日は松村の誕生日であった(生没同日)。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2012年8月3日、大阪拘置所で絞首により死刑執行(当時30歳没))

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京都小学生殺害事件(岡村浩昌(てるくはのる))
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1999年(平成11年)12月21日に、京都府京都市伏見区の京都市立日野小学校で起きた殺人事件。

校庭で遊んでいた2年生の中村俊希くん(当時7歳)が、岡村浩昌(当時21歳)に刺殺された。岡村は「私を識別する記号→てるくはのる」などと記した犯行声明を現場に残し逃走。翌2000年(平成12年)2月5日、警察がOを訪ね任意同行を求めたところ、岡村は捜査員の隙をついて逃走し、高層アパートの屋上へ逃げ込んで飛び降り自殺を遂げた。
京都小学生殺害事件(岡村浩昌が書いた犯行声明)
京都小学生殺害事件(岡村浩昌)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2000年4月22日、捜査本部は被疑者死亡のまま、Oを殺人罪、銃刀法違反など四つの容疑で、京都地検へ書類送検した。2000年4月28日、京都地検はOの犯行を認定した上で不起訴とし、これで捜査は全て終結した。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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国立市主婦殺害事件(岡敏明)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1992年(平成4年)10月20日に東京都国立市東三丁目で発生した強盗強姦・強盗殺人・窃盗事件。

岡敏明(当時43歳)は事件前に塗装工事で出入りしたことがある家に上がり込み、1人で留守番していた主婦(当時35歳)を強姦した上で金品を奪うことを計画。同宅に上がりこんで被害者の主婦を脅迫・強姦した上、予め用意していた千枚通し・牛刀で口封じのために被害者を刺殺し、現金約31,000円を奪った。

岡はA宅に赴くと、A以外に家人がいないことを確認し、在宅していたAに対し「近くまで仕事に来たので立ち寄った」などと口実を構えて上がり込んだ。

Aの口を右手で塞いだ上で、左手でAの左腕を抑え、「静かにしろ。騒ぐと殺すぞ。声を出すな」などと申し向けて脅迫した。Aが「人殺し」と叫ぶと、OはAの前頸部を右手で強く絞めつけ、その態度から「Aは泣き寝入りしない」と判断し、Aを強姦した上で殺害することを決断。

洋服タンスから取り出した紐などでAの両手首を首の後に回し、首と一緒に縛り上げた上で肉体関係を迫った。Aがこれを拒否すると、OはAのみぞおち付近を拳で力いっぱい3回ほど殴りつけ、押し入れから取り出した敷布団をAの上半身にかぶせた。そして目をつぶり動かなくなったAのジーパンをずり降ろし、台所にあった牛刀(刃体の長さ約15.8 cm)でパンティの両脇を切断して剥ぎ取り、執拗なわいせつ行為を加えた末にAを姦淫した。そして確定的殺意を有した上で、千枚通しで4回ほど(背中を3回ほど+側胸部を1回)、牛刀で2回(頸部および後頸部を各1回)、それぞれ突き刺し、Aを失血死させた。

岡は1995年(平成7年)に東京地方裁判所八王子支部で死刑判決を言い渡されたが、東京高等裁判所へ控訴したところ、1997年(平成9年)に無期懲役判決を言い渡された。同判決を不服とした東京高等検察庁は、「本事件は最高裁判所が1983年(昭和58年)7月に示した死刑適用基準(永山基準)に照らし、極刑がやむを得ない事案である」として、量刑不当および判例違反を理由に最高裁へ上告。死刑を求刑していた検察側が量刑不当を理由に最高裁へ上告した事例は当時4件目で、殺人前科のない被告人による被害者1人の殺人事件としては初めてだった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1999年11月29日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(福田博裁判長)は原判決(無期懲役)を支持して検察官の上告を棄却する判決(以下「福田判決」)を言い渡した。「福田判決」は、検察官の上告趣意を「判例違反をいう点を含め、実質は量刑不当の主張であって、適法な上告理由に当たらない。」と退けた一方、被告人Oの量刑について職権により判断し[57]、死刑適用基準(永山基準)を示した最高裁第二小法廷の判決(1983年7月8日)を引用して「殺害された被害者が一名の事案においても、(『永山基準』にて、死刑を選択すべきか判断する際に考慮すべきものとして示された)諸般の情状を考慮して、極刑がやむを得ないと認められる場合があることはいうまでもない。」と指摘した。

❖出所予定(年齢)
 2029年11月頃、73歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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熊谷男女4人殺傷事件(尾形英紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)8月18日に埼玉県・熊谷市で発生した男性殺害、女性拉致殺傷事件。

本事件は2003年(平成15年)8月18日、不倫相手の少女の「交際相手に姦淫されそうになった」という訴えを聞いた元稲川会系暴力団員の尾形英紀(当時26歳)が、少女の元交際相手鈴木秀明さん(当時28歳)を詰問して包丁で背中などを刺して殺害し、襲撃時に鈴木さんと同室にいたB、事件直後に鈴木さんの部屋を訪れたC、Cと同室に住んでいたDの3人を口封じのために拉致し、首を絞める・包丁で刺すなどしてCを殺害、BとDに重傷を負わせた事件である。B、C、Dの3人ともOとは初対面であった。
熊谷男女4人殺傷事件(尾形英紀)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2007年4月26日、さいたま地裁(飯田喜信裁判長)は、「1日のうちに4人を殺害の対象とし、2人を殺害したまれに見る重大な凶悪事件。犯行は非人間的と言わざるをえない。殺してでもメンツを守ろうとする暴力団関係者特有の思考で、あまりに短絡的な犯行。動機と経緯に酌量の余地はない」と指弾した。さらに刑事責任能力についても「指紋をふき取るように指示するなど合理的な行動をとっている。殺害経緯、殺害状況について具体的な記憶を保持していた」として完全責任能力を認め、弁護側の「善悪の判断能力と行動制御能力が著しく低下し、心神耗弱状態だった」という主張も退け、検察側の求刑どおりOに死刑判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2010年7月28日、東京拘置所で絞首により死刑執行(当時33歳没))

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熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件(長井俊一、福島大三)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1989年(平成元年)4月5日に埼玉県・熊谷市で発生した、保険金の獲得を目的とした放火殺人(保険金殺人)事件。

1989年4月5日21時20分ごろ、熊谷市内の養鶏場のプレハブ平屋宿舎が放火され、住み込み従業員の高原晟(あきら)さん(当時53歳)が全治4か月の火傷を負ったほか、高原さんの妻であるヒロ子さんが死亡した(48歳没)。火元の宿舎約20平方メートルは全焼した。

従業員の福島大三(当時64歳)に犯行を依頼した経営者の長井俊一(当時49歳)に保険金2,773万円が入り、福島に報酬として300万円を支払った。福島は当時、埼玉県警察による事情聴取に対し、「出火した際はおじちゃん(福島大三)がおり、火を点けた」と証言するもその後「覚えていない。ガスの不始末かもしれない」と変遷した。

事件発生から13年が経過した2002年(平成14年)に「福島大三が室内に油を撒いているのを見た」と再び当初の証言に戻った。このため、埼玉県警は同年7月11日に福島大三(当時77歳)を、同月22日に長井俊一(当時63歳)をそれぞれ逮捕した。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は2003年11月29日付で、被告人 長井俊一の上告を棄却する決定を出したため、被告人 長井俊一(当時65歳)は無期懲役が確定した。

2006年(平成18年)9月26日、東京高裁(池田修裁判長)は原判決(死刑を選択した第一審判決)を破棄自判し、被告人 福島大三に無期懲役を宣告した。東京高裁 (2006) は、首謀者であるWの無期懲役が確定していたことから、「Wの無期懲役とは歴然とした差異のある極刑は、共犯者間の刑の均衡を失する懸念をぬぐい難い」と指摘したほか、「被告人 福島大三は長井俊一に利用され、巻き込まれた面があるのは否定できない。

被告人 福島大三の年齢(当判決時82歳)などを考えると、極刑はいささか躊躇を覚えざるをえない」と述べた。被告人 福島大三は最高裁に上告したが、上告中の2007年(平成19年)5月28日に東京拘置所内で病死(82歳没)。これを受け、最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は同年6月12日付で公訴棄却の決定を出した。

❖出所予定(年齢)
 福島大三 死亡(病没)
 長井俊一 2033年4月頃、95歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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熊谷連続殺人事件(ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン・)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2015年(平成27年)9月14日・9月16日の計2日にかけて、埼玉県熊谷市で所轄の埼玉県警察熊谷警察署から脱走したペルー人のナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン(当時30歳)が、小学生女児2人を含む住民の男女6名を相次いで殺害した連続殺人事件。

2015年9月14日夕方、熊谷市見晴町の住宅(上熊谷駅から南に約500m、荒川の河川敷のそば)で田崎稔さん(当時55歳)、田崎美佐枝さん(当時53歳)夫婦が殺害される(第1の事件)。この事件は18時5分ごろに妻の散歩仲間の女性が夫婦宅を訪ねたときに発覚したが、この女性が17時すぎに散歩に誘うメールを送った時は了承する旨の返信があったという。夫妻の部屋の壁にはアルファベットのような文字が血で書かれており、警察は犯人が書いた可能性があるとみて調べている。

16日、同市石原の自宅(石原駅から北に約400m、第1の事件の現場から北西に約1km)にいた白石和代さん(84歳)が殺害され(第2の事件。通報は16時23分、警察が発見したのは16時50分)、別の住宅(第2の事件の現場から西方に約80m)にいた加藤さん(当時48歳)の妻の加藤美和子さん(当時41歳)と小学5年の長女美咲さん(当時10歳)、同2年の次女春花さん(当時7歳)の3名が殺害された(第3の事件)。

17時14分ごろ、警察官が第3の事件が発生した住宅に第2の事件の聞き込み捜査のため訪問したところ、照明が点いているにもかかわらず応答がないことを不審に思い、周囲を覗いていると17時27分にこの家の2階から両手に包丁を持ったナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンが顔を出した。17時33分ごろ、警察の説得を無視して自殺(両腕を包丁で数回切った後窓から投身)を図り、頭部を強打・骨折し意識不明となったところで警察に身柄を確保され、所持していた包丁2本を押収され、深谷市内の病院へ運ばれた(第3の事件の被害者が発見されたのは、男の身柄が確保された後である)。身柄確保時、男は被害者宅にあった服を着ていた。
熊谷連続殺人事件(ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン)
熊谷連続殺人事件(被害者の方たち)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2019年12月5日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁(大熊一之裁判長)[注 1]は第一審・死刑判決を破棄して無期懲役判決を言い渡した。裁判員裁判で言い渡された死刑判決が破棄された事例は本件で6件目で、東京高裁は判決理由にて「被告人は妄想上の『追跡者』から身を隠すために被害者宅へ侵入し、被害者を『追跡者』と勘違いして殺害した可能性がある」「本来は死刑で臨むほかない重大な犯罪だが、統合失調症がもたらした強い妄想の影響で責任能力が十分ではなかった。心神喪失とまでは言えないが完全な責任能力を認めた第一審判決は適切ではない」として心神耗弱を認定した。

被告人の弁護人は心神喪失を認定しなかった控訴審判決を不服として2019年12月18日付で最高裁判所へ上告した一方、東京高検は控訴期限(2019年12月19日)までに上告を断念したため、上告審で被告人に無期懲役より重い刑(死刑)が科される可能性が消滅した。東京高検の久木元伸次席検事は上告断念の経緯について「事案の重要性や遺族の心情などを踏まえたうえで、さまざまな角度から判決内容を慎重に検討したが、適法な上告理由が見いだせず遺憾だが上告を断念せざるをえない」とするコメントを出した。

2020年(令和2年)9月9日付で最高裁第一小法廷(山口厚裁判長)が被告人の上告を棄却する決定を出したため、無期懲役が確定することとなった。被告人側は同決定に異議を申し立てたが、これも同月24日付の同小法廷決定で棄却されたため、無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2050年9月頃、64歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

❖兄弟そろって最強シリアルキラー
 ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン(事件当時30歳・ペルー人)は「ペルー史上最悪の連続殺人犯」ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャの実弟でした。兄ペドロの犯罪現場を目撃した犯人は精神を病んでしまったと語られています。

ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ(「ペルー史上最悪の連続殺人犯」)

 ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ (旧名ペドロ・パブロ・マシアス・ルデニャ) は、1973年2月28日、ペルーの首都リマで生まれた。

父親は重度のアルコール依存症であった。そんな父親は酒に酔っては日常的に母親に暴力を振るった。

パブロは4歳の頃、兄弟で飼っていた雌犬が死んだのだが、それがパブロが殺した事になり、家族から性的虐待を受けるようになる。この性的虐待により、パブロは完全にゲイになってしまった。そんなパブロは5歳の頃には動物を虐待し、殺すようになる。パブロは犬や猫といった比較的小さめの動物ではなく、馬や牛といった大きい動物が苦しみながら死んでいく様子を見て興奮した。

9人兄弟だったパブロは、長女から女装するよう強要された。

1990年、パブロ17歳の時、畑でスイカを盗んだ所、作業していた農夫に見つかってしまい、注意された為、殺害した。これがパブロ初めての殺人であった。

その後、ペルー軍に入隊したが、わずか2ヶ月で除隊させられる。しかし、このペルー軍に入隊したというのは、後に嘘であると判明する。

2003年、パブロは日本に行こうと考え、約3万円を支払う事で、日本国籍を所有する人と養子縁組を行い、『ナカダ』の名字を取得する。尚、パブロの兄弟も『ナカダ』の名字を持っている。

2000年頃からパブロは殺人を始める。パブロが標的にしたのは、麻薬中毒者や売春婦、同性愛者などで、ゴムのスリッパを使って製作した自作のサイレンサー付9㎜銃で、上述した人間を次々と射殺した。

こうしてパブロは2000年から2006年までに、20人以上を殺害した。

2006年12月28日、警察は一連の犯行をパブロの仕業だと断定し、パブロの職場に向かった。すると、パブロが警官を見るなり発砲。パブロと警官による銃撃戦となるが、パブロの弾が尽き、逃走を図るが逮捕された。この銃撃戦で警官1人が負傷した。

逮捕されたパブロは、殺害動機について「世界を浄化する為に神の命令で麻薬中毒者、売春婦、同性愛者らを殺した」と語った。

取り調べにパブロは今まで25人殺害した事を自供したが、確認がとれたのは17人であった。ただし、警察は被害者は25人以上であると推測している。パブロの事件が公になると、ペルー全土が震撼し、パブロは『死の使徒』と呼ばれた。2008年、裁判でパブロには懲役35年が言い渡された(ペルーに死刑制度がないため)。
熊谷連続殺人事件(ペルー史上最悪の連続殺人犯(ペドロ・パブロ) )

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熊本3歳女児殺害事件(山口芳寛)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2011年3月3日に熊本県熊本市で清水心[ここ]ちゃん(当時3歳、女児)が行方不明になり、翌3月4日に遺体で発見された事件。

●2011年3月3日19時30分頃
 熊本市北区のスーパーにて女児が父親に「トイレに行っていい」と聞き、父親はレジにいて手を離せなかったため一旦は止めたが、女児は「どうしても今行きたい」と話し、たった数十メートル先のトイレに1人で向かった。この時、父親は角を曲がる女児の姿を目で追っている。直後、犯人の大学生の山口芳寛(当時20歳)もトイレに入る。

この15分の間に女児は障害者用トイレに連れ込まれ、わいせつの末、口を塞がれもう片方の手で首を絞められて殺害された。

女児の父親は、トイレにすぐに向かい、まず女子トイレの方へ名前を呼んだ。返事が返ってこなかったため、障害者用トイレを叩き女児の名前を何度も叫んだが、返事はなく、中から「使用しています」と声が聞こえた。その声は犯行時の山口芳寛の声だった。

●19時45分頃
 山口芳寛だけがトイレから出てくる。リュックサックはかなり膨らんでいた。この時女児の両親は、女児の遺体をリュックに入れて立ち去る男とすれ違っている。

●20時頃
 スーパーが閉店しても、女児が見つからないため、母親が通報。

●20時10分頃
 男が女児の遺体を坪井川の排水溝に遺棄。

●2011年3月4日
 トイレ前の画像および近くのガソリンスタンドで、大きく膨らんだリュックサックを背負った、無我夢中で自転車を漕ぐ男の画像を公開した。すると、犯人の元担任が自分の元教え子ではないかと聞き込み捜査で伝え、市内の熊本学園大学に通う当時20歳の山口芳寛が浮上した。

警察の事情聴取で容疑を認め、供述通り女児の遺体が見つかったため午後死体遺棄容疑で逮捕された。熊本学園大学では緊急会見が行われ、岡本悳也学長や、男が通っていた社会福祉学部の部長らが謝罪を行った。

●22時00分
 男の自宅の家宅捜索が行われた
熊本3歳女児殺害事件(山口芳寛)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2013年6月26日最高裁第一小法廷にて被告の上告を棄却。無期懲役が確定。

❖出所予定(年齢)
 2043年6月頃、52歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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久留米看護師連続保険金殺人事件(吉田純子、堤美由紀、石井ヒト美、池上和子)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1998年(平成10年)1月と1999年(平成11年)3月に福岡県・久留米市に住む看護師の女性4人組が生命保険金目的でグループ内の女性の夫を医学的知識を利用して殺害した保険金殺人事件である。

本事件は、散財により借金苦に陥っていた看護師 吉田純子(45歳=一審判決時、以下同)が、看護学校時代の友人 堤美由紀(当時44歳)、石井ヒト美(当時46歳)池上和子(死亡時43歳)や同僚看護師から金を騙し取り、さらに大金を得るために池田和子の夫・平田栄治さん(死亡時39歳)を堤美由紀、石井ヒト美と共謀して、石井ヒト美の夫・久門剛さん(死亡時44歳)を堤美由紀、石井ヒト美、池上和子と共謀して、それぞれ医学的知識を利用して殺害し、堤美由紀の母を石井ヒト美、池上和子と共謀して殺害しようとして未遂に終わった事件である。

吉田純子(45歳=一審判決時、以下同)は、堤美由紀(当時44歳)には不倫トラブルを解決し政界や警察にも顔が利くという「先生」を、石井ヒト美(当時46歳)にはかつて石井ヒト美がいじめていた元同僚の代理人で暴力団がバックについているという「井田佳寿恵」を、池上和子(死亡時43歳)には夫による詐欺被害者の代理人であるという「古林玉枝」の存在を、要所でちらつかせて服従させ金を騙し取った。「先生」も「井田佳寿恵」も「古林玉枝」もいずれもYが考えた実在しない架空の人物である。

特に堤美由紀とは関係が深く、吉田純子と堤美由紀は同じ病院に勤務する同僚でありながらプライベードでは肉体関係もあった。

2001年(平成13年)にはYは自身が購入した久留米市の高級マンションの同じ棟に堤美由紀、石井ヒト美、池上和子も住まわせ身の回りの世話をさせた他、「先生」からの指示があったとして自身のことを「吉田純子様」と呼ばせるようになった。

石井ヒト美と池上和子の夫の生命保険金はほぼ全額が「井田」や「古林」への返済のためと称して吉田純子の手に渡り、池上和子から得た1億1500万円、石井ヒト美から得た6900万円をはじめとして、一連の犯行で吉田純子が手にした現金は2億円にのぼった。

2002年(平成14年)4月17日、吉田純子と堤美由紀が元同僚に対する500万円の詐欺容疑で、池上和子が石井ヒト美に対する脅迫容疑で逮捕される。石井ヒト美は直前の4月13日に自殺未遂を起こしていたため、4月21日に殺人容疑で逮捕された。それぞれ後に同僚看護婦から500万円を騙し取った詐欺罪(吉田純子、堤美由紀)、池上和子の夫に対する殺害および保険金詐取(吉田純子、堤美由紀、池上和子)、石井ヒト美の夫に対する殺害および保険金詐取(4人)による詐欺罪と殺人罪、堤美由紀の実母に対する強盗殺人未遂および住居侵入罪(吉田純子、石井ヒト美、池上和子)、石井ヒト美を脅したことによる脅迫罪(吉田純子、池上和子)で起訴された。
久留米看護師連続保険金殺人事件(吉田純子、堤美由紀、石井ヒト美、池上和子)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年(平成16年)8月から9月にかけ、それぞれ福岡地裁で第一審判決が言い渡された。

  8月2日 - 被告人 堤美由紀(求刑:死刑)に無期懲役
  8月9日 - 被告人 石井ヒト美(求刑:無期懲役)に懲役17年
  9月24日(谷敏行裁判長) - 被告人 吉田純子(求刑:死刑)に求刑通り死刑

 なお、被告人 池上和子は死刑を求刑され、8月に判決言い渡しが予定されていたが、子宮がんにより同年9月1日に死亡し、公訴棄却された。

2006年(平成18年)5月16日、福岡高裁(浜崎裕裁判長)は被告人 吉田純子の控訴を棄却する判決を言い渡した。吉田純子は上告したが、2010年(平成22年)1月29日、最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)が被告人 吉田純子の上告を棄却する判決を言い渡したため、吉田純子は同年4月に死刑が確定した(女性死刑囚※)。

※女性死刑囚の死刑執行は、1950年(昭和25年)以降で5人目となった。

❖出所予定(年齢)
 吉田純子・・・死刑判決(2016年(平成28年)3月25日、福岡拘置所で死刑執行(当時56歳没))
 堤美由紀・・・2034年8月頃、74歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)
 石井ヒト美・・・2021年8月頃、63歳(出所)
 池上和子・・・死亡(病没)

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群馬女子高生誘拐殺人事件(坂本正人)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2002年(平成14年)7月19日に群馬県勢多郡(現:前橋市)で発生した身代金誘拐殺人事件。

2002年7月19日13時ごろ、加害者 坂本正人(当時36歳)は強姦する女性を物色するために乗用車で走行していたところ、群馬県勢多郡大胡町(現:前橋市)内の路上で偶然帰宅途中の被害者・女子高生A(大胡町河原浜在住 / 16歳没・群馬県立前橋東商業高等学校1年生)が人気のないトウモロコシ畑の中を歩いているところを見かけた。坂本はAさんに道を尋ねるふりをして立ち止まらせると、Aさんを無理矢理自分の乗用車の後部座席に押し込んで拉致した(わいせつ略取罪など)。

そして被害者Aさんを「人気が無く、女性を強姦するためには都合がいい」とあらかじめ考えていた赤城山中の山林内へ連れて行き、同郡宮城村柏倉(現:前橋市柏倉町)の山林に至った。坂本は14時ごろ、(車内で)Aの腕をつかんでAさんを助手席に移動させ「言うことを聞かねえと帰さねえぞ」などと脅迫した上で強姦した強姦罪)。

しかし強姦後、坂本が煙草を吸うなどしていたところ、Aさんが車内から逃げ出そうとした。

坂本はAさんを逃がすまいと咄嗟にAさんを抑えつけ、Aさんが抵抗しなくなるまで右腕で首を締め上げた。やがて坂本は「Aは失神した」と思い込んで腕をほどいたが、Aさんは薄目を開けた状態で口元から泡を吹いており、胸部付近がけいれんしていたため、坂本はいったんは「Aさんを病院に連れて行かなければ」と思った。

しかし「そうすれば自己の強姦などの犯行が発覚してしまう」と思ったため、「いっそAさんを殺してしまおう」と決意し、助手席シートで仰向けに横たわっていたAさんの首を右手で掴み、シートの背もたれに押し付けるように体重をかけて絞めたところ、Aさんが「ゼーッ」という音を出したことから驚いて手を離した。坂本はこの時「もうAさんは死んだ」と思ったため、Aさんを山林内に放置しようとその頭部にビニール袋をかぶせたが、Aさんがまだ息をしていたため、両手で首を絞めた。

しかしその際にAさんの首から自分の手に脈の感触が伝わってきたため素手で絞めるのをやめ、Aさんを車から山中に降ろしてビニール袋を頭部に被せたままカーステレオのコードで首を縛り、Aさんを窒息死させた。

殺害・遺棄を終えた坂本はゲームセンターなどで時間を潰したが、20-21時ごろに帰宅して「自分は殺人者になった。もう終わりだ」などと思い詰め「逮捕される前の前妻に会おう。そのために直接児童相談所に乗り込み、職員を人質にとって前妻を連れてこさせよう」などと考えた。

坂本は「そのための武器として拳銃を買うためには最低でも50万円必要だ」と考え、資金としてまとまった金を手に入れる方法に強盗などを思いついたが、良い場所が思いつかなかったため行き詰まった[3]。しかし、Aさんから奪った携帯電話の存在を思い出したため、その携帯電話を使って娘Aの安否を心配していた両親から身代金を得ることを企てた。

坂本は「大金を要求しなければAさんの両親は警察に届け出ないだろう」と考えて要求額を50万円に決め、同日23時15分ごろ - 翌20日12時ごろまでの間、数回にわたり前橋市内の複数個所からA宅に電話を掛け、応対した両親を「娘はどうなっても良いのか。50万円を用意しろ」「警察には届けるな」などと脅して身代金を要求した(拐取者身の代金取得)。しかしAさんの両親は群馬県警察に通報し、その指示通りSとの交渉を続けた。

12時14分ごろ、坂本は現金受け渡し場所として指定した佐波郡赤堀町(現:伊勢崎市)内の受け渡し場所で身代金として現金23万円を得た。坂本はすぐにその場から逃走したが、約800メートル走った交差点の赤信号で停車したところ、追跡していた覆面パトカー数台に行く手を塞がれて群馬県警の捜査員に取り囲まれ、恐喝容疑で逮捕された。
群馬女子高生誘拐殺人事件(坂本正人)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年10月29日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第11刑事部(白木勇裁判長)は第一審・無期懲役判決を破棄自判して被告人 坂本に死刑判決を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 死刑判決(2008年(平成20年)4月10日、東京拘置所で死刑執行(当時41歳没))

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群馬パチンコ店員連続殺人事件(高根沢智明、小野川光紀)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2003年(平成15年)2月 - 4月に群馬県の伊勢崎市と太田市で相次いで発生し、被害者の死体が埼玉県・行田市の福川に遺棄された2件の強盗殺人事件。

群馬県太田市東矢島町の元パチンコ店員の高根沢智明(事件当時36歳:無職)は、パチンコ仲間だった栃木県河内郡南河内町(現:下野市)薬師寺のコンビニエンスストア店員だった小野川光紀(当時25歳)と共謀。2003年2月23日未明1時ごろ、Tの元同僚である伊勢崎市のパチンコ店員 根本常久さん(当時47歳)を、勤務先兼住居の同市山王町「M」から向かいのコンビニエンスストアへ買い物に出かける際に呼び止め、小野川の乗用車に乗せて勢多郡宮城村(現:前橋市)の山林に連れ込み路上でロープで首を絞めて殺害した。

根本さんの遺体をトランクに積み、伊勢崎市に戻った高根沢と小野川は、3時ごろ、根本さんが持っていた鍵を使い警備システムを解除した上で店舗に侵入。売上金300万円を奪ったのち、埼玉県行田市北河原の福川水門まで根本さんの遺体を運び、4時ごろ福川に投げ込んで遺棄した。根本さんの遺体は、3月18日11時40分ごろに福川のさすなべ排水門付近で発見された。

伊勢崎で強奪した金は全て500円硬貨と五千円札だった。その大量の500円硬貨を小野川が太田市内の複数の銀行で一万円札に両替して、150万円ずつ折半し、1ヶ月ほどのうちに遊興費などで使い果たした2人は、4月1日2時ごろ、お互いに通い詰めていた太田市浜町のパチンコ店「T」駐車場で、同店店員 石橋真さん(当時25歳)を襲いロープで首を絞めて殺害した。

石橋さんの財布に入っていた現金11万円と店の合鍵を盗み、店舗に侵入したが、金庫の解錠ができず売上金の窃盗には失敗した。石橋さんの遺体は、根本さん同様、行田市の福川水門から福川に遺棄した。3日後の4月4日10時30分ごろ、腐乱が著しく死因の特定されていなかった根本さんの遺留品を捜索していた埼玉県警行田警察署員によって、石橋さんの遺体は発見された。
群馬パチンコ店員連続殺人事件(ダム)
※この事件は2人の逮捕直後に隣の埼玉県熊谷市で元暴力団員らによる熊谷男女4人殺傷事件が発生し、その事件のほうがセンセーショナルであったため、本事件は陰となる形であまりメディアに取り上げられることはなかったことで情報が少なく、珍しく殺人犯の写真がありません。埼玉県行田市北河原の福川水門(遺棄現場)の写真しかありませんでした。

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2004年(平成16年)3月26日、さいたま地方裁判所(川上拓一裁判長)は、「Tは主導的役割を果たし、小野川も安易に加担したうえ、犯行を積極的に計画した」と認定した上で、「わずか2か月の間に2度も殺害を繰り返した極悪非道な犯行」として、被告人2人(高根沢および小野川)にいずれも求刑通り死刑判決を言い渡した。弁護側は特別抗告したが、最高裁判所第二小法廷(今井功裁判長)は2006年(平成18年)6月6日付で、弁護人の特別抗告を棄却する決定をした。これにより、高根沢の死刑判決が正式に確定した。

 2009年(平成21年)3月31日に最高裁で開かれた弁論で、Oの弁護人は控訴審と同旨の主張をした。しかし、同年6月9日、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は、「被告人の罪責は誠に重大であり、被告人を死刑に処した一、二審判決の判断はやむを得ない」として、小野川の上告を棄却する判決を言い渡した。これにより、小野川も死刑が確定した。

❖出所予定(年齢)
 高根沢智明・・・死刑判決(2021年(令和3年)12月21日、東京拘置所で死刑執行(当時54歳没))
 小野川光紀・・・死刑判決(2021年(令和3年)12月21日、東京拘置所で死刑執行(当時44歳没))

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慶應義塾大学生父親刺殺事件(鳥屋智成)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2018年1月18日午後10時頃、慶應義塾大学経済学部に通う大学生の男 鳥屋智成(当時20歳)が東京都大田区の自宅リビングで父親 多可三(たかみ)さん(当時58歳)の腹部を果物ナイフで刺した。翌1月19日、警視庁田園調布警察署はAを殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。その後、父親が搬送先の病院で死亡したため容疑を殺人罪に切り替えた。

刺殺された父親はAに対して暴力を振るっており、Aには殴られてできたあざがあった。Aは自らの父親のことを昭和の父親のようであると語り、Aの他にも母親や弟にも暴力を振るっていた。事件が発生した1月18日、父親は酒に酔って帰宅し、Aの高校生の弟に説教を始めた。この時にAは説教をやめないならば刺すと発言して刺していた。
慶應義塾大学生父親刺殺事件(鳥屋智成)

慶應義塾大学生父親刺殺事件(鳥屋多可三さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 裁判中

❖出所予定(年齢)
 裁判中

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警察庁広域重要指定118号事件(岡﨑茂男・迫康裕・熊谷昭孝)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1991年に発覚した誘拐と監禁および強盗殺人事件で2人が殺害された。別名を千葉・福島・岩手誘拐殺人事件ともいう。

 8人が逮捕され、3人が死刑判決を受けたが死刑が執行されないまま3人全員が病死した異例の結末となった。

●第一の事件
 1986年7月に、元警察官 岡﨑茂男(逮捕時38歳)、塗装工 迫康裕(逮捕時50歳)、土建業者 熊谷昭孝(逮捕時48歳)、熊谷昭孝の弟で土木作業員の熊谷光輝(逮捕時38歳)、土木作業員の菅原勝治郎(逮捕時37歳)の5人は、共謀の上、岩手県盛岡市の金融業者 西村清詩さん(当時41歳)から、現金37万5000円を奪い、被害者を岩手郡岩手郡雫石町の山林に生き埋めにして殺害した。

●第二の事件
 1989年7月20日に、岡崎、迫、熊谷昭孝、熊谷光輝、菅原勝治郎、元自動車運転手Y、塗装工Zの7人は、共謀の上、福島県郡山市の塗装会社社長 真壁研一さん(当時48歳)を取引を装って呼び出して1700万円を強奪し、殺害して福島県耶麻郡猪苗代町の山林に埋めた。

●第三の事件
 1991年5月1日に、迫、塗装工Z、別の塗装工の男性は、共謀の上、千葉県市原市の塗装業者 高崎勇一さん(当時53歳)を誘拐し、身代金2000万円を強奪した。高崎さんは殺害されず栃木県宇都宮市で2日後に解放された。この事件の被疑者として3人が逮捕されたが、最終的には主犯格の元岩手県警察巡査のO岡﨑茂男(逮捕時38歳)ら犯人たちが逮捕され、事件の全貌が判明した。
警察庁広域重要指定118号事件(岡﨑茂男・迫康裕・熊谷昭孝・死刑判決)
左から、迫康裕・岡﨑茂男・熊谷昭孝(いずれも死刑判決であるが病死)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1995年1月27日、第一審判決公判が開かれた。
福島地裁は、死刑を求刑された5被告のうち、岡﨑、迫、熊谷の3被告に死刑を言い渡した。あとの2被告(熊谷弟と菅原)には無期懲役を、元自動車運転手・Iは求刑通りの無期懲役判決となった。

検察側は、無期懲役となった2被告(熊谷弟、菅原)について量刑不当を理由に控訴。死刑となった岡﨑、迫、熊谷の3被告も控訴した。また、元自動車運転手Iも「他被告とのバランスを考えれば有期懲役とすべきだ」と訴えて控訴した。

2004年6月25日の判決公判で、最高裁は一審・二審判決を支持する判断をした。これにより、岡﨑・迫・熊谷の3被告は死刑確定、熊谷弟・菅原・元自動車運転手 Iの3被告には無期懲役が確定となった。

❖判決一覧
 ・岡﨑茂男、迫康裕、熊谷昭孝・・・死刑確定(3人全員が執行前に病死)
 ・熊谷光輝(弟)、菅原勝治郎、元自動車運転手 I・・・無期懲役確定
 ・塗装工 N・・・一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却
 ・塗装工の男(千葉事件のみ関与)・・・懲役6年

❖出所予定(年齢)
 省略

❖因果応報
 人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。

●熊谷昭孝死刑囚
 2011年1月29日午後、熊谷死刑囚が肺塞栓症で死亡した(67歳没)。

死刑確定後は、仙台拘置支所に収監されていた。それから約5年後2010年12月、熊谷死刑囚は総胆管ガンと診断され、翌2011年1月17日に外部の病院に入院。19日に手術を受けた。歩行訓練をしていた29日午後2時頃、胸の苦しみを訴えて意識を失い、まもなく死亡したという。
熊谷昭孝が獄中で描いた絵「カケス画」「観世音菩薩画」
熊谷死刑囚が描いた絵。左から「カケス画」「観世音菩薩画」。

●迫康裕死刑囚
 2013年8月15日には、迫死刑囚が病死したことが発表されている。

迫死刑囚は、宮城刑務所に収容されていた。死因は急性肺炎
(73歳没)。以前から「じん肺」のため、運動などを制限していた。
迫康裕が獄中で描いた絵「写経と孫」
迫死刑囚が書いた写経。「写経と孫」。

●岡﨑茂男死刑囚
 2014年6月26日、最後のひとり、岡﨑死刑囚も収容先の東京拘置所内の病棟で死亡。

死因は急性呼吸不全だった(60歳没)。なお、岡﨑死刑囚は2007年に仙台拘置支所から東京拘置所に移監されている。岡﨑死刑囚は、6月20日頃から吐き気やめまいを訴え、検査の結果、23日に細菌が肺に入って生じる誤嚥性肺炎と診断されていた。

その後、拘置所内の病院に入院していたが、容体が悪化し、26日の午前1時39分死亡が確認された。

●おまけ 塗装工N
 塗装工 Nは、一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却となった。

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警察庁広域重要指定121号事件(下山信一、黄奕善)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1993年に金融業者ら3人が殺害された強盗殺人事件である。別名を犯行グループの構成から日本・外国人集団連続強盗殺人事件ともいう。犯行グループは日本人とマレーシア人らによって構成されていた。

1994年に入って犯人らは逮捕され、一連の事件の概要が判明し警察庁広域重要指定事件に指定されたのは同年4月18日のことであった。一連の犯行は1993年10月から12月の間に行われ、静岡県・滋賀県・東京都・群馬県を舞台に金融業者ら3名を殺害し、他にも負傷者を出すなどして金品を強奪したものである。日本人の下山信一(犯行時33歳)他2名は、少年刑務所で知り合った仲であり強盗団を結成した。外国人の殺人実行犯として中国系マレーシア国籍の黄奕善(犯行時25歳)を仲間に入れた。黄奕善は1989年2月ごろに来日していた。

まず、1993年10月8日に静岡県内のパチンコ店から1050万円を強奪した、10月27日に7人組で滋賀県八日市市(現:東近江市)の金融業者の自宅を襲撃し殺害したうえ1400万円や貴金属などを強奪。そして下山と黄は12月10日に東京都足立区の金融業者に押し込んだが、従業員を負傷させたのみで犯行は未遂に終わった。12月12日に2人は群馬県高崎市のゲーム喫茶経営者を射殺し9万円などを奪った。12月20日には足立区の不動産賃貸業者を殺害し、120万円などを強奪した。一連の犯行で3人を殺害していた。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 強盗団は全員逮捕されたが、一連の犯行に対し主犯 下山信一と殺害に直接関与した黄奕善の2人については死刑が確定している。2人の裁判は分離して審議されたが、下山は2005年9月16日に最高裁で上告を棄却され死刑が確定し、黄はそれより先の2004年4月19日に上告を棄却され死刑が確定している。黄は来日外国人死刑囚としては3人目である。

事件は2つのグループにわけられて、八日市グループは大津地裁で、主犯・東京グループは東京地裁で審理され、次のような結果になっている。

●八日市グループ
  Y・K・・・無期懲役
  Y・T・・・懲役8年
  M・T・・・不明

●東京グループ
  S・F:無期懲役
  M・K:懲役13年

●主犯グループ
  下山信一・・・死刑判決
  黄奕善・・・死刑判決

❖出所予定(年齢)
 下山信一・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)
 黄奕善・・・死刑判決(東京拘置所収監中、死刑未執行)

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警視庁立川警察署警察官女性射殺事件(友野秀和)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2007年(平成19年)8月20日午後9時半〜10時の間に東京都・国分寺市で発生した殺人事件。

警視庁立川警察署(以後 立川署)地域課地域第2係に勤務する巡査長 友野秀和(当時40歳)は平成19年8月20日午後9時30分頃、パトロールを行う旨告げたのち、交番配備の巡回用バイク(黒バイ)で交番から出動した。しかし10分後の午後9時40分頃、友野から警察無線で現着したとの報告があったのち連絡が取れなくなり所在不明となった。交番の同僚は、友野が所持する公用、私用双方の携帯電話に対し連絡を行い「交番にもどれ」「現在地を報告せよ」と再三促したが応答がなかったため翌21日午前5時30分「警察官1名が所在不明」と立川署本署に報告。立川署は警視庁本部に対し報告した。

立川署は引き続き、警察無線で呼び掛け続けると同時に職員ロッカーを捜索。友野の私服ズボン内に入っていた定期入れの中にあった飲食店勤務の30代女性 佐藤陽子さん(当時32歳)の名刺を発見。隣接する警視庁小金井警察署管内、東京都国分寺市東元町2のアパート女性宅に捜査員が向かったところ、あおむけで倒れ死亡している友野、佐藤さんの遺体を発見した。

佐藤さん宅に来訪した捜査員は、佐藤さんの胸部及び腹部に銃創を確認。また友野の左側胸部にも銃創、傍らに警視庁から貸与された拳銃1丁(回転式5発)が落ちていたこと、さらに近隣住民が前日午後10時過ぎ「パン、パン」という花火のような音を聞いていたことから「友野が拳銃を使い女性を射殺したのち自殺したストーカー殺人事件」であると断定。連絡を受けた警視庁本部は刑事部長の命令により、立川署に刑事部捜査第1課を派遣。立川署に捜査本部を設置した。

捜査の過程で被害者である佐藤さんは友野から過剰な好意をもたれ付きまとい等のストーカー行為の被害に遭っていたことが判明した。もともと友野は佐藤さんの勤務していた飲食店に事件の3年前に同僚に連れられて来訪し佐藤さんが働き始めたころには同店の常連となっていた。しかし店側は「佐藤さんより以前に勤務していた別の女性に対しストーカー行為を行っていて従業員たちから嫌われていた」と証言した。
警視庁立川警察署警察官女性射殺事件(友野秀和)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 死亡(自殺)

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

◆警察の不手際
 この事件では被疑者である巡査長Aだけではなく当時の警察、とりわけ被疑者の所属先である立川署の杜撰な体制が明るみとなった。

巡査長 友野が前述の苦情の申出を受け富士見台交番から出動しそのまま行方不明になったにもかかわらず、同僚は携帯にメールを打ったのみで立川署本署に「勤務者1名が所在不明」と報告したのは把握してから8時間以上も経過してからの事であった。

その間、立川署地域課の管理職が交番に数回巡視に来ていたにもかかわらず同僚は報告を怠りまた管理職も巡査長 友野がいないことに気付かなかった。

警察車両を使い管轄外までドライブを行う、管理職に無断で勤務シフトを変えるなど交番で数多くの内規違反が発覚した。

警視庁が勤務中の私用携帯所持を禁じていたにもかかわらず被疑者はこれを破り、被害者に勤務中も執拗に連絡を取っていた。

◆処分
 一連の捜査が終了したのち、国家公安委員会および警視庁は本件に関係する幹部に10名に対し下記のように懲戒処分を発令した。

 ・矢代隆義警視総監:国家公安委員会より戒告の懲戒処分 → 引責辞任
 ・警視庁立川警察署長 (警視正):警視庁より減給10/100 3カ月の懲戒処分 → 引責辞任
 ・同署副署長(警視)ほか1名:警視総監より訓戒処分
 ・同署地域課長(警部) :警視庁より減給10/100 1カ月の懲戒処分
 ・同署地域課係長(警部補)(巡査長 矢部の直属上司)ほか5名:警視庁より減給20/100 3カ月の懲戒処分
警視庁立川警察署警察官女性射殺事件(矢代隆義警視総監)
矢代隆義警視総監

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江東マンション神隠し殺人事件(星島貴徳)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2008年(平成20年)4月18日に東京都江東区のマンションで女性が神隠しのように行方不明となり、後に殺人・死体損壊遺棄が発覚したバラバラ殺人事件。完全犯罪としても注目された。

2008年4月18日夜、会社員の女性 東城瑠理香さん(当時23歳)が東京都江東区潮見二丁目の自宅マンションから忽然と消え、姉から捜索願いが出される。最上階の自室の玄関に少量の血痕が残った状態であったことに加え、マンションに設置された監視カメラの記録に、東城さんがマンション建物から外出した形跡がないことから、「神隠し事件」として、マスメディア各社がトップニュースで報じた。また、同マンションは当時3分の1近くが空室であり、東城さん宅の両隣は空室であった。

警視庁は、マンション住民全員から事情聴取、任意での指紋採取、家宅捜索を行った。事件発生から約1か月後の同年5月25日、被害者女性宅の二部屋隣に住む派遣社員の男 星島貴徳(当時33歳)を住居侵入容疑で逮捕した。その後の捜査により、星島は以下のように再逮捕・起訴された。

2008年6月13日 - 警視庁が死体損壊・遺棄容疑で再逮捕、東京地方検察庁が住居侵入罪で起訴
2008年6月25日 - 警視庁が殺人容疑で警視庁に再逮捕、東京地検が死体損壊・遺棄罪で追起訴
2008年7月18日 - 東京地検が殺人罪で追起訴

逮捕後、星島からの供述により事件の全貌が明らかとなった。


◆事件前日までの動き
 現場の江東区のマンションにが引っ越してきたのは2008年2月9日。9階の一番南側の部屋である918号室に入居した。東城瑠理香さん(当時23歳)とその姉は2008年3月1日に、星島貴徳(当時33歳)が住む部屋の二部屋隣の916号室に引っ越しをした。該当マンションは監視カメラやオートロックなど防犯設備が多く設置されている物件で、東城さん姉妹がこの物件に決めた理由の一つでもあった。星島は、被害者女性に狙いを定めたのは事件のおよそ1週間前と供述している。

◆拉致・殺害
 2008年4月18日19時30分ごろ、星島は性奴隷獲得目的で東城さんの帰宅を待ち伏せし、帰宅直後を狙い東城さん宅へ侵入。東城さんに騒がれたため頭部を殴打し拉致、自室へ連れ帰り、縛って部屋に寝かせておいた。まもなく、東城さんと同居していた姉が帰宅し、室内の異変に気付いて警察へ被害届を提出した。早くも警察の捜査が始まったことを知った星島は、事件の発覚を恐れ、東城さんの首に包丁を刺し殺害した。

◆解体・隠蔽
殺害後、星島は東城さんの遺体を包丁2本とのこぎりでバラバラに切断し、冷蔵庫やベッドの下、段ボール箱などに隠した。腕、足から包丁を使って肉をはぎとり、まな板で切り刻んで水洗トイレから下水管に流した。後の骨はノコギリで細かく切り、冷蔵庫に隠した。その後、胴体を解体し、腹や胸から肉をはぎ取り、臓器を取り出し、これをまな板の上で切り刻んだ上、水洗トイレから下水道管に流した。解体後に残った骨は冷蔵庫に隠した。その後、遺体の頭から髪の毛を切り、頭皮を耳や鼻、唇ごとはぎとり、眼球をえぐり出し、それらを切り刻んで水洗トイレに流した。さらに頭蓋骨をノコギリで切って、脳を取り出し、下水道に流した。頭蓋骨は数個に切って、冷蔵庫に隠した。

翌日、警察がマンション全室に行った任意の家宅捜索の際には、事件とは無関係な段ボール箱を捜査員に見せて中身を確認させた上、警察が中身を詳しく調べないだろうと考え、遺体の一部が入っていた段ボール箱をあえて自ら示し、中身確認を促すなど巧妙かつ大胆に振る舞った。結局、遺体が入った段ボール箱は見逃すこととなる。

星島は東城さんの遺体を細かく切断してトイレに流したり、出勤時にゴミ捨て場に捨てるなどして、同年5月1日までに遺体の全てを処理した。

◆指紋照合
 東城さん宅に残っていた指紋を警察が調べた結果、星島が東城さん宅に侵入した際に、指紋をわずかに残していたことが判明。事件直後には星島を含むマンション住民全員から任意で指紋を採取していたが、その時は、星島は何らかの薬品を使って指先の皮膚を荒らしていたため、10指とも紋様が読み取れず、照合が不可能だった。事件から1か月後に再び警察が星島の指紋を採取した際には、皮膚は再生しており、東城さんの部屋で発見された指紋と一致したため、星島の逮捕へと至った。

◆DNAの一致
星島の逮捕後、警察が下水管などを調べた結果、わずかに残った遺体肉片と東城さんのDNAが一致した。また、星島の部屋の一室や浴槽から採取された血痕と東城さんのDNAが一致した。その他、東城さんが所有していた財布や免許証などの切断された一部を発見した。

報道各社のインタビューにこたえる星島貴徳
江東マンション神隠し殺人事件(星島貴徳)
マンションを捜索する捜査員と東城瑠理香さん

江東マンション神隠し殺人事件(捜査員と東城瑠理香さん)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 2009年9月10日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁(山崎学裁判長)は第一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡した。東京高裁 (2009) は、「原判決(東京地裁)は、わいせつ目的が未遂に終わった点を有利な情状として挙げたが、有利には考慮できない。殺害方法は無慈悲かつ残虐で、原判決が『極めて残虐とまでは言えない』としたのは相当ではない」と指摘した上で、「殺害は身勝手極まりなく、死体損壊は人間の尊厳を無視する他に類を見ないおぞましい犯行だ」と判示した。

しかし、その一方で「検察官の『被害者を拉致した状態で殺害に着手せざるを得ない状況だった』という主張は早計で、殺害の計画性は認められない」「前科などもなく、自らの罪を悔いて謝罪の態度を示し、矯正の可能性がある」として、永山基準や、被害者が1人でも死刑となった過去の事案との違いを指摘し、「極刑がやむを得ないとまでは言えない」と結論づけた。

東京高検は「憲法違反や判例違反などの明確な上告理由がない」と上告を断念し、被告人側も上告期限内(同月24日まで)に上告しなかったため、同月25日付で無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2039年9月頃、63歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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甲府信金OL誘拐殺人事件(宮川豊)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1993年(平成5年)8月10日に山梨県甲府市で発生した身代金目的誘拐殺人事件。

宮川豊(当時38歳)が身代金を得る目的で、甲府信用金庫の女性職員 内田友紀さん(当時19歳)を誘拐した上で殺害し、死体を富士川に遺棄した。

内田友紀さん(当時19歳)は、甲府市にある甲府信用金庫の支店に勤務する入社4ヶ月目の新人OLであった。事件当日の窓口業務が終了する時間になった時、本店を経由して地元マスメディアを名乗る男(犯人M)から被害者Aを指名して取材依頼がくる。これに対し、内田さんと彼女の上司は応諾し、内田さんは勤務時間終了後、電話の男が差し向けたタクシーで待ち合わせ場所の小瀬スポーツ公園に向かったが、それを最後に行方不明となる。

翌日、内田さんの父親が帰宅していないことを支店に問い合わせた時、身代金を要求する1本の電話が入ったことから誘拐が発覚。支店側はすぐさま山梨県警に通報、山梨県警は犯人を刺激しないよう非公開としつつ、その後もかかってくる犯人からの電話に逆探知で犯人の居場所を特定しようとする。

犯人は映画「天国と地獄」の手法で中央自動車道の104キロポストから身代金4,500万円を投下するよう指示するも身代金奪取に失敗。しかし、山梨県警は身代金受取場所に遅れるなどのミスを犯したほか、犯人も1 km離れた105キロポストで待機するミスを犯していた。その後、犯人からの連絡は途絶え、誘拐されてから1週間後の8月17日、静岡県富士宮市の富士川でAの遺体が発見された。後の捜査で、Aは誘拐された同日中に殺害され、富士川上流の笛吹川から流されていたことが判明している。

山梨県警は逆探知装置に残っていた声をもとに音声・音響分野の研究を行っている鈴木松美に声紋鑑定を依頼。

鈴木による鑑定の内容が連日報道され、また鈴木自身も作業場を公開したりテレビ出演する等協力の姿勢を見せた中、宮川豊(当時38歳)の知人である建設会社社長が鈴木による鑑定内容と音声を報道で聞いて間違いないと判断し、宮川を呼び出し自首するよう説得する。宮川は当初否認していたが説得に折れ、1993年(平成5年)8月24日の早朝、建設会社社長に連れられて山梨県警所轄の警察署に出頭し、逮捕された。
甲府信金OL誘拐殺人事件(宮川豊)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
 甲府地裁は自首の成立を否定したものの、無期懲役の判決を言い渡した。

死刑を求める甲府地検と、有期懲役刑を求める宮川の弁護人がそれぞれ、判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。しかし東京高裁(神田忠治裁判長)は、1996年(平成8年)4月16日、検察官と被告人 宮川側それぞれからなされた控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した。その後、東京高等検察庁・被告人側とも、上告期限となる同月30日までに最高裁判所へ上告しなかったため、同年5月1日付で宮川の無期懲役が確定した。

❖出所予定(年齢)
 2026年4月頃、71歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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神戸弘陵学園高校生刺殺事件(当時17歳だった愛知県のパート従業員の男)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2010年に兵庫県神戸市北区で発生した刺殺事件。長らく未解決事件であった。

2010年10月4日、兵庫県神戸市北区の路上で、神戸弘陵学園高等学校に通う2年生の男子高校生 堤将太さん(当時16歳)が殺害される。上半身などを折りたたみナイフで複数回突き刺し、失血死をさせていた。

それから10年以上も容疑者が見つからない未解決事件であった。

容疑者が事件について「自分が殺した」と周囲に関与を示唆する発言をしていたことも判明。最近になってこの情報が兵庫県警に伝えられ、事件発生から10年以上の歳月を経て急展開する大きな決め手になった。

2021年8月4日、兵庫県警察神戸北警察署捜査本部は、被害者を殺害した疑いが強まったとして、愛知県豊山町在住の 当時17歳だった愛知県のパート従業員の男(逮捕時28歳)を逮捕。この男性は事件当時付近に住んでいた。

犯人は犯行の8日前に凶器となるナイフを購入していた。犯人は以前から被害者が交際している女性と一緒にいるところを見て腹を立て、殺すつもりであった。犯人と被害者は接点は無かったが、普段から姿を見かけていた。

捜査本部は、堤さんの着衣から元少年のものと一致するDNA型を検出。現場近くに残されていた凶器の調理用ナイフからは元少年の指紋は検出されなかったが、近くのスーパーでこのナイフを購入した男の特徴や、犯行時の目撃証言が元少年と整合することから、逮捕に踏み切った。
神戸弘陵学園高校生刺殺事件(堤将太さん)
被害者の堤将太さん(当時16歳)

❖判決内容(判決内容・判決時期)
 検察側は事件当時は未成年だった事も考慮に入れて懲役20年を求刑し、弁護側は少年法と精神疾患を考慮にいれて懲役8年が相当と主張した。2023年6月23日、神戸地裁は、被告に精神障害はないとした精神鑑定の結果を信用できるとして、殺意と完全責任能力を認定。被告に懲役18年を言い渡した。

❖出所予定(年齢)
 2043年6月頃、48歳(懲役20年)

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神戸市北区5人殺傷事件(竹島叶実)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 2017年(平成29年)7月16日の早朝に兵庫県神戸市北区有野町有野で発生した無差別殺傷事件である。

2017年7月16日早朝、神戸市北区有野町有野の住宅街で、竹島叶実(かなみ)(事件当時26歳)が祖父 南部達夫(当時83歳)を金属バットで殴打し、それを止めようとした母親(当時52歳)も殴打した。母親は、身の危険を感じたため屋外へ避難した。その後、南部達夫さんを包丁で何度も刺して殺害した後、祖母 南部観雪さん(当時83歳)も同様の手口で殺害した。南部達夫さん・南部観雪さんを殺害し終えた後は、近所に住む辻やゑ子さん(当時65歳)・竹島知子さんを襲い、辻さんを殺害、竹島さんに重傷を負わせた。
神戸市北区5人殺傷事件(事件現場状況図2)
神戸市北区5人殺傷事件(事件現場状況図)
神戸市北区5人殺傷事件(竹島叶実)
❖判決内容(判決内容・判決時期)
●2人の精神科医の診断
 検察は、起訴を行う前に2人の精神科医に精神鑑定を依頼していた。1人目の医師は、竹島が「哲学的ゾンビ」を人ではないと思っていたため、「人を殺してはいけない」という規範に直面していなかったと分析。精神障害が動機に与えた影響は「圧倒的」だったとして、心神喪失状態だと判定した。
神戸市北区5人殺傷事件(哲学的ゾンビとは)
一方2人目の精神科医は、竹島には、妄想の内容を疑い、犯行をためらう気持ちがあり、「哲学的ゾンビ」が人の可能性もあると認識していたと説明。精神状態の悪化は「中等度」にとどまり、犯行に及ぼした影響は「圧倒的とは言えない」として、心神耗弱状態だと判定した。2人目の医師の鑑定の問題点は、竹島との面接が1回限りで5分程度しかなかったことである。

●無罪判決
 2021年(令和3年)11月4日の判決公判で、神戸地裁(飯島健太郎裁判長)は、判決の主文を後回しにして、先に判決理由から言い渡した。同地裁は判決理由で、「自分と知人女性以外は哲学的ゾンビだとする妄想の圧倒的影響のもとで犯行に及んだ疑いが払拭できない」として、1人目の医師の鑑定を証拠採用し、刑法第39条の規定に基づき、被告人Tに無罪を言い渡した。検察は一審判決を不服として同月16日に大阪高裁に控訴した。

❖出所予定(年齢)
 公判中(高裁に控訴)

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神戸星城高校放火殺人事件(女子高生)
❖犯罪内容(犯罪内容・殺人人数)
 1999年5月14日に北海道・札幌市南区で発生した放火殺人事件。

1999年5月9日より神戸星城高等学校の3年生は修学旅行で札幌を訪れ、市内のホテルに宿泊していた。修学旅行の最終日である5月14日未明に、女子生徒2人が宿泊していたホテルの一室から出火した。ホテルの3階と4階に生徒288人と高校教員ら15人が宿泊していた。

出火した部屋はオートロックであったため外側からは開けられなくなっており、マスターキーを使用して開けたところ宿泊していた女子生徒2人が重態で倒れていた。この女子生徒2人は病院に運ばれたが容疑者の女子高生1人は1時間後に死亡し、もう1人の本郷沙織さん(当時17歳)は1週間後に死亡した。死亡した生徒の他に学校職員、生徒の計28人が負傷。

出火した部屋には、入り口のドアを塞ぐようにソファが置かれていた。そしてソファの付近でマッチ箱が発見されたため、ソファに引火したことで火災になったと推測された。このマッチは生徒が持ち込んだものであり、室内に放火をほのめかすメモが残されていたことから宿泊していた女子生徒による放火と断定された。

このホテルはスプリンクラー設備の設置対象面積を超えていた。だが棟が多数あり防火区画という代替措置をとったことで対象外となり、スプリンクラー設備を設置していなかった。
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❖判決内容(判決内容・判決時期)
 1999年8月10日、死亡した女子生徒の1人を放火と殺人の疑いで札幌地方検察庁に書類送検。

また、ホテルと契約していた火災保険会社は生徒の両親と生徒の通っていた星城高校を運営する熊見学園を相手取り、合計1830万円の損害賠償を求める訴えを起こしました。

❖出所予定(年齢)
 死亡(自殺)

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工事中



※最後に
ご覧になられている記事は、内容の見直し、文章の誤り(誤字や不適切な表現)による修正で内容が更新されることがあります。

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◆ドキュメント
作成日付:2022/12/24
更新日付:2024/04/23

◆はじめに

 宮刑(きゅうけい)。

 宮刑は、去勢する刑罰です。この刑は世界的にみても実施例が数多くありますが、中国におけるものが最も有名です。男性器を機能不全にする刑で、家系繁栄を重んじる中国で子孫ができないことは重い恥辱でした。

現代でも、このような刑は存在しており、アメリカ合衆国の一部の州において、性犯罪者に対して、本人の希望により、あるいは懲役刑との自由選択の形で、去勢刑が行われています。

去勢の多くは薬物注射で睾丸を萎縮させる「化学的去勢」といわれる方法を取りますが、テキサス州においては、手術による睾丸摘出が実施されており、1997年と2007年に執行された例があります。

つい最近では、アフリカ最大の国ナイジェリアのカドゥナ州でこのほど、レイプが厳罰化され、有罪となった場合は、去勢(睾丸または卵管を摘除)された上に死刑または終身刑となることになった。同州知事が2020年9月11日に署名し、即日施行された。

いやー痛い!痛い!ですね。聞いてるだけで痛くなってきます。

現在の日本では、このような刑はありませんが、この刑に相応しい人間がいるのも事実です。


渡辺陽太(6度とも不起訴で釈放)
【氏名】
 渡辺陽太
渡辺陽太 (2)
【プロフィール】
 年齢 22歳(2020年逮捕当時)
 学歴 慶応義塾大学経済学部
 身長 182.5cm
 実家 土木業会社経営で総資産100億円

【生い立ち】
 高校に進学したころから素行が悪くなり、万引きで退学処分を受けました。そこで体面を気にしてスイス、ニュージーランド留学しました。
 そして、留学生枠を使用して慶応義塾大学で入学となりました。
 学生当時には2つの会社の取締役についており多額の報酬を受け取って悠々自適の生活でした。
 また、2016年ミスター慶応コンテストでファイナリスト5人に選出されてぐらいに容姿端麗でした。

【犯罪(容疑)内容】
❖逮捕1度目、2度目(昏睡強盗・準強制猥褻)
 2018年9月29日、渡辺陽太(当時22歳)は、神奈川県横浜市の路上で泥酔している女性のを発見し、暴行を加えられる前に、雑居ビル1階の踊り場で性的暴行した後に近くの路上に連れ出し女性の腹を蹴ったり、頭にかかと落としをするなどしていたところ警察官に発見され、その場で暴行罪の現行犯逮捕を現行犯逮捕されました(1度目)。取り調べで先の暴行も発覚して2度目の逮捕となりました。

◆サイン
 渡辺は、驚くべきことに犯行の様子をスマートフォンで撮影保存しており、警察は証拠として、過去の余罪、共犯者を追及しました。

❖逮捕3度目(昏睡強盗・準強制猥褻)
 2018年5月10日未明にナンパに成功してカラオケ店女性を酒に酔わせて酩酊状態にして下半身にさわる、わいせつな行為をし、さらに財布を盗んだとして、共犯の慶応大生 光山和希(当時22歳)、X(当時19歳)とともに3度目の逮捕となりました。
光山和希
❖逮捕4回目(強制性交・窃盗)
 2018年3月27日には、友人のマンションで、男女複数人で食事をしていました。そのうちの1人の女性を離れた場所に連れて行き、女性に性的暴行を加えた上で、現金6万円とキャッシュカードが入った財布を盗んだとし、強制性交と窃盗の疑いで4度目の逮捕となりました。

❖逮捕5回目(準強制性交未遂容疑)
 2018年9月1日に友人のマンションで女性にアイマスクを着け、両手首をひものようなもので縛った上で暴行しようとした準強制性交容疑で5度目の逮捕をされています。

❖報道と不起訴処分(1~5回目)
 報道されると窃盗と性犯罪を申し出てくる人が多数おりました(どうなったか不明です)。
 横浜地検が2019年1月25日に不起訴処分としました。理由はあきらかにしていません。

❖逮捕6回目(準強制性交未遂容疑)と不起訴処分
 2019年3月24日、JR大宮駅近くで女性に声を掛けて、埼玉県さいたま市大宮区カラオケ店とインターネットカフェでそれぞれ性的暴行を加えたました。20代の男性が解放されて泣いている女性を発見、事情をきいて警察に通報しました。
2020年11月21日に渡辺陽太(当時24歳)6度目、光山和希(当時24歳)2度目で逮捕されました。
2020年12月11日にさいたま地検が不起訴処分としています。理由はあきらかにしていません。

❖さいごに
 このように全てが不起訴処分で罪を免れている渡辺ですが、何度犯罪に手を染めても金の力で解決できると思い、悔い改めることはないと思います。

女性を酩酊状態にしてから性犯罪を犯していることが多いのが特徴ですのでご注意願います。

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丸田憲司朗(異例の10回逮捕)
【氏名】
 丸田憲司朗
丸田憲司朗
【プロフィール】
 年齢 31歳(2021年逮捕当時)
 学歴 甲南大学
 職業 リクルートコミュニケーションズの元社員(懲戒解雇)

【生い立ち】
 出身地の奈良県五條市にあると思われる、丸田の実家情報については不明のようです。
丸田は取り調べで「以前、交際していた女性に睡眠薬を飲ませてセックスしたときに、興奮を覚えたのがはじまりです。セックスしたい、動画を撮影して、後で楽しみたいと思った……」と述べています。

【犯罪(容疑)内容】
 丸田は2020年11月から2021年10月までの間に、準強制性交等、住居侵入、準強姦、準強制猥褻の罪で計10回の逮捕・起訴を受けている。事の発端は30代の知人女性に睡眠薬を飲ませ自宅に連れ込み、わいせつな行為をしたとして昨年11月12日に逮捕されたことでした。

丸田は2020年6月27日の夜に知人宅のホームパーティーで知り合った30代の女性に対し睡眠薬を飲ませたうえで、自宅に連れ込み性的暴行に及びました。翌日に女性が丸田被告の自宅で目を覚ました際、舌が真っ青になっており、体にも違和感を覚えたために被害届を提出。その後、女性の体内から睡眠薬の成分が検出され、丸田の逮捕につながりました。

押収されたスマートフォンからは40人近くの女性がこん睡状態で映った動画や画像が見つかり、ほかにも被害者が多数いることが明らかになりました。勾留中に余罪の捜査が進み、2020年12月に「OB訪問アプリ」を通じて知り合った就職活動中の女子学生に対して「資料作成を手伝う」と誘い出し暴行した件で再逮捕となりました。

丸田は就活アプリや出会い系アプリなど合わせて4つのアプリを使い分け、彼の自宅からは10種類合わせて約700錠もの睡眠薬が押収されており、複数の女性からの被害届が出ているといいます。

【逮捕歴】
 2020年11月12日・・・30代女性会社員(逮捕1回目)
 2020年12月03日・・・就活中女子大生(逮捕2回目)
 2021年01月13日・・・女子大生(逮捕3回目)
 2021年03月05日・・・20代女性(逮捕4回目)
 2021年05月06日・・・20代知人女性(逮捕5回目)
 2021年05月26日・・・10代女子大生(逮捕6回目)
 2021年06月23日・・・20代女子大生(逮捕7回目)
 2021年08月11日・・・女子大生(逮捕8回目)
 2021年09月01日・・・女子大生(逮捕9回目)
 2021年10月05日・・・知人女性(逮捕10回目)

 2020年7月と10月には、就活マッチングアプリを介して知り合った大学生のBさん、Cさんに対してもそれぞれ、同様の手口で抗拒不能状態に陥らせたうえ性交したとされている。また犯行時は、その様子をスマホなどで撮影していました。
 
 2020年7月に就活マッチングアプリで丸田と知り合ったBさんには「課題手伝おうか?」と声をかけ、都内のホテルで飲食したのち、予約していた客室に連れ込み「資料のアドバイス」をした。こうして頼れる社会人を装いながらも、客室でBさんの飲み物に睡眠作用のある薬物を混ぜ、意識を朦朧とさせた上で性的暴行を加えたとされています。

 2020年10月に就活マッチングアプリで丸田と知り合ったCさんにも「そろそろ本格的な就活対策しようか」とアドバイスを行う名目で食事に誘い、その後「バーテンやってたから、甘いカクテルとか作れるよ、眠くなったら寝ちゃっていいから」などと声をかけ、Cさんを自宅に誘い込んで性的暴行を加えたとされています。

 「丸田は自宅で自らカクテルを作るなどして飲酒する中、Cさんに悟られないよう睡眠作用のある薬物を飲み物に入れ摂取させた。その後突然Cさんに近づき『この後絶対記憶なくすから、キスしとこう』と言い、キスをした。その直後にCさんは熟睡した・・・」

【判決】
 公判中であり、余罪追及中でもあるので、判決は当面先と思われます。

【出所予定(年齢)】
 公判中

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植園貴光(6回逮捕)
【氏名】
 植園貴光
植園貴光
【プロフィール】
 年齢 36歳(2006年逮捕当時)
 学歴 中卒
 職業 解体工

逮捕容疑は「準強制性交の疑い」となっており、かなりの数の女性を毒牙にかけていたようです。

【生い立ち】
 知人によると、植園貴光は九州出身の父親と、地元出身の母親の長男として生まれ、両親と妹の4人で公営住宅で暮らしていた。地元の小、中学校を卒業後、父親の建設業などの手伝いをしていたという。「17、18歳の女の子の後を付け、家に入る一瞬を狙って押し入っていた。家人がいれば逃げるが、不在なら、わいせつ行為に及んでいた。同じような被害を受けたのは、たくさんいたが、田舎のことなので、みんな警察に届けるのを渋っていた」

また、別の関係者によると、同容疑者は約10年前、隣の家に侵入し、若い女性の部屋に侵入し、パンティーを被って部屋を物色していたところを、女性の家族に見つかったこともあるという。

【犯罪(容疑)内容】滋賀電車内駅構内連続強姦事件
❖事件その1(2006年8月3日午後9時20分頃)
 滋賀県湖南市石部南(当初の報道では大津市坂本)の男性解体工(逮捕時35歳)が、西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線福井駅を出発した直後の富山駅発大阪駅行き特急「サンダーバード」車内で、大阪市内の女性会社員(当時21歳)の隣に座り「俺はヤクザだ」「逃げると殺す」などと脅し下半身を触るなどしたうえ、午後10時半頃から約30分間にわたりトイレに連れ込み強姦した(新大阪駅で下車した女性から被害届を受けた大阪府警が、2007年4月21日に逮捕した)。JR特急「サンダーバード」車内で女性に暴行。40人乗客制止できなかった。

❖日本人特有の資質が出てしまった「サンダーバード事件」

犯行が行われた当時、車内には約40名の乗客がいたとされています。

1車両に40名の乗客が乗っている特急の車両は、混雑しているとは言えませんが、そこそこに人がいる状態です。

被害者は前から3列目の席に座っていて、その隣に犯人が座ってきました。女性は泣いていたとのことですので、周囲の乗客は異変に気づいていました。

また、トイレに連れて行かれた時も女性は泣いており、不審に思う乗客はいたようです。

しかし、それらの乗客に対して、犯人は「何を見とるんじゃ!」とすごんだために、乗客は怖くなって何もできなかったとのこと。

被害者が泣いていたことに他の複数の乗客が気付いていながらも、誰も被害者を助けなかったし、それどころか車掌や警察に通報することもなかったそうです。

つまり、被害者はされるがままであり、犯人はやりたい放題だったということですね。
被害者は「声を出したら殺す」と脅されていたために、周囲の人に助けを求めることができませんでした。

被害を受けている女性が目の前にいるのに、乗客はみんな「見てみぬふり」。日本人のモラル・日本人の道徳観が問われることになり、「見てみぬふり」が糾弾されることになりました。

このサンダーバード事件を受けて、現在は多くの鉄道会社で女性専用席が導入されるようになりました。女性としては、やはり隣に見知らぬ男性が座るのはちょっと怖いですよね。

❖事件その2(2006年12月21日(2件発生))
 午後10時半頃、JR西日本湖西線堅田駅発京都駅行き普通電車の乗客のいない先頭車両で、大津市の女性パート店員(当時27歳)を脅し強姦した(滋賀県警が2007年2月13日に逮捕)。
その直後、京都駅で反対方向の電車に乗り換え、午後11時20分頃雄琴駅(現・おごと温泉駅)で下車、女子大生(当時20歳)を脅し駅構内の男子トイレに連れ込み強姦した(滋賀県警が2007年1月17日逮捕)。

【逮捕歴】
 1991年06月・・・傷害と公務執行妨害により懲役1年、3年間執行猶予保護観察付(その後執行猶予取消)
 1992年11月・・・暴行、脅迫、傷害、住居侵入、恐喝により、懲役1年10月
 1996年03月・・・覚せい剤取締法違反、毒物及び劇物取締法違反により、懲役1年
 1997年11月・・・強制猥褻により、懲役1年6月
 1999年12月・・・強姦、条例違反により、懲役3年6月
 2003年09月・・・暴行、強制猥褻により、懲役3年

【判決】
 2008年1月17日、大津地方裁判所は植園貴光に対し、懲役18年を言い渡した。
 何と16歳の頃の交通事故が原因で脳挫傷を負い、脳に障害(※)が残り性衝動が抑えられなくなった。弁護側は情状酌量の要求を行い、裁判所は求刑懲役25年に対して18年に減刑の判決を下した。

※高次脳機能障害といい、感情をコントロールできなくなるという社会的行動障害を引き起こす。治療はできるが完治100%とはならない。

【出所予定(年齢)】
 2026年1月頃、54歳(現役バリバリ!)で世に放たれる・・・。

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服部英之・国分榮太郎(福島県郡山市強姦事件)
【氏名】
 中島順司
 服部英之(写真左)
 国分榮太郎(写真右)
福島県郡山市強姦事件(服部英之・国分榮太郎)
【プロフィール】
 ❖中島順司
 年齢 34歳(2002年逮捕当時)
 学歴 -
 職業 新聞拡張員(勧誘)
 ❖服部英之
 年齢 15歳(2002年逮捕当時)
 学歴 中学生
 職業 -
 ❖国分榮太郎
 年齢 16歳(2002年逮捕当時)
 学歴 中学生
 職業 -

【生い立ち】
 -

【犯罪(容疑)内容】

 「宅配便です」
 2002 年9月2日の午後6時30分ごろ、ドアを開けた女性を、中島被告は一気に押さえ込んだ。その後、少年たちも侵入し、悲鳴をあげる女性を縛りつけた。目的はあくまでカネだった中島被告は、女性の財布からカードを抜き取り、キャッシングができるかどうか確認するために外出する。

「こいつ、やってもいいっすか」(国分榮太郎)

 強盗よりも強姦が目的だった少年たちは、無慈悲な言葉を吐いた。嫌がる女性を二人は怒鳴りつけ、「うるせぇ! 俺らを誰だと思ってんだ!」と脅迫したのだ。

「女性は、“地獄”を見た」

 事件後、女性を診察した警察医はそう証言している。まさに地獄だった。国分榮太郎は下半身を出したまま仰向けになり、女性に「上を跨またいで腰を下ろせ!」と命令。室内にあった包丁を服部英之に持ってこさせ脅迫し、強姦を始める。さらに部屋にインスタントカメラがあるのを見つけ、写真を撮って、女性が後で訴えられないようにした。女性を強制的に笑顔をさせたものもあった。

帰宅した中島順司も強姦に加わり強姦した。服部英之をそそのかし「一緒にやろうよ」と言って激しい強姦をさせ写真を撮った。続いて服部英之も、恐怖で抵抗することもできない女性を犯した。

女性は口内射精を無数にされた。「口でやれ飲み込め」とも言われた。混浴を強制されたりロフト上では3人が見てる前で浣腸させられて布団上に排泄させられて食べさせられた。浣腸は2回もさせられた。写真を多数撮られて一枚は被害者のパソコン内に壁紙に取り込まれていた。浴室では陰毛は完全に剃毛された。口封じのために頭髪もハサミで切った後カミソリで完全に剃毛された。肛門や膣に執拗に異物でかき回した。胸にも執拗に噛み付かれて噛み切られた。

その後も、浴室やロフトベッドで約22時間もの間、およそ12回に亘わたって代わる代わる女性を陵辱した。

「警察に言ったらわかってんだろうな。殺すからな……」

 中島被告もカネを手に入れた後、強姦。醜悪な欲望を満たした3人は、翌日の9月3日の午後4時ごろに女性の部屋から去る。女性は下着姿で縛られ、階段を外したロフトに監禁されたままだった。

 女性は肛門や女性器に執拗に異物でかき回されて、肛門は完全に裂けた状態であった。胸にも執拗に噛み付き乳房は傷だらけで乳首は噛み切られて断裂状態だった。女性器と肛門のケガは想像を絶するものであった。事件後歩行が困難になるほどであり、女性器の挫傷は婦人科で肛門の裂傷は肛門科で縫合手術をしなければならなかった。

結局女性は妊娠が判明し中絶手術を余儀なくされた。また性感染症にも多数うつされた。

【逮捕歴】
 -

【判決】
 2003年11月20日、福島地裁郡山支部で判決公判が開かれた。宍戸充裁判長は「犯罪の重大さ、被害感情の激しさ、少年らの関与度から刑事責任は極めて重く、保護処分では社会正義と著しく均衡を失する」として、服部英之に懲役3年6月以上6年以下、国分榮太郎には同4年以上7年以下の不定期刑(求刑はいずれも懲役4年以上8年以下)を言い渡した。

公判終了後、国分榮太郎の実家を訪ねてみた。出かけるところだった父親に声をかけると、記者をにらみつけてこう言い放った。

「何も騒ぐことではないでしょう。“未成年”なのに……」

それ以上は質問に答えず、自宅へ戻ってしまった。服部英之の実家にいたっては、玄関のドア越しに「取材はお断りします」と女性が答えるのみだった。

 2004年10月7日、最高裁第2小法廷は事件を主導したとして強盗婦女暴行、監禁、窃盗、詐欺などの罪に問われた住所不定(本籍・福岡県)、元新聞外交員、中島順司被告(当時35歳)の上告を棄却し、懲役11年の判決が確定した。

【出所予定(年齢)】
 中島順司・・・2015年10月頃、46歳(出所)
 服部英之・・・2009年11月頃、22歳(出所)
 国分榮太郎・・・2010年11月頃、23歳(出所)

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和田真一郎・小林潤一郎・沼崎敏行・藤村翔・小林大輔(スーパーフリー事件)
【氏名】・・・主犯5人のみ
 和田真一郎(スーパーフリーの代表者)
 小林潤一郎
 沼崎敏行
 藤村翔
 小林大輔
スーパーフリー事件(和田真一郎・小林潤一郎・沼崎敏行・藤村翔・小林大輔)
【プロフィール】・・・主犯5人のみ
 ❖和田真一郎
 年齢 当時28歳
 学歴 早稲田大学2年
 職業 -
 ❖小林潤一郎
 年齢 当時21歳
 学歴 早稲田大学4年
 職業 -
 ❖沼崎敏行
 年齢 当時21歳
 学歴 早稲田大学3年
 職業 -
 ❖藤村翔
 年齢 当時21歳
 学歴 日本大学3年
 職業 -
 ❖小林大輔
 年齢 当時20歳
 学歴 学習院大学1年
 職業 -

【生い立ち】・・・和田真一郎(スーパーフリーの代表者)のみ
 スーパーフリーの代表者 和田真一郎は1974年7月に生まれた。父親の教育方針はスパルタであった。代表者は、土建屋の長男として、小学生のときからクレーンや重機の使い方を教えられた。襟が曲がっていたり人前であくびをしたりすると代表者は殴られた。8歳の時には新潟から北海道まで一人旅をさせられ、幼い代表者が一人で長距離切符を買う姿を見て心配した周囲が連絡をしてきたという。代表者の小学校での成績はクラスで1、2番であった。代表者は中学高校時代には父親とほとんど口を利かなくなった。代表者が通った高校の校長は、事件後のインタビューにおいて、父親が変わり者だったようだと話している。

大学受験の際、三国志が好きだった代表者は文学部史学科に進学を当初希望していた。しかしそれでは就職が難しくなると考え直し、経済学部を受験した。そして現役合格した中央大学経済学部に1993年4月に入学した。大学では遊びたいという願望があったが、八王子の山の中で過ごすキャンパスライフは理想とは程遠く、別の大学への再受験を考えた。ゲームセンターでバイトして得た給料で予備校に通い、都心の大学を受験した。早稲田大学の政経学部に合格し、1994年4月に入学することとなった。尚、代表者は中央大学時代、交際した女性に対して童貞を喪失した。

早稲田大学入学直後の代表者が高田馬場の駅前を歩いていると、スーパーフリーに所属していた先輩が偶然声をかけた。これが代表者とスーパーフリーの出会いである。スーパーフリーは早稲田大学に1982年に設立された老舗のイベント系サークルであった。代表者は、男1人を華やかな女子4~5人が囲むスーパーフリーの飲み会を理想の場と感じ、スーパーフリーに居つくことになる。代表者が入った時点では飲み会を月1回開くのが主な活動であり、輪姦などは横行していなかった。早稲田大学の2年生になった1995年6月頃に第15代の代表の座に就いたが、その時点では中心スタッフが男3人だけの小規模なサークルであった。

1995年9月から代表者は六本木のヴェルファーレでバイトを始め、大学にはほとんど行かなくなった。スーパーフリーも新歓の時期以外は活動しない半ば休眠状態のサークルとなった。代表者はヴェルファーレのバイトを2年半続けた。「LADY JANE」というサークルのスタッフも務め、サークル運営のノウハウを学んだ。

ヴェルファーレのバイトを辞めて時間が出来た1998年4月に、代表者はスーパーフリーのイベントを六本木のクラブで開いた。500人以上が集まる「大成功」[2]となった。代表者はこの「大成功」を機にイベントにのめり込むようになる。また、この「大成功」のイベントに早稲田大学以外の学生も関与したことで、スーパーフリーはインカレサークルとなった。この1998年4月にスーパーフリーが変質し、輪姦を行うようになった。

最初の輪姦は、輪姦が既に活発に行われていた明治大学のイベントサークル(サイドキックス)とスーパーフリーを掛け持ちしているスタッフ(未逮捕者)から、「スーフリでもマワし(輪姦)をやりましょうよ」と代表者が提案されたことが契機であった。その提案時の飲み会にはお酒をよく飲む女性が2人いた。代表者らは泥酔した2人を自宅に連れ込み、5~6人で輪姦した。特にトラブルなく終了した。その後、逮捕されるまでの5年間、輪姦の手口は洗練されていった。代表者が作り上げた輪姦のシステムにより、具体的な指示がなくとも、代表者の後輩が勝手に輪姦の流れを作っていくようになった。

【犯罪(容疑)内容】
 早稲田大学のインカレサークル「スーパーフリー」のメンバーは、女子大生らへの輪姦を1998年4月頃から常習的に行っていた。輪姦された女性の数は数百人以上に上る。2003年5月18日に警察に被害届が出されたことで発覚した。早稲田大学の他にも東京大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、学習院大学、日本大学といった首都圏の有名大学出身の学生ら合わせて14人が準強姦罪で実刑判決を受けた。この事件は重大な社会的波紋を呼び、2004年の集団強姦罪・集団強姦致死傷罪の創設につながった。起訴されたのは3件の輪姦のみであり、関与した多くの者が未逮捕のままとなった。輪姦を幇助した女性も多数存在したが、女性は1人も逮捕されなかった。スーパーフリーはスーフリと略称されることもある。

 1.2001年12月19日、東京都豊島区高田のスーパーフリー代表者の自宅兼事務所における鍋パーティで、当時19歳の女性を泥酔させ、3人で輪姦した事件

 2.2003年4月27日、東京都港区六本木ロアビル12階の居酒屋における二次会で、当時18歳の女子大生を泥酔させ、人通りのない11階のクリニック入口の玄関マットに寝かせ、1時間半にわたり13人で輪姦した事件

 3.2003年5月18日、東京都港区六本木ロアビル12階の居酒屋における二次会で、当時20歳の女子大生を泥酔させ、人通りのない11階のクリニック入口の玄関マットに寝かせ、5人で輪姦した事件

捜査のきっかけになったのは、3番目の事件の被害者が被害当日に警視庁麻布警察署に被害届を提出したことである。2003年6月19日、3番目の事件で輪姦を行ったスーパーフリーの代表者及び男子大学生メンバー4人の計5人が強姦容疑で麻布署に逮捕されたことが報道され、本件は世間に知られるところとなった。

当初容疑者らは「合意の上」と容疑を否認したが、非常階段踊場付近の玄関マットの上で初対面の男たちに輪姦されることが合意だったという主張には無理があった。6月22日にはスーパーフリーが解散し、6月30日には東京地検が容疑者のうち2名を準強姦罪で起訴した。その後、1番目の事件について2003年7月31日に元男子大学生1人が新たに逮捕された。さらに、2番目の事件について2003年11月14日までに男子大学生ら9人(未成年を2人含む)が新たに逮捕された。

【逮捕歴】
 -

【判決】
 2004年11月2日、代表者に対し懲役14年の実刑判決が下った。被告人側は判決を不服として同年11月17日に控訴。2005年6月2日に東京高裁(仙波厚裁判長)は控訴を棄却。2005年6月16日には最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)に上告したが2005年11月1日付で棄却され、代表者を懲役14年の実刑とした1、2審判決が確定した。代表者を除く13人には懲役10年〜2年4ヶ月の実刑判決が確定した。

❖実刑判決を受けた人間
 和田真一郎(スーパーフリー代表者)・・・懲役14年
 小林潤一郎・・・懲役10年
 沼崎敏行・・・懲役2年10箇月
 藤村翔・・・懲役6年
 小林大輔・・・懲役6年
 岸本英之・・・懲役7年6箇月
 若松直樹・・・懲役2年6箇月
 関本雄貴・・・懲役2年8箇月
 吉野豪洋・・・懲役2年6箇月
 高山知幸・・・判決2年6箇月
 小泉創一郎・・・懲役2年8箇月
 吉村直・・・懲役2年4箇月
 関本隆浩・・・懲役2年4箇月

【出所予定(年齢)】・・・主犯5人のみ
 和田真一郎(スーパーフリーの代表者)・・・2018年6月頃、42歳(出所)
 小林潤一郎・・・2014年6月頃、31歳(出所)
 沼崎敏行・・・2007年4月頃、23歳(出所)
 藤村翔・・・2010年6月頃、27歳(出所)
 小林大輔・・・2010年6月頃、26歳(出所)

❖和田真一郎の刑務所生活と出所
 代表者は千葉刑務所で懲役刑に服した。雑居房では10人の受刑者で共同生活を行ったが、代表者に絡む受刑者は滅多におらず、イジメも全くなかった。

服役中はまず印刷工場に7年勤め、次に炊事工場に5年勤めた。空いた時間は勉学に打ち込み、千葉刑務所で取れる簿記一級などの資格はすべて取得し、刑期後半には山口刑務所で職業訓練を受けて2級ボイラー技士免許や「簡単なワードやエクセルの資格」を取得したという。

歴史書を大量に読むこともでき、史学科に行こうと思っていた高校時代の夢をかなえたような気持ちになった。母親とは月1回程度手紙をやり取りしていたが、その手紙で父親が暴行事件の被害者となったことを知って腹を立てたことがあり、その時に輪姦被害者の感情に気づいたという。

出所前には6ヶ月間の再犯防止プログラムを山形刑務所で受けた。2018年6月29日に刑期を終え満期出所した。服役中の就労支援が縁で、出所2日前に決まった週休1日の仕事に現在は就いている。仕事上では別名を名乗っている。


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高山正樹(仙台女児連続暴行事件)
【氏名】
 高山正樹
仙台女児連続暴行事件(高山正樹)
【プロフィール】
 年齢 当時26歳
 学歴 -
 職業 ニート

【生い立ち】
 1975年に宮城県仙台市内に誕生した高山正樹(逮捕当時26歳)ですが、父親が中国人の日中ハーフでした。高校に進学していますが、2年時に「旅に出る」との理由で中退をしています。
 高校を中退後の高山正樹については、アルバイトをすることもなく基本的にニートでありました。

【犯罪(容疑)内容】
 2000年の宮城県仙台市内各区では女児強姦事件が多発しており、被害届が出ているものだけでも60件以上に及んでいた。

警察は同一犯の犯行と見て厳重な警戒態勢を敷く。2000年8月8日、1~2週間前から発生していた女児暴行事件のアパート付近で張り込みをしていると、アパート入り口で目撃証言と一致する不審な男(高山)が何かを物色していた。警察官は男(高山)に職務質問をすると、男(高山)はアパートに住む友人と会う約束であると主張。しかし、男(高山)は訪問先の友人の部屋番号や名前を言わず、更に自分の名を名乗ろうとしなかった。男(高山)はアパート近くのコンビニエンスストアに駆け込み、警察からの任意同行を求められた際には弁護士に連絡したいなどの抵抗を見せた。警察官はその場で高山を強制わいせつ容疑で緊急逮捕した。後にそのやりとりの一部始終がテレビ番組で放送されている。

その後、高山への家宅捜索で45人の女児への犯行をビデオに撮影していたことも発覚した。高山が襲った女児は約100人以上と推測された。高山は女児暴行の容疑を認めた。高山が初めて犯行に及んだのは1997年頃で「小学校高学年くらいのきれいな顔立ちをした女の子を人に見つかりにくい場所に連れて行き、服の上から胸を触ったのを覚えている」とされる。その後、高山は「4日に1回程度の割合で好みの女の子を捜しにいってはセックスを試みようとするようになった」とされる。

高山の犯行は、8ミリビデオカメラやデジタルビデオカメラを携えたり、性交がしやすくなるようにローションを準備したりするなど、計画性があった。そして、起訴された11の犯行のうち、10の犯行で犯行の様子を撮影したビデオテープが発見され、高山の住居から発見されたビデオテープの中には、起訴された被害女児以外の多数の幼女に対するわいせつ行為が撮影されていた。また、犯行現場を被害女児の姉が目撃するなどの例もあった。そして犯行後には、被害女児に対して「言ったら殺しに行く」といって口止めをし、被害女児の中には両親にさえも被害を打ち明けずにいた者もいた。

【逮捕歴】
 なし

【判決】
 高山に対する起訴内容は、1999年3月10日から2000年8月1日にかけ、仙台市内の3歳から10歳の女児11人に対し強姦をしようとしたとして、4件の強姦未遂、5件の強制わいせつ、2件の強姦致傷事件である。強姦未遂といっても、男が結果的に姦淫できずに口淫させるなどしている。検察は、起訴された11件以外にも、男が3年間で約100人の女児に乱暴し、うち45人を犯行時にビデオ撮影していたことなどを指摘した。

高山は、第1回公判では公訴事実につき「間違いないと思います」と述べていたが、一転して第2回公判では車椅子で入廷してから閉廷するまでの間、首をうなだれたまま、黙して何も語らず、公訴事実についても何も陳述しなかった。そして弁護側は、高山が犯行時、精神分裂病の症状により心神耗弱下の状態にあったものであり、刑の減軽が図られるべきである旨主張した。

検察側は論告で「わが国の性犯罪史上、類がない卑劣な犯行。最高刑をもって臨むしかない」として、無期懲役を求刑した。

2002年3月29日、仙台地裁は、医師の鑑定結果から、精神分裂病その他の精神病に罹患している疑いはないとして弁護側の主張を退け、高山に無期懲役判決を言い渡す。被告は控訴したが、2004年5月に最高裁で無期懲役判決が確定した。死亡者がいない性犯罪で前科がない人間が無期懲役となるのは極めて異例。

【出所予定(年齢)】
 2033年3月頃、56歳(無期懲役で仮釈放30年と仮定)

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未公表:100人以上の強姦魔(北九州)
何で未公表なんでしょうね。怖いですね。
100件以上の強姦を供述の現役ミュージシャン
「1年くらい前に住居侵入の容疑で逮捕された北九州市在住のミュージシャン(起訴状では音楽教室経営)の男がいるんですけど、いま、10件あまりの強盗、強姦(現:強制性交等)、窃盗、強姦未遂の罪で起訴されていて、100件以上の強姦の余罪を自供しているそうなんです……」

福岡県警担当記者の友人から驚きの情報提供を受けたのは、2004年12月のこと。その男、武藤博之(仮名、逮捕時36)が福岡県警に逮捕されたのは2003年11月で、時間こそ経ってはいたが、強姦の余罪100件以上という尋常ではない数字のインパクトから、取材を開始することになった。

すぐにわかったのは、武藤はアコースティックデュオでメジャーレーベルからアルバムを出したこともある、現役ミュージシャンだということ。さらには、有名歌手や有名グループにも楽曲を提供しており、なかにはオリコンチャートのトップ10以内に入ったCDもあったのである。

関係者をあたり、彼を知る音楽仲間に辿り着いたところ、一緒にユニットを組んでいた相手への取材をしないことを条件に、話を聞くことができた

「ある日を境に、突然連絡が取れなくなり、しばらくして知り合いから連絡があって、初めて事件について知ったんです。本当に寝耳に水の話で、とにかく驚きました。武藤は曲作りの才能が有り、彼の生み出すメロディーはメジャーで通用するものでした。××(有名歌手)に彼の書き下ろし曲を提供することが決まったときは、『とうとう(依頼が)来たよ』と、かなり嬉しがっていました」

武藤はインディーズで3枚のアルバムと、メジャーで1枚のアルバムを出したが、1999年に活動拠点を実家がある北九州市に移したのだという。

「メジャーアルバムがぱっとせず、地元に戻ってもう1回頑張ろうとの思いで帰郷したんです。ライブハウスや路上で音楽活動を続ける傍ら、自宅で個人経営のボーカルスクールをやっていました」

生徒は10人ほどいて、「優しい先生」と評判だったそうだ。だが、そんな彼には周囲の誰ひとりとして想像できない”裏の顔”があったのである。

起訴された事件の1つは、以下のような犯行内容だ。

午前8時45分頃、女性宅の無施錠のベランダ窓から室内に侵入し、就寝中の彼女に対し、その顔面をタオルで目隠しし、両手首をカーディガンで緊縛。「静かにしろ、言うことを聞けば何もないから」や「おカネはあるか。どこかに隠し持っていても見つけるぞ」などと語気鋭く脅迫し、それから午前11時10分頃まで女性を強姦し、現金約4万円とパンティ2点を強取した。

この件では無施錠のベランダ窓からの侵入であるが、ほかにも無施錠の玄関から室内に入ったケースも数多い。時間帯はほとんど未明から朝にかけてで、就寝中の女性ばかりを狙っていた。また、女性を脅す際には、「声を出したら殺すぞ」や「騒ぐと殺すぞ」、さらには「叫ぶな」や「顔を上げるな」といった言葉も使っている。

犯行時は常に被害者に目隠しをしており、タオルのほかにキャミソールやワンピース、カットソーなどで顔を覆っていた。同時に、ベルトやタオル、シャツなどを使って両手首を縛り、自由を奪った。そのうえで相手を強姦し、金品やパンティなどを奪っていたのだ。

福岡県警担当記者は言う。

「武藤が侵入したのは無施錠の部屋ばかり。犯行については強姦や強盗だけでなく、寝ている女性の下着を刃物で切断したこともあると供述しているようです。また、強姦の最中に写真を撮影することも多かったようで、逮捕後の家宅捜索では、部屋のパソコンから大量の”強姦写真”が発見されています」

被害者が暮らすのは、おもに大学や短大が集中する地域で、単身者用のアパートやマンションばかりが狙われていた。私がその地域で聞き込み取材を行ったところ、友人が同様の被害に遭ったという女子大生に出会った。彼女は語る。

「去年(2003年)の夏だったんですけど、1人暮らしをしている友だちが朝方、人の気配で目を覚ましたら、目の前に布で顔を隠した男の人がいて、写メで寝顔を撮ろうとしていたらしいんです。悲鳴を上げたら相手は慌てて逃げていったそうなんですけど、彼女はいまだに傷ついていて、夜とか怖くて寝られないって言ってます」

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一部未公表:100人以上の強姦魔(大阪)
2004年7月9日、大阪市内を中心とした連続強姦(ごうかん)事件で逮捕されたゼネコン大手「鹿島」の元営業所課長代理 桑田秀延容疑者(当時36歳)=懲戒解雇=が100件以上の犯行をノートに記録していたことが、大阪府警捜査一課の調べで分かった。

同日、大阪地検は強盗強姦と住居侵入の罪で桑田容疑者を起訴した。
大阪府警は今後、桑田被告を再逮捕する方針。

調べでは、犯行を記録していたノートは逮捕時に持っていたもので、場所や女性の特徴などが書かれていた。ほとんどは大阪府内だったが、兵庫県内での犯行もあった。

桑田被告は調べに「深夜や早朝が多いが、仕事中に抜け出してやったこともある」「繁華街のきれいなオートロック式マンションには一人暮らしの女性が多い。必ず下見し、無施錠の部屋を狙った」などと供述。

動機については「仕事などでストレスがたまった。奪った金は風俗店や飲食に使った」と話しているという。

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工事中



※最後に
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